若桜さんが到来


【雪音ちゃんのクラス替え】

 4月。
 それは学生にとっては新学期の始まりである。
 また新社会人ならば社会に出る第一歩の始まる時期であり、定年退職者ならば「ああ、これからどうしよーか」とか悩んだり悩まなかったり。
 そもあれ、多くの人々が『第一歩』と感じる一歩を踏み出す時期である。
 「今日から高校2年生かぁ」
 桜並木を軽やかな足取りで進むセーラー服の少女は一人呟く。
 結い上げたツインテールが春風に揺れた。
 「おはよう、雪音ちゃん」
 妙に重い声は背後から。
 後ろに振り返ると、そこには彼女――雪音の良く知る顔があった。
 「おはよう、恵美ちゃん。どうしたの、暗い顔して?」
 1年の時に同じクラスであり、仲の良い友達でもある相馬 恵美である。
 彼女の雰囲気は今まで雪音が見た事もないくらいにどんよりと曇っていた。
 「どうしたもこうしたも……」
 「あ、お兄さんが海外留学したんだっけ、たしか」
 「うーー」
 極度のブラコンである恵美は、雪音の言葉に深く頷きさらに暗い顔になった。
 「あー、ほら、待つ時間が長くなればなるほど、再会した時の感動は大きくなるって言うし、ね?」
 なにが「ね?」なのか分からないが、取り敢えず恵美の暗さが若干薄らいだ。
 「クラス替え、誰と一緒になるかな」
 話を変えようと雪音が敢えて陽気に呟いた。
 彼女達が1年生の時は4クラスあったので、クラスの数は変わらないだろう。
 しかし成績などを考慮してクラス替えが行われるという。
 「また、一緒になれると良いね」
 「そうだね♪」
 恵美の言葉に雪音は頷いた。
 やがて2人は桜並木を抜け、通う高校へと辿り着く。
 校門を抜け、辿り着くは人だかりのできた昇降口。
 クラス割りが張り出されているのだ。
 「えっと、アタシは……C組だ」
 「私もC。また一緒だね、雪音ちゃん」
 「改めてヨロシクね、恵美ちゃん」


 4階建ての校舎の、2階にC組は位置している。
 クラスにはすでに生徒の半分ほどが各々の席についていた。
 「うーん、ちょうど4分の1にキレイに別れるみたいだねぇ」
 雪音がすでにいる面々を眺めながら呟いた。
 「そうみたいね、あ!」
 「ん?」
 恵美の少し驚いた声に振り向けば、
 「よっ、お互い運がないな」
 「あら、イチマツ。アンタもC組?」
 「残念ながら」
 やれやれと両手を肩の高さで上げるポーズを取りながら市松 京也は苦笑い。
 と、その目が雪音に止まった。
 「? 何よ?」
 市松の右手が雪音の髪に伸びる。
 「?!」
 「頭にサクラの花びらのってるぞ、お前」
 市松の手には桜色の小片が一枚。
 「…さんきゅ」
 「相馬の頭にも乗ってる」
 「え、ウソ?!」
 ぱたぱたと頭を払う恵美を横目に、市松は自分の席についた。
 2人の前から彼が消えると同時、雪音の視界には信じられないものが入った。
 「げ、絢夏?!」
 「うぇ、雪音?!」
 それは先日、銭湯で懐かしの再会を果たした絢夏である。
 スタイルの良いその身には雪音達と同じセーラー服を着ていた、すなわち。
 「転入生、ってこと?」
 「そーゆーこと」
 「ねぇ、雪音ちゃん。お友達?」
 恵美のおずおずとした問いに
 「ダメだよ、恵美ちゃん。この人、触ると危険だから」
 「私は何かの病気もちか?!」
 「……むしろ2人を混ぜると危険、なんじゃ?」
 「「何か言った?」」
 「いえ、何も」
 きーんこーんかーんこーん♪
 口論を続けている間に、朝のホームルームの開始を告げる鐘が鳴る。
 しぶしぶ席につく雪音と絢夏。そして完全に観戦モードの恵美。
 やがてガラリと音を立てて教室の引き戸が開く。
 「みんな、揃ってますか?」
 そう問いかけたのは、桜色のスーツを纏った若い女性だった。
 「!?」
 雪音はその女性の顔を見て硬直する。
 彼女は教壇へ上がり、背後の黒板に己の名前を書いた。
 「おはようございます。私がこのクラスを受け持つ、中西 春菜です。一年、よろしくね」
 とびっきりの笑顔に、男性陣から歓声があがる。
 「このクラスの人選については苦労しました。苦労の甲斐があって」
 春菜はそこで言葉を一旦区切る。
 「私が思う、『勝てる』クラス構成にできたつもりです。皆さん、がんばりましょう!」
 担任の言葉の反応に困る生徒たちと、1人張り切る春菜。
 何に『勝つ』のか『負け』たりするのか謎ではあるが、こうして雪音の新しい一年が封を切られたのであった。


