白黒双月
3 そして登校す


 アパートから歩いて15分のところに、僕の通う高校はあった。
 昨日、桜の妖精に会った川原の土手を歩き、駅前を抜けて駅向こうへ行った所にそれはある。
 駅の向こう――東口は数年前まで人家もまばらな野山だったそうだけれど、現在は新興住宅地を中心にこちら西口の下町とは対照的な整理された区画になっているという。
 「いってらしゃーい」
 お隣の乙音さんに見送られ、僕は雪音さんの後ろをついていく。
 「でね、私たち2年生は6クラスだから180人くらいかな。3年生も6クラスあるんだよ」
 隣を行く雪音さんの言葉を聞きつつ、僕は次第に同じ制服をまとう同じ学生たちが周囲に増えていくのを知る。
 今日は待ちに待った入学式。
 2年生である雪音さんにとっては始業式に当たる。
 「今年の僕達新入生はどれくらいいるんでしょうね?」
 「んー、きっと同じくらいじゃないかなぁ。極端に増えたり減ったりはしないと思うけど」
 やがてまばらな畑を周囲に散らした通学路は、急な上り坂へと差しかかる。
 100mほどある坂の上に、大きな4階建てコンクリート造りの校舎が見て取れた。
 そんな学校まで一本道である上り坂は、多くの生徒達の姿がある。
 「あれがこれから、そーくんが3年間お世話になる高校よ。屋上からの眺めはサイコーだよっ」
 「確かに。小高い丘の上に建ってるんですね」
 遠めに見てアイボリー色のコンクリのそれは2棟あり、体育館の姿も見て取れる。
 僕たちの住むアパートのある駅の向こう側とこちら側とは、やはりずいぶん異なる雰囲気を感じる。
 開発したてという東側は、完全にコンクリで地面を覆ってしまうという方針ではないようだ。
 校舎の周りには畑の他に、雑木林なんかも見受けられる。自然との共生を模索しているようにも感じられる。
 そんな中、僕の隣を行く雪音さんの肩が後ろから叩かれた。
 「あ、恵美ちゃん。おはよう」
 「おはよう。ん? この人は??」
 雪音さんに話しかけたのは黒髪の女の子。おそらく彼女の同級生だろう。
 「そーくんよ。ウチのアパートにこの春から引っ越してきたんだ」
 「卯月 総一郎です。初めまして」
 「私は雪音ちゃんと1年のとき同じクラスだったんだ。相馬 恵美って言います。よろしくね」
 そう言うとにっこり微笑む相馬さん。そして雪音さんへと視線を戻すと、
 「総一郎だから、そーくん?」
 「うん」
 それを確認して苦笑い。こちらに「いいの?」的な視線を向けてくるが、僕も苦笑いを浮かべるに留めておく。
 やがて僕たちは校門までたどり着く。
 「さて」
 雪音さんはこちらを振り返る。
 「まずはここでいったんお別れ。あとでアパートで初日の感想、聞かせてね」
 「あ、はい」
 「新入生の卯月くんは、ほら、そこ」
 相馬さんが右前方を指差す。
 そこは南側に建つ校舎への入り口で、僕と同じ新入生と思われる学生達で人だかりができていた。
 「一年生の昇降口前で、クラス発表されてるの。名前が書かれた教室に行くんだよ」
 「アタシ達2年生もクラス替えなんだ」
 と、こちらは雪音さん。彼女が視線を向けるのは1年生の昇降口とは反対側、北側校舎の入り口だ。
 こちらも学生の人だかりができている。1年生のいる南側よりもその数は多く、しかしスムーズな人の移動がなされているように思える。
 「私達と3年生は北側校舎なの。初日、がんばってね、卯月くん」
 「はい、ありがとうございます」
 「お、恵美ちゃん、お姉さんぶってる??」
 「ちょ、雪音ちゃんに言われたくないよっ!」
 「ほいほい、じゃ、そーくん、またねー」
 「もぅ! それじゃ、また♪」
 わずかに顔を赤らめながら相馬さん。少し駆け足で2,3年の集まる人ごみの中へ入っていく雪音さんを追いかけて行く。
 僕はそんな2人の後姿を見送った後、1年の集まる昇降口に目を向ける。
 入り口に大きな紙が数枚張られていて、そこにクラス別の名前が書かれているようだった。
 僕もまた人ごみの中に入り、自分の名前を探す。
 「C組、か」
 出席番号は3番。あいうえお順のようだ。
 早々にこの場を切り上げて下駄箱のある校舎への足を踏み込んだ、その時。
 「あー! 君、君!!」
 聞き覚えのある、大きく元気な声が僕の背中に投げかけられた。
 反射的に振り返ってしまう。そこには忘れもしない、昨日ひったくりを捕まえた少年の姿が……。
 姿、が。
 あれ??
