柔らかな春の日差しの中に俺はいる。
天には高い青空と白い雲。みずみずしい芝生の広がる草原で寝転んでいた。
日なたと若草の香りを胸いっぱいに吸い込み、暖かな空気が俺を包む。
懐かしい香りの中での、とてもとても穏やかな時間。
いつまでも続く安息の時。
そう思われていた世界が、不意に揺れた。
なんだ?
身を起こす俺の目の前には、波打って膨らんだ芝の地面。
声を上げる間もなく、俺はのたうつ芝の地面に真っ向から潰されてしまう!
「うわっ」
声にならない声をあげてしまう。
………柔らかい。
押し付けられる芝の地面は何故か柔らかくて暖かく、濃厚な日なたの香りがした。
だがそんな柔らかな地面はやがて俺の鼻と口をふさぎ……
「ぶはっ!」
両手で柔らかなものを押し戻して、俺は目を覚ます。
場所は夢の中の暖かな草原と似て異なる、慣れ親しんだ暖かな寝床の中だ。
そして目の前には、白に小さな花柄がプリントされたパジャマの薄い生地。その向こうには、ふくよかな2つの双丘。
2つの丘は今、俺の両手でそれぞれ潰された状態だ。柔らかくも押し返してくる弾力の感触が両の手のひらから伝わってくる。
思わず手を離す、と。
「んー、ユウくーん」
頭の少し上で、やや酒臭い吐息と共にそんな寝言が聞こえたのも束の間、迫り来る双丘。再び塞がれる俺の呼吸器官。
夢の中で香った、濃い日なたの香りが再現された。
「起きてよ、コハルさん!」
彼女の肩辺りと思われるところを思いきり押し返しながら、なんとか束縛を脱出して布団から飛び出した。
彼女はしばらく布団の中で何かを探すようにゆっくりもぞもぞとした後、上体を寝ぼけ眼をこすりながら起こす。
「おはよぅ、ユウくん」
効果音にすると、にぱぁーとした感じで垂れ目がちな双眸を細める彼女。口元にはだらしなくもよだれの跡が見て取れる。
腰まである亜麻色の長い髪が無造作に散って、はだけたパジャマから覗く白い肌を覆い隠していた。
「おはよう、コハルさん」
俺は溜息と一緒にそう答え、続ける。
「そして、あけましておめでとうございます」
告げられたコハルさんは、まだぼんやりしている頭をやや横に傾けながら、数瞬ぼっーっとした後に「おぉ」と思い出したかのようにこう答えた。
「あけましておめでとう、ユウくん。今年もよろしくね」
小春日和のような柔らかな彼女の笑顔は、俺にもいつしか伝染する。もっとも苦笑いに近いものではあるが。
1月1日元旦。
俺は今年、この人と共に歩んでいく。
亜麻色のパレット
その1
昨夜用意しておいた出汁の入った鍋に餅を数個放り込み、火をかける。
「なんで俺の布団に入ってるんですか、ちゃんと自分の布団で寝てくださいよ」
ガスコンロの火に両手をくべながら、俺は居場所を布団からコタツへ移ったコハルさんに文句を言う。
「いやー、昨夜は大晦日だからって深酒しちゃって。お布団敷くの面倒だったのよぅ」
語尾が小さくなっていく反論を聞きながら視線を向けると、頭を抱えてコタツに突っ伏しているコハルさんが見える。
「二日酔い?」
「ぅん、みたい」
言葉少なげだ。
やがて鍋から良い匂いがしてくる。昨夜から仕込んでおいたお雑煮である。
俺は鍋からお餅を2つづつ椀にとりわけ、透明度の高いスープを注ぎ、鰹節をそれぞれに軽く散らす。
「おまちどうさま」
俺はコハルさんの正面に座り、自分と彼女の前にお雑煮の入った椀を置いた。
「いい匂い」
「お腹に何か入れれば治るよ」
パジャマの上からどてらを羽織った彼女は重たそうに頭を上げて箸を取る。
ばあちゃんから習ったこの雑煮は、かつおと昆布ダシの飾り気のないタイプだ。
地方によっては白味噌や、まるで筑前煮が入ったような賑やかなもの、さらには小豆を入れたりするものもあるようだが、ウチのものは具は餅だけのシンプルなもの。
アクセントで柚子の皮と鰹節を振りかけてあるくらいのものだが、しっかりとばあちゃんの味を再現できているかは自信はない。
「「いただきます」」
お互い手を合わせてお餅をすする。
「あっ」
「ん?」
小さく声を挙げたコハルさんに俺は箸を止める。
「アヤちゃんと同じ味だ」
「ばあちゃんの?」
「うん。お正月に、酔い覚まし代わりに時々いただいたわ」
進歩ないな、この人。口には出さないけど。でも、
「そっか、ばあちゃんと同じ味か」
呟く。それは今の俺にとって嬉しいものだ。そう思う。
「コハルさんはこの後、どうする? 初詣に行く?」
「うん、ちゃんとご挨拶しておかないとね」
答えるコハルさんは雑煮を食べて二日酔いから少し復活したみたいだ。
「じゃ、その格好じゃダメだよ。ちゃんと着替えないと」
寝癖の酷い亜麻色の髪と、まだ眠そうな顔。どてらにパジャマ姿を指摘しておく。
「はいはい、着替えますよーだ」
そう言ってコハルさんは2つ目のお餅に手をつけた。
「ばあちゃんの形見で振袖があったと思うけど、それ出す?」
問うとコハルさんは難しい顔に。
「アヤちゃんの着物って、胸が苦しくて腰がぶかぶかなのよねぇ」
「それ、ばあちゃんが聞いてたら間違いなくくびり殺されて、お昼のたぬき汁になるよ」
「……ゴメン、言い過ぎました。アヤちゃん、許してー」
小さく震えながらのコハルさん。
俺の知っているばあちゃんと、彼女の知っている俺の曾祖母は同じであって異なる。
だが基本的なところはあまり変わらないことをこうして知ると、亡くなる以前よりも身近に感じる気がするのは何故だろうか?