【若桜姉妹の衣替え】

 「あ、おかえりー、雪音」
 「………なにやっているの?」
 帰宅した雪音が目にしたのは、部屋一面に広がった衣類の山だった。
 春物・夏物・秋物・そして最近まで着ていた冬物が、足の踏み場もないほどに散らかっている。
 衣類は当然、乙音のもの、そして雪音のものだ。
 「も、もしかしてドロボウが入ったの?!」
 「違うわよ」
 乙音が苦笑いを浮かべながら答える。
 「春物を出そうとしてたら、押入れから雪崩の如く落ちてきたの」
 「普段、整理整頓しないから……」
 そこまで言って雪音は言葉を止める。姉に限ったことではないからだ。
 「あー、えーっと、それでこれはいい機会にってことでまとめ直してるのね?」
 「そうそう。結構古いものもあるから、着ないやつは捨てちゃおうと思うの」
 「そうだね。アタシももう着れなくなったのあるから、いらないのは捨てるね」
 そんな雪音を乙音はまじまじと見つめる。
 「成長って……してるの?」
 主に胸辺り。
 「し、してるもん!!」
 「ふーん。じゃ、片付け手伝ってね」
 乙音は妹を適当にあしらい、作業に戻る。
 雪音はブツブツ言いながらも衣類の山の整頓にとりかかった。
 「? 何コレ??」
 山の中から黒い紐のようなものが生えていた。雪音はそれをずるずると引きづり出す。
 黒いガーターベルトとブラのセットだった。
 「……こんなの着てるの、姉上??」
 「ん? ああ、それは貰い物。結局着てないわねぇ……今度、ソレ着て亮クンをからかってみようかしら」
 さらりと怖いことを言う姉に、雪音は黒い下着セットをゴミ箱へダンク!
 「あー、せっかく安藝急行のところの桃香ちゃんから貰ったのに」
 「むぅ、あの帰国子女め。あなどりがたし」
 再び作業に戻る2人。
 それからも何故か巫女さんの衣装が出て来たり、アンミラの制服が出て来たりしたが、夕飯時にはほとんどが片付いていた。
 「ふぅ、終わり終わり」
 スムーズに動くようになった押入れの戸を閉め、乙音は一息。
 対する雪音は、部屋の隅に山のように積み上げられた破棄予定の服を再び漁っている。
 「どうしたの、雪音?」
 「んー、もしかしたら姉上の着ていたもので、アタシが着れるのがあるかもしれないと思って」
 そう言ってたまたま手にしたのは、何故かバトガールの衣装だったりする。
 「無理じゃない?」
 乙音はあっさりと一言。
 「む、無理じゃないもん!」
 怒鳴り、そしてしみじみとバトガールの衣装を見つめる。
 「どーでもいいけど、どうしたの、コレ?」
 「山崎姉妹のナナちゃんから頂いたのよ」
 頂き物が多い姉である。
 「で、着たことあるの?」
 「あるわよ」
 「どこで?」
 「ひ・み・つ」
 乙音はウィンク1つ。
 同じ屋根の下で暮らしていつつも怪しいところが多い姉であると、改めて雪音は実感したのだった。


