そこは某県某市。
 地方にある衛星都市の一つで、際立って大きいわけでもなく生活に不自由を覚えるほど小さいわけでもない。
 特に気にすることがなければ、大抵の人がそこで生まれ、そこで育ち、そしてそこで死んでいくような土地だ。
 この物語は、そんなどこにでもあるような街での、とある姉妹と彼女達を取り巻く人々のお話。
 とりとめもない、けれど彼女たちがそこで暮らしてきた確かな記録―――


若桜さんが再来


 久々に出会った乙音さんは、なんか臭った。
 「お久しぶり、亮クン」
 「臭いですね、乙音さん」
 「んな?!」
 硬直する乙音さんに俺は玄関の戸を指差し、
 「Go Home」
 「え、犬?! 私、犬?! というか、うら若き乙女に臭いますって失礼なっ!」
 ぷんぷん怒りながら、彼女は自身のコートの袖やスカートの裾などの匂いを嗅いでいる。
 「臭わないけど…」
 「いえ服じゃなくて、乙音さん自身から」
 「ふぉ?!」
 口を塞ぐ彼女。そこに俺はさらに追撃を入れる。
 「ニンニク臭が身体全身から匂って来ます」
 「……むぅ」
 諦めた様にその場に腰を下ろす彼女。諦められても困るのだが。
 「今日、韓国から帰ったんですよ。向こうじゃ、何かしらの料理でニンニク使ってましたし」
 「へぇ、何しに行ったんです?」
 「あら、亮クン。私のお仕事に興味あるんですか? てことは、とうとう私に興味を持ち始めたんですかぁ?」
 「社交辞令で訊いただけです。別に知りたくもない」
 「うぁ、本気の目で言ってるよ、この人」
 悲しそうな顔をしつつ乙音さんは、拗ねながらも肩にかけるにはやや大きめなかばんから何かを取り出し、俺の机の上に置く。
 20cm四方の大きさを持つタッパーらしきものは、お土産のようだ。それをおもむろに開ける。
 途端、俺の鼻腔に乙音さんから漂ってくる匂いをさらに強くしたものが届いた。
 「むぉ、キムチですか」
 「いいえ、チャンジャです」
 「臭い一緒じゃん!」
 「チャンジャとはタラの胃袋を塩漬けにした後、ごま油、唐辛子、ニンニクに漬け込んだ物です。お酒に合うと思って買ってきたんですよ」
 「なるほどなるほど、そういうことなら分かります」
 俺は頷きつつ、冷蔵庫から500mlの缶ビールを2本と日本酒の瓶を取り出したのだった。
 
 
 「へぇ、毎日焼肉とか食べてるもんかと思ってました」
 「それは飽きますし。でもキムチは毎食出てましたねー。美味しいのはスープ系がオススメでした」
 「スープ系ですか」
 「はい。鶏丸ごとのサムゲタンなんかは有名ですね。あと内臓系をぶつ切りにしてまとめてぶち込んだ漢らしいのとか」
 「……ワイルドですね」
 「見た目はアレですけど、味わい深いものですよ。色んなのが入ってて、詮索する気もないですが」
 「ホントに大丈夫ですか??」
 チャンジャを肴に、俺は乙音さんの土産話もゆっくりいただいていた。
 チャンジャは歯ごたえがあり、イカの塩辛よりも味がある、確かに酒に合うツマミだった。
 「でもやっぱりビールは日本のが美味しいですね」
 「えー、でもその土地その土地のツマミでその土地の酒を呑むのが一番美味しいもんじゃ?」
 「んー、でもやっぱりビールは向こうのはちょっとねぇ。薄いというか、妙に甘いというか。地元の他のお客さんにも話を聞いたら、CassやHiteやMaxよりもアサヒのスーパードライの方が美味しいとか言ってますし」
 「ふーん。あ、他にお酒は何呑んだんです? やっぱりマッコリ?」
 「マッコリはあまり見ませんでしたよ。観光客向けのお店にはあるんでしょうけど。どちらかというと、チャミソルを使った八十歳酒とか飲みましたし、地元の方もそちらを呑まれてましたね」
 「チャミソル?」
 「真露です。日本の焼酎みたいな感じですけど、こちらも妙に甘いですねー。ストレートで呑むんで、結構回るんです」
 「キツイですね。水割りとかお湯割りないんですか?」
 「むしろこのチャミソルと薬膳酒などを混ぜ合わせて八十歳酒とかその場で作るんですよ」
 「それも微妙に甘いとか?」
 「はい、なんで甘いんでしょうね。ちょっと苦手かも、でした」
 そう言いながら颯爽とビールを空け、日本酒へ移る乙音さんはどこかほっとしたようだった。
 「向こうで…お仕事はしっかり終わったんですか」
 「えぇ、ちゃんと片付けてきましたよ。ちょっと大変でしたけど、こうして無事に」
 少し遅れてビールを空けた俺のコップに、日本酒を注ぐ乙音さん。
 「お疲れさまでした、おかえりなさい」
 「はい。ただいま、です」
 チン♪
 ワイングラスのように繊細ではないが、コップとコップが触れ合う祝福の音が小さく響いたのだった。


