稲荷 Confidences
20. 狙いしモノ→遭遇→奥に潜むモノ


 「先輩はお休みの間、何処に行ってきたんですか?」
 帰り道。
 そう研究室の後輩であるところの女の子が尋ねてきた。
 「ああ、ちょっと奄美の方にね。君も海の近く…行ったみたいだね」
 「分かります?」
 笑う彼女は以前、不自然とも思われるほど白かった肌の持ち主だった。
 しかし今は仄かに小麦色に染まっている。
 僕もそこそこ焼けてはいるのだが、彼女にはかなわないほどだ。
 「商店街のくじ引きでハワイ旅行が当たりまして。友達と行って来たんです」
 「へぇ、そうなんだ」
 「先輩はどなたと行ってきたんです? 家族とですか?」
 「いや、カノジョと」
 「あ……、そうなんですか」
 それっきり何故か彼女は黙ってしまう。
 すっかり夜は更け、点々と灯る外灯の明かりのみが僕達の足元を照らしている。
 「そうそう、先輩。知ってますか?」
 「ん? 何を?」
 唐突に沈黙を破った後輩は僕に告げる。
 「最近、この辺にお化けがでるらしいんです」
 「お化け??」
 「はい。この」
 言って彼女は僕達が歩く道沿い――道と並行して走る小川と呼ぶに等しい流れを指差した。
 「川沿いの道にですね、世にも恐ろしいお化けが出るそうなんです」
 「はぁ、お化け、ねぇ?」
 「信じてませんね。これまで何人もの人が遭遇して、あまりの恐怖に気絶して朝を迎えるそうなんですよ!」
 「ふーん」
 力説する彼女を軽く流す。
 悪いとは思うが、あまりにも幼稚な内容だからだ。
 「もー! 例えばですね、あんなコートを着た人がじっと一人で外灯の下で佇んでいるんです」
 彼女はびしっと前を指差す。
 そこには外灯の明かりに照らされ一人、佇むオーバーコートを羽織った男の背中。
 この季節にあんなものを羽織っているとは、なかなか暑苦しい奴ではある。
 「あ、えっと」
 指差したまま、隣の後輩はおずおずと指を引っ込めた。
 僕達の歩みはやがて怪しげなその男まで到達し、その横を通り過ぎる。
 ぎゅっと、僕の左腕が後輩に抱かれた。
 彼女はなるべくコートの男を見ないように僕の腕に顔を埋めている。
 歩きにくいことこの上ない。
 何の問題もなく僕達は彼の隣を通り過ぎた。
 こつこつ
 こつこつ
 かつかつ
 足音が。
 僕達二人以外の足音が、ぴったりと後ろに続いている。
 こつこつ
 こつこつ
 かつかつ
 前からの風が僕達の間を吹き抜けた。
 それを拍子に地上が冷たく眩しい月の明かりに、さぁっと照らされる。
 月を覆っていた分厚い雲が崩れたのだろう。
 僕はふと後ろを振り向いた。
 僕の腕を抱く後輩もまた、僕につられて振り返った。
 そこには、男がいた。
 コートの男だ。
 月明かりに照らされたその顔は。
 「シャーーー!!」
 爛々と輝く赤い2つの瞳。耳まで裂けた口に、鋭い牙がびっしりと並ぶ。
 肉食獣の放つ声を張り上げ、豹頭の怪人がそこにはいた。
 「ひっ!」
 ビクリ、僕の腕を一瞬痛くなるくらいきつく抱いて、後輩はその全身から力を抜いた。
 気を失ったのだ。
 豹頭の怪人の、その恐ろしい形相を見て気絶した訳ではないことを薄々僕は感じていた。
 怪人の発する禍々しい気配を直接ぶつけられ、それが恐怖となって彼女の中にあるヒューズが飛んだと考えた方が良いかもしれない。
 だが、それは僕には効かない。
 何故なら、この怪人程度の圧力ならば普段から身近に接しているからだ。
 「何者だ!」
 後輩を支えながら僕は問う。
 「ほぅ」
 豹頭の怪人は声を発して僕に一歩歩み寄る。
 「私が恐ろしくはないのか?」
 「…たいしたことはないね」
 そんなことはない。
 奴が一歩近づいてくるごとに、嫌な汗が背中に流れる。
 彼がまとうのは明らかな『殺意』。人を殺すことなどまるでなんとも思っちゃいない、そんな殺意だ。
 「それでは、これではどうか?」
 怪人は右手を振るう。
 そこには毛むくじゃらの腕と、そこから伸びる豹のような鋭い爪が現れている。
 彼は腕を突き出す。
 僕に向かって!
 「っ!」
 僕の首筋に、まっすぐに爪が突きつけられた。
 つつっと、先端が首の皮一枚を切り裂くのが分かる。
 「……人間にしては変り種だな。貴様の瞳には恐怖とそれに伴う絶望が見えない」
 良く分からないことを呟く怪人。
 こいつの言う事は良く分からないが、分かることがある。
 それは。
 僕はかなりの確率で絶体絶命だということだ。
 「さて、どうするか」
 怪人の爪が僕の首筋で動いた。
 その時だ。
 視界の隅で、月明かりが何かに反射した!
 バキ!
 直後、僕のあごの下で何かが砕ける音。
 同時、怪人は僕から一瞬にして距離を取った。
 砕けたのは怪人の爪。砕いたのは、
 「じっとしていろ」
 「マスター!」
 2つの人影が僕と怪人の間に踊り込んだ。
 それは1組の男女。
 月明かりをその身に纏い、仄かに輝いて見えた。
 そして怪人に負けず劣らずの殺気をその身に宿している。
 僕の知る者達だった。
 「お姉さんと……いつぞやの、犬?」
 「犬神だっ!」
 男の方が振り向かずに叫ぶようにして言う。
 「とんだ邪魔が入ったな」
 舌打ちと呟き。
 それだけを残して、豹頭の怪人はまるで煙のようにその場から完全に掻き消えたのだった。
 「逃げ足は速いな」
 「くそっ、完全に匂いも断ち切ってやがる」
 2人はそれぞれに肩の力を落とすと、殺気を消してこちらに振り返った。
 「ありがとう、助かったよ」
 そして、普段通りの夜が戻る。


