若桜さんが再来


【あけおめ】

 「あけましておめでとうございます!」
 「ございまーす」
 「今年も一年、よろしくお願いいたします」
 「いたしまーす」
 「……姉上?」
 「んー?」
 桜色の晴れ着を羽織った少女はツインテールを揺らしながら背後を振り返る。
 そこにはコタツに肩まで入って寝そべるジャージ姿の女性が一人。
 「新年なんだから、しゃきっとしてください、しゃきっと!」
 「何を言っているの、雪音。それは違うのよ」
 「はぃ?」
 寝そべりながら言う姉に、雪音は首を傾げる。
 「お正月三が日は古来より寝正月として親しまれているのを知らないの? 私はその伝統に則って日本人らしく行動しているに過ぎないのよ」
 ”また適当なことを、もっともらしくもなく、いけしゃあしゃあと言いおってからに”
 思わず足を振り上げて踵落としでも見舞ってやろうかという衝動に襲われつつも、雪音はぐっとこらえた。
 年明け一回目から暴力はいけない。
 「では日本人らしくこれから初詣に行きましょう。伝統に則る姉上ならもちろんいきますよね」
 「……箱根駅伝終わったら考える」
 「じゃあ、3時ごろ出かけるようにしましょう」
 「……雪音?」
 「はい?」
 「伝統にこだわることなく、時々アメリカンなスタイルを取り入れるのも良いと思わ――ごふっ!」
 雪音の右踵が乙音の左こめかみに炸裂。
 「年始からダラダラするなー!」
 そのまま頭ごと畳にめり込んだのだった。


【ボンバイェ!】

 うーむ
 何故こんなことになっているのか??
 雪音は、つきだしとして出されたポップコーンを摘みながら目の前の光景をただ何も言わずに眺めていた。
 「イチ」
 「ニー」
 「サン」
 「サラダーー!」
 店内のそこかしこで響くは、幾多の雄たけび。
 それに合わせて隣の席に腰掛ける男女も右手を振り上げて叫んでいる。
 「イノキ、ボンバイェ!」
 「うぉぉぉぉぉ!!」
 そして隣の2人はハイタッチ。今までに見たことのないほどにハイテンションだ。
 むぅ
 彼女は思い返す。
 ここに至るまでの経緯を―――
 
 
 電車に揺られて一時間弱。
 箱根駅伝が終わったのを見計らい、彼女は姉を部屋から引きずり出すのに成功した。
 ついでに隣の部屋の亮も連れてきた。案の定というか、やはり彼も寝正月を堪能していたようだっだ。
 ダメ人間同士が顔を合わせると、互いにこうはなりたくないと思うらしい。
 思ったよりもハキハキと歩き出した2人を連れて彼女たちがやってきたのは、
 「ここが明治神宮か」
 「相変わらず人が多いなぁ」
 時刻は18時過ぎ。お正月三が日の最終日だというのに、参道には長い長い人の列が出来ていた。
 さすがは神社の中の神社。近所のそれとはスケールが違う。
 「あら、亮クン。この場所ってゆく年くる年に出てなかった?」
 「おー、言われてみれば。今日はTV来てないのかな?」
 ゆっくりとした人の流れに乗りながら辺りをきょろきょろとする二人。
 やがて南神門と書かれた門をくぐり、境内へと入る。
 そこには相変わらずの人の壁。
 その向こうには本殿、しかし人の壁との間には一面の白いシーツが敷いてあり、
 「結構入ってますねぇ」
 「一面の賽銭箱かぁ」
 「亮お兄ちゃん、アタシ見えないー」
 亮の肩に両手を置いて飛び跳ねる雪音。
 彼女がジャンプの最高点で見たのは、柵の向こうに広がる白いシーツと次々に投げ込まれるお賽銭だ。
 三人は多分入るであろう地点から、賽銭を投げ込む。
 遠く、ちゃりんという音がしたような気がする。
 「今年はいいことがありますように、と」
 そんな亮の呟きを聞きながら、雪音は姉を見る。
 「………雪音のお小言が減りますように」
 内心ため息をつきながら、雪音は姉に聞こえるようにこう呟いたのだった。
 「姉上の無謀が今年こそは減りますようにっ!」
 
