≪お雛様のこと≫
 「確かこの辺だったんだよな」
 薄暗いレンタルボックスの中、俺はかすかな記憶をたどって2つの木箱に到達した。
 人の頭くらいの大きさの木箱。その蓋には墨で達筆に「お内裏様」と「お雛様」と書かれている。
 それらを抱え、俺はレンタルボックスを出る。
 ばあちゃんが亡くなってから遺品整理は大部分が済んだが、どうにも処分できないものはやはりある。
 それらはまとめて近所のレンタルボックスを一つ借りて保管しているのだ。
 かつての鉄道貨物を利用したそれはかなり広い。がしかし、処分できない遺品はそんな広い貨物の中にみっちりと詰まっている。
 いつかは完全に処分しなくてはいけないのだろうが、何に使うか分からないものも多く手が出せない状態だ。
 「コハルさんなら分かるものもあるかもしれないな」
 現に今俺の両手で抱えているものは、彼女がいなければ決して出してくるものではなかったはずだ。
 俺はかなり持ちづらい2つの木箱を重ねて持ち直し、改めて家路に着いた。


 コハルさんがじっとTVを見ていた。
 正確には放送されているニュース番組の特集コーナーだ。
 つられて見てみると、大手かつ老舗人形メーカーによるひな壇の製作番組だった。
 コハルさんもタヌキとは言え女の子。やはりひな祭りには興味があるのだろうか?
 「ねぇ、ユウくん。前のおうちに立派なひな壇あったんだけど知ってる?」
 TVを見ながらコハルさん。
 「あったのは知ってるけど、面倒くさいから広げたところは見てないなぁ」
 「そっかー、アヤちゃんが若い頃は良く出してたんだけどねぇ」
 その会話はそれで終った。
 後日というか今日だが、俺は学校帰りにひな壇が確かしまわれていたと思うレンタルボックスに足を運んだ。
 全部は出せないけれど、せめてお内裏様とお雛様くらいは出して、コハルさんの喜ぶ顔を見ておきたい。
 ただそれだけだった。


 夕方だからか、交通量が多い道路脇を歩く俺は反対車線にこちら側へ歩いてくる彼女の姿を見つけた。
 亜麻色の髪を1つにまとめてくくり上げた、白いワンピース姿のコハルさん。
 その上から俺のジャンパーを羽織り、右手には買い物籠を提げている。大根の葉っぱが覗いているので今夜はおでんかな?
 「コハルさん!」
 俺は歩きながらも声を挙げる。彼女は足を止め、きょろきょろと辺りを見回し、俺に視線を止めた。
 途端、あ、とか、え、とかそんな形の口をした。
 意味が分かるよりも先に、俺は目の前に立っていたバス停の標識に激突する。
 2段重ねの木箱のお陰で前がしっかり見えなかったのだ。
 そして上に重ねてあった木箱がぽろりと、俺の手から落ちる。
 「あ」
 上の段の木箱――お内裏様の入っていたものだが、それは斜め前へ放物線を描きながら落下し、ごとりと重たい音を立てて車道に落ちた。
 次の瞬間にはなんとも間が悪いことに荷台に土砂を積んだダンプカーが木箱の上を走り去る。
 破砕音よりもエンジン音の方が大きかったと思う。
 後には見るも無残な木箱と、轢死体となったお内裏様の姿が残されたのだった。


 「んー、運が悪かったよね。でもその気持ちはありがとう」
 困った顔をしたコハルさんを前に、俺は苦笑いを浮かべざるを得ない。
 俺たちは部屋に戻り、修理の目処が立たないお内裏様をビニール袋に入れて溜息を吐く。
 「でもよりにもよって落としたのがお内裏様の方だとはね。逆だと良かったのに」
 「??」
 コハルさんの言葉に俺は首を傾げる。
 彼女は新聞に挟んであったチラシの1枚を取り、丁寧に何かを折っていく。
 俺はとりあえず無事な方のお雛様の箱を開けた。
 「あれ?」
 箱の中身は空だった、いや。
 「これは?」
 底の方に貼りついたように入っていたのは、赤い折り紙で折られたお雛様だ。
 それもかなり古いもののようで、お雛様の裾の部分は赤色が変色して朱色になってしまっている。
 「はい、ユウくん」
 言って横からコハルさんが白く折られたお内裏様を渡してくる。
 「これは?」
 「ずっと前に私ね、アヤちゃんのお雛様を壊しちゃったの。でもアヤちゃんは笑って赤い折り紙で代わりのお雛様を折ってくれたんだよ」
 テーブルの上に立つ、ばあちゃんによって折られた古くて赤い折り紙のお雛様。
 その隣にはたった今、コハルさんによって折られた白いチラシ製のお内裏様。
 「壊れちゃったのは残念だけど、お似合いになったのかもしれないね」
 そう言って微笑むコハルさんに、俺もまた同じ種類の微笑を浮かべていた。
 折り紙のお内裏様とお雛様は、この日からタンスの上に飾られている。


