紅い声の子守唄



 私は不幸だった。
 愛されるべき親も『なく』,一人きりとなった私は、とある遠縁に預けられることとなった。
 だが、そこには暖かな家庭は、ない。
 暖かであろうとはしていた。
 だが、明らかに作り物の家族だ。
 私はいつも寂しさを感じていた。
 そう、いつも………
 この寂しさを無くすには、一体どうすれば良いのか?
 考えた。
 そうだ!
 世界を作り変えてしまえば良い。
 寂しさのない、私にとって心地好い世界へと。
 この私、御門 詩紋の世界を。



 私はいつも、彼を見つめていた。
 遠縁の、一つ歳下の聡明な彼を。
 私はそんな彼の、良き姉であろうとした。
 でも、それは巧く行かなかった。
 何故なら私は彼を一目見た瞬間から、異性として意識してしまったから。
 彼はいつも寂しそうにしていた。
 だから私は……そう、自分の気持ちも気付かれないように、明るく彼に振舞った。
 陽気に,陽気な姉として。
 しかし、彼から寂しさが消えることはなかった。
 それどころか、寂しさの色が濃くなって行くことに私は気付いていた。
 一体どうしたら…どうしたら彼の寂しさを和らげてあげられるのだろう?
 私に出来ること。
 それは傍にいてあげることくらい…。
 彼は世界で一人きりでないこと,それを教えてあげたい。
 だから、私,橘 美鶴は……貴方の傍にいます。



 突として、視界が開けた。
 鬱蒼と茂った木々と、その中を伝わる蔦類がまるで避けるようにして開けたそこは、小さな泉。
 斜陽が放つ真っ直ぐな光は紅く染まり、地面に降り注ぐ。
 紅い、泉だ。
 森の薄暗さに慣れた俺は思わず、眩しさに目を細める。
 そうして慣らす様に、徐々に,徐々に瞳を開く。
 「ん?」
 視覚の知覚の前に、嗅覚に知覚があった。
 思わず空腹をくすぐられるような、香ばしいパイの香り。
 目が、慣れた。
 息が、詰まる。
 泉のほとりに人影一つ。
 「ここは…」
 俺が大きくなったからだろう,狭くなった様に感じるが、忘れもしない,幼い頃に過ごした泉…だ。
 その泉を一番見渡せる大岩が、彼女と俺との特等席だった。
 俺の視線は唯一点,その変わることのない大岩に縛られている。
 「やっぱり来おったね。遅いでぇ,明良ちゃん♪」
 昔と変わらない座り方で,しかし少女から女性に姿を変えている彼女は微笑んで言った。
 「12楽譜の遅刻や」



 当時とあまり変わらない、ほっそりとした顔は漆黒の長い髪に包まれている。その間からは僅かに長い耳が見えた。
 かつて可愛いという表現が適切だった彼女は今、綺麗という言葉が良く似合う。
 しかし褐色の肌に大きな赤い瞳は、やはり異質な存在ではある。
 身に付ける瞳の色に負けないくらい紅い、宝石の嵌った額冠もまた、どこかノスタルジックな,俺自身は体験したことのない古き時代を思わせた。
 「ほら、明良ちゃん,冷めるけぇ,早く食べや」
 「あ、ああ」
 群青色に染まる泉を見渡せる大岩の上。
 俺は彼女の横に座り、パイの皿とフォークを受け取った。
 俺の知らない遥香は、穏やかにじっと見つめている。
 サクッ
 フォークを刺すと、湯気と香りが立つ。再び腹が鳴った。
 クスリ,隣で彼女が小さく笑うのが聞こえる。
 口に、運ぶ。
 「…美味い」
 第一声。
 「っしゃ!」
 ガッツポーズの遥香。
 そうなのだ,彼女はその容姿とは何処か違和感を感じさせるのだ。
 見た目は物静かな感じを受けるが、それはまるで逆。
 言葉遣いも手伝って、性格は至ってざっくばらん。そんな幼い頃の記憶がある。