「まぁ、とりあえず」
コハルさんはそう前振りを言うと、右手の人差し指をぱちんと鳴らした。
途端、瞬時に彼女の姿が濃い霧に覆われたかと思うと一瞬でそれが晴れる。
そこには寝起きのだらしないどてら姿のコハルさんはなく、艶やかな振袖をまとい、亜麻色の髪を綺麗に結い上げた姿があった。
「こんな感じでいいかしら?」
淑女然としてコハルさん。
「俺から見るとちゃんと感じるけど、コハルさんの『変化』を見破る人がいたらどう見えるの?」
「寝起きのどてら姿だけど?」
「……初詣に行くんだけど、大丈夫なのかな?」
俺の問いにコハルさんは小さく首を傾げる。今の彼女の思考を読んでみよう。
初詣?→神前に立つ→自分より神格の高い神様の前→元旦からだらしない姿を見られる→査定に響く→引き続き無職
「ぁぁぁぁぁ〜〜」
頭を抱えるコハルさん。思考速度は凡人である俺と大差はないようだ。
「あ、でも」
はっとした顔を上げる彼女。
「ユウくんと、こうしてただれた生活を送るのも良いかも?」
「一人で送ってください。というか部屋から叩き出すよ?」
「嘘です、嘘ですよー、ユウくーん!」
コタツから出てジャンパーを羽織る俺の後ろで、コハルさんはバタバタと改めて身支度を始める。
「そういうユウくんは振袖着ないの?」
「なんで俺が着るんですか。面倒くさい」
「…なんか納得いかないものがあるよーな」
「つべこべ言わずに用意する!」
「はーい」
結局、軽く髪を梳いてから着替え、コートを羽織った上で振袖姿に『変化』することで落ち着いたようだった。
空はすっきりと晴れた青一色。アパートを出て歩くのは10分ちょっとの距離。
近所にあるのは北野天神という、結構古いお社だ。
木々に囲まれたそこは、普段は人の姿はほとんどない静かな場所なのだが、元旦の本日はまるで逆。
100mもない参道には3列の参拝客の列が社の入り口から伸び、その左右には出店が立ち並ぶ。
どこからこんなに人が集まったのか不思議に思うのと同時に、手近で済まそうとする面倒くさがり屋が多いことに苦笑い。
まぁ、俺もその面倒くさがりの一人なのだろうけれど。
俺とコハルさんが到着した朝9時ごろは、入り口の鳥居が行列の末端だった。
「なんだか年末のビックサイトの大手サークルみたいねぇ」
「何を言ってるのか良く分からないんだけど?」
「あ、んと。なんでもなーい」
そう答えるコハルさんと行列をゆっくりと進みながら左右に並んだ出店を見る。
お正月くらいしか見ない七味唐辛子屋だとか、今年の干支である蛇の置物を出すお店なんてのもある。
ふと、俺の鼻腔にソースの焦げたなんとも食欲のそそる匂いが漂ってきた。
視線を隣に向けると、たこ焼きを1パック手にしたコハルさん。
「はい、ユウくん。あーん」
唐突に爪楊枝に刺したたこ焼きを1つ、口元に突き出される。思わず1口。
「ほつい…」(熱い)
かりかりの表面に、あつあつの中身が口の中でジュワっとこぼれてくる。
熱さの中心には弾力のあるタコの感触。それらが濃厚なソース味で締めくくられていた。
うん、旨い。熱くて吐く息は、いつもより白かった。
コハルさんも同じく白い息を吐きながら熱そうにたこ焼きをつついている。つつきながら、何故か口調をおっさんのようにして、
「ほー、いいじゃないかいいじゃないか。こういうのでいいんだよ、こういうので。こういうの好きだなシンプルで。ソースの味って男のコだよね」
孤独のグルメの名言も吐いていた。そろそろ注意した方が良いのかもしれないな。
そんなこんなで、列は前へとゆるゆると進み、やがてお賽銭箱の前。
「出番が来たよ、コハルさん…って買いすぎだろー!」
気が付けば隣の彼女はたこ焼きの他に、広島焼きを右手に。
左手には綿菓子とケバプの入った袋を提げている。いつの間に買ったんだろうか?