 
 帰り道。
 駅前にこんなお店を見つけたのが、今回の経緯のきっかけだった。
 『アントニオ猪木酒場』
 「「なんだ、あれ??」」
 「アントニオ猪木さんが経営している居酒屋ってことじゃないの?」
 「「なるほど」」
 雪音の推論に、乙音と亮は自然な態度で入店した。
 「え、ちょ、ちょっとーー!!」
 ―――って、別に思い返すまでもない流れだったかなぁ。
 雪音は大きくため息。
 姉のプロレス好きは知ってはいたが、亮もまた好きだったとは知らなかった。
 だいたいなんだ、この「1,2,3サラダ」って。
 普通のサラダじゃないの?? あー、もぅ、メニュー名がいちいちプロレスだなぁ。
 店内の至るところにある液晶TVでは過去の猪木選手の試合が流されている。
 映像にツッコミを入れたり、店員の掛け声に乗っかったりと、乙音と亮は店内の他の客のテンションと同じく、なんだか分からないがノリに乗っていた。
 ただ一人、プロレスをよく知らない雪音は置いていかれた格好である。
 もっともそれ以前に、
 「未成年だからお酒も呑めないし」
 ジュースをすすりながら、試合映像をぼんやりと眺める。
 「1」「2」「3」「「だーー!!」」
 そんな姉とお隣のお兄さんの声を聴きつつ、雪音は「あー、今の技は使えるかも」だとか考えていたりしていたという。


【雪景色】

 その日の朝はいつにも増して冷たかった。
 布団を纏っていても、顔を刺す冷気に一度気付くと眠気もさっぱりと冴えてしまう。
 朝6時ちょうど。
 雪音は布団に包まりながらも冴えた目で時計の針を確認する。
 「ちょっと早いけど、起きるかな」
 布団から出るのも億劫になる冬の朝。
 だが彼女はこんな冷えた朝は嫌いではない。
 寒さのおかげで、散逸した意識が一気に収縮して集中力が高まるようなそんな感覚を受けるからだ。
 薄闇の中、カーテンを開ける。
 「あれ?」
 窓の外の景色はいつもの見慣れたごちゃっとした下町の風景。
 …のはずだったのに。
 今は一面の白の世界だ。
 「これって……わぁ」
 窓を開ける雪音。
 太陽はまだ東の地平線辺りをうろついており、彼女の目に映る世界は薄闇の中にある。
 厚ぼったい薄闇の空からは、ちらほらと白の小片が尽きることなく降り落ちてくる。
 そのうちの1つが、緩やかな風に乗って雪音の額に貼りついた。
 突き刺すような冷たさを白い額に残し、それは水となって消える。
 「雪、かぁ」
 呟く彼女をすり抜けて、部屋の中よりもずっと冷え込んだ朝の空気が次々とお邪魔してきた。
 「きれい」
 見慣れているはずの見慣れない街の景色を見つめて雪音。
 彼女の音としての呟きは、静かに雪の中へと吸い込まれていく。
 本当に静かな朝だった。
 冷たさ、白さ、静寂。
 それらを味わうように雪音は大きく深呼吸。
 この世界の何もかもが、この時の彼女にとっては新鮮に感じられた。
 吐き出した吐息はまるで蒸気機関車から立ち上る煙のように大きく吐き出される。
 そしてそれに続くように、
 「ゆーきーねー」
 恨めしい声が彼女の背後から響く。
 「あら姉上、おはようございます。今日は早いですね」
 「あまりの寒さに目を覚ましたの。いつまで窓を開けているの?」
 「あっ」
 毛布を頭からかぶってガタガタ震えている姉に妹はバツが悪そうに笑い、後ろ手に窓を閉めた。
 「ストーブつけますから。暖まるまでコタツにでも入ってて」
 「うー、はーい」
 もぞもぞと動き出す乙音を視界に入れながら、雪音はいつもの通り朝の支度を始めるのだった。