 そしてそれは間違ってはいない様だった。
 …まぁ、それはともかく。
 あっさりとパイを片付けた俺は大きく息を吐く。
 「ごちそうさま」
 「どういたしまして」
 応える声に、俺は振り向く。
 穏やかな二つの紅い瞳には俺だけが映っていた。
 紅 遥香
 名前は知っている。
 知っているのはそれだけだ。
 「なぁ、遥香…ちゃん」
 「呼び方はどうでもええで,明良ちゃん」
 「そか。…君は遥香、だよね?」
 問うと同時、哀しそうな顔をする。
 「明良ちゃん、ウチを忘れてもうたん?」
 「忘れる訳ないだろ!」
 思わず荒げて叫んだ声に、遥香は驚きの表情で固まった。
 「あ、ごめん」
 「ううん」
 嬉しそうに笑って、遥香は首を横に振る。
 「忘れてなかったんやね。ウチにとってはたった12楽譜やけど、明良ちゃんにとっては長い時間やさかい」
 俺は眉をしかめる。
 「遥香にとってはたった12楽譜…なの?」
 「ん…そうやで。明良ちゃんと初めて会ったあの時を待つのに比べたら、たった12楽譜や」
 屈託のない笑み。俺は、聞いてはいけないような,しかし聞かなくては先に進まない言葉を、紡ぐ。
 「遥香…」
 「ん?」
 「君は…何者なんだ?」
 冷たい夜の風が俺達の頬を撫でて行く。
 「ん〜,そう言われても…ほな、明良ちゃんは何者なんや?」
 「…何者言われても」
 「それと同じや」
 笑う遥香。立ち上がり、夜の風を謳歌する。
 すとん
 再び俺の前に座った時には、笑みは消えていた。
 「誤魔化しは良くあらへんね。ウチ、終幕師やねん」
 彼女の呟きと同時に、泉の色から日の光が完全に消えた。
 入れ替わる様に、冷たい月の光が映り始める。
 「終幕師……?」
 「だから人間やない。いくら人間になろう思うて死んでも、結局…」
 遥香は言って、己の右目に手で触れる。
 「結局、ウチは化け物のままや」
 「化け物だなんて…」
 呟く己の声が乾いているのに気付く。自分でも驚くほど、ショックを受けている。
 ある程度は覚悟していたことだ,幼い日に出会った紅 遥香という名の少女。
 人間の生きて行くには困難過ぎる、雑音に満ちた森の中で生きている彼女。
 俺は分かっていたはずだ。
 彼女は人間ではないことを。
 ならば何故、俺はこんなにショックを受けているのか?
 それは…答えは分かっている。きっと彼女と初めて出会った時から答えは分かっていたはずだった。
 「昔な」
 遥香の声に、我に返る。
 「ずっと昔や。ウチがなんもかもイヤなって世界を終わらせようとした時や」
 空を見上げ、彼女は独白。
 「全ての声を持った人間がな,ウチを倒したん。びっくりやった,ただの人間がウチを倒したなんてな」
 肌寒い風が、俺達の間を吹き抜ける。
 「ソイツ、言うたん。『好きな奴を死なせとうないから、頑張った』って。だからウチ、こう言ったんよ,『好きを覚えてみたい』って」
 遠い目をする彼女は、酷く疲れているように俺には見えた。
 「それで?」
 「ん。ソイツな、今度また会う事があって、ウチが人なら好きになってくれる,約束したん。そしたらウチもソイツを好きになって、好きを覚えられるんやって…」
 遥香は、優しい微笑み。
 「それからウチ、人の格好に生まれることが出来るようになったんよ。でも…みんな、ウチのこと恐がって逃げてくねん,それにウチも何度か殺されて…『好き』よりも『憎い』の方をよう覚えたわ。でも、でもな!」
 遥香は視線を夜空から俺に戻して、言う。
