12.シェーラとイフリーナと特大ケーキ

 時がゆっくり流れていく…いや、そんな事は有り得ない…イフリーテスはゆっくりと頭を振った。
 体内時計は正確に時を刻んでいる。だがイフリーテスは長い時間が経っているような気がしてしょうがなかった。
 実際にはイフリータに事情を話してからさほど時間は経っていない。しかし押し黙ったままのイフリータを見つめるイフリーテスには一分が十分にも感じられていた。イフリータの姿は何か考えているように思えるのだがその視線はマリエルを追っており興味がないようにも見える。
 更に数分が経った頃イフリーテスの焦る気持ちが伝わったのかイフリータは初めて彼女の方を見た。イフリーテスの表情が強ばる。だがイフリータの言葉は予想外のものだった。
 「もっと肩の力を抜け。それでは良い考えも浮かばないぞ」
 思わず苦笑するイフリーテス。つい先ほど同じ事をファトラからも言われたばかりだ。
 「どうした、変な顔をして」
 「ううん…同じ事をファトラ姫からも言われたのよ」
 「そうか。所でさっきの話だが」
 その言葉にイフリーテスは再び緊張する。自分でも分かってはいるのだがどうしようもない。
 だがイフリータは今度はなにも言わず言葉を続けた。
 「答えは三つあると思う」
 「三つ?」
 「そうだ。一つ目はファトラ達が言うようにわざと陣内が欲しがるような情報を流してやりイフリーナを外へ出すことは期待以上のメリットがあると思わせること、懐柔策だ。そして次は強攻策、一定期間イフリーナが姿を見せないときはバグロム城へ攻撃を加えると通達する」
 「ちょっと待ってよ姉さん。そんなことしたらファトラ姫との約束を破ることになるし、それにもしもあの子が私達と戦うよう命じられたらどうするのよ」
 イフリーテスの抗議に表情を変えることなく答えるイフリータ。
 「絶対に攻撃しないと約束した覚えはない。場合によっては仕方がないとファトラも言っている。また仮にイフリーナが戦いを命令されたとしても無駄だ。確かにイフリーナは最強と言って良いだろう。だが戦いを嫌っている以上その力を発揮することはできない」
 「それって姉さん、またあの子と戦うと言うの?」 信じられないという表情で問い質す。
 「そうではない。イフリーナは戦いたくないのだ。無理に戦うことはない」
 「どういう事?」 今度は首を傾げる。
 「簡単だ。連中の目の届かない所へ移動しそこで休んでいればいい。そしてその間にお前が」
 「バグロム城を叩けば良いのね。なるほど、さすが姉さん!イフリーナちゃんは嘘が言えるから姉さんには逃げられたとか適当なことを言えばいいんだし」
 「そうだ。だが完全に破壊してはならない。軽く撫でる程度で十分だろう」
 「それって私が軽くと思う程度で良いのかしら?」
 「構わない。こちらが本気だと言うことを分からせればいい。だがお前が本気で攻撃を加えたら城が崩壊する。そうなったらイフリーナが悲しむから軽くだ」
 「分かったわ。先日のうっぷんを晴らせるという訳ね♪」
 笑いながら同意するイフリーテスだったがまたイフリータから窘められる。
 「まだそうと決まったわけではない。それに最後の案を説明していない。話はちゃんと最後まで聞いた方が良いぞ」
 その言葉に再び苦笑する。同じく先ほどファトラから言われたばかりだった。
 「三つ目だが、何もしない。このまま放っておく、と言うものだ」
 今度は驚きの表情を向けるイフリーテス。慌てて確かめる。
 「ちょっと姉さん、何もしないってそれはまずいんじゃないの?」
 「陣内の命令は茶と菓子の入手だ。イフリーナはそれらをバグロムへ持ち帰ることができれば作戦は終了、イフリーナは褒められこそすれ文句を言われる筋合いはない」
 「それはそうだけど…」 納得がいかない面もちだ。
 「お前もそうだがファトラ達も深く考えすぎているのではないか?私にはあの外道がそこまで気を回すとも思えないのだが」
 そう言われ今度はじっと考え込む。確かに普通の反応をあの男に求めるのは無理ではある…。
 「あのパラノイアが欲しているのは結果だけだ。それさえクリアできれば他のことを気にするとは思えない」
 「確かにその通りね。逆に私たちが何かしたことによってあの子の立場が悪くなることもあるかもしれないし…そうなるとまずはこのままあの子の好きにさせといてもしあの子が軟禁されるようなことになったらその時は」 にやりと笑うイフリーテス。
 「そうだ。あの身の程知らずを思う存分しばくことができる」 イフリータも同じく笑みを見せる。
 「えっ手加減するんじゃなかったの?」
 「お前はな。だが私はその必要がない」
 「あ、なるほど…羨ましいなあ…私なんかあの害虫相手にこれ以上手加減したら欲求不満になりそうだわ」
 「仕方がない。イフリーナが自由になるまでの辛抱だ」
 「自由か…ねえ、あの子が自由になれる日は来るのかしら…」
 「さあな…そう願うしかあるまい」
 「そうね、希望だけは持ってないとね」
 神妙な面もちで二人が話しているところへ花をいっぱい抱えたマリエルが戻ってきた。
 「ほらイフリータ、綺麗でしょ」
 「そうだな。だが冠はもう作っただろう。どうするのだ?」
 「違うよ。まだ一つしか作ってないもの」
 「もう一つ作るの?」
 「うん。最初のはルーン姫様、そしてもう一つはファトラ姫様の分だよ」
 「ファトラ姫の?」