 「おー、やっぱり昨日の君か。同じ学校で、それも同級生になるとは思いもしなかったよ、何組だい??」
 馴れ馴れしく肩を叩いてくるその人は、間違いなく昨日のひったくりを捕らえた人。
 ただおかしいのは、何故か雪音さん達が着ていたブレザーを身に纏っていることだった。
 「ん、どうした? オレのこと、忘れた??」
 「あ、えーっと」
 「昨日、ひったくりの野郎を一緒に捕まえたじゃねーか」
 「う、うん。そうだね、そうだよね」
 女の子だったのか、ごめんなさい。
 内心、謝っておいた。
 「あ」
 「ん?」
 そして僕はもう一つの視線に気付く。
 彼女の後ろ、まるで背中に隠れるように…いや、実際に隠れているようにしか見えないが。
 彼女と同じ顔の男子がいる。
 男子と分かったのは僕と同じ学生服を着ているから。それがなければこちらは女の子にしか見えない。
 「あれ? どうしたの、タクミ?」
 タクミと呼ばれた彼は、おずおずと彼女の背中から顔を出すと、小さな声でこう言った。
 「昨日はありがとう」
 「え、もしかしてゲーセンでタクミを助けてくれたのってアンタ?」
 「う、うん。助けたというか、芝居で切り抜けたというか」
 それ以前に、まるで性質が反対な、けれど同じ顔2つを前にすると。
 むぅ、どんな簡単なことでもなんと答えたらいいか頭に急には浮かばない。
 「アンタ、名前はなんだい? ぜひ教えてくれないか?」
 「えと、卯月 総一郎」
 「オレは柚木 歩。で、こっちが兄の巧。見たとおりの双子なんだ」
 おとなしい方が兄、か。
 姉と弟な関係かと思ったが、必ずしも世界は枠にははまらないようだ。
 「オレはA組なんだけど、総一郎は何組だい? Aかな、Aだといいな!」
 迫ってくる柚木妹。
 「ごめん、Cだよ」
 正直に答えたその言葉にがっくりうなだれるも、一瞬後には嬉しそうな笑みを見せる。
 「って、Cだったら巧と同じクラスじゃん」
 視線を彼女の背中に隠れる柚木兄へと移すと、妹と同じ嬉しそうな笑顔が浮かんでいた。
 「よろしくな、総一郎!」
 「よろしく、卯月くん」
 同じ顔に同じ声、けれどその実まったく異なる2つに僕は2人と同じ表情を向けて告げた。
 「よろしく、柚木さん達」
 途端、柚木妹からチョップが飛んだ。
 「『達』ってゆーな、オレのことは歩と呼び捨てでいいよ。巧も巧でいいだろ?」
 コクコクと頷く兄の方。
 「ごめん、歩、に巧」
 「そう、それでいい」
 満足げに頷く歩に、笑顔の巧。確かに『達』は失礼だったな。
 やがて校舎に予鈴が響く。
 「さて、そろそろ行こうか。お互い良い学生生活がおくれるといいな!」
 希望いっぱいの歩の顔を眺めつつ、僕もまたそうあるようにと心の中で祈ったのだった。


 A組である歩と別れて向かう先。僕と巧のクラスであるC組は校舎2階にあった。
 クラスメートの数は男子15に女子16の31名。
 僕達2人が教室へ足を踏み入れる頃には、3分の2がすでに集まっていた。
 「えっと、席は」
 「あいうえお順みたいだね」
 辺りを見回す僕に巧は言う。机は全部で6列。1つの列に5つづつ並ぶ(窓際の1列のみ6つだったが)。
 「じゃ、僕は前の方か。巧とは対角線の反対側だね」
 「『う』と『ゆ』だもんね」
 そんなことを話している間に予鈴が鳴った。
 途端、慌てて教室へ駆けてくる生徒達と席に付きはじめるその他。
 「じゃ、またあとで」
 「うん」
 僕の席は廊下側の、前から2つ目だ。巧は窓際から2列目の一番後ろのようだ。
 席に着くと同時、目の前の扉が開き、中年の男が入ってくる。
 若干よれたスーツに剃り残しが見受けられるヒゲ。わずかに匂う酒の香り…二日酔い明けか??
