『…けて』
私を呼ぶ声がする。
とてもとても細く、折れてしまいそうな声。
儚く夜の闇に消えてしまいそうな声。
『…て』
消え行くそれは、私の目覚めとともに小さく小さくなって行く。
「ん……ほぇ?」
目が覚めたとき――
確かに見ていたはずの私の夢は、夢現の狭間へと弾けて綺麗に消え去っていた。
しかし残るものがある。
「何だろう? いい香り……」
その夢は仄かに甘い澄んだ香りをまとっていた……ような気がした。
夜櫻
時間は夕方の6時。
ちょっと寝坊してしまったみたい,うららかな春の陽気のせいだろうか?
もっとも、
「あったかい春の日差しなんて、もぅ私には拝めないんだけどね」
いつもの制服に着替えつつ一人、苦笑。
「さて、と」
私は部屋を――地下室にあるここを出て、このヘルシング邸の地上階へ向かう。
ひんやりした地下室とは違って、お屋敷の一階はやっぱり暖かかった。
私は玄関の扉を開けて外へ。
外気――柔らかな風が私の頬を撫でた。
西の空は藍色に染まり、東の空はちょっと明るめの黒。
「この時間が一番好きだなぁ」
背伸びしながら門の前で深呼吸。
こつん
軽く後ろ頭を小突かれた。
「あ、マスター?」
「………」
「マスター??」
いつの間にか背後に立っていたのは私のマスター・アーカード様。
じっと私の顔を見つめている。
「……顔色が悪いな」
「そりゃ、環境が悪いですから」
「まだ血を飲んでいないのか?」
「! の、飲めるわけないじゃないですかっ!!」
マスターは私の顔じゃなくて顔色を見ていたようだ。
確かにここ最近、土気色が増してきたような気がしないでもないけど……
「そうか、飲めないか」
「はい、飲めません」
「ふむ」
マスターは小さく頷いて両腕を組んで考え事をしているかのようにブツブツ呟き始めた。
相変わらず考えが読めないので困る。
『助けて……』
「え?!」
振り返る。
玄関があるだけだった。
「あの、マスター? 今、女の人の声、聞こえませんでした?」
「ほぅ、婦警。お前には聞こえたと、そう言うのだな?」
「あ、やっぱり空耳じゃないんですか? 今の声はいったい??」
「さぁな」
「はぃ? あの、マスター??」
「我々、夜族は人間ではない。故に人間ではない『モノ』の声も聞く事はできよう」
「はぁ」
「だがお前に聞こえるものが、この私に必ず聞こえると言うわけではない」
「じゃあ……」
「私には特に何も聞こえなかった、そういうことだ、婦警」
「……素直に聞こえなかったと言って下さいよ」
私はがっくりと肩の力を落として屋敷の中へと戻る。
確かに聞こえた、と思う。
「助けて、か」
反芻。
弱々しい女性の声だった。
「助けてって、一体何からだろう?」
『助けて』
今度は確実に、しっかりと聞こえた。
「地下?!」
私は地下階へと駆け下りる。
私の部屋の前を通り越して、その先の今は使われていない研究区画へ。
「あ…」
いつもは鍵(封印とも言うらしい)のかけられているはずの扉の一つが開いていた。
扉には『資料室C』と書かれており、中から人の気配と明かりが漏れている。
“だ、だれ??”
私はつばをごくり、一回飲みこんで中へと踏み込んだ。
「誰です?!」
叫んで、硬直。
「?? 何だ、婦警?」
そこにはホコリで薄汚れたエプロンと白い三角頭巾、右手に雑巾,左手にはたきを手にしたインテグラ様の姿が一つ。
「な、何やってるんですか?」
「何って……」
インテグラ様は部屋を見渡す。
広いはずのこの部屋はひどく狭く見えた。
それもそのはず、様々なモノが置かれているからだ。
不気味な仮面やら、動き出しそうな総甲冑。平積みにされた書物はどれも年代物。
そう、資料室……というか倉庫だ。
インテグラ様は魔女っぽい箒をぽいと私の方へと投げ渡す。
「手伝ってくれるな。助かる」
「ほえぇ??」
「ほらほら、さっさと床に積もったホコリを掃け」
「はぅーーー」
インテグラ様はどうやら掃除をしていたらしい。
しかしどうして? なんで??
使用人にやらせれば良いのに……
「この区画は婦警も知っての通り、先代の封印した区画でな。何も知らない者が触れるには危険なものが多くて厄介なのだ」
はたきでぽこぽこホコリを落としながらインテグラ様。
「でも何もインテグラ様がこんなことやらなくても……変ですよ、何か企んでいるんじゃないかって」
「……」
きっとこちらを睨む局長に、私はびくりと硬直した。
つかつかと歩み寄ってくる……ぶたれる!!
