騒がしさに目が覚めた。
 どたんばたんと、絵に描いたような騒々しさは、壁を挟んで向こう側。
 「一体何時だと思ってるんだ?」
 時計の針はPM2時。
 「……」
 昨夜は締め切りということもあって、徹夜で原稿を仕上げていたんだっけ。
 バイク便で原稿を送って、そのまま寝てしまったから、睡眠時間6時間といったところか。
 どんがらがしゃ!
 何かが崩れる音と、
 「うきゃーーー! むぎゅ」
 女性の声。
 そういえば、俺の住むこのアパートの隣室は空き部屋だったはずだが。
 「ああ、なるほど。新しい人が入ったってことか」
 一人合点がいき、さっそく二度寝に。
 「……」
 隣室は先程までの騒々しさが嘘のように、しんと静まりかえっている。
 うん、いい心掛けだ。
 ふとんをかぶって数秒。
 そういや、さっきの崩れる音って??
 「って、大丈夫かよ!」
 俺はふとんからはいだし、玄関へ。
 我ながらお人好しであると思う。
 俺の住むアパートは築50年の二階建て。
 1階に3室、2階にも4室あり、部屋割りは2DKのキッチン・トイレ付きである。
 困ったことに風呂は共同という、かなり古い物件。
 平たく言えばおんぼろアパートだということだ。
 駅からそこそこ離れていることもあり、家賃は格安。
 もっとも大家自身が道楽でやっている感じなのも手伝っているのだと思う。
 そんなアパートの空き室は俺のところの隣と、1階に1つあった。
 今日、その1つが埋まったということなんだろう。
 玄関を出て、すぐ隣の部屋へ。
 玄関は開け放たれており、中を覗くと崩れた段ボールの山が見える。
 視線を一階へ移すと、2階への階段の前に引っ越しセンターが置いていったと思われるこれまた段ボールの山があった。
 「えーっと」
 俺は隣の部屋を覗き込み、
 「生きてますかー?」
 返事はない。
 でも多分、間違いなく、崩れた段ボールの山の下に、人がいると思う。
 だから
 「お邪魔しまーす」
 踏み込んで崩れた段ボールの山を崩していく。
 ひっくりかえった箱の1つは口が開いており、ばらばらと中のものを辺りに巻き散らしている。
 主に白やグレーの短い布類……運悪く、下着類だったりする。
 その形状から、埋まっているのはやはり女性のようだ。
 なるべくそれらを見ないようにして段ボールをどかしていくと、長い黒髪が発掘された。
 「あ、おい、起きろっ!」
 うつぶせに倒れているそいつを引っ張り出し、乱れた髪の間に覗くその白い頬を軽く叩く。
 「う……う〜ん」
 はらりと黒髪が流れ、閉じた目が現れる。
 ややタレ目がちの目つきに、整った鼻。
 美人、だと思う。
 白い頬に、化粧っけのない唇がほんのりと赤かった。
 同じ位の赤さが、額に広がっている。
 どうやら額を床にぶつけて目を回しているようだ。
 「もしもーし」
 ぺちぺち
 頬を軽く叩く。
 「う、うん?」
 ぱっちりと瞳が開いた。
 黒いそこには俺の顔が大きく映っている。

 
 彼女は目を覚ました。
 目の前に知らない男性の顔があった。
 訳が分からない。
 きょろきょろとあたりを見回すと、彼女の下着が散乱していた。
 散らかった下着&知らない男。
 2つのキーワードは彼女に短絡的に働きかけた。

 
 一瞬、彼女の瞳が大きく開いたと思う。
 柔らかそうな唇が小さくわななき、
 「きゃーーーー!」
 悲鳴が俺の鼓膜を潰した。
 人間というものは、強烈な光やとてつもなく大きな音を食らうと、一時的に行動不能に陥るという。
 スタングレネードなどは、そういった人間の性質を利用して作られた兵器だ。
 そんな訳で、彼女の悲鳴は俺を一瞬たりとも行動不能に陥らせるのに足る音量であったということで。
 ギラリと、彼女の目が獣の光を一瞬纏ったように思う。
 呆然とする俺に、それが襲い掛かってきた。
 「斜め45度からのアッパーカットォォォ!!」
 ごす!
 「ぐふ!」
 プロボクサー顔負けの一撃は、俺を意識の暗黒面へと誘うのに充分だった訳で。
 これが、俺と若桜 乙音との出会いである。


