Are you ready ?
桜舞う並木道。
一人の少年が手のひらサイズのメモ用紙を見やりつつ歩いて行く。
幼さの残る顔つきの中の大きな瞳で、おっかなびっくり、きょろきょろと周囲を見まわしながらの歩みだ。
身なりは白いふかふかのジャンパーに、履き込んだブルージーンズ。
どこかしら小動物を感じさせる彼の背には大きめのバックパックと、両手にお土産とおぼしき包みがぎっしり詰まった紙袋。
彼が駅から電車を降りて歩くこと10分。
新興都市を目指すこの街の西口駅前は、建てて間もない高層の駅ビルやショッピングモール、オフィスビル等が整然と立ち並ぶ。
昼時ということもあるのだろう、商社マンやOL達が数多く闊歩する街並みは、彼の速めの足取りで8分ほどで通り抜けてしまう。
やがて彼は、この街本来の姿を未だ維持する地区――すなわち未開発の下町然とした住宅街に差し掛かっていた。
駅前ほどは活気のない商店街を抜け、入り組んだ複雑な路地に迷い、やがて。
足が止まったのは、ひなびた一軒のアパートの前だった。
二階建ての1DK。シャワーのみ完備、トイレはかろうじて付属の築50年目に到達した木造アパート。
安普請という印象は受けない。古いが故に造りもしっかりしており、どことなく安心感を受ける建物だ。
1Fには4つの部屋、2Fにも4つの部屋の、計8つばかりの棚子を抱えることの出来るそこの名は、猫寝荘という。
「ここかぁ」
ややソプラノに偏った高い声で、彼は呟いた。
こここそが彼が今春から寝起きをする、すなわち彼の家となる場所である。
彼――卯月 総一郎がこの猫寝荘へやってくることが決まったのは、わずか3日前のことだ。
そのことを思いだし、彼は小さく溜息をつく。
「でも」
首を小さく横に振り、彼は空を見上げる。
暖かな日差しを投げかける太陽は昼をちょっと過ぎた頃。
雲一つない青空は、まるで彼の未来に障害が何一つないことを示唆してくれているかのよう。
「頑張らないとな!」
彼は力強く頷き、猫寝荘へ最初の一歩を踏み出した。
が、
「??」
開け放たれている門をくぐり、4台分の駐車スペースのある敷地に足を踏み込んだ途端に彼は首を傾げる。
「なんか、妙な感覚が?」
全身の皮膚に何かモワっとしたものがまとわり付いて、その中に取り込まれたような変な感覚。
「おぉ、来たの」
不意にかけられた声に彼は思考を中断し、慌てて顔を上げる。
最初からいたのだろうが彼は気付かなかったようだ。竹箒を持った小柄な老人がゆっくりと彼の元へ歩み寄ってくる。
白い顎髭を胸元まで垂らした、禿頭の彼は齢70を越えている。
「卯月くんだね」
「あ、はい。あなたは?」
「ワシはここの大家の猫目 恭二だよ。よろしくな、総一郎くん」
「よ、よろしくおねがいしますっ」
笑顔の老人に総一郎は畏まって頭を下げる。
そして、えーっと、と言いつつ手にした紙袋から包みを一つ取り出した。
引越しの挨拶にと、10個ばかり彼の地元で買って来た土産品だ。
「あの、これ」
「ほぅ、わさび煎餅かね。お茶請けにありがたくいただくよ」
猫目老人は嬉しそうに包みを受け取ると、懐からカギを取り出して総一郎に手渡した。
カギには203と彫られている。
「君の部屋は2階だ。送られてきた荷物は運び込んであるよ」
「ありがとうございます」
「礼は205の土屋くんに言っておきなさい。彼に運ばせたからね」
老人は自らの腰を軽く叩いて、苦笑い。
