若桜さんが到来


【年始参り】

 「亮お兄ちゃん、あけましておめでとうございまーす!」
 玄関のドアを蹴破り、飛びこんできた少女は、朝寝を楽しんでいた青年のふとんを引き剥がして両手を差し出した。
 「………おはよう、そしておやすみ、グッナイ」
 「ねーるーなー!」
 雪音は掛け布団をひったくり、その足で日光をさえぎる厚いカーテンを開けた。
 新年を飾るにふさわしい、しかしとっくにお昼の光が部屋の中を明るく照らし出す。
 「雪音。亮クンはきっと、朝まで生討論とかを観ちゃって寝不足なのよ」
 少女をたしなめる、女性の声。
 「……いや、仕事の追い込みで、徹夜してたんですよ」
 亮はあくびを一つ。
 枕の下から小さな封筒を取り出すと、無造作に雪音に手渡す。
 「あら、この時期に。大変ですね」
 「こういう商売ですから。乙音さんはいつまでお休みなんですか?」
 「私は4日までですわ」
 「今年は短いみたいですね」
 そんな会話の後ろで、お年玉袋を開けた雪音は「500円」と書かれたお札に首を傾げている。
 「ねぇ、お兄ちゃん。これお金?」
 「ああ、500円札だよ。ちゃんと言われた通りのお札だろ? 使えるから安心しな」
 がっくりと肩の力を落として「500円かよー」と文句を垂らす雪音を尻目に、亮は立ち上がる。
 「2人とも初詣に行くんですよね? 付き合いますよ」
 「あら、良く分かりましたね」
 「そりゃあ……着物着てますし」
 晴れ着姿の2人をまぶしそうに亮は見つめ、壁に掛けてあるジャンパーを羽織る。
 「ほら、屋台のやきそばくらいおごってやるから、恨みがましい目で見るなよ」
 雪音の頭を軽く叩き、外へと促す。
 「たこ焼きは?」
 「へいへい、あんまり食べると太るぞ?」
 「育ち盛りだから大丈夫!」
 「それにしては胸は育たないのね」
 「うきーーー!」
 1月の青空の下、3人は行く。
 「あ」
 「そうだ」
 と、足を止める3人。
 「「今年も一年、よろしくお願いします」」
 誰ともなく、頭を下げたのだった。


【成人式の乙音さん】

 珍しく朝早く、彼が仕事の為に玄関を開けた時にそれは現れたのだった。
 「ほぉ……」
 思わず溜息が彼から漏れる。
 「あら、おはようございます、亮クン」
 同じく玄関先で、部屋の鍵を閉めているのは隣人の若桜 乙音である。
 彼女は長い髪を結い上げ、赤い生地に白い鶴の描かれた着物を羽織っていた。
 誇張ではなく、まるで呉服の広告に映っているモデルのようだ。
 彼は普段めったに見ない隣人の「おしゃれ?」をした姿を目の当たりにして目を白黒させている。
 「どーしたんです、亮クン?」
 「あー、いや。お世辞じゃないんですけど、乙音さんがあまりにも美人で、びっくり仰天しているところですよ」
 「もぅ、上手いわね、亮クンったら」
 ぼす!
 「うぐっ!」
 乙音の手首のスナップを効かせたフックが、気持ち良いくらいに亮のストマックすなわち胃をえぐる。
 「あらら、ついつい入っちゃっいました」
 「………朝からいいのを頂きました。それはそうと、乙音さん、ハタチでしたっけ?」
 「もぅ、乙女に歳を訊くもんじゃないわよっ」
 ごす!
 「げふ!」
 今度は斜め45度のアッパーカットが亮を襲った。
 「まぁ、今日は技の切れが冴えてるわ」
 シュッシュ、とシャドーボクシングをしながら乙音。
 「………実に乙音さんらしいですよ。外見に騙されていました。そろそろ三十路…」
 「まだ24ですっ! この着物は、これから成人式会場でちょっとお仕事がるあるから着てるんですよーだ」
 「そうですか、乙音さんは24だったんですね。なるほどなるほど」
 「メモしないでー!!」
 亮はこれ見よがしに手帳にチェックする。
 「それはそうと、これまで訊いたことなかったんですけど」
 「ん?」
 「乙音さんって、何のお仕事されてるんです?」
 「何だと思います?」
 逆に質問され、言葉に詰まる亮。
 「3,2,1、はい、時間切れ。それでは私、急ぎますので。亮クンもぼけっとしてると、時間はあっという間に過ぎてしまいますよ」
 薄く微笑み、乙音は亮の言葉を聞かずに階段をさっさと降りてアパートの一階へ。
 と、アパートの前の狭い道には黒塗りのロールスロイスが一台止まっているではないか。
 そこに彼女は、まるで執事のような老紳士に後部座席の扉を開けてもらってすべるように乗りこんだ。
 「はぃ?!」
 アパートの廊下から、唖然とそれを見守る亮。
 黒のロールスロイスは、朝日にその車体を光らせながら、街中へと消えていった。
 「………相変わらず謎だな」
 呟き、亮は腕時計を一瞥。
 「さて、行くかな」
 カバンを持ちなおし、彼もまた出かける。
 朝日は次第に高くなり、冷え切った地面をゆっくりと暖めていく。
 だがまだ冷たいアスファルトの上を、亮は白い息を切らせながら駅へと向かうのだった。

