若桜さんが参上


【雪音ちゃんのライバル】

 お昼休み。
 弁当を開けた恵美の目の前では、相も変わらず口論が続いている。
 彼女の名は相馬 恵美。若桜 雪音の親友(?)である。
 親友(?)である雪音は最近この学校に転校してきた、元気いっぱいな女の子である。
 彼女の陽気なノリに、いつの間にか周囲への当たりの良い恵美が雪音との接触を多く持つようになってしまった、といった方が良いかもしれない。
 その親友が口論を続けている相手は、あまり素行が良くないことで知られている男子の市松 京也。
 親友とその男子は何故か『喧嘩をするほど仲が良い』。
 正直、恵美は詳細を知らないのだけれど、実際拳を交えた喧嘩を行い、雪音が彼を圧勝しただとか、そもそもこの学校の番長を〆ただとか噂になっている。
 そんな2人が口論する原因となったのは、恵美にも一因があった。
 体育の時間の終わりに更衣室で着替えをするのだが、何者かによる覗きが発生したのだ。
 窓から覗く気配を一番最初に察知したのは他ならぬ恵美であった。
 「はっきり言わせてもらうがな、雪音ぇ」
 「なによ、イチマツ!」
 目つきの悪いイチマツと呼ばれた市松 京也は、ツインテールの少女・若桜 雪音にはっきりくっきりこう言い放った。
 「胸のないお前なんぞ、覗く価値もありゃしねぇだろうがっ!!」
 その一喝に、2人を取り巻いていた男子生徒たちの中から喝采が上がる。
 「確かに若桜の着替えを覗いてもなぁ…」
 「一部マニアしか喜ばないっていうか?」
 そんな追随する声に、雪音の肩がふるふると震える。
 「反論はないのか、雪音?」
 問うイチマツを、雪音はキッと睨みつけた。
 いつもにはない迫力に、思わず市松は息を呑む。
 そのまま彼女は席を立って走るようにして教室を出て行った。
 なりゆきを見守っていた女生徒達は、なんと言って声をかけようか分からずに、その後姿を見送るしかできない。
 「勝ったぜ、ついに」
 口論での初めての勝利を味わいつつ、しかしながら市松は胸の片隅に小さな罪悪感を抱いたのだった。
 一部始終を見ているしかできなかった恵美は、悪いとは思いながらも少ないお昼休みである、すっかりお弁当を先に食べてしまっていたという。

 
 翌日――
 「おはよ、イチマツ」
 「おぅ…っと、なんだと?!?!」
 昨日は何事もなかったように挨拶をしてきた雪音を見て、市松は愕然とした。
 思わず口をバカみたいに半開き状態で数分固まってしまったほどだ。
 それは彼に限らず、クラスメート全員に言えることだった。
 ダメージ量としては男子の方が女子よりも大きそうだったが。
 そして男子女子ともに、驚いた後には非難の視線を市松に向けている。
 「お、俺が悪いのかよ、くそっ!」
 全く普段通りに席につく雪音の『胸』は明らかに『大きかった』。
 Aにも満たない彼女の胸が、明らかにCほどに育っている。
 いや、間違いだ。育っているのではない。
 何かを『入れている』。
 その姿たるや、頭髪に悩んでいた上司が翌日に何の前触れもなくふさふさになって出勤してくるようなもの。
 そしてその姿を目の当たりにして、何も言えない部下の気持ちにクラス全体が陥っていた。
 「お、おい、雪音」
 「なに?」
 「あー、えっと……」
 (言え、イチマツ。指摘しろ!)
 (触れちゃダメよ、市松君。その話題はふっちゃだめ!!)
 (ダメよ、彼女のハートはグラスハートばりに粉々なのよっ、香の心臓の移植が必要なほどに!)
 クラスメート達が思い思いの気持ちを抱いて2人の会話をチェックする。
 方向性は様々だが、指向性は同一だ。
 「あー、えっとな……元気か?」
 「ええ、元気よ」
 (くぁー、つかえねぇぜ、イチマツ!)
 (案外度胸ないのね、市松君)
 ギャラリーは勝手だった。
 その後、見えないプレッシャーに負けた市松が『ヌーブラ』を着用してきた若桜 雪音に土下座を実行し、事なきを得たという。


