鳥達が海を越えてやって来た。
彼らの目的地には、すでに暖かい春が訪れていることだろう。
その鳥達の中に際立って真っ白な鳥が一羽いた。
彼は目的地に到達し、下降していく仲間を尻目に一羽さらに遠くへ飛んで行く。
彼の旅はまだ終わってはいないのだ―――
Fabric
雲一つない青空の下、のどかな山合いの小さな村に数ヶ月振りの外界からの来訪者がやってきた。
腰にまで流れる空の色の髪を無造作に後ろに束ね、同色のローブに身を包んだ二十代後半の女性。
その肩にはザックと共に、見事な細工を施した小さな竪琴が掛けられている。
彼女は畑仕事に勤しむ村人一人一人にすれ違う毎に軽く挨拶を交わしながら、村に一つしかない宿屋に足を向けた。
食堂と酒場を兼ねている二階建ての木造の宿屋だ。
昼前であることもあって人はいないようだ。ただ静寂だけが支配している。
ギィ……
青い髪の吟遊詩人はその両開きの扉を開く。
薄暗い店内には、カウンターでグラスを磨く中年の男が一人。
「いらっしゃい、ようこそ回想亭へ。おや、貴女は?」
店の主人である彼はそう言って久方振りの客である彼女に微笑んだ。
「部屋を一つお願いできる?」
歌うような声で尋ねた彼女に、店の主人は無言の笑顔で頷く。
「それと、ブランデーを少し入れた紅茶を貰おうかしら。可愛いお客さんも来たことだしね」
彼女は彼の前のカウンターに着く。
「詩人さんよ」
「お前が先に行けよ!」
「君が一番聞きたがってるじゃないか」
宿屋の前で子供達の声が聞こえる。
言い争う声はすぐに跡絶え、代わりに眼鏡を掛けた六つくらいの子供を筆頭に、少女と一番年上らしい十歳前後の少年の三人がつつき合いながら入ってきた。
彼らは来訪者である吟遊詩人の前にやってくる。
「お姉さん、あの〜」
「なぁに?」
眼鏡をかけた少年に、屈んで吟遊詩人は答える。
「え〜と」
「もう! じれったいな、俺が言う!」
もう一人の少年が眼鏡の少年を引っ込める。
「吟遊詩人のお姉さん、何かお話を聞かせてください!」
セリフを考えていたのだろう。
幼い少年少女に青い髪の吟遊詩人は微笑み、竪琴を取った。
「そうね、何のお話が良いかしら?」
「強い英雄の話!」
「僕は有名な話は本で読んでしまってるので、誰も知らないようなものがいいです」
「妖精さんとか、不思議な占い師さんとかが出てくるのがいいなぁ」
三人は先を争うように注文する。見事に要望が重なっていない。
しかし小さなお客達の要望に、吟遊詩人は微笑みながら竪琴を軽く鳴らした。
それを合図として、子供達はピタリと静まる。
「じゃ、少し長いけど聞いてね。マスター、いいかしら?」
店の主人は微笑みながら、紅茶を彼女に差し出した。
吟遊詩人は紅茶を一口含み、その香りを確かめながら、竪琴を軽く引き鳴らし始める。
今は昔、遥かなる時を越えて、私は語る
かつて光と闇が呼び合った。それは美しき恋の物語
かつていくつもの国が生まれ、滅びた。それは興亡の物語
かつて精霊が人を愛し、育てた。それは優しき世界の物語
そして受け継がれしは好奇心。これは冒険の物語
第一章 旅立ちはいつも青い空
<Rune>
幼い頃、僕は闇と親しく言葉を交わした記憶がある。
その頃は闇だけでなく、暖炉の火や水瓶の水、吹き抜けて行く風や木々の声すらも聞いていた覚えがある。
一体、それはどんな現象だったのだろう?
交わしていた言葉は、たわいもない事だったと思う。
空の青さ、風の匂い、土のぬくもり、水の冷たさや暖炉の炎の暖かさ。
いつの頃からだろう、それらの声が聞こえなくなったのは?
疑問はやがて、そもそも声など聞こえていたのだろうかという前提条件へ移行することとなる。
時を戻せたら、と思うことはある。
願望はしかし、直後に僕の中で全否定される。
なぜならその願望は、僕が今に至ることを否定する事になるのではないだろうか?
何より時を戻す事を願うのは、今という時からは目を逸らすだけの逃げの行為ではないか?
