白黒双月
2 一人足伸ばす


 翌日。
 布団の中から壁にかけた時計(100均)を見上げる。
 針は6:30を指していた。布団からはみ出した腕が、未だに健在の朝の冷気に震える。
 今日は日曜日。
 明日からの高校の始業式に備え、今日は昨日買い足りなかった必要なものを揃えて、これからの生活の準備を終わらせないといけない。
 目が覚めた僕は外からの声を耳にする。
 階下からのそれは男女のもの。1,2,3人??
 場所的に、昨日結局挨拶できなかった101と102の住人だと思う。
 僕は布団から抜け出して大きく背伸び。
 洗面台で顔を洗い、着替える。
 「あ、まだいるのかな?」
 外からの声は変わらずに存在している。
 これを機に挨拶をしてしまおう。
 おみやげを2つ手に、玄関を開ける。
 途端、朝の日差しが目に刺さった。眩しさに目を細めながら、廊下から階下を眺める。
 1階の玄関先、このアパートの駐車場を兼ねている広場でジャージ姿の男女2人が朝の体操をしていた。
 「おはようございまーす!」
 声をかける。
 すると2人は僕を見上げ、そして慌てたように男性の方が懐に何かを隠したように見えた。
 「お、おはよう」
 「おはようございます」
 そう返事をしながら2人。
 僕は階段を下りて2人の許へ。
 1人は男性で、青いトレーニングウェアを着込んでいる。
 年齢的には昨日会った相馬さんよりも下、20代前半といった感じだろうか? 中肉中背の青年だ。
 もう1人は女性。黄色いジャージで身を包んでいた。
 男性と同い年か、少し下に見える。童顔だが20代くらいと感じる、ちょっと変わった印象を受ける人だ。
 そんな2人に僕は頭を下げる。
 「初めまして。挨拶が遅れてごめんなさい、昨日203に引っ越してきた卯月 総一郎といいます」
 「あぁ、君が引っ越してきた人か」
 ぽんと手を叩く青年。
 「僕は101、彼女は102だよ。生活していて何か分からないことがあったら遠慮なく訊いて…っておーい!」
 「はへ?」
 じゅるり
 102に住んでいるという女性の方は、剣呑とした目つきで僕を見つめながら、何故かよだれを流していた。
 まるでその表情は、
 「あ、いや、美味しそうだなと思って」
 言いつつ、慌てて我に返る彼女。
 えぇと『何が』美味しそうなのかな??
 「め、銘菓で有名なんですよ」
 僕は手にした引越し挨拶を2人に手渡す。
 「ありがとう」
 「そう、美味しく頂くね」
 答える2人。でも女性の方のその目は……僕を、見ている。
 まるでそれは肉食獣のような??
 背筋に寒いものが走るが、考えない事にした。
 と。
 先程の2人を思い出す。そういえば、
 「ところでさっき、何かバタバタしてませんでした?」
 僕は2人の後ろを見る。
 「あ、いや、なんのことかな?」
 視線を遮るように男性の方が僕の視線の先に移動する。
 「?」
 「?」
 変わった人達だ。
 「じゃ、僕はこれで」
 「あぁ、何か困った事あったら遠慮なく言ってくれよ」
 お辞儀一つ、僕は2人の前を後にしてアパートの敷地を離れる。
 なにか……背中に嫌な視線を感じながら。

 
 「お前、ショタだったのか?」
 「へ、なんで?」
 彼の問いに彼女は小さく首を傾げる。
 「いや、だって」
 小さくなる卯月の背中と、隣りの彼女を見比べながら彼は困った顔。
 それに彼女は頭をぽりぽりとかいて、こう言った。
