稲荷 Confidences
15. 警戒→張り込み→遭遇


 一定方向に向かって多くの人の行き交うプラットホーム。
 分刻みでやってくる電車に、人々は押し寿司のように詰め込まれて運ばれていく。
 朝の通勤ラッシュである。
 都会のベットタウンであるこの町で見られる、平凡な通勤通学風景であった。
 その様子を、ホームに据え付けのプラスチック製の椅子の横で立って見つめている青年の姿が一つ。
 金色の髪に青い目がじっと人々の流れを見つめていた。
 この日本人が大多数を占める町では珍しい人物ではあるが、彼の端正な顔立ちはその中でも郡を抜いているはずであった。
 しかし行き過ぎる人々の目には彼の姿は入らない。
 まるで路傍の石のように彼の存在に気付くものはいなかった。
 「特に問題は見当たらず、か」
 彼は一人呟き、胸に抱えた紙袋に片手をつっこむとロールパンを取り出して一口。
 「うむ、なかなか」
 口の中に広がる香ばしいパンの香織と食感に、思わず彼の頭にちょこんと耳が生えた。
 慌ててパンを持った手で引っ込める。
 彼の持つ紙袋には『神戸屋』の文字。
 それはつい先程、彼と同じ世界に存在するキツネの少女からサービスで受け取ったものだった。
 「まったく、姉と違って良い娘だ。どこかで恩を返さねばならないな」
 基本的に「犬」である彼は、どうやら「食べ物」に弱いらしい。
 ガタンゴトン
 彼が手にしたロールパンを食べ終わる頃、また新たな電車がホームに入ってきた。
 ドアが開き、相変わらず下りる客よりも乗る客が多い状態だ。
 と。
 「あれは」
 彼は金色の瞳に仄かに光を宿し、乗りこんだ客の一人に鋭い視線を向ける。
 それは赤いランドセルを背負った、小学3年生ほどの少女。
 肩までの黒い髪を揺らしながら電車に乗りこんでいく。
 彼もまた、彼女を追うように電車に乗りこんだ。
 何故なら、ランドセルを背負った彼女は電車がホームに入ってくる直前まで『ホームにいなかった』はずだからだ。
 まるで湧いて出たような彼女の存在は、彼が睨んでいた通りの結果であった。
 彼と彼女を乗せた電車は、ホームを出発する。


 満員電車の中は、犬神である彼にとっては地獄そのものだった。
 目の前の中年サラリーマンの酒とタバコの混じった匂い,横のOLの香水の匂い,斜め前のおばさんからはナフタレンの匂い,後ろの新入社員らしき若者からはニンニクの匂い。
 加えて外気とは大きな差がある気温と湿度。
 鼻の良い彼にとっては、気を抜くと気絶してしまいそうな状況であった。
 だが彼は少女の姿を見過ごさない。
 ランドセルの少女は座席の前に立っていた。
 目の前の座席には疲れ顔のサラリーマンの中年。
 彼女の背後には吊り革を掴んだ若いサラリーマン。
 ガタン
 一瞬、電車が大きく揺れた。
 「あ」
 少女が傾き、思わず後ろのサラリーマンに寄りかかる。
 「大丈夫?」
 優しく問いかけるサラリーマンの青年に、少女は小さく頷いた。
 サラリーマンは少女の目の前で座る中年サラリーマンに問いかける。
 「すいません、この子を座らせてあげてくれませんか?」
 言葉に中年サラリーマンは………


 「すいません、この子を座らせてあげてくれませんか?」
 そう声をかけた彼は、内心ふつふつと怒りが湧いていた。
 何に対しての怒りか普段ならば分からなかっただろう。
 しかし今はその原因たるものが周囲に溢れている。
 相変わらずの通勤ラッシュ、隣のオヤジの口臭,そして。
 そう、何よりも目の前の子供が通勤ラッシュでフラついているのに、目の前の中年は席を譲ろうともしないことだ。
 これが、今彼の中に生まれた怒りの原因だ。
 そう、彼は決めた。
 矛先の決定した彼の中の怒りは、彼を通して発現する。


 「すいません、この子を座らせてあげてくれませんか?」
 そう声をかけられた彼はそのときになってようやく気が付いた。
 目の前に子供が弱々しく立っていることを。
 それに見かねて、その後ろの青年が彼に声をかけたことを。
 ふと、彼の中にふつふつと怒りが湧いてきた。
 何に対しての怒りか普段ならば分からなかっただろう。
 しかし今はその原因たるものが周囲に溢れている。
 そもそもこの鉄道会社は通勤ラッシュの緩和策をいつになったら行うのだ?
 彼はわざわざ座るために20分も前にホームに並んでいるのだ。
 そうだ。
 何故やっと座った彼が、席を譲らねばならないのだ?
 いや、違う。譲るのは良い。
 何故目の前の若造にそんな当然のことを指摘されなくてはいけないのだ?
 これが、今彼の中に生まれた怒りの原因だ。
 そう、彼は決めた。
 矛先の決定した彼の中の怒りは、彼を通して発現する。


 「なっ?!」
 唐突に満員電車の中で取っ組み合いの喧嘩が始まった。
 どちらから手を出したという訳ではない。ほぼ同時だ。
 喧嘩を始めた2人のサラリーマンの目は怒りに満ちている。
 「どういうことだ?」
 彼は少女の姿を探す。
 いた。
 少し離れたところで、冷静にその喧嘩を見つめている。
 「間違いない、な」
 彼は少女に近づいた。
 ガタン
 電車が止まり、扉が開く。
 「?!」
 少女は近づく彼に気付き、滑る様にして電車を下りていく。
 彼もまた、人の間を縫うようにして電車を下りる。
 満員電車の中の喧嘩で、人々は2人が電車を下りたことすら気に留めた様子はなかった。