 「うん。ここにいる間お世話になるし、それにイフリーナお姉ちゃんを許してくれたんだもん」
 無邪気に答えるマリエルを見つめる二人。もっともその想いには多少開きがある。
 イフリーテスはマリエルが幼いなりにルーン達に感謝の気持ちを表したいと思っていることに感心し、同時にイフリーナのことを気遣っていてくれことが嬉しかった。
 それに対しイフリータはマリエルが感謝の意を表したいと思うのは良いがルーン所有の庭園で摘んだ花を使ってはその意味も半減するのではと考えていた。だがイフリーテス同様彼女がイフリーナのことを想ってくれたことには感謝した。
 マリエルは二人に微笑み摘んだばかりの花で冠を作り出した。



 翌朝、マリエルの診察が始まった。
 だが診察を行うアフラは疲れたような表情をしている。
 いやアフラだけではない。その場に立ち会っている誠や菜々美達、そしてイフリーナも同様であった。
 それに対しルーンはいつも通り元気だったし、イフリータとイフリーテスもいつもと変わらないように見える。だが時折心配そうな表情を見せていた。
 そしてファトラは…まだ寝ていた。もっとも彼女に朝早く起きろと言う方に無理がある。
 アフラはマリエルに問診を行っているがその疲れたような表情から経緯を窺い知ることができない。
 疲れているとは言え状況が気にかかるのは誠達も同じで室内は緊迫感が漂い始めていた。それを感じ取ったのかマリエルの表情も硬くなる。アフラはほっと溜息をついた。
 「あんたらそんな怖い顔をしたらあきまへん。マリエルが怯えてますえ」
 「だけどアフラさんもみんなと同じ顔をししてるわよ」
 イフリーテスの言葉に周りも頷く。
 「あのう…昨夜何かあったのでしょうか?アフラ様だけでなく皆様一様に疲れたようなお顔をしていますけど…」
 「王女様、まだ報告を受けてないんですか?」 意外そうに誠が問い掛けた。
 ルーンは頬を染めながら返答する。
 「ええ…昨夜はちょっとお酒を飲み過ぎたみたいで…その、起きたのはついさっきなんです。その代わりぐっすり眠れましたが…やはり何かあったのですか?」
 ルーンの問いに戸惑いの表情を見せる誠。どう答えたらいいものやら考え込む。
 それを見たイフリーテスがにやりと笑った。
 「何かあったのかイフリーテス?」 イフリータは怪訝そうな表情を見せる。
 「聞きたい?」 笑みを見せながら聞き返すイフリーテス。実に楽しそうだ。
 一方誠は慌ててイフリーテスに向かって歩き出す。何とか阻止したいと思ったからなのだが
 「誠ちゃん、ルーン王女の傍にいなきゃ駄目じゃない。あなたは王女様付きの侍女なんだから♪」 イフリーテスがこれまた楽しそうに制止した。
 「誠様、何があったのかお聞かせ願えませんか」 何があったのかを知りたいからではなく、周りが知っているのに自分だけ知らないのはやはり嫌なものである。
 「ルーン王女、私からご説明いたしましょう。アフラさんその間休憩にしましょうよ」
 イフリーテスのばか丁寧な提案に頷く両名。マリエルはイフリータの隣に戻り寄りかかった。
 全員が車座に座った所へイフリーナと誠がお茶を入れて回る。誠はイフリーテスの耳元でなにか囁いていたが彼女は笑うだけであった。
 またイフリーナの傍ではサリナがお茶の入れ方や出し方を指導している。イフリーナは一生懸命聴いているのだがなかなかうまくいかない。さすがにこぼすことはないが緊張した面もちでお茶を入れて回っていた。
 そんなイフリーナを見て微笑むイフリーテス。イフリータに囁きかける。
 「姉さん、やはりここに来たのは正解だったわね」
 「そうだな……礼儀か。よく分からないが人と人を繋ぐものみたいだな」 柳眉を寄せる。
 「ん〜ちょっと違うわね。相手に敬意を払っていることを示すもの、人とのつき合いを円滑に行うためのってとこかしら。そうね、常識の程度を示す指針にもなるみたいよ」
 「どういう事だ?」 更に寄せる。
 「そうねえ…例えばルーン王女はこの国だけでなく同盟においても宗主、つまりエルハザードの人間界では一番偉い人でしょ。そう言う人に対していきなり対等の口調で話し掛けるのはマズイってこと」
 「だがここにいる者は皆気軽に話し掛けているが?」 混乱してきたようだ。
 「アフラさん達は大神官だし、誠ちゃんもつき合い長いからじゃないの」
 「絶対にいけないという訳ではないのだな」 むりやり納得しようとしている。
 「まあ色々有るみたいよ。その辺も慣れるしかないみたいだけどね」
 「では礼儀というものも覚えることにしよう」 取り敢えずは落ち着いたようだ。
 二人の会話が終わる頃誠達も給仕が終わった。だが誠は不安そうな顔でイフリーテスを見る。しきりに目配せを行っているが当のイフリーテスは全然気にしていないようだ。
 誠の顔に汗が滲む、だがそんな顔をしているのは誠だけで他はやや疲れたような、そして思い出し笑いを浮かべる者もいた。
 「それでイフリーテスさん、昨夜は何があったのですか?」
 ルーンはできるだけトーンを落として問い掛ける。興味津々なのを悟られたくないためなのだがさすがに表情までは誤魔化せない。目が生き生きしている。
 イフリーテスは誠をちらと見てから話し出した。
 「そうですねえ…取り敢えずは王女が覚えていないと思われる辺りからお話ししましょうか…」



 昨夜はイフリータ、イフリーテス、そしてマリエルの歓迎会となった。