【和服美人】

 街を行き来する若者の中には今日に限って振袖で着飾った女性が目立つ。
 駅前の繁華街。
 コートやジャンパーで身を包む私服姿の少女3人はすれ違った女性を見送って不意に立ち止まる。
 「はて?」
 「どうしたの、雪音ちゃん?」
 「んー、どうして今日はきれいなお姉さん達が多いのかなーって」
 問うた恵美に雪音は首を傾げて答えた。
 「雪音さん、今日は何の日だか覚えていますか?」
 続けてそう問うたのは、2人よりも学年が1つ下の女の子。
 言葉には嫌味な色合いはなく、純粋な助言だ。
 「知ってるに決まっているじゃないの、さくら。今日は成人の日よ」
 ない胸を偉そうに反らして彼女は答え、「あ」と呟いた。
 「そか、成人式か」
 そう言っている間にも、3人の目の前を通り過ぎた振袖姿の女性の一団をまぶしそうに見送る。
 「此花さんは着物を着るとしたら、どんな柄がいいかしら?」
 ふと呟くように言ったのは恵美。その言葉に此花は微笑みに目を細めて、
 「やはり名前の通り、さくらを模った柄がいいですね。相馬先輩は?」
 「私は母のというか御婆様のというか、お下がりがあるから。代々成人式に来ている振袖があって、確か紅葉の柄だった気がするなぁ」
 「すると赤基調なんですね。お似合いだと思いますよ」
 「ありがとう」
 微笑み合う上級生下級生の2人。そこに雪音が体当たりをするように割って入った。
 「はい、そこそこ。なんでそんなお上品な会話をしているかな? アタシの入る間もないじゃないの」
 「上品…って」
 「思わず生まれの良さが出てしまったかしら…って冗談だからー、わき腹はヤメテ!」
 わざとらしく困った顔をする相馬に、雪音が後ろから両わき腹をくすぐりにかかった。
 「あら」
 「「ん??」」
 不意に此花が人ごみの一点を見つめる。つられるようにじゃれあう2人もそちらに目を向けた。
 そこには落ち着きのある控えめな赤地に、白い鶴の柄があしらわれた振袖を自然に着こなした淑女が駅に向かって粛々と歩を進めていた。
 長い黒髪を頭の上で結い上げ、美しい簪が数本歩くたびにその飾りが揺れている。
 相馬もそんな彼女に気づいたようだ。憧れとも取れる視線を投げかけている。
 「あんな落ち着いた感じの二十歳になりたいわね」
 「そうですね」
 頷き合う2人だが、残る雪音は眉をひそめていた。
 それに気づいた2人は首を傾げつつ彼女に振り返る。
 「あのね、言いにくいけどさ。あの人、二十歳じゃないから。てか、なんで振袖着てるの?!」
 「あの人、雪音ちゃんのお知り合い?」
 「あれ、よく見るとあの人…」
 此花は気づいたようだ。
 「そう、アタシの姉上。4年前に成人式終ってるって設定なのに、何をやってるのか…」
 「設定って」
 首を傾げつつ、苦笑いの相馬は「でも」と続ける。
 「とても似合っていると思うよ。雪音ちゃんもきっと、お姉さんみたいに二十歳にはびっくりするくらい綺麗になると思うな」
 「そう? でもね、恵美ちゃん」
 「ん?」
 視線を雪音に戻した恵美は、反射的に数歩後ろに下がった。
 雪音の両の手がわきわきと動いていたからだ。
 「今のアタシは綺麗でもなんでもない、と?」
 「え、えー、そう取るの?! 褒めたつもりなのにそー取るかーー!!」
 逃げる恵美と、両手をわきわきしながら追いかける雪音。
 それを見つめながら、此花は思う。
 成人するのも良いけれど、きっと今この時が一番幸せなんだろうなぁ、と。


