稲荷 Confidences
19. 恩師>厄介者>苦手な人
彼女は通い慣れたアパートのドアに手をかけようとして。
直前でその手を止めた。
時間帯は夕方。
桜の一件からここ最近、周辺で怪しいと感じる気配を一つ一つ確認を取ってきたのだが、そのどれもがただの自縛霊だとかありがちな呪物だとかで、桜の妖精を操っていた本体を確認することはできなかった。
気がつくと数日走り回ってしまっていた彼女は、全身にやや疲労を覚えながらも久々に彼女をよく知る男の家へ遊びに来たのではあるが……。
いつもならばこの時間には部屋の主は大抵おり、彼女の妹と一緒に談笑しているのであるが。
気配を探れば、部屋の中からは人の気配はしない。
据え置かれた冷蔵庫だけがゆっくりと電気を消費する音が聞こえてくるだけだ。
最近は忙しいながらもいつもの社には帰っていたのだが、妹の姿も見ることは無かった。
”もしかして、私には内緒で旅行にでも出かけたのか?”
その通りである。
”しかし、この雰囲気は……”
仕方が無い。不在なら不在でかまわない。
しかし。
しかしである。
部屋の中からは言いようのない気配らしきものを感じた。
だから。
ばき!
彼女は力任せに扉を引き、鍵ごと壊して中へ踏み込んだ。
そこで待っていたのは、
『ふむ、久しぶりだね、狐の少女よ』
「せ、せんせぃ?!」
思わず声を上げた彼女は、部屋の真中で立ち竦む5〜6歳の少年を目を大きく開いて見つめた。
少年は神社の神主の着るような裃を纏い、うっすらと笑みを浮かべている。
少なくとも、彼女にはそう『見えた』。
ふと気を抜くと少年の存在を逸してしまう、そんなあやふやな存在感。
「え、えっと…どうして先生がここに?」
どう見ても歳は彼女の方が上に見えるが『先生』に彼女は問う。
問いつつ、足を一歩後ろに。
『お主も知っておろう。先日我が眷属である桜が襲われたことを』
「え、ええ、そうですね。だからと言って何故先生が?」
そこまで言って彼女はビクリと身体を震わせる。
『ワシと似たモノの仕業と判断した。だからこそこうして出張ってきた訳だ』
「先生と似たモノ……世界樹ユグドラシルに似た要素を持つことなんて、可能とは思えませんが?」
『この世に未来永劫確定した要素などないのだよ、狐の少女よ。ワシがこの世に生まれたという事実があるのなら、ワシと同じ要素を持つモノが生まれる可能性もまたあるはず』
ニヤリ、と少年らしくない邪気のこもった笑みを浮かべて彼――ユグドラシルは言う。
「そ、そうですか。ところで何故先生がここに?」
『この地域にて一番物の怪の気配が強いところへ来てみたのだが』
彼女はちらりと部屋の中を見渡した。
窓際に鉢植えが一つある。それを見つけて小さく舌打ち一つ。
彼――ユグドラシルは世界樹とも呼ばれる植物の王である。
世に生まれた最初の植物にして、全ての植物の眷属の生みの親。
彼の本体はすでに無いが、その痕跡である『根』は今は地脈として名を変え世界中に走っている。
そしてそこからあらゆる植物へとつながっており、それが彼を世界樹と呼ばせる一因である。
そんな生態故に不死である彼は、始源からの記憶を培っており、その知識はこの世の全ての植物に無数に分かれて保存され、また個々の植物から常に知識を蓄積していると言われている。
これをアカシックレコードならぬユグドラシルレコードと知る者は呼んでいる。
閑話休題。
『やはり細かな捜索となるとこの身体では無理があるようだ』
存在感のない体を自ら見て、彼は彼女に右手を伸ばした。
気配の無さが、彼女にとっては盲点だった。
『お主を借りるぞ』
「あ、いやっ!」
回避は遅く。
ずぶりと少年の腕が彼女の胸に沈んだ。
そのまま少年は彼女の中へと飲み込まれていく。
一瞬だけ彼女はぐらりと傾き、
「うむ、全然鍛えておらんではないか。それに力の使い方も偏りがある」
右手を閉じたり開いたりして一人、彼女は呟く。
『あぁぁ……しばらく筋肉痛で動けなくなるー』
彼女の悲痛な思念が響いた。
どうやらユグドラシルに肉体を乗っ取られたようである。
「そもそもお主の妖力の使い方にはいらぬクセがある。ワシの使い方をしっかりと見ておくが良い」
『うぅ』
ユグドラシルはこうして他生命を操り、その能力を100%引き出すことができる。それも無駄使い無く正確無比に、だ。
それ故に彼に操られた者は、己の力の使い方を身を以って知ることができる。
こうして彼はかつて、数多くの妖達に教えを与えてきた。
もっともその頃からの生徒はめっきり減ってしまったが、この稲荷は幸運(?)にも彼の教えを受けた者のようである。
しかし100%の力の発揮というものは肉体に多大な負担をかけるものである。
人間にしても無意識下で常に制御がかかっており、発揮したとしても70%を指せば良いほうだ。
そんな訳で、肉体を乗っ取られた稲荷は必ず後ほど襲い来る筋肉痛に怯えているという次第なのだ。
彼女の思いを知ってか知らずか、ユグドラシルは狐の嗅覚を鋭敏化させる。
周辺の様々な匂いと気配、妖力の情報が怒涛のように彼女の脳内に押し寄せてきた。
『ひぃぃぃ!』
「これくらいの情報でパニックを起こしてどうする。100年前から全く進歩が無いではないか」
叱咤一喝。
ユグドラシルは感じ取った一番大きな妖力に向けて彼女の身体を動かした。
向かう先はおよそ2km南。
『あ、そこは』
彼女が止める間もなく、彼女の足は駆け出した。
そのスピードは風をも抜き去る豪速。
『あ、足が、足がもげるぅぅ!』
「もげたらもげたで、ヤワな足が悪い」
一言で切って捨てられ、到着したのは一軒の住宅だった。
その犬小屋の上に、彼女は立っている。
そしてそんな彼女に向かって唸っているのは一匹の犬だ。
「なんだ、お主か。全くこの街には何人ワシの教え子がおるのだ?」
彼女を乗っ取ったユグドラシルは大きく溜息。
その言葉と気配から、唸っていた犬は硬直する。
「も、もしや教官殿でありますか?」
人語を操る犬。犬の姿で額に汗している。
「なんだ、お主はそんな事も分からぬほど力を使いこなせておらぬのか? これは一度徹底的に叩きなおす必要があるかのぅ」
犬神は稲荷の背後に、懐かしい気配を感じる。
それは稲荷の彼女とは異なり、彼にとってはフルメ○ルジャケットに登場する鬼教官ハー○マン軍曹に似た中年の男に感じていた。
「お、お久しぶりでございます!」
言葉に、犬は二足で立って敬礼をかます。
「しかしワシも運が良い。嗅覚に優れた犬神が見つかるとは」
その言葉に犬神はギクリと硬直し、
『ラッキー♪』
稲荷は安堵に溜息をつく。
が、しかし。
「丁度良い。この詮索を機会に2人とも、しっかりたっぷり鍛えなおしてやろう」
「『ひぃぃぃぃ!!』」
2人の妖の悲鳴を、犬小屋の中で鎌イタチは眠気まなこで聴いていたという。
なお年季の入ったこの2人の妖の100%の力を以ってしても、今回の目標の、その証拠すら見つけることができなかったそうな。
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