 イフリーナについては表だってその名を出すのは差し障りがあるため伏せられている。それに彼女は早速侍女として働き始めていた。もっとも要領が掴めないためアレーレとサリナのサポートを受けながらではある。
 そう言う意味では誠も同様であった。ファトラの、お姫様の影武者は経験十分であったが侍女としての経験値はゼロ。加えてそれなりに気配りはするもののそれが空回りしている所もありかなり注意していた。もっとも一度飲み込めばそれほど苦にはならなかったようであるが。
 そんな中ファトラがルーンに酒を勧めていた。本来ルーンは余り飲まないのだが、美味しそうに酒を飲んでいるイフリーテスからの返杯とファトラが誠にルーンへ酌ををするよう命じ、誠も素直に応えたためつい杯を重ねてしまった。
 酒と言っても果実酒、カクテルみたいなものなのだが口当たりが良い代わりに度数の見当が付かない。酌は誠だったが新しいグラスを作るのはイフリーナの役目だった。
 もちろんファトラの命だったのだがもう一つ命じたことがあった。
 それは、徐々に度数を上げること、である。
 なんの疑いもなく従うイフリーナ。当然のことながら数杯重ねただけでルーンは酩酊状態になっていた。
 誠は侍女であるため後に控えるようにしておりルーンも一応そのように扱っていたのだが、突然ルーンは誠の方を向き話し掛ける。
 「ちょっとファトラ、わらしの前に来なさい!」
 「え?僕、いや私はファトラ様では…」
 「何を言っているのれすか。ほらわらしのまえに」 強引に誠を正面に座らせる。
 「あ、あのう王女様…かなり酔ってるようにみえるんですけど…」
 「わらしは酔ってなんかいまへん。それよりもあなたはろうしてそうおちつきがないのれすか。もっとこう…ロシュタリアのらいに王女としてれすねえ」
 突然説教が始まった。それを見てほくそ笑むファトラ。ルーンに背を向けイフリーナに酌をさせながらのんびりと酒を飲む。
 「あの、僕はファトラさんやなくて誠なんですが」 説得を試みる誠。
 「まことしゃま?…何を言っているのれすか。隣にアレーレがいるじゃないれすか。そんなごまかひはききまへんよ」
 慌てて隣を見る誠。確かにアレーレがちょこんと座っている。ぎょっとする誠に寄りかかるアレーレ。決定的だ。ファトラの方を見ると杯を片手にこちらを見て笑っている。
 誠は観念するしかなかった。
 もっともルーンの説教もすぐに終わる。酔いが回り眠ってしまったからだ。
 ほっとする誠に残念そうなファトラ。だが酔いつぶれた王女を放って置くわけにもいかずファトラは周りにいる侍女達に指示を出しルーンを運び出した。



 ルーンはイフリーテスの話を聞き顔が一気に赤くなる。誠が言葉を濁そうとしたのも理解できた。
 また被害者の誠も困ったような顔をしている。イフリーテスに何か言いたかったのだが言っても無駄であることは分かり切っている。大人しくルーンの後に控えるしかなかった。
 「そんな顔しないでよ。面白いのはここからなんだから」
 その言葉にルーンの表情が引きつる。
 「大丈夫だって。あの後ルーン王女はお部屋で寝てただけで何もしてないから」
 「は、はあ…と言うことはその後で私に報告しなくてはならないようなことが起きたのでしょうか?」
 「そう言うこと。だから安心して聞いて頂戴ね」
 にっこり笑ってイフリーテスは話を続けた。



 ルーンが退場させられた後、眠そうなマリエルを連れてイフリータも部屋へ戻った。マリエルを寝かせた後で戻ってきたらというイフリーテスの提案を断ったイフリータだったが答える前にちょっと思案した。以前の彼女だったら即答していただろう。
 イフリーテスも無理に引き留めることもせずマリエルにお休みを言った。
 マリエルの手を引いて部屋を出るイフリータを見送ってからファトラが口を開く。
 「変わったな。宴を楽しんでいる感じではなかったが会話には耳を傾けていたな」
 「そうどすな。部屋に戻る際も少し残念な表情をしてたように見えましたわ」
 「やはり周りに触発されたんやないですか?イフリーテスさんやイフリーナはごく普通に人と接していますし」
 侍女であることも忘れ誠が口を挟んだ。本来なら注意されるところだが宴会の最中であるのと表向き誠のメインの役目はモデルであるため問題にはならなかった。
 シェーラがイフリーナに酒を注いでもらいながら話す。
 「だけどよう愛想笑いするイフリータってのは余り想像できねえぜ」
 「そんなことないわよ。姉さん一生懸命学習しようとしてるんだもの、必ず感情を理解できるようになるわ」 反論するイフリーテス。
 「そうですな。努力は何らかの形で実を結ぶもんです。イフリータさんも今はあんな感じですがいつかイフリーテスさんのような笑顔を見せるとおもいますよ」
 藤沢の言葉は実に教師らしいと言えるのだが、もう少し状況というものを考えるべきだった。
 イフリーテスは頬を紅潮させ藤沢の傍に駆け寄るついでにミーズを跳ね飛ばし藤沢の手を握りしめた。
 「有り難うございます藤沢様!ああやはり藤沢様は私を見ていて下さってたんですね。だから私のような笑顔と…私…私一生ついていきます!ええ決して離れませんとも!!」
 「何するのよ!あなたは!!」
 復活したミーズがイフリーテスへドロップキックを仕掛けるがイフリーテスは目は藤沢に向けたまま片手でそれを受け止める。