「ユウくん、ヤバイ」
「どうしたの? 買いすぎて拍手打てないとか?」
「それもあるけど、買いすぎてお賽銭がないの」
俺はそれを聞き流し、手持ちの5円玉を投げ入れてお参りをする。
最後にちょっとだけコハルさんの分も良い年になるようにお祈りしておいたが、年始早々査定にマイナスがついたとか言ってやけ食いする彼女を見る羽目になるのは予定調和なのかもしれない。
さて、そろそろ首を傾げる方もいらっしゃるだろう。
変化だとか査定だとか、普通の生活を送る分にはあまり見慣れない単語を俺は所々発していたと思う。
これらについて、これからの俺達の物語を語っていく上で説明しておかねばなるまい。
結論から言うと、現在一緒に暮らしている隣のコハルさん。
彼女は『人間』ではない。
だからといって、科学技術の粋を結集して作られたアンドロイドであるだとか、深遠なる外宇宙から飛来して地球生命の観察にやってきた宇宙人であるとか、そんなどこにでもありそうな映画や小説ネタではない。
彼女はいわゆる神様である。
いや……俺も自分で何を言っているのか時々分からなくなるのだが、彼女は自身のことを神であると俺に説明した。
とは言っても、磔にされて復活した最大宗教の祖とか、苦行Loveなインド人のような有名人ではない。
ここ日本は太古より八百万の国である。それこそ道端の小石やその裏に貼りついているだんご虫にも神が宿ることがある。
彼女は言うなれば、そんな存在なのだそうで。
まずこれから語るのは、俺と彼女との出会いの物語。
去年の11月半ば過ぎ。ようやく茹だる様な暑すぎる夏が通り過ぎ、朝晩は肌寒さを感じ始めた秋の暮れの頃。
俺にとっては唯一の家族である曾祖母を亡くし、天涯孤独の身となっておよそ半年が経過した、ようやく一人暮らしに慣れ始めた時期だ。
俺達2人の出会いは偶然と不幸と空腹、そして何よりも亡き曾祖母が残した因縁じみた絆によって発生したものだと思われる。
これが幸か不幸かどちらであるか?と問われると、果てしなく回答に困るところだ。
その問いは今に至るにあたっては、朝に太陽が昇って夜は沈むことのように「いる」ことが当然であるからだ。
俺達の出会いを語るにあたり、まずは彼女の視点から進めていこう。
それは人間である俺達には首を傾げるような内容であるかもしれないが、きっと神である彼女達にとってはごくごく普通の出来事なのだろう、そう思うことにしている。
≪コハルといふ神のこと≫
それは神無月から始まる恒例の祭りを終え、年末で忙しくなる年の瀬を間近に迎えた時期。
出雲大社にて11月下旬に始まる神迎祭から始まり、神在祭を経て縁結大祭へ至る一連の大祭。
関東八卦の一人として、有象無象の神々をまとめる所謂幹事という名の雑役係の任も、12年目である今年でようやくお終い。
最後の打ち上げを終え、久々に解放された気分で馴染みの狐と、その弟子とかいう兎の3人で飲み明かすこと3日。
不意に足元がおぼつかなくなった私は狐と兎に別れを告げ、久々に自らの守護する土地であり、家である社に戻ってきた。
縮地の法。多大に神力を消費するけれど、一瞬で空間を渡る術で。
遠く出雲の地から、関東は所沢へと飛び、目の前に広がるのは懐かしい野山のはずだった。
変わるはずがないと思っていた景色が目に飛び込んでくるはずだったのに。
「あれ?」
自身で呟く声が、全くの別人に聞こえた。
乾燥した冬の風が私の長い髪を撫でてゆく。鼻をつく匂いはしかし、かつての故郷の空気と異なった。
「あれ?」
再度、声に出す。
私の社は人里近くの里山の中。ひっそりと建つ、小さいが古い神社だ。
その姿はしかし、ない。
それどころか里山もない。山自体が消えている。
あるのは平らになった土地と、たくさんの人の家。
そう。
いつの間にか社どころか山も消え、拓かれたそこには人間達の家が立ち並んでいたのだ。
しかし、短期間にここまで地形が変わるはずが。
そこまで思って考える。
関東八卦に任命され、東西に走り回った12年。
その間に一度として「ここ」に戻っただろうか?