そんな事を考えている間に、さらに失敗を生んで困るのは自分自身だからだ。
だから僕は幼い頃に聞いたそれらの声に未練はなかった。
あれは子供にしか聞こえないものだったのだろう、そう結論付けていつしか回想することなど滅多になくなっていった。
が、今になって無性に闇からの声だけが懐かしく思える。
あの声の持ち主は一体誰だったのだろうか?
その人は僕を取り巻く誰にも増して、大切な人であったような覚えがある。
しかしそれを知る術は、今の僕にはない。
真冬の冷気を取りこんだ僅かな風が僕の前髪を揺らす。
カーテンから漏れた弱々しい朝日は、まだ眠気顔の僕とベッドを優しく包み込んでいた。
朝―――
街は人という血液をその身に循環させ、次第に活気を取り戻して行く。朝日が闇を振り払い、この街を光で満たす。
とんとんとん
階段を駆け上がってくる、軽快な足音が聞こえてくる。
やがて僕の部屋へと至る扉が思いきり開かれる騒音が届き、
「ルーンお兄ちゃん、おっはよう!」
聞き馴れた少女の声とともに、どすっと布団の上から少女の重さが僕を圧迫した。
このアパートの大屋さんの娘であるところのクレオソートの元気な声が、僕を聴覚からして完全に目覚めさせた。
「クレア……入る時はきちんとノックをしないか。それに何だ、こんな朝早くに。今日は休養日だぞ」
仕方なしに目を開ける。
視界一杯に広がるのは、肩まで伸ばした金色の光。
窓からの朝日を受けた、クレアの金髪だ。
その髪の下に覗く表情は、日の光に負けず劣らずのとびっきりの笑顔。
「朝一番にソロン達が帰ってきたの。ルーンお兄ちゃんを起こせって騒いでるのよ。なんでもいい物見つけたって」
活気ある声で、クレアは布団の上から離れてカーテンを開けながら言う。
雪雲に包まれた弱々しい朝日が直接、僕の視覚を刺激した。
「下で待ってるからね、早く下りて来てよ!」
朝日の中でクレアの後ろ姿を見た僕は、目を細めつつ上体を起こす。
「ソロンの言ういい物か。ろくな物じゃなさそうだなぁ」
元の静寂を取り戻した部屋で僕は、誰となくそう呟いていた。
僕の名はルーン・アルナート。
ここエルシルドにあるアイツール王立学院に通う十八歳のニールラント男子だ。
ニールラントとはこの国――アークス皇国の大部分を占める民族で、黒髪黒目、肌色の肌という身体的特徴がある。
このエルシルドの街はアークス皇国首都アークスに近い、文化と魔術の街として知られている、中規模の都市だ。
アークス皇国というのはこの国の名前。
中央の央国とそれを囲む四つの獣公国――北の虎公国、南の龍公国、西の鷹公国、東の熊公国から成り立っている王国である。
なおこのエルシルドの街は央国に属し、東の熊公国寄りに位置している。
南の龍公国が接しているザイル帝国とは緊張状態が続いているため、国全体が平和というわけではないが、央国領内のこのエルシルドは治安も安定し、民の生活は豊かだ。
そんな、至って平和な世の中だけれども、僕にとって暗黒の時代が訪れていた。
僕は来年の寒月(二月に相当する)――あと二ヶ月とちょっとで学院を本卒業する。
成績は悪くないにしろ、決して良くはなく、目立って悪いも良いもない僕は、典型的な普通の王立学院学生男子であった。
かつては治安の安定していない戦乱の時代には、その背景故に学業を修める者は数が少なかった。
だが今ではこのアイツール王立学院他、様々な学びの場のお蔭で官職の需要は完全に満たされている。
加えて、緩慢な経済体制から生じた株の下落、累積する貿易赤字。
このような背景下、僕のような卒業生にとって暗黒の時代とは、すなわち不況故の就職問題である。
頭を悩ます僕は言うまでもなく、就職先は未だに決まってはいない。
そんな僕はエルシルドの西街区に位置する木造五階建ての『失われた風景荘』は四階に住んでいる。
一階が大衆食堂、二階から上がアパートとなっている、学徒の多いこの街に多く見られる建物だ。
そんな暮らしやすいアパートで、僕は父と母の三人で暮らしている。
だが幼い頃から両親は家に帰ることが少なかった。現在も一昨日から外出したまま帰ってこない。
仕事と言うが、両親は仕事の内容を一度たりとも僕に話してくれたことはない。