 「あー、そうじゃなくて。何ていうかなぁ……うさぎ追いしかの山、って感じ??」
 「??」
 「悪いやつらに食べられなきゃいいんだけどね」
 意味深な言葉を呟く彼女。
 そんな彼女に、彼の背中から這い上がった身の丈20cmくらいの人形――いや、女性の姿をしたモノがボソリと呟いた。
 「やっぱりそれはショタ、じゃない?」
 「だよなぁ」
 「ちょ、そんな意味じゃなくて! それに私、ショタじゃないもん!」


 春休み最後の休日の街中は活気に満ちていた。
 駅前の通りなどは老若男女問わずに人が行き過っている。
 その大多数の中の一人になって、僕は目的地に向かう。
 アーケードのある商店街。その中の一軒である衣服店へ。
 僕が明日から通う高校で指定されている制服を受け取りに、だ。
 「ん?」
 人ごみの中、足を止める。
 背後から一際やかましく駆けてくる足音がある。
 振り向くと同時、
 「どけっ!」
 「わっ!」
 若い男のようだ。進路上の僕や歩行者をかきわけるようにして、突き飛ばしながら駆けていく。
 少し遅れて「ひったくりだ!」と叫びながら追いかけるこれもまた若い少年一人。
 僕と同い年くらいだろうか? 勝気な瞳を怒らせて先程の男を追っている。
 しかし、ダメだ。
 この子では追いつけない。
 それが分かった瞬間、僕の両足は男を追って駆け出していた。
 右へ左へ、驚く人々をかわしつつ僕はひったくりと呼ばれた男を追いかける。
 体感は5分、けれど時間にして数十秒だろう。
 僕は先ほど突き飛ばされた男の隣に回りこみ、通せんぼするように彼の前に立ちはだかる。
 男は恐ろしい形相を浮かべて立ち止まり、
 「どけ!!」
 女物のハンドバックを僕に向かって振り回した。
 どす
 「うっ」
 それをお腹で受け止める。ちょっと痛いけど、それを僕はもう放さない。
 しまった、という顔で男。一瞬の戸惑いが彼の仇になった。
 「とったぁぁ!!」
 裂帛の叫びは男の真後ろから。
 ごすっと鈍い音を立てて、追跡者の少年の飛び蹴りが頭の後ろへ炸裂する。
 白目を剥いた男は僕の前で崩れるようにして倒れ伏した。
 「ほぃ、サンキュ!」
 差し出された手に、僕は彼を見上げる。
 日の光を背負った彼は、まだ幼いけれど無理に背伸びをしているような、そんな印象を受けた。
 同時、
 ”男の子、だよね?”
 どこか中性的な感じも受けたけれど、初対面の人にそんなことを訊けるはずもない。
 「大丈夫かな、この人」
 右手を出して起き上がらせてもらって、僕は引ったくり犯を見下ろす。
 なんか呻いているので変に打ち所が悪かったりはしていないみたいだけれど。
 そんな僕を不思議そうに彼は見て、
 「悪人に人権なんてないから気にするなよ」
 そんなことを言う。
 「それはちょっと」
 「あ、おまわりさーん、こっちこっち!」
 いつの間にやら僕たちを中心に人だかりができていた。
 それを目指して警官数人と、それに押されるようにして老婆が近づいてくる。
 うーん、ちょっと面倒かも。
 「これ、お願い」
 「え?」
 僕はハンドバックを彼に渡して、人ごみの中に飛び込む。
 「お、おぃ、ちょっと!」
 止める彼に振り返ることなく、足早にここから離れることとしたのだった。

 
 「ほぅ、あんちゃん、猫寝荘に暮らしてるのか」
 あご髭を撫でながら、衣料品店のおじさんは感慨深げにそう言った。
 商店街にある学校指定の洋品店。ひったくり関係から無事に逃げ出しここまでたどり着くことができた。