【花粉症】

 「ふぇ…」
 ”ふぇ?”
 市松は背後からの小さな声に首を傾げる。
 場所は教室。時間は一時限目。
 授業は退屈極まりないともっぱら評判の古文であった。
 しかしながら最近、彼にしては珍しく出席率が高い。
 留年する訳にはいかないというのが彼の言い訳だが、実際のところは後ろの席に座っている少女に会うためであると陰ながらの噂だ。
 窓から見える空は雲1つない青空。射し込む日差しはすっかり春のものである。
 「ふぇ」
 ”?”
 再び聞こえた後ろの少女の妙な声に、彼はついに振り替える。
 「ふぇっくしょん!」
 まるで待ち構えてたようなタイミング。
 豪快なクシャミを放ったのは若桜雪音。
 それをモロに顔面で受けとめてしまった市松は、雪音の鼻水まみれの顔で苦い表情を浮かべている。
 その出来事に、クラスの空気が凍りつく。
 狂犬の異名を持つ男と、キックの鬼と呼ばれる女の2度目の対決か、と。
 「あ…ごめん」
 ちりがみで鼻をかんだ雪音は、懐から出したハンカチで彼の顔をぬぐった。
 「……花粉症か?」
 「んー。なーんかクシャミが出て、目がかゆくて、頭がぼーっとするのよね」
 「それを花粉症っていうんだ、バカ」
 「なによ、バカって言う子がバカなのよ…くしゅん!」
 再び鼻水の洗礼に合い、さすがに市松は、
 「お前なぁ…ぶはっくしょい!!」
 豪快にクシャミ一発。
 「へぇ、花粉症ってうつるんだ。くしゅん!」
 「風邪じゃあるまいし、うつるか…って、はっくしょい!!」
 春の到来を感じさせる、天気の良い4月のある日。
 新たに2人の花粉症患者がここに生まれたのだった。


【しめきり】

 その日の夜、3つの声が同時に上がっていた。
 「あーーー、明日の締め切りに間にあわねぇ!!」
 「うーーー、宿題忘れてたぁぁぁ!!」
 「むーーー、企画書の提出って連休明けだったのねぇ」
 上から亮、雪音、乙音である。驚愕度順に並べてみました。
 そんなわけで、
 「いやいやいやいや、何も俺の部屋でみんな揃ってやる必要ないだろう?」
 亮は愛用のちゃぶ台に各々書類を広げる乙音と雪音に言った。
 「必要はありますよ」
 乙音だ。
 「なんたって、それぞれやってても絶対に他のことやるだろうし」
 こちらは雪音。
 「他のこと?」
 「例えば、猛烈に部屋の掃除したくなったり」
 「ああ、あるなぁ」
 乙音の言葉に深深と頷く亮。
 「例えば、猛烈にポケモンゲットしてみたくなったり」
 「いや、それはないなぁ」
 雪音の言葉をあっさり否定する亮。
 「さらに、ちょっとだけ景気付けにお酒呑もうとして、気がついたらボトル空けちゃってたり」
 「うんうん、あるねぇ」
 亮は乙音の言葉にうんうんと頷いている。
 「さらに、ちょっとだけつまみ食いしようとして、ついつい来來軒のジャンボラーメンに挑戦して完食しちゃったり」
 「いや、それはないから安心しろ」
 問答無用で雪音の言葉を蹴飛ばす亮。
 「もー、姉上ばっかり贔屓してっ!」
 「ジェネレーションギャップと思って諦めろ」
 そういう問題ではないのだが、どうやら亮は適当に流すことにしたらしい。
 「うー、じゃあ、じゃあね!」
 続ける雪音。
 彼らは知らない。
 こうしたおしゃべりこそが、各々の進行を遅らせていることに―――