 
 その日の夕刊、それも地方記事。
 公民館で開かれた成人式で今年ハタチを迎えた若者のグループが「やんちゃ」をしたとの記事が乗った。
 市の職員と乱闘をする若者たちの写真。
 その写真に写る乱闘の前線で、酔った体育会系と思われる男に豪快にアッパーカットを食らわせる着物美人がいたことに。
 残念ながら、亮は気付くことはなかったといふ。


【乙音さんの食生活】

 「たっだいまー。ゴメンゴメン、恵美ちゃんとイチマツの3人でカラオケ行ってたら遅くなっちゃった」
 元気良く自宅であるアパートの一室に戻った雪音は、すでに帰宅済みの姉に向けて玄関から声をかけた。
 「今日の食事当番は姉上ですよ…ね?」
 リビングルームを覗いた雪音は、コタツで菓子パンを口に含んだ姉であるところの乙音を見て、硬直。
 「ほかえり、ふきね」
 「良いから飲み込んでからしゃべれ、バカ姉」
 乙音はゆっくりと菓子パンを飲み干し、ホッと一息。
 コタツの上に山と積まれた同じ銘柄の菓子パンを視線で指して、雪音に言う。
 「これ、晩御飯」
 「育ち盛りに菓子パンを晩御飯にするなー!」
 「育ち盛りって……」
 乙音は雪音の胸を一瞥。
 「育ってないじゃない」
 「余計なお世話だーー!」
 「もぅ、そんなに怒らないで。それより美味しいわよ、コレ」
 積まれた菓子パンは今、LOWSONで発売されている「焼きたてジャぱん」である。
 それも新製品「クッキーメロンパン」こと58号だ。
 「こんなにたくさん、メロンパンばっかりどーするつもりで?」
 「近所のコンビニでびっくりするくらい山積みに売っていたの。きっと有名なものだと思って、全部買い占めてきたのよ」
 「何の意味が?」
 「買えなかった人の悔しがる顔を見たかったの」
 「……晩御飯がメロンパンになって泣いている妹の顔を見たかったのでは?」
 「そうね、それも見たかったのかも」
 ニッコリと微笑む鬼畜な姉に、雪音は仕方なしに58号を手に取った。
 「へぇ、ふわふわのパンの上に、クッキー生地を乗せているんですね」
 袋を開け、一口。
 「ふぅん、クッキー生地とパンの間にメロン味のクリームを敷くことで接着剤の役目も果たしているわけですか」
 「クッキー生地がサクサクしていて、美味しいでしょう?」
 「まぁ、美味しいとは思うけど」
 「けど?」
 「歯にくっつかないという点くらいしか、アタシには良いところが見つからないデス」
 「夢がないわねぇ」
 わざとらしく乙音は大きく溜息。
 そして視線を先ほどまでパンを食べながら見つめていた手元に戻した。
 雪音は姉が何を読んでいるのか、視線を移す。
 そこには料理の本。
 「……えーっと、姉上? 作る気もないのに何を読んでるので?」
 「作ったつもりになって読んでるの」
 「……嫁の貰い手いませんよ?」
 「いいもん、料理が上手い人に貰ってもらうから」
 見つからないから今でもカレシいないじゃん、という言葉を雪音はパンと一緒に呑みこんだといふ。


