稲荷 Confidences
3. 本心≒恋心


 一日がすさまじく長かったと思う。
 それは後ろからついてくる彼女の存在のせいだ。
 「次は何だ? まだ講義があるのか?」
 時間は午後4時。辺りは早くも翳り始め、西の空には傾いた夕日がある。
 僕はサークルなどには所属していないので、あとはこのまま帰るだけ。
 「いや、もう帰りますよ」
 言っている間に駐輪場に辿り着く。
 自転車を引き出し、サドルに跨ってから前カゴにカバンを放りこんだ。
 僕は彼女に振り返り、
 「さ、行きますよ」
 「う、うむ」
 当然、朝のように後ろに腰掛けていくと思っていたので声をかけると、彼女の表情にはほんの少し驚いた様子が伺えた。
 「どうしました?」
 「いや、そうあっさりと『乗っても良い』ような態度を取られるとは思わなかったのでな」
 「朝、問答無用で乗ってたじゃないですか」
 「問答無用だったからこそ、帰りは断られると思ったのだが。まぁ、言葉に甘えるとしよう」
 言って、荷台に横座る。そして、
 「?」
 朝はなかった、彼女の両腕が僕の腰に遠慮がちにまわされた。
 「出発だ」
 「はいはい」
 自転車は出発する。
 早春とは言え、日が暮れるとぐっと寒くなる。
 帰り道は下り坂ばかりなので、伝わる寒さは朝よりも大きい。
 「ところで」
 「なんでしょう?」
 風を切りながら走る自転車上で、後ろから声が届く。
 「妹もこのようにして自転車に乗せているのか?」
 「してませんよ、危ないし」
 正直に答える。
 勾配の急な下り坂に入り、自転車のスピードが増した。
 頬を冷たい風が撫でていく。
 「そうか」
 呟きにも近いその答えはすぐ傍から。
 僕の腰に回された手に僅かに力が入り、背中に暖かい重さが伝わる。
 彼女の体温だ。
 「……」
 僕はそれを特に振りほどくこともなく。
 ぽつ
 「?」
 額に冷たいものが落ちてきた。
 ぽつぽつ
 「雨?」
 沈む夕日に青い空は夜の黒と混ざり合い、群青色に染まっている。
 そこには雨雲らしきものはない。
 が、雨が降る。
 始めはぽつぽつだったそれは、僅かに時間をおくことすらなくどしゃぶりに変わった。
 「うわっ、何で? どーして雨が?!」
 「傘はないのか?」
 「あるわけないでしょう!」
 「嘆かわしい」
 「あー、もぅ! どうして晴れてるのに雨なんかっ。そういやこういう雨って確か、狐の…」
 「そんなことより、急げ急げ!」
 急かされ、僕はノーブレーキで慣れ親しんだ道を突っ走る。
 しかしながら、アパートに到着する頃には2人とも全身ずぶ濡れになってしまっていた。
 「ついてないな」
 「まったくです」
 言いながら僕達は部屋に上がる。
 僕はバスタオルを彼女に渡し、
 「先にシャワーどうぞ。風邪引きますよ」
 「君の方が濡れていると思うが?」
 「レディファーストです」
 セーターを脱いでYシャツ姿になっている彼女から目をそらして、僕は急かした。
 何故ならYシャツの薄い生地が、雨のせいで彼女の肌にぴったりと張り付き、その下が透けて見えてしまっているから。
 それに恐らく気付いていないのであろう、彼女は満足げに頷き、
 「ふむ、良い心がけだな」
 言ってユニットバスへと消えていった。
 「ふぅ」
 僕は深い溜息を一つ。濡れた髪をタオルで拭き、シャツを取り敢えず新しいものに着替えた。
 そして彼女の着替え用に僕の使っているTシャツとスウェットパンツを用意し、ユニットバスの前に置いておく。
 「着替え、扉の前において置きますね」
 「…うむ」
 扉の向こうから小さな返答が聞こえてきた。
 僕はテレビをつける。ドラマの再放送が映っているので変え、ニュース番組にしておく。
 そのまま特に何も考えることなく、ぼーっとソレを眺めていた。
 番組内のニュースが5つほど紹介された頃だろうか。
 かちゃ
 ユニットバスの戸が開いて、彼女の気配が現れた。
 「服、ちょっと大きかったですか?」
 振り返り、問うて、僕は呆然とする。
 「ん? これか?」
 彼女は足元に置かれたままのシャツとパンツを一瞥。
 長い黒髪をタオルで拭きながら立つ彼女は、その身に一糸纏わぬ姿だったのだ。