【それは苦行】

 「ところで亮クン」
 「なんですか、乙音さん」
 「今、上海では下着はファッションの一環として認識されているそうよ」
 「へぇ、そうなんですか」
 「うん、そうなのよ」
 「だからといって、どうして俺が乙音さんの下着選びに付き合わされているのでしょーか?」
 ここはとある有名デパート。
 その3階にある婦人服売り場の一角は、様々な女性用下着が置かれている。
 そんな場所に、何故か亮は隣人であるところの乙音に腕ごと捕まれて下着を物色するのに付き合わされていた。
 「どうしても場違いだと思うんですけどね、俺」
 「そんなことないですよー、ホラ」
 乙音が指差すのは1組のカップル。
 「ほら、あそこにも」
 指先を変えれば、また1組。さらに1組と結構カップルがいたりする。
 冷静に見渡してみると、亮&乙音のカップルが浮いているようなことはなかった。
 「な、なんで……??」
 「それはやっぱり、見る人が気に入る下着を直接選ぶからじゃないですか?」
 「ああ、なるほど」
 納得した亮。しかし、
 「で、俺がどーして乙音さんの下着選びを手伝う羽目に? もしかして俺に下着姿を披露してくれるんですか?」
 「へぇ、亮クン。私の下着姿、み・た・い・の?」
 「いえ、遠慮します」
 どす!
 即答の亮に、乙音は無言でボディブローをかます。
 「今回はね、『男として萌える』下着を選んでもらおうと思って、ね」
 「はぁ、なんでまた……」
 「昨日ね、雪音が『姉上は脱いでも色気ありませんね』なんていうから……だから今日は亮クンが萌えるようなのを買っていって見返してやるの」
 「発想が子供ですね」
 どす!
 「さ、どんなのが萌えるのかな、亮クンは?」
 ニヤニヤと微笑んで乙音は亮に迫ったのだった。
 なお、亮が選んだ下着を身に着けた乙音はその夜、雪音に大笑いされたそうである。
 雪音曰く、
 「それ、亮お兄ちゃんに騙されているか、もしくは亮お兄ちゃんが特殊な趣味の持ち主ってことだよー」
 とのこと。


【不調と病】

 その日は朝から体調が悪かった。俺の体質なのか、年に数回は必ずこんな不調がある。
 季節の変わり目で布団を蹴飛ばして寝ていて、身体を冷やした金に貸しているのだと思う。
 ともあれ、昼には滅多に体験しない頭痛に襲われ、普段は穏やかな時間帯であるはずの3時には意識が朦朧とする。
 同時に全身の関節を筋肉痛のような痛みが襲い、それはやがて心臓が一度脈打つくらいで俺に痛みを与えるようになる。
 そして、こんな時に限って外出しなくてはいけない日だったりする。
 それも昼頃から、しとしとと雨なんぞが降り注ぎ始めた。
 ともあれ、編集との長くも重要な会議をどうにか終え、帰路に着くころは夕時だ。
 通勤からの帰り客で混雑する電車に揺られ、駅に着くころには完全に千鳥足である。
 雨は小降りでしとしと状態。傘など持ってこなかった俺は当然のように何も差さずに歩み始める。
 「なんとか……帰り着くことはできるな」
 ぼんやりした頭で現在の状況を把握する。
 身体状態はおそらく風邪による高熱。
 自宅には解熱剤に使用できるバファ○ンがある。そういえば優しさの半分って何だろうな?
 いやいや、それはどーでもいい。
 他に必要なものは……そうだ、水分補給にスポーツ飲料水が欲しいな。
 近くにスーパーかコンビニは…ない。少し歩くか? 体力はもつか?
 いや、もたないな。このまま帰宅した方が良い。
 待てよ、病院に寄るべきではないか?
 しかし今この時間にやっているところなんてないな。最悪は明日行こう。
 ゴホ、ゴホッ!
 咳が俺を襲う。
 身体をくの字に曲げる、同時に凄まじい頭痛と平衡感覚の麻痺が起こった。
 「やばっ」
 思わず右手を伸ばす。ざりっとした感触が手のひらに。
 石壁だ。
 手の痛みにどうにか持ちこたえる。
 ”思ったよりも消耗が激しいな。はやく家へ”
 息荒く歩を進める。駅からアパートまで、これほど遠く思ったことは無い。
 「タクシー拾ったほうが良かったかっ」
 思うが遅い。
 雨に引きずられ遅々として進まない足は、しかしどうにか住み心地の良いアパートへと到達した。
 ”あと、少しだな”
 ほっと一息。
 目指すは2階。俺は雨で濡れた錆びた手すりを掴みながら階段を上っていく。
 ざー
 気がつけば雨は強く振り始めていた。ぐっしょり濡れた髪から雨が滴っている。
 「風呂に入る気力は無いな」
 なんとか玄関先までたどり着いた俺は、朦朧とした意識の中で鍵を取り出し震える手でドアへ。
 がしゃり
 隣の戸が開いた。
 そこからは見慣れた顔が現れる。
 「あら、おかえりなさい、亮クン。どうしました、びしょ濡れじゃないですか」
 のほほんとした、いつも通りの乙音さんの顔だった。
 いつもと変わることが無い、俺にとっては安心感を与えてくれる顔。
 それが、わずかな緊張感でここまでたどり着いた俺に止めを入れた。
 どさっ
 自分の倒れる音が客観的に聞こえる。
 「ちょ、ちょっと、亮クン?! ど、ど、ど、どうしたんですか!!」
 駆け寄ってくる乙音さんの気配を感じながら、俺の意識は完全に消えていった。

