<Aska>
 幼い頃、私は光と親しく話した覚えがある。
 今でも精霊使いである私には、暖炉の火や水瓶の水、吹き抜けて行く風や木々の声――すなわち精霊達の声は全て聞くことができる。
 しかし話すとは言っても、それは単純な受け答えに過ぎない。
 そもそも精霊というのはこの物質界においてはエネルギーの塊であり、ごく単純な意志が宿っているだけの存在にすぎない。
 高度な召喚士でない限り、精神界の住人である精霊を物質界に完全な『意志体』として具現させるのは不可能なのである。
 当然、私にそんな技術があろうはずもない。
 だが、私には確かに光と親しく話した覚えがある。
 そもそも、いつからその光との接触が絶たれたのであろうか?
 何よりも、一体どんなことを話し合ったのであろうか?
 思い返しても、記憶に残る話題というものがない。おそらく友達と交わすような、何気ない話題ばかりを語り合っていたのだと思う。
 まるで幼馴染みが知らない間に引っ越してしまったような、そんな漠然とした感覚。
 私は時々、時を戻せたらと思うことはある。
 大抵何かに後悔したときであるが、実際戻せたとしても戻すことはないだろうと確信している。
 何故なら今の私は、今この時からできているからだ。過去を直すことは自分を殺すことになる。
 だから。
 聞こえなくなった光からの声を魔術の技術的には残念に思うことはあるが、未練はなかった。
 が、今になって無性に光からの声を懐かしく感じるのだ。
 あの声は誰だったのだろう? 光の精霊だったのだろうか、と。
 そしてそれは、とてもとても、心を許せる存在だったことを確信している。
 いつの間にか逃してしまった、漠然とした存在。
 それが何であったのか、再会する事ができるものなのかを知る術を思いつかない。
 わずかな手がかりを得る事が出来るのなら………。
 過去に戻る事も、やぶさかではないと最近はふと思う事もある。


 雲一つない夜空に星が瞬いている。
 無数にある光点はある者は人の運命を顕していると説き、またある者は世の中の流れを示しているとも言う。
 私は夜空が好きだ。
 特に今日のように月が完全に欠けて星がよく見える夜は心の底から落ち着くことができる。
 変な話だが、生まれる前には亡くなっていて知ることのなかった父に抱かれているような気がするのだ。
 「ん…」
 風が私の横を駆け抜ける。
 私の風呂上がりの髪と辺りの草を揺らして帰宅を促しているようだ。
 私の名はアスカ・ルシアーヌ。
 森の住人であるホワイトファレスの血を引く者だ。
 ホワイトファレスとは有翼の種族・ファレス族の中でも最も魔力に秀でた一族。その証たる白き翼を持つ者達だ。
 我々ファレス族は、森に住まう亜妖精であるエルフ族やドワーフ族と同様に人間族とは互いに干渉し合わない事を基本として森の奥深くに居を構えている。
 我々の住まうここは、人間達のいう所のエルファランドの大森林。
 森の中心に位置する私達の村は、人口およそ三百人程度の中規模なものだ。
 そしてこの森はアークス皇国と呼ばれる人間が勝手に作った国の中央よりちょっと東に位置し、近くにエルシルドという大きな人間達の街がある。
 人間達とは相互不可侵が暗黙の内に守られてきているが、森の端にあるドワーフ達は人間と接触しているらしい。
 ドワーフ達ですら生い茂る木々や草によって踏み込む事が困難なこの奥地は、当然の事ながら人間族が踏み込む事はない。
 ファレスの翼による飛行でしか、この森の突破は不可能なのだ。そして我々からの外への接触も堅く禁じられてきている。
 故に我々の村はこれまで長い時間、完全に外界から閉鎖されてきた。当然、私も外の世界を知らない。
 といって、外の世界に興味がない訳ではない。いや、むしろ興味がある。
 今まで何度、この森を抜け出そうとしたことだろう。
 しかしその度に捕まり、村長である私の祖父から何度も何度も何度もお説教を聞かされた。何度も何度も何度も、だ。
 ”外の世界は危険が多すぎる。特に人間は精霊の声を忘れ、自らのことしか顧みない。彼らは滅亡を招く種なのだ”
 そらんじることができる程にお説教を聞かされている私は、それでも外の世界への興味は尽きなかった。
 祖父の言葉は鵜呑みできない。
 耳を澄ませば風の精霊が拙い意識で私に伝えてくれるのだ――森の外の広さを。その広さに見合うだけの数々の出来事を!