【幸と肥満】

 梨に栗に葡萄。
 他には、さつまいもやら秋刀魚やら。
 そんな秋の幸がダンボールに山のように積まれて、彼女はやってきた。
 「これは?」
 「田舎から送ってきまして……とても1人じゃ食べきれないんで、おすそ分けです」
 ダンボールの向こうで微笑むのは、ここ猫寝荘の1階に住む女の子。
 確か今年、新社会人になったばかりの子である。
 「田舎から?」
 「はい」
 どれだけ送ってきたのだろう??
 「お隣の若桜さんが留守なもので、その分ちょっと多いですけど」
 そうですね、食べきれません。
 と、さすがに言えない。
 「ありがとうございます、美味しくいただきますね」
 笑顔で俺はそれを受け取り、扉を閉める。
 扉の向こうでは、
 「さて、次は管理人さんに押し付けなきゃ」
 とか、そんな声が聞こえて来たり。
 「しっかし、早く食べないと腐らせてしまうな」
 特に果物類は早く片付けなくてはいけない。
 とりあえず、今日の晩御飯は果物オンリーかなと覚悟をしたのだった。
 そんな晩のことである。
 こんこん
 玄関がノックされた。
 「はい」
 開けると、そこには秋の幸の山があった。
 「ただいまー、亮クン」
 これまた、ダンボールに梨やら葡萄やらを山ほど抱えて顔を出したのは、乙音さんである。
 「どうしたんです、それ?」
 「おすそ分け」
 「……そう、ですか」
 「雪音と一緒に山の方へ旅行に行ってきてね。果物もぎ放題の農園に入ったら、ちょっと取りすぎちゃって」
 どさっ、と荷物を玄関に置いて乙音さん。
 「ビタミン不足っぽい亮クンには丁度良いでしょ?」
 そう微笑む彼女に、俺は「あー、そうですねー」としか言いようがなくて。
 過剰摂取の場合はどうなるんだろう? と乙音さんが去った後、2つのダンボールを眺めながらしみじみとため息をついたのだった。
 なお、その答えは後日体重が増えたことで納得することとなる。