亜麻色のパレット
その2


≪春のこと≫
 コハルさんの白い鼻から鼻水が漫画の様に垂れていた。
 ズズーッとすするが、またプラリ。
 コタツに入って彼女と向き合い俺は見つめているが、とても物語のヒロインとは思えない言動である。
 「コハルさん、調子悪そうだね」
 「へくちっ!」
 小さなくしゃみで返事をする。
 「もしかして花粉症?」
 「んー、ぞうがな?」
 鼻声での返事。
 くしゃみ鼻水、それに鼻づまり。
 そして外は春一番と称して、どうも行き過ぎた感のある突風が吹き荒れている。
 近くの杉が多めに生えた山からは、目に見えて黄色い帯がぶわっさぶわっさと青空にたなびいていた。
 「タヌキも花粉症になるのかな?」
 俺のつぶやきに、コハルさんはティッシュを一枚つまんで鼻をかむ。
 「流行に敏感なんですよーだ」
 なんてことを言って、鼻紙をゴミ箱にシュート。入らずに畳みの上に落ちた。
 「杉の木も子孫繁栄に必死なんだろうね、ちゃんとゴミは拾って入れてよ」
 とぼとぼとコタツから出てゴミを拾うコハルさんは、ふと思い出したように俺に言う。
 「ユウくん、私……杉に傷物にされちゃった……」
 それも、なよなよとその場にくず折れながら涙目で。
 何言ってんの、この人。
 「こんな私だけど……貰ってくれる?」
 「のしをつけて返してあげます」
 「冷たい、冷たすぎるの、ユウくん。というかすごい寒い、頭痛い、頭痛が痛い」
 「ちょ、コハルさん? 言葉もおかしいし、頭もおかしいよ?!」
 そのままパタリと倒れた彼女の額に、手のひらを当ててみる。
 む。
 「風邪、引いてるんじゃないのかな?」
 「あー、そうなのかな? 風邪なんて引いたことないから分かんないわー」
 結局、コハルさんは丸一日寝込むことになった。
 治って曰く「ユウくんがおかゆ食べさせてくれたから幸せー」とのこと。
 それはきっとコハルさんが夢の中で体験したことだと思う、と俺は力説しておいた。


≪桜のこと≫
 学校からの帰り道。
 緩やかな上り坂の道で、俺は足を止める。
 先にいた女性は俺の視線に気がついたのだろう、こちらに振り返って微笑んだ。
 「お帰りなさい、ユウくん」
 「ただいま、コハルさん。こんなところでどうしたの?」
 問いに、彼女は顔を上に上げる。
 釣られて見上げれば、頭上の先に枯れた枝。
 坂道の両脇に植えられている、桜の木々の枝だった。
 「今日、東京では開花宣言出たそうなんですよ」
 「へぇ」
 枯れた枝かと思ってよくよく見れば、確かにそこには硬く閉ざしたつぼみがついている。
 あと数日、もしかしたら明日あさってにはこの坂道も例年通りに桜のトンネルと化すだろう。
 「お花見、来なくちゃですね」
 彼女の言葉に視線を戻す。
 「今度の週末あたりには咲いてるかな」
 「楽しみですねぇ」
 この桜並木だけではない。近所の公園や、ちょっとした桜の名所で名高い湖沿いの公園には出店も出るだろう。
 最近は暖かい日も続いている。コハルさんとのんびりと満開の桜を眺めながら各所を回るのも良いかもしれない。
 「ホント、楽しみ」
 再度呟く彼女の横顔。その心が読めた。
 「花見酒が?」
 「い、い、い、いえいえ、そんなことあるですよ?」
 「あるんじゃん」
 春の足音が大きくなってきている。


 数日後、頭上には満開の桜。
 時折、隣を過ぎ去る車が巻き起こす風で、ふわりふわりと桜色の小片が舞い散る。
 「なんだか、急に暖かくなったねぇ」
 「そうですね」
 隣を行くのはコハルさん。
 今日の天候は彼女の名の通り、小春日和だ。
 桜色のトンネルのさらに向こうには、きれいな青空が広がり、青と桜色のコントラストが美しい。
 思えば今年はおかしな気候だ。年々おかしくなってきている気がするけれど。
 つい先日までは真冬だったのに、急激に暖かくなってきて今日なんかは初夏の気温まで上がるという。
 「寒かったり暑かったり、忙しい天気だ」
 「でも良いこともありますよー」
 コハルさんはそんな俺の言葉にこう告げた。
 「こうして久しぶりのユウくんとのお散歩で、桜だけじゃなくて梅も見れるし木蓮も見れるし。いっぺんにまとめて観れちゃうなんて、お得じゃない?」
 確かに。
 季節が妙に早く過ぎたせいで、梅が散るより早く桜が咲き、桜が散るより早く木蓮や菜の花といった春後半に咲く花まで開花してしまっていた。
 「お得、かぁ」
 「そうそう!」
 微笑むコハルさんはいつもにも増して嬉しそうだ。
 そんな彼女を見れるだけ、確かにお得かもしれない。
 「ところでユウくん。明日はエイプリルフールだよね」
 言われて思い出す。そういえば今日は3月最後の日だ。
 「どんな嘘をつきます?」
 「そんなの今日言ってしまったら、明日の嘘の意味ないじゃないですか」
 「んー、それもそうか。あ、ほらほら、オオイヌノフグリも咲いてますよ!」
 手を引っ張るコハルさん。
 うん、多分明日つく嘘を今日ばらしても、きっと明日まで覚えていないだろうなぁ。
 引っ張られながら、俺は歳に似合わず無邪気な彼女を眺めてそう思う。
 そして、彼女がいなければこうして春の花を見ながら散歩したり、季節が早くなったなぁ、なんて思わなかったことだろう。
 「あのー、ユウくん?」
 いつしか自販機の前で足を止めるコハルさん。
 「花見しながらの一杯って、美味しいのよねぇ」
 「缶コーヒーにしなさい」
 「えー」
 コハルさんは花よりお酒、だったようだ。