【回顧主義】

 そこは古びた木造平屋のお店だった。
 店先の台の上にぎっちりと隙間なく並べられているのは、細々とした小さなもの。
 しかしそれらは、彼女の足を止めるのには充分な魅力を持つものだった。
 「わぁ、懐かしい」
 黒髪をなびかせて彼女――乙音は台の上の商品の一つを、ひょいと指で摘む。
 親指二本分くらいの大きさの、厚みを持った四角いもの。
 フェリックスくんガムと書かれているそれは、10円で購入できる駄菓子である。
 台の上には他にもソースせんべいやよっちゃんイカに始まり、ふ菓子やチョコリングが並んでいた。
 「あ、これって凍らせると美味しいのよね」
 次に彼女が手にしたのは、10cm程のビニールチューブに入った細いゼリー。
 赤青黄色、天然ではありえない鮮やかさを持った様々な色のチューブが並んでいる。
 「まだこんなお店、あったのね」
 何本か彼女はそれらを手に取ると店内に。
 どこかしらニッキの香りが漂う店内にも、かつて子供心を刺激した様々な商品が並んでいる。
 お菓子だけではない。おもちゃも揃っている。
 スチロールで出来た、組み立てのグライダー。キラキラ光るビー玉やおはじき。
 箱に入った大小様々、色様々なスーパーボール。銀玉鉄砲。
 水鉄砲に至っては、昔のただ水を入れる拳銃タイプのものから最近のポンプ式のものまで揃っていた。
 最近のものといえば、お菓子についても有名どころのラムネやキャラクターシール付きのチョコウェハースもある。
 それらを見渡しながら、乙音は思わず呟く。
 「子供の頃のワクワク感って、今では滅多にないわよね」
 少ない小銭で、その時の自分が最高の気分を味わえる一品を選ぶ。
 きっとその駆け引きがワクワクの正体だったのではないだろうかと思う。
 「でも、今でもワクワクはするわねぇ。何でだろ?」
 店の隅にはアイスクリームなどの氷菓を入れておくケースもあった。
 思わず彼女はそれを開ける。
 「ガリガリくんもあるんだね」
 コーラ味を手に取り、乙音は店の奥のレジへ。
 畳敷きに腰を下ろしているのは歳のころは80過ぎであろうか、白髪豊かで老眼鏡をかけたお爺さんだ。
 甚平の上にちゃんちゃんこを羽織り、傍らには火鉢を抱えている。
 「おじいさん、これくださいな」
 ガムを2個、ゼリー棒を5本、ガリガリくんを1つ差し出し、彼女。
 それをちらりとみて、おじいさんはさらりとこう言った。
 「120万円だよ」
 「はい、120円」
 「まいどあり」
 さっそくガリガリくんを開ける彼女。中からは記憶の通り、真っ赤なアイスキャンディーが姿を現した。
 「一応コンビニでも売ってはいるんだけどね」
 さすがに冬の今、好んで食べる機会はない。
 乙音は少しづつ食べ進めるが、良かったのは最初だけ。
 やがてそれがかなりキッツイ罰ゲームのような気がしてきた。
 「寒い、減らない」
 「ガリガリくんはガリガリ食べないとだめだよ」
 彼女の様子を後ろから見ていた店のお爺さんの指摘。
 「うー」
 乙音は手のガリガリくんをじっと見つめると、
 「えぃ!」
 意を決したようにそれを噛み砕いた。
 「っーーーーーー!!!!!」
 途端、目を見開き、両手で両のこめかみを押さえる。
 そしてそのまま彼女はしゃがみこんでしまった。
 それを見て、後ろから近づく気配。
 それは店主の声を以って、しゃがんだ彼女の目の前に『それ』を示した。
 「大当たりだよ、お嬢さん」
 「ほぇ?」
 呆ける乙音の手にしたガリガリくんの棒には「あたり」の文字が刻まれていた。
 店主の差し出すのは、新たなガリガリくん一本。非常にも彼女にそれは授与された。
 「えぇぇぇぇーー?!?!」
 悲鳴が店に響き渡るが、それはまだ伝説の始まりに過ぎなかったのである。