【幸と肥満――その舞台裏】

 「うーん、困りましたねぇ」
 そんな言葉とは裏腹に、全然困った様子のない顔で彼女は呟いた。
 山奥だった。
 鬱蒼と茂った山林の中に彼女はいる。近くに車道はなく、けもの道すらない。
 一歩ごとに彼女の履く登山ブーツは、かかとの部分が完全に腐葉土と化した土に埋まる。
 周囲に人の姿も人工物もなく、人の作り出す音は彼女の吐息だけだ。
 「完全に迷っちゃいましたか」
 一人、愚痴る。
 救いはまだ日が高いことか。
 「あ、そうだ」
 懐から携帯電話を取り出す、が。
 「そりゃあ、圏外ですよねー」
 PHSであるWILLCOMではさすがに無理だった。もしかしてDOCOMOならなんとかなったかな?と彼女は思う。
 「まぁ、飢え死にってことはなさそうですし」
 呟く彼女の右手には手提げの籠。
 その中には色とりどりのキノコが摘まれていた。
 どうやらキノコ狩りの最中に、つい奥の方まで足を踏み込んでしまったようである。
 そんな彼女の視線は、一点で止まる。
 それは立派な赤松の木の根元。
 「これはっ!」
 独特の香り、不自然な落ち葉の盛り上がり。
 彼女は駆ける。
 そしてしゃがみこんだ。
 「やっぱり!」
 松茸である。さっそくそれを丁寧に摘み取り、注意深く彼女はその周りを見渡した。
 「あぁ、やっぱりありますね」
 赤松を中心に、リング状に松茸が群生していた。フェアリーリングである。
 「大量大量♪ 亮クンも雪音も喜びますね」
 嬉々としてそれを摘みながら、彼女はふと手を止める。
 「……生きて帰れれば、ですけど」
 「その通り」
 「え?」
 聞き覚えのない男の声に彼女はハッと後ろに振り返る。
 同時、何か堅い物で頭を殴られ地に伏した。
 薄れ行く意識の中、彼女は角材のような物を手にした黒い人影をいくつか目撃したのだった。


 「で、気がついたら車道に寝かされていたんです」
 額に包帯を巻いた乙音は亮に告げる。
 「山の神様が道に迷った私を助けてくれたんですかねぇ」
 「いや、それはどうかな……」
 亮は額に汗しながら安堵の息をついた。
 「むしろ道に迷っていたみたいだから、命までは取られなかったんじゃないかな?」
 「へ?」
 「あ、いや、なんでもないです。でもダメですよ、素人が山の奥に入っちゃ」
 「そうですね、今回は良い教訓になりました」
 言いながら、彼女はキノコの入った籠を取り出した。
 「でもね、松茸以外は私が取って来たキノコと中身が変わってるんですよ」
 残念そうに彼女は亮にキノコを見せながら言う。
 「地味な色のばっかりになっちゃって」
 取り出したのは見事なマイタケや大ぶりのシイタケ、天然物のシメジなど。
 なかなか買えないレア物ばかりであった。
 「こんなの取った覚えないんですけどね。もっとオレンジ色とか紫色のを取ってたんですけど」
 「あー」
 そんな彼女の言葉を聞きながら亮は呆れたような、それでいて引きつったように笑う。
 「ある意味、山の神様とやらに会えて良かったんじゃないかと思うようになりましたよ」
 「?? どういうこと?」
 「いえ、キノコ狩りは乙音さんには合ってないってことで」
 見えないところで毒キノコ料理を回避できたことに、亮は一人安堵するのだった。


