稲荷 Confidences
22. 別離=1人+1人


 頭は冴えているのに、体が休息を求めているような感じだ。
 「あれだけ血を流せば、そりゃ調子は良くないよなぁ」
 僕は一人、部屋で呟く。
 豹頭の怪人――一般的に化け猫と呼ばれる猫又だったわけだが――に、わき腹をざっくりを切り裂かれたのはついさっきだ。
 その怪我は、僕のカノジョの能力できれいさっぱりと治ってしまっている。
 姉とは異なり、順調に癒し系に育っているな、うんうん。
 しかしあの猫又は何を企んでいたのだろう?
 いや、カノジョのお姉さんの話からすると、猫又を操っていた奴だ。
 正体は何か分からないが、そいつは僕に何をしようとしたんだろう??
 そして何より、
 「何で僕が狙われたんだろうなぁ??」
 自慢でも卑下でもないが、僕は何か特別な力を持った人間だなんて思わない。
 石を投げれば当たるような、どこにでもいる人間だ。
 カノジョの様にどんな怪我でも治せるような力はないし、お姉さんのようなど派手な破壊力を持つ技なんてのも持っていないし、犬神やカマイタチの少女のように恐ろしく早く動くことなんてのも当然できない。
 むしろ、一般的な人間よりも運動神経は低いし、頭の回転も中の下程度。
 「なんでだろうな?」
 二度、声にしてみるが分かるはずもない。
 がちゃり
 玄関の扉が開いた。
 カノジョが一人、戻ってくる。
 「あれ、一人?」
 「う、うん。お姉ちゃんはちょっと行くところがあって」
 応えるカノジョはどうも暗い。
 「体の具合はどう?」
 蒲団に寝る僕も傍らに腰を下ろし、心配げに見つめてくる。
 「怪我はおかげで痛くも何ともないけど……ちょっと体がだるいかな」
 「血が減ってしまった分、体力が落ちてしまっているからね」
 僕の額に冷たい手のひらを当て、カノジョは一言「ごめんなさい」と呟く。
 「だから、君のせいなんかじゃないってば。僕が狙われていたみたいだし」
 「だから……だから、ごめんなさい」
 「? どういうこと?」
 会話が成り立っていない。僕はカノジョの顔を見る。
 するとカノジョは立ち上がり、顔を背けてしまった。
 「大丈夫。もうこんなこと、ないから」
 かすかに小さな肩が震えているように見える。泣いて、いるのか??
 僕は半身を起こす。
 途端、視界が歪み一瞬気が遠くなった。
 「あたたた…」
 「あ、ダメだよ、まだ寝てないとっ」
 慌ててカノジョが僕の傍らにしゃがみこむ。
 その瞳はうっすらと濡れていた。やはり泣いていたのか。
 この怪我はカノジョのせいではないと何度も言っているのに……。
 「大丈夫。ちょっとカバン、取ってくれない?」
 「う、うん」
 部屋の片隅に置かれているカバンを手繰り寄せるカノジョ。
 僕はそれを開き、カバンの奥にしまっておいた小さな箱を取り出した。
 手のひらに乗る大きさの、薄いブルーの化粧紙できれいに包装された小箱だ。
 「本当は外で食事しながら渡そうと思ってたんだけどね。誕生日、おめでとう」
 両手で受け取ったカノジョはきょとんとした目で僕を見つめている。
 「え…あ…、誕生、日……?? あ、そういえば」
 どうやら忘れていたようだ。
 もっとも僕がカノジョに誕生日を聞きだしたときも「いつだったっけ?」と悩んでいたくらいなので、妖にとっては曖昧なものなのかもしれない。
 …カノジョのお姉さんなんかは実際、むちゃくちゃ長生きっぽいし。
 「開けて、良いかな?」
 「どうぞ」
 上目がちに問うてくるカノジョに答える。
 ようやく笑顔が戻った。やはりこの子には暗い顔は似合わないなぁ。
 包装紙を取った小箱は、紫のフェルト地。それをカノジョはそっと開けた。
 中には、青い色をした小さな宝石のはまった銀のリング。
 「指輪……」
 カノジョは呟き、笑顔で僕を見る。
 僕は頷き、箱の中のリングを取り、彼女の左手をとった。
 「え、左手?!」
 「ん?」
 「いえ、なんでもないです」
 ぶんぶん首を横に振るカノジョ。
 右手の方が良かったのかな?
 僕は思うも、どちらも同じと一人結論してカノジョの薬指にリングを通した。
 「あ…」
 「あれ」
 リングとカノジョの指にはけっこうな隙間があった。
 「サイズ、やっぱり適当じゃまずかったな」