【もとくらし】

 「ただいまー」
 「うきゃーーーー!!」
 「??」
 帰宅した彼女は部屋の奥から聞こえる妙な声に首を傾げる。
 「ああー、もぅ、何でよー、キーーー!!」
 奇声を発しながらパソコンの配線やら何やらを振り回しているのは、彼女の姉であった。
 「どーしてうまくいかないの?! なんで、どーして?!」
 「あのー、姉上? 何を遊星から来た謎の怪鳥のような悲鳴をあげておるのです?」
 くるりを彼女の振り向いた姉は、右の耳に小型ドライバーをさしてキッと彼女を睨む。
 「何でか分からないけど、ネットワークの確立がうまくいかないのよっ!」
 雪音が姉の手元を覗き込む。
 そこには分解されたパソコン。袋から出されたばかりらしい部品。
 そして乙音の頭上には、かなり不安定な状態でパソコンデスクに鎮座する21インチモニター。
 「サービスセンターに電話してみたらどう?」
 冷蔵庫から麦茶を取り出し、雪音は問う。
 「とっくに電話したわよ」
 「ダメだったんですか?」
 「お話にならないわっ! 説明書と同じことを言うだけ言って、それがダメだったら『お使いの機器が壊れていると思いますので、そちらのメーカーにお尋ねください』の一点張りよ!」
 「まぁ、それはそれは…」
 如何に労力を省くかがサービスセンターの基本であろうことは、学生の雪音でさえ分かる。
 「分からないから訊いているのに、「分からない」ってどーして平気で言えるのかしらね、ヤツラはっ!」
 それはそれで問題があるような気がするが、取り立てて事を荒立てるつもりはない雪音である。
 「あ、それじゃ、亮お兄ちゃんに訊いてみたら? お兄ちゃん、パソコンとか得意そうだし」
 「ダメよ」
 「へ?」
 姉の即答に雪音は首を傾げる。
 「私は亮クンには『電気系統は強い女』というイメージを植え付けてるの。ってか私、こういうのは強いはずだし」
 「でもダメじゃん」
 「ウキーー!」
 乙音が立ち上がろうとした瞬間。
 不安定だった21インチモニターがパソコンデスクから落ちた。
 落下先には乙音の後頭部!
 ごす
 「きゃふ!」
 フローリングの床の上に、乙音が目を回してノビた。
 「……我が姉ながら、なんとゆーか」
 麦茶を冷蔵庫に戻し、その足でキッチンへ。
 タオルを水に濡らし、姉の後頭部に置いた。
 「さて、このまま目を覚ましてもらっても困るし」
 雪音はしばし考え、そしてそのまま玄関を出て隣の部屋のインターホンを押した。
 「やっぱり俺の出番かい?」
 「よく分かってらっしゃる」
 顔を出した男性に、雪音はニカッと微笑んだ。
 「そりゃ、あれだけ騒いでいれば聞こえるさ。壁もそんなに厚くないんだから」
 「そうなんだ。だから亮お兄ちゃんは女の人を部屋に連れ込まないの?」
 「……あー、はいはい、そーですよ」
 憮然と答え、亮は先程まで乙音が見ていたパソコンの前に。
 「カノジョいないんだったら、アタシがお兄ちゃんのカノジョになってあげようか?」
 「大人をからかうんじゃないの」
 亮は軽く雪音の頭をこずくと、目を回した乙音の隣に腰を下ろし、パソコンを眺める。
 「なるほど、ルーターを導入しようとしてたのか。雪音ちゃん用の回線を作るつもりだったみたいだね」
 「?? なんだか分かんないけど、直るのかな?」
 「どうだろう? 乙音さんがこういった系統が強いのは事実だから、俺に分かるものかどうか…」
 言いながら一つ一つをチェックして行く。
 「うーむ」
 「分かった?」
 「いや、さっぱり。手順はあってると思うんだけど」
 「ふーん。ところでお兄ちゃん。これ、差してなくて良いの?」
 雪音が指差したのは電源アダプターの一つ。ルーターの電源だった。
 それはどこにも差さっていない。それどころかビニール袋に入ったままだった。
 「あー、それだそれ。灯台下暗し、だな」
 「気づかないものなのねぇ」
 未だに目を回して夢の世界にいる姉を眺めながら、雪音は大きな溜息をついたのだった。
 「一生懸命な姉上は、好きなんだけどね」