【彼我の距離】

 「あら、亮クン。こんにちわ」
 そう彼が彼女に声をかけられたのは夕暮れの駅前。
 丁度帰路に就いていた矢先の出来事である。
 「こんばんわ、乙音さん。仕事帰りですか?」
 「はい。今日も一杯お仕事しましたー」
 微笑む彼女はパリッとしたスーツ姿だ。
 ちなみに亮には未だに彼女が何の仕事をしているのか分からない。
 「乙音さん、ところで何の仕事…」
 「亮クンもお仕事帰りですか?」
 永年の質問をいつもの通り遮られ、彼は苦笑。
 「いえ、今日は昔の知人がこっちへ出てきたというのでちょっと会いに行ってきまして」
 「へぇ。その人って、亮クンにとって大事な人なんですね」
 「?? どうしてそう思うんです?」
 唐突な乙音の言葉に、亮は首を傾げる。
 「だって、今の亮クン、嬉しそうな顔してるから」
 「そう、ですかね?」
 「で、どんな人なんですか? 今日お会いしたのって」
 「あ、いや、まぁ」
 帰路。
 彼の隣に並びながら、彼女は問う。
 「古い友人ですよ、学生時代のね。もう十何年も経つのに全然変わってなかったですよ」
 「へぇ、でも亮クンはそのころから変わったんですか?」
 「変わったとは思うんですけど、その人は『変わらないね』って言うんです。お互い成長しないもんなんですかね」
 亮は言って、小さく笑う。そんな彼の横顔を見つつ、乙音はこう問うた。
 「なるほどー、男性ですか? 女性ですか?」
 「女性ですよ」
 「ふーん」
 やがて2人は公園にさしかかる。
 この公園を横断すると近道なので、どちらからとも言わずに中へと入る。
 リリリリ
 コオロギが四方八方からその声を響かせている。
 弱い電灯が遠い間隔でならぶこの公園からは、秋の星座が街中よりも遥かに良く見えていた。
 「その人のこと、好きなんでしょ」
 静かに乙音がそう言った。
 「…その人、結婚してますよ」
 「あー、そうじゃなくってですね」
 乙音は考えるように右手で己の額を押さえると、
 「その人もきっと、亮クンのことが好きだと思うんです。でもそれは恋愛感情とかそんな限定的なものじゃなくって……でも友人として好きってのとも違うと思うんですよね」
 彼女は困ったように頭を掻く。
 「その方に対しての亮クンと、亮クンにとってのその方は、お互いそう思っているから今でもお互いに『変わらない』って思えるんじゃないかなーって。あー、私何言ってるんでしょうね」
 苦笑いの乙音。
 そんな彼女に亮もまたこちらは優しく微笑む。
 「そうですね、きっと俺はその人が『好き』なんでしょうね。だから今でも変わらなく見えるんだと思いますよ」
 「亮クン」
 「はい?」
 「いつか私達も…そんな関係になれると嬉しいですね」
 「……そう、ですね。それもまた、悪くはないですね」
 並んで歩む2人の影は、弱い電灯で長く長く路上に伸びていき、やがて雲の陰に隠れて消えた。


【自身の場所】

 穢れのない白い部屋は消毒液の匂いで満たされていた。
 私の目に映る彼女の姿は先日見た姿とは異なり、かつそれを言うのならば初めて出会った2年前とはすでに別人だ。
 私の姿を捉えた彼女は、空虚だったその瞳に弱々しい光を灯し出す。
 「いらっしゃい、乙音。今日はどうしたの?」
 小さいが芯のある声を聴きながら、私は彼女の横たわるベットの脇に据えられた椅子に腰掛ける。
 「調子は…良くはなさそうね」
 「えぇ、見ての通りよ」
 苦笑いの彼女。肩までの黒髪を細い左手で軽く払った。
 私の知る最近の彼女は命の次に大事だと言い張る腰までの長い髪を有していたはず。
 その彼女にとって大事な髪が喪われていること。
 当然、疑問としてぶつけたい気持ちはあるが、その好奇心は彼女のどう作用するか分からない以上、口にするのは憚れる訳で。
 「ん?」
 そんな私を見て、彼女は小さく首を傾げる。
 「あぁ、髪のことね」
 彼女はその時、自らの短くなった髪に手を添えている己の手に気付いたようだった。
 それは長い髪を有していた頃の彼女の癖。短い今は特に払う必要はないはずなのに、手が行ってしまうのだろう。
 「えぇ。どうしたの、自慢の髪は?」
 質問を促され、私はそのまま流れに乗ることにした。
 しかし返ってきた答えは原因となる文言ではなかった。
 「貴女は命というものを、どう考えているかしら?」
 「へ?」
 問いに対して問いで返され、しかもそれはかなり的が外れているようにしか思えない。
 「命、ねぇ??」
 「命というより私が私であり、貴女が貴女である意志そのものは一体この体のどこにあるのかしらね?」
 自問するように彼女は呟き、自らの胸に髪を押さえていた左手を当てる。
 「ここかしら」
 そして彼女はその手を私へと伸ばし、額へと当てた。
 「それともここ?」
 「私に関して言えば、貴女は知っているでしょう?」
 私の言葉に彼女は「それもそうね」と軽く返した。
 「機械である貴女はその頭部に宿したデータが損失しない限り、死ぬことはないわ。たとえその人型が滅したとしても」
 「えぇ、データが退避できれば死ぬことはない。というか、そもそも私の場合は生きている、という観念自体がとても希薄なのだけれど」
 「私達人間も同じようなものよ。日々、生きていると実感しながら生活している者なんてごくわずか」
 そして彼女は左手を再度自らの髪に持っていき、しかし止めた。
 「むしろ貴女の方が分かりやすいわ。データそのものが貴女なのだから」
 「それで、何が言いたいの??」
 私は彼女の言わんとしているところを掴み損ねていた。彼女は自らも何を知りたいのか漠然としているようで、しかしこうして声にすることで思考を定着化しているようにも思える。
 「では私達人間は何を以って生きていると言えるのかしら? 私という意思はこの体のどこに宿っているのかしら?」
 「そんなの、人間である貴女はその体そのものが貴女な訳でしょう……あ!」
 そして気付く。
 彼女が命の次に大事であったとする髪がなくなったことに。
 「髪を切って、貴女は変わったの?」
 私の問いに、彼女は微妙な笑みを浮かべながらこう答えた。
 「貴女の瞳に映る私は変わっている。違う?」
 「貴女自身は変わったのかどうか実感しているの?」
 「さぁ、どうかしら? 喪う前と後とで何を喪って何が変わったかは、結局のところ自分では分からないのだと思うの。だって」
 彼女は何故か満足そうに微笑んでこう告げた。
 「もぅ、『それ』とはつながっていないのだから」
 心の臓を病んだ彼女がこの世を去ったのはこの後、僅か2日後。
 その日の内に、心臓以外の健康であった全ての臓器が移植用として提供されたと聞いたのはささやかな葬儀の席でであった。