【575】

 『ざーんーこーくぅーな天使のてーぜ♪』
 Pi♪
 乙音はコタツの上に置かれた携帯電話を取る。
 「あー、なんか嫌な感じの着信音ですね」
 「着うたっていうんですよ、亮クン」
 メール着信だったらしい。
 乙音は右の親指を数回タップすると、送信ボタンを押す。
 「サイレントモードにしておきますね」
 彼女が言うと同時、再着信がある。
 乙音は文面を読んだ後、「んー」と一瞬考えて一文を入力。
 『筋肉痛 一日遅れて やってくる』
 送信
 あまり時間をおかずに着信
 『人の顔 名前がすぐに 浮かばない』
 「んー、そうきましたか」
 『最近の 萌えが心に なじまない』
 送信
 「なんのやり取りをしてるんです、乙音さん?」
 「古い知り合いと、ちょっと、ね」
 そして着信
 『ごろごろと 山と詰まれた ソフト達』
 「これには対の句で返しましょうかね」
 『手に入れた だけで攻略 した気分』
 「っと」
 送信
 「打つの早いですね」
 「慣れですよー」
 「どんなやり取りだったんです?」
 「んー、明日で三十路を迎えるそうで。そこで三十路にありがちな行動を俳句で指摘してくれないか?って言うんですよ」
 「へぇ。でも乙音さんの文面はあんまり三十路と関係ないような…」
 「そうですか? ま、がんばれーってメールして〆ておきますね」
 ニッコリと微笑み、乙音は早業で文章をしたためると送信。
 「亮クンはお友達とメールとか、されます?」
 「そうですねぇ、携帯のメールはあんまり……。仕事ではメールを多用してますけど、PCの方を使ってますからね」
 「そうですか。じゃ、私とメル友になりません?」
 「意味がないと思いますけど…」
 「そうですか?」
 「そうでしょう? 隣に住んでるのに。ましてや乙音さん、暇があればボクの部屋でお酒呑んでるじゃないですか」
 「まるでアル中のように言わないでくださいっ」
 頬を膨らませて怒る乙音。
 しかしすぐに小さく微笑むと。
 「そうですね、こうして亮クンとは顔を合わせてお話できますものね。メールの意味、ありませんわ」
 乙音の、そのおっとりとした笑みに思わず魅入ってしまった亮は慌てて目をそらし、TVのニュースに向けた。
 その様子を眺めつつ、さらに乙音の笑みは増したようだった。
 ぶる
 コタツの上に置かれた乙音の携帯が、気づかれることなく震えた。
 届いたメールには、こうある。
 『騒ぐ間に 次は四十 いと早し
   せいぜい笑って 生きて逝く也』


【乙音さんのバレンタイン】

 『文化放送が0時をお知らせします』
 ラジオから聞こえてくるのは時報。
 それを聞きながら、ノートPCを前に頭を抱える青年が一人。
 「うー、遅々として進まない」
 彼は朝からこの態勢だった。液晶画面に映るのはWORDの画面。
 真っ白な文章にはカーソルが等間隔で点滅するだけだった。
 コンコン
 真夜中だと言うのに玄関がノックされた。
 「はーい、どうぞ」
 PCの前から離れることなく、彼は答える。
 「こんばんわ、精が出ますね」
 現れたのは隣人の乙音嬢だった。彼女は片手に湯気の昇るティーカップを持っている。
 「そんなことありませんよ、まったく朝から進んでいませんし」
 視線を画面から逸らすことなく、彼――亮は不機嫌に答えた。
 そんな彼の向かうテーブルに。ティーカップが置かれる。
 「根を詰めると浮かぶアイデアも浮かびませんよ。甘いものを飲むと頭の回転が良くなるといいます」
 「はい、ありがとうございます」
 カップを一瞥。しかし彼は手にすることなく、画面に戻った。
 そんな彼の後ろ姿を乙音は静かに見つめ、
 「では頑張ってください」
 「はい」
 それ以上、いつものように騒ぐことなしに去っていった。
 亮はしばらくキーボードを叩くこともなく液晶画面を見つめていたが、ふと鼻腔をつく香りに顔を上げた。
 甘い、そしてどこか気の休まる香りだ。
 それはカップから。
 彼は乙音の持ってきてくれたカップを手にする。
 暖かい。
 そしてそれに唇をつけた。
 チョコレートのような甘い香りが口の中に広がった。
 「ココア、か」
 心なしか、甘いものを取ったおかげで頭が冴えたような気がする。
 『今日は2月14日。バレンタインデーですね』
 そのおかげか、ラジオから聞こえていた音が亮の耳にBGMとしてではなく『声』として届けられる。
 「一年は早いな。バレンタインデー、か」
 カップで揺らめくココアを眺めながら、彼は呟く。
 ココアをさらに一口。
 「あ、そうか」
 ようやく気付く。
 「これって、乙音さんからのチョコレート…なんだな」
 思い至り、彼に微笑みが戻る。
 にゃー、と彼の足元で眠そうにトラが一声鳴いた。


