若桜さんが到来


【ながぐつ】

 「そろそろ梅雨ね、雪音ちゃん」
 「そーだねー」
 うんざりとした声で呟いた相馬 恵美に、隣を歩く雪音は気のない返事。
 しとしとと、糸のような雨が降り続く夕方。
 西の空はどんよりとした分厚い雲で覆われ、太陽の形は見えない。
 そろそろ外灯が付いてもおかしくない薄暗さだった。
 こつこつ
 恵美の足音に、
 かこっかこっ
 ばしゃばしゃ
 雪音の足音が続く。
 こつこつ
 かこっかこっ
 ばしゃばしゃ
 「あ、あのね、雪音ちゃん?」
 「なぁに、恵美ちゃん?」
 「えーっと」
 困った顔で恵美は雪音の足元を見つめる。
 彼女の視線の先には、黄色い長靴がある。
 雪音のはく長靴である。
 長さはちょうど彼女の膝まで。てかてかのゴム製の、長靴としか言いようのない長靴だ。
 間違っても、ブーツなどというオシャレなものではない。
 それが雪音の着るセーラー服と、これまた子供のさすような黄色い傘と、妙にマッチングしているから不思議ではある。
 「どうして長靴?」
 「?? だって、雨降ってるし」
 「それはそうなんだけど……」
 「あ、だってせっかく履いてるんだからさ、水たまりに突入しなきゃ♪」
 「あー、そーじゃなくて、ね」
 そこまで言って、恵美は言葉を飲み込む。
 そう言えば、いつのころから雨の日に長靴を履かなくなったのだろう?
 幼稚園の頃は履いていたと、思う。
 雨の日に長靴を履いて、今雪音がやっているように水たまりにわざと入るのが楽しかったっけ。
 いつの頃からだろう、雨の日が嫌なものだと思うようになったのは。
 「そーじゃなくて?」
 雪音が恵美の顔を覗き込んでくる。恵美は我に返って慌てて首を横に振った。
 「ううん、なんでもない。ただ雨に濡れちゃうよ、って思って」
 「まぁ…でも、ただの水だし」
 雪音は笑って、水たまりの中でくるりと一回まわる。
 「ただの、水。そうね、ただの水だもの、ね」
 恵美は笑って、そして。
 「えい!」
 軽くジャンプ。飛んだ先には、
 ぱしゃ!
 水たまりだ。彼女の靴は濡れ、白い靴下が雨水に汚れた。
 「うん、こんなのも良いかもね」
 「? 変な恵美ちゃん」
 「雪音ちゃんに言われたくないよー」
 少女2人、雨の空の下で笑い合った。


【携帯電話】

 「亮クンは携帯電話はどこのメーカーを使われていますか?」
 そう乙音さんが尋ねてきたのは、たまたま駅からの帰り道が一緒になった道すがら。
 「俺はWILLCOMですけど」
 「PHSですか、また妙なものを使ってますねぇ」
 「妙じゃありませんよ。俺のはブラウザ搭載してますし、インターネット定額ですから。最近は流行ってるんですよ」
 「そうなんですか?」
 「そうですよ。それに同じWILLCOM同士なら定額で通話し放題、ってのもありますし」
 「へぇ」
 しかしあまり乙音は関心がないようだ。
 「乙音さんはどこの使ってるんですか? ドコモですか?」
 「私はAUですよ。なんとテレビも見れちゃうんです」
 えへんと胸を張って乙音。なにも彼女が偉いわけではないが。
 「テレビだったら家で普通に見れば良いのでは?」
 「あぅ、そ、それなら亮クンもインターネットなら家でやれば良いじゃないですかー」
 そして二人は互いに顔を見合わせ、
 「「ツーカーの『話せるだけ』のタイプでも良いかもしれませんね」」
 乾いた笑いで答え合ったのだった。]