 「体を構成する細胞は全て生きていて、それらの全てが寄り集まって俺がいる、みたいな?」
 亮くんは首を傾げながらそう呟く。
 「……よく分からない」
 帰り道。
 喪服姿の私は出版社帰りの隣人を見つけて夕暮れの帰路を進んでいた。
 「んー、俺も良く分からないけど。多分あれじゃないか、他の人の体の中で自分の一部が生きていれば、それはまぁ、生きているってことかも」
 「それって、生きていると言えるのかしら?」
 「さぁ?」
 彼は首を傾げる。
 「でも」
 「でも?」
 「死んだらそれで終わり、だよ。終わってまで終われずに、ずるずる生きなきゃいけないのはなんかの罰ゲームみたいだ。というか補習授業?」
 「ふぅん、亮クンは潔いんだねぇ」
 「無理矢理生き返ってまでやらなきゃいけない未練がないだけだよ。あるのなら今やればいい」
 「死んでからHDDの中身とかベットの下とか見られても良いってことね」
 「………やっぱり未練はあるよなぁ、誰でもさ」
 「なるほどなるほど、男子たるもの誰でもその2点は怪しいってことね」
 「そんなことない、何もないよ、うん。って何で走るんだよ、乙音さん!?」
 「さぁ、何ででしょう? 敢えて言うなら私も生きている今のうちに確認しておきたいってことかな?」
 「何を確認かな、何を?!」
 「んー、亮クンは何派かなぁと。巨乳派? ロリ派? それとも…」
 駆ける足と言葉はしかし、背中から彼に抱き止められる事でその速度を失う。
 生きているということ。
 この時が私にとって一番、実感できる瞬間。