「ワシは105に住んでおるから、何か困ったことがあったら来なさい」
「はい」
「あー、しかしよく留守にするからのぅ。居ない時は202の若桜くんに頼むと良い」
「あ、はい。分かりました。お心遣いありがとうございます」
「では、の。しばしの間、共に良き時間を過ごせることを願っておるよ」
「はいっ、よろしくお願いします!」
ペコリと、総一郎は最後に大きく頭を下げて猫目と別れる。
そしてアパートの中央部に取りつけられた金属性の階段を上がって2階に。
203と書かれた部屋の扉にカギを挿し、開ける。
「わぁ」
6畳一間の部屋は真新しい畳が敷かれ、青々とした良い香りが漂う。
暖かな日差しがベランダの扉から差し込み、部屋全体を明るく照らしている。
玄関を上がると右手には台所とトイレ、シャワー室がある。トイレと一体化したシャワー室は後付けのようで、そこだけ総プラスチック製だった。
部屋の真ん中には予め彼をここに寄越した者によって用意された生活必需品が、ダンボールのまま積まれていた。
とは言っても、衣類とこの春から使用する教科書や制服の他には1ドアの冷蔵庫くらいしかない。
食料品はもちろんのこと、鍋や茶碗などもない。当然、テレビやラジオといった家電はなかった。
「やっぱり自炊しないとお金もたないしなぁ、あとで買い出し行くかな」
呟きつつバックパックと紙袋を下ろし、彼はまず最初に。
「ふぅ」
畳の上に寝転がった。
いぐさの香りが心地良い。総一郎は目を細めて大きく深呼吸。
「さて!」
起き上がる。
「挨拶しておこうっと。お隣の土屋さんにはいきなりお世話になったみたいだし」
ぴくりと彼の形のいい耳が動く。
「他の人達は留守、か。夕方にでも帰って来るかな?」
まるで隣人の生活音が聞こえたかのように彼は呟くと、まずは紙袋から大家に渡した物と同じ包みを一つ取りだし、玄関へ。
そしてすぐ隣の扉を軽くノックした。
「こんにちわー」
返事がない。
「? あれ?」
再度ノック。
「こんにちわっ!」
中から気配はするのだが、返事はない。
彼は自らの特性を用いて、耳を澄ませてみる。
小さいが、大きな音が聞こえてくる?
指向性を持った音が中の人物の耳を塞いでいるようだ。その音は音楽に交じった……女の人の声?
”なんだろう?”
仕方なしに彼は。
どんどんどん!
思いきり玄関の扉を叩いてみる。
途端、
どたどたどた!
中から重量のある足音が急接近してきて、そして。
がちゃり
小さく、その戸は開いたのだった。
白黒双月
1 新地降り立つ
「どちらさま、かな?」
こぶしくらいの幅で開いた扉からは、顔半分の男が覗いていた。
どこか怯えたような、自信のない声だ。歳の頃は20から30の間だろうか?
お世辞にも健康とは言えない雰囲気を纏っている。
頬の肉がやや弛みがちで、どんよりとした瞳に、肩辺りまで伸びた髪がますます年齢不祥さを増していた。
「えっと、今日隣に引っ越してきた卯月 総一郎といいます。よろしくお願いします」
「あ、あぁ」
扉の向こうで彼はそう頷くと、そのまま引っ込もうとする。
「あ、僕の荷物を運び込んでくれたみたいで。ありがとうございました」
「き、気にするな、じゃ」
「あと、これ。引越しのご挨拶に。僕の地元のわさび煎餅です」
「……あ、ありがとう」
お隣の土屋さんはそう答えて狭い扉の隙間から右手を出して、
「あ」
その手が、一気に落ちる。
どかん!