【サムライブルー】

 蒸し暑い夕刻だった。
 連日降りつづけていた雨は昼には止み、久方ぶりの青空を見せていたが、それもつかの間。
 すぐに曇天となり、お陰で蒸すこと蒸すこと。湿度が90%越えているんじゃなかろーかというほどだ。
 降らないうちに買い物を、と外に出たオレがアパートに戻った時だ。
 「あ、亮お兄ちゃん。ちわっ!」
 隣の部屋の扉が開いたかと思うと、少女が一人飛び出してきた。
 まるで艦載機のような勢いである。
 「っと、雪音ちゃんか。こんな時間にお出かけか…」
 言葉は途中で止まる。
 雪音ちゃんはサムライブルーに身をかため、顔には日の丸のペイントまで施してある。
 「あ、パブリックビューに行くのか」
 「うん、クラスのみんなとね。じゃ、またね〜」
 またね、の辺りはすでにドップラー効果がかかっていたりする。
 いつも元気な娘である。
 「もぅ、雪音ったらちゃんと閉めていかないんだから」
 半開きになっていた玄関の戸を閉めようと顔を出したのは、姉の乙音さん。
 「あら、亮クン。こんばんわ」
 「こんばんわ、乙音さん」
 ブームに乗った妹とは対照的に、別段顔にペイントすることもなく、シンプルな白いブラウス姿の彼女に挨拶。
 「乙音さんは行かないんですね」
 「ん? あぁ、そうですね。あまりサッカーは好きではなくて」
 「好きじゃない?」
 困った顔の乙音さんに問い掛ける。
 「えぇ。野球と違って、いつ点が入るか分からないでしょう? ああいうの、ダメなんですよ」
 「へー」
 分かるような、分からないような。
 「亮クンは今夜のサッカー、観るのかしら? 決勝への生き残りをかけた戦い、とかTVで言ってたけど」
 「んー、そうですね。BGM代わりにはしておこうかなと」
 「そう? じゃ、今夜もお仕事入ってるんですね」
 「えぇ、まぁ。すぐ終わるっちゃ終わるんですけどね」
 そんなオレの答えに、乙音さんは小さく微笑んで右手に何かを掴んでこちらに向けた。
 「ぬぁ、それは幻の芋焼酎として名高い…」
 彼女の手に握られていたのは、一年に30本しか作らないと言われている限定焼酎だっ!
 「どうします? でもBGMは野球になっちゃいますけど」
 答えは即答。
 「問題なしです。仕事も後回しできますし、是非ともご相伴にあずかりますよ」
 この日、日本中が興奮に包まれたと言われているが、少なくともオレ達は違う意味でエキサイトしていたんだと思う。
 「お酒が美味しければ、何でも良いんじゃないかしら?」
 とは、乙音さんの談。