 「そう、だね」
 カノジョはそのぶかぶかのリングのはまった左の薬指を見つめ、そして僕に視線を戻す。
 「ありがとう」
 「サイズは明日にでも直しに行こう。それで…」
 僕の言葉はそこで途切れる。
 なぜなら。
 カノジョが泣いていたからだ。
 大きな目から大粒の涙が零れ落ちている。
 「……だよ」
 「え?」
 声にならない小さな声が彼女から漏れていた。
 「なに? 一体どうし…」
 手を伸ばす僕の胸に、カノジョが飛び込んできた。
 「嫌だよ、嫌だよっ! 私、ずっとそばにいたいよ!!」
 僕の胸の中で叫ぶカノジョ。
 「離れるなんて、嫌。一緒にいちゃいけないって分かってるけど、でも、でも一緒にいたいよ…」
 泣き崩れるカノジョの背を軽く叩きながら、僕はカノジョに言い聞かせる。
 「僕は、いつまでも一緒にいるつもりだよ」
 それに首を横に振るカノジョ。
 「ダメなの。私みたいな妖がそばにいると、貴方の体質が変わっちゃって、今日みたいに変なのに狙われるの。だから…」
 体質が、変わる??
 「それって?」
 ピッ♪
 僕の胸で、小さな電子音。
 それは携帯電話に届いたメールの着信音だった。
 普段ならば大して気にならないその音が、この時は妙に甲高い音に聞こえた。
 「「?!」」
 唐突に僕からカノジョが弾き飛ばされる!
 僕を黒い霧が包み込んだ。
 「なんだ、これ?!」
 「これはっ?!」
 霧の向こう、思わず耳と尻尾を出しているカノジョが見えた。
 霧の発生源は…胸の携帯電話??
 僕は携帯電話を取り出して見ると、そこには一通の新規メール。
 送信者の名は、僕。
 メールは勝手に開かれた。
 小さな液晶画面いっぱいに、僕の顔が映っている。
 「なんだ、これは」
 携帯電話を手放そうとするが……手から離れない。
 いや、違う。
 体の自由が、利かなくなっている?!
 僕を包む黒い霧がまるで僕を型にはめたように、動きを封じているようだった。
 「このっ、放して! お願いだから、その人を連れて行かないでっ!」
 霧の外ではカノジョが僕にまとわりつく霧を剥がそうともがいているが、まるで素手で水をすくうように手ごたえがなさそうだ。
 そしてカノジョの手は、僕には届いていない。
 「これは一体??」
 『君の体をいただきにきた』
 「?!?!」
 それは唐突に聞こえた声。
 まるで頭の中に直接響くような、機械的な声だ。
 「どういうことだ?!」
 問いながら直感する。
 こいつが猫又を操って僕を狙った奴であることを。
 そして、カノジョが憂いている元凶であることを。
 『君は周囲の妖によって、普通の人間よりも身に帯びる磁性が変化している。故に私は君の身に合一することができる』
 声と共に、僕の頭の中にじんわりと染みが生まれていく錯覚を思えた。
 「合一?」
 『悪い言い方をすれば、のっとりだ』
 「そんなこと、できるはずが」
 『できる。そもそも君が君である所以は何かね?』
 「……??」
 『君が君であることは、過去の経験がその身に積もることによって形成されていると私は仮定した』
 なにやら難しいことを言っている。
 その間にも僕は自分の身の変化に気がついていた。
 いつしか周囲は暗闇で、カノジョの声も聞こえない。
 上も下も分からないし、触覚もない。
 『すなわち記憶こそが、人を人とする要素である。そこで私は君の身にある記憶を私の記憶で上書きする』
 「それって」
 『そう、乗っ取りということだ』
 声が遠く響く。
 すでに僕の中から大切な何かが次々と消えていっているのが分かった。
 記憶の上書き。
 指輪を渡した時のカノジョの笑み―――消えていく。
 猫又に傷を受けた時、泣きながらそれをふさいでくれたカノジョ―――消えていく。
 いつもの帰り道。自転車の後ろに乗りながら歌うカノジョ―――消えていく。
 舞い散る桜の花びらの中、楽しかった宴の席―――消えていく。
 山奥の温泉で、実は混浴だったドタバタ劇―――消えていく。
 「願いをかなえてあげます」言ったカノジョとの最初の出会い―――消えていく。
 そして。
 2人だけの旅行。
 初めての夜、月明かりに照らされた白いカノジョ―――消えてしまった。
 今を形成する、大切な思い出と記憶が……消えていく。