稲荷姉迫るっ


 ほんのりと赤みを帯びた白い肌に、豊満と言える張りのある胸に視線が貼りつき、
 「どうした? 顔が赤いぞ?」
 僕は我に帰り、慌てて彼女に背を向ける。
 「な、な、な、なんで素っ裸でいるんです?! 服を着てください、服をっ!」
 「何を照れている?」
 「当たり前でしょう!」
 「君は以前、私の体を隅々まで洗ってくれたではないか。何を照れる理由があるのだ?」
 「はぃ?!」
 言うまでもなくそんな体験はない。
 「例の社で火事があった後のことだ。稲荷像を洗ってくれたではないか」
 「……ぇ」
 それは年始、カノジョと今の関係となる出来事の後のことだ。
 お稲荷様の力で元の姿に復旧した社だったが、カノジョと対に立つ稲荷像は火事の際に出た煤で真っ黒になっていたのだ。
 それがあまりにも可哀想だったので、たわしで水洗いしてあげた覚えがあるが………。
 「えっと、アレって……」
 「私だが? 知らなかったのか?」
 「で、でも! アレは石像だし、今は違うでしょうがっ!」
 「同じだよ」
 その声は僕のすぐ後ろだった。思わず振り向くと、目の前に彼女の顔がある。
 四つん這いになって僕のすぐ後ろで首を傾げていた。
 慌てて再び背中を向ける。
 「だから、私は恥ずかしくはないぞ。君に対しては、な」
 「だ、だからって裸でうろうろしないでくださいよ」
 「ふむ。妹は君の前でこうしたことはないのか?」
 「ノーコメントです」
 「そうか」
 何を言い出すのやら。
 しかし、
 「よもやもう一体の稲荷像だったとは思いもよらなかったですよ」
 いや、少し考えれば分かったことかもしれないが。
 「そう。妹と同じように、ずっと同じ景色を見てきたのだよ」
 静かに、背後で彼女は言う。
 「だから君のことも当然知っている。妹が君と今の関係になる前からね。そして」
 「?!」
 彼女の細い腕が、僕の首に回された。
 同時、背中に柔らかな暖かさが伝わってくる。
 雨に冷え切った僕の背中に、風呂上りの暖かい彼女の素肌が一枚のシャツ越しに貼りついているのだ。
 「な、なにを……」
 「妹が君に好意を抱いていたように、私もまた同じ気持ちだよ」
 甘い吐息を伴って、僕の耳元で彼女の声がくすぐる。
 「私では…私では、ダメ、かな? 妹ではなく、私では君の『カノジョ』にはなれないだろうか?」
 彼女自身、緊張を伴った問い。
 それは今までのような演技じみた「試す」要素をまるで除いた、素朴な問いかけに思える。
 背中に彼女の心音が伝わってくる。
 早い鼓動だ。そして僕の首にまわった腕には堅く力が入っている。
 彼女は投げかけた問いに対する正直な答えを待っていた。
 そう、思う。
 だから僕は答える、正直に―――
 「ごめん。僕にはとても大切で、好きな人がいるから。だからその気持ちには応えられないです」
 ピクリと、僕の首に回っている彼女の両腕が一瞬小さく震えた。
 「どれくらい、大切なのだ?」
 耳元に届くかすれた小さな声に、僕は自信をもって答える。
 「どんなことにも適当で空虚だった僕の白黒な世界に、色を描いてくれるんだ。楽しいことも辛いことも、カノジョと一緒なだけでしっかりとこの目で『見る』ことができる。今の僕の世界を僕と一緒に作ってくれる……それだけ大切な人だよ」
 「それは君の自分勝手ではないのかね? それでは妹はあくまで君の世界の脇役…ではないのかな?」
 「そう、だね。そうなるね。でも映画で言えば、いなくちゃ物語は進まないほど重要だ」
 「そうだな、そしてそれは君の、君だけの物語」
 「そうだね。でも僕は同じように、カノジョの物語の中で僕もまたそうありたいと思っている。そしてそうなれるように…今はまだ些細な努力にしか見えないだろうけど、カノジョと一緒に頑張っているつもりだよ」
 答え。
 僕の耳元に、彼女の吐息が一つくすぐった。
 それは、微笑みに属する小さな一息。
 こん
 小声で背後の彼女がそう呟いたような気がする。
 首にかかる彼女の両腕が離れ、背後が一瞬僅かに輝いた。
 振り返る。
 そこには昨日初めて会った時と同じ格好をした、巫女装束の彼女が立っている。