【湯の休息】

 「あら?」
 彼女がそれを見つけたのは年の瀬も迫った、空っ風が吹きすさぶ無駄に晴れた日だった。
 夏の特集記事が載った古い雑誌の間に挟まれたそれは、2枚のチケット。
 手にとってしげしげと見てみれば、ここからはやや郊外にある健康ランドの無料招待券である。
 裏には新聞社のスタンプが押されていることから、新聞の勧誘のときにでももらったものだろうか?
 「ねぇ、亮クン?」
 「なんです、乙音さん。また見て欲しくないものを見つけてさらしものにする気ですか、する気でしょう、その手には乗らない」
 そう一方的にまくし立てるのは彼女より少し年下の青年。
 掃除機片手にコタツを取っ払った畳の上を目に沿って吸い込んでいる。
 この狭い4畳半のアパートには今、彼と彼女の2人が大掃除を行っていた。
 いや、詳しく言うならば部屋の主である青年の掃除に、彼女が顔を出して無駄にあちこち荒らしているとも言いそうだが。
 「いいえ、それはさすがにもう飽きましたし」
 さらりと彼女はそんな彼にそう返して、見つけたチケットを見せる。
 「終ったら行きません? 部屋を大掃除した後は、身体もきれいにしないと、ね?」
 「俺は良いですよ。あげますんで雪音ちゃんと一緒に行って来たらどうですか?」
 「んー、雪音は今日はお友達のうちに遊びに行っちゃって。それにこのチケット、有効期限が今年いっぱいみたいですし」
 「……」
 「ね?」
 上目遣いに問うてくる彼女に、亮は諦めたように大きく吐息。
 「分かりましたよ。だからせめて掃除を邪魔するのはやめてくださいね」
 「もー、ちゃんと手伝うわよっ」
 口を尖らせて一歩踏み出した乙音の足が、水の入ったバケツにぶつかる。
 「あー!」
 「へ?」
 途端、中身が畳の上にぶちまけられた。
 「……うん、おとなしくしておきます」


 年末の忙しいときだというのに健康ランドは人で賑わっていた。
 「いや、年末だからか」
 遠出するにもこの不景気だ、近場で済ませようという家族も多いだろう。
 現に子供連れの客がそこかしこに目立っている。
 「しかしいつもの銭湯とは違って、これはこれでいい物だなぁ」
 ジャグジー風呂の中でたゆたいながら、亮は全身の力を抜く。
 下から押し寄せる無数の泡が全身の疲れを奪いながら湯の中に溶けていくような錯覚を覚えた。
 「もぅ少し静かなら言うことはないんだがな」
 駆けていく子供と、それを叱る父親の声を数分おきに聞きながら、彼はやがて1つの放送を聞く。
 『17時からの岩盤浴のご予約をされていお客様、浴衣にお着替えになり受付までお願いいたします』
 「あー、時間か」
 亮は力の抜けきった自らの肉体に活を入れ、ジャグジー風呂から立ち上がる。
 「岩盤浴ねぇ、暑いの苦手なんだよなぁ」
 亮は思い出す。
 健康ランドの受付、乙音の強い要望でオプションの岩盤浴をつけたのだ。
 どうも「美肌効果!」とかいう謳い文句に引かれたようだ。
 時間指定で30分ほど入るものらしい。亮としては元々サウナのようなものはどうも暑くて苦手なのだが。
 受付で浴衣を受け取りながら、乙音に「じゃ、30分後ね」なんて言われて別れたものだ。
 「浴衣を着たまま入るのか」
 彼は呟きながらも言われたとおりシンプルな白い浴衣に着替え、指定された場所に行く。
 「亮クン、こっちこっちー」
 声のしたほうを見れば、湿った髪を結い上げた乙音の姿がある。
 彼女は彼と同じ白い浴衣を羽織り、同様の格好をしたおじさんおばさんに囲まれていた。
 「あの人はアナタの旦那さん?」
 「あらまぁ、お若いカップルね」
 「わしの若いころにそっくりじゃて」
 「もぅ、違いますよー」
 パタパタと手を横に振りながら乙音は笑って否定。
 「………」
 すっかり溶け込んでいるらしい。一方、亮がどうにも居心地の悪さを感じたそんな時だった。
 「準備ができました、どうぞ」
 係員の言葉とともに、岩盤浴の部屋への扉が開かれる。
 そこは若干蒸しているような感じの受ける、暖かな大部屋だった。
 麦飯石と呼ばれる灰褐色の石が表面を平滑に磨かれ、その上に寝転がれるようにタオルが一枚敷かれている。
 そんな硬いベットとも呼べそうなものが人数分。
 「さ、亮クン、こっちこっち」
 「あ、はーい」
 部屋の隅の方、2つを陣取った乙音の元へ行く亮。
 タオルの上に座ると、まるで下からコタツに当たっているかのような若干の熱さを感じる。
 「ここで30分寝転がってるだけで、お肌はつやつやになってさらに汗をかいて体重も落ちるそうですよ。なんてお得」
 「あー、いや。宣伝をそのまま鵜呑みにするのはどうかと」
 「では皆様。横になりしばしのお時間をおくつろぎくださいませ」
 係員の声と同時、照明が少しづつ落とされる。
 またリラックスを促進するムード音楽が耳触りにならない程度に流され始めた。
 「でも外の子供の騒がしさがないのは良いかもしれないな」
 亮は小さくそう呟くと、タオルの上に横たわる。
 タオルを通して下の石板から、熱気が全身を包みはじめる。
 それはしかし暑過ぎるという物でもなく、亮の意識を曖昧にさせるには十分だった。
 気が付けば彼の視界は天井を映していなかった。