 それを私はこの目で確かめたい。
 募る思いを胸に秘め、今日も夜風に当たって風の声を聞いていた。
 年の瀬の迫る真冬の夜。
 その時は、突然にやってきた。


 「うっ、さすがに寒くなってきたわね」
 冬の冷気は私の体から急速に熱を奪って行く。風呂上りの火照りも冷めつつある今、そろそろ家に帰った方が良さそうだ。
 私は眼下に広がる山合いの里を目指して背中の翼を広げる。
 と。
 不意に私の頬にふわりとした物が落ちてくる。私は掌を広げて天から落ちてくるそれを受け止めた。
 「雪?」
 空を見上げる。
 満天の星々は雪雲の存在を否定している。
 星空を背景に散り落ちる雪。
 再度それを手に取り、視線を移して硬直した。
 「何、これ!」
 そして叫んでしまう。
 赤い雪だった。
 まるで血を凍らせてから削ったような、そして冷たさを感じさせない赤い雪の結晶。
 目の前でその赤い雪が不自然なスピードで積もって行く。
 「一体、何が?!」
 翼を羽ばたかせ、私は里へと急ぐ。
 近づくその間にも赤い雪の量が多くなり、そして強烈な眠気が私を襲う。
 やがて眼下に見え始めた里は、しんと寝静まっていた。
 その頃には私は翼を動かすことさえ億劫になるほどの眠気に包まれていた。
 「駄目、これ以上は行けないっ」
 私は自らの頬を強く打ち、意識を覚醒。
 赤い雪と静寂に包まれた里の上を一周旋回して、村外れの丘にまで退避した。
 丘に着く頃には雪は降らず、同時に眠気も覚めていた。どうやら里に範囲を絞った何らかの現象のようだが。
 丘の上から遠く里を眺めた。
 里の方ではまだ雪は降っている。一体、何があったのか?
 この赤い雪は何なのだ?
 「おじいちゃん、みんな……どうしよう」
 私は一旦夜空を仰ぎ、里を一瞥。
 「うん!」
 里に背を向ける。これは私一人の力ではどうしようもない。
 「助けを、助けを呼ばなくちゃ!」
 東に向かって私は背の翼を広げる。
 そこにまだ見ぬ大きな街があるはずだった。
 エルシルド――人間達の町である。


 荘厳な石造りのあの建物は何階建てなのだろう?
 人が多い、多すぎる。今日は何かのお祭りだろうか?
 街の境目が分からない。一体どれだけ大きいのだろう??
 ただただ、唖然とするしかない。
 一晩中飛び続け、その日の昼過ぎに私はエルシルドの街を空から一望していた。
 身体を包む疲労感など吹き飛ぶほどに、初めて見る人間の街の壮大さに衝撃を覚えていた。
 「すごい、これが外の世界なのね!」
 眼下の街は人で溢れている。
 そしてその数だけ、精霊達が騒いでいる。活気はあるが、頭が痛くなる程、騒がしい街。
 話には聞いていたが、想像を越えるものである。
 取り合えず、私は風の精霊に頼んで私の翼を隠して貰う。人々の好奇の目を受けるつもりはないからだ。
 「さて、と」
 人ごみに交じって街の大通りを歩く。
 道の両脇には露店が並び、見たことのないような物が売っていた。
 じっくり見たいという不謹慎な欲求を、私は村のみんなを思い出すことでなんとか抑え付ける。
 「まずはどこに行けば良いかしら?」
 考える。
 その辺の人に「里が真っ赤な雪に包まれてしまいました。あ、里っていうのはエルファランドの大森林の奥なんですけどね♪」なんて言ったとして。
 ”あー、うん。ダメね。というか”
 冷静に考えて、どうやって里まで行くのかが問題だ。人間は飛べないし。
 まずい、非常にまずい。
 後先をあまり考えることなく外界へ出てきてしまった己の無知に、思わず頭を抱えてしまったその時だ。
 「ねぇちゃん、お茶しな〜い?」
 そんな言葉と共に、私の肩を叩く者がいた。
 「はぃ?」
 「おぉ、可愛い!」
 「俺達と楽しもうぜ」
 人間の男達だ。目に邪悪なものを感じる。
 同時に、私の肩に置かれた手を通してどす黒い陰鬱な精霊が私に這い上がってくる錯覚を覚えた。
 思わず背筋に寒いモノを感じてしまい、
 「触るな、汚らわしい!」
 私は問答無用で、肩に手を置いた男に振り向きざまのアッパーを食らわせてしまった。
 「げふーん!」
 蛙を潰してしまったような音と何処か恍惚さが混じった声を上げて、私の肩に手を置いた男は綺麗に放物線を描いて飛んだ。
 自分でも惚れ惚れするほど見事に決まったアッパーで、男は固い石畳に後ろ頭を打ちつけそのまま動かなくなる。
 なんかピクピクしているが死んではいないだろう、多分。
 一瞬、場に静寂が下りた。それを破ったのは、
 「てめえ、何しやがんだ!」
 悪趣味なイヤリングをした大男。彼は腰の剣を抜いて、私に突き付ける。
 それを合図に、彼らは円を描くようにして私を囲む。
 「四人か」
 遠巻きに恐る恐るすれ違う通行人とは明らかに違う風貌をした彼らは、倒れたのを合わせて五人。
 締まりのない恰好と、破壊を楽しむ目の光。どこの世界にもいるゴロツキと推察する。
 ”あー、もぅ!”