 彼が教壇に立つと同時、生徒達は席で姿勢を正し、私語がなくなる。
 「あー、みんな揃っている……いないな?」
 彼は教室を見渡し、そして一点に目を止めた。僕の左手1つ後方。
 唯一空いた女子の席だ。
 「あー、そうだった。一人、保健室に行ってるのがいたって言ってたな。じゃ、気を取り直して」
 彼は背後の黒板に振り返り、チョークを。
 「むぅ、白のチョークがないじゃねーか。しょうがない」
 言いつつ、黄色のチョークで大きく文字を書く。
 『楠木 吾郎』
 「今日から一年、このC組の担任となる楠木だ。この学校は今年で8年目となる。ちなみに33歳、独身だ」
 その言葉に、えー、とか老けて見えるー、とか色々ツッコミが入る。
 それを「へいへい」と言いながら楠先生は受け流すと、
 「じゃ、出席を取る。まずは井上!」
 「はい」
 僕の前の席。はつらつとした声が響き、それだけでざわついていた教室が再びしんと水を打ったように静かになった。
 「卯月」
 「は、はい!」
 「岡村」
 「はーい」
 やがて最後に「柚木」との問いに、小さめな声で「はい」と聞こえて男子が終了。
 次に女子となる。
 「安藤」
 「はい」
 「桐野」
 「はーい」
 「此花、は飛ばして佐藤」
 「はい」
 僕の左後ろ、3番目の空いた席。
 名前は此花というようだ。此花…と聞いてなんとなくどこか引っかかる気がするが。きっとそれは杞憂だろう、うん。
 「さて、早速だが体育館へ移動だ。入学式、始めるぞ」
 楠木先生の言葉に全員が立つ。耳を澄ませば隣のクラスも、はたまたその隣も同じようなタイミングで生徒達が立ち上がっている。
 「卯月くん、どうしたんだい?」
 そんな声は前の席から。
 天然パーマの髪型に、黒縁の眼鏡をかけた優秀そうな前の席の男子――井上くんだ。
 「あ、なんでもない。ちょっとぼーっとしてた」
 「そっか。さ、早く行こう」
 彼の言葉に僕もまた立ち上がる。
 新しい教室に新しいクラスメート、そう、ここで僕の新しい学校生活が始まる。


 体育館で行われた入学式は特に際立って変わったこともなく終了。
 もっとも長い長い校長先生の話に、途中記憶がないだけという説もある。
 睡魔に襲われた入学式も終わり、再度教室へ。
 担任の楠木先生から今後の授業のカリキュラムの説明があり、本日は午前中で解散ということになった。
 最後に。
 「明日から授業が始まるわけだが、各委員を決めておこうと思う」
 教壇からクラス中を一望する楠木先生。
 みな、一瞬の間に下を向いた。視線を合わせることが危険と本能的に分かっているからだ。
 無論、僕も視線の先を慌てて机の上に向けた。
 「まず委員長だが、これは男女各1名で俺が決めよう。さてさて」
 しかし楠木先生の視線が明らかに僕の方を向いて止まっている。
 「井上、お前やれ」
 「はい」
 先生の視線は僕の前の席、井上くんに向いていたようだ。
 強制的な命名に井上くんは特に嫌がる風もなくむしろすすんで返事をした。
 「じゃ、女子の方は…」
 再度クラスを見回す先生に対し、
 「私がやります!」
 鋭い声を上げて挙手したのは、教室の真ん中あたりに座った長い髪の女の子。
 「ん? 西岡か。じゃ、井上と西岡でこの後の各委員決定を進めてくれ」
 投げやりに言う先生。
 自ら立候補した西岡さんは、井上くんを睨みつけているように見える。
 一方の井上くんは特に気分を害している様子もなく、笑顔で西岡さんに「よろしくー」なんて言っている。
 「それでは各委員を決めたいと思います。立候補ありますか?」
 先生の代わりに教壇に立つ井上くんと西岡さん。
 即席と思われた委員長コンビはなかなかどうして手馴れており、
 「緑化委員は柚木くんで決定、と。次は」