『父の七つの秘密の内の一つさ』と訳の分からないことを父は言う。どうやら知っているのはアパートの大家夫妻くらいらしい。
一時期は好奇心もあって何とかして聞き出そうとしたものだが、今ではすっかり諦めてしまった。
帰宅が少ない家庭状況もあり、僕の食事などは一階の食堂を経営し、大屋さんでもあるマイア夫妻にずっと頼っている。
もっとも食事だけでなく、様々な意味で彼らが育ての親と言っても良いくらいかもしれない。
その為もあってか、夫妻の一人娘であるクレオソートは僕を兄のように慕ってくれている。
「さて、来襲されないうちに行くかな」
僕は彼らの待つ一階へと、寝巻きから動きやすいチェニックに着替えて足を運んだ。
「おはよう、お兄ちゃん」
クレアが再び声を掛けてくる。
「おはよう」
冬の朝日ではまだ暗い為、明かりの魔術でセピア色に染まった店内には六人の知人達が思い思いに腰を下ろしていた。
辺りには失われた風景亭自慢のハーブティーの香りが立ちこめている。
僕はカウンターに腰掛ける。
「おはよう、ルーン」
クレアの母、レナおばさんがカウンター越しにパンとミルクのたっぷり入ったお茶を僕の前に置く。
クレアのニールラント民族には見られない金色の髪は、レナおばさん譲りである。
おばさんは金色の髪が特徴の南の民族ディアルと、ニールラントとのハーフであると聞いたことがあった。
「おはよう、おばさん。今日も雪かな?」
微笑むレナおばさんに問いながら、僕はカップを片手にソロンの元へと移る。
ソロンとその相棒であるシリア、吟遊詩人のシフとエルシルド警備隊隊長のケビンの四人が暖炉の前の丸テーブルに陣取っていた。
ソロン・エリシアン――僕より三つ年上で、二年前王立学院を卒業した先輩の位置付けだ。
文武両道、知能明晰にして顔は……まぁまぁとの同級生からの評価。
すっきりとした銀髪のスポーツ刈りと何事も見通すような青い瞳は、東に位置する熊公国によく見られるスーフリュー民族譲りだ。
ここまでならば、学院時代にモテていてもおかしくはない。
しかし神は完璧という言葉がお嫌いのようだ。彼は性格的に人道から外れていた。
どう外れているかは表現しようもないが、とにかく酷い。よく当時、学院を退学にならなかったのか不思議なほどのトラブルを数多くしでかしている。
一方、隣の女性。彼の相棒でもあるシリア・マークリーも彼と同学年で卒業している。
魔術に関しては学院で一、二位を争うほどの使い手であった。
おまけに美人でもある。黒いショートヘアに端正な顔立ちは男子生徒の目を釘付けにしていたものだ。
しかしシリアもまた、ソロンと同類項としてカッコで括れる。ソロンとの違いは、悪事がばれないように細工をする所だ。
それ故、彼女の暗黒面を知るのは極少数――主に被害者に限られる。
そんな彼ら二人はかつてこのアパートに住んでいた。そして幼い頃より周囲から僕を含めて悪ガキ三人組と呼ばれたものだ。
もっとも本当に悪いのはこいつとシリアである事を知っている者は、今このアパートに集っている者くらいしか知らないことである。
学院卒業後、悪名は別にして能力的には優等生であった二人の下に国王から勅使が来て、是非とも仕官してくれと頼まれたとの噂がある。
が、彼らは断わり、冒険者としての旅に出たのだ。何故彼等がこのような道を歩んだのかは僕にすら答えてくれず、未だ疑問である。
それからというもの彼らは数々の冒険談をおみやげに語ってくれる。
今回は警備隊隊長ケビンの依頼で、近くの山に巣喰い始めた大蟻を吟遊詩人のシフ姐を交えて退治しに行ったのだ。
「おはよう、ルーン。眠そうね」
青い髪の万年二十代後半の女性――シフ・ブルーウィンド。愛称はシフ姐が僕の背中を叩く。
吟遊詩人として世界各地を放浪しているというシフ姐の青く長い髪は一見染めているかと思われるが、実際は自然の光彩を放っている。
シフ姐=青い髪という会った時からの印象が強いので不思議と違和感がない。
そもそも髪の色以上にどうも人間を超越しているような雰囲気を持っている人だ。
第一、歳をとらない。神出鬼没。いつの頃からこのエルシルドにいるのかすら僕には分からない。
