稲荷 Confidences
16. 余暇+酒=お花見


 うららかな春の陽気が漂う4月の初め。
 「ホントに花見なんかいくの?」
 「いくの!」
 「いくよ」
 稲荷な姉妹にそう迫られて、首を横に振れるだけの勇気は僕にはなかった訳で。
 近所の河川敷には、桜並木が土手沿いに走っている。
 花は8分咲き。穏やかな春風に揺られてちらほらと桜色が舞っている。
 冬の間は枯れた草だらけだった土手は、今や背の低い雑草できれいな新緑の絨毯を形成していた。
 そしてその上には、所狭しとレジャーシートを広げて老若男女が呑んだり歌ったりと宴会を催すことそこかしこ。
 バスケットを両手に持った僕のカノジョと、一升瓶を両手に一本づつ持ったカノジョのお姉さんは、そんな人ごみの中をするすると縫って先に進んでいった。
 はっきり言って、思った通り腰を下ろす場所など皆無なのだが、2人は何処へ進んでいるのだろう?
 僕が慌てて追いかけることしばし。
 唐突に周囲の賑やかな声が小さくなった。
 「え?」
 目の前には桜並木のどの木よりも立派な、すなわち古い桜の木が1本そびえている。
 お花見のベストスポットにも関わらず、何故かこの木の下には人が一人もいなかった。
 いや、違う。
 木の真下には6畳ほどの青いレジャーシートが敷かれ、妙に存在感の薄い少女が一人でちょこんと座っているではないか。
 「こんにちわー」
 カノジョのお姉さんの挨拶に、少女は小さく一礼。
 おかっぱ頭の黒髪に、桜色の着物を羽織っている。美少女といえば美少女だが、気を抜くと存在していることを忘れてしまいそうなほど周囲に溶け込んでいる気がする。
 「初めまして」
 カノジョもまた一礼して、レジャーシートの上に。
 僕もまた着物の少女を見つめ、挨拶する。
 「どうも、初めまして。今日は場所まで取ってくれて、ありがとうございます」
 と。
 カノジョと、お姉さんが妙な目で僕を見ていた。
 「どうしたの?」
 「「見えるの?」」
 同じ言葉を放つ2人。
 しかしその意味が僕には分からず、着物の少女に向かって首を傾げる。
 それに少女は、初めて表情の変化を行った。
 僅かに笑みの形に。
 「見えるのなら紹介しよう。この方はこの一帯の桜を取り仕切る桜の妖精殿だ。今日は場所を借りて、ちょいとこの近辺に結界を張ってもらったのだ」
 お姉さんがそんなことを言った。妖精……か。人間じゃなかったようだ。むしろ彼女達の同類に近いのだろう。
 そんな彼女に頼んで、特別に人払いをした場を設けてくれたということか。
 なるほど、これならギュウギュウの狭い中でお花見なんてことにならないで済む訳だ。
 「彼女は人間には見えないはずなんだけど。もしかしていつも私と一緒にいるから、霊感ついちゃったのかな?」
 カノジョが変なことを言う。変な能力は僕は要らないです。
 「へ、変じゃないもん!」
 口を尖らせて講義するカノジョをなだめつつ、昼ご飯を兼ねたお花見が開催される。
 まずはお姉さんが問答無用で紙コップに日本酒を注いだ。
 「よもや未成年じゃないだろう?」
 「まぁ、そうですけど」
 僕は答え、コップを手に。
 同じくカノジョも日本酒が並々と注がれたコップを手にする。って?!
 「えと、未成年はダメだよ?」
 「私、大人だもん」
 何を以って大人とするのか……いや、そういうことではない。そもそもカノジョは何歳なのだ?!
 付き合っていて、どうしてそんなことすら知らなかったんだろう、僕は。
 「レディに歳を訊くなんて野暮よ」
 「レディ、ねぇ?」
 「なによ、文句あるの、お姉ちゃん!」
 憮然と言い放ち、カノジョは僕が止める間もなくコップの中身を一気呑み。
 「ぷはぁ、美味い。もういっぱい」
 「いや、青汁じゃないんだから。って、お姉さんもペース速いですよっ!」
 早くも2杯目に手をつけているお姉さんにも注意する。
 「今日は無礼講だよー。そんなことよりサンドイッチ作ってきたの」
 強引に2杯目の日本酒を飲みながら、カノジョはバスケットを開く。
 中には野菜たっぷりのサンドイッチが詰まっていた。
 バイト先で得た技術を生かし、最近のカノジョの作るこういった軽食はみるみるレベルアップしている。
 「こっちが納豆で、そっちがサバの煮付けだよ」
 このチャレンジ精神さえなければ完璧なのだが。
 ふと、僕は自称(他称)桜の妖精さんに視線を移す。
 彼女は日本酒の入ったコップを両手で大事そうに持ちながら、幸せそうな笑顔で僕達を見つめていた。
 「えっと、どれを食べますか?」
 僕の問いに、彼女はしかし首を小さく横に振っただけ。
 「あ、いいんだ。この方は」
 「え?」
 お姉さんは言う。
 「この方は人々のお花見で発生される『陽気』を糧にしているからな。だからせいぜい楽しくやるのが私達に課せられた使命だ」
 「はぁ」
 『そうなの?』という僕の目での問いに、桜の妖精もまた無言で肯定。
 「ほらほら、呑んで呑んで」
 左側からカノジョが腕を絡ませながら、僕のコップに日本酒を追加で注ごうとする。
 「そうだぞ、呑みが足りないな」
 他方、右側からお姉さんが同じく僕のコップに酒を注ごうと無闇に密着してきた。
 「酔ってるね、2人とも」
 「「全然」」
 間違いなく酔っていると思う。


