≪外敵上陸のこと≫
 暮れなずむ港町。
 赤レンガの倉庫街は観光客と思われる面々が数多く訪れ、ライトアップされた赤レンガの照り返しに人々の数は増えていっているようにも思われる。
 横浜港。かつて程ではないにしろ今もこの日本と外とをつなぐ入口の1つだ。
 夕闇の中、行きかう人々の顔の判別が難しくなってきたころ、それは現れた。
 影をそのまま立体にしたような存在が2つ。
 それは一瞥するだけならば、黒い人影と金色のそれにしか見えなかっただろう。
 その2つは人々と赤レンガ倉庫の合間をするりと抜けていく。
 ちょっと急いだ2人組といった感じで人々は見逃すが、その2つを正確に目で追っていた者達にとってはその速度が原付バイクほどのものであることを知っていた。
 明らかに「人の興味を逸らす」なんらかの術が、黒と金の人影に備わっているのは間違いない。
 「外人墓地の方へ向かうようだね」
 男の言葉に、女は厳しい視線を2つに向けたままその長い足を動かした。
 「追いましょう。ここでとどめを刺します」
 ガチャリと、女の腰から重たい金属音が鳴る。
 右に下げられているのは刀身が1mはある幅広の剣。かなりの重量があるはずだが女の動きは軽快だ。
 またその異様な外見から人々の好機の目を集めそうだが、先ほどの黒と金の人影同様に視線がそこに集まることはない。
 なぜなら影と同じように興味を逸らす術が彼女の周りに施されているからに他ならない。
 「あまり目立つ行動は避けてくれよ」
 追う男の左右の腰には小太刀が提げられている。こちらはなるべく目立たないように黒鞘に収まってはいるが、ここ日本では警察に見つかれば追われるのは間違いない。
 「そんなことに気を配ることはできない故に、期待には沿えないと思う。もっともアレを止めないとこの国は終わるぞ」
 駆けながら吐き捨てるように言う女に、追う男は小さくつぶやく。
 「認識されていない外来の吸血鬼など、この国においてはさほど力は振るえぬだろうに」
 仕方なしに付き合う感がその雰囲気から漏れ出していた。
 不意に一速足を速めた彼女に、彼は告げる。
 「追いつく前に、僕らの別働隊がまずは足止めしているよ」
 「足止めになればな」
 「そうだね、そのまま倒してしまうかもしれないなぁ」
 女はようやくそこで男を一瞥。しかしすぐに視線を前に戻し、さらに足を速めたのだった。


亜麻色のパレット
その3


 2人の男女は足を止める。
 人気のない外人墓地。そこに差し掛かったところで大きな一匹の黒い犬が2人を待ち構えていた。
 それは朧でいて脅威。殺気のみを身にまとわせた影で作られたぬいぐるみのようなものだ。
 「小癪な」
 女が一歩前に出て腰の大剣を引き抜いた。薄闇の中で刀身が鈍く月光に光る。
 「ハッ!」
 裂帛の呼気を伴い、彼女は身を前に倒しながら大剣で犬の影を下から上へと切り上げる!
 しかし大剣の軌跡は、まるで影にぬめりとられるかのように大きく弧を描いて地面へと突き刺さる。
 脇が空いた彼女へ、影の犬の牙が容赦なく襲い掛かる。
 だが彼女の華奢な身体に影が及ぶことなく、その影の犬の身は二条の光跡によって霧散した。
 男が彼女の二歩前に出ている。その左右に手には抜身の小太刀がそれぞれ握られていた。
 やや呆れ顔のその男を女は睨みつける。余計なことを、と言わんばかりの表情に彼は苦笑い。
 「行くぞ!」
 吐き捨てるように言う彼女が閑静な外人墓地に足を踏み入れて、数歩行ったところでのことだった。
 そこに追っていた2つの「影」があった。
 しかし、だ。
 二つのうちの一つである金色の人影は、頭から股まで一刀両断されて砕け散った。
 風に散る金色の影の向こうからは、腰まである長い黒髪の妙齢の女が抜身の日本刀を提げている。
 もう一方の黒い影もまた、まるで切り絵のように寸断されて夜の闇に消えていく。
 墓石の影からカチカチという金属の連結音を小さくあげながら、微笑みを浮かべた甚平を着込んだ青年が現れる。
 その手には1m程の刀身がある細身の刀が握られていた。
 追ってきた影が消滅し、足を止めた追跡者である女は消えていく2つの影を見て呟いた。