それこそ僕がハイハイ歩きを始める頃から、こちらもまだ幼いソロンと共に唄を聞かされながら世話をしてもらっていた。
僕にとってはクレアが妹のようなものだとすると、シフ姐はそれこそ姉のような存在である。
「そうそう、ルーン。就職見つかったのか? 警備隊ならコネで入れてやるぞ。代わりにみっちりしごくがな」
口髭の似合わないケビンのおっさんが笑いながら言った。
エルシルドの警備隊隊長――と言っても中間管理職だが、それを務める中年男がこのケビン・ファフナーだ。
一言で言うならただのおじさん。しかし裏では物資の横流しや領収書改竄等などやってのけている悪者である。
「おかえり、みんな。怪我はないの?」
彼らが退治しに行った大蟻と言うのは、一匹が2リール(2リールは1.2メートルに相当)程の大きさの怪物だ。
その表皮は硬く、なまくらな剣は通さない、まるで規格外の自動甲冑のような化け物である。
そんなものを数百匹相手に無傷でいる彼らこそが化け物だと思うのだが敢えて言うまい。僕も命を投げ出したくないからね。
「ルーン、あなた今、私達の方が化け物だなんて思ったでしょ」
感の鋭いシリアが僕の首に腕を掛け、絞めていく。
「く、苦しい」
「まあまあ、ところでルーン。蟻の奴、おもしろい物持っててな。これをやろう」
言ってソロンが僕に渡したのは一振りの剣――柄は錆びで鈍く光りながらも、かつては細かい細工が施してあったようである。
「地中からか、はたまた旅人を襲ってなのか、どういう経路か分からないけれど、女王蟻の部屋にあったのよ」
さらっと言うのはシフ姐だ。本気で殲滅してきたということか。
「ちぃと早いが、俺からの卒業祝いだ。大事にしろよ」
ソロンは何か企むような光を目に宿して僕に剣を手渡した。
僕は恐る恐る剣を受け取り、まずはその鞘について良く調べる。
今までそうであったように、ソロンの渡すものなど普通であるはずがない。僕は学院で学んだ知識を総動員して剣をつぶさに観察した。
「おいおい、人の贈り物を疑ってるのか?」
ソロンの笑いが含まれた非難を無視する。
鞘はごく普通の金属性のもの。特別な装飾は一切見られなかった。
そして柄だが、なにやら古代語の魔術的な文字が見て取れる。このことから魔術的な細工がしてあると見て、間違いないようだ。
柄の部分には円環が取り付けられており、そこにも文字がかすれてはいるが彫りこまれている。神聖文字に似ているようだが、それよりもずっと古い型式のようだ。
刀身部分に目を移す。これは叩きつける意味合いの強い直剣の部類ではなく、切ることを主とする曲刀の一種『刀』と呼ばれるものだ。
西の海賊や南の海洋民族が用いる幅広の三日月形の曲刀とも異なり、細身で直線に近い湾曲具合から、東にある龍王朝以東で扱われている武器ではなかろうか?
そして剣と鞘は縄でしっかりと括り付けられ、引き抜けないようにされていた。これはソロン達によるものらしい。
「その剣の秘密が分かったら俺の全財産をやろう」
薄笑いを浮かべながらソロンは言う。
もっとも、彼の財産など白く塗られた板金の鎧と、背中に背負った大剣くらいなものである。
「痛い目にあったものね、アナタは」
シリアが笑って言った。
どうやらソロンがまず引っ掛かり、一人だけでは気が済まないので僕も引っかけてやろうという魂胆らしい。
「鞘を抜いてみるしかないか。でもそんなことしたらソロンの二の舞だしなぁ」
四人の好奇の目を受けながら結局、僕はそこに行き着いた。
「どうでもいいけどお兄ちゃん、お店は壊さないでね♪」
クレアの問いにシリアが答える。
「大丈夫、痛いのはルーンだけだから」
「やっぱり痛いものなのか!? 何が起こるんだよ!」
僕は剣をテーブルに置いて非難。鞘から抜いた途端にトラップが発動するようなものなら、抜かないに越したことはない。
「いいからさっさと抜いてみろって」
ソロンが急かす。隣のケビンは朝からエール酒をあおりながら、横目で僕の成り行きを観察している。
シリアはソロンと共に「何が出るかな、何が出るかな♪」なんて歌っているし、頼りのシフ姐はというと面白い見世物を見物する観衆のような立ち位置にいたりする。
「まったく」