 特に誰からも異論を挟まれることなくスムーズに委員を決定していったのだった。


 おそらく一年生クラスの中では一番にホームルームが終わった僕達C組。
 めいめいに帰宅準備を始める中、僕の机の上にはすでにカバンの中に入っている今後の時間割等が記載された書類の束がもう一部置かれた。
 置いたのは西岡さんだ。
 「卯月くんは保健委員よね」
 「う、うん」
 先程、井上くんと並んで立っていた時に鋭い目をしていた西岡さんはしかし、今は穏やかな印象を受ける。
 「今日一人、女子で朝からいなかった子がいたでしょ?」
 僕の左後ろの席、ずっと空いていた席に目を向ける。確か、
 「此花さん、だったっけ?」
 「そう。彼女、朝は登校したんだけど、校門付近で倒れたらしいの。貧血体質なのかしらね」
 「へぇ」
 「で、今は保健室で寝ているわ。彼女にはこのプリント渡して、今日のホームルームでの内容を簡単に伝えてあげてくれるかしら」
 拒否は認めない、そんな口調はしっかり残っている。
 「ん、了解。でもその此花さんって子、初日から大変だね」
 「そうね、結局入学式に出られなくて、クラスに顔出しづらいと思うけど」
 西岡さんはそこまで言って僕の顔を見る。
 「けど?」
 「卯月くんは人畜無害そうな顔してるしね、彼女の緊張をとってあげるのにも一役買ってきてね」
 「人畜無害そうって…」
 それは褒められているのでしょうか? なんだか複雑です。

 
 校舎一階の西側は一番端に保健室はあった。
 一般教室がある区画と異なり、美術室や音楽室といった特別教室が周囲を占めているこの区画は静かだった。
 遠くに生徒達の雑踏が聞こえてくるくらいで、付近には音を発するものがないようだ。
 僕は一人、保健室の扉を叩く。
 しばらく待つ。
 「あれ?」
 返事がない。保健の先生がいると思ったのだけれど。
 「失礼します」
 ガラガラっとできるだけ静かに扉を開ける。
 中は白一色に統一され、大きな窓からは穏やかな西日が差し込んでいた。
 本来保健の先生がいるはずの椅子は空で、机には飲みかけのコーヒーカップが置かれている。
 湯気も立っていないことから、席をはずして結構時間が経っているようだ。
 入って右手にカーテンで仕切られたベッドが2つ。春の風に薄地のカーテンが揺らめいている。
 その2つのベットのうちの1つに横になった人影が映っていた。
 「此花さん?」
 声をかけてみる。
 返事はない、寝ているのかもしれない。
 僕は手にしたプリント類とカーテンに仕切られたベットの2つへ、交互に視線を向けて考える。
 とりあえず枕元にプリント類を置いて、帰らせてもらおう。
 しばらく考えてこの結論に達し、僕はカーテンに手をかける。
 シャッ
 思ったより大きな音がしたのに自分で驚いてしまう。
 起こしてしまわなかっただろうか? 寝ている此花さんに視線を向けた。
 「!」
 白いベットの上に墨のように黒い髪が広がっていた。無機質な白と黒。
 だがその中心にはわずかに赤みを帯びた白い顔がある。その有彩色がなければ、端麗な人形と思ってしまったことだろう。
 そしてそんな彼女に僕は間違いなく面識があった。
 「桜の、精??」
 思わず漏れた呟きに、昨日土手で出会った彼女の眼が薄く開く。
 「こんにちわ、うさぎさん」
 力ない声で彼女は目を覚まして言葉を放つ。
 「どうして君がここに?」
 「貴方はどうしてここにいるの?」
 問いに問いで返されて言葉に詰まる。
 そんな僕を彼女はまじまじと見つめると、
 「私も貴方と同じ」
 「同じ?」
 「人とのよりよい共生を目指すために。人のことを学びにここへきた」
 上体を起こしながら桜の精こと此花さんは告げる。
 「貴方もそうでなくて?」