【乙音さんの災難】

 呑み過ぎた。
 彼は腕時計を眺めつつ、千鳥足で帰路に就きながら思う。
 すでに時間は深夜1:30。
 「いくら新刊本の原稿がアップできたからって、9時間は呑み過ぎだ…」
 出版社の人間と、彼と同じフリーライター達と一緒に呑みに繰り出したのはまだ日が出ていたはずだ。
 「ゆっくり寝よう」
 酒臭い吐息を一つ。
 それは夜の冷気に白く立ち昇る。
 やがて彼は見慣れた二階建ての木造アパートへ。
 階段を上り、角部屋である自分の部屋の前に。
 「ん?」
 玄関前に何か大きな物が落ちている。
 それはしゃがみこんだ……人間?!
 「ぬお、乙音さん?!」
 彼の声にひざを抱えた人影は顔を上げる。
 それは紛れもない、彼の隣人であるところの若桜 乙音嬢。
 「亮クン……」
 消え入りそうな彼女の声、そして月明かりに映えるその表情を見て彼は絶句した。
 呆然とした、今にも泣き崩れてしまいそうな顔だ。
 さらに彼女の着こんだスーツはあちこちドロに汚れ、胸のボタンにいたってはほつれてしまっている。
 白い頬はその右側が、なにか擦ったようにうっすらと血に滲んでいた。
 亮の脳裏に、暴漢に襲われて汚される隣人の姿が浮かび……いやいやと頭を横に振った。
 その間にもよろめきながら彼女は立ち上がるが、バランスを崩して倒れそうになる。
 左足のヒールの踵が折れていた。
 慌てて亮は彼女の右手を取った。
 「!」
 細い乙音の指は、すりむけて血に塗れている。
 左手も取ると、同様に自身の血にぬれていた。
 「ど、どうしたんですか、乙音さん! 誰かに…誰かに襲われたんですか?!」
 「ん……実は」
 「実は?」
 「……部屋の鍵を会社に忘れてしまって」
 「忘れてしまって?」
 「雪音は昨日から修学旅行だし」
 「はぃ?」
 「管理人さんも旅行行っちゃったみたいで」
 「はぁ」
 「仕方がないから1階から塀を伝ってベランダから窓を破ろうとしたんですけど」
 「ほぅ」
 「落ちちゃいまして。と言いますか、侵入無理でして」
 「スパイダーマンじゃありませんしね」
 「他の皆さんも今日に限ってだーれも帰って来ませんし」
 「運がないですね」
 「こうして途方に暮れていたんです」
 「馬鹿ですね」
 「亮クンのバカーー!!」
 すっかり酔いが覚めて冷静に答えた亮に胸に飛び込んで、乙音はぐすぐす泣き始める。
 「ああ、もぅ。とりあえず俺の部屋へどうぞ」
 酒以外の要因で痛い頭を押さえ、亮は部屋の鍵を開けたのだった。