そんな音と共に玄関の扉が内側から勢い良く開かれて、
「げふっ!」
土屋さんは玄関を全開にして、僕の足元へ倒れ込んだのだった。
肥満気味の土屋さんの背中が僕の目の下に広がっている。
Tシャツに何故かこの時期に短パン姿だ、服装はあまり洗っていないとみえる。僕の感の良い嗅覚ではやや匂った。
扉の向こうは薄暗い室内。
窓は薄いカーテンで閉められているようだ。
そんな室内は、僕の全く想像しないものが広がっていた。
「わぁ」
思わず驚きと溜息の混じった声が漏れる。
室内はいくつものモニターと、低いファンの音がいくつも唸る何台あるのか分からないパソコンで占められていた。
その様子は、まるで、
「秘密基地みたいですね!」
「へ?」
足元では目を丸くした土屋さん。
「秘密基地??」
「えぇ、すごいですねぇ。実は僕、初めてパソコンって見るんですよー!」
「そ、そうか。それはまたすごい田舎から来たんだね」
土屋さんは何故か面食らった顔をしている。
しかし今の僕はそれどころではない。話には聞いていたけれど、パソコンっていえばなんでもしてくれる便利なテレビと聞いたことがある。
まぁ、そもそも僕の住んでいたところにはテレビもなかったので良く分からない例えなんだけれども。
「見せてもらっても良いですか??」
「あ、う、うん。どうぞ」
「失礼しまーす!」
僕は早足で土屋さんの部屋へ上がり込む。
モニターにはなにやら折れ線グラフみたいなものや、見たこともない魚の写真やら、文字ばかりが映っていた。
あと。
「? パソコンでマンガ、いや、アニメなのかな? そんなのも見れるんですねー」
アニメタッチな女の子も映っていた。結構きわどい格好をしている。
先程聞こえた女の人の声は、そのモニターから伸びているイヤホンから漏れていたようだ。
「あぁっ、それはっ!!」
土屋さんは我に帰ったように駆け寄り、そのモニターのスイッチを押して消してしまう。
「??」
「あー、えー、うー」
土屋さんは困った顔をして、そして。
「そ、そうだ、卯月くん」
「はい?」
「君の荷物を運び入れた時、あまりにも荷物が少なかったけど、あれで全部なの?」
「えぇ、そうです」
「テレビすらなかったけど?」
「持ってないんです。まぁ、見たことないから別にいらないといえばいらないですけど」
「じゃ、じゃあ、ウチに古いの一台あまっているからあげるよ、うん」
「え、でも」
「有機ELの新型を買ってね。前に使ってたのは邪魔で捨てるつもりでいたんだ。でも何処も壊れていないから安心してくれていい」
言いながら土屋さんは、小脇に抱えて持てるくらいのテレビを部屋の隅から持ち出してきた。
けれどそれは、僕の知っているテレビというものではない。
「薄い、ですね?」
「液晶、だからねぇ」
「液晶??」
「卯月くん、君……同軸ケーブルとか、剥ける?」
「はぃ??」
「……」
「……??」
この後、親切な土屋さんはテレビをくれただけではなく、使えるように僕の部屋に設置もしてくれたのでした。
しかしこんなに薄くても映るのには、とても驚きました。どうやって潰したのでしょうね??
基本的に何もなかった僕の部屋。
親切なお隣さんのお陰で文明の利器であるところのTVが手に入ったけれど、人として生活するならばせめて鍋や食器くらいは用意しないと。
それ以前に、今夜の食材も買い出しに行かなくてはならない、うん。
「よし!」
中身の頼りないお財布をポケットに確認して、僕は生活必需品の買い出しを決意。
このアパートへ来る途中、商店街があったのでそこである程度揃えておこうと思うのですよ。
靴を履いて玄関を開けると、
「あれ?」
ちょうど廊下を通りかかった女の子と遭遇。
セーラー服を着た、ふわふわっとした長い髪をツインテールに結い上げた可愛らしい子だ。
僕はちょっと驚く。なぜならこの僕を以ってしても気配を全く感じなかったから。
忍者の中でも上忍レベルの気配の消し方だと思う。
その子は僕を不思議そうにじーっと見つめると、
「あ、お隣さんだぁ! 初めまして、隣の202に住んでる若桜 雪音っていいます」
思い出したようにペコリと元気よくお辞儀を1つ。つられて僕も、
「よ、よろしくお願いします。僕は卯月 総一郎です」
「そーくんね、よろしく!」
言ってにっこりと笑う彼女。さらりと、なんか変なあだ名つけなかったかな、この人??
「そーくんは、これからおでかけ?」
「あ、はい。引っ越してきて、色々足りないものがあるんで」
「どこで買い出しするの?」
「近所に商店街があったんで、そこでと思ってます」
「んー、あそこは食料品は新鮮で安いんだけど、雑貨関係は逆方向にある100均で買った方が良いかもよ」
「100均? ですか??」
なんだろう、知らない言葉。お店の名前でしょうか??