≪流行モノのこと≫
 「じゃじゃーん!」
 そういってコハルさんが俺に見せたのは、手のひらサイズの長方形の塊だった。
 「いやいやいや、塊って…ユウくん、もうちょっと流行に乗ろうよ」
 なんでもiPodTouchとかいう、リンゴのマークの会社が世の中に放つ大ヒット商品とのことだった。
 とはいえ、コハルさんの懐事情から2年前に出た型落ち品とのことだけれど。
 「流行どうこうじゃなくて、衝動買いじゃ?」
 「そんなことありませんよーだ」
 なぜか額に汗しているコハルさん。
 「で。それでなにができるの?」
 俺はちゃぶ台の前で数学の宿題を進めながら問う。
 「えっとね、天気が調べられるよ」
 言われて俺は窓から外を見る。
 「晴れ、と」
 「あ、あとあと、温度とか、カレンダーとか、時計もついてるよ」
 「部屋の壁に温度計とカレンダーと時計もあるけどなぁ」
 「あぅ、あとは新聞も読めるしっ」
 「毎朝、ポストに入ってる」
 「うー、あとはねぇ……そうそう!」
 ぽん、と手を叩いてコハルさん。
 「パズドラできるよ」
 「……ふーん」
 それからというもの、時々iPodTouchをいじっているコハルさんを見かけたりするが、決まってパズドラをやっていた。
 どうやら結局はゲーム機に落ち着いてしまったらしい。
 猫に小判ならぬ、狸にiPodである。


≪新入生勧誘のこと≫
 アパートから少し歩いたところに、小さな稲荷社がある。
 その隣にはこれまた小さいが立派な藤棚があり、今の時期は微かな甘い香りとともに薄青の花を付ける。
 夕時、俺はその藤棚の下にあるベンチに腰かけ、カバンからビーフジャーキーの袋を取り出した。
 かさかさというジャーキーの入った袋の音とともに、今までならばすぐに寄ってきた「それ」はしかし姿を現さない。
 そう、姿を消して半年ほどになる。やっぱり、もう……
 「きゃ」
 小さな声に顔を上げると、藤棚の向こうに女の子が駆けていくのが見えた。
 ウチの高校の制服だ。しかし一瞬見えたその姿には見覚えはない。艶やかな肩まである黒髪が妙に印象に残ったが。
 少し遅れて、俺の着る制服と同じ男子が一人現れる。
 「やぁ、ユウ」
 「サトミか」
 幼馴染みの彼は軽く右手を上げると俺の隣に腰掛ける。
 「クロコに餌かい?」
 「んー、ここ半年見てないんだよなぁ」
 溜息一つ。それにサトミも困った顔をした。
 「そっか」
 彼は口にはしない。野生だし、寿命がきたのだろう、と。
 代わりに、
 「ずいぶん前だよね、拾ったのはここだったっけ」
 「うん。猫に咥えられてた小さな雛だった。まさかカラスの雛だとは思わなかったけど」
 それは10年程前。俺たちが小学校に上がった頃だ。
 この辺りを根城に駆け回っていた俺たちは、この藤棚の下で野良猫に咥えられた雛鳥を見つけたんだ。
 猫を脅かして運良く口から離したところで、俺たちは雛を確保した。
 「雛から育てたからか、人に慣れてたよなぁ」
 「いいや、僕には慣れてなかったよ」
 苦笑いのサトミ。そうだっけ?
 2人で雛にクロコと名づけてこの稲荷社の裏で育てたのだ。
 やがて成鳥して野生に戻っていったけれど、夕時には時々こうしてビーフジャーキーを抓みに遊びに来ていたものだった。
 カラスのクロコとのエピソードは色々あるが、それは機会があればここで思い出すとしよう。
 「ところでユウ。今年の新入生で女の子の知り合いっている?」
 不意に問うてくるサトミの質問に、俺は首を傾げる。
 「いいや、いないけど。どうしたんだ?」
 「さっきそこで、ユウを物陰からじっと見ていた女の子がいてね。襟の学章が紺色だったから新入生だったよ」
 先程駆けていった女の子のことか。ということはサトミに後ろから声をかけられて驚いて逃げたって感じかな。
 「大体その通りだけど、珍しく『視え』なくてね。ユウに好意を持っているようだったけど」
 「サトミにかかると、トキメキもなにもなくなるよなー。でもお前が『視えない』ってのも珍しいね」
 「その子の体質なのか、もしくはコハルさんみたいな存在なのか。気をつけたほうがいいと思ってね」
 「俺には特別に力とかないから、気がついたときには手遅れっぽいけどなぁ」
 「あー、コハルさん、なんか居ついちゃってるしねぇ」
 遠く、カラスの鳴き声が聞こえる。
 しかしそれは俺の知っているカラスのクロコの声ではなかった。