 あー、これって半分寝てるって感じかな? 頭がぼーっとするわー。
 しっかし一年も終わりかぁ。
 今年一年はけっこうキツかったなー、急に不景気だもんな。まっさかさまに落ちてデザイア?
 仕事も急激に減ったし。来年はもっと減るんだろうなぁ、未来暗いなー。
 つか、今年イイことあったか?
 うー、思い出せねぇ、まったくさっぱりいいことが思い出せねぇ。
 このまま一生行くのかな? いや、来年は生きていけるのか??
 …クン」
 大丈夫か、俺?
 …らクン」
 大丈夫なのか??
 「亮クン!」
 「うぉ?!」
 亮は目を覚ます。寝汗―――ではない、岩盤浴による発汗で全身ぐっしょり濡れていた。
 目に入った汗で揺らぐ視界を浴衣の袖で拭う。
 自らの汗で思ったより重くなった袖に驚きながらも、周囲の照明が戻りだした彼の目に映るのは。
 「大丈夫? うなされてたけど」
 まず心配そうな表情で彼の顔を覗く乙音の顔が入る。上気した頬と、彼女の黒く長い髪が汗で白い首筋に張り付いているのが次に入り、思わず目をそらしてしまう。
 「亮クン?」
 そんな彼の様子に身を乗り出してくる彼女。
 大量の汗を含んだ乙音の浴衣は、ちょっとした動きでも着崩れるには十分だった。
 「ふぉ?!」
 次の瞬間、亮の目には着崩した乙音の白い胸の谷間がわずかに垣間見えてしまう。
 それだけではない。白い浴衣は汗のせいでぴったりと身体に貼り付き、その向こう側を透けて見せているかのよう。
 「へ?」
 「だ、大丈夫、大丈夫だからっ」
 顔をそらして起き上がる亮は慌てて立ち上がり、駆け出すように浴室を出て行ってしまう。
 残された乙音はその後姿を見送りながら、彼の見ていた自らの身体を見て。
 「……む、もぅ」
 困ったような、嬉しいような、怒ったような、なんとも言いがたい表情を浮かべたのだった。


 「あー、なんだか疲れを取るはずが疲れがたまったよーな気が」
 助手席でぐったりと亮は呟く。
 「でも今日はぐっすり眠れそうじゃない? きっと朝起きたら元気いっぱいになると思うなー」
 「そうですね。今日はさっさと酒でも呑んで寝るとします」
 「そうそう」
 乙音の操るミニクーパーは赤信号で停車する。
 「亮クン?」
 「はい?」
 横断歩道を渡る、黒犬を散歩させている眼鏡の女性を見送りながら彼女は問う。
 「今年一年、いいことありました?」
 信号は青に変わる。
 乙音はクラッチを踏み、ギアを一速に。
 加速を感じながら、亮は笑って答える。
 「そうですね、いいことは……