 いきなり、面倒な連中にからまれてしまった。問答無用で殴るのが悪いという意見もありそうだが黙殺する。
 そんな四人がそれぞれ得物を手に、私を囲んでいる。
 「気の強い姉ちゃんだな、だが俺が好きなタイプだぜ」
 「私は好かれたくないわね」
 腰の剣に手を掛け、内心舌打ちしながら答える。私の得物は護身用として常に提げている細身の剣だ。
 こんなヤワな剣が通じるだろうか?
 剣術は苦手ではないが、得意と言うわけでもない。
 そこそこ使えると自負はしているけれど、その根拠は所詮閉鎖的な村の中で培われたものだ。
 外の世界で自分はどの程度の力量なのか、分からない。
 「おしおきだべぇ!」
 大男の後ろでスキンヘッドの小男が、醜悪な顔に笑みを浮かべて呪文の詠唱に入る。
 「呪語魔術?!」
 声の旋律から判断し、私は剣を抜いてまずは目の前の大男に切り掛かった。
 呪語魔術とは精霊を駆使する精霊魔術とは異なる体系であり、言葉の持つ『力』を組み合わせる事により発揮される魔術だ。
 呪文さえそらんじる事が出来れば行使が可能という利点があるが、それでも多少なりとも知識が必要だ。
 こいつら、無知そうに見えて案外危険な連中であると判断を改め直す。
 まずは小男の魔術詠唱を止めないと。
 「おっと、危ないもんを振り回しちゃいけねえよ」
 私の剣は大男に軽く受け流されるが、彼の影に隠れていた小男の詠唱を一時止める事には成功する。
 同時、大男からの棍棒の一撃が繰り出された。
 「っ! 風よっ
 思わず出た声に、背の翼を隠してくれていた風の精霊が応える。
 召喚に応じた不可視の風は、棍棒を持った大男の動きを止めた。同時、私の背の翼は衆目の前にさらされる事となったが仕方あるまい。
 彼は私の風の精霊が束縛してくれたお陰で動けず、意味不明な言葉で騒ぎ立てる。
 視界の隅を見やれば、風の精霊はサービスしてくれているようで大男は妙な形に身体をひねっていた。
 「ぐわぁぁぁ!!」
 苦悶の声を上げている。体が固そうなので良い運動だろう。
 そんな大男の影から、短剣を持った男が現れ切り掛かってくる。
 大男より弱いことを悟った私は剣で短剣を弾き落とし、みぞおちに肘鉄をかます。
 「っは!」
 くぐもった悲鳴を上げて石畳に倒れ付す。
 「もらった!」
 「甘い!」
 隙を見て、背後から切りつけてくる男の短剣の一刃を、翼の浮力で回避。避けざまに剣を走らせる。
 「がぁぁ!」
 運良く男の右腕を軽く切り裂く。彼は体制を立て直すように後ろへ数歩下がった。
 「ふん!」
 ぱきん
 そんな音がした。それは風の精霊の拘束を力任せに引き千切った音。
 「っと」
 ぶん、と頭の上を棍棒の一撃が通りすぎる。拘束していた大男の一撃だ。
 「妙な技を使いやがって。コイツ、人間じゃねぇな」
 こちらも数歩後ろに下がって大男。私の背で動く翼を睨みながら言う。
 「あと三人か」
 大男と、呪語魔術を使う小男、そして右腕を怪我した短剣使い。
 石畳には私はアッパーでノックアウトした男と、鳩尾に良いのを貰って泡を吹いている若者。
 さて、どうしよう。
 逃げられるような隙もないし、全員なんとか倒すしか……
 「「はっ!」」
 大男と短剣使いが、考えのまとまらない私に同時に切りかかってくる。
 棍棒と、短剣の凶刃を翼を駆使して交わし続けるその視界の隅に、小男の詠唱も聞こえてくる。
 まずい。
 相手がこちらを舐めている間に、もう一人くらい倒しておければこんな事には。
 必死に攻撃を避け続けながら攻撃の隙を覗いつつ、剣で反撃を繰り返す。
 二人の動きは少しづつ鈍くなっていくが、彼らが倒れる前に間違いなく小男の魔術の完成が先になりそうだ。
 「「ぎゃーーー!!!」」
 悲鳴はいつの間にやら出来あがった野次馬達の壁の一角から。
 棍棒の横薙ぎを避けざま、一瞬視線を走らせた。
 「あ」
 思わず声が漏れた。
 視線の先、そこにはまるで見えない壁によって左右に押し広げられたかのように野次馬達の輪に穴が出来ている。
 その先に、青年がいた。