 黒い霧が全て、彼の口に飲み込まれてしまった。
 私はようやく触れることの叶った彼を抱き起こす。
 意識がない。
 「いえ、違う! これは……っ!?」
 私は膝の上の彼が、次第に彼ではない何か別のモノに変わっていくことに気がついた。
 ありえない。
 「いや」
 ありえないことではない。
 お姉ちゃん達に宿るイグドラシルさんの性質をさらに極端に且つ人間向きに設定したものだとしたら。
 彼が、乗っ取られる!!
 「させない!」
 普通は様々な要素が中性な人間に、こういった乗っ取りなどは決して可能ではない。
 しかし、彼は私のせいで『こちら側』に少し傾いてしまった。
 その傾きに乗じて、何者かは知らないが彼を乗っ取ろうとしている。
 では。
 この彼の傾きを利用して、乗っ取りを阻止する!
 『彼の要素』を持つ私にしか、できない。
 私は迷うことなく、彼に唇を合わせた―――


 記憶の上書きは順調だった。
 まずは彼の一番大切な記憶から上書きさせてもらった。
 やはり主要な部分とあってか、なかなか骨の折れる作業だった。
 しかしあとはさしたる苦労もなく作業は完了するだろう。
 ワタシは彼の中で一息つく。
 その時だ!
 「?!」
 彼の持つ磁性に変化が現れたのだ。
 彼と同じパターンを持ちながら、しかしさらに強い磁性が生まれている。
 「んな?!」
 ワタシは強制的に、さらに強い磁場へと引き付けられていった―――


 黒い霧を私は彼から全て吸いだすと、突き放すようにして彼から離れた。
 蒲団の上に倒れる彼からは、すでに黒い霧の気配はない。
 完全に、私が呑みこんだ。
 今、私の中で黒い霧の正体である妖が私を乗っ取ろうと記憶の上書きを行っている。
 私の抵抗も空しく、私の形作る記憶が消えていく。
 生まれた時の記憶。
 稲荷として認められた時の記憶。
 お姉ちゃんとの出会い。
 彼との出会い。
 初めて、彼と言葉を交わした時の記憶。
 彼とたくさん重ねた時間。
 「ダメ、消えちゃう……」
 私は自らの肩を抱いて、彼を見る。
 表情はなく、規則正しい息づかいで眠っている。
 きっと彼の記憶は少し消えてしまっただろう。
 願わくば、私に関しての記憶が消えていることを。
 「私が彼を忘れて、彼が私を覚えているなんて、きっと辛いもの…」
 ぎゅっと目を閉じる。
 黒い霧は私の最後の記憶を上書きしようとアタックをかけていた。
 最後の記憶、それは。
 彼との2人だけの旅行。
 月明かりの眩しい夜、彼は優しく私を………
 「ダメ、貴方になんか消させない!!」
 私は最後の記憶を守るため、全ての妖力を自分自身に対して解放した。
 大切な最後の記憶を私自身の力で割った。
 余波が心の中に生じる。
 最後の記憶を中心に、上書きされた記憶ともども全ての記憶が私の中で割れ、粉々に砕け散って行ったのだった―――

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