若桜さんが到来


【9月の長い夜】

 全くイメージがまとまらない。
 俺は原稿を前に唸っていた。
 何時間こうしていることだろう? 少なくとも5時間は唸っているはずだ。
 一度書き出せばきっと最後まで書ききると思うのだが、どうしても出だしが進まない。
 ピンポーン♪
 インターホンが鳴った。
 俺は時計に目を移す。
 夜の9時。
 こんな時間にやってくる無粋な友人など、俺にはとんと思いつかない。
 ここは2階建ての安アパートだ。
 そう考えると、きっとNHKの集金の取立てか、熱心な訪問販売か、さらにもしくは違う方向に情熱を傾ける宗教勧誘くらいなもんだろう。
 それすらも違うとすると……あの人か?
 ピンポーン♪
 2度目が鳴った。俺は無視をすることに決める。
 相手が誰であれ、このライターの仕事の締め切りは明後日だ。
 このペースでは進まない危険性がある。
 ピンポーン♪
 三度鳴った。
 ピンポーン、ピンポーン、ピンポンピンポンピンポーン♪
 何度鳴らしやがる。
 ピピピピピンポーン、ピンポポポーン♪
 「あああああああああ、もぅ!!!!」
 どたどたどた
 俺は6畳間の机から立ち、玄関の扉を開けた。
 そこにはやっぱり『あの人』が立っていた。
 一升瓶を右手に提げて。
 「こんばんわ、亮クン」
 「インターホンで遊ばないでください、乙音さん……」
 長い髪を背中に流し、ピシッとした紺色のスーツを着こなしたお姉さんはニッコリした顔をこちらに向けている。
 この人は隣の部屋に住んでいる乙音さん。3ヶ月ほど前に引っ越してきた。
 彼女との出会いは、引越し日に起こった通称『俺は銭形、私はふーじこちゃーん』事件によるものなのだが……こんな通称名をつける彼女の気が知れない。
 そんな事件があってからというもの、乙音さんはよく俺の部屋に遊びに来るようになった。
 「何の御用ですか? 俺は忙しいのです」
 「そうなの? そんなことよりこれを観てくださいよー♪」
 仕事をそんなこと呼ばわりされたのはムッときたが、彼女の掲げた一升瓶のラベルを見て俺は彼女のご機嫌を知った。
 「『魔王』じゃないですか。これって幻の焼酎とか言われてるやつですよね?」
 「そうなのよ、帰り道の酒屋さんで定価売りしてたのよ、信じられます?」
 「そりゃ買いですねー!」
 「それじゃ、お邪魔しまーす」
 俺の脇をすり抜け、彼女は玄関をくぐった。
 「って、なんですか?! 俺の部屋で飲むんですか??」
 乙音さんはカクッと首を小さく傾げ、まるで異星人の言葉を聞いたかのような顔をしている。
 「私に部屋で1人で呑めと言うの?」
 「俺は仕事中なのです」
 「どうせ1文字も進んでいないのでしょう? ここ6時間くらい」
 「ど、どうしてそれを?!」
 「髪の毛の乱れようで判断できるのです」
 えっへんと乙音さんは胸を張る。案外大きなそれがお世辞にも揺れて、思わず目がいってしまった。
 「た、たしかに俺には悩んでると頭を掻く癖がありますけど…そんなに乱れてますか?」
 俺は手で髪を慣らす。
 その間に乙音さんは勝手に部屋のちゃぶ台の前に腰を下ろし、ドンと一升瓶を置いている。
 俺は溜息一つ。
 「まぁ、気分転換にお付き合いしますよ」
 戸棚からコップを2つ取り出し、彼女の前に座る。
 「そうこなくちゃ♪」
 うれしそうに言う乙音さんに、俺はふと呟く。
 「どーでもいいですけど、なにも俺とじゃなくてお仕事の仲間とかと呑んだ方が良くないですか? カレシとかいないんですか?」
 問いに、乙音さんはじっと俺を見つめる。
 「な、なんです?」
 じっとこちらを見る乙音さんの瞳はわずかに潤んでいた。
 そんな目を、
 そんな目でじっと見つめられると……
 「お、乙音さんっ!?」
 「亮クン。私…私、欲しいの!」
 「……わ、分かりました」