【七夕の願いは?】

 商店街では毎年恒例で、七夕用に竹と短冊を用意していた。
 俺は知らなかったし、たまたま駅で出会って一緒に帰路につく乙音さんも知らなかったようだ。
 気付いたのは商店街のアーケードに入ってから。
 アーケードの入り口の左右に「でん」と据えられた2本の大きな竹。
 それをなんとなく見上げて「あー、そろそろ七夕だよなぁ」などと乙音さんと話しながら、奥に進んだときだった。
 「亮お兄ちゃん。それに姉上も、素通りですか?」
 声は後方右側から。
 足を止めて振り返れば、そこにはセーラー服を着た女子高生2人。
 1人には見覚えがあった。もう1人は初めて会う…と思う。
 「こんにちわ、雪音ちゃん」
 「あら、雪音。ただいま」
 かけた声に2人は軽く手を振った。
 その手には折り紙が握られている。
 「せっかくだから願い事、書いていったら?」
 「願い事?」
 乙音さんの問いに、
 「そ。七夕の短冊よ」
 隣の乙音さんは俺に無言で「どうします?」と問うような視線を投げかけてくる。
 「まぁ、どーせなら書いていきますか」
 「そうですね」
 『原稿料UP』とでも書いておくかな。
 思いつつ、俺は雪音ちゃんの同級生らしい、おとなしそうな少女から短冊を受け取る。
 その際に、その子の手に握られた彼女自身の短冊が垣間見得る。
 『お兄ちゃんが帰ってきますように』
 海外にでも飛ばされたのだろうか??
 頭の片隅でそんなことを考えつつ、鉛筆を走らせる。
 「何よ、亮お兄ちゃん。そんな願い事で良い訳??」
 不機嫌な声を上げるのは俺の短冊を覗いている雪音ちゃん。
 「叶えば御の字だけど?」
 「ちっちゃい、ちっちゃいよっ!」
 力強く非難された。何気に傷つくな。
 「男だったらさ、いや、漢だったら「世界をとる!」くらいの事を書かなきゃ」
 「いや、訳わからん」
 そんな押し問答をやっているうちに、いつの間にやら乙音さんは願い事を書いた短冊を竹にくくり終えてしまっていた。
 「……なんて書いたんです?」
 「さぁ、なんて書いたんでしょうね?」
 くすりと、彼女は小さく笑う。
 俺が見上げる巨大な竹には幾枚もの願いが下げられており、すでに彼女の物はどれかなどさっぱり分からなくなっていた。
 「叶うと良いですね、お互い」
 「そう、ですね」
 なんて書いたのだろう?
 妙に気になった。きっと教えてくれないからこそ、余計に気になる。
 でも乙音さんの願いは、叶ったら教えてくれるのだろうと思う。
 だから俺は彼女の願いが叶うようにも、軽く祈ることとした。


 ちなみに雪音ちゃんの願い事は「卓球王になる!」とかなんとか書いてあった。
 何に影響されたのか分からないが、叶うにしろ叶わないにしろ、彼女のことだから何もなく終わることはないのだろうな、と思うのだ。


【クーラーその1】

 「姉上、どうしてウチにはクーラーが無いの?」
 「それはね、雪音。夏を堪能するためよ」
 「買う予定は無いの?」
 「無いわよ」
 にっこりと返ってくる笑みに、雪音は声を詰まらせる。
 決して『お金が無い』&『電気代が大変だから』であることは口にしない乙音である。
 「だって、だって暑くないの?」
 「暑いわねぇ」
 「例え家の中とは言え、下着でうろうろしているのはどうかと思うんだけど」
 「特に見られて困る相手なんていないじゃない」
 「……例えば、亮お兄ちゃんからの突然の訪問とか」
 「いくら亮クンでも、ちゃんとノックくらいはするわよ」
 「こんにちわー」
 玄関からの声とともに、
 ガチャ
 扉が開く。
 「田舎からスイカが大量に送られてきたんでおすそ分けです」
 手にスイカを持ったまま、目を点にしてたたずむ亮。
 視線の先にはタオル片手に汗を拭く、下着姿の乙音とタンクトップの雪音。
 「カッ!」
 一瞬の硬直の後、乙音が武道家のごとき裂帛の吐息をついて亮に向かって駆け、
 「斜め45度のアッパーカットっ!」
 ごす!
 「げふっ!」
 宙を舞う亮とスイカ。
 乙音は華麗な体捌きをもって片手でスイカを受け取った。
 どしゃぁ!
 地に伏す亮と、技が決まりポーズを取るスイカ片手の乙音。
 それを熱気の中でぼんやりと見つめていた雪音はボソリと一言呟いた。
 「せめて少しは恥ずかしがるくらいしないと、マジで嫁の貰い手ねーよ?」
 というか、ヒロインたる自覚を持って欲しい。