 「ただいま」
 「おかえりなさい」
 アパートの扉を開けると、割烹着姿のコハルさんがコンロを前にして返事してくれる。
 昆布出汁のどこかホッとする香りが鼻に流れてきた。
 「ん?」
 不意に俺に振り返るコハルさん。小さな鼻をくんくんと動かして近寄ってくる。
 「な、なに?」
 「なんか美味しそうな匂いがする……」
 俺の首筋辺りにまで鼻を寄せてそう言う。吐息がくすぐったい。
 あ、もしかして。
 「これのこと?」
 カバンからビーフジャーキーを取り出した。
 「あ、それそれ! でもそれっと普通のビーフジャーキーだよね?」
 首を傾げるコハルさん。
 「妙に美味しそうに感じるんだけど」
 「空腹は最高の調味料って言うからじゃない?」
 「??」
 コハルさんは覚えていない。
 俺と再会したばあちゃんの墓の前で、空腹に倒れたタヌキの彼女がビーフジャーキーをむさぼり食べたことを。
 「わー、なんかすごい美味しいわー。なんでだろ?」
 一本を口にくわえながら、コンロの前に戻るコハルさん。
 と、その足が止まる。
 「はて、なんかかすかに鳥の匂いもするんだけど」
 「ビーフジャーキーだから牛だと思うよ」
 「そうよねぇ。なんでだろ、鼻がおかしくなったのかな?」
 首を傾げつつ、彼女はおたまで鍋の中に味噌を溶かす。
 コハルさんの味噌汁は、とても懐かしい味がするので俺の好きな献立の一つだ。
 もっともそれを告げるのはなにか恥ずかしいので、まだ口にしたことはない。


 翌日の夕刻。
 うなーぉ、と猫の喧嘩声が聞こえてくる。
 うなー、うなーぉ、と複数だ。
 昨日サトミと話していた神社横の藤棚の下。そこを横切ったときに俺は見た。
 咲き誇る藤の花の下で、一人の女子高生が5,6匹の猫に囲まれていたのを。
 猫達にエサをやって可愛がっているという雰囲気ではない。彼女を囲んでいる猫たちは一定の距離をとって、今にも襲いかかろうとしている。
 どれだけ猫に嫌われているんだろう??
 そう思うが、制服から伸びる白い手足を見て、俺は公園に足早に踏み込んだ。
 猫の爪で傷だらけにされてしまうのをただ黙って見るのはどうかと本能的に思ってしまったんだ。
 「ほら、しっし!」
 一触即発だった猫たちは俺の乱入で緊張の糸を切られたのだろう、割とあっさりと散会していった。
 「あ、あの」
 「ん?」
 おずおずとした声に振り返る。
 ショートカットの黒髪が似合う、可愛らしいブレザーの少女。同じ高校の制服だ。襟の学章が紺色だから新入生を示している。
 初めて見る顔だが、なんとなく雰囲気が誰かに似ている気がする。
 「ありが、とぅ、ございました」
 俯いて、消え入るような彼女の声に俺は苦笑い。
 「それじゃ」
 カバンを担ぎなおして再び帰路に戻る。
 しばらく歩いていると、後ろに気配を感じて振り返る。
 先程の少女がちょこちょこと付いてくる。その様子はなんとなく小鳥が歩いているようなイメージを受ける。
 「なにか?」
 「あ、あの……私も家がそっちなので」
 そーだよねー。
 「同じ学校だよね、新入生?」
 しばらく歩きながら、俺は問う。
 「はい。1年F組です」
 若干後ろからの声にふと俺は昨日のサトミの言葉を思い出す。昨日見たのは、この子じゃなかろうか?
 「そっか。この辺じゃ見ないけど、引っ越してきたの?」
 そう言っている間にも、俺の住むアパートが見えてきた。
 「えぇ、ちょっと理由があってこの春から一人暮らしなんです。あのアパートで」
 指差す先は、俺の住むアパートだった。
 この時の俺は偶然ってあるものなんだなぁと、酷くお気楽な頭だったのだが、別に疑り深くても結果が変わるわけでもないので後悔はしていない。


 「そんなことがあってさ」
 「へぇ」
 帰宅後、コハルさんが作ってくれた晩御飯の煮込みうどんをすすりながら、俺は彼女に帰り道で会った一人暮らしの下級生について話す。
 ところが、だ。
 「知ってますよ」
 「へ?」
 「この間、引越しそばを持って挨拶に来ましたし。ずばり、これ」
 言って指差すのは、今食べていた煮込みうどん。
 いや、うどんじゃない。麺はうどんに近く太めだけれど、よくよく見れば。
 「これ蕎麦だね」
 うっすらとそば色をしている。太さもうどんほど厚くない。
 「でもあの子」
 思い出すようにコハルさんは言う。
 「ん?」
 麺から彼女に視線を向ける。コハルさんはちょっと考えるような仕草をしてから、しかし。
 「ん、なんでもない。高校から一人暮らしって大変ですねぇ」
 なんて言うものだから、溜息1つ。
 「俺はいつでも一人暮らしで良いんだけど」
 「……うどん、おかわりいります?」
 「そばだけどなー」
 コハルさんの神社獲得はまだまだ先のようだった。