 彼女達が最近、学校帰りに寄るところがある。
 「今日は何にしようかな」
 「あんまり食べると太るよ、雪音ちゃん」
 「その分、運動してるから大丈夫だよ。恵美ちゃん」
 2人の女子高生は通学路からやや裏道に入ったところにあるその店に足を運ぶ。
 駄菓子屋。
 そこは彼女たちが生まれる前から営業しており、近所の小中学生の憩いの場として代々大事にされてきている。
 普段から子供達の笑い声で賑やかなそこは、しかし今日に感じてはおかしな雰囲気に包まれていた。
 「なに、あれ?」
 「行ってみよう」
 子供達の輪が、駄菓子屋の入り口に出来ている。
 駆け足でそこに向かう彼女達は、輪の中心に一人の見知った女性の姿を見つけた。
 「えぇぇ?! またぁ?!」
 「すげぇ、5連続当たりだ!」
 「ゴットの光臨だ」
 「俺たちは今、伝説を目撃している…」
 ガリガリくんの当たり棒を掲げて悲観にくれる彼女と、感嘆の息を漏らす子供達。
 「姉上ぇ?!」
 思わす叫ぶ雪音。その女性は彼女の姉である乙音だ。
 「雪音!」
 乙音は救いを見出したかのように立ち上がる。
 と。
 その彼女の前に立ちはだかった店主が、もう一本のガリガリくんを手渡した。
 「さ、当たり分だよ」
 「いやぁぁぁぁ!!」
 なお、この後さらに2回当たりを出し、合計7連続当たりを引き当てた乙音であった。
 帰宅して、お腹を冷やしすぎて下痢も当たったとか……