 
 数分後――
 「やっぱり亮クンの作るおつまみはサイコーですね♪」
 アボガドサラダを摘みながら、乙音さんは歌うようにして言った。
 「たまには乙音さんもつくってみたらどうですか?」
 俺は憮然とモロキュウを右手に摘んで告げる。
 乙音さんの「瞳キラキラ、アナタのハートをドキュソ」攻撃は色んな意味で無敵なのである。
 「んー、料理ですか」
 コップの魔王をぐいっと一口。乙音さんはおとがいに人差し指を当て、
 「亮クンは『消し炭』って好物ですか?」
 「いえ、俺は炭は食べることができません」
 「じゃあ、私の料理はお口に合いませんね、ふふふ」
 「ふふふ、じゃありませんよ」
 「ケケケ」
 「ケケケじゃありません」
 「メケメケメケ」
 「それは超人のカーメンマンです。てか、笑い方を変えてもダメです」
 「ケチね」
 「もー、何がなんだか」
 「でも私の妹は料理が巧いのよ」
 乙音さんは意外なことを言いました。
 「へぇ、乙音さんに妹さんがいるんですか」
 「いるわよー、確か高校生だったかなぁ。がさつだけど、料理は巧いわよ」
 「見習ってください」
 「亮クン、人にはね、向き不向きがあるの」
 「はなっから放棄ですか…」
 そんな馬鹿なことを話しているうちに、俺は魔王のアルコールがしっかりと回って眠ってしまったようだ。
 「でもね、その向き不向きを知ってしまえば、あとはアナタ次第で全てが決まるんですよ」
 ぼんやりとした乙音さんの言葉を、眠りの中で聞いた気がする。
 目が覚めると俺の肩には毛布がかけられていた。
 時計は翌日の朝8時。
 窓から朝日が差し込んでいる。
 「いつのまにか寝てしまったか」
 テーブルの上はきれいに片付けられて、乙音さんの姿は当然ない。
 俺の頭は今やすっきりとして、どんなモノでも書けそうな気がした。
 「さて、今日も頑張りますかねぇ」
 俺は早速筆を走らせる。
 昨日は俺を止めていた見えない壁は、今やお酒に流されてしまったようだ。
 進む筆の動きに鼻歌を挟みながら、今度は俺がお酒を買って彼女の元を訪れてもいいかなぁ、などと考えていたのだった。