 そして暇そうな店の主人との話がそこそこ弾んでいたりするわけなのだけれど。
 「ご存知なんですか?」
 「ご存知もなにも、あそこの大家は町長さんだしな」
 「へぇ」
 それは新発見。
 大きな紙袋にまとめられた制服一式を両手に提げながら、僕は店主であるおじさんの話に耳を傾ける。
 「それに、まぁ、なんだ。町長さんは色々手がけてて、ここいらじゃ有名人だしな」
 「そうなんですか?」
 「近所の幼稚園やら孤児院とかも経営してるんじゃなかったかな、確か。どれも儲かるのかどうか首を傾げるモノばっかりだけどなぁ」
 「今時あんな古いアパートを経営できてるのも不思議かもですね」
 「そうそう、造りはなんでも昔有名だった建築家が施工したとかで悪くはないと思うんだがな。今時風呂もトイレもないのはちょっと」
 「え? ユニットバスはついてますよ?」
 「おや、じゃあ改装してたんだな。オレが学生の時分にゃ、猫寝荘に住んでた同級生はみんな銭湯に行ってたもんでな」
 そんなおしゃべりに、猫寝荘の歴史を感じたりする。
 と、同時に。
 「その同級生、女の子ですね」
 「! なんで分かった??」
 「銭湯のくだりで」
 答えるとおじさん、爆笑。
 「そうだ、あんちゃんに良いこと教えてやるよ」
 ニヤリとおじさんは笑みを浮かべると、僕の耳にそっと囁く。
 この近所に代々ある、銭湯の秘密を。
 「!? そんな、今はもうそんなことはないでしょう」
 「いやいやいや、あんちゃん。それがこの間確認したら、そのまんまだったんだよ」
 おじさん大真面目。
 この銭湯の秘密については公にするのは憚れるので、ひとまずは僕の胸のうちに秘めておこうと思う。
 だからみんな(?)にも内緒だっ!
 「じゃ、一人暮らしの学生生活を満喫しろよ」
 「はい、どうもです」
 おじさんに別れを告げて店を出る。
 商店街のアーケード通りをしばらく歩くと、ふと賑やかな音が聞こえる店舗が目に入った。
 「これがゲームセンターかぁ」
 派手な電子音や少年達の雑踏が響く、やや暗い感じの店内が目に入る。
 僕はほとんど興味ない世界だけれど、弟の浩二郎が一度は行ってみたいとしきりに言っていたのを思い出した。
 ちなみに僕の故郷にはこういった「ゲーム」というものは、駅前のおばあちゃんが経営している喫茶店に置いてあるインベーダーゲームが唯一だった、と思う。
 よく浩二郎が楽しそうに遊んでいたっけなぁ。
 そんな思い出にふけりながら、いつの間にやら僕は店内へと足を進めていた。
 「!?」
 中はうるさいほどの喧騒に包まれている。
 耳がバカになるくらいの音量があちこちから響いていた。
 所狭しと並べられた筐体は、忙しいほどの勢いで小さなキャラが動いている。
 半ば呆然と店内を歩いていた時だった。
 どん
 何かにぶつかった、それがすぐに人だとわかる。
 「あ、ごめんなさい」
 目の前には人の背中。
 振り返るは、4,5人の少年達。
 「ん?」
 あまり健康的とは思えない彼らに囲まれる様に、壁を背にして一人の女の子がいる。
 その子は、どこかで見たことがあるような……あ。
 「さっき、ひったくりを捕まえた…」
 そこまで言って言葉を止める。
 あれは男の子だった。
 今、目の前にいるのはそっくりの顔をしているけれど、まるで別人の様。
 先程の子が自信に満ち満ちている反面、今のこの子は怯えている小動物のようだ。
 怯えている??