 会ったこともない男。
 けれど、その目を見た時に思わず声が漏れた。
 同様に視線の先の彼の口も「あ」の発音で固まっているように見える。
 一瞬、生んでしまった隙。
 「土よ、かの者を束縛せしめん!」
 力ある言葉が小男から発せられ、石畳の隙間からまるでアメーバのように粘土状の土が染み出した。
 「しまっ」
 土は私の足首に絡みつき、浮力を奪う。
 「もらった!」
 大男の棍棒の一撃が、私を後ろから襲い、
 「かっ」
 首の後ろを強打され、私は意識を瞬時に暗濁させたのだった――

<Rune>
 僕の目の前で、翼を持つ少女は倒れ行く。
 追い打ちとばかりに、大男が再度棍棒を振り上げ、
 「イリナーゼ!」
 僕は腰の剣を抜き放ち、男に目がけて投げつける。
 魔剣は僕の意図を解し、回転して空気を切り裂き、振り上げられた棍棒を真っ二つに断ち割った。
 「ぬぁ?!」
 「何だ」
 「っ?!」
 一瞬動きを止める三人。
 その時にはすでに僕は少女を抱え、かつ紡いでいた呪文を唱え終えていた。
 「天は陽、地は陰、其は天を駆け抜けし者、かの者を射らん!」
 電撃の呪語魔術をスキンヘッドの小男に向けて解き放つ。
 走る電撃に打たれた小男は悲鳴をあげることすらなしに、その場に痺れ倒れた。
 「くそっ」
 棍棒を絶ち切られた男は、石畳に刺さったイリナーゼを抜いて僕に切り掛かろうとし、
 「がはっ!」
 しかしそれも魔剣本体からの電撃で果たせず、その場に崩折れた。
 「退くわよ」
 小声で告げて、僕に背を合わせる様にして身構えるのはシフ姐。
 残る一人だった短剣使いは、シフ姐の手刀か何かですでに地に伏している。相変わらず手際がいい。
 僕はイリナーゼを拾って鞘に戻し、少女を急いで抱え上げる。
 彼女は驚くほど軽かったが、気にする間もない。
 「北方向へ道を作るから」
 続けて少女をかばうように構えるのはクレア。
 クレアの言葉が終わるか終わらないかの内に、シフ姐が懐から拳大の珠のようなものを取り出すと、
 ボシュ!
 地面に叩き付ける。煙が湧き立ち、視界がほぼ0となった。
 シフ姐特製の煙玉だ。東方で暗躍する忍者の秘術を用いたこの配合を前に、野次馬如きでは僕らの顔の判別などできはしないだろう。
 同時、
 『道を示せ、光の射す正義の道を!』
 クレアの本日二度目の神聖魔術。野次馬の輪が北方向にのみ、力づくでこじ開けられる。
 彼女が一度目の神聖魔術で人の輪をこじ開け、僕が走り出してからこの間、わずか十も数える間もない。
 僕達は混乱する野次馬達の輪を抜け、駆け足でこの場を立ち去った。
 カラスの様にしつこいチンピラどもに、足をつけられてはたまったものではない。
 なるべく迅速に行動したので、僕達が誰かということまでは判明しないだろうと祈りを込めつつ。
 「はい、退いて退いて!」
 白煙の中、見物人達を掻き分けて僕らは失われた風景荘を目指して駆けたのだった。


 「ただいま」
 僕は失われた風景荘の扉を蹴り開ける。
 続けてシフ姐とクレアが駆け込み、後ろ手で素早く扉を閉めた。
 「おかえりなさい。あらあら、どうしたの、その娘?」
 カウンターにいたレナおばさんが驚いたように尋ねてくる。
 「おお、ルーンが女の子を連れ帰ってきたぞ!?」
 場違いなセリフを吐くソロンを無視し、僕は腕の中の意識のはっきりしない彼女をソファに寝かせた。
 そこにレナおばさんが水と冷えたタオルを持ってきてくれる。
 僕はタオルを彼女の首筋に当てた。棍棒で殴られた個所だ。
 「うっ」
 閉じられた瞼が小さく痙攣する。
 「首筋を打たれたの?」
 「うん、打点はそらしていたみたいだけど」
 心配そうに尋ねてくるレナおばさんは、冷水の入った桶を持ってきてくれた。
 「でも棍棒で一撃だしね」
 シフ姐が呟き、
 「癒しの祈り、するね」
 クレアが治癒の神聖魔術を行使しようと僕の隣に来たところで、翼を持つ少女は長めのまつげを動かした。
 「っつ!」
 目が開く。
 彼女のぼんやりとした瞳はやがて焦点が合い、その中に僕の姿を映し出す。
