若桜さんが到来


【三国志の話】

 「やっぱり魏延だと思うの」
 「魏延ですか??」
 「ええ。しっかりお仕事しているにもかかわらずに、演義の方ではすっかり悪者になっちゃってる…そんな不遇な扱いがなんとも言えずに良いと思いません?」
 「それは病気じゃありませんか、乙音さん」
 ひょんなところから俺は乙音さんと三国志について語っていた。
 今話しているのは『一番好きな武将は?』である。
 「そんな亮クンは誰なのよ?」
 「俺は諸葛謹ですね」
 「…亮クンって、若乃花好きでしょ?」
 「…そーきますか」
 「ああ、もぅ! 聞いてればバカなことばっかり言って!」
 そんな2人の会話に怒鳴り込んできたのは雪音である。
 「どーしてそんなマイナーというか、いてもいなくても良いような武将なのよっ!」
 「「あ、怒るところはそこなんだー」」
 てっきり三国志という漢らしい話題に怒っていたのかと思っていた亮と乙音であった。


【クーラーその2】

 「おおおっ!」
 雪音は驚きの声を上げていた。
 彼女達の住む部屋の大広間には、今までなかったものが壁に輝いていたのだ。
 クーラーである。
 「と、とうとう入れたのですね、姉上! これで…これで夜は安眠ですね!!」
 「ええ、そうね」
 言われ、姉の乙音は満足げに頷く。
 「これで朝も春眠暁を覚えずを不言実行よ」
 「いや、それはそれでダメでは??」
 ともあれ、乙音はクーラーのリモコンをON。
 その瞬間だ!
 バツン!
 音が響き、部屋の中が沈黙した。
 「あ、あら??」
 「もしかして、ブレーカーが落ちたんじゃ??」
 「へ??」
 結局、電気量を増やす別工事が必要になったそうな。


【愛・地球博】

 午前10時ジャスト。
 3人が新幹線から下り立ったのは、名古屋駅だった。
 そこから地下鉄東山線に乗り換え、「藤ケ丘」駅へ。
 「げっ」
 そこで目の前に広がる風景に絶句したのは、一人の青年。
 その隣ではツインテールの少女が「うわぁ」とか「うひゃぁ」とかただひたすらに感嘆の声を挙げている。
 「これくらいで驚くのは早いと思うけど?」
 残る一人、長い髪の女性はしかし余裕の表情で、目の前に展開する『行列』に並び始めた。
 しぶしぶ青年と少女も後に習う。
 この藤ヶ丘駅からは愛知高速交通東部丘陵線、愛称リニモが走っている。
 日本初の磁気浮上式リニアモーターカー(HSST方式)の常設実用路線として採用されたこの鉄道は、「万博会場」駅へと至る。
 今、この万博会場ではその駅名通りに万博が、『愛・地球博』が開催されているのだ。
 この3人が訪れたのは、亮の呟きを乙音が実行に変えたためであった。
 すなわち。
 「3連休かぁ、どこか行きたいなぁ……そういえば万博ってやってたよなぁ。人あんまり入ってないって噂だけど。行ってみようかなぁ」
 「行きましょう」
 「うわぁ、乙音さん、いつの間に俺の部屋に?!」
 「独り言多いですよ、亮クン」
 という次第である。
 3連休の後ろ2つを使って3人は名古屋へとやってきた。閑古鳥が鳴いていると思っていた万博会場を目指して。
 しかしながら前評判とは異なり、目の前の会場へ至るリニモに乗るための列は40分待ち。
 不評という噂だが、そこそこ人は入っているようだ。
 「まさか会場に入る前に並ぶとは思いませんでしたね」
 「そう? 甘いですよ、亮クン。私はよくコミケに行く…じゃなかった、何故かこういうの慣れてますから」
 「え、コミ? 何ですか?」
 「私、何も言ってませんよ?」
 「ねぇ、雪音ちゃん。コミ…なんて言ってた?」
 「……聴いて無かったよ、うん」
 姉に睨まれ、下手に口を出さずに黙る雪音。
 亮は首を傾げつつ、話題を収めた。
 こうして3人はおとなしく並んで、リニモに乗りこむ。
 「案外揺れるんだね、亮お兄ちゃん?」
 「加速と減速はするからね。そればかりはどうしようもないと思うよ」
 「でも」
 と、こちらは乙音。
 「さすがに音は静かですね」
 「そうですね、車輪ありませんし」
 感心しつつ、リニモは10数分で万博会場駅へと到達した。
 「「?!?!?!」」
 駅を下りてすぐのところで、3人は絶句。
 今度ばかりは乙音も呆気にとられて目の前に広がる光景を見つめている。
 目の前には広い広い万博への入り口。陽光が照り付け、地面にものを熱している。
 そこは今は、人人人、すし詰め状態の人だかりが延々と広がっていたのだ。
 「え、えーっと、これって……何かのパビリオンの行列かしら?」
 呟く乙音の肩に、とんとんと亮が手で叩き、人々が向く先を指差す。
 『ENTRANCE(入り口)』
 「で、でもでも、全然前に進んでないよっ?!」
 雪音が半ば泣きそうな目を向けて叫んだ。
 彼女の言う通り、まるで壁のような入場街の人々はその足が動く気配が無い。
 「しかし、並ぶしかないんだろね、これは」
 疲れ果てた顔の亮に、
 「ううっ」
 雪音は泣きそうな顔で従い、
 「日傘を持ってくれば良かったわね」
 天上からの熱と、人々の熱気に押されながら乙音は呟いた。
 彼らが入り口まで達し、そこで入念な荷物検査と金属探知機による検査を受けるまでにおよそ1時間の時間を要したのだった。