 翌朝は週半ばの水曜日。朝はまだ眠気が残っている。
 眠気眼のコハルさんを置いて、アパートを出てからしばらくした頃。
 「おはようございます」
 後ろからそう声を掛けられる。振り返れば、昨日の下級生だった。
 「あ、おはよう。えーっと」
 そう言えば名前を知らない。
 俺の様子に気づいた彼女は同じような表情をはっと浮かべて、あわててこう言った。
 「そうですよね。私、烏丸です、烏丸クロコと言います」
 へ? クロコ??
 「あ、あの。先輩はいつもこの時間ですか?」
 彼女の名前から引っ張り出された存在を思い返す前に、おずおずとしたそんな質問が飛ぶ。
 先輩、かぁ。
 「うん、大体この時間かな。体育会系の部活入ってないから朝練とかないし」
 「先輩は、なんの部活に入られているんです?」
 と、そんな感じで。
 ふと浮かんだ疑問を考える間もなく、花のある登校時間になったのだった。


 我らが高校の東棟、その5階。
 地理準備室なる特別教室に、俺の在籍する部がある。
 いや、かつては部であったが規模が縮小されて今は同好会扱いだが。
 入り口の扉には『郷土研究会の見学はこちら』と手書きで書かれたA4サイズの紙が無造作に貼られている。
 ここ準備室には、授業に使用する地図やら教材に混じって、土器の破片といった狩猟石器時代の発掘品などが無造作に置かれている。
 そして俺を含めて4人の人間がいた。
 「んー、今日も来ないね」
 文庫本片手に俺の隣で椅子に腰掛けるサトミ。
 「そりゃあ、勧誘活動をしていないからさ」
 窓際でチェスをする3年の部長。中肉中背で厚い眼鏡の向こうの感情は相変わらず図れない。
 「一応、貼紙とかはしておきましたけど」
 俺は言うが、それに答えるのは部長とチェス板を挟んでノートPCを叩く3年の女子生徒。
 「貼紙見て入るような変わり者は、貴方達くらいじゃないの? はい、チェックメイト」
 「うぉ?!」
 そして相変わらず部長は弱いようだ。
 「勧誘活動ねぇ」
 「ちなみに君たちはどうしてこの研究会に入ったんだい? かつての部の頃の華やかさはないにもかかわらず」
 再試合すべく、駒を並べなおしながら部長は問う。
 「そうですねぇ」
 呟きながらサトミがこちらを見る。
 「そうだなぁ」
 出ても出なくてもよさそうな部活だったから、というのが一番の理由。
 そんなだからサトミはテニス部とかけもちだ。
 俺にとって、そしてもう1つの理由は。
 「それは……」
 「こんにちわ」
 ガラリ、と。
 不意に扉が開いた。
 「見学、良いですか?」
 静かな、それでいて芯は通っている女子の声。
 聞き覚えのあるそれに、俺は振り返って告げる。
 「いらっしゃい、烏丸さん」


 彼女は一礼して準備室に足を踏み入れた。
 「1年C組の烏丸と申します。よろしくお願いします」
 その様子に上級生である部長と副部長はやや驚きの表情を浮かべ、サトミはやや目を細めている。
 「えっと、なんの部活かの紹介は…」
 サトミの切り出した言葉に、
 「ユウ先輩から今朝お聞きしました。郷土史の掘り起こしを中心に活動されているとか」
 烏丸さんは俺の話をしっかり覚えていたようで、そう答えてくれる。
 とはいえ、朝の通学路で簡単に俺の所属するこの部活について雑談程度に話していたのだが、正直言って彼女のどの琴線に触れたのかがさっぱり分からない。
 まさか見学に来るとはなぁ。
 「今はどんなことをテーマにされているんですか?」
 俺に問うてくる。
 うーん、ここ最近のメインテーマというとやはり。
 「秋の文化祭に向けて、新田義貞公について調査しているよ」
 サトミが代わってそう答える。
 「というと、小手指ヶ原の戦いを中心に?」
 俺は勉強不足なのでよく分からないところが多いが、昔この辺りは戦場だった時があるらしい。
 「ふむ、なかなか有望な子が来たものじゃないか」
 部長が立ち上がる。その際にチェス盤を揺らしてバラバラに倒してしまうところが陰険だ。
 「有望な子はこんな場末の部活に顔出したりはしないんじゃないの?」
 言いながら副部長がチェスの配置を直していく。きっと自分にさらに有利なように並べているに違いない。
 「ちなみにここは他の部活とかけもちはOKなんでしょうか?」
 「ええ、問題ないわ。そこのサトミくんもテニス部とかけもちだしね」
 副部長の言葉に頷くサトミ。
 「烏丸さんは他にどの部活を考えているの?」
 俺のふとした問いに、
 「陸上部に強く誘われていまして。でも私はどちらかというと文化系の方が良いんですけどね」
 との答え。
 陸上部か。強く勧誘されているっていうと、多分新しく女子サイドの部長になったあいつか。
 性格も強引な印象があるクラスメートのとある女子を思い出しながら納得。
 「ところで烏丸さん。この部活のどの部分に興味があるのかな?」
 部長が彼女にそう尋ねる。彼女は不意に俺を見て、そして慌てて周囲を見渡してからこう答える。
 「今、私が暮らしている街が過去にどのようなことがあって今に至るのか。それを知らずに日々を過ごしてしまうと、気づくべきものに気づかなかったりするんじゃないかって、そう思うんです。
 びっくりするほど真面目な答えだったので、一同思わず拍手してしまったのは余談である。
 翌日、烏丸クロコの名で入部届けが提出されたことをここでご報告しておこう。