 「水、飲む?」
 差し出したコップを、彼女は抵抗なく受け取って一気に飲み干す。
 「ふぅ〜〜〜」
 大きく息を吐いて、そして改めて顔を上げる。
 「危ないところを、ありがとう」
 そんな一言とともに。

<Camera>
 顔を上げた娘に、青年は言葉に表せない程の深い懐かしさを感じた。
 白く整った面に黒く長い髪、そしてアメジスト色の澄んだ青い瞳。歳の頃は同じくらいだろうか。
 変わってないな――そう青年は呟きそうになった。
 初対面のはずである。何故懐かしさを感じたり、変わってないと思ったりするのか?
 その問いに対する答えは、これまで長い間求めていたものであることに本能的には気付いていたのだが、この時の彼は理性的にその回答へはつながらなかったようだった。


 娘は胸を締めつけるほどの懐かしさを感じた。
 目の前の人間の青年――どう考えても村を出たことのない彼女にとって、初めて見る顔である。
 彼女と同じ黒い髪。若干あどけなさの残る顔。黒いまっすぐな瞳には彼女の姿が映っている。
 目立った特徴がある訳でもない、普通と言われればそうかと頷いてしまうような青年。
 しかし安心できるほどの懐かしさを感じていた。一体どういうことだろうか?
 その理由を彼女は本能では気付いていたのだが、この時は唐突過ぎてそこまで頭が回らなかったようだった。


 青年の黒い瞳に映る少女の青い瞳から、知らずのうちに一滴の光が落ちていた。
 「あ、あれ?」
 慌てて涙をぬぐう娘。
 そして、
 彼女の目の前、その濡れた頬に手を伸ばそうとした青年が不意に視界から消える。
 「この、愚か者がぁぁ!」
 突然出てきた魔術師風の女に飛び蹴りを食らった彼は、頑丈な木製のカウンターに頭をぶつけ、彼女とは違う意味で涙目になっていた。
 「女の子を泣かせるたぁ、どういう了見かしら?」
 げしっ、とブーツで踏みつけられながら彼は震える声で弁解した。
 「ぼ、僕は何もしてないよっ」
 と言うより、実際何もしていないのだから弁解ではないが。
 翼を持つ少女は、魔術師の女にごりごりと踏まれている青年と、自身の額に置かれた濡れタオルとに交互に視線を走らせると、「んー」と唸り、やがて「あぁ」とつぶやいてポンと手を打った。
 「あ、あの、待って。私は多分、この人に助けられた……んだと思うの」
 娘は恐る恐る止めに入る。
 魔術師風の女――シリアは足をルーンからどかした。
 青年は解放されたゴキブリの如くシリアから逃げだすと、少女に駆け寄り、
 「怪我は、大丈夫?」
 「貴方の怪我の方が重いような気がするけど」
 椅子にしがみつくルーンに、娘は苦笑いで答えた。
 彼は彼女のそんな様子に安堵したのだろう、優しく微笑み伝え、問う。
 「僕はルーン・アルナート。君は?」
 娘もまた、彼の微笑みにつられて笑みを浮かべて答える。
 「アスカ・ルシアーヌよ。ありがとう、ルーン」
 その笑みは、彼女が外の世界へ来て初めて浮かべる安心に満ちたものだった。

<Rune>
 アスカ・ルシアーヌと名乗る彼女は、一言で言うと美人だった。
 それも人間とは違った美しさ―――絵画的な美しさと言った方が良いかもしれない。
 それは彼女が人間ではないからだと、思う。
 背から伸びる一対の白い翼。それこそが彼女が人間『族』ではない証拠だ。
 彼女は翼を持つ種族『ファレス』。
 有翼族としての特徴であるその飛翔能力を生かし、人間族とは極力関わらない土地に生活拠点を置いている。
 彼らは住む土地ごとに部族が異なり、翼の色と身体的特性が異なると伝えられている。
 例えば、砂漠に住まうブラウンファレス族。彼らの備えるタフネスはドワーフ族の比ではない。
 西に広がる海洋の果てにある岩礁郡に住むブルーファレス族は、水中で2日息継ぎなしに生きる事が出来るらしい。
 人知未踏の渓谷に拠点を置くグレーファレス族の飛翔能力は、その速度と技術において他部族を圧倒している。
 そして彼女。
 白い翼を有するホワイトファレス族は、エルフ族と並んで魔力に秀でた森の種族だとされる。