【七夕の話】

 ザワザワザワ……
 すぐ近くでは小さな子供たちのざわめきが聞こえてくる。
 それを聞きながら、俺は胸まで伸びた白い髭を撫でた。
 今日の俺は奇怪な格好をしている。
 真っ白な裃―――のような服。衣装担当の雪音ちゃんに言わせると『天帝』の服装なのだそうだ。
 そんな俺の隣に立つのは姉の乙音さん。
 彼女は牛の格好をしていた。白黒のモーモーパジャマの胸のふくらみは魅力的ではあるが、首から上を見て萎える。
 かなり本物に近い、グロテスクな牛の首をすっぽりとかぶっているのである。
 思わず俺は西欧のミノタウロスの♀版を想像してしまう。
 そんな彼女の後ろには、美しい着物を纏ったショートカットの女性。
 そしてその隣には牛飼いの格好をした青年。
 この2人はこの春にウチのアパートに引っ越してきた101と102の住人である。
 引越しの挨拶をされた時くらいの関係だ。
 今までは、だが。
 こんな俺達4人がいるのは近所の保育園の、わずか1時間でセットされた舞台の裏。
 反対側の舞台袖にいる雪音ちゃんがこちらに視線を移し、グッと親指を立てた。
 それが開始の合図だった。
 「それじゃ、みんな! 七夕の物語を始めるよー」
 元気な雪音ちゃんの声が響くと同時、これまで騒がしかった子供たちのざわめきが一瞬にして収まる。
 「それじゃ、頑張りますかね」
 101の青年が力なさげに小さく微笑みながら、牛な乙音さんを伴って舞台へとあがって行った。
 園児たちの歓声が生まれるのが分かった。
 「まったく」
 思わず俺は声を漏らす。
 これまでの経緯はこんな感じである―――


 しなびた爺が俺の部屋を訪れたのは一週間前のこと。
 「家主命令じゃ」
 それは旅行好きな家主。半年ぶりに出会って最初の一言がそれかよ。
 「何です、命令っていうのは??」
 「ホレ、近所の保育園は知っておるじゃろう?」
 爺さんはあごで西の方を指し示す。
 100mほど行った所にたしか保育園があったと思う。
 「そこでお前達に七夕の劇をしてもらいたいのじゃ」
 「劇?」
 というかそれ以前に、
 「お前達??」
 爺さんの後ろには同じように引っ張られてきた階下の2人の住人と、隣の姉妹が困った顔で立ち竦んでいる。
 「謝礼は家賃2ヶ月分じゃ。さぁ手伝え、さっさと手伝え、すぐ手伝え」
 爺の申し出はなかなか魅力的ではある。
 家賃2ヶ月分となると、かなり生活費が浮いてくることになるし。
 「まぁ、いいか」
 「いいですよ」
 「やりましょう」
 「分かりました」
 住人それぞれが首を縦に振るのを確認した爺は満足げに頷くと、台本と思われるものを隣の雪音ちゃんに手渡した。
 「それではあとは頼んだぞ。ワシはこれからオーストラリアに飛ぶでの」
 「「おぃ!!」」
 こうして一切合財を雪音ちゃんに任せた爺は、俺達の静止の声を聞かずに飛び出していたのである。
 唖然とする俺達は、取りあえず爺の置いていった台本を見てみることにした。
 それは織姫と彦星の物語。
 しかし、
 「私が知っているのと、ちょっと違うお話ですね」
 「そうですか? むしろ俺はなんとなく知ってたけど詳しくは知らなかった口なんですが」
 「それって、桃太郎のお話はみんな知っているけれど、金太郎のお話は知っている人が少ないというのに似ていますね」
 「んー、そんな感じですかねぇ」
 答える俺に、
 「これは織女牽牛伝説という、中国での七夕の物語ですね」
 102に住む女性が言った。
 「日本のとは違うのかい?」
 101の男性の問いに、
 「ええ。日本の織姫彦星の物語は、えっと、その」
 「彦星が覗き魔でなのよね」
 「ま、まぁ、そんな感じです」
 雪音ちゃんの言葉に102の女性は頷く。
 そう、日本の織姫彦星の物語では2人の出会いは水浴びをしている天女であるところの織姫の羽衣を、たまたま通りがかった彦星が盗んでしまうところから始まるのだが。
 爺の置いていった台本はちょっと違うものだった。
 「元になったのはこの中国の故事ですが、話の趣旨がちょっと違うんですよ」
 「なるほど」
 「ねぇ」
 俺と101の男性は、そろって頷いたのだった。
 ともあれ、こうして俺達5人は七夕前に保育園で寸劇をする羽目となったのである。
 ちなみに後から分かったことだが、爺はその保育園の園長でもあったのだ。
 園長不在の保育園……経営によくもまぁ困らないものである―――