 酒で赤くなっていた藤沢の顔が変色した。当然酔いも吹き飛び逃げようと腰を浮かせるが今度はミーズから抱きしめられる。もっともミーズの目はイフリーテスを睨めつけていた。
 「あ、あのうミーズさん。生徒が見ていますのでそのう…」
 「そうようミーズさん、大神官ともあろうお方がそんな破廉恥なことをしちゃいけませんわよ」 ミーズから目を逸らさず静かに話し掛ける。
 「フン、馬鹿も休み休み言いなさい。私と藤沢様は相思相愛、誰が見たって立派なラブラブカップルなのよ。どこの馬の骨ともしれないようなガラクタはあっちへ行ったら」
 「えっ?!誰と誰がラブラブですって?そんなデマを流すと困るのは自分自身ですわよ。それと藤沢様にもご迷惑だしぃ」
 「きぃ〜なんですって!」 「だから怒るとしわが増えますって」 「私のどこにしわがあるって言うのよ!」
 藤沢を挟んで再び対峙する二人。昼間と違うのは野次馬も賭をする者もいないことであるのだが、同時に二人を止めようとする者もいなかった。ロンズがいれば止めに入ったかもしれないが彼は警備責任者として指揮を執っている。
 二人の対決が始まるやシェーラ達は藤沢から離れた所に移動した。ファトラの傍ではおろおろしているイフリーナを誠が宥めている。そしてファトラはと言うと、この騒動を肴に酒を呑んでいた。
 のんびりと酒を呑むファトラに誠が恐る恐る問い掛ける。
 「あのうファトラさん、ほっといてええんですか?イフリーテスさんも城では大人しくしてるって言うたやないですか」
 「構わぬ無礼講じゃ。それよりも誠、酌をせぬか。今宵お主は侍女、しっかりと奉仕せよ」
 「ですが…」
 「だから傍へ来ぬか」
 そう言って誠を抱き寄せるようにして強引に隣へ座らせる。そして誠の顎に手をやり自分の方を向かせた。
 「美しい…やはりお主が一番美しいのう。どうじゃ誠、ずっとその姿でわらわに仕えぬか。悪いようにはせぬぞ」
 「ファ、ファトラさんアホなことは言わんと…」
 精一杯抵抗する誠だったがファトラの手から逃げることができない。
 「ふふふ…逃げても無駄じゃ。それに暴れると痛い目を見るぞ。もっともそれも楽しみであるがな」
 誠は潤んだようなファトラの目を見て背中に悪寒が走るのを感じた。しかし体が動かない。ファトラの唇が近付いてくるのを見て誠は観念したように目を閉じた。
 それを見ていたイフリーナは止めに入りたかったもののそれが侍女として正しい行動なのか判断できず悩んでいたしイフリーテスはミーズと藤沢の取り合いで忙しい。またシェーラとアフラは何事もないかの如く振る舞っていた。
 絶体絶命かと思われた誠を助けたのは菜々美である。彼女はイフリータとイフリーテスに頼まれて料理を作っていたのだがたまたま手が空いたので感想を聞きに来たのだった。
 誠に迫るファトラを見た菜々美は叫ぶより早くファトラへ駆け寄り手にしたおたまでファトラを狙う。だが当たる寸前ファトラは体を沈めた。菜々美も避けられたことは分かったが勢いを止めることができない。パカンという乾いた音を残して誠が倒れた。
 「危ない奴じゃな。当たったらどうするつもりじゃ」 軽い調子で話すファトラ。
 「当たったらってあなたを狙ったのよ!なんで避けるの、まこっちゃんに当たっちゃったじゃない!」
 「うむ、誠が身を挺して守ってくれたお陰でわらわは怪我一つせずに済んだ。礼を言うぞ」 誠に対し軽く頭を下げる。
 「なに馬鹿なこと言ってんのよ!まこっちゃんがそんなことするはずないでしょ!大体何よ、まこっちゃんを女装させたのはそれが目的だったの!!」
 「そう言うわけではない。だがこの美しい顔を見ているとついな」 今度は妖しい笑顔を見せる。
 「自分の顔を見て何が楽しいよ!あなたみたいのをナルシスト、変態というのよ!」
 「美しいものを美しいと言って何が悪いのじゃ。ほれこの姿美しかろう」 そう言いながら誠を抱き起こす。
 「何やってんの!まこっちゃんから離れなさい!」
 「ふふ…今宵誠は侍女、雇い主であるわらわが何をしても構うまい」
 こちらもきな臭くなってきた。シェーラとアフラは更に移動を行う。ちなみに誠は当たり所が悪かったのか気を失っておりファトラのなすがままであった。その後ではイフリーナがおろおろしながら二人の顔を交互に見つめている。
 もっとも周りの侍女達は対して気にすることなく給仕を続けている。アレーレも菜々美と口論(?)しているファトラの杯に酒を足していた。
 「イフリーナ、そんなとこいねえでこっちへ来いよ」 あたふたしているイフリーナを気の毒に思ったのかシェーラが声をかけた。
 イフリーナは困ったような顔でシェーラを見る。名指しで呼ばれた以上行かなくてはと思う反面、誠を挟んで対峙する二人を放っておくのも気が引ける。どうすべきか悩み出した所で再度呼ばれた。
 「そっちはアレーレに任しときな。それよりも酒を頼むぜ」
 確かにシェーラの前にある杯は空になっていた。すぐに酒瓶を持っていく。
 「おっとすまねえな」
 イフリーナはシェーラとアフラの杯を満たした後一礼してファトラの所へ戻ろうとするが今度はアフラに呼び止められた。
 「イフリーナ、向こうは放っておいてよろしゅうおす。下手に手ぇ出すと怪我しますえ」
 「そうだぜ。いつものことなんだから好きにさせといて良いって。ここにいな」
 「ですが私はお仕事をしなくてはなりませんし…」
 「何もここで遊んでろと言っちゃいねえ。あたいに酒を注ぐのだって仕事のうちだぜ」