 しかし五百歳は生きると言われるエルフ族とは異なり、彼女達ファレス族の寿命は遥かに短く人間並みであるとされる。
 そんなファレス族のアスカ。当然、僕は会うのは初めてだ。
 初めてのはず、なのだけれど。彼女から何故か懐かしさを感じる。
 それは今は腰に差した魔剣イリナーゼから当初、微かに感じた感覚とよく似ている気がした。
 「で。世間嫌いのファレス族が人間の世界に何の用なのかしら?」
 アスカの対面にあるソファに腰掛けたシリアの言葉に思考を中断する。
 「まさか観光とも思えないけれど」
 僅かに唇の端を笑みの形にして問うシリア。
 この表情の時の彼女は、美味しいエサを前にして如何に『全て』を掠め取ろうと企んでいるときの、厄介なものだ。
 アスカから何か儲け話を感じ取ったのだろうか?
 シリアの場合、魔術師の勘というよりも女の勘の方が強いので相棒のソロンよりも嗅覚が数段鋭いことがある。
 「遅れ馳せながら私の名はシリア、シリア・マークリーよ。で、隣のコイツがソロン・エリシアン」
 「どーも」
 興味深そうな眼差しを向けながら会釈するソロン。
 「で、カウンターの向こうのおば様がレナ。カウンターでお茶飲んでるのがシフ。貴女を介抱してくれた娘がクレアよ」
 「よろしくね、アスカちゃん」
 「ん」
 「初めまして」
 シリアの簡単な紹介に三者三様の反応。
 アスカは彼女達に小さく頭を下げ、視線をシリアに戻す。
 「そうですね、観光ではないわ」
 彼女は先程の問いの答えを、呪語魔術の使い手にそう答えた。
 「私は貴方達人間がエルファランドの大森林と呼ぶ地から来ました」
 そこまで続けて、彼女は周りを一望する。
 シリアを、隣のソロンを。
 カウンターの向こうのレナおばさんを、その前に置かれた椅子に腰掛けたシフ姐を。
 濡れたタオルを手にしたクレアを。
 最後に僕を見つめて、意を決したようにこう言った。
 「私達の里を助けてください」
 「ほぅ」
 静かに告げたアスカの言葉に、まずはソロンが反応した。
 「俺達を見込んでのことか? それともこの街に住む人間に対しての発言か?」
 「??」
 ソロンの言葉にアスカは首を捻る。
 「どういう意味ですか?」
 「あー、んー、そうだな。この街自体にファレスの村の代表として助けを求めるのなら、街の太守のところに行くのがスジかと思うのだが」
 「あぁ、この街の代表者ということですね」
 なるほど、とアスカは納得する。
 「けれど」
 彼女はまっすぐな視線をソロンへと注いだ。
 「街の太守に援助を依頼したとして、貴方は力を貸してくれますか?」
 その疑問に対して、ソロンは即答。
 「力を貸すとすれば、街の衛兵隊だろう。俺の出番じゃあ、ない」
 「では」
 アスカはニコリと爽やかに微笑むと、ソロンに告げる。
 「街の太守ではなく、貴方にお願いします。私の村を助けてください」
 「………」
 しばらく二人の視線が絡み合う。
 先に外したのはソロンの方だ。彼は助けを求めるかのようにシリアへと。
 シリアは目でソロンに返事を寄越す。
 ”テメエが話を進めたのだから、しっかり話をつけろ”
 シリアは目でそう言っている。この時点である程度オチは見えているのだろう、彼女は溜息交じりだ。
 「あー、うー、どうして俺なんだ?」
 ソロンが苦々しく紡ぎ出した問いに、アスカはあっさりと、何の下心が含まれているように思えないほどすっぱりとこう言った。
 「貴方、とんでもなく強いですから」
 「え、そう見える? いやぁ、まいったなぁ、グフッ!」
 シリアに豪快な肘鉄をこめかみに食らって床にもだえるソロン。
 「ソロン、若い子にヨイショされてそんなに嬉しいの、ん?」
 「いや、その」
 「そして貴女も。シリアさん」
 そのアスカの言葉は、シリアと彼女のと間に一瞬の緊張を走らせる。
 「へぇ、若いのに人を見る目があるのね」
 そう口を開いたのはシリアの方だ。
 「私自身にはそんな眼力はないですよ、ただ精霊がそう言ってますから」