 「空港よりも厳重なチェックでしたね」
 額の汗をすでに水分を吸い込むことの無いハンカチで拭きながら亮。
 「さて、気を取り直してたくさん見ましょう」
 「はーい♪」
 「そうですね」
 乙音の言葉に雪音と亮は頷く。3人はまずはTVなどで良く紹介されている企業ブースへと足を伸ばす、が。
 「うわっ、180待ちだって、姉上!」
 「270分待ちですね、こっちは。乙音さんの見てきたトヨタ館はどうでしたか?」
 「受付すら、してませんでしたわ」
 人気企業ブースどころか、ありとあらゆるブースに長蛇の列ができている。
 「亮クン、並ぶ?」
 「いえ、これは……ちょっと無理ですね」
 亮は空を見上げてそう答える。
 日が地上へと、さんさんと光を降り注いでいる。この中で2時間3時間並ぶのは乙音や雪音にはかなりの負担であるし、亮ですら熱中症になれる自信がある。
 「そう言えば『予約券』っていうのがあるのを聞いたけど?」
 雪音は前もって見てきたガイドブックにあったキーワードを出す。
 前もって配布されているそれがあれば、並ぶことなしに各パビリオンに入ることができるのだが。
 「ああ、予約券の配布の列はアレだね」
 亮はとあるパビリオンで配布されている予約券の『列』を発見した。
 配布予定のその列は90分待ちとある。
 「ねぇ、お兄ちゃん」
 「なんだい?」
 「アタシ、予約券の意味を知りたいんだけど」
 「うん、俺も知りたいよ」
 炎天下、人ごみの中で2人はぶつけるところの無い怒りに震える拳をただただ黙って握る。
 「お兄ちゃん、喉乾いたね」
 怒っていても仕方が無い、雪音はそれ以前に炎天下で起こり得る症状を述べた。
 すなわち「何か飲みたい」だ。
 「そうだね、あ、ほら、あそこに自販機が」
 亮が指し示したのは自動販売機。
 と、それに並ぶ長蛇の列。
 よくよく見ると、本来並ぶことなど無いと思われるものにも行列ができてしまっている。
 トイレはもちろんのこと、みやげもの屋からコンビニ、飲食店など全てだ。
 「「………マジですか??」」
 「ほら、いつまでもそんなところに立ってないで。あんまり並ばないところから行きましょう」
 そんな乙音の声に我に返る。
 乙音が指し示す場所は、各国のパビリオン。
 世界各国が自身の国の紹介を行っており、
 「万博って、本来はこっちなんですよね」
 亮は苦く笑って足を向ける。
 「そうそう、でも」
 溜息一つ。
 「地味なんですよねぇ」