 酔いつぶれた姉妹を両脇に、僕は桜の妖精さんとちびちびお酒を呑んでいた。
 特に会話はないが、なんとなく穏やかな雰囲気が辺りを満たしている。
 そんな時だ。
 「わん」
 犬の鳴き声が、すぐ傍で聞こえた。
 振り返るとそこには、
 「え?」
 「あれ?」
 犬を連れた知り合いの女性が一人、背後に立っていた。
 僕の大学の、研究室の後輩の女の子である。
 彼女は周囲をキョロキョロと見まわし、そして僕の左右で寝こける姉妹を一瞥。
 「こんにちわ、先輩。お花見……ですよね?」
 「ああ。お花見以外のなにものでもないね」
 「でもどうしてここだけ人が……」
 「ん?」
 「あ、いえ、何でもないです」
 言葉を濁す彼女。
 僕には不思議だった。普通の人間である彼女が、どうして桜の妖精さんが張った結界を何の条件もなしに乗り越えることができたのか。
 僕の前に座る妖精さんもまた不思議そうな顔で彼女を見つめている。
 「それはそうと、結局起きているのは先輩一人なんですね」
 「あ…」
 そうか、彼女には妖精さんが『見えていない』んだ。
 「う、うん。まぁね」
 すると彼女はブルーシートの上に腰掛ける。
 その隣に控えるようにして彼女の飼い犬が礼儀正しくお座りした。
 「そこの2人が起きるまで私、お付き合いしますよ」
 「あ、えと、そう? ありがとう」
 無下に帰すのも不自然だ。
 「呑む?」
 僕が掲げる日本酒を、
 「はい」
 彼女は笑って、空の紙コップを差し出してきた。


 結局この後、僕と彼女も寝てしまい、彼女の犬を除く一同が目を覚めたのは深夜だった。
 運良く誰も夜風の為に風邪を引かなかったのは、桜の妖精さんの加護があったからだと今更ながらに僕は思うのだった。
 それからちょうど一週間。
 夕暮れの、いつもの帰り道でのことだった。
 アパートへと続く一本道で、僕はカノジョを後ろに乗せて自転車をこいでいた。
 緩やかな下り坂は、僕達に僅かに夜気を含んだ風を与えてくれる。
 風はこの時期、桜色の小片をまとっていた。
 桜の花びらだ。
 進むほどに、次第にその数は多くなってゆく。
 やがて道の両脇から頭上にかけて、覆いかぶさるような桜のアーチが視界いっぱいに広がった。
 そのアーチの中では桜吹雪という表現がふさわしい。
 「もう散ってしまうのね」
 後ろからそんな声が聞こえる。
 「お花見、楽しかったね」
 先日の騒ぎを思い出しながら、カノジョは呟くようにして言った。
 「そうだね」
 「なんか…」
 カノジョの言葉はそこで止まる。
 僕はペダルを踏む足を心持ち遅くする。
 僕達に降り続く桜吹雪。
 カノジョの言葉を静かに待つ。待った時間は長いようで短いようで。
 「なんか、寂しいね」
 「寂しい?」
 「うん」
 背後で上を見上げる気配がした。
 つられて僕も一瞬見上げる。
 桜色以外にも葉の緑色が目立ち始めた桜の枝が見える。
 「楽しかったこの時間が終わってしまう……そう思うと、ね」
 こつんと、僕の背にカノジョの額が当てられた。
 僕は軽く笑ってカノジョに応える。
 「これから来る梅雨は、アジサイがきれいだろうね」
 「え?」
 「夏は暑いけど、浜辺で食べる焼きそばだとかイカ焼きは美味しいよ」
 「……」
 「秋は紅葉狩りにでも行こうか。冬はコタツで食べるみかんは美味しいよね」
 「…うん」
 「おっと、気がついたらまた春が来ちゃったよ。寂しかったかな?」
 問いに、僕の腰に回るカノジョの腕に、僅かな力がこもった。
 「うん、うん、そうだね」
 僕は前を向いているから分からないけれど、きっとカノジョは笑っていたと思う。
 この先もずっとカノジョが僕の隣にいて、それが当然であり変わることがない事実であると信じていた。
 そう信じていた、桜散る春の日の出来事だった。

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