答えは否だった。
干支の一周する12年は、今の時代には長すぎる時間だったのだ。そして当然、それは人間自身にとっても長い時間。
私は懐かしい匂いを探す。私の知る、そして私を知る人間の匂いを。
まだかすかに感じることが出来たその匂いに、僅かな安堵を得る。
良かった、まだ生きている、と。そして彼女がいる限り、たとえ社がなくなったとしてもここは私の帰る場所なのだと確信することが出来るのだと。
ゆっくりだった私の足は次第に速くなり、やがて駆け足に。
住宅地を縫うように進み、公園を抜け、貯水池を渡り、高台へたどり着き。
その足が、止まる。
「あ」
匂いの元。
私の大切な人の匂い。そのある場所は。
墓地の中、いくつか立ち並ぶ墓石の1つからだった。
「アヤちゃん……?」
故人となったその人の名を呟く。
冷たい墓石からは当然、返事などない。代わりに家路を急ぐカラス達の鳴き声が耳に届く。
私は墓石の前で座り込む。
先だっての縮地の術の消耗もあるのだろう、帰る場所を失っている私は一気に力が漏れ出す感覚に襲われる。
薄くなる意識の中、私は人から元の姿に戻る感覚を受けながら、その場に崩折れた。
北西から乾いた冷たい風が吹いてくる。
俺は立てたコートの襟の下に思わず鼻から下をうずめる。
学校からの帰り道。右手には菊の花、左手には通学かばんと和菓子所である伊勢屋で買ったぼたもち3つ。
小雪がぱらつきそうな重たい空を見上げ、歩を早めた。
向かう先は、ばあちゃんの墓だ。
今日は一周忌。本来なら人脈の広かったばあちゃんの法要なので盛大にやるべきなのだろうが、面倒なことはするなという本人の希望と、残された俺にはそこまでの力はない。
なので放課後に一人、献花とお供えをするくらいのものだ。
「ん?」
立ち並ぶ墓石の中、目的の場所になにか茶色いものが落ちている。もこもことした、中型犬よりも小さなサイズのものだ。
「タヌキ??」
ばあちゃんの墓の前。それはコテンと横になっていた。
犬ではない、それは最近は見る事が少なくなったタヌキだった。
しゃがんでよく見てみる。逃げ出さないが、死んでいるわけでもない。
小さくお腹が動いているので寝ているのか気を失っているのか。
思わず手を伸ばして触ってみると、思ったよりも毛はさらさらしていた。野良犬や野良猫のような、ごわごわとした手触りではない。
「なんだ、飼い…タヌキとか??」
ぐー
音がした。
「タヌキの腹の音?」
ぐぐー
また音がする。俺は左手のぼたもちを見て、しかしそれは墓前に置いておくことにした。
代わりにカバンからビーフジャーキーを数本取り出して、タヌキの鼻面をつついた。
タヌキはわずかに目を開けて、ちらりと俺を見て、そして目の前のビーフジャーキーを見て、
ぱくり
一口で食べきった。
そして口をもぐもぐ動かしながらふらふらと4本の足で立ち上がり、俺を見上げる。
その目は「もっとくれ」だ。
「やっぱりどこかのペットかなにかかな?」
警戒色がないタヌキを見ながら、俺はカバンの中へ手をやる。
ビーフジャーキーの残りは残念ながら数本。本来なら帰り道で待っているあの子にあげるものだが、今日は仕方ないだろう。
俺はそれらをまとめてタヌキに渡してやる。
タヌキはむさぼるように食べつくすと、再度俺を見上げて小さく頭を下げた、ように見えた。
ぱたり
まさにそんな音をして再びその場に倒れるタヌキ。
「うーん」
俺はそんなタヌキを前に僅かに悩むが、仕方がない。
早々に献花を終え、ぼたもちを供えてタヌキを抱える。
「あれ?」
抱えたタヌキは思ったよりも軽くて、そしてお日様の匂いがする。
よく晴れた日に布団を干したときの、あの香りだ。香りは遠い日々の記憶を一瞬引き出した。
ばあちゃんではない、幼い日の俺を抱えてくれた人。
ほんの一瞬蘇った記憶はシャボン玉のように、あっという間に弾けて消える。
ばあちゃん以外の近しい人の存在は、たちまちに記憶の霧の中に消えた。
「誰だっけ、あれは?」
声に出すことで不意に思い出した過去の記憶が夢うつつではないことを自己認識する。
だができるのはそこまでだ。それ以上のことは思い出せない。
「ま、いいか」
改めて腕の中で眠るタヌキを見つめてから、ばあちゃんの墓の前で軽く一礼。
帰路に着く俺をばあちゃんが墓の下から笑って見ているような気がしたのは、さすがに気のせいだと思う。
俺のばあちゃんは正確に言うと母方の曽祖母にあたる。
曾孫の俺は3歳の時にばあちゃんに引き取られた。別に両親が死んだわけではない。
両親は揃って育児放棄をして行方不明。もともと両親ともに責任感がなく軽い性格だったそうで、多分今でもどこかでよろしく生きているのだと思う。
そんな俺はばあちゃんの1つ手で育てられてきた。一人でも何でも出来るように、と生きていくのに必要なことは一通り学んだと思う。
また、ばあちゃんはこの一帯の土地持ちでもあり、実力者の家系だったようだ。
そんな曾祖母は去年の今――12月の始まりに97歳で亡くなった。大往生だ。
ばあちゃんは手入れの大変な広大な屋敷と多くの株券や貯金などの資産、付近の山をも数個所有もしていたようだった。
聡明でいて厳しかった曾祖母は莫大な遺産について子孫がもめないよう、しっかりと手配をしていた。
土地や資産のほとんどを国に返納し、俺にだけは大学を出るまでの必要最低限の生活費を残しておいてくれていたのだ。
そんな訳で。
俺は現在、広すぎる屋敷を出払って近くのアパートに一人暮らしをしている。
「相当お腹が減っていたのかな?」
温めたミルクを腹いっぱいに飲んで再び寝込んだタヌキを座布団を敷いたみかん箱の中に入れて、俺は机に向かう。
明日は期末試験の最終日。苦手な地理の科目を重点的におさらいしておこうと思う。
ふと窓に目をやると、細かな雪がちらつき始めていた。
「今夜は寒くなりそうだな」
石油ストーブのメモリを少し上げて、俺は明日への戦いに備えるために教科書を開いた。
ぼんやりとした頭のまま、何か美味しいものを食べた記憶がある。
その後に誰かに抱かれて運ばれて。
暖かい腕の中は、アヤちゃんとは違う方向で懐かしく、大好きな匂いがした。
しばらく気持ちよく眠っていたら、目の前に暖かいミルクが用意されていて。
本能のままにいただいた後、なんだか安心してそのまままた眠ってしまった。
「ん?」
ねむけ眼で私は目を覚ます。
毛布が敷かれたダンボールの中に私は眠っていた。なんか「みかん」とか書かれているけれども??