【傘の下】

 「あー、また雨かぁ」
 ここのところ雨が降ったり止んだりと、不安定な天気が続いている。秋の長雨というやつか?
 「帰りまでは持つかと思ったんだけどなぁ」
 俺は駅の改札口で、一歩足を踏み出したところに降り注ぐ雨を憎々しげに見つめた。
 曇天の空はこの雨が降り止む気配がないことを示している。
 「珍しく外出すると、これだもんなぁ」
 もっとも蒸し蒸しとするであろう電車の中の湿気地獄は、間一髪回避したので良しとするか。
 俺は駅に並んで建っているコンビニへと足を運び、安いビニール傘を購入した。
 「さて、途中の牛丼屋あたりで晩御飯食べて行くかな」
 ビニール傘を開き、俺は一人呟く。
 と、先程俺が出てきた改札口に見知った後ろ姿を見つけた。
 会社帰りのサラリーマンや学校帰りの学生に混じって、雨のおかげで駅から足を踏み出せない人々の中で、それは間違いなく俺の知っている人だ。
 腰まであるまっすぐな長い黒髪、ぴっしりと着込んだスーツ。
 形のいい白い膝下がスカートから覗いている。
 彼女は携帯電話でどこかに電話しているようだった。
 「乙音さん、こんにちわ」
 俺の声に振り返る彼女。
 ちょっと驚いた目で俺を見つめ、そして電話に向かって一言。
 「ごめんなさい、雪音。傘は大丈夫よ」
 言い放ち、ぷちっと通話を切った彼女。
 「こんばんわ、亮クン♪」
 にっこりと微笑み、乙音さんは俺の右腕に腕を絡ませる。
 「渡りに船って、こういうこと?」
 「どーいうことですか…」
 ひょんなことからアイアイ傘になってしまった。
 「今の電話は?」
 「雪音に…あ、妹に傘持ってきてって頼もうとしたんだけどね。ちょうど亮クンいたし」
 言って乙音さんは透明なビニール傘越しに空を見る。
 「この雨の中で迎えにこさせるのも、可哀想ですしね」
 「そうですね」
 言っている間にも、さらに雨が強まったようだ。
 比例するかのように、乙音さんが胸に俺の腕を抱く強さが強まった気がした。
 腕に襲い掛かる、思った以上の柔らかさの破壊力に内心たじろぐ。
 「亮クンは今日はどうしたんです? いつもは部屋に籠もって怪しいことしてるのに」
 「怪しいことって何ですかっ! 今日は出版社にどうしても行かなくちゃいけなかったんです」
 「運が悪かったですね、こんな日にお出かけなんて」
 笑う乙音さん。確かに天気は運が悪かった。
 でも、まぁ。
 腕に感じる心地良さを差し引きすれば、そうは悪くはない。
 「乙音さんも会社帰りですか?」
 「ええ。そうですよ」
 「そういや、なんの仕事してるんです?」
 俺の問いに、乙音さんの笑みがニヤリとしたものに変わった。
 「なんですか?」
 「知りたいですか?」
 どこかからかうような表情に、俺は内心とは反対の言葉を返す。
 「…いや、別に」
 「知りたいでしょう?」
 「全然」
 「仕方ありません、お教えしましょう」
 人の話を聞かない乙音さんはきっとB型に違いない。
 「時報を告げたり、スケジュールを管理したり、毎日の記念日を調べたりするお仕事です」
 なんじゃ、そりゃ?
 「秘書みたいなお仕事ですか?」
 「秘書だなんて…いやらしいですね、亮クンは」
 「秘書からなんの想像をしたらそういう結論になるんです?」
 きっと偏った内容のドラマだとか書籍を読んでいるに違いない。
 「それはそうと、乙音さんは夕飯どうします?」
 「んー、亮クンはどうするの?」
 「俺はどこかで食べて行こうと思ってたんですけど。帰りがお急ぎなら、帰り道のコンビニ弁当買って行きますよ」
 「それなら、途中の『鳥串』寄って行きません?」
 鳥串というのはアパートの近所にある居酒屋だ。名前のとおり、焼き鳥を中心に出す日本酒のおいしいお店である。
 「でも妹さん待ってるんじゃ?」
 「いいのいいの。それに今日は私、お給料も出たんです。おごりますよ♪」
 「え、いいんですか?」
 「どーんと来いです」
 そう言っている間にも俺達は店の前にたどり着く。
 「さー、呑みますよー!」
 気合を入れる乙音さん。
 と、その首が『こきゃっ』と横に傾いた。
 「このバカ姉がぁぁ! また給料分呑み干すつもりかぁぁ!!」
 俺の腕から乙音さんの体温が消えた。
 乙音さんは傘の下に俺だけを残して、きれいに横に吹き飛んで行ったのだった。
 彼女は電柱下のゴミ捨て場のポリ袋の山に頭から突っ込んでもがいている。
 俺の隣には代わりに、傘を手にした少女が荒い息で立っていた。
 ツインテールの、中学生か高校生か、そのどちらでもあるようなないような女の子。
 「あ、えと」
 どうやらこの子が乙音さんに全力で飛び蹴りをくらわせたらしい。乙音さんの背中にはくっきりと足跡がついていた。
 「今日はまっすぐ帰ってくるって約束したでしょ! 晩御飯作って待ってるんだから、寄り道しないのっ!」
 むんず、と乙音さんの後ろ襟首を掴んで引き摺る少女。
 「雪音、お姉ちゃんはアナタをこんな乱暴な子に育てた覚えはないわよ」
 「そりゃ、姉上に育てられた覚えもありませんし」
 少女は俺に目を合わせると、小さく頭を下げる。
 「姉がご迷惑をおかけしました」
 「いや、別に迷惑なんて…」
 「かけてないわよねぇ、亮クン?」
 すでに雨でびしょ濡れになっている乙音さんが引き摺られながら言った。
 その言葉に少女――雪音ちゃんは俺をまじまじと見つめる。
 「アナタが亮さんですか?」
 「ひぁ!」
 姉の襟首から手を離す雪音ちゃん。乙音さんはアスファルトの水溜りの中にべしょっと落ちた。
 「常々、姉がお世話になっております」
 深々と頭を下げる雪音ちゃん。
 「あ、いや、そんなことはないよ」
 乙音さんは妹に俺のことをどーいっているのやら…??
 「あ、そうだ。雪音、お夕飯に亮クンもご招待したらどうかしら?」
 「え?」
 雪音ちゃんは姉を見て、そして俺に振り返る。
 「姉もああ言っていることですし、ご迷惑でなければいかがでしょう?」
 「いえ、こちらこそご迷惑でなければ」
 「そーと決まればさっさと帰りましょう。雪音ちゃんの料理はおいしいのよー♪」
 雨の中、すでに濡れることを厭わずにアパートに向かって歩き出す乙音さん。
 「そうか、楽しみだな」
 俺は雪音ちゃんに笑って答える。が、
 「いえ、人並みですよっ!」
 姉の言葉に、雪音ちゃんはぷいっと俺から目をそらして頬をわずかに赤く染めた。