 「明良ちゃん,ウチに会っても全然恐がらなかったわ,普通に話してくれたん。ウチ、なんか胸が…暖かくなってな。めっちゃ嬉しかったわ、ずっと明良ちゃんとここでこうしていたかった」
 紅い瞳に俺が映る。その瞳の中の俺の紅にも、彼女が映る。
 「でも、明良ちゃん,人間やからずっとここにいとったらおかしくなってまう。いくらウチが雑音の力で作ったその瞳で護られとっても、限界があるん。だからウチ、人呼んだわ」
 「遥香…」
 「でもウチ、明良ちゃんのコト、絶対忘れとうなかった。明良ちゃんにも忘れてほしゅうなかった。だから…だから小さな約束したんよ」
 「パイを作って待ってる…か?」
 「ん。明良ちゃんにはそんな大した約束やないと思うとったけど…」
 「そんなことない!」
 思わず叫ぶ俺。遥香はそれに嬉しそうに微笑んだ。
 「12楽譜の間、楽しかったで。明良ちゃんとの思い出の中にいられたん」
 「どうして…」
 彼女の微笑みを見ながら、俺は問う。己の感情を押さえて。
 「どうして『楽しかった』って過去形なんだよ?」
 「だって…ウチは人間やない。化け物やさかい…明良ちゃんの前にこれ以上出てきてもうたら、迷惑やさかいに」
 「どうして迷惑なんて思うんだ?」
 語尾が荒くなる。
 「どうして言われても…ウチは明良ちゃんが困る顔、見とうない」
 困った顔で応える遥香。
 「どうして困る顔を見たくないんだ?」
 「それはウチは明良ちゃんを………??」
 動きが止まる遥香。
 「俺を?」
 「明良ちゃんが……あ、あれ?」
 戸惑いの表情で胸を押さえる遥香。
 「困る顔を見たくないんだったら…翼竜ゲッソに『待ってる』なんて言わせないはずだ。君はどうしたかったんだ?」
 言いながら、俺は己の中に残っていたつまらない何かの欠片を蹴り飛ばして、目の前の彼女を抱き寄せた。
 少し長めの耳元に、言葉を告げる。
 「君が何であろうと、俺はずっと君が好きだった」
 ビクリ、腕の中の遥香が小さく震える。
 「それは今、気が付いて、そして今も変わらないよ」
 「あ……」
 小さく呻く遥香。
 僅かな逡巡の後、彼女の体から力が、抜ける。
 「ウチも、明良ちゃんが好きや。……これが好きいうことなんやねぇ」
 腕の中、俺を見上げる遥香の頬には涙が伝っていた。
 そして、
 額の紅いはずの宝石は、蒼く,俺の左目の様に蒼く染まっていた。



 西地区守備隊本部
 古き時代の城は、今は沈黙に包まれている。
 実際、沈黙は破られることはなかった。
 何故なら、音を発する『人間』が今や二人しかこの場にはいなかったからである。



 バララララララ………
 「「?!」」
 突然の爆音は頭上から。
 見上げると同時に、サーチライトの強い光が俺達を森の闇から浮かび上がらせた。
 泉の水面が風圧に波を立てる。
 対雑音仕様のヘリだ。
 「お楽しみはそこまでだ!」
 声。
 伴に光の中から二つの影が飛び降りてくる。
 それは各々、泉のほとりに着地して俺と遥香を挟みこんだ。
 同時にこの場から退避するヘリ。
 「お前等は…」
 俺は立ち上がり、戦慄!
 「誰や?」
 遥香の緊張をはらんだその言葉に、しかし問答無用に襲い来るは左側の影。
 月明かりの下、俺は見た。
 三又の音叉を振り上げる彼女――氷樹の沙夜の姿を。
 「
 雪の烈音が紡がれる。が、
 「明良ちゃん,こっちはウチに任せとき」
 微笑み、遥香は接近してくる沙夜に向って走る,そして何かを小さく小さく,メゾピアノで呟いた。
 「遥香!」
 振り返る暇は…
 「んじゃ、お前の相手はオレだ!」
 ない!