寝転んだまま、両手両足を思い切り伸ばした。
寒さと霊気不足でかじかんでいた四肢は、今はしっかりと動く。
「さて」
ぽんと跳ねて、みかん箱の中から脱出した。
外は小さな台所。そこから玄関と、洋間と和室の2室とトイレとお風呂らしき扉につながっている。2LDKのアパートのようだった。
「さむい」
台所から覗く小さな窓から外を見れば、ちらほらと雪が舞い落ちていた。
私は鼻を利かせる。
洋間の方から、なんだか懐かしい匂いがした。自然、足はそちらへと向かう。
6畳ほどのそこには、1組の机と椅子。本棚とタンス、壁には学生服と思われるブレザーがかかっていた。
そして部屋の中央には布団が敷かれ、誰かが眠りについている。
私はその誰かの顔の方へと回りこむ。
薄暗い部屋の中、ぼんやりと見えるのは若い人間の子。
見知らぬ顔だけれど、良く知っている匂いがする。
そう、この子は間違いない。アヤちゃんが私に………
”なにかあったときは、まかせるよ”
そう言った彼女の表情は、かつて私を打ち負かした時のような猛々しさなど皆無で。
ここまで変われるものなのかと思えるほど、穏やかで。
そこまで変われる人間という種に、私は改めて興味を抱いたものだったっけ。
そして。
私を見上げる小さな人間の子。
力を入れたら壊れそうなほど小さくて暖かいその子の手を、私はおっかなびっくり握っていて。
「うん、わかった」
アヤちゃんに答えた私に、その子はにっこりと微笑んだ。
その時、私はどんな顔をしていたんだっけ?
「…さむい」
どこからか入ってきた風に私は現実に引き戻される。
目の前にはもこもことした暖かそうなふとん。
私は何も考えず、もぞもぞとその中に潜りこんだのだった。
時々見る夢がある。
幼い俺が、女の人に優しく抱きしめられている夢だ。
記憶に薄いけれど母親ではないと思う。あの人には俺に対する愛情のようなものはなかったはずだから。
その夢を見たときはなんとも言えない懐かしさを感じて目を覚ます。だからその日の朝の目覚めは驚くほどに良い。
幼い頃の記憶だと思うのだけれど、そんな女の人に知り合いはいなかった。
ばあちゃんの可能性もあるにはあるが、あの人は厳しさ9割だったので夢の中の彼女のような優しさ10割には程遠いと思う。
幼い俺を無条件に愛して守ってくれた。お日様の匂いのする女の人の記憶だ。
この日も久しぶりにその夢を見た。
抱きしめられて、晴れた日のお日様の匂いの記憶が蘇った。
とても落ち着く香りだ。
夢の中、彼女の顔を見上げる。小さく微笑みの形を作る口元に長い髪が見えた。
彼女は日の光を背負い、逆光でしっかりと見えない。しかし。
俺の頬にかかった長い髪の色は、亜麻色。
あぁ、そうだ。
遥か遠い記憶が蘇る。幼い頃に俺は確かに彼女に会っていた。
とても短い間だけれど『何か』から俺を真剣に守ってくれた彼女。
亜麻色の髪は、俺の中に残った夢のような残像に確かな輪郭を与えていく。
「ユウくん」
夢の中、彼女が呟く。初めて聞く、夢の中での声。
それは耳に触れて溶けてしまうような涼やかな音色で。
広げられた両腕に幼い俺は抱きしめられる。
強く。
強く。
強く?
服越しでも分かるふくよかな胸に顔全体をふさがれ、息ができない。
「んぐ、むぐ?」
苦しい、なんだ、これは??