【雪音ちゃんのバレンタイン】

 「ただいまー、ってあら、雪音。この香りはなに?」
 「おかえりなさい、姉上。これのこと?」
 残雪が固まり始める夜半。
 コートを脱ぎながら、乙音はキッチンに立つ妹を見つめる。
 雪音はがさがさと、大きな袋に入った業務用のチョコを手にしていた。
 「そっか、そろそろバレンタインだものね。でもそんなにたくさん、どうするの?」
 「クラスのみんなにあげるんだー」
 湯煎した鍋に持ち替え、シャカシャカとチョコを溶かしながら彼女は言う。
 「義理チョコ?」
 「んー、それだけじゃないよ♪」
 フフフと不適に微笑む妹に、姉は思わずたじろぐ。
 「雪音……アナタ、いつの間にっ」
 「女の子のお友達とも交換するんだー」
 「あぁ、そっちね」
 一気に興味をなくしたらしい乙音は、コートをハンガーにかけるとその足でコタツへ。
 「今日も冷えるわね」
 「そうだね、まだ雪も解けずに残ってるし」
 乙音はコタツからTVのリモコンをとってスイッチオン。
 最近の若手芸人が出てくるバラエティ番組が始まる。
 「姉上」
 「ん?」
 「チョコ、あげないの?」
 「誰に?」
 しゃかしゃかしゃか
 そんな音と、TVからの笑い声がしばらく2人の間を流れて行く。
 「亮お兄ちゃんとか」
 「亮クン、甘いの好きじゃないし」
 「そかー」
 しゃかしゃかしゃかしゃか
 「甘くないの、買ってきたしね」
 しゃかしゃかしゃ……
 「え…っ?」
 「ん?」
 「な、なんでもなーい」
 「そぅ?」
 雪音はチョコを溶かし終えたのか、鍋の中身に何やら色々香りのする液体やら固体やらを放り込む。
 最後にもう一度全体を混ぜ合わせて、中身を金属の型に流し込んでいった。
 「あとは固まるのを待つだけ、っと」
 溜息一つ。最後に手を洗って乙音のいるコタツへ入った。
 「で、雪音」
 「ん?」
 「本命は何個作ったの?」
 みかんをむきむきしつつ、乙音。
 「えっと、姉上? そもそも本命ってのは本来一つなんじゃないかな??」
 「そう、本命もちゃんと作ったのね。で、誰にあげるの??」
 「作ってません! 男子には義理しか作ってません!!」
 「えー」
 「なに、その「えー」って?!」
 「つまんないなぁ。今をときめくジョシコーセーなんだから、本命の一つくらい作ったらいいのに」
 「あげる人、いないもん」
 「藝急の岩下さんとか
 「なに、そのチョイス?! せめてイチマツとか言うのなら分からないでもないけどっ」
 そこまで口にして、雪音は硬直する。
 ニヤリと不気味な笑みを浮かべる姉に気付いたからだ。
 そして今自分の口にした言葉を思い返して、思わず顔が赤く染まる。
 「いやいやいや、それはないからっ!」
 「なんのこと? お姉ちゃん、わかんな〜い」
 「あぅ、うー、もー! さ、晩ご飯作るよっ!!」
 コタツから立ち上がり、雪音は再度キッチンに向かう。
 「今日は洋食が良いなぁ」
 「じゃ、和食にするっ」
 ぷりぷり怒りながら支度をする妹の背中を見つめながら、乙音は幸せそうに微笑んだのだった。