 僕は改めて彼らを見渡す。
 僕を睨む5人の少年達。そして明らかに彼らとは視線の色が違うこの子。
 あー、なるほど。それは獲物を取り囲んだ野犬達の構図にそっくり。
 「探したよ」
 僕はわざとらしくそう言って、少年達を押し分けて少女の手を取る。
 囲む彼らからの敵意が膨らむ、その寸前に僕は彼女に。
 「父さん『達』が怒ってたぞ、勝手にいなくなって。さ、一緒に謝ってあげるから行こう」
 強引に引っ張って少年達の包囲を破った。
 背後からは彼らの舌打ちが聞こえてくる。振り返らないようにして僕は彼女と一緒に店を出た。
 「ありがとうございました」
 店を出てしばらく行った所。消え入るような声で、彼女は小さく微笑んだ。
 そこでようやく僕は手を離す。追いかけてくる気配はない。
 「あんまり、ああいう所は行かない方が良いと思うよ。特に」
 続く言葉を飲み込み、改めて彼女を見る。
 全身から気弱な雰囲気が漂っていた。ああいう連中からすれば間違いなくカモだ。
 ……僕も人のこと言えないけど。
 「じゃ、気を付けてね」
 「うん、ありがとう」
 ぶんぶん手を振る彼女と別れ、改めて帰路につく。
 この一連の出会いが、思えばあの兄妹との最初の接点だったのだと後ほど気付かされることになるのだった。


 商店街を出て、まっすぐは行かない帰り道。
 少し遠回りをして、昨夜雪音さんから教えてもらった河川沿いの桜並木を歩いてみた。
 ひらりひらりと舞い落ちる桜の花びら。
 今年の開花は例年よりも早かったけれど、入学式シーズンに舞い落ちてしまっているという心配はなさそうだ。
 しかし今年は大丈夫だったけれど、年々開花が早くなっている。そのうちその心配は現実のものになってしまう気もする。
 桜並木の続く土手には、酒盛りをするおじさんたちや家族連れ、大学のサークルの集まりだろうか?若い人達の姿も多く見られた。
 そんな光景をのんびり眺めていると、故郷のみんなも今ごろは同じように満開の桜を見上げてお花見しているんだろうな、と思わず想像する。
 「故郷かぁ」
 つい先日こちらへ出てきたばかりなのに、随分前に離れた気がする。
 「それだけ時間が充実しているんだろうな、いやせわしない、かな」
 そう思って、今まで故郷で過ごしてきた自分を振り返る。
 なんともまぁ、のんびりと過ごしてきた事だろう。
 だから。
 「あれ?」
 そこまで思って、異変に気付く。
 見上げた先の満開の桜と青空は変わらない。
 そう、変わらない。
 ずっと、ずっとその変わらない光景が続いている。
 お花見をしている人々の姿はなく、無限に続く桜並木に一人、僕がいるだけだった。
 「これは??」
 とにかく歩く。
 しかし風景は変わらず、まるでその場で足踏みをしているような錯覚に陥る。
 歩みはやがて走りになり、そうして歩みに戻る。
 「なんだこれ、結界か??」
 足を止めて息を整える。
 途端、どっと来る疲れに背中をすぐ近くにある桜の木に預けた。
 「ふぅ」
 大きく溜息、顔を上げる。
 変わらない景色。満開の桜が無音の中で咲き誇ってる。
 一面の桜色の中、視界の左端に一片の黒い物が映る。
 なんとはなしに、視線を動かした。
 「?!」
 いつの間にだろう、僕のすぐ隣りに女の子が佇んでいた。
 黒い物は彼女の長い黒髪だ。
 驚く僕を、彼女は表情のない顔で静かに見つめていた。
 「君は、誰? ここはどこ??」
 考えるまでもなく口をついて出る質問。
 それに対して彼女は消え入るような小さな声でこう呟くようにして言う。
 「気を抜きすぎ、ウサギさん」
 語尾の一言をまっすぐ僕の目を見て告げる彼女。
 全てを見透かして告げたその言霊は、僕の本性をさらけ出すに充分な物だった。
 「あ?」
 ぽん、と僕の耳が本来の姿に戻る。
 白く長い、ふさふさの毛に包まれた耳。
 うさぎの耳だ。
 「え、えーっと?!」
 両手の荷物を落とし、隠そうとするが隠せるものではない。
 「ど、どうして」
 一歩、後ろへ下がって僕は少女に問う。
 彼女は河川沿いを指差した。
 すると、ぼんやりと『外』の景色が映る。
 お花見を楽しむ人々に、歩きながら花見を楽しむ人達。
 「よく、見て」
 言われて良く見る。
 「あ」
 『良く見る』と人々の中には人間ではない『モノ』達の姿もちらほらと見て取れた。