 髪の間から白いふさふさとしたキツネの耳を生やし、袴の裾から同じく白い九本の尻尾が覗いていた。
 「試験は合格、だ。妹も幸せ者だな、共に歩くことのできる人を見つけることができて」
 告げる彼女が浮かべる表情は微笑み。
 だがそこに僅かに見えるのは、何とも言えない寂しさと、付随する落胆の色。
 それは『人間如きを認めてしまった』ことなのか、それとも……先程の言葉は本気、だったのか。
 思い、僕は心の中で首を横に振った。
 それは分からないし、きっと分かったところでどうにもならない。
 一つ確かなのは、彼女自身が合格という判断を下したという事実であり、それだけで全ては一切合財決着がつく答えだ。
 「ただ忘れるなよ、人間」
 ゾクリとする笑みを一つ浮かべ、彼女は言う。
 「妹を捨てて泣かすようなことがあれば…どうなるか、覚悟せよ」
 「ああ、分かってる」
 僕の迷いない即答に彼女は頷くと、まるで霧のようにかすれ、そして消えた。
 それと同時だった。
 「ただいま!」
 がしゃり
 入り口の扉が開き、僕のカノジョが現れた。
 転がるように部屋に上がり、僕の胸にどすっと飛び込んだ。
 「おかえり。免許は取れた? ってか早かったな」
 カノジョが旅立ったのは昨日。
 旅立ち際の反応を思い出すと、何日もかかると思っていたんだけれど。
 そんな感想を抱きつつ、僕は胸の中のカノジョを見る、と。「
 「……浮気、しました?」
 「はぃ?」
 小さく頬を膨らませて僕を見上げている。
 「なんか女性の香りがします、それも…んー、よく知っているような」
 鼻をひくひくと動かして、キョロキョロと辺りを見渡す。
 「さっきまで君のお姉さんが来てたよ。僕が君にふさわしいかどうかを判断する!って言って」
 「ふぇ?!」
 カノジョはビクリとその身を震わせ、さらに速度をもって左右を見渡す。
 当然、探している相手はとうにいない。
 「で、で、で、ど、どうなったんですか?!」
 あわあわとしながら、完全にうろたえたカノジョは問うてくる。
 「色々あったけど、結局合格だって」
 「い、色々って?!」
 「大学の講義についてきたり、きつねうどん食べたり、ナンパされかけたり…そんな感じ」
 部屋であったことは言わないほうが良さそうだ。
 「そんなことくらいで姉は諦めたんですか?」
 「う、うん」
 何を『諦めた』のか……分からないようで分かるようで。
 カノジョは「うーん、そんなバカな」だとか「でもそう言ったのなら」だとかぶつぶつ呟いている。
 あまり姉妹仲は良くない、のだろうか?
 だから僕は話を戻すことにした。
 「それよりも早かったね。すんなり受かったみたいだね」
 「すんなりだなんて、いきませんよ。結局10日もかかってしまいましたし」
 「へ?」
 狐の王国とやらに旅立ったのは昨日の朝、だったが?
 「あぁ、あちらでは時間が10倍の速さで流れているんです。有名な竜宮城と逆、って言えば良いのかな?」
 この世界ではない、のだろうな。
 納得した僕に、カノジョは懐から一枚のカードを取り出した。
 それは免許書と同じサイズであり、構成もそっくりだ。
 左脇にカノジョの緊張した顔写真があり、上部には『平成22年誕生日まで有効』の文字。
 それは『お稲荷様免許』だった。
 「おめでとう」
 カノジョのふわふわした頭を撫でる。
 嬉しさなのか、ぴょこんと耳が生えた。
 と。
 僕は免許の中に信じられないものを見た。
 「ねぇ」
 「はい?」
 「発行者が『埼玉県公安委員会』になってるんだけど?」
 「なってますよ」
 「何で?」
 僕の問いに、カノジョもまた「どうして?」という顔で。
 「何でと言われても。ここ、埼玉県ですし。筆記試験は私達の世界ですけど、発行元はあくまでお役所の仕事ですから」
 「………」


 全国いたるところに存在する『お稲荷様』。
 もしかしたら君も、免許センターで運転免許書を手にして喜んでいる人間達の間に、お稲荷様免許を手にして同じように喜んでいるキツネ達を見かける…かもしれない。

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