 
 最近は雨降りが多くて憂鬱だったけれど。
 今はそんな雨も特に気にするものではなくなっていた。


【ドライブ?】

 「うぐあぁぁぁぁぁ…」
 「どーしたんです、カエルがお尻から徐々に潰されていくような声を出して」
 「カエルがお尻から潰されて行くなんてゆー、きしょい場面に遭遇したことがあるんですか? それより、勝手に部屋に入ってこないでくださいよ、乙音さん」
 机で真っ白な原稿を前に唸っている俺を、後ろからひょっこりと覗き込んでいるのはお隣のお姉さんであるところの乙音さんである。
 「だってインターホンいくら押しても返事がないんですもの」
 「誰かさんが連打したせいで、壊れてしまいまして」
 「困った方ですね、誰がそんなひどいことを」
 「アンタだ、アンタ」
 「そんなことより亮クン。気分転換に行きません?」
 インターホンを『そんなこと』と一蹴してしまった乙音さんは、人差し指でキーホルダーに付いた車のキーをくるくるさせながら言った。
 ちなみにキーホルダーは一頭身のペンギンがくっついている。趣味が変だ。
 「どこに行くんですか?」
 「紅葉でも観に」
 「…そうですね、アイデアにつまっていたので丁度いいかもしれません」
 俺は腰を上げる。
 「運転は乙音さんが?」
 「はい。華麗なドリフトをお見せしますわ」
 「ふつーに運転してください」
 もっともこの時点で乙音さんが俺を何の意味もなく、ドライブに誘うはずはなかったのである。

 
 さて乙音さんの操る車は真っ赤なミニクーパー。
 BGMとして陽気に口ずさむのはGET WILDだった。年代がバレバレである。
 小一時間ほど走ると、いつしか景色は山の中。
 でも。
 「乙音さん」
 「はい?」
 「外、真っ白ですね」
 「濃霧注意報がバリバリに出ていそうですね」
 5m先が見えないほどの霧に包まれていた。
 先日の雨が原因だと思う。きっと標高の高いこの地点は雲の中なのだ。
 「せっかくの紅葉が見えませんね」
 「うーん、残念」
 答える乙音さんはしかし、全然残念そうじゃない。
 「そうは見えませんけど?」
 すると乙音さん、「うーん」と考え、
 「そうそう、亮クンと2人きりっていうのが嬉しいんですよ、だってこれってデートじゃないですか」
 「『そうそう』が付くあたり、全然そう思っていないと思うんですけど?」
 「細かいことを気にすると、シワが増えますよ? あ、着きました」
 車が止まる。
 山奥のとある一軒家だった。
 看板がかかっている。そこには『山野寝酒造』なーんて書かれていた。
 よくよく見れば、周りには何台もの車が止まっていた。
 少なくともこんな霧の中、紅葉を観に来たようには見えない。
 「ん? なになに? 新酒、お一人様一本限り?」
 俺の目に入ったのは、一軒家の前に書かれた張り紙の注意事項。
 と、俺の腕が柔らかいものに掴まれ、そちらに引っ張られた。
 「さ、並びますよー。『ついで』なので買って行きましょうね」
 乙音さんに腕を捕られ、俺達は行列の一部となる。
 どっちが『ついで』なのやら。
 ともあれ、今夜はご相伴にあずからないと、俺としても納得できないことだろう。
 並びながら、おつまみのメニューを考えている自分がいた。
 原稿のアイデアはきっと、ほろ酔いの中で見つかるに違いない、うん!
 そう、期待して―――