 夜8時。
 まだまだ会場は盛り上がりの衰えを見せない。
 夜の10時まで会場自体は開いているのだ。
 3人はすでに名古屋市内への電車に揺られていた。
 JR「万博八草駅」から名古屋駅へ直通運転しているエキスポシャトル。
 行きとは異なり、少し大回りではあるが乗換えが少なくて楽ではある。
 「有名なところは見れませんでしたけど、面白かったですね」
 乙音はかなり疲れた顔で、しかし楽しげにそう言った。
 「そうですね、欧米のブースはどこもこんでいましたけど、アジアやアフリカ、南アメリカ方面はあまり並びませんでしたし」
 「見栄えは同だったかって言うと、ちょっとアレだけどね」
 雪音がそう付け加えた。
 「でも結構堪能してたじゃないの。東アジア方面のブースで優雅に紅茶飲んだり、王様気分でくつろいだり」
 「ま、まぁ、そうだけど……アタシとしてはメキシコのブースで聞いた演奏が良かったかな、多分歌ってた人達の1人は絶対ホセって名前だよ」
 「そ、そう?? 私はアフリカで聞いた音楽と踊りが良かったなぁ、亮クンは?」
 「俺は…そうですね、ミャンマーで見た笛の演奏会ですかね」
 「ああ、あれは良い音でしたし」
 「後ろで琴みたいのを演奏していた女の子がチャイナドレスに似た民族衣装を着ていて素敵だったところですね……って乙音さん、どうして足を踏むんですかっ!? 雪音ちゃんまで?! 痛っっ」
 「……ま、ものすごい混んでいましたけど、ちゃんと楽しめましたね」
 「そうですね」
 「そうだね」
 3人は顔を見合わせ、微笑む。
 そして亮は問うた。一番重要なことを。
 「で、明日は……どうします?」
 「「スルーの方向で」」
 即答の2人。
 翌日は名古屋観光になったとさ。


【Yukine in the summer】

 「あー、涼しいなー」
 雪音は可愛らしい花柄のシーツの敷かれたベットに腰掛け、大きく背伸び。
 その様子を笑いながら眺めているのは、彼女のクラスメートであるところの相馬 恵美だ。
 「雪音ちゃんちもクーラーあったんじゃなかったっけ?」
 彼女の私室。椅子に腰掛けながら、恵美は煎れたばかりの紅茶を一口。
 「うーん、あるにはあったんけどね。すっごい古くて、今年とうとう水が噴き出して壊れちゃった」
 「……へ? 水が出るの??」
 「あ、恵美ちゃんは知らないかも。うちにあったのは据え置き型の……そうだね、タンスくらいの大きさのクーラーだったんだよ」
 「タンス??」
 それは1975年辺りに普及していた、排気口は窓に取り付けるタイプのとてつもなく大きなモノである。
 このタイプは現在、出力を非常に大きくすることにより業務用としてのみ販売されているらしい。
 「で、うちのアパートは勝手に壁に穴をあけたら大家に叱られるから、エアコン取りつけられないの」
 「うわー、熱帯夜とか辛そうだね」
 「うん、扇風機だけじゃねぇ。でもまぁ」
 同じく紅茶を一口、雪音は唇を潤すと、
 「エアコン付けたとしても、冷蔵庫とかTVを消さないとブレーカー落ちるだろうし」
 そこに悲痛なモノを感じ、恵美は慌てて話題を変える。
 「そ、そうだ、雪音ちゃん。こんなに暑いんだから……プール、プールにでも行かない?」
 「プール?」
 「そう、近所の市民プールだけどね」
 「プールかぁ……うん、行こう、すぐ行こう、さっさと行こう!」
 紅茶を一飲みで空にすると、雪音は恵美の腕を引っ張った。
 「あ、えと、雪音ちゃん、水着は?」
 「あ、そうだった。じゃ入り口に30分後に集合ってことで!」
 「うん」
 恵美が頷くや否や、雪音は艦載機のように彼女の部屋を飛び出して行く。
 玄関口の方で「お邪魔しましたー!」という元気な声と、「あらあら、またいらしてね」という穏やかな恵美の母の声が聞こえてきた。
 「さて、水着水着っと」
 恵美はタンスを開けて、昨年買ったツーピースを取り出す。
 と、その手が止まる。
 「まさか、雪音ちゃん」
 彼女が見えるはずもない、窓の外に視線を走らせ呟いた。
 「スクール水着でなんか、来ないよね」