 「分身か。クドラクめ、やってくれる」
 「あぁ、道理で。あっけなさすぎると思いました」
 影を切った青年がやや高めの声でそう語りかけた。
 「分身がこの程度であれば、本体は大した力はないと思うけど」
 そう語るのは金色の影を切った女だ。
 「そもそも僕達が派遣されたのは対外的なメンツというか、義理というか、そんなところだろうしね」
 その後を引き継いだのは女に付いてきていた男だ。
 彼ら3人に追跡者である女は厳しい目を向けて言った。
 「吸血鬼クドラクを甘く見てはいけない。奴は我らの地では悪を凝縮させた存在なのだ」
 「しかしこの八百万の神がおわす異国である日本では、そう大した力は維持できないと思いますが?」
 答えるのは長刀を白鞘に収めた青年だ。
 「そもそもこの国に限らず、外の国の神や怪異は異国ではその認知度の低さから力は削がれます。それは貴女自身が良く感じているでしょう?」
 続けるのは太刀を背に戻した女。彼女の金色の目を見つめながらこう言った。
 「ねぇ、クルースニクさん」
 クルースニクと呼ばれた追跡者の女は、グッと忌々しく息を飲んだ。


 その地では太古より悪の存在である吸血鬼クドラクと、善の存在である勇者クルースニクが戦いを続けていた。
 それは互いに姿を変えつつ、全ての時代に渡って行われてきた。そして未来永劫続くものとされていた。
 だがその戦いの輪廻が今、断ち切られようとしている。
 今代の吸血鬼クドラクが海外へ「逃亡」したのだ。
 これまで続いてきた悪が隆起し、それを善が打ち滅ぼし、やがてまた悪が隆起する。このサイクルが切れたときに果たして何が起こるのか?
 そもそも彼女の母国で抑えていた善と悪のスパイラルが外の世界に漏れてしまった時、より巨大な悪が生まれてしまうのではないか?
 今代のクルースニクである彼女は逃げたクドラクを追ってここ日本にたどり着いた。
 クドラク征伐にあたり、この日本における神道の管理者に連絡を取り、協力を仰ぐことでクドラク上陸の際の討伐を狙ったのだ。
 結果は分身を囮にされて見事逃げられてしまったが、こんなことはクルースニクにとってはいつものことだ。
 必ず追いかけ追いつき、最後には討伐することがクルースニクという名のもとに約束されている。
 大きな運命の中、彼女は己の役目に満足していた。大きな悪の化身であるクドラクを倒せるのはクルースニクである自分しかいない、と。
 だが今、彼女のその意志は揺れていた。
 クドラクとその眷属の分身。それは決して弱くないはずだ。それも2体ということであれば、クルースニクである彼女でも苦労するはずだった。いや実際に母国における追跡の際、取り逃がした港においては自国にいる仲間の協力もあってなんとか今回と同じような影の分身体3体を倒したのだ。
 その際に彼女自身、ろっ骨を2本骨折して現在も修復中の身だ。
 それほどの力を持っていたはずの影分身を、この日本にいる協力者達は一刀の下に切り捨ててしまった。
 確かに異国の地では力は急速に弱まっている、それは間違いない。彼女自身、その身の内に秘めたクルースニクの力が急速に衰えているのを実感している。
 だがこうもあっさりと倒され、さらに「大した力はない」などと言われては敵であるクドラクながらも同郷の者として「そんなことはない」と言いたいところだ。
 「もしかして私達自身が弱いのか?」とも思ってしまうのは、まだ今代として16歳という若い身であるためであろう。
 
 
 4人は小太刀を操る男の運転で、閑静な屋敷に到着する。
 純日本風のその屋敷は漆喰の壁で周囲を囲われ、山林を背にしている。
 周囲は家もまばらだが、周囲は静謐に覆われていた。
 屋敷の主である甚平の青年を先頭に、畳敷きの一室にクルースニクを含めた一同は通された。
 大広間であろう、中央に置かれた大きな黒檀の座卓を囲んで腰を下ろす。
 「お茶をお持ちしましょう」
 不意に青年の傍らに着物をまとった女が出現して一同に告げた。
 その唐突な登場と、何より発せられる禍々しい妖気にクルースニクは思わず大剣を抜いて身構える。