 「あ、うん。大体そんな感じ」
 まさしくその通りなので頷いてしまう。
 此花さんはそれを聞いて、乏しかった表情からうっすらと笑みの色を浮かべる。
 ついいつまでも見ていたくなってしまうような、優しげな微笑だ。
 「同じ希望を目指す者同士、これからもよろしくね」
 右手を差し出してくる。弱々しい、細い手だった。
 「そっか、こちらこそよろしくね」
 支えるように彼女の手をとる。
 柔らかな感触の中に、しっかりと握り返された。
 「でも初日から具合が悪そうだね」
 「えぇ、本体から長い時間離れたことがなかったから。学校内の木々や草花にもサポートしてもらっているのだけれど、まだなかなか慣れなくて」
 後ほど教えてもらうことだが、彼女のような樹精は普通は本体である自身の樹から離れることはできない。
 だが地脈を利用した植物のネットワーク(ユグドラシルネットワークというらしい)を介することにより、意識体として自らの区画以外に姿を現すことができる。
 しかしこの方法には植物達それぞれの担当区画に対して一度一度の許可が必要であり、おいそれと実行できるものではない。
 まして、彼女は意識体だけでなく実体も伴っている。
 これが可能なのは植物の根源である世界樹ユグドラシルか、もしくは全ての植物から助力を惜しまずに協力される立場――すなわち植物界からの特待生であることだ。
 もちろん彼女はユグドラシルではないので、後者である。
 「自分の根から栄養を摂るのと違って、ここで頂ける活力はちょっと味が違ってて…少しづつ慣れていくしかないわ」
 「日本食しか知らなかった人が、タイ料理食べるような感じ?」
 「分からないけど、味付けが違うという意味では同じかも」
 言いながら彼女はベットから足を下ろして立ち上がろうとする。
 しかしフラリとよろめいて、またベットに戻ってしまった。
 「頭がボーっとする」
 「家、というか帰るところはあの土手のところで良いんだよね?」
 こくりと彼女は頷いた。
 「じゃ、そこまで送るよ」
 言って彼女に背を向けてしゃがんだ。
 「でも」
 「同じ希望を持つもの同士、協力ってことで、ね?」
 背にわずかな逡巡を感じた後、そっと彼女の手が触れてきた。
 背中に感じる此花さんは驚くほど軽かった。
 「ありがとう、ええっと」
 「卯月。卯月 総一郎だよ」
 「ありがとう、卯月くん。私は此花 さくら」
 「さくら」
 「…そのままな名前だなって、思ったでしょ?」
 「あー、いや、そんなことないよ」
 至近距離で視線が僕の横顔に突き刺さっている。そちらを見ないようにして僕は帰路を急いだ。
 「……私もそのままだなぁって思ってる」
 と、背中の此花さんは苦笑いを浮かべたようだ。
 「でもこの名前を彼女に付けて貰ったから、私はより確定した自我を持つことができたの」
 「彼女って?」
 「お花とお酒の大好きな狐さん」
 ふふっと小さく笑う此花さんの吐息が耳にくすぐったい。
 「卯月くんはうさぎだから、会ったら食べられちゃうかも」
 「それはお会いしたくないなぁ」
 そんなことを話しながら、僕の登校初日は幕を閉じた。
 後日、此花さんを背負った僕を見たクラスメートから、彼女との仲を勘繰られたりしたのは失敗だったなぁ。


【閑話休題】 がんばれコージロー そにょ@

 みなさん、初めまして。
 そしてさようなら。
 僕は卯月 浩二郎といいます。
 つい最近まで長野の山の中でまったりと過ごしていたんですが、いろいろあって現在は、
 「Oh! こんな子供があの魔女の弟子だって!」
 「いやいやいや、むしろ日本で言うところの若いツバメってやつじゃないか?」
 「「HAHAHA!!」」
 左右を屈強な米海兵隊に囲まれながら、軍用ヘリっていうんですかね?
