稲荷 Confidences
10. 思い出話=両者の見解×(楽観的+真実)


 偶然にもこの日の夜は、満月の美しい夜空だった。
 満月の下では、我々犬神の力は最高潮を迎えることができる。
 それ故、昼間のあの男女の匂いを追うことなど、目を瞑っても可能なくらいだった。
 家の皆が寝静まったことを確認した俺は、人の姿に戻る。
 「ふむ」
 首につながれたリードを外す。首輪は……
 「まぁ、いい」
 そのままに、俺は川辺りへと向かった。


 時刻は丑三つ時。
 川面は月光を浴びて金色に輝いている。
 やがて俺は夕方に4人が会した場所へと到着。
 そこから追跡を開始する。
 2人の匂いは堤防を下り、住宅街へと伸びている。
 俺はその軌跡をゆっくりと追った。住宅街から商店街へ、そして街区の異なる住宅街へと。
 「む」
 風が香った。女の方の匂いを運んでいる。
 古い匂いではなく、今その時の匂い。
 俺は風の吹く方向に目を向ける。そこは一軒家の屋根の上。
 満月を背に、昼間の女が立っていた。
 目が合う。表情は逆光のために分からない。
 彼女は屋根の上から向こう側へと飛んだ。
 俺はそれを追う。一跳躍で屋根の上に駆けあがると、道を走る彼女の姿が見つかった。
 俺は同じようにして屋根から飛び降り、その後を追う。
 彼女はこちらをチラリと振り返ると、大きく跳躍して小さなビルの屋上へ。
 まるで追って来れるかどうかを試しているようだ。
 「犬族の追跡を甘く見るなよ」
 俺はさらに足を早めて追った。対象もスピードを上げたようだ。
 真夜中の街中で、狐と犬の追走劇が展開する。
 「??」
 だがそれもやがて終焉を向かえる。彼女が足を止めたその場所で。
 「ここは…」
 小さな社の前だった。そう、この日本では神社と呼ばれる場所。
 いや、この規模ではどちらかというと祠に近いのかもしれない。
 ”誘い込まれた、か”
 そこで狐の女はこちらに振り返る。
 「ようこそ、私達の領域へ」
 彼女のものではない言葉に、空気が変わった。
 祠のある夜の闇の中から、もう一人が現れたからだ。

 
稲荷姉妹見参


 匂いを思い出す必要もなかった。
 強力な妖気という圧力を纏って現れたそいつは、俺の追いかけていた女狐。
 「ようやく、見つけたぞ」
 犬歯を剥き出しに、俺は歓喜に打ち震える。
 「あ、やっぱりお姉ちゃんの知りあいだったんだ」
 昼間の少女の方が、彼女に和やかに言った。
 「んー、知り合いというか。なんだ、生きてたのか。まぁ、喜ばしいことだ」
 どちらかというと無関心な感じで彼女は答える。
 「当然だ! 俺は貴様のやったことを忘れない,こうして復讐するまでは!!」
 びしっと指差す。
 「…何をやったの、お姉ちゃん?」
 ジト目で彼女の妹であろう、睨まれて「ふむ」と彼女は答える。
 「前に話してやったことがあるだろう? 昔、一緒に色々やったことのある犬神だよ」
 「あ、この人が?!」
 妹の方は驚きに満ちた目で俺をまじまじと見つめる。
 「でも、亡くなったんじゃ?」
 「そう思ってたんだけどね」
 「へぇ。でもそうすると」
 妹さんはニヤリと奴に笑いながら肘を突ついた。
 「ロマンス再燃?」
 何故そうなる??
 「……ちょっと待て。貴様、俺のことを妹さんにどんな風に話しているんだ?」
 俺の問いに、妹さんも小さく首を傾げて問うた。
 「お姉ちゃん。もう一度、お話してよ。結構好きなんだ、犬神さんとお姉ちゃんのお話」
 せがまれ、彼女は「ふぅ」と溜息。
 「そうだな。私も忘れかけてるから、思い出す為にももう一度話そうか」
 ”…忘れるなよ”
 「そう、あれは第2次世界大戦中のことだったな。私とコイツは、それぞれ日本と独の調査員としてある軍事施設のある孤島へと忍び込んでいた―――


 調査の任務が終わる頃、日は水平線の向こうに沈み始め、東の空が深い群青色になっていた。
 周囲を海に囲まれた小さな島の一角で、私達はついに足止めされてしまったんだ。
 地下12階にまで及ぶ軍事施設の、ここは地下1階。
 地上まであとホンの少しの場所だ。
 銃弾の嵐が曲がり角の向こうに吹き荒れていた。
 「まいった、この装備ではここを突破できない」
 私は最後の銃となった6連式リボルバーを右手に構えつつ、そう愚痴る。
 すでに装填した銃弾は2発だけとなってしまっている。
 「いや、そうでもないさ」
 私の隣では、こちらは完全に徒手の青年が自信たっぷりに笑って言った。
 なお、この頃の私達には力はほとんどなく、能力的に人間よりやや勝っている程度だ。
 当然、稲荷特有の基本能力である幻術はこんな多勢に対してまでは効果を発揮できるほど私は強くなかったし、犬神の特殊能力である咆哮による戦意喪失なんてのも彼は習得できていなかった。
 「そうでもない、とは?」
 私の問いに彼は親指を立て、
 「こういうことだ!」
 銃弾飛び交う通路に踊りこんだのだ!
 「んなっ」
 「さっさと行け、ここは俺が食い止める!」
 銃弾をかいくぐりながら敵兵士達に飛び込んでいく犬神。
 「バカ、戻って来い!!」
 「良いからさっさと行け!」
 こちらに振り返ることなく叫び、彼は数発の銃弾をその身に受けつつも敵兵士網に到達,自慢の爪と牙を振るい始める。
 「こっちだ!」
 「いたぞ!」
 その後ろからさらに増援される敵兵士達。
 それを威風堂々と迎え撃つ犬神。
 「行け、そして生きろ。一回くらい俺の言うことを聞いてくれ」
 叫ぶ彼に、私は唇を噛む。
 そして……背を向けて駆けた。
 「日が落ちるまで待っている、必ず戻って来い!」
 私の悲痛な叫びに、彼は敵の悲鳴を以って返したのだった。