雪音さんはそんな僕の顔を見ると「んー」と言いながら笑う。
「じゃ、案内してあげるよ。ちょっと待っててね!」
言わんや、202の部屋の扉を開けてバックを放り入れるとカギをかけて戻ってきた。
「まずは100均のお店に行こっか。100均っていうのはなんでも100円で売ってるお店のことだよ」
「へぇ、安いですねぇ」
都会はすごいお店があるものですね、なんでも100円とは。
「置いてあるものもそれなりの物が多いけどね。でも大抵の物が置いてあるから選ぶのは楽だし、買い忘れもしにくいから便利かも」
彼女は足取り軽く、僕の前を行ったり来たりしながら教えてくれる。
雪音さんはよく笑う子のようだ。あどけない笑顔がとても良く似合う。
彼女の話に引き込まれているうちに、僕の目の前にはいつしか一軒の大きな雑貨屋さんが建っていた。
歩いて5分くらいだったろうか?
両脇にはビデオレンタルショップとクリーニング屋さん、スーパーマーケットが並んでいて、結構流行っている模様。
「ここよ。早速買い出しを始めましょうか!」
何故か雪音さんが張り切っている。取りあえず僕は……
無駄な物を買わないように、気をつけることに専念しようと思うのですよ。
もっとも30分後、結局その決意はさっくりと瓦解して、あってもなくても良いような物も買い込んでいる自分自身に気付くのでした。
ついついいらないものまで買ってしまい、軽く自己嫌悪に陥る帰り道。
「そーくんは、春から学校なんでしょ?」
「え、ええ、そうです」
「どこの学校なの?」
えーっと、たしか。
「青涼高校、ってところです。アパートから15分くらいの所だと思うんですけど」
「あ、そうなんだ!」
嬉しそうに雪音さん。
言い忘れてたけど、そーくんというのが彼女にとって僕のあだ名というは決定事項のようですか、そうですか。
「じゃ、アタシが先輩だね」
「ということは」
「アタシも青涼高校だよー、春から2年生なんだ」
「そうだったんですか」
これはちょっと心強いかも、と思ってしまう。
慣れていない人間社会の中で、さらに学校生活なんてどうも勝手が分からない。
雪音さんがどんな人かはまだ良く分からないけれど、悪い人ではなさそうだし。
同じ学び舎と聞いてほっとしてしまったってことは、本能的にこの人は信用できる人だと思うのだ。
「フッフッフ、まずは手下を一人確保」
ダークな雪音さんが垣間見えた、前言撤回。
「冗談よー、そーくん」
本当??
「ところで雪音さん、青涼高校ってどんな感じですか?」
「んー、そうね」
空を見上げて彼女。思わず僕もつられて上を見上げてしまう。
早くも日は傾き加減。夕方もすぐそばまで歩み寄ってきている。
「かなり自由な学校だよ。でも逆にちゃんと自分が何をやりたいのかはっきりしておかないと、ずるずる時間が過ぎちゃうかなぁ」
思ったよりも真面目なコメントが帰ってきた。
雪音さんは「でもそれはウチの高校に限ったことじゃないね」なんて笑って付け加えていたりする。
「何がやりたいのか、かぁ」
やりたいこと、ではない。
やらなくてはならないことは決まっている。
「おっ、真面目な顔だね、そーくん」
雪音さんに、ぷにぷにと頬を指で突つかれる。
「何を考えてるのかわかんないけど、そーくんみたいなタイプはいざという時は肩の力を抜いた方が良いと思うよ」
「はぁ」
「それはそうと、そーくんは晩ご飯どうするの?」
本当にそれはそうと、だなぁ。ころりと話が変わる。
「これから食材買いに行って、見ながら決めようかなって思ってました」
「なら、今日はウチに食べに来ない? 簡単な歓迎会ってことでさ。姉上にも紹介したいし」
「挨拶には改めて伺おうかと思ってましたけど」
「いいのいいの、じゃ、決まりね」
若桜 雪音は強引だ。
「さってと、晩ご飯は何にしよっかなぁー♪」
アパートを出たときよりも長くなった影を踏み締めながら、僕達は帰るべき家に向かう。
そうか。
アパートの前に着いて、改めて当たり前のことに気付く。