【ツンデレンタイン】

 その教室に突如、周りに聞こえるようにこんな声が響き渡った。
 「まったく、世の中はバレンタイン一色ですなー!」
 「雪音、ちゃん?」
 「バレンタインにかこつけての告白とか、行事に背中押されないとなにもできないのかっての」
 「お、おい、雪音…」
 「さらにさらに、今年から逆チョコ、だっけ? 男から女にとか、お菓子メーカーの宣伝文句にコロコロと踊らされる奴らも奴らよねっ」
 「「………」」
 2月14日のバレンタイン。
 土曜日の今日は午前中で学校の授業は終るが、校内はどことなく浮ついた空気が漂っていた。
 朝の下駄箱で。
 休み時間の僅かなタイミング。
 そして下校時間の今。
 生徒それぞれが待ちと攻めのタイミングを見計らう――そんな微妙に張り詰めた空気の教室に、そんな緊張をぶち壊す言葉が生まれていた。
 爆弾発言を連爆させるのはツインテールな1人の少女。
 その傍らには同級生の女の子と、そして1人の男子がいる。
 2人とも周りから一斉に向けられた、どことなく責めるような視線に柄にもなくあたふたとしている。
 「あー、雪音。言いたいことは分かるが、空気読め」
 男子の方――目つきの鋭く他者を寄せ付けない雰囲気を持つ彼は彼女にボソリと呟く。
 周りから見れば、どちらかといえば普段空気を読まない彼らしくもない行動に映るだろう。
 「なによ、市松。ほほぅ、なるほどなるほど」
 うんうん一人頷きながら、ツインテールの彼女は彼を見る。というより睨む。
 「天下の市松様もバレンタインデーにはチョコが気になるんだ、そっかー」
 「おい、何を言ってんだ」
 「あの、雪音ちゃん? なんでそんなにテンション高いの、何かあった??」
 市松を押しのけるように、おずおずと隣の女の子が彼女に問う。
 しかし雪音はそれを無視し、自身のカバンをごそごそと探ると、
 「そらよ、取っときな!」
 べシィ!
 「うぶっ!」
 手のひらサイズの平たい箱を市松の顔に叩きつける。
 中からペキっと何か割れる音を市松はその意味に聞いたそうだ。
 「恵美ちゃん」
 「は、はいっ!?」
 雪音にそう声をかけられ、思わず一オクターブ高い声を出してしまう恵美。
 雪音が彼女に向ける視線は、不意に変わって柔らかい。
 「恵美ちゃんにはこのチョコあげるね」
 言って雪音は恵美に拳大の大きさの箱を手渡した。
 「あ、ありがとう…」
 「じゃ、また来週ねー!」
 そういうと用事が済んだのか、雪音はパタパタと教室を出て行ってしまった。
 あとに残されたのは、顔にチョコの入った箱を叩きつけられたままの市松と、かわいいリボンで飾られた箱を手にした恵美。
 そして、空気をぶち壊された3−Cのクラスメイト達。
 「一体なんだったんだ、あれ?」
 「さぁ?」
 箱を顔から剥がした市松の、唖然とした言葉に恵美はそう答え、そして。
 ”あー、多分恥ずかしかったのね”
 自分の手の中にある箱と、隣の彼の持つ箱を眺めながらそう思う。
 「市松くん」
 「なんだ?」
 釈然としない顔の彼に、恵美は赤く小さな袋を手渡す。
 「はい、義理チョコ」
 「……面と向かって義理と言われると悲しいものがあるな」
 「じゃ、本命って言ったほうが良い?」
 笑顔で市松に問う恵美。
 その笑顔は笑顔の形ではあるが、実際のところは何だかよく分からない表情のように見えて。
 「……」
 彼は無言で受け取ったのだった。


【忍び寄る黄色い悪魔】

 冬の寒気団はどこへやら。
 それは日々の凍てつく寒さをすっかり忘れるくらいの、暖かな陽気に包まれたお昼だった。
 「ふぇっくしょん!!」
 「あら、亮クン、風邪ですか?」
 「いや、もしかしたら……」
 「噂されていたり?」
 「いえ、違いますがな」
 駅前の商店街にその男女はいた。
 個々に商品の入った手提げ袋が下がっている。買い物帰りのようだ。
 「じゃあ、風邪かしら? 昨日まですっごく寒かったし」
 女性の方は空いた左手で、青年の額に触れる。
 「ん? 心なしか熱いような?」
 改めて彼女は足を止め、彼の前へ。左手を伸ばして再度彼の額に手を伸ばそうとしたときだった。
 「ふぁ」
 彼が彼女の手を避けるように僅かに顔を上に向け、
 「ふぁ?」
 「ふぁっくしょん!」
 くしゃみとともに頭を振り下ろした。
 がつん!
 「「ぐぁ!」」
 見事にヘッドバット。額を押さえて互いにその場にうずくまった。
 「な、な、な、なにするんですかーーー!」
 涙目で、赤く腫れた額を抑える彼女。
 「くしゃみは急には止まらないんですよ、乙音さん」
 「せめて横を向いてするとか、考えなさい」
 乙音はぶつぶつ言いながら、ポケットからティッシュを取り出して亮に手渡す。
 「すみませんねー」
 ティッシュで鼻をかみながら彼は立ち上がり、乙音を起こした。
 「風邪じゃなくて花粉症ですよ、これ」
 「花粉症? そぅ、この陽気ですしね」
 「そろそろくるんじゃないかなーっと思ってたら、案の定ですよ」
 追加のティッシュを貰いながら、亮は再び鼻をかんだ。
 「春が近づくのは良いけれど、亮クン的には辛いことが多そうですね」
 「そーですねー。てか、良いことなんかあるのかな?」
 かなり寂しい返しに、乙音は苦笑いをしつつ。
 「あ、ほらあるじゃないですか。春になれば」
 「春になれば?」
 「こ、恋の季節とか」
 試すように笑って、亮の顔を覗きこむようにして言った乙音に、
 「ふぇっくしょん!!」
 「ひぇぇぇ、鼻水がぁぁぁ」
 「あー、ずみまぜん。で、春になれば?」
 「し・り・ま・せん!」
 寒さはまたやってくるだろうが一時の春を感じさせる陽気は、確実に冬の出口を匂わせているようだった。