 そんな彼女を一瞥した着物の女は青年を一瞥。彼の態度に変わらないものを見て取ってから殺気を放つクルースニクに小さく笑い、部屋を出ていった。
 他の2人は着物の女に特に構うようでもなく、その場で思い思いに落ち着いている。
 不承不承に金色の目の女はその場に胡坐をかいた。
 「さてクルースニクさん、でよろしいですか?」
 改めて、とそう付け加えて屋敷の主である青年が問う。それに彼女は小さく頷いた。
 「自己紹介をしておきましょう。私は大野 英一。研ぎ師をしています」
 研ぎ師、というのがなんであるか分からないが、彼女は首肯した。
 隣、港から一緒だった男が続ける。
 「僕は錦織 公平。英一と同じ大学生だ。一応払いの仕事ができる」
 その言葉にクルースニクは首を傾げる。目の前の青年とこの男、年が近いようには見えない。
 何年か浪人したのだろうか? 日本ではよくあることだと聞いたことがあるが…。
 「いえ、僕も公平も今年で20歳だよ。まぁ、彼は老け顔で30とか40とか言われることが多いけどね」
 「外人さんから見ても老け顔なのね」
 「うるさいよ」
 錦織は憮然と呟く。
 「で、私は三上 円城。表では剣道の師範をやってるわ。この2人の1つ後輩の大学1年生」
 よろしく、と三上は会釈。
 「ボクは小烏丸!」
 「ワタシは小狐丸!」
 不意に響く声。先ほどの着物の女のように2人の子供が錦織の左右に出現した。
 年の頃は5,6歳くらいだろうか? 似た顔つきでおかっぱ頭。半纏のような着物をまとっていた。
 2人ははしゃぎながら、大野にじゃれ付き始める。
 困惑の顔つきのクルースニクに、三上が小さく首を傾げてこう言った。
 「あら、貴女のその剣は具現化しないの?」
 「?? ちょっと日本語の意味が分かりません」
 流暢な日本語でそう答えるクルースニクに、三上は己の刀を鞘ごと背から外した。
 「ほら、起きなさい。髭切」
 囁くと同時、彼女の日本刀は着物を纏う少年の姿を取った。
 利発そうな大きな瞳が目の前のクルースニクを捉え、そして振り返って三上を見る。
 そしてその向こうで机に肘をついた大野と目が合い、赤面。三上の後ろに隠れてしまう。
 「AMAZING?!」
 思わず英語を発するクルースニク。
 「少しでも霊力や妖力を宿した物品は、ここでは意志を持った存在に具現化されるんですよ」
 告げるのは屋敷の主の大野だ。
 「裏の山にある人造の富士から霊力を引いてきていますから、この屋敷周辺は一ランク上の霊場になっているんです」
 見れば小烏丸と小狐丸の2人は、錦織の腰に差した2本の小太刀のようだ。彼の元から小太刀が消えている。
 「貴女の国ではあまりないことなの?」
 三上の質問に彼女は頷く。
 「面白いですね。地域における付喪神の概念が強いかどうかという点で、力の籠った物品の存在手段が異なっているということかもしれません」
 小太刀である2人の子供をあやしながら、大野はしかし厳しい表情でクルースニクに告げた。
 「表現手段を持たない故か、貴女の持つその聖剣はかなり力が弱まっていますよ」
 彼の言葉に、彼女は腰の大剣を手にする。
 特殊な配合比で鍛えられたアラド銀を刀身とする無銘の聖剣。彼女がクルースニクとしての使命に目覚めてから10年、ずっと彼女とともにあった力の1つだ。
 「そんなことは、ないと思うが」
 「そういえば僕の小太刀であっさり切れた影分身の犬が、アンタのその剣だと弾かれてたよな」
 錦織が思い出したように言った。
 「ちゃんとメンテナンスはしていますか?」
 大野に問われ、クルースニクは戸惑ったように言う。
 「血糊は…拭いてます、はい」
 なぜか畏まってしまう。大野は大きくため息1つ。立ち上がり彼女の前に座る。
 「ちょっと見せてください」
 「あ」
 大剣は彼女以外の者が持つと従来の重さ―――大人が3人で何とか持ち上げれるはずの重量を発揮する、はずだった。
 しかし重さを感じない彼女同様、奪った大野も重量は感じないようだ。
 「うーん」
 鞘を抜き、幅広の刀身を見つめながら彼は深く唸る。
 「運が良かったというべきか、クルースニクさん」
 「そう、ですか?」
 ちゃんと血糊をぬぐい取っていたのが良かったのだろうか?