 さらりと笑顔で応えるアスカの言葉に思わず僕は息を呑んで、呟く。
 「精霊使い、か」
 精霊使い―――それはこの世に存在するモノ全てに宿る意志を使役することの出来る者。
 万物には意志が宿り、それを精霊と呼ぶ。
 大地には地の精霊、流れる河には水の精霊、猛る暖炉の炎には火の精霊、吹き抜ける北風には風の精霊が。
 それら意志を感じ取り、その意志を汲み入れ、助力を仰ぐ事。それが精霊使いの力と言われる。
 かつて人間族もこの力を持っていたとされるが、今現在では自然の中に生き、魔力に秀でた種族――エルフ族や魔力に秀でた一部ファレス達くらいしか用いる事が出来ない、我々には失われた能力だ。
 「ソロンさんは、その背負った剣に宿る鋼の精霊に絶大な支持を受けています。シリアさんは纏う精霊の比率がひどく安定していますし」
 ほぅ、だとか、むぅ、だとかソロンとシリアから唸りが漏れた。
 だから僕は、ついついこんな訊いてはいけないことを訊いてみてしまったんだと思う。
 「へー、そんなのも見えるんだ。じゃ、ここで一番強そうなのは?」
 アスカはここにいる全員を一通り見渡し、やがて視線は一点で止まった。
 「え、レナおばさん?」
 視線を向けられたレナおばさんは小さく首を傾げていた。
 「ん? 私がどうしたの、アスカちゃん?」
 「あ、い、いえ、えと。なんの話だったかしら?」
 慌てて僕に視線を戻すアスカ。なんとも言えない妙なプレッシャーを感じて僕は、
 「えと、あー、そうそう、アスカの住んでいる里ってどこにあるの? 助けに行くにしても、この近くにそんな所はなかったような気がするんだけど」
 話を元に戻した。
 「私の村は、貴方達人間がエルファランドの大森林と呼んでいる森の奥深く。人間族はまだ誰も立ち入ったことはないはずよ」
 「へぇ、あの森にはドワーフしかいないと思っていたわ」
 シリアの言葉にアスカは微笑む。
 「森に住まう精霊達との盟約によって閉ざされているの。エルフの用いる『迷いの森』の魔術とは違った力の使い方だから、今まで誰にも知られることはなかったはずよ」
 「ほぅ、しかしそれにしても俺もこの街に長いこと、住んでいて森にはよく遊びにも行ったもんだが。確かに奥地に踏み込んだ事はないけど、全然気付かなかったぞ」
 こちらはソロン。
 「そうですね、もしも盟約がなかったとしても相当の悪路の上に崖も頻繁にあるから、地を行くのは無理です。空からでないと」
 応え、アスカは背の翼を軽く動かした。
 「閉ざされたファレスの集落か、なかなか興味深いわね」
 シリアは一人頷きながら続ける。
 「話は聞くわ、アスカ。内容次第で力を貸してあげる。協力できない場合でも、街の太守には私から話を通してあげるわ。もっとも戦力を出してくれるかどうかは約束できないけどね」
 アスカはしばしの沈黙の後、口を開いた。
 その内容は僕には奇妙な怪奇現象にしか思えなかったのだが。
 「赤い雪、ねぇ」
 「赤い雪、か」
 ソロンとシリアが顔を見合わせる。
 「その雪に触るととても眠くなるようです。私は村からちょっと離れたところにいたから助かったけど」
 「村のみんなは眠り続けてる、ってことかな?」
 僕の言葉に、
 「それだけなら良いけど。無事でいてくれたら」
 沈痛な面持ちでアスカは俯いてしまう。
 「一つの集落を覆うほどの赤い雪、眠りを誘う赤き結晶、か」
 「嫌な予感しかしないわね、ソロン」
 額に皺をよせるソロンとシリアはアスカに振り返る。
 「取りあえず『見て』みましょうか、アスカ。協力してもらえる?」
 「は、はい」
 シリアはテーブルの上に懐から取り出した拳大の水晶球を置くと、愛用の杖を右手に、左手の人差し指をアスカに向ける。
 「イメージして、貴女の故郷を。今まで暮らしてきた馴染みの土地を」
 「分かりました」
 目を閉じたアスカの額に人差し指で触れながら、シリアは呪語を紡ぎ始める。
 「遠き光景よ、その光をありのままこの場に伝えよ」
 テーブルの上の水晶球の中で映像がうっすらと映り始める。