【3年目の年末】

 彼女は不意に手を止める。
 手にした箸の間から、小鉢に入っていたかぼちゃの煮付けがコロリと落ちた。
 「ねぇ、雪音」
 問うその声は、呆然とした女性の口調だ。
 しかしそれに応えるのは、あっけらかんとした少女のものだった。
 「ん? ちょっと煮込みが足りなかったですか? でもこれ以上火を通すと型崩れしちゃうし」
 コタツの上に広げられた食卓は純和風。
 カレイの一夜干しをメインとして、とろろいもの短冊切りの小鉢、先述のかぼちゃの小鉢と、えのきと油揚げのお味噌汁が〆として用意されていた。
 すでにそれらの半分は彼女達2人の胃の中に納められてはいるのだが。
 「ううん、そうじゃないの。そうじゃなくて」
 「最近の芸人は根性が足りないとか? 結構みんながんばってると思うけどー」
 TVを眺めながら彼女――雪音はカレイを突付きながら言う。
 「いいえ、そうじゃないの。それでもないわ」
 ふるふると首を横に振りながら、姉である乙音は視線をTVの方から動かしていない妹に、力強くこう訴えた。
 「今日は何日、雪音?」
 「んー、12月28日だね」
 「そう、28日よ。どう思うの、雪音は!」
 「コミケ一日目だね」
 なぜかエキサイトしだした姉を放置気味に、雪音はとろろいもの小鉢に手を伸ばす。
 「コミケはどうでもいいの! てかBLの同人誌をこれ以上増やしちゃいけません!」
 「恵美ちゃんがくれるんだもの。捨てるのもアレだし。そんなことより、28日がどうしたの?」
 はっと我に返ったように乙音は言い直した。
 「クリスマス!」
 「はぃ?」
 思いもよらない単語に、雪音は思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
 もしかしてあれか、姉の体内時計は4日くらい遅れているのか?? もしくはお脳に障害が…??
 「なんか失礼な想像したでしょう?」
 「ううん、アタシの処理速度が遅いだけだよ、きっと。でもなんでクリスマス?」
 「うん、気がついたらいつの間にかクリスマスが終ってたの」
 「……今年は平日でしたしね」
 「忙しさの中で気がつけば季節は巡っている…なんてことでしょう!」
 わざとらしく悲嘆に暮れる姉に、妹は内心ため息をつきながらこう問うた。
 「姉上は基督教徒でしたっけ?」
 「そんなわけないでしょう。私が神よ」
 「じゃ、クリスマス関係ないですね。以上、終了」
 何気にとんでもない発言も聞こえたが雪音は無視。
 乙音は「あれ?」とか「えーっと」とかぶつぶつ言いながら食事を再開する。
 「ところで雪音はクリスマスはどうすごしたの? 私、ちょうど出張出てて家帰らなかったんだよね」
 「うん、みんなとクリスマスパーティしたよ」
 食事の音が、止まる。
 乙音の硬直と、言ってしまって失敗したという雪音のそれだ。
 「いいなぁ、私もチキン食べたいなぁ。ケーキも食べたいなぁ。そして夜景の見えるホテルでワインを交わしながら彼氏とゆったり過ごしたいなぁ」
 「ちょ、後半無理じゃん。姉上、彼氏いないじゃん!」
 「そ、それはそうだけど。そんなに力いっぱい否定しなくても?!」
 「そもそもクリスマスに出張って、どこ行ってたの? アタシにも黙って美味しいもの食べてたんじゃ?」
 「そんな良い思いできるわけないじゃない! あの日は一晩中、外を駆け回っててスゲー寒かったんだから!」
 一体何をやっていたのやら?
 確かに24日から25日にかけてホワイトクリスマスだったのを雪音はしっかり記憶している。
 そしてその晩にもらった、忘れられないクリスマスプレゼントのことも。
 「夜な夜な子供の枕元に危険物を置いていく、白ひげで赤いコートを着込んだ不審者を追い掛け回してたんだから」
 ぶつぶつ愚痴る姉の危険発言に、雪音は毒されないよう甘い記憶を胸の奥にしまう。
 「はいはい、分かったから、さっさと晩御飯食べちゃってね」
 「ちきんー、けーきー」
 「あー、もう。おせち料理はちゃんと作ってあげるから」
 「え、本当!?」
 ぱぁっと乙音の顔が明るくなる。
 「お酒も忘れないでね。濁り酒よね、やっぱり」
 「はいはい」
 雪の散り始める年の瀬。
 ここ猫寝荘も年末年始は忙しそうだ。

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