「こほこほ」
 「ん? 風邪か,婦警?」
 「葉巻の煙ですよぉ」
 右手で鼻を押さえて、セラスは目の前に座る黒スーツの女に文句をぶつける。
 「ん、ああ……お前は吸わんか?」
 差し出された上質の葉巻に、セラスはふるふると首を横に振った。
 「アタシはそんなん吸いませんよぉ」
 「そうか…」
 「…どうして局長は葉巻なんか吸われるんですか?」
 インテグラはそんなセラスの愚痴のこもった言葉を聞きながら、大きく息を吸いこみ…ニヤリ、微笑む。
 ぷはぁ,目の前のセラスの顔に煙を吹きつけた。
 「ごほごほごほごほ!」
 「煙たいか?」
 「当たり前でしょ!」
 「私も初めは煙たかった,初めは…な」
 インテグラの顔に浮かんでいたからかいの笑みは、いつしか遠いものを見る笑みに変わる。
 煙の直撃で、目に僅かな涙を溜めたセラスはそんなインテグラの横顔を見つめ…言葉を待つ。
 「あれは私が16くらいの頃だ。あの頃は…まぁ、平和といえば平和だったのかもしれん」
 そして彼女は追憶する。
 遥か昔に思える、かつての時代を…


彼女が煙を楽しむ理由



 「こほこほこほ…」
 「ああ……すまない」
 青年は恨みがましそうに見上げる少女の視線に、しかし特に悪びれた様子もなく、手にした葉巻を灰皿で潰す。
 「先生,煙草は体に毒なんですよ」
 机の上でペンを走らせながら、少女は先生と呼ぶ青年に告げた。
 「毒は薬にもなるんだよ,お嬢様」
 「それって、毒って自覚してますよ,先生」
 「むぅ」
 唸る青年。そんな彼に少女は得意げに追い討ちをかけた。
 「近年では癌の原因じゃないかって言われてるじゃないですか」
 「そりゃ、喫煙者に対する学者の嫌がらせさ」
 「…もぅ」
 少女は諦めの溜息一つ。ペンを置き、書きこんでいた紙を男に渡す。
 「はい、出来ました」
 それは高度な数学の問題だった。男は彼女の家庭教師か何からしい。
 「この問題が合っていたら、約束通り先生の懐中時計を頂きますよ」
 挑戦的に微笑むインテグラに青年は朗らかに笑い、
 「はいはい,合ってたらね。それじゃ、採点しようか,イタタ…」
 彼の顔に苦痛の色が、映る。
 習慣の様に葉巻の箱に手を伸ばした青年の手の甲を、少女が思い切り抓り上げたからだ。
 少女は笑いながらこう言った。
 「もぅ、ほとんど中毒ですね。そんなに美味しいものなんですか?」
 少女・インテグラの言葉に、青年は小さく首を傾げる。
 「おいしくは…ないかな。ただ…そうだね、落ちつくんだよ」
 「じゃあ今、先生は落ちつかないんですか?」
 訝しげに問うインテグラに、青年はわずかに笑って彼女に答えた。
 「そりゃ、そうさ。可愛いお嬢さんを前にして落ちつかない男なんて、いるかい?」
 じっと青年に見つめられ、インテグラの顔が瞬間的に朱に染まる。
 そして、
 「…って、からかわないで下さい!」
 やっぱり葉巻の箱に手を伸ばそうとした青年の手を抓り上げて、インテグラは半ば叫ぶ様にして言い放っていた。
 それはここ最近の、彼女の定番のセリフとなりつつあった。
 しかし定番となる前に、セリフの対象者は消えることとなる。



 「ウォルター,先生は?」
 インテグラは廊下ですれ違った執事の老人に問う。
 本日は歴史学の講義を彼女の自室で行うはずなのだが、待てども一行に現れる気配が無かったのだ。
 ウォルターは立ち止まり…やや困った顔を一瞬浮かべた後に笑顔を浮かべて言った。
 「彼は私的都合が発生致しまして辞めたのです。お嬢様にはくれぐれも宜しくと言っておりました」
 「え?!」
 インテグラは僅かに驚愕の表情を浮かべ…しかしすぐにひっこめる。
 彼女の家庭教師が変わるというのはいつものことだった。
 理由は皆同じ、『この屋敷には何かある』という一言。古い屋敷であるここには、確かにポルターガイスト現象などが見られたりするのだ。
 もっともそれ以上に吸血鬼が住んでいるのだが、さすがにそれは知られる訳にはいかない。
 「そうなの…」
 インテグラは男の気後れのしない,どこか陽気な顔を思い出し、言葉を続けた。
 「私的都合って、何?」
 わずかにウォルターの眉間に皺が寄る。
 それだけでインテグラには、彼の去った理由が今までの教師とは異なることを悟った。
 少女の反応に、ウォルターの顔にしまったという気配が浮かび…そして苦笑。
 「彼はこう言っておりました。『もしも次があったとして、ちゃんとした教師としてお嬢さんと出会えたら、禁煙に心がけるよ』と」
 「…嘘つき」
 寂しく微笑み、インテグラはウォルターに背を向ける。
 「後任者はすぐに手配しております故」
 ウォルターの機械的な言葉を背に受けて。



 自室でインテグラは、お気に入りのクマのクッションを抱えて一人、思わず呟いていた。
 「どこの機関の間諜だったのかしら?」
 直後、慌てて脳裏に浮かんだ青年の顔を、忘れる様に頭を大きく横に数回振る。
 そして…諦めたような苦い笑い。
 「せっかくお友達になれたと思ったのにな。忘れたくても……」
 抱きしめたクマのクッションに顔を埋め、それに染み着いてしまった葉巻の匂いに、はっきりと彼の顔が心に浮かぶ。
 「忘れられないじゃない……」
 その声はしかし、クッションの中からもごもごと聞こえるだけだ。
 ソファの上で膝を抱えてクッションに顔を埋めたインテグラの細い肩は、僅かに震え続けていた。



 「でだ。忘れたいんだったらこの匂いを私の匂いにしてしまえば良いじゃないか,そう思った訳さ」
 話している間に手元まで灰と化した葉巻を慌てて灰皿に放り込むと、インテグラは黙って聞いていたセラスに顔を向ける。
 「局長は…その人が好きだったんですね」
 セラスのそんなしみじみ言ったセリフに、インテグラは…ニヤニヤと笑っていた。
 「局長?」
 「う・そ」
 「へ?」
 「嘘に決まっているだろう? 少しは人を疑うことを知れ,婦警」
 そして新しい葉巻の煙を思い切り吸いこんで、婦警に吹きかけた。
 「ごほごほごほごほ……ヒドイです!」
 「まぁ、慣れろ」
 目に涙を再び浮かべて講義するセラスを、インテグラはからかいながら葉巻を口にする。
 スーツの左胸の内ポケットに、時計の刻む音を感じながら。