 案外近い声に驚き、反射的にレストランチェを振りかざす俺。
 そこに沙夜と同じ、守護頭の持つ三又の音叉が振り落とされてガチィと鈍い音が夜の森に鳴り響いた。
 「モザイクの猛かっ!」
 「行くぜ,独眼の追跡者。!」
 至近距離の覇音の衝撃波,俺は同じく、
 「!」
 同じ声で相殺する。
 モザイクの猛の表情に、驚きの色が生まれた。
 「なるほど、レストランチェの力って訳か。あの評議長が欲しがる訳だぜ」
 「何だって?」
 問う暇があればこそ、
 「ガガガガガガァァァ!!!」
 猛の連続覇音,俺は後方に大跳躍。
 ごぅ!
 大岩が崩れ去った。
 「あ!」
 それを見たのだろう,背後から遥香の小さな叫びが聞こえてくる…が、振り返るほどの余裕はない。
 「猛! お前が俺を狙うのは…やっぱりこれか?」
 間合いを取って俺はモザイクに問うた。
 彼はニタリ、微笑んで,しかし首を横に振る。
 「当初は、な」
 「はぃ??」
 「俺も沙夜も、守護頭同士が争うっていうタブーを犯しちまってな」
 それは知っている。
 「んで、それを許してもらう代わりに『お前が起動させた』レストランチェを回収する様に言われた訳さ,評議長殿にな」
 「んじゃ、これを返せば引いてくれるのか?」
 「いんや,俺は何より…」
 音叉を振り上げる猛。
 「強い奴と戦うことを優先する,!」
 轟音が俺に向って土を抉りながら突き進む。
 「はた迷惑な,!」
 沈静の求音,轟音はキレイに消え去った。
 「消えるか?!」
 驚く猛に、俺は快速の烈音『ミ』で瞬間的に懐に入り、レストランチェの柄を鳩尾に叩きこんだ!!
 「ぐふぅ!」
 体をくの字にして、前のめりに倒れるモザイクの猛。
 こっちは片付いた…と。
 俺は後ろを振り返り、
 遥香と沙夜は月明かりの下、踊っていた。
 いや、本当に踊っているわけではない。
 沙夜の繰り出す音と体術は、その全てが遥香の終末の音とそれ以上の体術によってかわされている。
 明らかに遥香は手を抜いている…というか沙夜を傷つけない様に防御に徹していた。
 「沙夜…」
 「?!」
 レストランチェの剣先を向けた俺に、沙夜の動きが止まる。
 彼女の視線は俺の背後の猛へ。背後では彼が身を起こす気配が伝わってくる。
 だが、彼の敵意は俺の背中に感じなかった。
 途端、無表情な沙夜の顔に、俺は前に見た笑み以外の表情を始めて見ることになる。
 『必死』の表情。
 沙夜は三又の音叉を俺に向け、
 「
 ピアニッシモな遥香の声に、沙夜の声は発動しない。
 全てを終わらせる音,音で構成される人間が、人間である限り発することの出来ない終末の音だ。
 「くぅ…!」
 音叉を力任せに振り上げる沙夜。
 俺は振り下ろされるそれをレストランチェで弾き返す。
 彼女の音叉は手から離れ、泉の傍の地面に突き刺さった。
 「氷樹の沙夜,そこまで評議長なんかに義理立てすることはないだろう? それともそこまで守護頭の地位が惜しいのか?」
 俺の問いに、彼女は憎々しげに睨み返すと……ぺたりとその場に座りこんだ。
 「貴方が…貴方が兄様をそそのかしたりしなければっ!」
 「蒼がどうしたんだ?!」
 彼女の言葉に只ならぬモノを感じ、俺はレストランチェを構えつつ問う。
 「その音叉を取り戻してこないと兄様の命がないのよ」
 「何言ってんだ、お前?」
 ちょっと疲れの入った、バカにした声は俺の背後から沙夜に向って放たれる。
 「どういうことだ?」
 音叉を杖代わりに、モザイクの猛は座りこんでいる沙夜になんとも言えない視線を投げかけていた。
 「沙夜,お前、評議長を直接見たんだろう?」
 「…それが何よ」
 表情を消し、沙夜。しかし明らかに焦りの色が見える。
 「見て何も感じなかったか?」
 沙夜の表情が、凍った。