【遠い頃の…】

 駅からの帰路で僅かに感じていた悪寒が、アパートに着くなり堰を切ったように全身に広がった。
 「やば」
 彼は呟きながらポケットから部屋の鍵を取り出す。
 探る手が震えだし、次第に自分の手である感覚が消えていく。
 それでもなんとか鍵で部屋の扉を開けると、倒れこむようにして中に飛び込んだ。
 「クソッ、電車の中でもらっちまったか」
 最近は取材も兼ねて外へ出ることが多かった彼は、電車のそこかしこでマスクをした会社員や咳き込む学生の姿を思い出して舌打ちする。
 そういえばインフルエンザが流行っていると、今朝もニュースで言っていた気がする。
 もしくはもともと季節の変わり目に風邪を引きやすい彼のこと。季節的なものかもしれない。
 ともあれ運良くか、今朝起きたままになっている敷かれた布団へ彼は這うように潜り込んだ。
 全身に広がった悪寒は猛烈な寒気となって彼を襲い、それとともに現れた倦怠感によって行動の意欲が削がれて行く。
 「せめて風邪薬を」
 思ったことを呟くが、身体が言うことを利かない。
 寒さに身体を震わせながら、彼の意識はそこで沈んでいったのだった。


 混濁していることは彼自身分かっていた。
 高熱の為に時間の感覚が分からないのだろうと思う。
 むしろ今の状態が寝ているのか起きているのか、全てが曖昧だ。
 布団をかぶっているにも関わらず、すっかり冷え切っている身体を寝返りで動かした途端、全身の関節が悲鳴を挙げる。
 視界に映る見慣れた自身の部屋の光景が、歪んで見えた。
 天井の木の節目が妙に大きく見えたり小さく見えたり。
 身体は痛くて、寒い。
 耳に入る音もなく、無音が痛く、そして心に響く。
 一人。
 当たり前のことだが、その事実が意味もなく不安を掻き立てる。
 「あぁ」
 自らの呟きが妙に大きく聞こえた。
 「前にもこんなこと、あったなぁ」
 大学入学とともに独り暮らしを始めて、小慣れてきた頃だ。
 その時はどうしたんだっけ?
 ぼんやりと思い出す。
 「そうだ、あの頃はあいつがいたんだったなぁ」
 脳裏に浮かぶのは栗色の髪の同級生。
 久方ぶりに大事だった人を思い出した彼のぼやけた頭は、沈んだ過去をアップロードしながら現在を進んでいく。
 同じように彼はその頃、急な発熱で一人部屋で寝込んだのだ。
 一人苦しむその部屋に入ってきた彼女は、寝込んだ彼の顔を覗き込むと手のひらを額に当ててきた。
 ひんやりと冷たい感触が心地よい。
 その時に気付く。身体は寒いのに、全身汗をかいていることに。
 彼女はお湯で絞ったタオルで彼の顔を拭う。
 なにか怒ったような、そんな言葉を投げつけられるが半分眠っている彼の耳には届かない。
 ただ彼女が何かを言って、それは彼を心配している言葉であることだけは把握する。
 だから彼は、こう応えた。
 「ありがとう」
 と。
 そこで視界も暗闇に落ちる。
 闇の中、今度は暑く息苦しさが襲ってくる。呼吸が荒くなるのが分かる。
 それは何度目だろうか。大きく息を吸い込んだところで、口に何か柔らかいものが押し当てられた。
 そして冷たい液体とともに薬のような錠剤が流し込まれる。
 それが喉を通過してしばらくすると、次第に息苦しさが遠退いていき………