【創作カレー?】

 コタツの前で、乙音は腕を組んでいた。
 「うーん」
 「姉上、どうかしたの?」
 「いぇ、ひなあられ、どうしようかと思って」
 見れば、コタツの上には山のように雛あられが積まれている。
 「ひな祭りも一昨日だったし、食べきれなかったのよ」
 「どーしてこんなにたくさん買ったの??」
 「私と雪音がそれぞれ買ってきたでしょ?」
 「うん、そういえばアタシも買ったっけ」
 「それに亮クンからの貰い物とか、先日帰国された大家さんのお土産が雛あられだったりとかでね」
 「……そうだ、これを使って別の料理にしてみるとか!」
 ポン、と手を叩いて雪音。
 「雛あられで別の料理?」
 「うん。例えばカレーをかけて食べてみるとか」
 乙音は想像する。
 ライスの代わりに雛あられが皿によそわれ、豪快にカレーがかけられた料理を。
 「ちょ、ちょっと遠慮するわ」
 「んー、それじゃ、イカメシの具にするとかは?」
 「………美味しいと思うの?」
 「うん! じゃ、早速色々作ってみるね。お料理お料理♪」
 足取り軽やかに、雪音はキッチンへ向かっていく。
 乙音はそんな妹を止めることすらできずに、
 「あー、亮クンの部屋にでも逃げ込もうかなぁ」
 「姉上、せっかくだから亮お兄ちゃんも晩御飯に呼ぼうよ」
 キッチンから聞こえてきた声に、乙音は無言で胸の前で十字を切ったのだった。
 しかしながら一刻後には、おいしそうにがっつく乙音と亮がいたそうな。
 『あられとカレーが恋をした』とかなんとか言っていたといふ。


【銭湯へ行こう!】

 夕焼け空に煙突が一本。黒い煙が緩やかな風にたなびいている。
 下町と表現できる、木造住宅が無造作に立ち並んだ住宅街。
 そこにその煙突はあった。
 煙突の柄の部分にはこう書かれている。
 『松の湯』
 最近では利用は少なくなり、それとともに数を減らしつつある、銭湯である。
 その入り口には3人の男女がいた。
 「久しぶりだな、銭湯なんて」
 ケロリンの文字の書かれた黄色いプラスチック製の風呂桶を手にした青年が呟く。
 「私は初めてです。こんな機会に恵まれたのですから、アパートのお風呂が壊れたのにも感謝しても良いかもしれませんね」
 「そうだね。ちょっと足を伸ばしたところにこんなのが合ったなんて知らなかったよ」
 と、こちらは女性2人。
 長い髪の妙齢の女性と、ツインテールの女の子である。
 「じゃ、1時間後に」
 「はい」「うん」
 男性の言葉に、2人は答え、それぞれ『男』『女』と書かれたのれんをくぐっていった。

 
 靴を靴箱にしまい、さらにのれんをくぐった先は脱衣所。
 広さは男女とも変わらず、三段のロッカーが壁沿いに並ぶ。
 中央にはくつろげる様、古びたソファと机が置いてあった。
 「まぁ」
 「へぇ、これが銭湯かぁ」
 女湯の脱衣所の方から聞こえてくる声に合わせて、
 「おばあさん、3人とも洗髪込みで」
 「990円だね」
 青年が一括して男湯の方から番頭のおばあさんに支払う。
 「親子かぃ?」
 「俺達はそんなに歳をとっているように見えますか?」
 「…そう言えばそうだねぇ。カノジョと、その妹さんかお姉さん?」
 「同じアパートの住人ですよ。風呂が壊れちゃいましてね」
 彼らの住む『猫寝荘』は風呂が共同なのである。
 昨日、老朽化によってガス系統が壊れたため、修理中であった。
 「今時、風呂が共同なんて珍しいね」
 「そんなことを言ったら、今時銭湯ってのも珍しいと思うけど?」
 「言うねぇ。ところでどっちの娘が本命なんだい?」
 「なんのことかな?」
 「歳上の娘の方は…おや、着痩せするタイプかね。案外胸は大きいねぇ。肌も驚くほど白くてお尻も良い形だし。安産型だね、ありゃ」
 「…お客なくすぞ、ババア」
 そんな男湯と番頭のやりとりなど知る由もない女湯の2人は、これまた反応が対照的だった。
 ツインテールの女の子――雪音は周囲をキョロキョロ見回しながら、そろりそろりを上着を脱ぎ始める。
 そしてアンダーシャツとスカート姿になりながら、姉に振り返る。
 「姉上、やっぱり水着とか着なくて良いんでしょうか、って、うわ!」
 目の前に2つの白い山が出現していて、思わずのけぞる雪音。
 「ん? どうしたの?」
 早くも着衣を全てロッカーにつめ込んで一糸まとわぬ姿の乙音がそこにいた。
 「そんな無防備で」
 「あら、まだ脱いでいないの?」
 「だって! なんか心配だし」
 雪音は不意に背後に視線を感じ、振り返る。
 一瞬、番頭のおばあさんと目が合ったが。
 「…なんかあのおばあさん、姉上を舐めまわすような視線で見ていた気が」
 「何言ってるの。早く脱ぎなさい」
 「水着は…」
 「何の為に『お風呂』に来たのよ」
 「あぅ、だって…」
 「そもそも、隠すようなものは『ない』でしょ」
 「くぅっ、いつの日かおっきくなるんだからっ!」
 ブツブツ言いながらも、もぞもぞと雪音はシャツを脱ぎ始める。
 やがて下着姿になった雪音は、小さなタオルを2つ手にした姉の、特に胸のあたりを見つめてから改めて己のそれに移した。
 片や、起伏の大きな胸。片やまるで滑走路のようなそれ。
 「むー」
 雪音の手が乙音の脇に伸びる。
 「? どうしたの、雪音? くすぐったいわよ」
 ぷにゅぷにゅとした姉の脇の下あたりの感触を味わってから、雪音はしみじみと呟く。
 「案外、姉上は寄せて上げてをしてるんですね」
 「いいからとっとと脱げ」
 問答無用で乙音は妹のブラジャーを剥ぎ取った。