 放課後。
 4階にある教室の窓からなんとはなしに外の校庭を見つめる。
 体育会系の部活がそろそろ本腰を入れて練習を始めることだった。
 野球部のかけ声の中に、新入生独特の広域のそれが混じって聞こえてくる。
 「さて」
 俺は思考をまとめる。
 先日の郷土研究会の会合で次期会長として俺が任命された。
 2人いた3年生はこれからは受験勉強に専念することになる。
 俺が会長となった理由は明らかだ。サトミはテニス部と兼部している上に、エースでもある。
 そして烏丸さんは新入生だ。
 消去法である。
 さて、郷土研究会としてやらねばならないことがある。
 1つは秋の文化祭に向けての実地調査研究報告を冊子にまとめること。
 これは当研究会の伝統でもある。まだ時間はあるのでゆっくりやっていけばいいだろう。
 もう1つ。
 会員を増やすこと、だ。このままでは来年は烏丸さん一人になってしまう。
 彼女も陸上部と兼部しているので、必然的に消滅してしまう可能性も否定できない。
 ……まぁ、前会長曰く、
 「それはそれでいいんじゃないの? 時代のニーズってヤツだし。必要なら自然と人は来るもんさ」
 とのこと。
 かつてこの郷土研究会はこの近辺に数多くあった縄文時代の住居跡なんかの発掘を手伝うために発足されたものだそうだ。
 あらかた発掘の終わっている昨今はそんな仕事もなく、現役世代からはそんな出来事すら残ってもいない。
 「とはいえ、あと何人か欲しいよなぁ」
 烏丸さんが入ることがなければ、こんな悩みは持たなかったかもしれない。
 さすがに先輩として1年後に彼女一人残していくのは気がかりなのである。
 「ん?」
 視界の隅に見覚えのある姿が映った。
 分厚いマットと、その左右に柱が立ち、バーが横たわっている。
 俺の身長くらいはありそうなそのバーを背面飛びで越えていくのは少女。
 重力を感じさせないそのフォームは、まるで風に乗る鳥のようだった。
 「へぇ、うまいもんだなぁ」
 マットへ背中から落ちた彼女はそのまま立ち上がり、再び助走位置に戻っていく。
 その途中、ふと顔を上げた彼女と目が合った気がした。
 彼女はやや早足でスタート位置に付くと、再びバーを飛び越えるために駆け出した。
 その動きは先程より硬い、気がした。
 足をやや、もつれさせながら背面に飛び……そして頭でバーを跳ね飛ばす。
 「………」
 見なかったことにしよう。
 さて、思考を戻そう。
 とりあえずの動きとしては秋の文化祭に向けて、この地で合戦を行った新田義貞に調べながら、新入生を勧誘できればやっていく。
 そんな方針で行ってみよう、うん。
 行動を起こす前に新田義貞について調べてみよう。
 日本史の授業では名前は知ったが、詳細は知らない。鎌倉幕府を倒した人、だったか?
 あれ?そうすると足利尊氏は??
 「ふむ」
 俺は腰を上げる。この辺りの郷土史を絡めるためにも、図書室かもしくは市営の図書館に行ったほうがいいだろう。
 カバンに机の中のもの放り込み、俺は図書室を目指す。
 しばらくの間、放課後は学校と地元の図書館の間を行き来することになりそうだった。