 「その通りどす。それに他の人たちは皆落ち着いているやおへんか。もっと周りの状況を見ないとあきまへんえ。一生懸命言われたことをやるのも大事ですが臨機応変に動くことも必要な事どす」
 「は、はあ…」 自信なさそうな顔をサリナの方へ向ける。彼女が大きく頷いたのを確認してからシェーラとアフラの後に控えた。
 「そんなとこにいねえでもっと前へ来いよ。知らねえ仲じゃないんだし」
 「いえ、私は仕事中です。侍女はご主人様やお客様へご奉仕するものであって普段はいるのかいないのか分からないくらいが丁度良いと伺いましたので…」
 「おめえって本当にマジメだな。もう少し手を抜かねえと疲れっちまうぜ」
 「ですがお仕事をきちんと終わらせないとご主人様に叱られますし…」
 相変わらず優等生的な答えを返すイフリーナにアフラが優しく微笑みかける。
 「ええやないかシェーラ。いつでも真面目に一生懸命に、それがこの子の持ち味かもしれまへん」
 「だけどよう…」
 「なあイフリーナ、仕事をちゃんとこなすことも大事どすがなぜそれをやっているのかを考えることも必要どすえ。自分はなんのために行っているのか、或いは誰のためにでもよろしい。人は目標があるから一生懸命になれるんどすえ」
 イフリーナはアフラの言葉に大きく頷く。
 「私は…ご主人様の御命令でもあるけど今はマリエルちゃんやお姉さん達のために働いているつもりです。たとえご主人様の命に背くことであってもマリエルちゃんを…」
 アフラは俯き加減に話すイフリーナの頭を軽く撫でる。
 「あんたは本当に優しい子やね。そやけど要領良くということも覚えんと。あんたは今マリエルやイフリータ達のためと言うた。だから一生懸命仕事をしていると。それは大変良いことやと思います。そやけどその先にある結果を考えんと」
 「結果ですか…」
 「そうや。もし今言うたことをそのまま陣内の前で言ったらどうなると思います」
 「そ、それは…お叱りを受けると思います。ですが私」
 アフラは必死に話そうとするイフリーナを制する。
 「ここで働くのが今回だけならそれでも良いかもしれまへん。そやけどあんたはこの先もここに来たいんやろ?まずくないやろうか」
 その言葉にはっとするイフリーナ。不安そうな顔をアフラへ向ける。
 「ええか、あんたがイフリータやマリエルのために働きたいという気持ち、それを忘れる必要はない。そやけどバグロム城へ戻ったら陣内のために仕事してきたと言わなあかんやろ」
 じっと考え込むイフリーナ。ややあって顔を上げる。
 「それが『要領良く』と言うことでしょうか?」
 「それだけがという訳やおへんが今のケースではそうやね。臨機応変、その場に応じた受け答えを行うことも必要どす」
 「場合によっては嘘を、自分の気持ちにも嘘を言わなくてはならないかもしれませんが…」
 シェーラとアフラは悲痛の表情に変わるイフリーナを優しく見つめる。
 「よろしいですか、白を黒と言えと言うとるわけではおへん。心が痛むかもしれまへんが場合によってはそれで丸く収まるときもある。その時の痛みを忘れんかったら大丈夫や」
 「そうだぜ。言うじゃねえか『嘘も方便』ってよ」
 二人に諭され頷くイフリーナを見てアフラは思わず苦笑する。意図していたわけではないが『イフリーナに嘘をつかせることが罰を与えることになる』というファトラの計画に荷担したような感じである。だがイフリーナのことを考えると仕方ないかもしれない。”嘘も方便やね” そう思い納得するアフラであった。



 さてアフラ達が真面目な話をしている間も周りでは熾烈な戦いが続いていた。
 アフラ達にとってミーズvsイフリーテスは頭が痛い話ではあったがイフリーテスはファトラとイフリータに対し『マリエルの件が片付くまで藤沢には手を出さない』という約束がある。今回は酒の席と言うことでファトラも大目に見ているようだがいざとなればイフリータを引っ張り出すことで収まるはずであった。
 だが菜々美vsファトラは初めて見るような気がする。本人達に自覚があるかどうかはおいといて大抵は菜々美の相手はルーンであったからだ。もしくは正しい表現かは分らないがファトラを交えた三つ巴。今回のようなパターンは珍しいと言える。
 先ほどアフラはファトラから『もしもルーンが動かないのなら』という話を聞いていたが実際に目にすると妙な感じであった。いまのファトラはどう見ても本気とは思えないからだ。もっともファトラもマリエルの治療が終わるまでは手を出さないと明言している。ファトラなりに約束を守っているのかもしれない。
 だがシェーラはその話は知らない。菜々美と誠を取り合っているような風のファトラを見て
 「女も男も見境なしかよ。ったく節操がない奴だな」 と呟く。そして自分が襲われたときのことを思い出したのかやや表情がきつくなった。
 それを見たイフリーナは何か言いかけたが『余計なことを言ってはならない』と言われたことを思い出し自重する。だがやはり気になるようだ。不機嫌そうなシェーラに酒を注いだり新しい肴を出したりしているが効果がない。困ったような顔でアフラに近付き耳元で囁いた。
 「ねえアフラさん、なんかシェーラさん機嫌悪そうなお顔されてますがどうしたんでしょうか」
 相談されたアフラはちらとシェーラの方を見てから答えた。
 「そうやね…なにか嫌なことでも思い出したんと違いますか」 その『なにか』は容易に想像が付く。
 「嫌なこと、ですか…」