 赤いランドセルの少女の後ろ姿はほぼ無人のホームの彼方へと駆けている。
 人間ではありえない移動速度である。
 しかしながら犬神たる彼の脚力も半端ではない。動物神の中では5本指に入る脚力である。
 一気に少女との距離を詰め、その前に立ちはだかった。
 「……犬神が何の用だ?」
 逃げることを諦めたのか、少女とは思えない暗く重たい声で目の前に立つ彼に問う。
 「最近、通勤電車の中で喧嘩をする人間達が増えていると聞く」
 犬神は彼女を睨んだまま、続ける。
 「もっぱら『電車でキレる人々』などという事件で注目され始めていてな」
 「それが貴様と何の関係がある、犬神?」
 「関係は、ある」
 威嚇の牙を剥き出し、彼は眼光鋭く少女に警戒。
 「俺の主がこの電車を使用しているからな」
 言葉が終わるか終わらないか、少女が彼に飛びかかる。
 赤い風となって彼の脇を通りぬけた。
 瞬間、彼の左足に赤い雫がほとばしる。
 「その動き、カマイタチかっ!」
 風となった彼女は再び彼に飛びかかり、
 犬神もまた手にした紙袋を上空に放り投げ、両手に白く光る長い爪を生み出した。
 ガッ!
 鈍い音が響く。
 犬神の右の手の爪には赤いものが付いている。それはしかし彼のものではない。
 ぽす
 放り上げたパンの入った紙袋を爪を戻した左手で受け止める。
 振り返ると、彼の後ろでは少女がうずくまっていた。
 身長よりも長く白い尾を丸め、おびえた様子で彼を睨む。
 彼女のしっぽはその半分以上が鋭い刃物と化し、大きな鎌となっていた。
 カマイタチと呼ばれる所以である。
 少女は右の白い足首を血で赤く染めている。立てる傷ではないようだ。
 彼を睨む瞳には、黒い異様な光が宿っている。
 犬神はそれを確認すると、大きく息を吸い込み、そして。
 「うぉぉぉぉぉん!」
 「っ!!」
 咆哮。
 カマイタチの少女の全身の毛が逆立った。
 瞬間、ランドセルが赤い霧となって少女の体から舞いあがり、しかし太陽の光によって拡散。
 それが消えると少女は全身から力が抜け、がっくりとその場に倒れ伏したのだった。
 
 
 お昼前の住宅地の中にある小さな公園。
 ベンチには金色の髪の青年と、彼に膝枕をされた黒髪の少女が横たわっている。
 やがて少女は目を覚ます。
 「??」
 目に飛び込んできた犬神の姿に、思わず目を白黒させる。
 「目が覚めたな」
 問いに、コクリと小さく頷いて上体を起こした。
 途端。
 ぐー
 少女の腹が鳴る。
 「腹、へったのか?」
 コクリ
 「コレでも食べろ」
 犬神は少女に紙袋を手渡した。それを興味深げに覗きこむ少女。
 「うわー」
 嬉しそうにまずはチーズパンを取り出して、むぐむぐと口に詰め込み始めた。
 「お前、名前は?」
 犬神の問いに、少女は一瞬動きを止め。
 首を横に振った。
 「何処から来た?」
 再び動きを止め、
 首を横に振る。
 「記憶が、ないのか?」
 むぐむぐ
 ごくん。
 小さな口の中をようやくあけて、彼女は犬神を見上げた。
 「怒り」
 「む?」
 「『怒り』ってどんなものなの?」
 「……」
 「それだけ、覚えているの。それだけを、調べろって言われてたの。だから色んな人の怒りの線を『切って』いたの。電車の中は怒りの線が見えやすかったの」
 「誰のためにそんなことをやったんだ?」
 「わかんない……」
 食べかけのパンを見つめながら、少女。
 「わたし、お兄ちゃんとお姉ちゃんがいた…と思うの。でも覚えてないの。犬のお兄ちゃん、わたし、どうしたらいいんだろう?」
 ぐー
 「………取り敢えず、パンでも食べろ」


 その日の夕方。
 彼にとっては待ちに待った散歩の時間である。
 「ちゃんと、おとなしくしてた?」
 「わん」
 犬の姿で彼は主たる彼女に答える。
 首輪にリードをつけてもらい、彼女を引っ張るようにして庭を抜けて玄関先へと向かう。
 が。
 「あら?」
 主たる彼女は、彼のいた犬小屋に白いものが見えたような気がした。
 落ち気味なメガネを上げて、小屋の中を覗く、と。
 「きゃ!」
 白いイタチのような動物が飛び出し、庭を囲む壁を越えてあっという間に見えなくなってしまった。
 「なに、今の? フェレットか何か?」
 「くぅん」
 「アナタ、何か隠していたの?」
 当然、犬が答えるはずもない。
 「ま、良いか。行きましょ」
 「わん」
 2人が庭を抜けて家を出るのを確認して。
 カマイタチたる彼女は犬小屋に戻ってきた。
 どうやらこの狭い小屋に居候することに決めたようである。
 「これから、よろしくね」
 犬小屋から顔だけ出して、誰にともなく彼女は笑顔でそう言ったのだった。

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