 ”僕のような”動物の変化したモノの他にも、なんだか良く分からないモノもいる。
 彼らは妖気を巧く隠し、滅多な事では気付かれないような力量を持っていた。
 だが、この結界はそんな妖力を看破する力を有しているようだ。
 そんな変化したモノの中にキョロキョロと辺りを見回しているモノが数名。
 狼とトラ、犬といった”僕”の天敵だ。
 変化し得るだけの力量の持ち主ならば、やたら滅多に取って食べたりしないと思うけれど……いや、それは甘えだ。そんなことはない。
 「もしかして」
 僕は傍らの女の子に視線を移す。
 「助けてくれたの?」
 問いに、ゆっくりとこちらに顔を向けた後。
 こくり、頷いた。
 一歩一歩踏み締めるような行動の取り方に、僕は彼女の正体に気付く。
 「君は樹精だね。この一帯の桜の木々の」
 再度、こくりと頷く。
 「ありがとう、助けてくれて」
 「しばらく、こちら側からゆっくり、お花見していくといいよ」
 噛み締めるように彼女はそう言って、小さく微笑んだ。
 「じゃ、お言葉に甘えさせていただきます」
 結局、日が沈みかける夕暮れまで僕は静かな結界の中で2人。のんびりとお花見して過ごすこととなったのだった。


 都会に移り住んだばかりの彼が、これまで住んでいたのは田舎の中の田舎にある、さらに山奥。
 一昔前ならば人知未踏。
 動物達が自然の理に従って過ごす、静かな土地だった。
 しかし、昨今の人による開発によってこの日本に人知未踏などという場所は存在しなくなったのは周知の事実。
 彼の住む土地にもまた開発の手が伸び、5年後にはゴルフ場とそれに伴うリゾートホテルが完成する運命である。
 そうなれば彼らの住む森は、すでに安住の地ではなくなる。
 開発が進むにつれ、森から動物達が姿を消して行った。
 いや、動物達だけではない。
 人の目を偲んで生きてきた動物達のその先に行きついた者達――すなわち妖の者達もまた、他の安住の地を求めてこの場を去らなくてはならないのだった。


 森が拓けている。
 彼は途切れた森から頭を半分だけ出して注意深く周囲を見渡す。
 頭上にはトンビが舞っている。何も考えずに飛び出せば、彼らの襲撃を受けるだろう。
 これまでは彼らの襲撃を受けることなく、木々の保護を受けて移動が出来たのに。
 彼は悲しく思う。
 無抵抗の森を開いたのは、人間達の操る鋼鉄の腕を持つキカイだ。
 無慈悲にキカイを使って彼らの住む世界を人間達の世界へと塗り替えていってしまう。
 人間は同族以外の存在を認めていない。
 それを目の当たりにして、彼はさらに悲しさを増した。
 大昔は人間達も己の領分をわきまえて、かつ彼らに対しても尊敬や畏怖の念を抱いていたと聞いている。
 少なくとも、存在を認知してくれていた。
 だが、今は違う。
 彼らは目に見えるものしか信じなくなってしまったし、例え見えたとしても人間達の世界に彼らの存在をそのままにして受け入れてくれる余裕などない。
 人間同族の間ですら、異なる族柄に対しては殺し合いをするほど仲が悪かったりもするからだ。
 これからどうなってしまうのだろう?
 彼は思いつつ、森の木々に沿って駆けていく。
 彼の姿は白い毛皮に包まれた、黒く大きな瞳と、自慢の長い耳を持つ野ウサギだ。
 卯妖。
 777回の満月をその身に受けることで、彼は動物から妖となった。
 妖とは言え、所詮は兎。大した能力があるわけでもない。
 当然、森を切り開く人間達に対抗するだけの能力もない種族だ。
 彼は人間達の鋼鉄のキカイを右手に見ながら駆け抜ける。
 やがて進路は森の中に。
 風を切る速度で彼が辿りついたのは、この地の卯妖の聖地。
 背の高い木々に囲まれ、木漏れ日の優しい青草茂る円形の場所だ。
 そこには五匹の兎が待っていた。
 白い者、茶色い者、ブチの者、目の妙に赤い者、様々だ。
 足を止めた彼はそのメンバーを見て驚く。
 卯妖の長老を始めとした、各地域の実力者達ばかりだったからだ。
 「来たな、総一郎」
 中心に立つ長老である白兎の言葉に、総一郎と呼ばれた彼は一礼する。
 「なんのご用でしょう、長様?」
 長老は席払い一つ。
 「総一郎、お主に人間の世界で勉強してきてもらいたい」
 「は?」
 総一郎は理解できなかった。
 何故自分が人間の世界で勉強など??