 「そやから気にすることあらしまへん。どうしても気になるんやったら美味しいお酒でも飲ませておけばよろしゅうおす。あとは肴やね」
 「はぁ…お酒とお魚ですか…」
 何か考え込むイフリーナ。魚料理がどうとか呟いている。アフラは笑みを浮かべながら小声で話した。
 「魚やなく酒のつまみどすえ。珍しいもんでも出せばシェーラのことや、嫌なことは忘れてしまうと思いますえ」
 その言葉に頷きイフリーナは厨房へ向かった。アフラはそれを見送りながら皿に載っている料理を摘む。そして不機嫌そうにしているシェーラの方を向いたものの余計なことは言わない方が良いと判断したようだ。黙って杯に手を伸す。
 周りは相変わらず騒がしい。誠は目を覚ましたようだが二人を止めるどころか間に入ることさえできずにいたし藤沢の方も変わらずだ。
 ”恋は盲目とはよう言うたもんどすなあ” 菜々美とミーズは真剣であったがどう見てもファトラとイフリーテスは遊んでいる。周りから見れば明白なのだが本人達は気づかないようだ。菜々美と違い精神面でも修行し大神官にまで上り詰めたミーズでさえ必死になっている。
 ”ああはなりたくないもんどすなあ” アフラが決して二人の前では言えないようなことを考えているとイフリーナが戻ってきた。先ほどと違って表情が明るい。いや明るいというか実に嬉しそうだ。
 「ねえねえアフラさん、知ってました?」
 いきなり問い掛けてくる。アフラは苦笑しそうになるのを我慢し笑顔で答えた。
 「いや、なんどすか?」
 「さっき厨房でですねえこーんなおっきなケーキがあったんですよ」 大きく腕を広げてみせる。
 「ほう、それはすごいどすなあ」
 「でしょう。それに大きいだけじゃなくてすっごく美味しそうなんです!」
 今度は苦笑を隠せない。だがイフリーナは気にせず話を続けた。
 「それでですね、訊いてみたんですよ。これどうするんですかって。そしたらこのあとデザートとして出すそうなんです」
 「なるほど、それは楽しみどすなあ。そやけどあんたは侍女やから今ここで食べることはできないんと違いますか」 水を差すのも悪いとは思ったもののケーキが目の前にきてから言うよりは先に言っておく方が良いと思い口にする。
 その言葉にはっとするイフリーナ。途端に悲しそうな顔に変わる。アフラは嘆息してフォローした。
 「あんたの分は残しておきますからお部屋に戻ってから食べなはれ。ほらそんな顔せんと…ちゃんと一番美味しそうな所を取っておきますえ」
 イフリーナはぱっと顔を輝かせる。
 「ほんとですか!?」
 「ああほんまや。だから安心して仕事し」
 「はい!じゃあシェーラさんにお酒を」
 アフラは現金なイフリーナに再び嘆息する。
 ”ほんま疲れる…イフリータやイフリーテスが必死に守ろうとするのもよくわかりますなあ”
 一方イフリーナは笑顔でシェーラの杯に酒を注いでいる。もっともシェーラはイフリーナの顔を見ようともしない。なかなか機嫌が直らないシェーラだったが数杯重ねたところで仏頂面が驚きの表情に変わった。
 先ほどイフリーナが言っていた『大きなケーキ』が出てきたのだが、確かにでかい。長さは1mを超え、幅は70cm前後、高さも同じくらいある。
 「すっげえ…あんなでけぇケーキ初めて見たぜ…」
 「そうですよねえ。それにとっても美味しそうだし」
 「真ん中が特に美味そうだな」
 「え〜あそこは私が最初見たときから狙ってたんです。シェーラさんは他の部分にして下さい」
 「いやあたいもあそこが一番美味いと思う。イフリーナ、おめえは侍女なんだからここは客に譲るべきだぜ」
 「そんなぁ…ねえアフラさん、シェーラさんったらあんなこと言うんですよ」
 いきなり話を振られてしまった。再度アフラは溜息をつき話し出した。
 「シェーラ、ここはイフリーナに譲ったらどうや。あんたはいつでも食べられるやないか」
 「馬鹿言え、あんなケーキは他では絶対見られねえ。ここで負けたら女がすたるってもんだぜ」
 「私なんかバグロムへ戻ったらケーキなんて食べられないんです。絶対に譲れません!」
 こちらでも睨み合いが始まった。無駄かなと思いつつアフラは再びシェーラの説得を試みる。
 「シェーラ、あんた今まで充分飲み食いしとるやないか。その上ケーキなんて食べたら太りますえ」
 「ケーキは別腹って言うだろ。それにこちとらしっかり修行してんだ。毎日のほほんと過している誰かさんとは違うぜ」
 「え〜私だってちゃんとお仕事しているんです。遊んでなんかいません」
 「へん。あたいは『誰かさん』って言ったんだ。にも関わらず反応したってことはやっぱり心当たりがあるって証拠だぜ」
 「そんなことありません!シェーラさん、私の顔見ながら言ったじゃないですか。誰だってそう思いますよ」
 論点がずれてきた。アフラは首を振り、部屋へ戻るため立ち上がろうとした。その時である、不気味な声が部屋に響き渡った。
 「ふっふっふ…どうやら女性に大人気のようですな」
 その声に全員の動きが止まる。
 そして真っ先に反応したのはイフリーテスだった。宴会と言うことでゼンマイは部屋に置いており素手だったもののイフリーナを庇うようにその前に移動する。
 アフラとシェーラもすぐに立ち上がり身構えたがミーズはこれ幸いと怯えた表情で藤沢に抱きついていた。
 そしてファトラは杯を手にしたまま巨大ケーキを睨めつけている。その表情は先程までと違って真剣なものになっていた。