 「あと数回霊的なダメージを受けていたら、折れてましたよ」
 ここ、と指さされた刀身の部分を見れば、うっすらと線のようなものが幾重にも表面に走っている。
 「それは折れていなくてラッキーという意味ですか?」
 「折れていたらもう直せませんしね」
 「それは私達、剣の死を意味するのよ」
 襖を開けて着物の女がお茶の入った湯呑みをお盆に載せ戻ってくる。
 「あなたも、剣?」
 「ええ、英一さんだけの剣よ」
 湯呑みをクルースニクの前に置いて着物の女は言った。
 「邪剣だけどね」
 「むしろ蛇剣ですわ」
 そうか、クルースニクは確信する。三上に答える着物の女は、蛇そのもののような瞳をしている。
 「この剣は鍛え直しておきます。料金は貴女の滞在費と一緒に協会の方に請求しますのでご心配なさらず」
 「え?」
 早々にクルースニクから剣を取り上げた大野は、自らを蛇剣と言う着物の女を伴って部屋を出ていってしまった。
 「ちょ、持っていかれると困る…」
 抗議を上げようとするが、すでに大野の姿はない。
 「大丈夫よ、彼テクニシャンだから。ね、髭切?」
 三上の同意を求める質問に、刀の少年はさらに顔を赤くしただけだった。


 机の上に広げられたのは鉄道の路線図。
 クドラクを取り逃がした横浜から関東のどこへでも行けてしまうことが改めて確認された。
 最近は私鉄の乗り入れなどもなされており利便性が良くなった分、クドラクがどこへ逃げたかも推測が難しくなってくる。
 「ちなみにここはどの辺ですか?」
 クルースニクの質問に錦織が指さすのは西武池袋線。「西所沢」と書かれた駅だ。
 横浜からは私鉄乗り入れで乗り換えなしで来れる範囲でもある。
 「ダウジングで調べてみます」
 言ってクルースニクが取り出したのは親指大の水晶。一方に紐がつけられている。
 紐の端部を持ち、水晶を垂らして路線図の上を探る。
 「うーん」
 「どこも揺れるな」と錦織。
 「魔力や妖力に反応してるんなら、そりゃ揺れるでしょ」
 三上は苦笑いでそう言った。なんでも特にこの関東の地には様々なモノ達が国内外から入り込んできており、それなりに共存しているのだそうだ。
 この屋敷周辺にも最近だが物理攻撃力ならばランクSクラスの妖物が住み込み始めたとか。
 なおダウジングではこの「西所沢」はかなり大きく反応している。
 「まいりましたね」
 「とりあえず上の方には情報流したから、何らかの網にかかってくるだろ。時間かかるかもしれないが」
 「それまでは地道に探していくしかないでしょうね」
 錦織と三上の言葉にクルースニクは大きなため息。
 「クドラクが何か大きな悪事を起こす前に、何とか見つけないといけません」
 使命に燃えるクルースニクを見つめる2人は「むしろ何か起こしてくれれば見つけやすいのだけれど」とはさすがに口にできなかった。
 「しばらくはこの大野の屋敷を自分の家だと思ってゆっくりしていくといいよ」
 すっかり夜が更けてしまった外を眺めながら、錦織は小太刀達を呼び戻しながらそう言った。


 山田うどん、とその店名が書かれていた。
 ぼちぼち埋まった客席の1つ。
 向かい合わせのテーブル席で2人の男が向かい合っていた。
 1人は黒いブルゾンを着た20代前半の黒髪の男。中肉中背でその顔は日本人よりも彫りが深い。
 どこか日本人離れしているが、ハーフやクォーターであるといえば納得してしまいそうな若者だ。
 もう1人は腰まで伸びた黒髪の若者。年の頃はブルゾンの男と同じだろうか。
 有名バンドのメンバーであると言われれば信じてしまいそうだし、外国のモデルと言われても信じてしまいそうだ。
 しかしささくれだったコールテンのコートを羽織るその姿は、どこか疲労に満ち満ちて活力を感じない。
 「あー、影が倒されたな、ハーリー」
 「ああ。なんかあっさりさくっとやられたな、クドラク」
 互いに机に突っ伏した。そこに店のおばちゃんが料理の載ったトレイを2つ持ってやってくる。
 「お待たせしました、パンチ定食のお客様」
 「あ、俺です」と答えるのはブルゾンを着たクドラク。
 「こちらはカレーセット」
 「はい、いただきます」
 丁寧にしっかりとした日本語で答える碧眼のハーリーに、店のおばちゃんはやや驚いた様子だが。
 「ごゆっくりどうぞ」
 営業スマイルで去っていく。
 「パンチってモツのことだったみたいだわ」
 「うまそうじゃん」
 「カレーも良さそうだなー」
 どこにでもあるような会話を交わしながら平らげていく2人。
 「しかしアイルの奴は大丈夫かな?」
 「どうせ検疫で引っかかって、予防接種させられて泣いて逃げたのは良いけれど、文無しに気づいて腹減って倒れてるんじゃないか?」
 「あー、ありそうだわ。まぁ、後で犬笛で呼んでみよう」
 しかしその口調からはあまり心配していないようだ。
 「ハーリーよ、これからどうするんだよ」
 「そうだなぁ、まずはなんとか戸籍取得してアパートでも借りてバイトして、それからアキバ行こう」
 「その「なんとか」が大変そうだなぁ」
 「天下のクドラクとあろうものが弱音かよ」
 「異国だから力弱まっててさぁ。まぁ、催眠術とかでなんとかするよ。俺もアキバ行きたいし」
 どうも大した野望はないようである。


 アパートの前の駐車場に灰色のこんもりしたものがあった。
 それが何かを認識するのに、とりあえずは撫でてみることから始めた。
 「あぁ、犬かぁ」
 灰色の大型犬。顔つきはシェパードに似ているが、なんていう犬種なのだろうか?