 「おい、モザイクの。どういうことだ?」
 「評議長はな…はっきり言って、俺は恐かったぜ。何せ、人を食うんだからな」
 ビクリ
 沙夜の体が大きく震える。
 「人を…食う?」
 俺は声が掠れているのを感じた。
 「ああ。俺がモザイクって呼ばれている意味は分かるだろう?」
 「自分が持っていたガ行の音を補完する為、同じ系列の音獣を食ってガ行をマスターしたってことだろ?」
 「評議長はな、どんな声でも食えるんだ」
 彼の言わんとしていることに気が付いて、俺は全身が金縛りにあったように動かなくなった。
 「なぁ、沙夜。アンタ、自分の兄が目の前にいたのに気付かないほど音痴だったのか?」
 「い……いやぁぁぁ!!!!!」
 氷樹の沙夜の叫びが、夜の森を震撼させた。



 ヘリは飛ぶ。
 「レストランチェを回収。只今より本部へと戻ります,本部? 本部??」
 返答がないのか、パイロットのやや焦った無線への声が聞こえてくる。
 俺と遥香は後ろ手に縛られ、シートに腰を下ろしていた。
 両隣には猛と沙夜。
 これから向う巨大な力を持つ『敵』を前に、嬉しそうな猛が俺の右に。
 血の気が引いた顔をしてぎゅっと両手を握り締めたままの沙夜が遥香の左に。
 ヘリは飛ぶ。
 底知れぬ能力を持つ男の下へ。



 ヘリが降りるは西地区守備隊本部のヘリポート。
 誘導灯すら灯らない、無人のコンクリート。
 「非常事態だ,南地区の守備隊に連絡を入れておけ」
 「ハッ!」
 モザイクの猛の指令で、パイロットは無線機を操作。
 それを背に、俺達は守備隊本部である古城の中へと足を踏み込んでいった。



 「来た、な」
 彼は立ち上がる。
 心持ち、体が重いような気がするが動けばいつもの調子が戻るだろう。
 「評議長…いえ、詩紋」
 「その呼び方はプライベートですね,何です? 美鶴さん?」
 背後からの声に、彼は落ち着いた声を返した。
 「貴方は…何処へ行くつもり?」
 「ちょっと運動をしに、ね」
 「そうじゃなくて!」
 「では、世界を変えに」
 「どうして…変えたいの?」
 幼馴染みでもある彼女の言葉に、詩紋から表情が消える。
 美鶴は続ける。
 「変えることで貴方の寂しさが消えると言いたいの?」
 「そうですよ」
 「消えないわ」
 即答に対してきっぱりと、言いきる。
 「…貴方に何が分かるんです?」
 「分かるわ,ずっと貴方だけを見てきたから」
 「分かっていませんよ」
 「分かるもの。貴方の寂しさは貴方自身が生み出している物。貴方自身が変わらなければ消えないわ,いいえ、貴方自身が変わるだけで消える物なの」
 「貴方に何が分かる!」
 詩紋のいつにない叫びに、美鶴は震える。
 「貴方は自分自身の手で親を食らったことがあるのか? 生きるか死ぬかの地獄の中で、決して消えることのない苦痛を味わったことがあるのか?!」
 「ないわ,そんなもの!」
 彼女の叫びに、詩紋は振り返る。
 「ないから…貴方が苦しいのなら、その苦しみの半分だけでも私にちょうだい,!」
 「美鶴!」
 以心伝心の求音『ル』が、発動。
 「バカ,止めろ!」
 「あああああ!!!!」
 叫ぶ美鶴,慌てて彼女に手を伸ばす詩紋。
 美鶴の体が淡く輝く,詩紋が振れた所から、体は光の塵となって崩れて行く。
 「何てコトを…今の私に『声』を使うことは何を意味するか分かっているでしょう!!」
 「それなら、なおさら」
 光の中、美鶴は優しく微笑む。
 「貴方の苦しみの半分、受け取ったわ。これからは貴方の声となって…見守っていてあげる」
 光の微笑みは、かつて詩紋が見たことのある映像だった。
 幼い頃、落ち行く飛行機の中で…
 彼女に伸ばした彼の腕は、空を切る。
 そして…
 美鶴は塵となって詩紋に取り込まれた。
 バタン!