≪七夕のこと≫
 家に帰ると1mくらいの小振りの竹の枝が俺を出迎えた。
 小振りながらも葉がもっさりと付いている上に、折り紙で作った飾りなんかも付いていた。
 それでそれが何か、思い当たる。
 「おかえりー、ユウくん」
 奥からコハルさんの声が近づいてくる。
 「ただいま。どうしたの、この竹」
 竹や飾りで埋まった玄関口からようやく抜け出した俺の前に、無地の短冊が差し出される。
 「はい、願い事書いて書いて」
 問答無用に手渡された短冊とサインペン。俺は無言でこう書いた。
 『コハルさんが早く就職先を見つけて家を出て行きますように』
 それを彼女はさっと摘んで。
 「はい」
 無地の短冊をもう一枚差し出した。取り上げた短冊は既に闇の中、コハルさんの握りこぶしの中、だ。
 「はいはい、分かったから。どうしたの、これ?」
 「近所のおじさんにもらったの。前にたけのこを譲ってもらった人ね」
 「ふぅん」
 「ユウくんの短冊飾ったら、アパートの外に飾るから。早く書いてね」
 コハルさんはノリノリだ。
 ちなみに彼女が書いたと思われる短冊は……随分上の方にあるな。
 急かすコハルさんを背中に、俺は願い事を書いて竹の先端の方に結び付けた。
 「何を書いたの、ユウくん?」
 「コハルさんは?」
 「秘密です」
 「じゃ、俺も秘密です」
 そう言いながら、竹を外に運び出す。夕方5時の空はまだ明るい。星が見えるのはまだ先のようだった。
 アパートの外、駐車場の脇に竹を固定。初夏の風を浴びてさらさらと心地よい葉を鳴らす音が聞こえてきた。
 と、同時に。
 風の中に重い、水分を含んだ香りを感じる。
 見上げれば西の空に厚ぼったい雲の塊が見えた。そして遠く聞こえ始めるのは雷鳴のそれ。
 「なんか雨、降りそうじゃ?」
 「いけない、お洗濯物取り込まなきゃ!」
 「それはまずい」
 俺達は急いで部屋に戻る。
 運良くかどうなのか、取り込み終わると同時にバケツをひっくり返したような雨が降り出したのだった。
 雨は半刻ほど降り続いたかと思うと、夕立特有の気まぐれさで降っていたことを忘れてしまうようなあっけなさで止んでしまった。
 「あーあ」
 俺は水溜りに浮かんだ短冊を拾う。
 それは俺の書いたものなのか、コハルさんの書いたものなのか分からない。水性のサインペンで書いていたので、願い事はもやっとしてしまって解読不可能だ。
 けれど。
 「あ、ユウくん。一番星ですよ」
 コハルさんの指差す先、夕立の雲はどこへやらスカッと晴れ渡った群青色の空の中にひときわ輝く星があった。
 コハルさんが短冊に何を書いたか分からないし、俺の書いたものも夕立ですっかりと消えてしまったけれど。
 「叶うといいですね」
 そう、彼女の隣で小さく呟いた。


≪夏祭りのこと≫
 近所の公園から質の悪いスピーカーの音声で盆踊りの曲が流れているのが聞こえてくる。
 「なんだ、町内会で祭りかな?」
 「え、お祭り?!」
 なぜか顔を紅潮させたコハルさんが興奮した面持ちで訊いてくる。
 「なんか尻尾出てるよ」
 「だってお祭りでしょ??」
 「祭りだと尻尾出していいのか?」
 コハルさんがパチンと指を鳴らすと、彼女の服装がラフなTシャツから紫紺の浴衣に早変わりした。
 「ほら、行こ行こ!」
 「晩御飯の用意をしないと」
 「お祭りでなんか食べましょ」
 俺は腕を引っ張られて音の方向へと足を進める。しばらくも歩かないうちに普段は静かな公園に到着。
 しかし今はいったいどこにこれだけの人がいたのか?と思うほどの老若男女の姿がある。
 ちょうちんが灯され、出店が並び、公園の奥の広場には3mほどもある太鼓台が設置されている。
 流れる盆踊りの曲はどうやらそこから出ているようだ。
 「ユウくん、ほらほら、ヤキソバにたこ焼き、リンゴあめもある!!」
 「テンション高いね」
 これまで見たことのない高いテンションのコハルさんを見ていると、逆にこちらのテンションは下がるのは何故だろう?
 「おっと、あんなところに射的もある」
 「あ、ちょっとコハルさん!」
 人ごみの中を彼女はすいすいと一人進んでいってしまった。あっという間にその姿が見えなくなる。
 「なんか妙にはしゃいでいたな」
 どうも祭という行事には彼女の気持ちを高ぶらせる何かがあるようだ。
 「タヌキだから?」
 一人呟いてみるが、別にタヌキだからとそんな理由もあるまい。でも昔から妖怪とかそういうのは祭が好きな傾向はあるようだし。
 そんな考え事をしていると、目の前の人ごみから押し出されるようにして出てきた少女と真正面からぶつかる。
 コツンと俺の胸に額をぶつけた彼女は慌てた様子で「すいません」と頭を下げる。
 「烏丸さん?」
 「あ、ユウ先輩。こんばんわ」
 それは部活の後輩であり、同じアパートに住む烏丸クロコさん。
 白いタンクトップに黒いショートパンツという、学校では見られないかなりラフな格好だ。
 「こんばんわ。お祭の見物?」
 「はい。そろそろ暗くなりそうなので帰ろうかと…」
 彼女がそう言った、その時だ。
 どん、どん!
 薄闇を孕んだ東の空に光の花が咲いた。
 「わ、きれい。花火?」
 「近所の遊園地の催しだね。ちょっと見に行こうか」
 「え?」
 「良く見えるところがあるんだよ」
 彼女の細い手を引いて俺は小走りに人ごみの中を潜り抜けていく。
 近所の遊園地ではこの夏の時期、土日だけ30分ほどの小さな花火大会を開く。
 地元の人間は労せず、見晴らしのいいところでそれなりの夏の風物詩を楽しめることでそれなりの感謝を払っていたりする。
 俺達は薄暗い遊歩道を抜け、小さな林とマンション区域を隔てる車道を眼下に見下ろす陸橋に到着。
 「わぁ」
 隣の彼女が思わず声を上げる。
 拓けた東の空への視界。
 暗紫色のキャンパスに描かれるのは、大小さまざまな光の花。ドン、ドンという重低音とともに咲いては消えていく。
 やがてクライマックス。東の空を光の花がいっぱい埋め尽くし。
 それは一瞬。全ては消え去り、元通りの暗い空となった。
 「あ」
 空を見つめていた彼女はふと我に返ると、周囲をきょろきょろと見回して。
 すぐそばに俺の顔を見出して、困った顔で目を細めた。
 はて?
 と。俺はまだ彼女の手をつかんだままだったことを思い出し、慌てて離した。
 「あ、あの、ちょっとユウ先輩!」
 慌てて彼女は言って、俺の手を掴んだ。
 「ごめんなさい。私、極端な鳥目なんです。ちょっと暗いとこの距離でも先輩の顔分からないし……」
 握る彼女の手の力が強くなる。
 「ここ、思ったより暗いんで一人じゃ帰れません」
 「なんだ、そんなことか。じゃ、帰ろう」
 「はい! あ、先輩が帰り一緒なんだったら」
 「ん?」
 微笑む彼女は言った。
 「もうちょっと花火が続いて欲しかったですね」
 ちなみにコハルさんは夜半にかなりいい汗をかいて帰宅した。盆踊りをコンプリートしたとかしないとか。


