稲荷 Confidences
23. 再会=出会い×(1人+1人)


 クリーニングしたてのYシャツを着込み、慣れない手つきで僕はネクタイを締める。
 スーツの色は就職活動の時に活躍した紺色。
 袖を通す。どことなく身が引き締まる思いがした。
 「よし!」
 ぱん、と頬を軽く両手で叩く。
 今日は初出勤。未知の社会への旅出に僅かな緊張がみなぎっていた。
 ふと、視線を窓の外へ向ける。
 桜の花びらが風に吹かれて散っていた。アパートの庭にあった桜の木だ。
 「さて、行くか」
 時間は所定の時間より1時間ほど早い、が。
 僕はカバンを持ち、玄関へ。
 真新しい革靴に足を通した......


 季節は巡り4月。
 無事就職することができた僕は、この春から社会人の仲間入りだった。
 仕事は大学時代から興味のあった分野に就くことができたのが満足なところだ。
 しかし希望した会社は他県であったため、僕は就職が決まるや否や引越しすることとなった。
 もっとも僕の現在の経済力では、引越し前のアパートも引越し後のこのアパートも、レベルがさっぱり変わらない。
 唯一の違いといえば、このアパートの管理人は旅行好きの、結構な変わり者であるということくらいか。
 ともあれ僕は大学を卒業し、このアパートの一階に引越しを終えた後、4月の今日を迎えるまで旅行に出ていた。
 特に目的のない、青春18切符を用いた電車の旅だ。
 いや、目的がないわけではない。
 あれは去年の梅雨を前にした時期。
 僕の心の中に大きな位置を占めていたモノが、ごっそりと抜け落ちた感覚に陥った。
 それは今でも続いている。
 だが、それまで何が僕の心にあったのかも分からない。
 僕にとってはとてもとても大切なモノだったはずだ。
 決して忘れ得ぬものだったはずだ。
 忘れるはずがない、そんな大きな存在だったと漠然と思う。
 思うだけで、当然そんな存在などはなく、単に僕の心が不安定なだけなのかもしれない。
 何かも分からないまま、それ故に常に自分自身に苛つきを覚えつつ、今に至っている。
 旅をすることで、自分自身が未だ経験したことがないことを目にし、耳にすることで、その穴を埋めることができるのではないか?
 だが、埋めることはできなかった。
 僕は一体何を忘れているんだろう?
 僕は一体何を求めているのだろう?


 桜舞う大学の校舎。
 新入生にぎわう中庭を歩きつつ、私は一人思う。
 新学期。
 当然、先輩はいない。
 去年の夏前にカノジョといつの間にか別れたらしく(訊きにくいので訊いていないけれど)、フリーになっていたのをいいことに何度かアプローチをしたのだけれど、結局私に振り向いてくれることはなかった。
 気持ちは、今となってなんとなく分かるようになった。
 何故なら今年入った研究室の後輩が、私に気があるらしいのを感じるからだ。
 私は後輩である彼を嫌いではないが、好きでもない。
 せめて「眼鏡っ娘、萌え〜」とか言うのはやめてもらいたい。
 そんな程度。
 そうそう、先輩がカノジョと別れた頃、私の飼っていた犬が逃げた。
 いや、言葉はおかしいかもしれない。
 もともと世話はしていたが、飼っているつもりがあまりなかった。
 あの犬は長い旅の途中で、私の家でしばしの休息をとっていた、そう思っている。
 そしてきっと、また私の元へ戻ってきて休息していくような気がする。
 だから我が家にはまだ彼の小屋が残っている。
 「わん」
 そんな犬の鳴き声が唐突に後ろから聞こえた。
 振り返る。
 「まったく」
 思わず、声に出た。
 「おかえり」


 薄い色のついたサングラスをかけた彼女はJAGUAR XKR Convertibleで高速道路を飛ばしていた。
 アクセルを踏むたびに、黒い彼女の髪が風になびいて後ろへ流れる。
 『いいのか?』
 彼女の口から彼女ではない声が漏れた。
 「なにがです?」
 澄ました声で彼女はその声に問う。
 『妹と、あの男じゃよ』
 「問題でもありますか?」
 『ないのかの?』
 「ありません。全ての経験と記憶を失った妹は、一から稲荷の初級修行を積まねばなりませんから」
 『人間界を学ぶためにあのアパートの一室をあてがったと?』
 「賃料が安かったですし。その隣の部屋に『彼』が入居するとは思ってもいない偶然でしたね」
 『偶然、かな?』
 「……先生、『縁』というものは、なかなか切っても切れないものなんですよ」
 『お主と彼との『縁』はないと?』
 彼女はアクセルをさらに強く踏む。
 加速に伴うGが、彼女をシートに押し付けた。
 「どうでしょうね、それこそ縁があれば」
 口元に微笑を浮かべ、彼女は答える。
 JAGUAR XKR Convertibleは車の少ない高速道路を突っ走っていった。