 
 「何騒いでんだか」
 亮は女湯の方から聞こえてくる嬌声に溜息一つ。
 「男湯と女湯が一緒じゃなくて、初めて良かったと思うよ」
 ブツブツと心の声を漏らしつつ、彼もまたタオル片手に風呂場への扉を開けたのだった。

 
 湯船は5つ。
 銭湯の壁面を背にした大湯船と、泡風呂、そして日替わりの薬草風呂。
 そして1m四方の小さなもので水風呂と電気風呂とかかれたものがあった。
 風呂場の隅には煉瓦で囲まれた小さな空間があり、これはどうやらサウナらしい。
 圧巻なのは、壁面に大きく描かれた青空の中の富士山であろう。
 「うわぁー」
 思わず喚声をあげたのは乙音だ。
 「ど、ど、どれから入ろうかしら、雪音?!」
 「とりあえず、体を洗うことから始めたほうが良いと思うけど?」
 冷静な妹の答えに、姉はつまらなそうにつぶやく。
 「いいもん。サウナで10kgやせてやるんだから」
 「また無茶なことを」
 早々に場所を確保して体を洗い始める姉を横目に、雪音もまた風呂桶を片手に体を洗おうと場所を確保。
 目についた空いている場所に足を運ぼうとした時だった。
 同時に、雪音の腰を下ろそうとした場所に割り込んできた同年代の少女が一人。
 二人は思わず顔を合わせる。
 雪音の目に写るのは、茶色がかった髪をしたショートカットの女の子である。
 形の良い、同年代にしては大きな胸をそのままにさらし、腰にだけタオルを巻いていた。
 胸から腰にかけて大きめのタオルで体を隠していた雪音と、そして彼女は対峙→硬直。
 それも一瞬。お互いに声をあげた。
 「絢夏?!」
 「雪音?!」
 「どないしたん、絢夏ちゃん?」
 続いて脳天気な声が絢夏の背から聞こえる。
 ひょっこりと顔を出したのは、
 「え、凪沙?!」
 「あら、雪音ちゃん。おひさー♪」
 それは雪音の旧来の友。神戸在住のはずの凪沙であった。
 「雪音ちゃん、奇遇やね。でもどうしてここに??」
 「うん、お風呂壊れちゃって。そんなことより、どうして2人が? 知り合いだったの? というよりなんで凪沙までここに??」
 頭の上に『?』マークを複数浮かべながら雪音。
 それに凪沙が答える。
 「私と絢夏ちゃんはメル友なのよ。私がちょっとこっちに用事ができたから、今夜泊めてもらうことにしたん。絢夏ちゃんと雪音ちゃんが知り合いだったってのは私も初めて聞いたわ」
 「……顔が広いね、凪沙」
 乾いた笑いを浮かべつつ、雪音は改めて絢夏に視線を移す。
 「絢夏はどうしてここに? やっぱり…」
 「そうよ。もちろん、ラストファクターを探しによ」
 大きな胸を張って宣言する絢夏に、しかし雪音は手を横に振る。
 「あー、いや、そうじゃなくて。っつーか、『それ』大声で言うことじゃないし。どうしてこの銭湯に?」
 「だって、絢夏ちゃんちはお風呂ないからねぇ」
 「!」
 凪沙のふと出た言葉に、絢夏は硬直。
 「え、言っちゃマズかったん?」
 オロオロとする凪沙を尻目に、雪音は絢夏の肩をポンポンと優しく叩く。
 「苦労してるのね、絢夏」
 「ど、同情なんていらないわ。『こっちの世界』に出てきたばかりじゃ、風呂なし・トイレ共同のアパート暮らしなんて当たり前じゃない!」
 かなり貧乏な生活のようである。
 「そんなことより、雪音。アナタのその様子じゃまだ見つけていなようね」
 「ふん。そういうアンタこそ、いつこっちに出てきたか知らないけど、見つかったようには見えないわね」
 睨み合い、火花を散らす2人。
 「ねぇ、2人とも。見つけたどうとか、なんのこと?」
 首を傾げ、問う凪沙に、
 「「なんでもない」」
 見事に2人はハモった。
 そして絢夏は雪音の胸の辺りを眺め、小さく笑う。
 「やっぱり相変わらず胸はないのね」
 「と、特定層に支持があるもん。そういうアンタは×××生えてないじゃない。あれから成長したのかしら?」
 「んな! そ、そんなことっ」
 思わず一歩後ろに引いた絢夏に、凪沙が興味津々に、
 「へぇ、そうなん?」
 絢夏が腰に巻いたタオルを引き剥がした。
 「「あ…」」