≪彼のこと≫
 僕がテニス部に所属しているのは純粋に「勝負」に近いからだ。
 今日は僕こと当摩サトミが僕自身のことと、最近気になることをお話しようと思う。
 僕はユウの幼馴染みであり、彼女の曾祖母であるアヤコお婆様に師事していた。
 僕の能力である読心の瞳は右目で対象となる者の過去を、左目で現在の相手の思考を読み取ることができるという厄介極まりないものだ。
 そんな僕の能力を察知し、能力の暴走ばかりでなくこの人間世界からの逸脱から救ってくれたのがアヤコお婆様だ。
 僕の両親は当時のことは幼い子供特有の妄言として切り捨てているが、そんなに簡単なものではない。
 なお現在でも僕の能力は依然として存在しており、なんとか制御できていると思っている。
 能力は常時発動タイプなので僕の周囲の人間に目を向ければ過去の映像と現在の思考が嫌が応にも入ってきてしまう。
 それらをいかに無視するかを僕は師に教わったので、こうしてまだ狂うことはないが下手をすると動物や無機物に対しても能力は発動してしまうことがあるからたまらない。
 で、僕がどうしてテニス部に入っているのかというと、テニスをしている時は瞬時の判断が勝敗を握る。
 試合中に相手の思考は見えてしまうが、それを判断するのと己の身体が動くかどうかは別だ。
 試合中だけは僕は常人と近い運動をすることができる、これが僕がテニスを続ける理由だ。

 そんな僕は師の孫であるユウとは幼馴染みである。
 ユウの思考は読みにくい。これは先天的なものではなく、僕の側に理由があるものだ。
 僕が相手の思考や過去が見えにくい場合、その理由の大部分は僕が心の底から見たくはない/見てはいけないと考えているからだ。
 だから師であるアヤコお婆様に対しては尊敬の念が深すぎる為に全く見ることが出来なかった。
 ユウに対しては、全然気付いてはくれないけれど好意があるからだ。一方で見たいと感じてもいるのでぼんやりとしてしまう。
 ユウは僕に何故自分と一緒にいるのか? もっと魅力的な女性と付き合ってみれば良いではないかと時々言うが、僕にとっては思考も過去も全て見えてしまう相手に興味はない。
 そもそもユウは僕にとって最も魅力のある人なのだが、幼馴染みと言う立場か、さっぱり気付いてくれない。

 高校生になりお互いに考えや立場も変わるかと思っていた。
 変化は確かにやってきた。それも複数、強力に僕が『視えない』相手がだ。
 まずコハルさんが帰ってきた。アレはアヤコお婆様が調伏した『神』に類する化け物で、僕の勝てる相手ではない。
 一時期、忙しいアヤコお婆様の代わりにユウの母親代わりを勤めていたことがあり、未だにノリはその頃のままのようだ。
 そのおかげで、ユウに対しての怪異関連の危険性は彼女によってかなり廃絶されるであろうとも思われる。
 そして彼女の友達という狐の怪異。コハルさんに負けず劣らずの力を持っており、むしろ性格的にこちらの方が危険かもしれない。
 僕の能力を暴走させてなんとか足止めができるくらいの力を有しているだろう。
 さらに兼部している、ユウのいる郷土研究会にやってきた新入生。住まいもユウと同じアパートという烏丸クロコだ。
 名前からしてアレなのだが、彼女には右目に映る過去がない。記憶喪失者、というわけでもなさそうだが。

 この世には見なくてもいい、汚い世界も存在する。
 ユウにはどうもそんな世界から伸びる手に引っかかる性質があるのだが、ここに挙げた3者がこれからどう絡んでくるのか?
 僕には視るという能力があるが人間の身でしかない。しかし視える以上、ユウを救う。
 きっとそれはアヤコお婆様が望む僕の能力の使い方なのだろうと、そう思う。

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