 撫でても反応しない。浅く息をして、片目だけ開けていた。いや、違う。
 赤みを帯びた右目と、左目は切り傷のようなもので閉じられていたのだ。どうやら古い傷のようだが。
 そしてこの犬が動かない理由が分かった。
 ぐぅぅぅぅ〜〜〜〜
 大きな腹の虫の音がする。あぁ、似たようなシチュエーションを最近、祖母の墓の前で体験した気がする。
 カバンの中には未だに烏のクロコにあげようと持っているビーフジャーキーがある。
 それを取り出し、犬の鼻先に近づける。
 「わふ」
 一口で食べた。
 もう一つまみ。
 「わふ」
 ぺろりと平らげる。しかしその大きな体にこんなおつまみ程度では足りないようだ。
 「ちょっと待ってて、家になんかあると思うから」
 部屋の鍵はかかっている。コハルさんは出かけているらしい。
 俺は昨夜の残り物である肉じゃがを保温でほんのり暖かいご飯の上にかけて、灰色の犬の前に置いた。
 犬は立ち上がり、俺を見てそして目の前のご飯を見る。
 そして俺を見て、動きを止める。よくできた子だ。
 「よし」
 告げると犬は一心不乱に食べ始めた。
 改めて見ると、首輪がついている。小さなプレートが提げられており、そこには、
 「A・I・L」と彫られている。
 「ふーん、アイルって読むのかな?」
 「わん!」
 ご飯から顔を上げて、まるで「そうだ」とでも言うようにその犬は吠えた。
 ぺろりと食べつくした灰色の犬は、お礼と言わんばかりに俺の頬をぺろりと舐める。
 「しかしどこの飼い犬だろう?」
 その時。ピクリと犬の両耳が動いた。まるで何かが聞こえたかのように。
 「わふん!」
 俺に向かってまるでお辞儀をするかのように一声鳴くと、隻眼の犬は走ってどこかへ行ってしまった。
 「保健所に捕まらないといいけどなぁ」
 その後姿を見つめ、俺は小さくそう呟いていた。


 灰色の犬が駆け抜けていった先は小学校の校庭だった。
 子供もまばらな広いそこには、黒と金の人影がある。黒の男性の手には小さな笛が握られていた。
 「お、来たな」
 「思ったよりも元気そうだ」
 2人の男たちがそう言葉を交わしている間に、灰色の犬は彼らの前に座る。
 そして、一瞬の後に人の姿を取った。
 肩まである灰色の髪と、女性にしては長身で体格はしっかりしている。
 髪と同色の灰色のロングコートに身を包み、左目は黒い眼帯で覆われていた。
 「アイル、参りました」
 敬礼をする女性。彼女の目は若干背の低い黒いブルゾンの男――クドラクに向けられている。
 そして鋭いその視線は隣の金色の髪の男に向く。
 「ハーリー、失礼はなかったか?」
 「ありませんありません。というかアイルさん、お腹減ってないの? 何か食べたの?」
 「戦士たるもの、空腹など気力で抑え込めるわ!」
 先ほど食べたことをおくびにも出さず、叱咤するように答えるアイル。
 「主よ、無事に上陸できた今、次なる行動はいかに?」
 再び視線を戻してアイルは急かすように問う。
 クドラクはやや困ったように、こう答えた。
 「あー、とりあえず今日はもう遅いから。どこか一夜を明かせるところをまずは探そうか」
 日も沈みかけの校庭で、3人は揃って外へと動き出したのだった。


≪邂逅のこと≫
 クルースニクの朝は遅かった。
 どうもクドラクを追う旅の疲れがどっと出たようだ。
 翌朝、彼女が布団の中で目覚めたのは昼前のことだった。
 「うぁ??」
 木の節目のある天井。一瞬見慣れない風景に、今自分自身がどこにいるか分からなくなる。
 上体を起こし、薄明るい周囲を見渡す。畳敷きの床に布団を敷き、自身はその上で寝ていた。
 木造の柔らかな印象を受ける部屋の中、彼女の意識は覚醒する。
 「そうだった、ここは日本。クドラクを追って私はここまで来たんだ」
 布団から這い出し、枕元に置いた己の服装に着替える。
 母国の武装はこの国においては目立つ為、簡素なTシャツとジーンズを用意してもらっている。
 そして常に自らの脇に置いていた愛刀を探して、見つからないことに気付く。
 「そうか、この屋敷の主に渡していたのだったな」
 一人ごちる。無銘の聖剣である己の武器は消耗を指摘され、修理に出しているのだった。
 手持ち無沙汰を感じつつ、彼女は襖を開ける