僕は剣を取り、柄と鞘を固定する縄をシリアから借りたナイフで切った。
「見た感じはトラップらしいものは見えないけれど」
柄に手をやり、僕は呟く。
「む!」
意を決して剣に仕掛けられているであろう罠に対し慎重に鞘を抜いていく。
すると錆のない美しい刀身が少しずつ現れる。刃は何とも言えない魅惑的な光を放っていた。
やがて。
僕は何事もなく鞘を抜き放っていた。
「で?」
まるで不発の花火を見る目で、四人は首を傾げている。
僕にしても何か起こるであろうと警戒していただけに拍子抜けしてしまう。
「でも、きれいな刀だね」
僕は改めて刀身を見つめる。
研ぎたてのようなその刀身には、僕の顔がはっきりと写っていた…はずであった。
「あれ?」
写っているのは僕の顔ではなく、怪しげな化粧をした女の顔だ。
金色の長髪に、透けるような白い肌。
妖精に見られるような長い耳と、その整った面には黒く鬼神を思わせるようなペイントが施してあった。
それがかえって彼女の怪しげな魅力―――おそらく魔的なものを引き立てている。
だがそれ以外に何か…そう、かすかに懐かしいものを感じる。いや、それは気のせいか。
茫然と見つめる僕に、刀身に写る彼女は青く澄んだ優しい瞳を僕に向けて軽く笑釈した。
「あ、どうも。って何? これは!」
慌ててソロンに目を移す。彼はいつの間にか、僕の後ろで刀身を睨んでいた。
「随分対応が違うじゃねぇか。これはどういう了見だ?」
怒りのこもった彼の言葉を、まるでそよ風のように無視して刀身に映る彼女は僕に笑顔でこう告げる。
「私は剣魔イリナーゼ。高貴なる魔族の血を引く者よ。よろしくね」
丁寧にも自己紹介する。
「あ、僕はルーン、よろしく」
反射的に答える僕の横からソロンが剣を引ったくり、刀身に向かって怒鳴りつけた。
「テメエ、人を無視すんじゃ、だばだばだばぁぁぁ!?」
彼の言葉は途中で途切れる。
稲妻のようなものが剣を掴む彼の腕へと流れ、鎧の装甲を無視してダメージを与えたようだ。
剣は彼の手から離れ、落ちる先は僕の膝の上。
「私、女性に優しくしない人は嫌いなの」
刀身に写る彼女はきっぱりと言い放つ。ソロンは床で固まったまま、ただ剣を睨つけている。
どうやら痺れて動けないようだ。電撃系の魔術か?
「分かったわね、ソロン。女性には無条件に優しくするものなのよ」
「まずはここのお茶代をお願いするわね」
シフ姐が諭し、シリアはここぞとばかりソロンを嘲笑う。
こんな女性ばかりがまわりにいれば、ソロンでなくとも気を使うことなどしないと思うが。
「なんだかなぁ。しかし改めて、君は誰だい?」
僕もソロンを無視し、刀身に目を戻す。彼女は僕の質問に首を傾げる。
「さっきも言ったでしょう? 剣魔イリナーゼ、魔族の血を引く者よ」
「魔族、なの?」
彼女はこくりと頷く。
この世――つまり物理的世界には『人間』の知識にて区別すると、動物達や人間、亜人などが住んでいる。
亜人というのは人間以外の知的生物で、エルフやドワーフといった者達のことだ。
彼らは能力的に人間より大きく秀でているが、圧倒的にその数は少ない。
また僕達は生きている以上、精神世界にもその身を僅かながら置いている。夢を見ることなどが精神世界の現象なのだが、正しく解明されてはいない。
そんな精神世界に存在を大きく置くのが、彼ら魔族。
完全に精神世界系の住人である精霊に近い存在なのであるが、それぞれに孤立化した意志が存在する為に一個の生体と呼べる。
しかし魔族は人間の価値観とは相容れない存在であり、一方的な敵と呼んでよい存在であった。邪悪にして滅びと混沌を望むもの、それが魔族である。
それに相反している立場にあるのが天使――神聖にして生成と秩序を望むものだ。
しかしながら天使もまた、学院の講師達の間ですら理解し難い考えを持った者達であるようだ。
魔族と同様に生物としての意志を有しており、エネルギー体に近い精霊とはやはり異なる。
天使は一般には神の使いとされているが、学会において神はすでに『実体として存在していない』と結論付けられている。
ま、それはともあれ。
「魔族だと、悪いかしら?」
試すように彼女は尋ねる。それに僕は頭を軽く掻いた。