 同時に両開きの扉が開き、四つの人影が飛び込んできた。
 「見つけたぜ,評議長」
 モザイクの猛はしゃがみこんだ詩紋に怒声をかける。
 「よもや西の守備隊員全員を食らっちまうとは思いもしなかったぜ」
 いや、怒声の中には僅かな恐怖も含まれていた。
 その隣では、レストランチェを片手にした沙夜が呆然と詩紋を見つめていた。
 「……兄様は…兄様はどこ?」
 その声に、詩紋はゆっくりと、ゆっくりと立ち上がる。
 顔を上げる。
 浮かぶは不敵な笑み。
 「氷樹の沙夜…君の兄なら、ここにいるよ」
 彼は己の胸をとんとん、と叩く。
 「あああああああああああああ!!!!」
 ただ、叫び、レストランチェを振りかざす沙夜。
 「や、やめろ,沙夜っ」
 明良の声は彼女のフォルテッィシモな氷結の烈音『リ』によってかき消される。
 白の烈波をレストランチェの刃に巻きつけ、沙夜は疾る、疾る!
 レストランチェが詩紋の体に振れる直前――
 「明良,遥香、後ろへ!」
 猛によって二人は部屋の外へと押し出される!
 直後
 無音のまま、部屋の中は絶対零度に凍てついた。
 慌てて立ち上がる猛と明良,部屋の中を覗く。
 「沙夜…」
 呆然と呟く明良。
 樹氷の立ち並ぶ部屋の中、沙夜は光に包まれている。
 淡く消え行くその姿で、彼女は目の前の評議長に向って手を伸ばす。
 「に・い・さ・ま……」
 最期にそう呟いて塵と化し、詩紋の中へと取り込まれた。
 二粒の涙だけを床に残して。
 詩紋の片手には指揮棒レストランチェが握られていた。
 「次は俺だ,評議長ぉ!」
 「バカ,アイツには声は通用しないっての!」
 部屋に飛び込んだ猛はギの烈音を三又の音叉に宿らせ、突きにかかる!
 力任せのそれは、だがしかし詩紋の細腕にも関わらず、あっさりとレストランチェに弾かれ、返す刀。
 ズッ!