 来た。
 案の定、学校指定のスクール水着だった。
 胸のところには大きく「2‐B 若桜」とか書かれている。
 「ん、どうしたの、恵美ちゃん?」
 「ううん、なんでもないよー」
 2−Bと書かれたのを見ても小学生には見えないしな、中学生に見られるんだろうなぁ、高校生には見られないよね。
 などと、甚だ失礼なことを考えつつも、水着の上から黄色いパーカーを羽織った恵美はプールを見渡す。
 昨今、隣の県の流れるプールで排水溝に子供が吸いこまれてなくなるという惨事があったせいか、どことなく子供の姿は少ないようにも思える。
 「さ、泳ごう!」
 「うん」
 2人はプールサイドへと小走りに向かう。その間に恵美はパーカーを脱ぐ。
 刺すような夏の太陽がじりじりと白い肌を焼いていく。
 と。
 水を前にして雪音の動きが止まっていた。
 「どうしたの?」
 雪音の視線は恵美自身。
 その胸に止まっていた。
 「恵美ちゃん」
 「ん?」
 「いつのまにそんなに胸が大きくなったの?」
 一気に恵美の頬が上気する。そして、
 「もぅ、ヤダー!」
 どん!
 「ぅ」
 雪音の平らな胸に強烈な掌底の一撃。雪音はモロにくらって宙を舞い、
 どばーん!
 ごす!
 水音と新たな打撃音を響かせて、プールの水面に派手な水柱を演出した。
 ぴぴーー!!
 続いて、監視員のけたたましい笛の音が響く。
 「飛び込み禁止だよ!」
 「す、すいません」
 頭を下げる恵美と、
 「あたたたた」
 水面に顔を出す雪音。その目の前に一人の男性が顔を下にして浮かぶ。
 後頭部に大きなこぶを作って。
 「げ、ヤバ!!」
 雪音は慌てて彼を引っ張り上げ、プールサイドに横たえた。
 「げ」
 絶句は二度目。
 「ごめんね、雪音ちゃんって……え?!」
 駆け寄る恵美も声を止める。
 雪音の意識しなかった踵落としを食らって白目をむいて気を失っていたのは、同級生である市松 京也だったからだ。
 「市松くん、どうしちゃったの??」
 「なんか恵美ちゃんに突き落とされたときに下にいたみたい」
 「え、私のせい?!」
 「え、アタシのせいなの?!」
 しばらく2人の間で沈黙が生まれ、
 「と、とにかく雪音ちゃん、人工呼吸をっ!」
 「人工呼吸?! どうやってやるの?!」
 「そりゃもちろん、マウストゥマウスに決まってるでしょ!」
 「恵美ちゃん、お手本を!」
 「それは無理」
 「うぁ、真顔だよ……」
 恵美の目が怖いので、雪音は市松を見つめる。
 どう見ても息をしていなかった。おまけにぴくりとも動かない。
 背後で不審に思ったのだろう、プールの監視員が近づいてくる気配があった。
 監視員に任せるかっ!
 思わず後を振りかえる。
 「う」
 恵美を優に越えた胸の持ち主の監視員さんだった。おまけにかなり可愛い。
 雪音は想像する。市松に可愛い監視員さんが人工呼吸をするところを。
 それは……常識的に、道徳的に許されることではなかった。
 そんな羨ましい目に市松をあわせてはいけない。
 だから、
 「起きんかぁ!」
 どず!
 雪音のコブシが市松のストマック(胃)に入った。
 「ぐはっ!」
 水以外の何かも吐き出した気がする。
 「ぐぉぉぉぉ」
 腹を押さえながら七転八倒する市松。
 それを唖然と見つめる監視員さん。同様の恵美。
 「無問題!」
 びしっと雪音は親指を立てた。
 その彼女の細い両肩が、がっしりと後から掴まれる。
 「き、きさま、何か恨みがあるのか……」
 この世の怨嗟全てを背負ったかのような市松が、背後から雪音に迫る。
 「い、いやぁ」
 額に汗しながら雪音は首だけ後ろを振り返り、
 「隙ありだゾ、市松♪」
 「ならば貴様も隙ありだぁぁ!」
 市松の投げっぱなしジャーマンにによって雪音は再びプールの中に叩き落される。
 途端、ぴぴー、と笛が鳴り「ジャーマン禁止!」とメガホンで怒鳴られるのだった。