 ―――ぼんやりとした視界の先には、長い髪の女性が心配そうに彼の顔を覗き込んでいた。
 それは今ここにいるはずのない女性であり、しかし彼の記憶の中には存在した人。
 同時に彼は額に冷たいタオルの感触を得る。
 「…っは」
 冷たさは彼の時間を現代へと引き戻していく。そして続く声は彼を完全に「今」に連れ戻した。
 「調子はどうですか、亮クン?」
 幾分ほっとした表情を浮かべて問うのは、
 「乙音さん?」
 「あら、誰かさんと間違えましたか?」
 小さく笑って、彼女は白い手で彼の頬を撫でる。
 額のタオルとは異なる、柔らかでひんやりとした感触が心地良い。
 「俺、寝言言ってました?」
 言いながら彼は視線を周囲にめぐらせる。
 雑然としていた自室は綺麗に整頓され、薄い一枚の掛け布団だけだった彼を暖めているのは、知らない熊柄の羽毛布団だ。
 そしてエプロン姿の乙音1人。そんな彼女は彼の問いに、
 「さー、どうでしょう?」
 首をひねって、
 「どなたか女性っぽい名前を何度か呟いていたよーな」
 「きっと幻聴です」
 「そうですねー」
 小さく笑って、彼に問う。
 「少し落ち着いたみたいですね、軽く何か食べますか? 雪音におかゆ作ってもらってますよ」
 「ありがとう、いただきます」
 応え、彼女に上体を起こしてもらう。
 「あ、乙音さん」
 「はい?」
 「あんまり一緒にいるとうつりますよ。最近のインフルエンザはタチ悪いみたいですし」
 「んー」
 乙音は小さく首を傾げてから、
 「亮クンの風邪なら、うつってもいいですよ」
 「へ?」
 「なんて、ね。うつったら今度は亮クンが私の看病、してくださいね」
 そう言うと、土鍋のかかるコンロの方へ小走りに駆けていく。
 その後姿を眺めながら、彼は遠い日の光景を重ねる。
 「駄目だな、調子悪いと弱気になる」
 「調子悪い時くらい、弱気で良いんじゃないですか?」
 温めたおかゆの鍋をお盆に載せ、乙音は言う。
 「ほらほら、しっかり甘えなさい。はい、あーん」
 レンゲにおかゆをすくって差し出す彼女。
 「いや、自分で…」
 「熱い? ふーふーする?」
 「勘弁してください」
 「食べないと薬飲めないですよー、今は解熱剤効いてますけど切れたらまた熱上がりますし」
 「……ちょっと待った」
 「はい?」
 亮は彼女の言葉に引っかかる部分を見つけて問う。
 「俺、いつ解熱剤飲みました?」
 「6時間ほど前に」
 「記憶がないんですが……あれ、えっと??」
 彼は彼女を見る。
 彼女は少し困ったような、照れたような顔をして、
 「……記憶がないのもまた良し、ですよ」
 そういってレンゲを差し出した。
 「はい、あーん」
 「………あーん」
 こうして蘇り出した記憶を無理矢理、闇に葬り去る。
 「なんだかんだと2度目ですね。こうして看病してもらうの」
 「そうですねぇ、亮クンは案外身体弱いんじゃ?」
 「そうなんですよ、俺はひ弱なんです」
 「……運動不足なだけだと思いますよ、ほら食べた食べた」
 「あっ」
 無理矢理押し込まれたレンゲに、出しかけたお礼の言葉も一緒に飲んでしまったという。

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