 
 「バカーー!」
 女湯の方から、雪音と知らない少女の言い合う声が聞こえてきたかと思うと、知らない少女の怒声が男湯にまで響き渡ってきた。
 「うるさいなぁ、何やってるんだ、アイツは?」
 亮はシャンプーの泡で目を細めながら、女湯と男湯を隔てているタイル張りの壁を見上げた。
 「乙音さんは何やってるんだろうな、まさか人知れずサウナでへばっていたりして」
 想像して、亮は一人苦笑いを浮かべる。

 
 「勝負よ!」
 「望むところ!」
 「ひゅーひゅー」
 にらみ合う絢夏と雪音。それを凪沙がもりたてる。
 「まずは…そうやね、これはどう?」
 凪沙が指差すのは、1m四方の小さな湯船。
 端の設置されたそれにはこう案内が書かれていた。
 『電気風呂 心臓の弱い方はご遠慮ください』
 「で、でんきぶろ?」
 「なに、コレ?」
 近くにまで寄り、2人はそれを恐る恐る覗き込む。
 「じゃ、スタート」
 ゲシゲシ
 凪沙は無情にも後ろから2人を蹴りこんだ(良い子は真似してはいけません)。
 「え」
 「な」
 ばしゃん
 狭いそこに2人が飛び込んだかと思うと、飛び込んだままの形で2人は硬直していた。
 「あぁぁぁぁ……で、でんきがぁぁぁ」
 「し、しびしび、しびれるぅぅぅぅぅぅ」

 
 「あぅあぅあぅ」
 凪沙を電気風呂に押し込んだ絢夏と雪音は、次なる対戦を迎えた。
 サウナ、である。
 物置小屋ほどの大きさしかないその中は、高温の蒸気で満たされていた。
 息をするのも熱い。
 「どっちがどれだけ入っていられるかの勝負よっ」
 「受けて立つ!」
 蒸気に満ちた部屋に入り、3分もしないうちに2人の肌には蒸気とも汗とも分からない雫が生まれる。
 「まだまだ私はいけるわよ」
 蒸気の中、絢夏はタオルで額をぬぐいながら告げる。
 「アタシだって、ぜーんぜん平気よ」
 ツインテールの髪を下ろした雪音は、比較的長い髪を胸の前で束ねながら不敵に微笑む。
 さらに5分が過ぎた。
 「まだまだ平気、よ」
 「アタシだって…」
 挑発するのも、答えるのも億劫になってきた2人がいた。
 「ふぅ」
 絢夏が何度目になるだろう、額の汗をぬぐって壁に背を任せたときだった。
 壁が、動いた。
 「?!」
 次の瞬間、壁が絢夏に覆いかぶさり、ぬるりとした妙に柔らかい2つのものが彼女の顔を埋めた。
 「むぐっ?!」
 「な、なになになに?!」
 息のできない絢夏と、慌てる雪音。
 「暑いの〜、頭がクラクラするの〜」
 ぼそぼそとうわの空で呟くその声は、乙音。
 「うわ、乙音さん?!」
 絢夏が壁と思っていたのは乙音。彼女の胸に顔を埋めた形になっていた。
 「どうしてここに??」
 「もしかして姉上、銭湯に来てからずっと入ってたの?!」
 「うん。いつの間にか気を失っていたみたいなの〜」
 絢夏にもたれかかりながら、ぐったりと乙音。
 「死にますよっ、取り敢えず外にっ」
 「水風呂に放り込みますよ、いいですね、姉上」
 「暑いの〜〜」
 2人に担ぎ出された乙音は、そのまま水風呂に放り込まれた。