 「市松くん、大丈夫?」
 「あぁ、まぁな」
 濡れタオルを相馬から受け取った市松は、後頭部にそれを当てる。
 「イチマツなんか心配する必要ないって、恵美ちゃん」
 「……あぁ、脳が痛い」
 「痛がるほど脳あるの?」
 ニヤニヤ笑いながら言う雪音を彼はジロリと睨み、視線を隣の恵美へ。
 視線は彼女の胸を一瞥すると、その高さのまま雪音に戻った。
 「そういうお前は……いや、何でもない」
 ぷぃとそのまま視線を遠く彼方へやりながら、彼は大きくため息と共に呟いたのだった。
 「ちょ、何よ、今、何言おうとしたのよっ?!」
 思わず両手で胸を押さえて雪音。
 「あー、うん、まぁ、そのなんだ」
 彼は妙に優しい目で雪音を見つめ、ぽんとその肩を叩く。
 「落ち込むなよ」
 「…………………ちくしょーーーー! 恵美ちゃんのあほーーーー!」
 「えぇ?! 私なの?!?!」
 雪音は泣きながらプールに飛び込み、クロールで遥か彼方へ消えていく。
 「あーあ、言いすぎよ、市松くん」
 「え、何も言ってないぞ」
 それを見送った恵美は、ため息と共に「まったく」と呟き、
 「ところで市松くんはどうしてここに?」
 「どうしてもこうしても…」
 市松は青い空を見上げる。
 つられて恵美もまた空を見上げた。
 容赦のない太陽の光が地上に住まうもの達に照り付けている。
 空と地上との間には、隔てる雲すらない状況だ。
 「理由なんて、必要か?」
 「それもそうね……でも一人で来たの?」
 「いや」
 市松の言葉が途切れる前に、
 「あ、兄ちゃんみーっけ」
 「いたいたー」
 小学生になったばかりくらいだろうか、良く似た男の子と女の子が市松の背中に貼りついた。
 それを見て恵美は、
 「あら、お子さん?」
 「お前、思ったよりもボケているのか、感じが悪いのかどちらかだな」
 「市松くんは冗談が分からない人なのね」
 2人の間に微妙な空気が生まれた。
 と、その空気の間に彼女が唐突に飛び込んできた。
 「あれあれあれ?? もしかしてイチマツのブラザー&シスター?」
 雪音である。
 「おかえり、雪音ちゃん」
 「たっだいまー♪ プール一周してきたよ!」
 全長250mの流れるプール。これを逆流で泳いできた雪音であった。
 「早っ」
 「そんなことより。ね、イチマツ?」
 「あぁ、弟と妹だ。双子でね。今年、小学に上がったばかりでな」
 「へー」
 雪音は市松の背中で隠れるようにして(主に雪音を)覗う2人の横へしゃがみこむ。
 視線の高さを合わせ、
 「アタシ、雪音。アナタ達のお名前は?」
 2人は互いに顔を見合わせ、小さく頷くと、
 「涼夜」と男の子。
 「沙耶」と女の子。
 「なるー、涼夜くんと沙耶ちゃんか。よろしくね」
 言って彼女は両手をそれぞれに差し出した。
 雪音の手を2人は見つめ、そして再び互いに見詰め合い、頷くと。
 それぞれに雪音の手を取った。
 「よーし、今日はお姉ちゃんと思いっきり遊ぼうね♪」
 太陽のような笑顔で言うやいなや、2人の手を取りながらプールへ駆けて行く。
 双子もまた、彼女の早さに負けじと全力疾走でプールへと飛び込んだ。
 そんな後姿を眺めつつ、市松は感嘆の息を漏らした。
 「へぇ、アイツら人見知りが激しいと思ってたんだけどな」
 「私は雪音ちゃんの方にびっくりしたわ」
 市松は恵美の言葉に首をひねる。
 「雪音ちゃん、次女だから一度お姉さんになりたかったのかも」
 「あぁ、そういうことか」
 プールにて本気で水のかけあいをする3人を眺めつつ、市松は納得する。
 「でも最終的には精神年齢が近いから、姉役は務まりそうもなさそうだが」
 涼夜のスライディングタックルで転倒した雪音に、どこから持ってきたのかバケツで水をかける沙耶という光景を見つめつつ、市松は苦笑い。
 「そうかしら? 案外巧くやるような気もするけど」
 恵美は小さく笑いつつ、そう言い残すと3人に小走りに近づいていく。
 やがて4人で遊び始めるのを市松は満足そうに眺め、再び空を見上げた。
 眩しい太陽に目を細め、そして。
 「保護者が傍観しているわけにも行かない、か」
 呟くと、彼もまた4人の輪に加わる。
 空気そのものが熱を帯び、『夏』としか表現することが出来ない馬鹿なほど晴れた日の出来事であった―――