そしてますます強く抱きしめられ、全く息ができなくなり。
「ぶはっ!」
何かを撥ね退け、俺は荒い息を吐いて跳ね起きる。
大きく息を吸い込みつつ、上体を起こして周囲を見回す。
2LDKのアパートは現実の世界の俺の部屋だ。夢の中じゃない。
「しかし、なんで息ができなかったんだ? 無呼吸症候群??」
たまたま観た健康を扱うTV番組で出た症状を思い出し、一つ大きく深呼吸。
大きく息を吸って、吐いて……。
「ふぇ?!」
息を吐きながら声が出る。
俺の視線は撥ね退けた掛け布団。そこに広がった亜麻色の海。
夢の中で見た、あの髪の色だ。そして目の前のそれは長い髪が布団の上に広がったものだった。
広がった亜麻色がさらりと動き、それらは一点に集束していく。
「うー、寒いー」
ぼんやりとした、しかし間違いなくこれも夢の中で聞いた声。
もぞもぞと動く掛け布団。やがてそれを纏いながら、俺の目の前で身を起こした人影一つ。
長い髪の間から覗く黒い瞳と目が合った。そこには驚く俺が映っている。
日焼けのない白い肌に、ちょっと垂れ目がちな瞳と、整った鼻。小さな口。
歳の頃は二十歳前後だろうか、俺より年上なのは間違いない。
目を見張る、と言うほどでもないけれど、間違いなく美人の部類には入ると思う女性が、そこにはいた。
彼女は夢の中と同じように小さく微笑み、こう言った。
「おはよう、ユウくん」
「お、おはようございます」
答える俺も、相当寝ぼけていたのだと思う。
彼女が掛け布団の下は何も着ていなかったことと、それに俺が気付いた瞬間には夢の中と同じく抱きつかれてしまい、再び酸素を求めて苦しみの中で眠気は吹き飛んでしまうこととなるのだが。
期末試験最終日。
その日の一時限目は地理だった。昨夜詰め込んだ知識は現時点ではまだ有効らしい。
とりあえず回答の記入に集中する。俺は記憶モノはそんなに苦手ではない。
考える必要があまりないことが、今の俺には救いだったのかもしれない。
60分の試験時間の最初の30分で全ての回答に記入を終え、俺は待ちに待っていた思考時間に移る。
今朝起こったことを改めて冷静に振り返ることは、誰にも干渉されない試験時間は絶好のタイミングだ。
俺はこんがらがった今朝の事象を1つ1つ整理しながら思い出す。
問題の根源、目覚めの際に同じ布団で寝ていた亜麻色の髪の女性は、コハルと名乗った。
なんでも俺のばあちゃんの知り合いらしい。そして俺とも面識はある、という。
俺に自信がないのは、彼女と出会ったのは小学校に入る前のことだからだ。
確かに言われてみて、まるっきり記憶がないとは言えない。
時々見る、夢の中の女の人。あのぼんやりとしたイメージは十中八九、コハルさんのことだと思う。
何故なら過去に確かに感じた香りが、彼女とそっくりだからだ。
と、ここまでは分かった。振り返ってみて、自分でも理解できた。
問題はここからだ。
彼女はどうやって部屋に入ってきたのか?
答えは、彼女はタヌキだったのだ。
いや、人をだます時に使う比喩ではない、昨日拾ったタヌキだ。
今朝、全く信じなかった俺の目の前で、彼女は実際に化けてみせた。
「ふむ」
やはり思考が停止してしまうのはこの部分だ。
なんでタヌキが人に化けるんだ?
いや、昔からタヌキは化けるとかそんなおとぎ話はあるけれど、実在するのか??
訳が分からない。
今朝はこの部分で頭の中が真っ白になり、しかし習慣とは恐ろしいもので時間ぎりぎりだけれどもしっかり学校には登校した次第である。
ちょっと問題を斜めから見てみよう。
仮にコハルさんがタヌキだったとしよう。その場合、何が問題か?
その1、勝手に布団に潜りこんで来ること。
問題だ、どうもあの人は俺のことを会った時の小学生前と同じ目線で見ている気がする。
その2、そもそも同じ部屋にいること。
それは昨日、俺がタヌキを拾ったためだ。早々に家へお帰り願おう。
その3、何でタヌキの姿でばあちゃんの墓の前で倒れていたのか? それも空腹で。
……なんだか嫌な予感しかしない。
そこまで考えて、ふと気づいた。
今朝は混乱したまま家を出てしまったが、コハルさんをそのまま置いてきてしまった。
それもあの人、なんか半裸だったし。
目覚めの映像と、その時の感触を思い出したところでチャイムが鳴り、試験終了の合図を担当教師が告げる。
俺は我に返って答案用紙を前へとまわし、日直の号令に合わせて礼をした。
試験以外の問題を内包した期末試験が終わった。
計4日間の最終日だった本日は、3科目で終了だったので今の時間はお昼前だ。
教室の中は長かった緊張から完全解放されて、妙にテンションが高いクラスメイトやら、途端に寝出す奴やら様々だ。
共通しているのは、一様に安堵感に包まれているということだ。
「どうした、浮かない顔してるね?」
そう俺に問うてきたのは同級生のサトミだ。切れ長の瞳を持つ整った顔に180cmの長身の彼は他学年の女子にも人気がある。
「あー、そう見えるか」
「正直なところは良く分からない。なんだか混乱しているように見えるけど」
細い目をさらに細めてサトミは言う。
「なんだか女性に関係していることにも見えるよ」
「まぁ、そうだなぁ」
正体はタヌキだが。
「タヌキ?」
「それもある」
「訳分からないな」
「俺自身も良く分からん」
俺は机の脇のカバンを持つ。
「ユウは昼はどうする?」
「ちょっと今日はこのまま帰るよ。家に戻らないといけない用事があるんだ」
「アヤコお婆様の一周忌、は昨日だったね。なにかあった?」
さすが幼馴染かつ、ばあちゃんが気にかけただけの能力を備えているだけはある。
相談したいのは山々だが、あまり混乱を広めるのは良くはないだろう。
気遣いの人でもある彼はそれを読み取ったのだろう。
「そう。落ち着いたら話してよ」
「あぁ、じゃあ」
「また明日」
俺はサトミに背を向け、教室を後にする。
家路への足取りは、主に不安を味付けの元にしているためにいつもよりずっと早くなっていた。
玄関の戸をひねる、と開いた。鍵はかかっていない。
中へ足を踏み込む。
住んで1年。さすがに慣れた2LDKには、割烹着姿の彼女がいた。
「おかえりなさーい」
「た、ただいま」
純な日本女性といった笑顔に思わず飲まれる。
「お昼ご飯、まだでしょう? チャーハン作ったよ」
「い、いただきます。ってちがーう!」
カバンをその場に落として俺は叫ぶ。
「なんでまだいるんですか? それにその割烹着は何??」
「実は帰る家がなくなっちゃってたんだよね。あと、割烹着は化けただけ」
パチン、と彼女が指を鳴らすと纏う白い割烹着は消え、色気も何もない上下灰色のジャージに変わる。
ちなみにそれは俺の寝巻き代わりのジャージだった。
「帰る家ってどこ?」
「山の中に小さな社があったでしょ? というか帰ってきたら山そのものがなくなってたけど」
フライパンの中のチャーハンを2つの皿に分けながらコハルさん。
彼女の言う山は、この半年で切り開かれて住宅地に生まれ変わっている。
「あぁ、ばあちゃんの遺言通りに持ってた土地は国に返上したんですよね。あと社は一ヶ月前に不審火で燃えたって聞いてますけど」
「……不審火?」
訝しそうに首をひねるコハルさん。
「ま、いいや」
いいのかい!?