 「この一帯に住まう卯妖の数、知っておるか?」
 「先日、隣の山で一人覚醒致しましたので、確か43かと?」
 彼は長老の言葉に答える。白兎は肯定の意で頷いて、
 「その43のこれからの生活は、お主にかかっておるのだ」
 「へ?」
 間の抜けた返事で思わず返してしまう。
 「総一郎、人間の世界を知らずして、我らは生きては行けぬ」
 長老の言葉を引き継いだのは、隣山の責任者であるブチ模様の兎だ。
 「この一帯はやがて我らの住める世界ではなくなるだろう。そこでだ」
 彼は総一郎を指差す。
 「総一郎、お前を人間の世界に送り出す。我らはいずれ、人間の世界で生きていくことになろう。その為にまずはお前に人間の世界での生き方を学んできてもらいたいのだ」
 「ど、どうして僕が?!」
 「我々の中で一番器量が良いからよ、総一郎」
 優しい声で言うのは長老の娘である茶色の兎だった。
 娘の言葉に頷きつつ、長老は続ける。
 「それにお主にその資格が第一にあるのだ、お主の弟の犠…っと、何でもないわい」
 「弟?! ちょ、長老、弟の浩二郎がどうかしたんですか??」
 総一郎のうろたえる声に、全員が目をそらした。
 「ここ数日、浩二郎に会わないのでなにかおかしいと思ったんですが、一体何が?! 犠…って、犠牲ってことですか?!」
 総一郎には仲の良い弟である浩二郎という兎がいた。兄弟で妖化できるのはこの野生の世界では極めて珍しいことだ。
 それ故に、仲の良さも尋常ではなかったのだが。
 慌てふためく総一郎の肩を、長老の娘が優しく叩いて言った。
 「大丈夫、浩二郎は納得して逝ったのだから、じゃないわ、行ったのだから」
 「ちょーーーー!!!???」
 「総一郎!」
 いつにない長老の強い言葉に、総一郎はびくっと動きを止める。
 「これは道を作ってくれた浩二郎の希望でもあるのだ。お前が行くのはむしろ義務」
 「え、えっと、その中に浩二郎の希望は? ってか浩二郎は一体どうなってしまったんです??」
 総一郎の言葉を無視して、長老は彼の目を強く見つめてこう言った。
 「我ら卯妖の命運、お主にかかっていると知れ。人間の世界を知り、よろしく我らの進むべき道を作るのだぞ」
 「無視するなーー!」
 こうして卯妖である総一郎は、深い森の中から人間達の住まう街へと送り出されたのだった。
 浩二郎という尊い犠牲を踏み台にして―――


 僕は目覚める。
 枕もとの目覚まし時間はぴったり6時をさしていた。
 今日から僕の人間界での学生生活が始まる。
 ここを8時ちょっと過ぎに出れば、学校までは歩いて15分。
 まだまだ時間はある。
 「よし!」
 布団から勢い良く起き上がる。
 窓から覗く空は真っ青で雲1つない。うん、いい朝だ。
 「浩二郎、僕も頑張るよ」
 弟の浩二郎は、今ここにこうしている僕の人間界での足場作りの代償として、そして卯妖代表として全ての妖達が形成するある組織に奉公に出たという。
 進んでその役目を買って出たという彼の為にも、僕はこの人間界で多くを学ばなくてはならない。
 そんな義務感と共に、
 「学校かぁ、どんなところなんだろうなぁ」
 湧きあがるこのワクワクした感情は押さえることは出来なかった。


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