「ここが、今日から僕の帰る家か」
僕の呟きは声に漏れていたみたい。
前を行く雪音さんがこちらに振り向いて、一言。
「おかえり、そーくんっ」
大輪の笑みに思わず僕は「ただいま」と答えていたのでした。
僕がこの街に下り立った今日は、4月の5日。
暦の上では春であっても、冬の寒さは日が沈めばまだ衰える兆しはない。
一段と冷たく乾いた北風が、僕と雪音さんとに吹きつける。
「さむっ! そーくん、部屋に戻ろっ」
「はい!」
僕達は足早にアパートの階段を上っていく。
と、なにか足に絡みつくものがある。
「ん?」
「ふなーぉ」
それはシロクロブチ柄のネコ。僕に踏まれないながらも、存在感を示すように足に絡んできている。
「あー、ニャンコ先生だ。そーくん、この子は大家さんの所の子だよ」
「へぇ、そうなんですか」
ニャンコ先生か、変わった名前だなぁ。
「ニャンコ先生、おいで。ウチのこたつで暖まって行きなよ」
「ふなーお」
雪音さんの言葉が分かるのか、そのままネコは彼女の部屋に上がって行く。
「そーくんもどうぞ」
「あ、はい。お邪魔します」
「そいつ、ニャンコ先生なんて名前だったか?」
そんな猫に代わっての抗議の声は雪音さんの後ろから。
201の扉が開き、そこから一組の男女が顔を出していた。
目つきの鋭い、くわえ煙草をした二十歳半ばの男性と、同い年か少し上の、OLらしいスーツをまとった女性だ。
「亮お兄ちゃん、こんばんわー。あれ、姉上も?」
「何処行ってたの、雪音。私、鍵を部屋に忘れちゃって……って??」
女性の方は僕を見て、そして雪音さんを見てからもう一度僕を見る。
「雪音のカレシ?」
問答無用で雪音さんのハイキックが女性のこめかみに決まる。
「バカ姉上っ、今日引っ越してきた203の卯月くんだよ」
雪音さんに姉と呼ばれた彼女は、さほどダメージを受けたわけでもなさそうに首をコキコキ鳴らしてから改めて僕を見る。
そして優しげに微笑み、
「私は若桜 乙音、よろしくね。で、こっちが201の高槻 亮くん」
「あ、よろしくお願いします。卯月 総一郎です」
「よろしくな」
と、一通りのご挨拶。
「でね、姉上。簡単にそーくんの歓迎会をやろうと思ってね」
「あら、良いわね。それじゃ、お鍋にしましょう。丁度亮くんと駅前でばったり会って、食材を買い込んできた所なの」
嬉しそうに言う乙音さんの隣では、両手一杯の荷物を持たされている高槻さん。
「そうと決まれば上がって上がって。亮くん、今日は特製のお酒開けるわよっ」
「それは楽しみだ」
ぞろぞろと202号室に上がって行く三人。
「どうしたの、そーくん。早く上がってよ」
玄関先で雪音さんが不思議そうに僕を見ている。
「はい、ありがとうございます」
寒いからこそ感じることのできる暖かさを、僕は今この時ほど嬉しく思ったことはなかった。
若桜姉妹の部屋はなんというか、年頃の女の子?らしいというか、らしくないというか。
部屋の中央には、ででんとコタツが置かれてその上にはカゴ一杯のミカンが入っている。
部屋の隅にはタンス、本棚とこれは普通。
その隣には眼鏡をかけた白スーツの老人の等身大人形が置かれているのは異常。
壁には今流行している(らしい)ジャ○ーズのグループのポスターが1枚。これは普通。
その隣には恐山のテナント。これ、異常。
キッチンに使っている流し台には、無駄に12本セットの包丁が飾られているし(後ほどなまくらと判明)、靴箱の上にはケロ○ン人形が首を振っている。
「どうしたの、総一郎くん?」
「え?」
心配そうに僕の顔を覗き込む乙音さん。その隣で雪音さんが笑ってこう言った。
「なぁに? 年頃の女の子の部屋で緊張してるの?」
「一人年頃じゃない人もいるが…ぐっ!」
高槻さんが無言で乙音さんに足を踏まれた。
「あ、いえ、なんというか、独特な部屋だなぁって」
特にケ○ヨンとカー○ルサ×ダース辺りが。