「それはそうと、アヤちゃんってどうして亡くなったの?」
2つの皿を手にテーブルにつく彼女。仕方なしに俺も彼女の前に座る。
「ちょうど去年の今頃、郊外に大型のショッピングモールが開店記念を開きました。ばあちゃんは歳なのに原付で一人見に行きましてね」
「相変わらず元気ねぇ」
「開店セレモニーの時、後から分かった話なんですが大型ショッピングモール建設に反対していた地元の組合の過激なメンバーが爆弾を仕掛けたと脅迫していたそうです」
「え、もしかしてそれに巻き込まれて?」
「巻き込まれたというか。偶然爆弾を見つけたばあちゃんは、それを抱えて原付で人がごったがえす会場を暴走して、まだ人のいなかった屋上駐車場で爆発しました」
「………アヤちゃんらしいというか、壮絶な最期だったわね」
「運良く怪我人は他には出ませんでしたが、爆弾を仕掛けた犯人の思惑通りに建物が吹き飛んだんで開店が半年遅れましたけどね。あ、ちなみにばあちゃんはここでは怪我しただけでした」
「はい?」
「爆発の衝撃で持病のぎっくり腰を再発して病院に担ぎ込まれまして。その病院で突然、心臓発作で亡くなったんです」
「爆発関係ないわね」
「関係ないですね」
「……」
「……」
気がつけば、俺達はチャーハンを食べ終えていた。
薄い塩味にニンニクの効いた、なんだか漢らしい味だったのは食材が卵とニンジンだけしかなかったからなのかもしれない。
「それで、アヤちゃんが亡くなってからずっと一人で?」
そんなコハルさんの問いかけは食後に彼女が淹れてくれた番茶をすすっている時だった。
「ええ。なんだかんだと色々手続きとか大変で、あっという間に一周忌でしたよ」
そこで思い出す。
相続の中であの燃えてしまった古い社の記述があったことを。
もともと山の中にちょこんと建っていて、人から忘れ去られてしまった小さな建物だったが、あれについては何故か俺に相続させていたっけ。
手続きをしている間に山は切り開かれて住宅地となり、やがて小さな社は不審火で燃えてしまった。
再建等は面倒だったので、国に返納された土地と一緒に処理してしまったんだった。
「あの社、ばあちゃんが俺に相続させたのはコハルさんの為だったのかな」
相続させるものがほとんどなかった中の一つ。だからこそ、そこに何の意味があったのか考えるべきだったんだ。
「ごめん、コハルさん」
視線を隣に向けようとして、しかしそこには彼女の姿はない。
言葉と同時に、背中に伝わる柔らかく暖かな感触。
こつん、と俺の頭に彼女のあごが乗っかった。
「大丈夫ですよ、ユウくん」
「な、なにが?」
後ろから抱きしめられて俺の声は少し上ずる。
「アヤちゃんがいなくなって大変だったけど、もう大丈夫。私が一緒にいてあげますから」
「え?」
頭上から伝わる言葉は昔に。
「前に約束しましたよ。ユウくんが一人になってしまったら、必ず戻ってきてそばにいてあげますって」
”ユウくんが一人になってしまったら、呼んでくださいね。必ず戻ってきてそばにいてあげるから”
沈む夕日に顔を赤く染めて、幼い俺に彼女は確かにそう言った。
また近しい人が離れていくのを知ったから、記憶にあるその時の俺の視界が歪んでいたのは気のせいではない。
「一年遅れちゃったけど、ね。ただいま、ユウくん」
”それじゃ、行ってきます。ユウくん”
遠い記憶の中の彼女は寂しく微笑みながらそう言って、俺を後ろのばあちゃんに託した。
「おかえり、コハルさん」
だから俺は、自然とそう答えていた。
「そんな訳で一緒に住むことになってね」
「……それはちょっと、大丈夫かい?」
翌日の放課後。
試験採点中の冬休みまでの準備期間。俺は昨日までの出来事を幼馴染みのサトミに話していた。
案の定、サトミは難しい顔をしている。
「大丈夫というか、まー、タヌキだし?」
「いや、そうじゃなくて。仮にも怪異の一種だろう? 若い女の人の姿をしてはいるけれど、一つ屋根の下ってのは」
「??」
俺の普通の人が聞けば信じない話はしかし、サトミには事実として通じる。
それは彼の特殊な能力のためだが。
「一度、僕も会ってみていいかな? 何よりもユウが昔お世話になった人っていうところも気になるし」
「そう?」
そんな訳で久々に帰り道はサトミと同行することになった。
学校から駅までの距離。冬の合間にたまたま訪れた柔らかな日差しの下を歩きつつ、俺達は隣の駅で降りる。
駅前の有名カフェのチェーン店の前まで来たときだ。
「あれ、ユウくーん」
声が聞こえ、その方向へ振り向く。オープンカフェのテーブルの1つにコハルさんがいた。
彼女の前には同じ年頃と思われる女性が向かい合って腰掛けている。
コハルさんと対称的な、鋭い目つきのの女性だ。淡い紫色のスーツを纏い、暖かそうな黒い皮のロングコートを席の隣にかけている。
「コハルさん、お客さんですか?」
俺はサトミを伴って席まで行き、隣の女性を見つめる。
「うん、私の友人で、お社が焼けちゃったのを話したら来てくれたのー」
のんびり告げるコハルさんの隣、友人という女性は俺をまっすぐな瞳で見つめてから小さくお辞儀。
「よろしく、私のことはキツ姉さんとでも呼んでくれればいいわよ?」
キツ…ネ?