 途端、初夏を孕んだ日差しが彼女の白い肌を刺した。うっすらと汗がにじんでくる。
 右手の方から気配がする。
 彼女は廊下を行き、やがて1つの襖の前で足を止めた。
 「どうぞ」
 そう中から声がかかり、彼女はいぶかしんだ末に両開きの襖を開く。
 そこには一人の女性と一人の少年がテーブルを前に正座していた。これまでに会ったことのない顔だ。
 声をかけたのは女性の方のようだ。ややきつめの瞳をクルースニクに向けている。
 「ようこそ、日本へ。外国の救世主さん」
 そう告げた彼女の口調はからかっているように聞こえる。
 クルースニクはテーブルを挟んで2人の前に座る。
 「私はクルースニク。すでにご存知のようだが、私は貴方方を知らない」
 「失礼しましたわ。私は……そうね、むしろ貴女の敵であるクドラクさんサイドに近い立ち位置かしら」
 「??」
 クルースニクはやや警戒するも、彼女の言葉をそのまま受け取らない。
 目の前の女からは特にこれといった強い殺気を感じないからだ。
 「んー、口で説明すると分かりにくいから」
 と、女が小さく微笑んだその時だ。
 彼女から発せられる膨大な妖気に、クルースニクは飛び跳ねるように身構えた!
 「なっ!」
 思わず襖を背にするほど飛びのく己に気付く。目の前の薄笑いを浮かべる女から感じる妖気――魔力の気配は、これまで宿敵クドラクから感じていたものを遥かに超えていた。
 不意に女の後ろの襖が開く。
 「何を妖力解放してるんです。物騒ですよ」
 そこにはクルースニクの愛剣を両手に持った大野の姿があった。
 「いえね、口で説明するより分かりやすいと思ったから。私が狐の妖物だって言ったって信じてもらえないでしょ?」
 「狐? 人ではなかったか」
 クルースニクの言葉に女から妖気が嘘のように消えた。
 「で、こっちの子は兎ね」
 「よ、よろしく。浩二郎と申します」
 ペコリを頭を下げる彼は、まだ12,3くらいに見える。隣の女と共に、とても人ではないと思えない。
 「なるほど、だから人の側ではないクドラクに近いということか」
 クルースニクの言葉を聞きながら、狐の妖怪はテーブルの上のお茶を飲む。
 「それで大野さん、今日のご用件は?」
 狐の女がクルースニクの隣に腰を下ろした大野に問う。
 その前に、と彼は聖剣をクルースニクに渡した。
 「正直なところ、貴女ともどもしばらく休んで力を回復させなくては本調子にならないと思います」
 聖剣を手にしたクルースニクはしかし「あれ?」と声を挙げる。
 「なんだか軽い」
 ついでに剣から力が己に流れ込んでくる気配も感じる。
 大野はそんなクルースニクの様子を横目で見つめてから、目の前の2人の妖怪に向き直った。
 「それで私からの用件というのは」
 「クドラクという吸血鬼の居場所を探して欲しい、ってことね」
 「話が早い」
 「でもあの吸血鬼には人狼と人虎の2人が護衛に就いているわ。正直なところ」
 狐の女はクルースニクを値踏みするように見る。
 「ちょっと今の彼女では勝てないと思うわ」
 「そんなことはない」
 そう叫ぶのはクルースニクだ。
 「現にここまで追い詰めている」
 「彼らの目的地がここだっただけじゃないの?」
 「何故彼らの目的地が母国から遠く離れたこの国なのだ?!」
 「遠く離れているから、じゃないかしら?」
 狐の女は言う。
 「貴女達が母国ではどのような立ち位置かは正確なところは分からない。この国ではそれ故に貴女達の認識が薄いわ」
 「認識が薄いということは本来の力は発揮できない。むしろ吸血鬼という特徴を持つクドラクや、彼の従者である人狼の方が認知されているからね」
 大野が続けた。
 「彼らの目的が何かは良く分からないがこの国は八百万に神が宿る故に、クドラクのような妖気を持った者もあまり目立たなくなってしまう。だからこそ、彼女を招いたんだけれど」
 「居場所を見つけて襲撃したとして、当の本人が相手より弱かったらまた逃げられるだけですもの」
 肩の力を落として狐の女。
 クルースニクは愛剣を握り締め、立ち上がる。
 「弱い弱いと! 我が力、見くびっているぞ」
 「じゃ、試してみましょうか」
 狐の女はそう言うと、隣の少年に目を向けた。
 「へ?」
 少年は兎のような大きな瞳をぱちくりとさせてから。