『魔族こそ諸悪。問答無用で滅ぼすべし』
そう説いているのは神に仕えるパフォーマンス好きな一部の神官達であり、またその考えが一般には根底に深く普及している。
だが学院で一歩踏み込んだことを学ぶと、天使と魔族は人の心と密接な関係を持つ相反する精神生命体である、というのが主流である。
またこんな考えもある。
『この世に存在するものに、存在してはいけないものなどない』
風の神の教えであり、これはシフ姐にもよく聞かされている。
簡単に言えば、この魔族も天使も『良く分からない』存在だ。良く分からないものは判断できない。
何より、あからさまに敵と決め付けようにもその考え方自体が彼らには通じない。思考形態が若干異なるようであるからだ。
ともあれ、僕の彼女(?)に対する答えは。
「それもそうだね。悪いことなんてないか」
僕は微笑んで答えた。別に彼女が悪いことをした訳でもない。
悪事ならここにいる全員――レナおばさん以外だが、そんじょそこらの悪党よりも働いているに違いない。
「でも、どうする? 君は生きているんだから、ソロンから貰う貰わないどころじゃないと思うんだけど」
後ろでケビンが「律儀な奴」とか何とか呟いていた。同じように剣魔も軽く笑う。
「じゃあ、私を貰ってくれないかしら。この剣士に返品されたくないの」
当のソロンは顔をしかめて、視線をあさってへ向けている。
僕は小さく笑って、不思議な魔族こう答えていた。
「君さえ良ければ、ね♪」
後から聞いた話では剣魔がソロンを嫌っていた理由は、その身体的性格だそうである。
精神世界におけるソロンは存在感が大きく攻撃的であり、彼女と波長が全く合わないとのこと。
さらに加えて、常に彼に背負われている大剣が一応聖剣の部類に入る業物であることも、彼女が彼を忌避する理由の一つだった。
それに比べて僕はというと、ソロンほどではないにしろ存在感はそれなりに大きく、それは享受的であるらしい。
このような性格は精霊に好かれやすいが、魔族のエサになりやすいのだそうだ。
剣魔イリナーゼは僕をエサにするつもりはないが、他者に波長を合わせることによって生きる糧を得る存在であるとのこと。
「タチの悪い魔族とか精霊は私が追い払ってあげる」
彼女は刀身の中からそう言って笑っていた。
「ところでイリナーゼ」
「ん?」
妙に親しみを覚える剣魔にそう問うたのは、出会ってから二日目の夜。
刀身に映る彼女とは、出会って間もないはずだった。
しかしこうして言葉を交わし、常に彼女の宿るこの刀を提げて存在を近くにしていると、かつて似たような状況にあったことを感じるのだ。
そう。
幼い頃、常に身近にあった闇と話していた事を。
だから、問う。
「僕はキミと会った事はなかったかな?」
「うーん、ルーンは私と会った事はないと思うわ」
「そうだよね」
イリナーゼの当たり前の言葉に僕は頷く。
この時の僕はまだまだ子供で、自分の事で精一杯だったんだろう。
だからイリナーゼの言葉の意味をしっかりと聴いていなかったんだと思う。彼女がどんな気持ちでこの問いに答えたのかなんて。
せめて刀身に映る彼女の表情をまっすぐに見つめていれば、分からないにしろ、彼女を労わる事が出来たんじゃなかろうかと、ずっとずっと後になってやや後悔する事になる。
ともあれ、そんなこんなで。
魔剣騒動から十四の昼夜が過ぎ、とうとうこの日がやってきた。
僕の通うアイツール王立学院の、仮卒業日である。
見上げれば、空は晴天。
日は天頂にあり、そろそろ小腹も空きはじめる頃。
僕は右手に30セリール(1リール=100セリール。およそ36cm)ほどの長さの筒を持って、大きく背伸び。
今日は冬月の10日目(12月10日に相当する)。王立学院の仮卒業日だった。
仮卒業というのは、もう今の時点で学院での学習は終了し、修士として送り出せますよ、というものである。
僕の手に握られている筒の中には、学院での勉学及び各種技能を収めた事を証明する証書が入っている。
もちろん、安穏と学院生活を謳歌しているだけでは証書は貰えない。
四日前から三日間に渡って卒業試験があり、それをクリアしない事には卒業は認められないのだ。