「姉上が酔っ払って良く変なものを拾ってくるからねー、これでも元の場所に返したほうなんだよ」
と、苦笑いの雪音さん。
「ほらほら、いつまでも玄関に居ないで上がってね」
そう言う乙音さんに急かされて部屋に上がる。
高槻さんは慣れた様子で、流し台の下にある戸棚からカセットコンロを出していた。
一方、乙音さんは高槻さんに持たせていた荷物を開ける。
商店街で買って来たのだろう、中には白菜、春菊、にんじんにチンゲン菜、長ねぎその他もろもろだ。
「姉上、お肉はー?」
「冷蔵庫にこの間、山で狩ってきたお肉がまだあったでしょ」
「狩ってきた?!」
驚く僕。
「ん? 雪音と一緒にイノシシをさくっとね」
「帰り道分からなくなって、3日間も雪山をウロウロしてたんだよねー」
「あの時はさすがに凍えるかと思ったわねぇ」
「「あっはっはー」」
まるで…いや、すでに「良い思い出」風に語る2人。
「少年、あまり深く考えちゃダメだぞ」
小声で囁く高槻さん。まるで動じずにコタツの上に置いカセットコンロをカチカチとしている。
「ガス切れかな?」
そう言いながら新しい携帯ボンベに入れ替えていた。強いなぁ。
「えーっと、僕はどうすれば?」
「コタツに入っててー。お鍋だから準備はすぐ終わるしね」
土鍋を手にしながら雪音さん。
高槻さんの調整していたコンロも火がつき、2人もコタツへ入る。
2人が対面に座るので、僕は雪音さんの右隣、空いた乙音さんの席の対面に入った。
「なーぉ」
入ったところでコタツの中に入っていたネコが出てきて僕の膝の上に。
えーっと、ニャンコ先生だったか??
『ミィですよ』
「ミィですか」
そうだよな、そんな変な名前のはずが……へ?
「どうしたの、そーくん?」
「今、雪音さんはこのネコの名前を…」
「さぁ、材料投入しまーす!」
僕の言葉を乙音さんが遮った。
「ちょっと待ったー! まずは肉からだろ」
「その前に味付けしなきゃ。おしょうゆベースで良いよね」
「お野菜を入れればたくさん美味しいスープが出るじゃないの」
三者三様で菜箸が入り乱れ、それぞれの意図しない方向性で鍋が形作られて行く。
僕はその光景を見て気がつく。
「そうか、3人とも鍋奉行なんだ」
正直どうでも良い呟きを聞いたのか聞かなかったのか、膝の上のミィさんが大きくあくびをして丸まったのだった。
ホクホクとしたニンジンの甘い香りが口の中に広がる。
うん、良い土で育った物だな、これは。
TVからは今話題のお笑い芸人ペアが司会でトーク番組が流れている。
そして、静かになったお鍋を黙々とつつく僕。
高槻さんと乙音さんは早々にビール→日本酒という流れになり、現在はそれぞれいびきをかいて寝こけている。
「ねぇ、そーくん?」
「はい?」
右隣の雪音さんに視線を向けると、じっと僕を見ていた。
「なんですか?」
「そーくん、ニンジン好きなんだね」
ビクッ、思わず緊張が走る。
「あ、ニンジンばっかり食べてました?」
「うん。あんまりお肉は食べないみたいな?」
「そ、そうかもしれませんね」
「なんでも食べないと大きくなれないぞっ!」
言われて小さくデコピンされる。
「なー」
「どうしたの、ニャンコ先生?」
僕の膝の上で丸まっていたミィさんが不意に起きて、雪音さんの膝の上に移動。
そして彼女を見上げ、
「ふなーぉ」
ぽん
右前足で彼女の胸を叩く。
「………」
「……どういう意味かな、ニャンコ先生?」
ぽんぽん
ミィさんは数回、雪音さんの小さな胸を叩いたら、静かに玄関へ。
器用に戸を開けて外へと出て行った。
見送る雪音さんの頬が怒りにぴくぴくしているように感じる。
おぉーい、なんて空気を残して行くかな、君はっ!
とりあえず僕は雪音さんとお鍋とを交互に見やり、
「あ、えーっと、食べますか、雪音さん?」
「そーくん、それってどーいう意味かなーーーっ!?」
しまった、墓穴だ。いらんフォローでした。
こうして僕の都会(?)生活初日は、結構ドタバタとして過ぎて行ったのでした。
[TOP] [NEXT]