「ユウ」
俺の制服の裾を後ろから小さく引っ張るのはサトミだ。
「気をつけて、あの人は」
「ユウさん、だったかな? 面白い目を持った友人がいるものだね」
コハルさんの友人は俺の後ろのサトミを見る。
「もっとも君自身の方の面白いものを持っているようだけれども。類は友を呼ぶ、と言うしねぇ」
彼女はそんなことを言って立ち上がった。
「それじゃ私はこれで行くよ、コハル」
「よろしくお願いね」
皮のコートを肩にかけ、彼女は立ち上がり俺の隣をすり抜ける。
通りがかりに、俺の耳にこう囁いた。
「コハルの弱点はわき腹だよ」
うん、どうでもいい情報だ。
こうしてキツ姉さんと名乗るコハルさんの友人は駅の方へ去って行ったのだった。
デキるOLといった感じの女性の後ろ姿を見送る。
周囲に見向きもせずにまっすぐと前だけを向いて歩いていくその姿からは、大きな目的を前にした強い女性をイメージされる。
なんとなく、また会いたくはないと思う。きっとまた会うんだろうなぁ、面倒事と一緒に。そんな確信があった。
彼女の姿が人ごみに消えたのを確認して、振り返る。
ぽやっとした顔のコハルさんと、そんな彼女を見て溜息を吐いているサトミの姿があった。
コハルさんが思い出したようにサトミを見る。
「あら、お久しぶりね。前よりお元気そうで何より」
「そうですね、コハルさん。そういえばアレから十二年経ちましたしね。すっかり忘れていましたよ」
おや?
「2人とも知り合いだったの?」
俺の問いにサトミは困った顔を俺に向ける。
「いいや、僕も12年振りだよ。ユウはあんまり覚えていないみたいだけど、僕たちは彼女とは12年前に間違いなく会っているよ」
「なんとなく思い出してはきているんだけれど、サトミは良く覚えてるね」
「……いや。そうだね、僕もすっかり忘れてはいたんだけどね」
そして小さく首を傾げるコハルさんを一瞥した後、
「ある意味安心したけれど、違う意味で不安な点もあるよ」
なんだか分かったような分からないようなことを僕に言い、彼は肩にかけたカバンをかけなおす。
「じゃ、ここで僕は帰るよ」
「なんだよ、ウチに寄っていかないの?」
「うん。ユウの言っていたのが彼女だということが分かったからいいよ。むしろさっきのキツネの方だったらかなりヤバいと思ったけどね」
そう言って彼は駅の反対側に向かって行く。そちらに彼の自宅があるのだ。
「また明日。数学の宿題、忘れちゃダメだよ」
「言われて思い出した。それじゃ」
手を振って去る彼を見つめる俺の左腕が、柔らかい感触に不意に捉われた。
「さ、帰ろ。ユウくん」
にっこり微笑んだコハルさんが俺の腕を抱いて、引っ張るようにして前に出た。
と、その足を突然止める。
「その前に、今晩は何食べたい? お買い物していかないと。冷蔵庫がかなり寂しいことになってるわ」
「そうだなぁ、魚系が良いかな。ってコハルさん、チャーハン以外に料理できるの?」
驚く俺に、コハルさんは両頬を大きく膨らませた。
「誰がチャーハンしかできないって言ったのよ。今夜はちょっと本気出して作るから、覚悟しなさいよ」
そう言い放ち、コハルさんは俺の左腕を抱いたまま軽いスキップを踏んで進んでいく。
半ば引きずられるように歩を進めながら、俺はいつの間にか同居人になってしまった彼女の横顔を見る。
ただ楽しそうなその表情を見つめていると、自分が何を悩んでいたのか良く分からなくなってくる。
だから、俺もまた彼女の歩速に合わせていく。
まぁ、なるようになるんだろう。
いつの間にかそう思うようになり、やがて思考は今晩のおかずの品目といったありふれた内容に占められていった。
なお、この日の晩飯はコハルさんが言うだけあって、びっくりするほど美味しいカレイの煮付けを食べることになったのだった。
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