【天高く馬肥ゆる秋】

 窓から覗く外の空は、高く蒼い。
 けれど、どことなく物寂しく見えるのは雲一つないからだろうか。
 暖かな日差しの降り注ぐ、のんびりとしたお昼。
 だけれども、寒さも次第に自己主張してくる季節。
 シャッシャッシャ
 軽快な音が外から聞こえてくる。
 シャッシャッシャ
 決して不快ではない、何かを擦る音だ。
 「んー」
 ラップトップパソコンを前にした彼は胸のポケットに入れたタバコの箱を摘む。
 「む」
 その中にライターしか入っていないことに気づいた彼は、重い腰を上げる。
 ガチャリ
 2階建てのアパート。その二階西側に居を構える彼は玄関の戸を開けた。
 僅かな眩しさに目を細め、サンダルをつっかけて外へ。
 「ん?」
 階下。
 アパートの前の道端を、竹箒で掃いている女性の姿が目に入った。
 エプロン姿の髪の長い女性。
 彼女は玄関の音に振り返り、彼と目が合う。
 「こんにちわ、亮クン。お出かけですか?」
 「れれれのれ」
 ぼそりと、彼は彼女の言葉に付け足してみる。
 「近所のコンビニまで。しかし、なんだって掃除なんかしてるんですか、乙音さん?」
 錆びた鉄製の階段を下りながら、彼は乙音に問う。
 彼女の足元には街路樹から舞い落ちたイチョウとモミジの葉が山と積まれている。
 黄色と赤の、実に秋を感じさせる色合いだ。
 「誰かがしないと落ち葉で埋まっちゃいますよ」
 苦笑いの乙音。
 「それもそうですね。ここの管理人はこういうのには無頓着ですし」
 亮はパチンコと旅行好きの老人の顔を思い出しつつ、乙音の前を通り過ぎる。
 「それじゃ」
 「いってらっしゃい」
 彼は後ろ手に軽く手を振った。

 
 「おかえりなさい」
 「ただいま、乙音さん。はい」
 タバコを咥えた亮は、火の付いた落ち葉の山を見ている乙音に手のひらサイズの銀色の筒を投げ渡す。
 「?」
 彼女は右手でキャッチ。
 「あら、缶コーヒーですか。ありがとうございます」
 カシュ、小気味いい音を立ててタブを引っ張る彼女。
 「おつかれさま」
 亮もまた、ポケットから同じものを取り出してカシュっと栓を開ける。
 2人で缶を傾ける。
 「「ふぅ〜〜」」
 溜息は同時。白い湯気が2条、揺らめいた。
 「亮クンは、お昼ごはんは?」
 「あー、そういえばそんな時間ですね。朝が遅かったからあんまり食欲ないなぁ」
 「じゃあ、これを一緒に食べましょ♪」
 乙音は手にした木の棒で、燃えている落ち葉の山を突いた。
 その奥の方から、器用にも棒を使って何かの塊を一つ取り出す。
 銀紙に包んだそれは、20cmほどの物体だ。
 彼女は銀紙を取り外し、中から出てきた赤黒いそれを真ん中で2つに割った。
 ふわりと、白い湯気が黄金色の断面から上がる。
 「どうぞ」
 言って、彼女は片割れを亮に手渡した。
 「焼き芋ですか。どうりで落ち葉集めなんかしてるわけだ」
 「う…ち、違いますっ! ついでに焼いただけですよーだ!!」
 「ふーん。ま、そういうことにしときます。いただきまーす」
 「いただきます♪」
 2人の口の中に、温かく甘い香りが広がった。
 秋、ここに極まれり、である。

[TOP] [NEXT]