 アパッチとかいう、映画でしか見たことないようなヘリで富士の樹海に向けて移動中です。
 「あー、弟子とかツバメならまだましなんですけどねー」
 むしろ今の僕は彼女にとって『非常食』でしかない訳で。
 「食われたくなかったら生きて生きて、生き延びろ」
 出会いがしらにそう言われながらこの数日生きてきました。
 でも今日で多分死にます、だからみなさんとは初めましてでありながら、さようならなんです。
 やがてヘリは夕暮れの樹海のある一点でホバリング。
 「さ、降りるわよ」
 コックピットの隣に座る彼女がさらりと後部座席の僕に言います。
 「え、着地してないけど?」
 答えることなく、彼女は上空10mほどあるでしょうか。扉を開けてさっくりと飛び出していきました。
 それを僕の左右に座る海兵隊が唖然と見送りつつも、僕に期待のまなざしを向けてきます。
 「え、いや、それは無理だから」
 がしゃん!
 「って、ちょっとーー、あーーーっ!」
 「「HAHAHA!!!」」
 ひょいと片手で首の後ろを摘まれて外へと放り投げられます。
 お腹の底からくるなんともいえない浮遊感。眼前に迫り来る木々の緑。
 思わず目をつむります!
 がさがさがさがさ!
 体のあちこちを木々の枝が引っかく音と、わずかに皮膚を裂いていくのが分かります。
 そして最後に、地面との衝突。
 ぽす
 「あれ?」
 体を襲う地面との衝撃はなく、あるのはふわりとしたものに包まれるような感覚。
 恐る恐る目を開けると、ふわふわした白いものに受け止められていました。
 「なにを惚けているの、しゃきっとなさい!」
 「は、はい!」
 ふわふわとした白いものは、僕を叱咤する彼女から生えていました。
 それは妖狐のしっぽ。
 普段は隠してある、9つの巨大な彼女の自慢の尻尾です。
 僕が慌てて降りると、白いそれは瞬時に彼女の中へと収まってしまいました。
 後に残るのは黒のタイトスーツに身を包んだ彼女と、落下のショックが抜け切らない僕。
 重苦しい雰囲気を醸し出す樹海と遠ざかるヘリの音。
 そして。
 「来たか、妖狐」
 「時間ぴったりでしょう」
 「だが、いらないおまけもついているようだが」
 木々の陰からまるで湧き出るようにして現れたのは、深緑のコートを羽織った中年の男。
 鋭い目で僕を見つめています。それはまるで猛禽のそれのよう。
 「なぜ兎など連れている?」
 「連れてはいけない理由はあるのかしら?」
 彼女の言葉に彼は黙る。しかしやがて、
 「まぁ、どうでもいい。邪魔さえしなければな」
 最後の言葉は直接僕に向けられたようだでした。だから僕は全力で首を縦にぶんぶんと振る。
 その頃には西の空は群青に染まり、日はその姿をほぼ空の向こうに没しています。
 途端に冷気を伴った夜気があたりを満たす。その速度は速い。
 視線を周囲にやるとそれもそのはず。あたりは大小の洞窟が夜の闇よりも深い黒を宿しており、しきりに冷気を吐き続けていました。
 風穴。
 「ところで八咫、アンタこの闇の中で大丈夫なの? 鳥目でしょ」
 彼女に八咫と呼ばれた中年は、フンと鼻で笑います。
 「誰に向かってそんな口をきいている。私は神鳥だぞ、八咫烏を舐めるでないわ」
 八咫烏――3つの足を持つとされる烏。
 古くは日本神話の中において、神武東征の際にタカミムスビによって神武天皇の元に遣わされ、熊野から大和への道案内をしたとされる神鳥。
 改めて彼女の人(?)脈に感心。
 「あー、いや」
 彼女は八咫烏さんに小さく首を横に振ると、視線をその後ろに向けました。
 「見えているんだったら良いんだけどね」
 つられて僕も彼女の視線の先を追う。八咫烏さんもまた振り返ってそれを見ます。