 
 古くて覚えている価値などない記憶だと、客観的に感じた。
 夕暮れの美術室。
 中学生の俺は、何枚目になるのだろう、目の前の女の子の似顔絵を描いている。
 描かれているのは特徴の無い、むしろ存在感の薄い子だった。
 様々なアングルから描かれた絵を見直しても、どれも特徴を見出せない。
 綺麗な子ではあったと、思う。
 そんな子を、俺はスケッチしている。
 同時に、前の子も俺の顔を描いていた。
 2人にはただ、違いがある。
 俺の似顔絵はすでに複数枚であり、課題としてどれを提出しても良いのだが、目の前の子はまだ一枚目。
 それも上手い訳でもなく、丁寧な訳でもない。
 ずばり、下手でセンスが無いのだ。
 だが、一生懸命ではある。嫌になっているであろうこの作業をとにかく続けている。
 だからすでに課題を終えてしまっている俺だけれど、こうして付き合ってあげている訳だが。
 「あの」
 どこかで声がした。
 「あの、高槻くん?」
 目の前の子だった。
 「ん?」
 「ごめんね」
 「…謝る暇があるんだったら、さっさと描いてくれ」
 「う、うん」
 再び沈黙が下りる。
 遠く、グラウンドからは運動部の声が聞こえてくる。
 「高槻くん?」
 「ん?」
 彼女は手を動かしながら、一瞬俺をチラッと見てからスケッチブックを見つめる。
 「………」
 「えっと、その」
 「なんだよ」
 「高槻くんはカノジョとかいるの?」
 「いねーよ」
 「そぅ…」
 沈黙の帳が下りる。
 遠く、運動部の声が再び聞こえ始めた。
 それだけだった。
 ただ、それだけの記憶。
 何故こんな記憶を覚えていたのか、不思議だった。
 同時。
 当時は分からなかったけれど、今振り返ればそこにどんな意味があったのか、なんとなく分かるような分からないような。
 そんな感想を得た。
 意識が次第にはっきりとしながら俺は思う。
 これって、もしかして走馬灯の一種、かな?