試験内容は言語学、数学、理学、地学、政治経済学といった一般的なものから、言葉の魔力を用いたメジャーな呪語魔術を始めとした魔術実技、剣術といった実技的なものまで幅広く扱われる。
なお僕は、再試することなくなんとかスレスレで合格を貰ったような感じだった。
同じように証書を手にした同級生達が、卒業を祝って解放の喜びを謳歌する正門を避けて、僕は人気の少ない裏門をくぐりぬける。
空には真っ白な雲のひとかたまりが、風に吹かれてゆっくりとその姿を長細く変えていた。
「卒業、か」
”おめでとう”
ポツリと一人呟いた声に返って来るのは腰の刀からの心の声。
”ありがとう”
心の声で、それに返す。確かに仮卒業できたのは喜ばしい事だ。
しかし、その後の事が決まっていない今、素直に喜んで良いのか悩ましいところだ。
とん
肩を叩かれた。続けて、今度は現実の声で、
「おめでとう、ルーン」
言葉に、視線を空から下ろして目の前へ。
「シフ姐?」
「ほら、キチンと卒業できるんだからもっと喜びなさい」
青い髪をそよ風に揺らせて、シフ姐は穏やかに微笑んだ。
「うん、ありがとう」
素直に頷く。そして彼女の周りを見まわす。
ソロンやシリアといった知った姿はなかった。
「どうしたの、こんなところで?」
「どうしたって……アンタねぇ」
僕の問いに苦笑いのシフ姐。
「仮卒業を祝いに来てあげたんじゃない。お祝いにお昼おごってあげるわ。何食べたい?」
「え、いいの?!」
「なんでも好きなもの言いなさいな」
「シフ姐、太っ腹!」
「太ってないわっ!」
僕の頭をはたくシフ姐の笑顔に僕もまた笑い、改めて仮卒業の喜びを素直に噛みしめた。
エルシルドの街の中心から東に伸びる目抜き通り。
その道沿いから一本奥に入ったところに、美味しいパイを焼く店がある。
「へぇ、小さいのに流行ってるお店ね」
シフ姐は席が完全に埋まっている店内を覗きこみながらそう呟いた。
僕達は狭い店内ではなく、店頭に設置された丸テーブルを挟んで向かい合って腰掛けている。
「おまちどうさま」
両手に焼きたてのパイを持って店内からやってきたのはこのお店の看板娘。
「ありがとう」
彼女は僕と、そしてシフ姐とを見比べて僕に一言。
「あら、今日は違う女性と?」
「え?」
「へぇ、ここはルーンのデートコースなんだ」
「それじゃ、ごゆっくり」
余計な事を言い残して店内に戻る看板娘。
彼女の一言に、嬉しそうな顔でシフ姐が僕に説明を求めている。
「もぅ、違うよ。前に来た時はクレアに連れてこられたんだよ」
「なんだ、つまらない」
舌打ち一つ、シフ姐はパイにフォークを伸ばす。
「つまらないって」
「あら、美味しい!」
「シフ姐のはミートパイだよね。僕のシーフードも食べてみる?」
「うん、ちょっと貰うわね」
しばらく、二人の間でカチャカチャと食器の音だけが響く。
落ちついた沈黙を破るのは、食後のお茶の入ったカップを傾けた頃だった。
「で、ルーン。どうするの?」
「ん?」
「これから」
「んー」
シフ姐の言う「これから」と言うのは食後のこれからではない。
学院を卒業した、その後のことだ。
今のところ僕は、ケビンのいるエルシルド警備隊くらいしか宛てがない。
しかしそれは悪の手先になることと同意義の最悪の場合であり、もっと良い職を捜さねばならないと考えている。
「ルーン。貴方の夢って何かしら?」
”貴方は何をやりたいの? それを知ってから行動に移しなさい”
耳にはシフ姐から、心にはイリナーゼが語り掛けてくる。
僕を良く知るシフ姐は、僕の夢を知っている。
イリナーゼは精神世界でつながっている僕の答えを手に取るように分かっている。
「ためらう事ってあるのかしら? 何に、誰に遠慮をする事があるの?」
”人は短すぎる寿命を持っているの。その間に本当にやりたいことをやらなければ、後悔するわ。やれば良いじゃないの、本当にやりたいことを”
僕は答える、足を踏み出せない僕をあくまで見守るに留めてくれる二人に対して。
「分かってはいるんだけどね。うん、分かってるんだけど」
ソロンやシリアは迷ったのだろうか?
今僕のいる場所をすでに通過した彼らはどんな思いで、一歩を踏み出したんだろう??