 
 「冷たーーーい!!」
 乙音の絶叫が男湯にも響いてきた。
 「乙音さんも騒がしいなぁ」
 亮は湯船に肩まで浸かりながらボソリと呟く。
 「そんなに珍しいかな、銭湯って?」
 手足を湯船の中で伸ばし、亮は大きく背伸び。
 「ふぅ、気持ち良い」

 
 「絢夏ちゃん、もうちょっと上ね、そこそこ」
 「凪沙、もうちょっと下、うん、そこ」
 「雪音ちゃん、もうちょっと右、うんそこ」
 「そろそろ交代して欲しいなぁ」
 乙音の背を絢夏が、絢夏の背を凪沙が、凪沙の背を雪音が洗っていた。
 「はいはい、じゃあ交代ね」
 乙音の指示に従い、4人はくるりと反対を向く。
 「うぁ、乙音さん。どさくさにまぎれて胸を揉まないでください」
 「絢夏ちゃん。ちょっと力入れすぎ」
 「凪沙、そこ背中じゃないから。胸だから。いくら薄いからって嫌味? ねぇ、聞いてる??」

 
 「くぅぅ、サウナ上りのビールを思えば、あと5分は我慢したいところだがっ!」
 亮は一人、サウナの中で20分目に突入していた。

 
 「ほら、雪音も絢夏ちゃんも! 湯船にタオルを入れるんじゃありません。凪沙ちゃんを見習いなさい」
 「え」
 「でもー」
 「没収!」
 「「あーー」」

 
 「ふぅ、良い湯だったなぁ」
 タオルを腰に巻いた亮は、扇風機の前に立って火照った体を冷やしていた。
 「ここで牛乳を行きたいところだが、ビールのために我慢だな、うん」

 
 「ああ、良いお湯だったわ」
 「姉上、お風呂上りの牛乳を飲んで良いですか?」
 タオルで髪を乾かしながら、雪音は姉に問う。
 それに対し、答えたのはすでに牛乳を片手に持った絢夏だった。
 「あら、雪音。いくら頑張っても胸はそれ以上育たないんじゃないの?」
 「アンタはそれ以上育てても垂れるだけじゃないの?」
 「むっ、ひがみとして受け取ってあげるわ」
 「姉上、牛乳2本飲んで良いですか?」
 「……お腹壊すわよ」

 
 風呂上りの4人は、夜の空気の中で湯気をあげていた。
 銭湯の前で別れの挨拶を交わす。
 「それじゃね、絢夏ちゃん、凪沙ちゃん」
 「またお会いしましょう、乙音さん。さっさと向こうへ帰れ、雪音」
 「今度はウチに遊びに来てや、2人とも」
 「凪沙、元気でね。絢夏、地獄へ落ちな」
 手を振り振り、凪沙は絢夏に引っ張られて帰って行った。
 残る乙音と雪音は、僅かに遅れて出てきた亮と合流する。
 「良い湯だった、2人とも?」
 「はい!」
 「うーん、まぁまぁかなぁ」
 心地良い返事の乙音と、難しい顔の雪音。
 「でも、楽しかったと言えば楽しかったかな」
 笑って顔を上げる雪音に、亮もまた笑みを浮かべつつ、
 「そっか。でも2人とも、もー少し静かに入れよ」
 「「はーい」」
 「さ。さっさと帰ってビールだビール」
 「あ、私もお付き合いしますわ。その為にサウナで頑張ったんですから」
 「倒れてちゃ、意味ないけどね」
 談笑しながら3人もまた帰路につく。
 背を向けた銭湯の煙突からは、まだまだ勢い良く煙が立ち昇っていた。

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