 僕はそいつを確認した途端、正直に言うと。
 おしっこ少し漏らした、ごめんなさい。
 「ヒョヒョヒョヒョヒョゥゥゥゥゥ!!!」
 そいつが発する臓腑をえぐる様な甲高い怒声に、僕の体は本能レベルで硬直。
 サルの顔、タヌキの胴体、トラの手足を持ち、尾はヘビの、大きなクマの2倍の大きさはある、おぞましい姿をした四足獣。
 そいつが八咫烏さんの少し後ろにいつの間にか存在しているじゃないですか。
 鵺。
 今回、彼女に託された指令はこの鵺の討伐もしくは捕獲。
 鵺の発した悲鳴は聞くものの戦意を殺ぎ、硬直させるという。ずばり、今の僕です。
 しかし妖力によって耐性を上げることでそれは回避できる。
 八咫烏さんである中年の男には効かなかったようで、すぐさま鵺から距離を置いて構え直します。
 彼女に至っては鵺の『畏怖の叫び』など効果判定するまでもなく効いていません。
 「八咫、予定通りに行くわよ」
 「うむ、頼むぞ」
 彼女はそう言い捨て、鵺に向かって駆け出ししました。
 迎え撃つ鵺は丸腰の彼女に前足の鋭い爪と、尾の蛇の牙を繰り出す。
 それらの多重攻撃を彼女はまるで軌道を前もって知っているかのように紙一重で交わしていきます。
 妖狐である彼女の能力『未来予知』の短縮使用です。
 もともと妖力を多大に消費する未来予知の能力ですが、予知が一瞬の未来の短時間のものであれば消費する妖力も少なくて済むとのこと。
 しかしその為には、一瞬の予知をすぐさま行動に反映して実行するだけの高い身体能力が必要となります。
 未来予知の能力を身に付けた妖狐は数多くいれど、彼女のような使用方法を実行する者はこれまでいなかったと聞かされていますが。
 というか、本来ならば長い儀式を経て施行されるべき未来予知の術を、一歩先の未来だからといって瞬間、かつ継続実行させるなんてことを思いつく術者はこれまで皆無だった訳で。通常ならば妖力がもちません。
 「キシャーー!!」
 叫んだ鵺の爪と尾の牙、そして猿顔の噛み付きの攻撃をも受け流し、その巨大な獣の懐に入った彼女は右腕を大きく振り上げます。
 五指には光。それは鋭く伸びた、磨き鍛えられたような刀を思わせる爪。
 それをざっくりと、鵺に向けて振るい下ろしました。
 鵺の首へ、手足へ、そして尾へ。
 ちょっと押したら折れてしまいそうな爪の刃はしかし、鵺の肉体に直接のダメージを与えたわけではありません。
 『因果を断ち切る』
 彼女はヘリの中で僕にそう言った。
 時間干渉の能力を持つ妖狐には、捩れた因果を切り断つ力があるそうです。
 鵺の前足の渾身の一振りを、彼女はまたしても交わすと、大きく後ろへと飛んで鵺との間合いを開きます。
 「八咫!」
 「応っ!」
 これまで沈黙していた八咫烏さんが彼女に答えました。
 彼女は五指を鵺に向け、こう叫びます。
 「因果、斬!」
 「ぐ」
 唸る鵺。次の瞬間、鵺の肉体は4つに別たれているではありませんか。
 狡猾な猿、巨大な狸、獰猛なトラ、そして猛毒の大蛇へと。
 その4匹に向けて、八咫烏がまるで翼を開くようにコートを捲し上げ。
 そこから飛び出したのは4本の矢。
 平家物語に登場し、鵺を討ったとされる源頼政が繰り出した山鳥の尾で作った尖り矢と同じ、八咫烏さんの羽で作った矢です。
 タタタン!
 小気味よい音を立ててそれらは4匹の獣達に命中。それぞれを地面へと生きたまま縫い付けました。
 「「ごあぁぁぁぁぁ!!」」
 「捕獲完了」
 呟く八咫烏さん。
 「よし、ご苦労様」
 「いや」
 しかし僕は見ました。
 地面に縫い付けられたトラが、己が身を引き千切りながら立ち上がるのを!