 「ま、まさか…」 おたまを握りしめたまま菜々美が呟く。
 全員がケーキに注目したときである。
 「ケーキが動いていますぅ…」
 イフリーナが言うとおりケーキが動いていた。外壁が盛り上がり何かが出てくる…。
 「あ、あれはストレルバウ博士!?」
 ケーキから出てきたものは手足、そして頭部と思われる部分である。全員が呆気にとられている間にも更に伸びる…と思われたがすぐに止った。
 それにしても不気味な姿だ。短く伸びた手足にはクリームがたっぷりついていて頭部はチョコまみれ、辛うじて顔の輪郭が分かる。だが明らかにストレルバウだ。そしてそれはぎこちなく手足を動かしたかと思うとすっと立ち上がった。
 「さあ好きなところから食べるがよい。ほれ、シェーラ殿とイフリーナは中央をご所望だったな」 そう言いながら手を腹部と思われる辺りに突き立てえぐる。
 「馬鹿なことを言ってんじゃないわよ。この子には指一本触れさせはしないわ!」
 先程までケーキだったものを睨めつけるイフリーテス。後にはイフリーナが怯えたようにすがりついている。
 「ふっふっふ、威勢がいいなイフリーテスよ。だがお前は素手でこの儂に勝てると思っているのかな?」 自信たっぷりである。
 「てやんでぃ!てめえなんざこのシェーラ様の方術でいちころだぜ、覚悟しな!」
 「ほほう、この部屋の中で炎の方術を使うと申されるのか。可燃物に加えアルコール度数が高い酒も見える。儂だけでは済みませぬな」
 残念ながらその通りである。シェーラやアフラ達はともかく誠達が無傷で済むとは思えない。シェーラは唇を噛んだ。
 「くっ…いや、方術が使えなくてもあたいにはこの拳がある!」
 だがストレルバウは余裕を見せている。その表情は窺い知れないが唇の動きからどうやら笑ったようだ。
 「ふっ、この儂がなんの準備もなくここへ来たと思うのかな?」
 「どういうことでぃ!」
 「この体を覆っているケーキ、これはただのスポンジではない!あらゆる衝撃を吸収・拡散することができるのじゃ。たとえイフリーテスが渾身の力を込めようとこの儂を傷つけることはできぬ」
 「厄介なものを作ったもんどすな。そやけどうちの風からは逃げられまへんえ」
 「無駄ですよアフラ殿。どうような攻撃も当たらねば無意味。儂の動きについてこれますかな?」
 にやりと笑うストレルバウ。チョコで真っ黒な顔に眼球と歯が白っぽく浮かぶ。それはたとえようもないほど不気味だった。
 余りの気色悪さにさすがのアフラも逃げたくなる。隣にいるシェーラも同様だった。だがイフリーテスはイフリーナを背にストレルバウを睨み付け一歩も引かない様相だ。
 僅かの時間であるが沈黙が場を支配する。イフリーテス達だけでなくミーズも藤沢から離れ構えていたのだが攻撃の隙を見つけきれずにいた。そして誠と菜々美は予想外の出来事にどうしたらいいのか分からずファトラの傍で呆けたようにケーキを身に纏ったストレルバウを眺めていた。
 「ストレルバウ」
 ファトラが呼びかける。彼女はストレルバウがそのおぞましい姿を現しても動じることなく一人座っていたのだがここに来て初めて動いた。呼びかけに応え、顔を向けたストレルバウへ手にした大杯を投げつける。もちろんそんなものでストレルバウを倒せるはずはない。ファトラの狙いは別にあった。
 「ぐわあぁぁぁ」
 絶叫するストレルバウ。大杯はケーキの角に突き刺さっているだけで彼にダメージは与えていない。だがストレルバウは手で顔を覆いうずくまった。
 「どうじゃ、純度99%の酒は?目に良く染みるであろう」 それって酒か?
 目が見えない上に余りの激痛であったがストレルバウはそれでも何とか立ち上がり、逃げようというのかふらつきながらも数歩動く。だがアフラ達が絶好の機会を逃がすはずはなかった。
 シェーラが小さい火の玉を飛ばす。ケーキにはアルコールが染みこんでおりあっと言う間にストレルバウの上半身(ケーキで覆われているのでどこからかはよく分からないが)を炎に包んだ。そしてその炎が他へ燃え移る前にアフラが風でストレルバウを被いそのまま外へ吹き飛ばす。
 火の玉となり飛んでいくストレルバウ。恐らく絶叫していると思われるが風に阻まれ誰の耳にも届かない。
 しかし、何とかストレルバウを撃退できたものの部屋の中はめちゃくちゃだ。アフラはストレルバウに絞って方術を放ったのだが周りに余波が出るのはどうしようもない。
 「やれやれだな、この様ではお開きにするしかないか。それにしてもしぶとい奴…こんなに早く復活してくるとは思わなんだ。警備を更に強化せねばなるまいな」 周りを見渡しながらファトラが呟く。
 「それはそうだけど…折角作った料理が台無し…博士、今度会ったらきっちりと保証してもらいますからね!」
 「保証って別に材料とかはお城で用意したものやろ?」
 不思議そうに問う誠だったが菜々美の目を見て思わず後ずさる。
 「あのねえまこっちゃん、この私が丹誠込めて作った料理が滅茶苦茶になったのよ。精神的苦痛の代償を請求するのは当然のことよ!」
 もうこれ以上何も言うまい、誠はそう思いながら大きく頷く。そして周りを見渡すといつの間にやらミーズは藤沢の傍へ戻っており「恐かったですわ」とか言いながら抱きついている。慌ててイフリーテスの方へ視線を移すが彼女は藤沢達には目もくれずイフリーナを宥めていた。
 ほっとして誠もイフリーナの傍へ行く。もちろん元気づけるためで他意はない。だが菜々美もすぐに後を追う。
