稲荷 Confidences
8. 生きる術>>目的


 そこはこの国の玄関の一つ。
 セントレア中部国際空港。
 八百万の神が住まうとされる土地に足を踏み入れることのできる、公的な入り口の一つである。
 『来日の目的は?』
 表情の薄い女性入国管理官が、たった今香港から到着したばかりの乗客の一人に問うた。
 言語は英語。彼女から見えるのはパリっとした灰色のスーツを着込んだ男性である。
 窓越しに彼女に提出された英国を示すパスポートには、金色の髪の青年の写真が貼られている。
 『FOX HUNTING』
 「ふぉっくす はんてぃんぐ??」
 「いや、知人に会いに…ですね」
 薄い笑顔を伴いながら、流暢な日本語で彼は答える。
 管理官は特にこれといった興味を持たずに、手にした入国を示す判をドンとパスポートに押した。
 「よい旅を」
 一言だけ、彼女は日本語で告げると次の入国者に視線を向けた。
 こうして彼はこの日本へと足を踏み入れたのである。
 雨の降る、やや肌寒い日だった。


 「とは言っても、だ」
 ボストンバックを片手に、スーツ姿の彼は名古屋駅で途方に暮れた。
 「こうまで探しにくい国だとは、な」
 高めの鼻をひくつかせ、困った顔で呟く。
 「八百万の神が住まう国とは良く言ったものだ。この国には妖が多すぎる」
 彼のブラウンの瞳が金色に染まる。
 すると彼の見えていた行き交う人々の姿が、一部違う姿となって見い出された。
 5人の女子高生達と談笑しながら歩いていく、セーラー服を着た猫の変化。
 改装中のペナントへセメント袋を持って走る、ヘルメットをかぶった熊の変化。
 携帯電話で得意先と商談をしているのだろうか、スーツを着たタヌキの変化などなど。
 「地道に探すしかないか。なにより俺には自慢の鼻がある」
 小さく微笑むと、彼は北へ向かって歩き出す。
 『北』という方角が好きなだけの、案外能天気な選択だったという。


 彼がこの地に足を下ろしてから一ヶ月が過ぎた。
 「ハァハァ」
 4つの足で、彼は街中を駆けている。
 彼が駆け抜けた後、しばらくしてから網を持った作業着姿の男達が追いかけるようにして走り抜けた。
 彼らの胸には保健所を示す刺繍が施されている。
 「しつこい連中だ」
 人の言葉ではない声で呟くと、彼は道行く歩行者達の足元を駆け抜けて裏通りへ。
 そしてビルとビルの隙間に走り込み、追いすがる人間達を見送った。
 「この国は犬に対して慈悲がないのかっ!」
 呟く声は「うー」だとか「わん」だとか。
 今や彼は、灰色の毛皮を纏った精悍な犬の姿を取っている。
 犬に詳しい者ならば、グレイハウンドという犬種であることが分かるだろう。
 古来より狩猟犬として有名な血を引いている。
 それ故に飼い主もなく歩いていれば、保健所に通報され収容される運命だ。
 そもそも何故彼がこんな姿になっているのかというと……
 ぐーーーー
 彼の、腹が鳴る。
 「いかん、腹が減りすぎてこのままでは野垂れ死にだ」
 この一ヶ月の間に持ち金を使い果たし、食事も摂れず、体力が落ちてとうとう『人』の姿がとれなくなったのだ。
 彼はこの日本での言葉を借りるのならば、犬神と呼ばれるモノ。
 長く生きた犬のうち、選ばれたものだけがなることができると言われる動物神の一種だ。
 神とは言え、万能であるわけではなく、生きる為には食事も必要であるし、傷つけられれば死だって訪れる。
 「ヤバイ、空腹のあまりに立てなくなってきた」
 クラクラと歪む視界。その回る世界の中で、彼の鋭敏な鼻はすぐ傍に食べ物の香りを嗅ぎ付けた。
 「?!」
 それは彼の傍らにある青いポリバケツ。
 どうやらこのビルのどちらかがレストランでもあるようだ。そこのゴミらしい。
 彼は思わず身を乗り出し、バケツに犬の手をかける。
 そこで彼の動きが止まった。
 彼は想像する。犬神である自身がゴミを漁っている姿を。
 「あぁぁぁぁぁぁ……ダメだ、それはダメだ。それは越えてはイケナイ一線だっ」
 呟き、その場にへたり込んだ。
 ”この異国の地で、あの女狐にも会えずにこうして死んでいくのか……な”
 空腹感以上に、永遠の眠りへと誘いそうな睡魔が襲ってきたときだ。
 彼の鼻腔に食べ物の香りが流れてきた。
 それはゴミではなく、甘いパンの香り。
 目を開けると、彼の前にはしゃがみこんだ女性の姿が一つ。
 手にはコンビニの袋が下がっており、もう片方の手は彼に向けて差し出されていた。
 まるいパンが一つ。
 「食べる?」
 みつ編みをした彼女は、やや厚めの眼鏡の奥に優しげな色を湛えていた。
 彼はパンと彼女を交互に見やり、
 「わん」
 小さくないた。


 これが彼女と彼との出会い。
 彼からすれば、彼女は野垂れ死ぬところを助けてもらった命の恩人であり。
 彼女からすれば、死にかけの犬にエサをあげただけの、何処にでもありがちな出来事だった。

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