 目を開くと、そこには見知った女性の顔があった。
 過去の記憶のようにぼんやりとして掴めないものではなく、手を伸ばせば間違いなくそこに「ある」存在。
 ただそれだけで、どこかほっとした。
 「……おはようございます、意識はありますか?」
 沈痛な面持ちで彼女は開口一番そう言う。
 乙音さんである。
 「はい。えーっと、一体何が何やら??」
 「風邪をひいているのに無理をするからですよ。それも雨の中、傘も差さないで」
 わずかに頬を膨らませて、怒っているようである。
 「すいません。色々と、その」
 俺は今の状況を確認する。
 寝巻きに着替えて布団の中で寝かされていた。
 当然、髪も乾いている。
 この近辺に友達などいない俺であるからして、当然この処置をしてくれたのは……
 「…ご迷惑をおかけしたようで」
 「いいえ。困ったときはお互い様ですよ」
 「分かりました。乙音さんは安心して倒れてください。俺が責任を持って着替えさせてあげますから」
 ごす!
 額に肘が落ちてきた。
 「ばか」
 頬をわずかに赤くしつつ、ようやく笑って乙音さんは呟いたのだった。


【もしも】

 それは久しぶりにお互いに深酒をした晩の事だったと思う。
 「亮クン?」
 「……はぃ?」
 ちゃぶ台の上には空の酒瓶が1本と、3分の2が空になった瓶。
 大部分がなくなったコンビニの惣菜と、俺の作ったつまみがあったはずの空の皿。
 そして両肘をついてあごを乗せた乙音さんの眠そうな顔。
 同じく、寝そべってぼんやりとテレビの深夜番組を眺めていた俺は気のない返事をしていた。
 むしろ条件反射なので、返事をしたことすら実は意識に無い。
 「もしもですね」
 「はい」
 「……ぐぅ」
 「……眠ぃ」
 「…っと、もしもですね」
 「はぃ」
 「私が明日にでも、亮クンの前から消えて帰ってこないとしたら……どうしますか?」
 「平和ですね」
 「平和ですか」
 「……ちょっとびっくりしますね」
 「ちょっとびっくりしますか」
 「びっくりしますね」
 「びっくりしますか」
 「………」
 「それだけ、ですか?」
 「んー、そうですね。それから、探すと思いますよ」
 「探しますか。どうしてです?」
 「せめて引越しの挨拶くらいは、したいですしね」
 「律儀ですね、それだけですか?」
 「あと貸したCDを返してもらいます」
 「……律儀ですね。それだけ、ですか?」
 「……どうでしょう? 乙音さんはどうなんです?」
 「え?」
 「探しにきた俺を見て、何かありますか?」
 「……」
 「……」
 「…分かりません、その時になってみないと」
 「俺もそう、思います。そんなもんじゃないでしょうか?」
 「そんなもんですかね」
 「そんなもんでしょう」
 会話は一旦そこで途切れる。次に言葉を発したのは俺の方だった。
 「乙音さん」
 「はぃ?」
 「反対に、もし俺が明日にでも引っ越してしまうとしたら……どうします?」
 「困りますね」
 「困りますか?」
 「はい。呑み友達がいなくなってしまいますから」
 「そりゃ、困りますね」
 「でしょう?」
 「それだけですか?」
 「……どうでしょう? 探すかもしれません」
 「どうして探すんですか?」
 「…せめて引越しの挨拶くらいは、したいです」
 「律儀ですね、それだけですか?」
 「どうでしょうね? 亮クンはどうなんです?」
 「ん?」
 「探しに来た私を見て、何かあります?」
 「……分かりませんね。あるかもしれないし、何もないかもしれない」
 「私もそう思います、そんなもんなんでしょうね」
 「そーですね」
 それからお互い、酒を注ぎあって泥酔に突入することとなる。
 なんでこんな会話になったのか分からないが、珍しく乙音さんも俺もちょっとはまじめな問答だったので覚えていることとなった。
 当然、翌日どちらかが引っ越していなくなる、なんてことはなかったが。
 しかし俺達は分かっている。
 いつか必ず、そんな日が来ることを。

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