 やがてぼんやりとした映像はしっかりとした輪郭を持って僕達に現在のアスカの村の状況を伝えてくれる。
 森に囲まれた小さな村が映っていた。
 もう止んでいるが一面に赤い雪がうっすらと積もっている。人の気配はあるのだが、動く影はない。
 景色は自動的に進み、村の中心である広場に変わる。
 「何だ? あいつは」
 僕は眉を寄せる。そこには丁寧な細工を施した蛇と鳥の彫刻が鎮座する噴水があった。
 水の止まった噴水の、彫刻の上に二人の男女がまるで村全体を睥睨するように腰掛けている。
 褐色の肌に白く長い髪。体にぴったりと張りつくような黒い革鎧を着こなした二十代後半の男女。
 男の方は鍛え上げられた肉体を持ち、女の方は豊満な肢体を惜しげもなくさらしている。まるでこちらの二人の方が彫刻であるかのように。
 「しまった!」
 シリアの舌打ち。何事かと水晶球を気を取り直して見やれば、二人は分かるはずのない僕達の方に視線を向けている。
 そして、
 「「待っている」」
 そう、口が動いた。
 「クッ」
 シリアの苦悶のうめきと共に映像が歪み、弾ける!
 「何、あいつっ」
 シリアは額を押さえて唸る。テーブルの上の水晶球はきれいに二つに割れてしまっていた。
 「あれは一体??」
 同じように額を押さえてアスカは問う。
 しかし答えられる者などいるはずも……。
 「ありゃあ、厄介だぞ」
 いた。ソロンがそう呟く。
 「分かるの、ソロン?」
 「ああ。あれは魔人だよ、血の雪の魔人の噂話をすんげー昔に聞いた事があったが、噂じゃなくて実話だったんだな」
 「魔人、か」
 魔人―――それは人を超越した力を持つ人という認識がなされている。
 魔族の血を引いているだとか、神の力の恩恵を極めて強く受けているのだとか、はたまたそもそもこの世界に住む者ではなく、外の世界の者であるとか、諸説ある。
 正体はさっぱり掴めないが、ただ言えるのは人の常識をはるかに超えた力を有する『人間』であることだ。
 時々、人の世にはそういったイレギュラーな存在が発生することがあるらしい。そしてその末路は杳として知れず。
 「待っている、そう言っていたわね」
 「あぁ」
 シリアは続けて問う。
 「行かなかったら?」
 「来るんじゃないか、こちらに」
 「そう、よね。やっぱり」
 まずった、そう態度に表しながらシリアは立ち上がる。
 そしてレナおばさんに一言何かを告げると、懐から白墨を一本取り出して、床に魔術陣を描き始める。
 「どうするの、シリア?」
 「どうするものなにも、行くしかないでしょう」
 実に。
 実にあっさりと彼女は言った。
 「え、どうして急に」
 「行かないとアイツら、こっちに来るわよ。好んで街を壊されたくないしね」
 「まぁ、何よりも喧嘩を売られて買わない訳にはいかないだろう?」
 シリアの台詞に追加して、ソロンは不敵に微笑んだ。
 「でもあの雪は眠気を」
 「大丈夫よ」
 アスカの懸念をレナおばさんが払う。
 カウンターから出た彼女は、なにか小声で呟くとソロンとシリアそれぞれの背中に軽く触れた。
 するとどうだろう、ぼんやりと二人の体が蒼い光に包まれているように見える。
 「わっ、お母さん、あんな強力な防御膜張れるんだ」
 クレアがビックリした顔で言葉を漏らす。
 「さ、いってらっしゃい。あの程度の魔人なら、貴方達二人でどうとでも出来るわ」
 「買かぶり過ぎですよ、おばさん」
 「結構手こづると思うんだけどなぁ」
 二人は苦笑い。あの程度の一言で片付けるレナおばさんに、僕の両親と同じ怪しい匂いを感じた。
 やがてシリアは魔術陣が描き終わったらしく立ち上がる。
 「報酬については後で相談ってことで良いわね、アスカ」
 「は、はい!」
 アスカの答えにシリアは満足そうに微笑むと、呪語を紡ぎ出す。
 「空間よ、次元とその狭間に生きる瞬間よ。我らの前に望む空間へと繋ぐ道を示せ!」
 人が一人入るくらいの大きさの魔術陣から光の柱が立ち上る。


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