 そして本番当日。
 雪音ちゃんのナレーションの下で物語りは展開していく。
 『むかしむかし、天帝という神様が星空を支配していたころ』
 パッと舞台の左側がライトアップ。
 そこでは102の女性が舞台ではたを織っている。
 『天の川の西の岸に、織姫という天帝の娘が住んでおりました。彼女ははた織りが上手で、織った布は雲錦と呼ばれ色も柄も美しく丈夫で着心地も軽い、素晴らしいものでした』
 ライトが消え、今度は舞台の右側がライトアップされた。
 そこには101の牛飼の青年と、牛の格好の乙音さん。
 『一方、天の川の東の岸には牛飼いの青年、牽牛が住んでおりました。牽牛は毎日天の川で牛を洗い草を食べさせたりと、よく牛の面倒をみる働き者でした』
 そして俺の出番。
 右側のライトは消え、舞台の中央に立つ俺に当たる。
 『天帝はくる日もくる日も、働いてばかりいる娘を心配して娘の結婚相手をさがすことにしました』
 俺が両手にするはたくさんの見合い写真。
 と、それを放り出し、舞台の右側を見つめる。
 再び舞台右側がライトアップされた。
 「牽牛よ、まじめによく働く牽牛よ、わしの娘、織姫と夫婦にならぬか?」
 驚き顔の101の青年。
 と、舞台左側もライトアップ。
 102の女性がじっと彼を見つめている。
 「牽牛よ」
 「はっ!」
 牽牛は恐縮しつつ、顔を上げて言った。
 「天帝様。私のような者には夢のようなお話でございます。ありがたくお受けさせていただきます」
 ふと織姫の方に目をやると、わずかに頬を赤らめた102の女性がいた。
 細かい演技が巧い様だ。
 『こうして織女も働き者の牽牛をたいへん気に入り、2人はめでたく夫婦となりました』
 ここで一旦、舞台はブラックアウト。
 そしてライトアップされる頃には、舞台中央で絵に描いたようにいちゃいちゃするバカップル化した101の青年と102の女性の姿があった。
 ……妙にこなれている様に見えるのは気のせいだろうか??
 『ところが一緒に暮らすようになると、2人は朝から晩まで天の川のほとりでおしゃべりばかりをしています』
 何故か手作り弁当を囲んでの彦星と織姫。
 「彦星、あーんして」
 「あーん」
 「美味しい?」
 「織姫の作るものなら何でも美味しいさ」
 「彦星…」
 「織姫…」
 見詰め合う2人は半径2mの世界の住人だった。
 「「BooBoo!」」
 園児達から野次が飛ぶ。まったく堂に入ったバカップルどもだ。
 『これを見た天帝は』
 俺の出番だ。
 「おまえたち、そろそろ仕事をはじめたらどうだ?」
 『と戒めますが、牽牛と織姫は』
 「は〜い」
 「明日からやりま〜す」
 『と答えるばかりで、いつになっても仕事をはじめる様子がありません』
 「働けー」
 「遊んでばかりいるなー」
 園児達の野次。ガキに働けと言われるようになっちゃ、大人失格だ。
 『織女が布を織らなくなってしまったため、機織り機にはホコリがつもり、天界にはいつになっても新しい布が届きません』
 そして舞台左側にスポットライトが当てられる。
 『また牽牛が世話をしていた牛もやせ細って、倒れてしまいました』
 パタリと倒れる乙音さん。
 申し訳無いが、俺には腹がいっぱいになって寝ているようにしか見えない。
 『業を煮やした天帝はとうとう2人を引き離したのです!』
 俺は彦星と織姫の間に入り込み、手にした杖を高く掲げた。
 すると2人は左右にそれぞれ弾かれ、俺の足元には青い紙で作った川が流れて2人を隔ててしまう。
 『しかし少し哀れに思った天帝は1年に1度、7月7日の夜だけ天の川を渡って、会うことを許したのです』
 そして川を挟んで両岸で彦星は牛の世話を、織姫ははたを折り始める。
 『こうして今でも2人は7月7日に会えるのを楽しみにして、天の川の両岸で一生懸命働いているのです』
 ぱたん
 ライトが消え、そして舞台に明かりが灯る。
 俺達5人は整列し、意外と行儀良く見てくれていた園児達に一礼。
 パチパチパチパチ………
 そんな拍手に、
 「遊んでばかりいないで」
 「ちゃんとお勉強もしなきゃダメだよ♪」
 彦星と織姫の声が飛ぶ。
 すると一瞬拍手が止まり、
 「「いや、アンタらに言われたくないですから」」
 園児達から冷静なツッコミが入ったのだった。将来が楽しみな園児達ではある。