「僕は…」
「げふーん!」
想う言葉は、突如発生した絶叫に断絶される。
すぐ近く、通りを一本隔てた大通りから聞こえてきた、男の絶叫だ。
「シフ姐!」
「えぇ」
僕達2人は視線を合わせて頷き合い、
「面倒に巻き込まれる前に」
「帰りましょう」
「って、帰るなーー!!」
席を立ったところで、横からツッコミが入る。
それは金色の髪を持つ、光の神の神官着を羽織った少女。
「なんだ、クレアか。どうしたの、こんなところで」
「なんだ、じゃないでしょ!」
なんか怒っている。
「仮卒業のお祝いしてあげようと思って正門で待ってたのに、いつまでたっても出てこないんだもの」
「あぁ、裏門から出たし」
「……シフ姐さんはそれを予測済みだったってことね」
ジト目のクレアに、シフ姐はグッと親指を立てた。
「諦めてお昼しようと思って久しぶりにパイ食べようかなーって来たら、ここにいるし」
「前に来た時美味しかったからね。あ、僕ら帰るからこの席空くよ」
「ありがとー、ってそーじゃないでしょ! 悲鳴聞いて逃げる人がありますか!」
ぐぃっと僕の二の腕が掴まれる。
「やれやれ、ね」
シフ姐が大きく溜息。
「さぁ、ルーンお兄ちゃん。一日一善よ。私達を待ってる人がいる!」
「待ってる人は、きっと警備隊とかを待ってると思う……いたたたた、引っ張るなって!」
僕はクレアに引きづられる様にして席を立ち、表通りに向かって路地を進んでいく。
その後ろを支払いを終えたシフ姐がやや遅れてついてくる。
大通りに出ると、そこは人でいっぱいだった。
いや、いっぱいと言うより、何やら人の輪ができている。
輪の向こうからは複数の人間が争う剣戟の音が響いてくる。人の輪が厚く、その中を覗く事は出来そうもない。
「ぐわぁぁぁ!!」
今度は違う男の悲鳴だ。こんな街中で切り合っている??
そうだとしたら、正気の沙汰ではない。
「もぅ、みーえーなーいー!」
ぴょんぴょんと跳ねながらクレア。
「なぁ、クレア。警備隊ももうじき来る。危険だからここを離れよう」
「警備隊と言っても、あのケビンみたいなのだし、遅れるんじゃないかしら?」
後ろでボソリと言うのはシフ姐だ。これにクレアの動きがピタリと止まる。
「がぁぁ!!」
三度目の悲鳴。これも男。
これが決定打だったようだ。クレアが人の壁に対してまっすぐに両手を構えた。
「まずい、それはやめろ、クレア!」
彼女を僕が止めるのは、いかんせん遅すぎた。
『道を示せ、光の射す正義の道を!』
「「ぎゃーーー!!!」」
クレアの目の前にいた人々が、強制的に左右に吹き飛ばされた。光の神に仕える者が行使できる神聖魔術を遠慮なく発動させたのだ。
ざわめく群集。目を廻す吹き飛ばされた人々。
それでも事の中心はこれを些事と捉えて進行に支障をきたしたりはしない。
僕らの目の前に広がるのは、人の輪の中心で繰り広げられる三対一の戦いだった。
いや、違う。
おそらく五対一だったのだろう、二人の男が石畳に身を横たえている。
さらに五人のうち一人は、力なく右腕がだらりと下がっていた。
五人は男達。確かエルシルドの中心街を縄張りにして動く、あまり柄のよろしくないやつらだ。お近づきしたくない人種である。
そんな困り者達相手に、やや圧倒気味で事を進めているのは一人の女。
歳の頃は僕と同じくらいの、華奢な少女である。
だが彼女が普通と違う点は、五人のチンピラ相手に闘えるというだけではない。
白い――翼があった。
細い背から伸びる一対の白い翼。
それは彼女がファレス(有翼族の意)であることを示している。
彼女は翼の持つ浮力も上手に使い、男達の凶刃を踊るようにしてかわしつつ、細身の剣で反撃を加えていく。
と。
踊るような彼女がこちらを向いた。
「あ」
偶然に視線が重なり、僕の口から思わず声が漏れた。
同じように、彼女の口も「あ」の発音で固まっているように見える。
何故だろう、お互いにそんな反応をしてしまったのは?
ともあれ、それが彼女に一瞬の隙を生んでしまった。
「土よ、かの者を束縛せしめん!」
石畳の隙間から、まるでアメーバのように粘土状の土が染み出してファレスの女の足首に絡みついた。
「しまっ…」
「もらった!」
男の一人が動きの止まった彼女に棍棒を振り下ろす。
「かっ」
首の後ろを強打され、彼女の声は途切れる。
同時。
僕はクレアの作ってくれた道を、全力で駆け抜けていた―――
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