 「えぇーー! なんで僕が?!」
 そう叫んだのだった。


 畳敷きの客間で2人は対峙する。
 1人は若い女。金色の長い髪を持つ一見華奢な体格だが、背負った武骨な両手剣がなにかの冗談のようにも見える。
 もう1人は少年。目の前の彼女をやや見上げがちに、おどおどした表情できょろきょろしていた。
 「ルールは簡単」
 告げるは少年の隣にいる女性だ。
 「範囲はこの屋敷と裏山。30分以内にこの子を捕まえれば貴女の勝利」
 ぽん、と彼女は少年の頭に手を置いた。びくりと少年は驚くように震える。
 「捕まえたらクドラクの居場所を?」
 「ええ、教えてあげるわ。ただし捕まえられなかった場合は」
 狐の女性はクルースニクの隣の男に視線を投げる。
 「そうですね。しばらくはクルースニクとしての力の回復と増強をしていただくために、私の訓練メニューにお付き合いいただきますか」
 隣に座る大野がそう言った。
 「それでいいですか?」
 問う彼に、クルースニクは強く頷いた。
 「……ここに僕の意見はないですよね」
 「浩二郎くんには見事逃げきったらプレゼントをあげますよ」
 落ち込む少年に、大野は苦笑いでそう答える。
 「じゃ、浩二郎が逃げてから10秒後にスタートね、よーい」
 浩二郎は狐の主人の言葉に慌てて周囲を確認。
 「ドン!」
 狐の彼女が告げると同時、タッと開かれた障子の向こうに風のように走り去っていった。
 それから10秒後、クルースニクはスタートする。
 早速だが結果を言えば、浩二郎は逃げ切った。
 クルースニクの調子が悪かったわけではない。そもそも分野が違うのだ。
 兎の化身である浩二郎はその能力は「逃げ」に特化している。
 戦闘に特化した能力を有する勇者たるクルースニクでは追跡するだけでも精一杯だ。
 辺り一面を焦土に化してもいいというのであれば浩二郎に手傷くらいは負わせることはできただろうが、さすがに滞在先の家や土地に損害を与えないことくらいはクルースニクにも配慮はある。
 故にこの「鬼ごっこ」の提案を飲んだ時点でクルースニクの負けは確定していたのだった。


 「なんというか、盛り上がりに欠けるショーね。流血もないし」
 「流血って……僕が狩られる前提じゃないですか」
 「ご苦労様。次来た時に良いモノを用意しておくよ」
 「え、本当に何かくれるんですか?! ありがとうございます!」
 そんな3人の会話をクルースニクは肩で息をしながら聞いていた。
 この30分ではっきりと分かったことがある。
 「最初からクドラクの居場所など教える気はなかった、な」
 「そんなことないわよ、浩二郎が捕まるくらいだったらアイツらを逃がさずに倒せるだろうし」
 「ともあれ、約束通りにしてもらいましょう」
 大野の薄い笑みに、クルースニクはただただ嫌な予感しかしない。
 「分かった。私は何をしたらいい?」
 力を落とした彼女に、彼は頷いてこう言った。
 「貴女、年齢でいうといくつです?」
 「クルースニクに年齢などない」
 「いえ、その肉体の年齢です」
 「……17だ」
 「では高校生ですね。明日からここの地元の高校に通ってもらいます」
 「はぃ? なんで??」
 「最初に言ったでしょう。クルースニクとしての力の回復と増強の為です」
 「??? 理由が分からないのだが」
 大野は大きくため息をついて続ける。
 「貴女の中のクルースニクとしての意識と、その肉体自体が同調していません。そのズレを解消することで能力の出力は大幅に改善されるでしょう」
 「そう、なのか?」
 「要は年相応のことをしばらくしておけ、ってことかしら?」
 狐の彼女は興味深そうにそう言ったのだった。


 月曜日の朝。すっきりと晴れ渡った青空を見上げながら登校の途を往く。
 日曜日の夕方、いつも恒例のアニメを見てしまうと翌日が来るのを恨めしく思いもするが、こう気持ちのいい天気だと一週間を頑張ろうという気にもなる。
 「おはようございます、ユウ先輩」
 「おはよう」
 同じアパートのクロコさんが追いついてくる。
 日常となりつつあるいつもの朝。
 しばらく行くと見えてくる公園で、日常ではない光景が見て取れた。
 「もぅ、なんなの! やめてってば!!」
 そんな女性の叫び声と、