 こうして俺達の七夕は終わりを告げた。
 この後、園児達とともに何年ぶりになるだろう、短冊に願い事を書いて竹に吊るした。
 各々がどんな願い事を書いたかは……秘密である。


【天然毒舌】

 「面白かったよ、恵美ちゃん」
 「よかったー♪」
 雪音が笑顔で鞄からとり出したのはハードカバーの書物。
 題名は『バカの壁』とある。
 「この一冊で、アタシの人生変わったよ」
 「感動した?」
 「したした、超しまくりっ」
 薄い胸をはって告げる雪音をうれしそうに恵美は見つめるが、ふと視線を彼女の背後に向けた。
 「あ、先生」
 そこには次の授業である古文を受け持つ新任教師・中西春菜の姿。
 小さく首を傾げつつ、彼女は何気なく言った。
 「あらあら、たかだか一冊の本に大きな影響を受けるほど、貴女の人生って薄っぺらなのね」
 「「は、春菜先生?!」」
 「感動っていうのも、どの程度なのかしらね。安易に使いすぎじゃないかしら」
 そんな春菜先生を、雪音と恵美は唖然と見つめるのみだ。
 「ん? どーしたの??」
 首を傾げる彼女に悪意は見られない。
 「あー」
 「い、いえ。なんでもないです」
 顔をそらして引き下がる2人。
 「そう? さ、授業を始めるわよ!」
 教室全体にそう言って教壇へと上がっていく。
 天然系毒舌魔王、ここに降臨。