「実はな、婦警」
「へ?」
小声で私の耳に声を寄せる局長。
「絶対誰にも言うなよ」
「は、はい」
「この資料室には、それはそれはゴイスーなラッキーアイテムが隠されているのだ」
「ゴ、ゴイスーなアイテム?(すごい道具のこと)」
「ああ、それさえ身につければ素敵な出会いが訪れるという幸運のペンダントなんだ」
「ま、まじっすか?」
コクリ、真剣な面持ちで頷くインテグラ様。
こんなに真剣な表情は、アンデルセン神父が北アイルランドに攻めてきたとき以来だ。
「見つかったら次に貸してあげよう」
沈黙が、私達二人の間に降りた。
「さ、張り切ってお掃除しましょー、局長!」
「ああ、婦警っ!」
今までにない強い絆を感じつつ、私達はお掃除を開始したので……
『助けてっ!』
「っ!」
その『声』に思わず額を押さえる私。
聞こえる、そう、ここに『いる』。夢の中から私を呼び寄せた、その存在が。
『私をここから出して』
声は右手から。
「どうした、婦警?」
局長の声は耳に入らない。私は何故か声に逆らえずに『それ』を探す。
『私を闇の中から連れ出して、お願い!』
「あなた、ね」
「おぃ、婦警」
インテグラ様に肩を捕まれた、けれど無視して私はそれを拾い上げた。
「なんだ、それは? 枯れた盆栽……か??」
両手に乗るくらいの鉢植え。
そこには乾いた土と、小さな枯れた木が植わっている。
「婦警? 様子がおかしいぞ……もしや!」
インテグラ様が私と距離を取る気配。
背後だけれど、今の彼女の視線は私の手にする小さな鉢植えに注がれていることは分かる。
「それは……妖樹かっ!」
「御名答」
その声はさっきも聴いた声。
きっとインテグラ様を後ろから守るようにして抱きかかえているのだろう、マスターだ。
「もっともここへ運ばれてきたときは、ただの盆栽だったがな」
小さな笑い声が聞こえる。
「そいつはアウシュビッツの収容所に生えていた桜の樹だ。知っているか? 遥か東方では美しく咲く桜の木下には死体が埋まっているそうだ」
「だ、だから?」息を呑むインテグラ様。
「その桜の本体は、それはとてもとても美しかった。この夜族の王である私が震えるほどに」
「人の血を吸って美しくなった妖樹……そう当時は思われていたのか?」
「そう。だから私とウォルターで焼き払ったさ」
「しかしもったいなかったから持ちかえった、そうだな、アーカード」
マスターは無言。
そして局長の溜息。
「婦警、それを焼き払え。後腐れ無いように、な」
『咲かせて、それだけで良いの!』
「え?!」
私の耳のそばで声がはっきりと聞こえた。
「咲かせる…??」
インテグラ様達に振り返りながら私は呟く。
「婦警、とうとう電波をキャッチするようになってしまったか?」
恐々とインテグラ様。失敬な……。
その隣ではマスターが僅かに嬉しそうにこちらを見つめていた。
『最後に一度だけ……咲かせて。闇の中で朽ちていくのは…嫌』
私は手にした鉢が途端、小さな小さなモノに見える。朽ちた小さな樹は何十年だろう、この闇の中で命を削ってきた。
“季節を知らずに、永劫のような闇の中で延々と……”
鉢を持つ手に力がこもる。
どこまでも続く闇のような世の中で、一人動けない私。
死ぬことから逃れ、生きていくことを選んだ私。
私もいつの日か、この樹のように終わりを望むのだろうか?