 「グッ!」
 「猛!!」
 レストランチェの刃はモザイクの猛の右胸に突き刺さり、そして…
 「最近、負けグセが付いてんな、オレ…」
 モザイクの猛は氷樹の沙夜同様、光に包まれて塵と化し、消えた。
 部屋に一人残った詩紋はゆっくりと凍った部屋から出ながら明良を見つめ、小さく笑う。
 「手に入れたよ、指揮棒をとうとう、ね。そして今の西と南の守護頭で…70声全てコンプリートしたよ」
 「で、どうする気だ?」
 疲れたように、明良は評議長に問うた。
 「世界を、変える!」
 指揮棒を強く握る詩紋。
 「無理だよ、評議長殿」
 「何故だい? 確かに私は君の様にレストランチェを起動し得る、指揮者としての資格はなかった。が、指揮者としての素質は今、揃えることが出来たよ」
 「アンタの言う、指揮者の素質って、何だい?」
 問う明良の右腕に暖かな感触,ふと視線をずらせば遥香が腕を絡ませていた。
 「全ての声を持つこと,決まっているだろう?」
 「全ての声を持つことって、どないなことや?」
 問いは明良の隣から。
 「明良ちゃんは声を持っとらんで。ホントは持っとったけど…今は忘れてもうた。でも指揮者や。どういうことか、分かるか?」
 遥香を一瞥して詩紋は目を見開く。
 「終幕師…か?!」
 「ウチの問いに応えぃ」
 詩紋はレストランチェを構えつつ、小さく呟いた。
 「それこそレストランチェの力…ではないか?」
 詩紋の答えに、遥香は苦笑。
 「明良ちゃんはどない思う?」
 「俺は…雑音を見ることが出来る。雑音は全ての音から出来ている,雑音が見えるということは、全ての音を、声を知ることができるということ。知っていれば……」
 「使うことが出来る、そういうことやな」
 明良は頷き、詩紋を見る。
 「評議長,アンタは全ての声を持ったと言った。だが…使えるのか?」
 「何だと?」
 訝しげに、しかし失笑の評議長に明良は困った顔で言い放つ。
 「奪った声はアンタの中に存在しているだけ。声を知らなくて、使える訳がない。声を知るということは,その声を使うということは、声の持ち主の全てを理解して、受け入れると言うことだ。アンタに他人を理解して、受け入れるだけの狭量があるのか…な?」
 詩紋はレストランチェを構えた。
 「舐めるな、独眼の追跡者と終幕師。私は…私の力を舐めるな!!」
 詩紋はありったけの『声』をレストランチェに注ぎ込む。
 70の声はレストランチェという音叉に吸収、増幅され…そして、
 世界が、歪み始めた。



 歪んだ空間の中で、詩紋は叫ぶ。
 声にならない声を。
 それを冷静に見つめるは四つの瞳。
 「レストランチェはただの増幅器なんだよ。制御できない声をぶつけるから、こうなる」
 日の当たる公園,夕暮れの学校,朝日の昇る海,ありとあらゆる風景が入り組み始めた世界の歪みの中心で、明良は苦く呟いた。
 目の前の詩紋からは次々と音が、声が抜けてゆく。
 抜けた声はそれぞれ、加速度的に広がって行く空間の歪みの中へと解けこんで行った。
 世界が歪んで行く,短音という秩序から、複音・多重奏という混沌へと。
 そこから逃れられる術は、ない。
 ありとあらゆるものが混沌へと帰して行く。
 そんな歪みの衷心で、やがて詩紋の中には四つの声だけが、残る。
 「私では、世界を変えられないのか…??」
 レストランチェを杖代わりに、歪みの中心でその身を半分呑みこまれながら詩紋は己自身に問い続ける。
 「何故、世界を変えたいんや?」
 紅い瞳で指揮者を見つめる終幕師。
 「寂しい世界は…嫌だ」
 「音痴な奴だな,何が寂しい、だ」
 吐き捨てる様に明良は言った。
 「アンタ、ずっと見守られてんじゃねぇか,それも三人に、な」
 雑音を見る者は、彼の背後の三つの声に目を向ける。
 「え……」
 目を凝らす詩紋は己の背後を見て……微笑。
 「そうか、そうだったんだな,だけども…」