 
 「シャワーまで借りちゃって、ごめんなさいね」
 「はいはい」
 亮の大きめなパジャマを羽織った乙音は、コタツを挟んで彼と向かい合っていた。
 その細い両手を解放した亮は、彼女の頬に手を伸ばす。
 ぎゅっと目を瞑る乙音。
 「っ!」
 「無茶するからですよ」
 右頬に消毒液と、そしてバンソーコーを貼られた乙音は頬を膨らませる。
 「だって仕方ないじゃないですか。最悪、ピッキング術を使って鍵をこじ開けようと…」
 「そんな技能ないでしょうが」
 一蹴。
 「夜も遅いですし。乙音さんは俺のベットを使ってください」
 「亮クンはどうするの?」
 「俺はコタツで寝ます」
 「ダメ」
 乙音の力強い拒絶に、亮はニヤリと笑って続けた。
 「じゃ、一緒に寝ますか?」
 「何を甘えたことを言ってるの」
 「はぃ?」
 少しも甘くくすぐったいシチュエーションにならないことに亮は諦めを覚えつつ、乙音の行動を見る。
 彼女はコタツの上にドデンと、2本のビンを置いた。
 「こ、これは」
 それは赤い液体の入ったビンだ。
 ラベルにはフランス語らしきものが見て取れる。
 「そう、ボジョレー・ヌーボーよ。今日は飲み明かすわよー♪」
 「……勘弁してください」
 「亮クンらしくないわよ。さて、コルク抜くやつはっと」
 キッチンへ行き、道具を取ってくる乙音。
 「人んちなのによく道具の場所知ってますね」
 「さー、酒宴よ、酒宴♪」
 「まじに勘弁してください」
 当然、勘弁されなかったそうです。


【とある猫の愚痴】

 私は人間達には猫と呼ばれる種族だ。
 本日は日が最も短い日――冬至を迎え、私としてもこれから日が長くなっていくことを考えると寒い日が減ることとなるので助かるというものだ。
 「あ、ライオン丸。こんにちわ」
 誰がライオン丸だ。私はそんな名ではない。
 「おいで、ライオン丸。ご飯あげるよ」
 そう言って人間の女は私の前に屈み込んだ。
 髪の長い、どこかぼけーっとした女である。
 私の居場所であるアパートの階段下の、上の階に彼女は住んでいる。
 馴れ馴れしく話しかけてくるのは良いが、
 「はい、よく噛んで食べてね」
 コトリ
 私の前に丸い金属の塊を置く。
 そして彼女は足取り軽くこのアパートから去っていった。
 私はいつものように置かれた金属の塊を見つめる。
 人間の言葉で「ねこげんき」と書かれているそれは、固くて私が食せるものではない。
 彼女は一体何を考えて、私に良く噛んで食えと言っているのだろう??
 カンカンカン
 私の頭上から慣れ親しんだ足音が聞こえてきた。
 「ふなーお」
 私は挨拶にと、一言声を発する。
 「ん? どーした、猫??」
 それは人間の男性だ。先程の彼女の、隣の部屋に住んでいる。
 よく私に食べ物をくれる良い人間である。
 「ん? なんだ、またいじめられたのか?」
 彼は私の前に置かれた金属の塊を取り上げた。
 別にいじめられてはいないが?
 カシュ
 気持ち良い音とともに、良い香が漂ってくる。
 「ほら、食べな」
 彼は言って、私の目の前に美味しい食べ物を置いてくれる。
 「ふなーぉ」
 お礼を一言。
 「ったく、誰だよ。毎回毎回フタを開けないで猫にエサを置いていく奴は」
 ないやらぶつぶつと言って、彼は私の背中を撫でてくれる。
 「おっと、電車に遅れちまう。じゃあな」
 彼は腕時計を見て、立ち上がると駆け去っていった。
 「ふなーお」
 その後姿に私はいってらっしゃいと見送る。
 やがて食べ物をきれいに平らげた頃、聞き覚えのある足音が聞こえてきた。
 「あ、江戸家だ、江戸家だ」
 バカに明るい少女の声。私の天敵である。
 っつーか、貴様が言いたいのは『江戸家子猫』ではないか??
 「こんにちわ、江戸家」
 手を伸ばしてくるので、
 「ふなっ!」
 ばり
 引っかいてやる。
 「もぅ、照れちゃって」
 相変わらず諦めずに、今度は両腕を伸ばしてきた。
 「ふなっ、ふなーーーっ!!」
 無理矢理に抱きかかえられ、頬擦りまでされる。
 訴えるぞ、訴えてやるぞ!!
 少女はさんざん私をいたぶった後、ようやく飽きたのかポイと放り出し階段を上がっていく。
 「じゃあね、江戸家」
 疲れ果てた私にそう言って彼女は、先程やってきた髪の長い女の部屋へと姿を消した。
 全く、子供の相手も疲れるものだ。
 だが私はここにいなくてはならない。
 私の主人であるところの老人は、このアパートの大家なのだから。
 旅行好きな彼は、今は「えべれすと」とやらに出かけているそうだ。
 主人の留守を守るのは私の仕事である。
 手間はかかるが、棚子を見守るのは大家の仕事。
 少しばかりは我慢しなくてはならない。
 まったく難儀な仕事である。