 がちゃり
 僕は玄関の戸を押し開ける。
 ごす
 扉を押す手に、質量を感じた。
 直後、重たい音が扉を挟んだ向こうで聞こえる。
 「?」
 扉越しに見ると、額を押さえてしゃがみこむ少女の姿があった。
 ダンボール数箱を重ねたものを傍らに、ぷるぷる小さく震えている。
 「どうかしましたか?」
 問いかけに、彼女は僕を見上げた。
 可愛らしい女性だった。いや、雰囲気的には少女と言っても良いかもしれない。
 色素の薄めなショートカットの髪の間に覗く瞳は涙が溜まり、僕を恨みがましく見つめている。
 白い額がちょっと赤く染まっていた。
 僕が首を傾げると、彼女は僕の開ける玄関の扉をまず指差し、次に己の額を指差した。
 「痛いです…」
 「あー、以後気をつけます。ごめんね」
 と、僕は気付く。
 隣の部屋の扉が開いていることを。
 そして玄関前にはいくつかのダンボール。
 「あ、もしかして今日新しく入る入居者の方?」
 「あ、は、はい」
 僕の差し出した手を掴み、空いた手で額をさすりながら少女は立ち上がる。
 キラリ
 朝日を照り返して一瞬、光が僕の目を射抜いた。
 思わず目を細める。
 光の正体は、彼女の首にかかったネックレス。
 細い銀のチェーンの先端には青い宝石のはまった銀のリングが……ついている?
 ズキン
 心の奥が、何故かうずいた。
 「なんで指輪を首にかけてるんです?」
 思わず出た言葉に、少女は戸惑いながらも「えっと」と答える。
 「サイズが大きくて」
 「貰いものですか」
 「はい、多分」
 「多分?」
 「えーっと」
 ちょっと困った顔で彼女は僕の問いにちゃんと答えてくれた。
 「色々ありまして私、ちょっと記憶が抜けてしまってるんです。これはそのころ私が大事にしたものらしいんですけど」
 「へぇ」
 「やだ、なんで初めて会う人にこんなこと話してるんですかね、私」
 改めて彼女は僕を見て、何故か頬を赤らめて俯いてしまう。
 「ごめん、僕が変なことを訊いたばっかりに」
 「い、いえ。あ、あの、お隣さん、になるんですよね?」
 おずおずと彼女は尋ねる。
 「そうだね。もっとも僕もこの春に引っ越してきたばかりだけどね」
 「そうなんですかぁ。でもなんかちょっと安心しました」
 ほっとした可愛らしい顔に笑みが広がった。
 ……あれ? どこかで
 「私、一人の生活って初めてでちょっと不安だったんですけど、同じような人が近くにいるとなんか安心できますね」
 あー、僕はここに来る前も一人暮らしだったんだけど、と言う機会は失われてしまっているようだ。
 何はともあれ、
 「そっか。お互いがんばろうね、よろしく」
 言って僕は握手のために右手を差し出した。
 「はい! よろしくお願いします!」
 元気良く、彼女は僕の手を握り返し、
 「……あれ?」
 不意に彼女の白い頬に涙が伝った。
 「え?」
 何かまずかったのかと思い、僕は手を放そうとするが彼女はしっかり掴んで放さない。
 「あれあれ??」
 当の本人が困惑しているようだった。袖で涙を何度もふき取るが、止まらない。
 「えっと……どこかでお会いしたことありましたっけ?」
 涙目で問う彼女に、僕は首を横に振りかけて、
 「どう、だろう??」
 どこかで会った事がある気がする。
 それがどこだか分からない。
 けれど、
 けれど悪い思い出の中には出てこないと思う。
 思い出せない……それならそれで良いんじゃないかな。
 だって、
 「前にどこかで会っていたとしても、今日出会えたんだからそれで良いんじゃないかな」
 彼女は僕の言葉に一瞬目を白黒させ……そして笑顔に。
 「それもそーですネ!」
 そんな彼女に僕もまた笑って自己紹介。
 「初めまして、僕の名は――――

初めまし...て?

〜 ここから2人の物語が始まる 〜

BGM / Forever...(savage genius)

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