 レストランチェから手を放して、御門 詩紋は三つの声に抱かれながら、今や世界中に広がった歪みの中にその身を溶かしながら、独白。
 「気付くのが、遅すぎたよ」
 最期の言葉。
 世界の歪みはこの時、全ての声と音を混沌へ帰していた。
 飛び交う秩序のない音の中、明良は腕を絡ませる隣の彼女に微笑んだ。
 「さて、めんど〜だけど、やろうか」
 クスリ,傍らの彼女も微笑む。
 「指揮者と終幕師の10楽章に一回のお仕事、やね。なんかいつもとちょっと勝手が違うけど」
 「俺と君はいつも敵同士だったってことかい? でもこれが最後の仕事にしてみせるよ,終幕師として、最後の仕事にね」
 「それってプロポーズとして取って良いのん?」
 「こんな場所じゃ、ちっともロマンチックじゃないけど、ね」
 明良は虚空に手を伸ばす、すると手に何かが握られた。
 「レストランチェ/使用者レベルアップ/A認定」
 音叉はゆるりと形を変えた。
 刃の部分が光となって消え、明良の握るのは柄の部分だけ。
 音叉本体はどこにもなく、何処にも普遍的に存在する。
 世界その物が、音叉となる。
 「『好き』ってことは、強いって分かったわ,今、ウチは明良ちゃんの為に頑張りたいもの」
 遥香は彼の腕をしっかりと腕に抱いて、そして………
 「ン…ンンン〜,ンン〜♪」
 唄う。
 穏やかな、全てを安らかに寝かしつける、母なる子守唄。
 紅い声の子守唄を。
 全ての音は終わりを告げる,一斉に、整然と、安らかに―――
 古き楽章の協奏曲は、終わりを告げた。
 静寂
 『新しい曲を、ここに奏でよう
 雄々しい『声』が、全てが眠る空間に轟き、渡った。
 そして―――
 全ては奏で創める。
 各々の曲を、自由に、楽しく、時には難しく―――



 ぱんぱん♪
 拍手を打つ俺。
 2001年、1/1。新世紀の始まりだ。
 地元でも穴場なお稲荷様を祭った小さな社。
 街が一望できる高台に建つここで、俺達は新たな世紀に向けて誓いを立てる。
 「頑張るんで、俺にとってだけでも良いから、良い世紀でありますよ〜に」
 ぱんぱん♪
 隣からも拍手の音。
 「頑張るさかい、ウチにだけでも良い世紀でありますよ〜に」
 そう呟き、彼女は俺にチラリ,視線を向けてニヤリと微笑んだ。
 俺は懐から最終兵器,昭和50年の5円玉を取り出して賽銭箱に投げこむ!
 ぱんぱん♪
 拍手。
 「俺だけでも良いから、大学が受かりますよ〜に!」
 ちゃりん,ぱんぱん♪
 「ウチだけでも良いから大学が受かりますよ〜に,隣の落しても良いからお願い!」
 「むー」
 「ぶー」
 睨み合う俺達。
 「こらこら、何やってるんですか」
 「兄様,バカは放っておきましょう。うつります」
 聞き覚えのある兄妹の声に、俺達は視線を背後に。
 何処か有名所の神社にでも行ったのだろう,破魔矢を片手にした晴れ着姿の沙夜と、その彼女に腕を掴まれた革ジャンに身を包んだ蒼の姿がある。
 「アンタらは帰れ帰れ,ちっちゃい神社なんだからご利益がどんどん減ってくやないの,ウチらの分だけで手一杯言うてるさかい」
 「そ〜だそ〜だ!」
 「…そんなこと言ってるとバチ当たりますよ」
 「だから兄様,バカは放っておきましょうって…」
 「「バカバカ言うな!!」」
 2001年、1/1――新世紀の始まりの日。
 空は青く高く、果てのないその様は俺達のこれからを示しているようで心地良かった。


 「ねぇ、明良?」
 「何?」
 「ウチ、変な夢見たん」
 「どんな夢?」
 「明良に会うのに、二十世紀も待つ夢」
 「…ひでぇ初夢だな」
 「そうでもないで」
 「ど〜して?」
 「待つのが長ければ長いほど、会えた時は嬉しいんや」
 「そんなもんかなぁ?」
 「そんなもんや」


ここより
新たな世紀が始まる――




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