【料理とは心をこめて以下略】

 クリスマスを象徴する赤と白で彩られた商店街。
 結構人通りの多いそこを、2人の女子高生が歩いていた。
 そのうち、髪をツインテールにしている方が上機嫌で鼻歌を歌っている。
 どこへいったら あるのかな♪
 おかしやさんにも うってない♪
 デパートみたって うってない♪
 みかくにんおかしぶったい♪
 パップラドンカルメ
 「雪音ちゃん、何、その歌?」
 「んー、恵美ちゃん、知らないの?」
 ポニーテールの少女の問いに、彼女は逆に問いかける。
 「うん、知らない」
 「あれー、姉上は有名な曲だって言ってたんだけどなぁ」
 うわさによれば♪
 パップラドンカルメというものは♪
 クリームみたいに まっしろで♪
 カステラみたいに しかくくて♪
 「変な食べ物ね」
 雪音のちょっと音程の外れた、かなり間が抜けた歌に恵美はくすりと笑う。
 うわさによれば♪
 パップラドンカルメというものは♪
 プリンみたいな あじもする♪
 ケーキみたいな あじもする♪
 なんてあのこが いっていた♪
 「雪音ちゃんは食べたことあるの? その…」
 「パップラドンカルメ?」
 「うん、そう」
 「ないよー。だから次の実習では……絶対作り上げるっ!」
 決意の炎を背中に燃やした雪音に、恵美は引きつった笑いを見せる。
 「あー、だから今日の料理実習で『あんなもの』作っちゃったんだ」
 恵美はつい数時間前に行った料理実習を思い出す。
 ケーキが料理課題だったのだが、雪音の作り上げたものは、その、なんというか……。
 「やっぱり醤油はさしみ醤油だった方が良かったかな」
 「そーいう問題じゃないと思うよ?」
 放課後、どういう経緯か分からないが無理矢理雪音の作り出した物体を食べさせられた男子を恵美は思い出す。
 彼――市松くんは青い顔をして保健室に走りこんでいたっけ。
 ”でも完食してたのよね。案外良い人かも”
 「んじゃ、ソースをブルドックにした方が良かった?」
 「あー、全然違うと思う」
 恵美は隣を行く雪音に苦笑い。
 「そもそも雪音ちゃんは私より料理は上手いんだからさ、ちゃんと課題通りのケーキを作れば良いのに」
 「違う、それは違うよ、恵美ちゃん」
 雪音は首を横に振る。
 「生活のかかっていない料理で、普通に料理してどうするの? 人生、常に挑戦あるのみ!」
 「そーなのかなぁ」
 「そういうものよ。そんなことより恵美ちゃんはおいし〜いケーキを作ってさ」
 ニヤリと微笑む雪音。
 「だーいすきなお兄ちゃんに喜んでもらわなきゃ、ね」
 「もぅ、違うったら!」
 恵美は頬を膨らませて、スタスタと先へと進んでしまう。
 「わー、ごめんごめん!」
 恵美の歩速は緩まない。その後ろを雪音が小走りについてゆく。
 「次の実習で美味しく仕上がる秘伝のレシピ、教えてあがるからっ!」
 「じゃ、許してあげる」
 立ち止まり、振り返る恵美。その表情にはすでに怒りはない。
 「でもね」
 念を押す。
 「パップラドンカルメのレシピはいらないよ?」
 結局、雪音が作り上げた謎の物体は、隣に住む亮お兄ちゃんへのクリスマスプレゼントになったとのことである。