 日はすっかりと水平線の向こうへと沈み、西の空には黄色の残滓が僅かに残るだけとなった。
 「もう少し、もう少し待ってくれ!」
 私の言葉はしかし届け入れられることはない。
 結局、彼は海岸で待っていた脱出艇に来ることはなかった。
 「奴を置いていくつもりか!?」
 エンジンが始動し始めた脱出艇。
 叫ぶようにして言う私を、屈強な同僚3人が押さえつける。
 「残念だが」
 船長は言う。
 「出航だ。これ以上ここにいる仲間達を危険に晒すわけにはいかん」
 「し、しかし!」
 足元が揺れる。私は3人の拘束を解こうとするが、全く外れない。
 そのうちに、窓から見える視界は次第に島から離れて行く。
 「そんな……」
 次第に小さくなっていく島を呆然と見つめつつ、私はこう呟くしかなかった。
 「すまない」
 と―――


 「良い話ね」
 「そうだろう」
 頷き合う姉妹に、
 「ちょっと待てぇぇ!!」
 思わず俺は叫んでしまっていた。
 「え、どうしたんです?」
 戸惑う妹さんに俺は首を必死に横に振った。
 「それは違う、全く違うぞ! 実際はこうだ―――


 あの日あの時、俺達は脱出口を目の間の前にして、絶体絶命に陥っていた。
 出口に通じるT字路で、敵の銃弾幕によって足止めされてしまったのだ。
 「なんとかならんか?」
 俺の隣で彼女が問う。
 日本側から派遣された彼女は、この数年ともに行動してきたがどうにも予測できないところが多い。
 だがこれまで任務を必ず達成させているその実績は、俺としても一目置いている。
 「どうにも、な。俺の得物はすでに弾切れだ」
 言って俺は銃を投げ捨てる。
 「一つ、良い方法があるのだが」
 「なんだ?」
 「それは、な」
 切れ長な目をさらに細め、彼女は俺の耳に唇を寄せる。
 かかる吐息に、場違いだが思わず背筋が震えた。
 「こうするのさ」
 耳に届く言葉の意味をこのときの俺が理解するのには、一瞬の間を要した。
 どん!
 俺は彼女によって押し出された。
 T字路の向こうへ、と。
 「んな?!」
 「おとりを頼む」
 憎らしいほど魅力的に微笑み、彼女は俺に背を向けて駆け出した。
 「な、なんだとーーー!!!」
 悲鳴をあげる俺に、容赦ない敵の銃弾が弾幕となって襲いかかってきたのは言うまでもない。


 しかしながら俺はこの危機を乗り越えた。
 今思うとどうやって乗りきったのか、覚えていない。
 島からの脱出艇の出発時刻は日没だ。
 日は水平線の彼方に消え様としている。
 俺は急ぐ。犬神に脚を以ってすれば、間に合う時間だ。
 生い茂る木々を掻き分け、俺は指摘された海岸線に辿り着いた。
 目の前に広がるのは、僅かに日の光の残った水平線。
 それだけ、だ。
 「何故だーーー!?!」
 いや違う。
 水平線の彼方に、一隻の船が見て取れた。
 脱出艇に相違ない。
 まだ、そうまだ時間ではなかったはずだ。
 俺は足元に、石に押さえられた一枚のメモを発見した。
 それを呆然と手に取り、広げてみる。
 そこには見知った女の文字でこう書かれていた。
 『二階級特進、おめでとう』
 「絶対、殺す!!!!」
 沈み行く夕日に、俺は固くそう誓ったんだ―――


 「そうだったか?」
 首を傾げる彼女に、
 「そうだよ!」
 俺はキレかける。
 「ま、想い出は美しくなるものだし」
 「人はソレを『捏造』というよね」
 妹さんのツッコミに、彼女はそ知らぬ顔で言った。
 「で、どうやってあそこから抜け出したのだ?」
 「犬掻きで、だ。おかげで犬掻き技能のレベルがアップしまくりだ」
 「ならば感謝こそされ、恨まれる道理はあるまい」
 皮肉が通じないのは、相変わらずのようだ。
 だから。
 俺は爪と牙の妖力を解放する!
 俺の殺意に妹さんの毛が逆立った。
 「ほぅ、私と殺り合うつもりか?」
 澄ました顔で彼女は俺を睨む。
 「当然だ。俺はその為に、今日まで力をつけてきたのだ」
 さらに今日は満月。時も俺の味方をしてくれている。
 「随分と思いあがりも過ぎたものだな」
 彼女は冷たく微笑むと、妹さんを後ろにやり、一歩こちらへと足を踏み出した。
 「お前の程度の犬神の能力が、私の主領たる稲荷の能力に通ると思うたか!」
 同時、まるで雪崩のように彼女の妖力が押し寄せた。
 立っているだけで、ただそれだけで並みのモノならば気を失ってしまう程だ。
 なるほど、彼女にしても今までのんべんだらりと過ごしてきたわけでもないということか。
 「相手として、不足なし!」
 叫び、俺は夜空に向かって咆哮した。

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