 「「カァカァ!」」
 烏の鳴き声だ。見れば公園内を一直線に走る女子高生に向かって、後ろから3羽の烏が急降下アタックを連続して炸裂させていた。
 図にすると、→↓×↑という感じである。古い言い方をすれば烏によるジェットストリームアタックだ。
 「ゴミ漁りをジャマしたんですかね?」
 「月曜の朝だしねぇ」
 毎週月曜日は生ごみ回収日である。
 「でも荒らされるのを見て放っておくのも人としてどうかと思う」
 「そんなもんですかねー」
 クロコさんはどちらかというと烏の方をもっているような気がする。
 逃げる女子高生はこちらを見つけると、進路をまっすぐこちらに向けてきた。
 見ればウチの制服だ。が、髪はストレートの金色。顔立ちはどこか東欧風な上に、体つきも同年代の日本人離れしている。
 「あんな人、ウチにいたっけ?」
 「さぁ? 私もまだ3か月くらいなので分かりませんよ」
 「た、助けて!」
 駆けこんできた彼女は俺とクロコさんの間に割って入る。途端、3羽の烏は上空を2度ほど旋回すると、舌打ちするように数度鳴いて去って行った。
 「はぁ、はぁ、日本の、鳥は、怖い、なにが、なんだか」
 両ひざに手をついて、金髪の彼女は息も絶え絶えにそう呟いた。
 「朝から災難だね」
 「同じ学校みたいですが、外人さんですか?」
 クロコさんの問いに、彼女はしばらくして息が落ち着いてから答えた。
 「はい。今日から日本の学校に短期留学で通うことになったク、クルーニといいます」
 「へぇ、日本語上手いですね」
 「えぇ、しっかり勉強しましたから」
 答えるクルーニさんは青い目を微笑ませてそう言った。


 学校までの道中、話を聞くところによるとクルーニさんは中央ヨーロッパのスロバキアからきたそうだ。
 スロバキアは俺の親の代では共産党体制だったチェコスロバキアで、隣国にはウクライナ、ハンガリー、オーストリアがある。
 正直なところ、あまり馴染みのない国だった。
 「何でも訊いてください」
 そういう彼女に、
 「そうだなぁ、例えばどんな料理が名物?」
 「そうですね。ブリンゾヴェー・ハルシュキなんかが家庭でよく食べますね」
 「?? それって肉系? 魚系?」
 そう問うのはクロコさん。
 「じゃがいもと小麦粉のニョッキに羊のチーズから作ったソースをかけて、カリカリにしたベーコンをトッピングした料理です」
 「けっこうコッテリしてそうな…」
 「あとはシュニッツェルとか。これは日本でいうカツレツみたいな感じです。土地柄、お肉を使った料理が中心ですね」
 言って懐から取り出した携帯電話を操作し、画面を見せてくれる。
 そこには今言っていたハルシュキの写真が写っていた。説明の通り、こってりしつつも美味しそうだ。
 「なるほど、変わった料理だけど作れなくもなさそうだね」
 「え、ユウ先輩、お料理できるんですか?」
 「そりゃ、できるよ。大抵のものは作れる」
 答えると二人から妙に尊敬された視線を受けることとなった。近い将来、何か作られせられそうな予感がする。
 そんなこんなで普段とは違った登校となったが、クルーニさんとは職員室前で別れ、クロコさんとも昇降口前で別れる。
 下駄箱から上履きを取り出したとき、後ろから声をかけられる。
 「おはよう、ユウ」
 「ああ、おはよう、サトミ」
 振り向くと幼馴染の彼が眉間に小さな皺を寄せていた。
 「どうしたの?」
 「いや、誰か変わった人についさっきまで会ってた?」
 「変わった人というか、今日から来る留学生にね。よく分かったね、どこかから見えた?」
 「……留学生か。偶然か?」
 なんかぶつぶつと思考の海に突入し始めるサトミ。
 「おーい、サトミ。こんなところでぼーっとしてると遅刻するから。考え事は教室でな」
 「あ、ああ大丈夫。思い過ごしだろうさ」
 「??」
 サトミの言葉に首を傾げる。と同時に朝のHR前の予鈴が校舎に響き始めた。
 「一時限目の数学の宿題はやった、ユウ?」
 「最後の一つが分からなかったよ。始まる前に教えて」
 「了解」
 そう答えてくれたサトミに笑みを返す。
 俺たちは自然と駆け足で教室に向かった。


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