 どん、どどん!
 上空では花火の音が響いている。
 視線を前に移せば、人人人、人の波。
 どどどん、どん!
 地上の喧騒を余所に、空では予定通りに花が咲いては散っている。
 「うー、これほどまでに混んでいるとはー」
 雪音は一人、人の海の中で呆然としていた。
 彼女の纏う淡い空色の下地に赤い彼岸花のポイントが入った浴衣は汗を吸っている。
 人ごみの中に居たというだけではない、運動の証だ。
 ここはこの街を縦断する河川の河川敷。
 普段は犬の散歩をする人か、少年野球くらいにしか使わないこの長細い地は、人で溢れかえっている。
 花火大会―――
 全国的に見れば埋没してしまうくらいに規模の小さいモノだが、地元の人間にとっては夏を彩る欠かせないイベントの1つだ。
 雪音は市民プールで、恵美及び市松ブラザーズと別れ際にこう約束していた。
 「夕方に河川敷で会いましょう、花火大会だしね」
 そう広くもない河川敷だから、それ以上の場所の特定はしていなかったのが甘かった。
 「あーあ、まー、しーょがないかー」
 露店でラムネを1本購入。
 ぷしゅっと手際良く開栓して一口。
 どーん!
 どどん!
 どん!!
 夜空にオレンジ色の大輪の花が咲き誇る。
 「たーまやー」
 小さく呟いてみた。
 手にしたラムネ瓶にオレンジ色の光が模様となって映え、そして消えて行く。
 どん
 どーん!
 静かに、雪音は空を見上げる。
 「なんだか、変なの」
 一人、呟く。
 「同じモノを観ているのに、どこに居るか分からないなんてね」
 浮かぶ笑みはどこか寂しげだ。
 どどん、どーん!!
 ひときわ大きな花火が咲く。
 大柳だ。
 「姉上も家で観るって言ってたし……そうすると亮お兄ちゃんも、多分観てるんだろうな」
 すぐ頭上に振りかかりそうな花火の軌跡をぼんやりと眺めながら思う。
 同じ花火を、きっと2人で仲良く眺めているんだろう。
 ビールを片手に、楽しげに。
 そこに交じりたい、とは思っていない。
 けれど、
 「何でアタシ、一人なんだろ」
 どん!
 一際眩しい花火が、地上に居る人々を、雪音を照らす。
 その時だった。
 「あ、いたいた、雪音ちゃーん!」
 その声は彼女の右手から。
 「こんなところに居やがったか」
 「雪音ねーちゃん!」
 「雪音おねえちゃーん♪」
 そして三重奏は彼女の左手から。
 「あ……」
 きょとんと、雪音は右手からの恵美と、左手からの市松ブラザーズを見つめる。
 「どうしたの?」
 「昼間泳ぎすぎて疲れたか?」
 首を傾げる恵美と市松に問われ、
 「ん、ううん。ただ」
 彼女は嬉しそうに笑い、空を見上げる。
 それに釣られて、彼らもまた夜空を見上げた。
 ドン!
 この大会で一番大きな花が咲いた。
 白とオレンジと、赤の火花が夜に散る。
 「きれいだなーって思って」
 「そりゃ」
 「まぁ」
 市松と恵美は顔を見合わせ、
 「「今のが最後だし」」
 「えーーーー!!」
 さっそく人の引き始める河川敷。
 程なくして人はまばらとなる。
 「うー、花火大会がウォーリーを探せ大会になったよー」
 相変わらず肩を落とす雪音に、恵美は優しく肩を叩く。
 「こんなこともあろうかと、こんなのを用意してきました」
 「なになに?」
 「恵美お姉ちゃん、それなにー?」
 涼夜と沙耶の問いに、恵美は手にしたビニール袋から何かを取り出した。
 「じゃーん」
 効果音付きだ。
 「あーっ」
 「花火だー」
 「え?」
 雪音は顔を上げる。恵美が取り出したのは花火セットだった。
 「用意が良いな、相馬」
 「まぁね。涼夜と沙耶ちゃんもいるし、無駄にはならないかなと思って」
 「よぉっし!」
 全身に力みなぎる雪音。
 「さぁ、これからがホントウの花火大会よっ!」
 なお、何故かライターを所持していた市松を雪音が怒るのは、花火を切らした直後のことである。
 タバコは20になってからだっ!

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