「婦警!」
びくり、私はインテグラ様の声で我に返る。
「その鉢を捨てろ、これは命令だ」
私はしっかりとインテグラ様の目を、そしてマスターの眼を見て答える。
「ごめんなさい!」
「って、こら!」
私は二人の脇をすり抜け、資料室を駆け出した。
鉢を抱え、闇から飛び出すために。
「困った子だ」
インテグラは地下室を駆けながら呟いた。
「下等な部類に属する妖樹などに魅了されるなど…」
「我が主はあの婦警を『魅了されている』と判断するか?」
「違うのか?」
隣を滑るようにして従うアーカードに、インテグラは問う。
「さぁな。しかしあんな半端者でも我が眷属」
「……危なっかし過ぎる半端者だからな」
インテグラは何度目かの溜息。
「では我が主よ。汝の指示が下り次第、私はあの妖樹を滅ぼそう」
「ああ、そのときは頼むぞ」
二人は追う。
婦警の去った屋敷の庭へと。
満月が広すぎる庭を照らしていた。
青々とした芝の生え揃う小高い丘の上、私は吸血鬼の力で軽く足元の土を蹴り上げる。
ボコリと穴が開き、ちょうど鉢が入る大きさとなる。
私は改めて鉢を見た。
私の手くらいの枯れ木が一本。今にも朽ちてしまう、そんな感じ。
「……大丈夫かな?」
躊躇。よもや植えた途端に怪物化して襲い掛かってきたりとか……
『大丈夫、私はもぅ死ぬから』
「え??」
『最後に咲きたいだけ。だから見ていて……一番私らしい私を』
「……うん」
私は片手で鉢を割り、枯れ木を開けた穴へ。
どくん
「へ?」
足元が鳴動した。
「んな!」
インテグラは珍しく、口を大きく開けてその光景を見つめるしかなかった。
庭の小高い丘に突如、天に届かんとするような勢いで生まれ始めた巨樹。
太い幹から枝を伸ばし、その枝からまた枝を伸ばす。
冷たい月の光の下、やがて成長した巨樹は小さな白い花を無数に付け始めた。
桜――それがこの巨樹の正体だったことを思い出す。
そして、
インテグラの目の前には、見事に満開となった桜の巨樹が月の光を存分に浴びて己の存在を世の中に訴え始めたのだった。
「で、どうする? 滅ぼすか?」
アーカードの声にインテグラは彼を見つめる。
「私にはアレの声は婦警のようには聞こえないが、何を言っているのかは分かるつもりだ」
「ほぅ」
感心したようにアーカード。
「残念ながら、私には聞こえないし分かりもしない」
「……だろうな」
インテグラは苦笑。
「女はな、一生に一度だけ、人生の中で一番美しい自分を見せようとするものなんだ」
「……我が主はその一度をすでに通過したのか?」
次の瞬間、無言のアッパーカットがアーカードに炸裂していたのは言うまでもない。
一陣の風が吹き抜ける。
同時、桜吹雪が舞った。
「きれい……」
月明かりの下で舞う桜色の小片は、柔らかさと冷たさを併せ持っている。
私は巨樹に背を預け、舞い散る吹雪を見つめた。
『ありがとう、セラス・ヴィクトリア』
私の髪を優しく撫でた風が、消え行く声でそう告げたのを確かに聴く。
「どういたしまして。私も……」
枝の間に広がる夜空を見上げる。
暗い夜空の下にあっても月は明るく、その僅かな光の中で桜は輝いている。
「私も闇の中で、頑張って行けると思うよ。だから……」
こつん
後ろ頭を幹に預け、私は微笑む。
「ありがとう」
そして一際量の多い桜吹雪が私を包み込んだ。
吹雪の向こうからやってきたのは局長、そしてマスター。
「これはすごいな」
「でしょー?」
「でしょー、じゃない」
こつんと頭を局長に小突かれ、苦笑。
「マスター、あの……」
「なんだ、婦警?」
「私、一人前の吸血鬼になれますか?」
「血を飲まずに、か?」
「……はい」
マスターは答えずに鼻で笑う。その答えは否定……なんだろうなぁ。
「おやおや皆様、おそろいで」
そんな唐突な声はウォルターさんだった。両手でトレイを持っている。
「時に皆様、お花見など如何ですか? 美味しいアッサムのお茶が入りましたもので」
「頂こうか、ウォルター」
「いただきまーす♪」
局長と私は早速、芝生の上に座る。
「アーカード様も。偶然にも75年の赤ワインをお持ちしましたので」
「完璧だ、ウォルター」
その日。
とてもとても穏やかで、美しい夜を過ごしたと私は記憶しています。
「枯れちゃいましたね、マスター」
翌日、私は桜の巨樹など跡形も無くなった庭を見て呟いた。
「ああ、そうだな」
返すマスターは私の顔を見ている。
いや、顔色、だろう。
私は今夕、起きてちょっとびっくりした。
「力を得た、そういうことだ」
嬉しそうに笑いながらマスターは私の前から歩み去っていく。
そう、私の顔色は良くなっていた。そして日ごろから合った脱力感が完全に抜けていたのだ。
「……どういうことだろう?」
“人間ではなく、同じ夜族の血を飲んだということさ、婦警”
「え?」
当然マスターの返答は無く、私は疑問をそのまま解決することなく忘却の彼方へと捨て去ることとなった。
了