 それを見たファトラは笑みを浮かべたもののすぐに誠を哀れむような目で見つめ、そして何も言わずアレーレーを伴って退出した。



 「ぐすっ、くすん」 イフリーナは大粒の涙を流している。
 「しっかりしなさいイフリーナちゃん。化け物はアフラさんとシェーラさんが退治してくれたわよ」
 イフリーテスが宥めるがなかなか泣きやもうとしない。シェーラ達も元気づけているのだが収まる気配はなかった。
 「イフリーナ大丈夫か?」
 誠が優しく声をかける。それに応えるようにイフリーナも顔を上げた。頬に涙が光る…。
 誠が気になる菜々美もさすがに何も言えない。ここは誠に任せようと思ったときイフリーナが何かを言おうとした。
 いや実際には何か言ったようなのだが声が小さく聞こえない。誠とイフリーテスはイフリーナの口許へ耳を持っていった。
 「ケーキが…
 思わず二人は顔を見合わせる。再度聞き直すが
 「ケーキが飛んで行っちゃいましたぁ…
 どうやら聞き違いではないらしい。再び顔を見合わせる。
 「あの…イフリーナ、君いま泣いとるんわ恐かったからやないのか?」
 「いえ恐かったです…だけどケーキが…食べたかったのに…」
 「なんだって?おめえケーキを食い損ねたんで泣いているってぇのか?」
 シェーラの問いに頷くイフリーナ。これにはその場にいた全員が虚脱感を覚えた。さすがにイフリーテスも苦笑を隠せない。
 「イフリーナちゃん、ケーキならいつでも食べられるじゃない。泣くんじゃないの」
 「だってバグロムに戻ったらもう食べられないんです。デザートにまたケーキが出るとも限りませんし…」 相変わらず涙目である。
 「確かにこんなことがあったんやから小さいのはともかく大きいのはもう出ないやろなあ」
 アフラは悪気はなかったのだがその一言で更にイフリーナの涙が増量した。
 そんなイフリーナにほっと溜息をついて菜々美が話しかける。
 「イフリーナ、私が作ってあげるわよ。あんなに大きいのは無理だけどね。その代わり味は保証するわよ」
 「ほんとですか!?ほんとに作ってくれるんですか!!」 大きな目を見開いて菜々美を見る。
 「ええ本当よ。とは言っても今日はもう無理だから明日私のお店にいらっしゃい。お茶と一緒に用意しておくわ」
 「ねえ菜々美ちゃん、私も良いかしら?それとマリエルも連れて行きたいんだけど」 珍しく控えめなイフリーテス。
 「もちろん喜んで作るわ。イフリータが食べないのは残念だけどみんなで来て頂戴」 にっこり笑って告げる。
 「みんなってことはあたい達も入っているんだよな?」
 「そうよ、ルーン王女やファトラさんは出てこれないかもしれないけどテイクアウトもできるしお昼までに人数を伝えて貰えればちゃんと席を用意しておくわ」
 「ほう菜々美はんにしては大サービスどすな」 笑みを浮かべながらアフラが問い掛けた。もっとも彼女には分かっていたのだが誠のために敢えて質問したのである。
 「そうね。ちょっとサービスし過ぎって気もするけどまこっちゃん余りお金持ってないしできるだけ安くしないと」
 「ちょっと菜々美ちゃん、なんで僕が!」
 「あらイフリーテスとイフリーナのお代は全てまこっちゃん持ちでしょ。マリエルはイフリーテスが連れてくるから当然含まれるし、さっきは危ないところをアフラさん達に救われたんだからお礼しなくっちゃ」
 「お礼やったら僕だけやのうて…」
 「だから安くするって言ったじゃない。その分私の奢りと思ってね♪」
 「じゃ、じゃあルーン王女達の分は」
 必死に食い下がる誠。ただでさえ給与は安いのにイフリーテス達の飲食代まで菜々美に請求されることになっている。無理はなかったのだが相手が悪かった。
 「普段お世話になってるんだからそれくらいしてもバチは当たらないわよ。それに王女達は多分来れないからお座敷代はかからないし、まこっちゃんも男なんだから細かいことを気にしちゃ駄目よ」
 誠はまだ言いたいことがあったものの確実に無駄であろうことを感じとった。
 「ありがとご主人様♪明日は女の子揃ってお茶会ね。楽しみだわぁ」
 「すんまへんなあ誠はん。無理にご馳走になったみたいで」
 「大丈夫だって。まこっちゃんはお城に住んでる上に着るものも支給してもらってるから外出しない限りお金を使うことないんだし、こんな時じゃないと使い道もなくてお金も泣いちゃうわよ」
 けらけら笑う菜々美に対し誠は表情が暗い。確かに城から出なければ出費はないのだが、朝は菜々美が用意するし昼は昼で菜々美の所へ行くか、そうでなければ菜々美が出前にやってくるので結局日に最低二度は菜々美の料理を食べている。(当然有料)
 確かにそれほど高いものでもないが誠のエンゲル係数は八割を軽く超えていた。イフリーテス達がいつまでいるのかは分からないが、誠の少ない蓄え(あること自体驚きでもあるが)がなくなる事だけは確実なようだ。
 もちろん誠は金に執着している訳ではないが時にはまとまった額も必要だし少しは残しておきたかったのである。
 借金、という選択肢もあるが菜々美からのそれは利子が恐いしファトラから借りようものなら何を要求されるか分かったものでない。かと言ってルーンには言えないし、藤沢は酒を呑むために生きているような感じで逆に借金を申し込まれたこともあり望み薄だった。
 結局諦めるしかない…がっくりと項垂れる誠であった。


[BACK] [TOP] [NEXT]