【蔵書処分と愛着】

 狭い部屋は堆く積まれた書籍で足の踏み場もないほどだ。
 「一体これはどうしたことだ、おい!」
 玄関の戸を開けるなり、亮はそう叫んでいた。
 「あー、亮クン。こっちこっち」
 本の壁の向こう、僅かな隙間から乙音の姿が見え隠れする。
 ここはお隣の若桜姉妹の部屋。間取りは亮の部屋と同じはずなのだが。
 「どこにこんな大量の本を今まで置いていたんだ??」
 彼は首を傾げてブツブツ言いながら、本の山の間を跨ぎながら奥へ。
 本の向こうには埃で薄汚れたエプロンを身に付けた乙音が額に浮かんだ汗を袖で拭いながら彼を待っていた。
 「助かります、亮クン」
 「で、どれとどれとどれを古本屋に持っていくんです?」
 彼の問いに彼女は両手を真横に広げ、
 「ここからそっち全部です」
 「……え?」
 「だから、ここからそっち全部」
 「何冊あるんじゃーーー!!」
 「えっと、3千くらい?」
 「うわ、真顔で返答きた」
 溜息一つ、亮は足元の一冊を手に取る。
 『細菌学入門』
 分厚い学術書らしきハードカバーの一冊だった。
 その下にあったのは『プロの為の手編みテクニック 第3集』とある。
 「見事にジャンルがばらばらですね。ちゃんと読んだんですか?」
 「失礼ね、隅々まで穴が開くほど読みました!」
 頬を膨らませて乙音は畳まれたダンボール数個を亮に手渡す。
 それを亮は慣れた手つきで広げ、まずは足元の書籍を詰めていった。
 「そもそもこんなに大量の本、いままでどこに隠し持ってたんです?」
 若桜姉妹の部屋には本棚がない。
 「どこって、押入れですよ?」
 こんこんと、彼女は押入れの襖を片手で叩く。
 ”押入れの総容量よりも多いだろ、この本の数は”
 そんなツッコミは心の中だけで留めておくことにする。
 「しかし、確かに事故が起きる前に処分しておいてよかった」
 亮は一人、小さくそう呟いた。乙音が急に「本を処分するから手伝って!」と言い出したのは亮の部屋にあった古新聞の記事を見たからだ。
 『古雑誌を貯めに貯めて、うん十年。部屋の床が抜けて重体』
 何年か前の記事だ。
 そんなまるでギャグのような話は紙面の向こうだけの話かと思っていたのだが、それを読んだ乙音の「ヤバ」という一言を聞いてしまったのが始まりだった。
 「本当は処分したくないんですけどね。仕方ありません」
 「この機会に全部処分するわけには?」
 「それは無理です。そこからこっちのは絶対に保存版なんですからね」
 彼女が両手を広げ、身を以って守ろうとするのは部屋の3分の1くらいの書物――千冊くらいか?
 「減らしてもまだそんなに取っておくんですか。案外ビブロマニアなんですね」
 「亮クンもそうじゃないですか」
 「オレ? そんなことないですよ。乙音さんと違って、この機会に全部処分しますし」
 時同じくして彼も部屋の書籍類を整理していたのだ。
 整理とは言っても、読み終えた本や漫画を全部ダンボールに詰めただけなのだが。
 「全部?」
 「全部ですよ。情報なんて一度取ってしまえばそれまでですし」
 上目遣いで訊いてくる乙音に亮は怪訝な表情で頷く。
 「ふーん。じゃ机の裏に何冊か置いてあるのは、あれはなんでしょうね? 処分し忘れかな、かなぁ?」
 「ぬぉ、なんでそれを知って…」
 「今でも変わらず、巨乳派?」
 「さぁ、さっさとダンボールに詰めましょう」
 「むー」
 何か言いたそうな乙音の言葉を無視し、亮は作業の手を早める。
 やがて、すべて片付くころには外は日が暮れる直前だった。
 「大家さんに軽トラ借りれて良かったですね」
 助手席に乗り込みながら乙音。
 「積載量オーバーっぽいけどね」
 エンジンをかけて亮。ギアを一速に入れてアクセルを踏む。
 「重っ」
 「大丈夫?」
 「安全運転で行きましょう」
 こうして荷台をダンボールで満載にした軽トラは、若干ふらふらと揺れながらアパートを後にしたのだった。


 夜。
 「いやぁ、まさか出張買取サービスってのがあるなんてね」
 「この半日の苦労は一体…」
 帰り道で購入した酒とつまみで一杯やりながら、2人は愚痴をこぼす。
 「で、いくらで売れたの?」
 それを横で見ていた雪音の問いに、2人は。
 「「酒代で消えました」」
 共にコップをあおりながら答える。
 「次はいい持ち主が現れると良いね、古本達」
 雪音は大きく溜息をついて、ここからは遠く見えない古本屋の方向を眺めてそう思うのだった。

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