 「まだです!」
 叫ぶ僕に2人の戦意が戻る。
 「あ」
 僕の声はトラの注意を引くのに充分だったよう。黒い血を流しながら一直線にトラは僕に襲い掛かってきました!
 トラの放つ殺気に呑まれ、情けないかな、僕は足が動かせなくなって。
 「チッ!」
 僕のものではない舌打ち1つ。
 目前で何かがトラとぶつかり、目を開けばそのままトラの方が数m後ろへと吹き飛ばされていました。
 「くそっ、だから何だって兎なんかを連れてきたんだ、アイツは」
 八咫烏さんです。こちらに振り返る彼はトラと同様、黒い血を肩から脇腹に向かって裂かれた傷から滝のように流しています。
 やり場のない怒りに満ちた彼の視線に、思わず僕は身を小さくして、しかし身を挺して守ってくれたことに感謝。
 「ご、ごめんなさい。ありがとう…」
 「あ、え、あ、あぁ」
 何故か面食らったように八咫烏さんは頷いたような頷かないような。
 ――卯月 浩二郎は『魅了』を習得した――
 「え、なに? このアナウンス??」
 「こら、コジロー! いらん能力を習得するな!!」
 遠くから彼女の怒声が飛んでくる。
 「それと、逃げろよ」
 「へ?」
 流血に膝をつく八咫烏さんの後。身を起こしたトラが再びこちらに向かって襲い掛かってきます!
 まずい。
 思わず伸ばす手は、失血で動けない八咫烏さんへ。
 掴むと同時、目の前には手負いのトラの、獰猛な爪の一撃。
 「僕は」
 振り下ろされる、絶命の一撃を睨みつつ僕は本能から沸き起こる一つの気持ちを、力として叫びました。
 「逃げる!!」
 叫びは力となり、身の内に秘めた能力が具現化。
 恐怖で硬直していた両足は、物理法則と空間を捻じ曲げる力を宿し。
 ぶん!
 トラの一撃は、空を切りました。
 八咫烏を抱えた僕は、妖狐の彼女の隣に瞬間移動。
 ――卯月 浩二郎は『脱兎』を習得した――
 「よし、よく身に付けたわね」
 へたりと座り込んだ僕の頭を彼女は乱暴に撫でて、トラを睨みます。
 手負いの獣ほど始末の悪いものはない。
 「八咫、捕獲は無理ってことでいいね?」
 「仕方あるまい」
 八咫烏さんの搾り出すような答えを聞くと同時、彼女の両手から炎が揺らめきました。
 狐火だ。
 ゆらゆらと揺らぐそれは、こちらに全力で駆けてくるトラを包むと、
 じゅっ
 まるで紙を燃やすように一瞬にして炭へと変える。
 ボボボッ!
 トラが燃えるのと連動して、他の3体も炎に包まれました。まるで離れていても同じ1つであったかのように。
 そして。
 気付けば今までの戦闘が嘘のように、静かな樹海の夜が戻っていたのでした。


 みなさん、こんにちは。
 そして今度こそさようなら。
 今、僕達は伝説の鬼が島へと向かっています。そう、桃太郎が退治したあの島です。
 なんでも封印されていた鬼達が復活したとのことで、再封印のために乗り込むのだそうです。
 「あのー、妖狐さん?」
 「コジロー、私のことは師匠と呼びなさい」
 「あ、はい、師匠。なんでどう考えても足を引っ張る僕が同行するんですか?」
 僕の問いに妖狐の師匠は「ウィザードリィで新米冒険者をスパルタするために熟練と組ませて9階行くような感じ」と言われたんですが、なんのことやらさっぱり分かりません。
 鬼って強いんですよ、指先1つで僕なんてダウンです。
 今度こそ死地です。
 ただただ今は、兄の総一郎の幸せを願うだけなのです。
 もしも。
 もしもまたみなさんに会うことができたら、こうして話を聞いていただけると嬉しいなって思います。
 それでは!

【閑話休題】 がんばれコージローその@ 完


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