【乙音さんと猫】

 乾いた北風が吹き抜ける夜。
 古めかしいアパートの前に、一人の女性が座っていた。
 彼女の隣には一匹の猫。トラ柄の猫だ。
 「クリスマスって、人それぞれの過ごし方があるものですね、ライオン丸さん」
 「ふなーお」
 「ライオン丸さんはどう過ごされるんですか?」
 「ふな」
 「そうですか、いつも通りですか。私と一緒ですね」
 「ふなーぉ」
 「え、私にカレシなんているわけないじゃないですか」
 「ふなぉ」
 「もぅ、おだてたって何も出ませんよっ」
 そんな一人と一匹を冷めた目で見つめている一人の男がいた。
 さすがにツッコミ所がなかったらしく、困った顔で見つめるのみだ。
 「あら、亮クン。こんにちわ」
 「こんばんわ、乙音さん。っつーか、頭の回路がイカレました?」
 「失礼ですね、正常に稼動してますよ」
 「乙音さんワールドの正常は、現実ではきっと異常です」
 「褒めても何も出ませんよ」
 「褒めてませんよ」
 「そうですか」
 「ふなーお」
 「亮クン、ライオン丸さんがその手に持ったケンタッ○ーフライドチキンのファミリーパックを所望されていますよ」
 「ふなーぉなーぉ」
 「いつから猫語が分かるようになったんですか、乙音さん?」
 「私は猫語一級なんですよ」
 「何処の検定かさっぱり分かりません。それ以前にコイツの名前はライオン丸ではなく、トラですよ」
 「そうなの、ライオン丸?」
 「ふなーぉ」
 「どうでもいいそうですよ?」
 「良くないですよ。コイツ、大家さんトコの猫ですよ」
 「そうなの?」
 「うなーぉ」
 「そうみたいですね」
 「はいはい。どうでもいいですけどこんなところにいたら風邪ひきますよ」
 「そうですね。私は温かいコタツを所望します」
 「ふなーーぉ」
 「トラさんも所望されています」
 「………はぁ」
 亮は溜息一つ。
 「じゃ、乙音さんが後ろに隠しているシャンパンを提供していただけるのなら、我が家にご招待しましょう」
 「仕方ないですね、提供いたしましょう」
 「ふなーぉ」
 「トラさんからは『撫で撫での権利』を提供するそうです」
 「はいはい、行きますよ」
 階段を登る亮の後ろを、乙音とトラはついていく。
 「ふな?」
 ふと乙音を見上げるトラ。
 「ね、いつも通りでしょう?」
 乙音はトラに、そうにっこり微笑んだのだった。


【年の瀬】

 「おもちの準備は?」
 「OK」
 「お酒の準備は?」
 「当然、問題なし」
 「コタツの準備は?」
 「掃除完了、三が日は寝て過ごせるわ」
 「アタシへのお年玉の用意は?」
 「貯金残高ありませんの、全部お酒に化けたんだもの」
 「このバカ姉がぁぁ!!」
 亮は壁を一枚挟んだ隣の部屋から聞こえてくる、いつもの姉妹の言い争いをBGMにしつつ、キーボードを叩いていた。
 「今年は未来の来年だな、こりゃ」
 「ふなーぉ」
 彼の足元、ホットカーペットの上で座ったトラ柄の猫が同意するように一声鳴いた。
 「……オレもそうだな」
 いや、そうはなるまい!
 とにかく今は、今年の仕事は今年のうちに終わらせるべく必死にキーボードを叩く亮だった。

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