 「先輩、昨日はご迷惑をおかけしました」
 「いや、貧血だからしょうがないよ」
 「はぁ……、でも私、貧血で倒れるなんて始めてです」
 そう言って後輩であるところの彼女は顔を赤くして俯いてしまった。
 「私、重くありませんでした?」
 「あー、いや、全然。うん」
 昨日は、あれから彼女を家まで運んだのは犬神の彼だったのだが。
 豹頭の怪人は結局何だったのかは僕には分からない。
 カノジョのお姉さんと犬神は知っているようだけれど、昨日以来会えていないので何が起こっているのか僕にはさっぱり分かっていないのだ。
 ピピピッ!
 僕の腕時計が小さな電子音を立てた。
 「ご迷惑をおかけしたお詫びに、お茶でも…」
 「ごめん、教授には僕は今日は帰ったって言っておいて」
 「あ……」
 彼女が何か言いかけていたようだが、大した用事ではないだろう。
 僕はカバンを取り、研究室を後にする。
 「あ、先輩…」
 「また明日ね!」
 僕は早足から駆け足に変える。
 カノジョとの待ち合わせは20分後。
 いつも通り、カノジョのバイト先の店の裏通りだ。
 僕は駆けながらカバンの中を確認する。
 手のひらに乗るくらいの、小さな箱が1つ。誕生日のプレゼントである。
 そう、今日はカノジョの誕生日なのだ。
 確認しつつ、やがて僕は大学の自転車置き場へ。
 愛車にまたがりながら、僕はプレゼントを受け取ったときのカノジョの反応を想像しつつ、ペダルを踏んだ。


 小さな稲荷社の前に3つの人が立っている。
 1つは女。厳しい表情で腕を組んでいた。
 もう1つは男。こちらも難しい面持ちだ。
 最後に少女。まだ年端も行かない外見ではあるが、2人の男女よりもずっと年を経ているような雰囲気がある。
 『化け猫、か』
 少女が男女の区別のつかない声で呟いた。
 「ええ。アレは間違いなく化け猫の能力『畏怖』」
 「ただ人を脅かすことだけに特化した、やつらにしかない特殊能力だな」
 「人の恐怖を、知りたがってるんじゃないかなぁ」
 少女から、先程とは異なる年相応の声が漏れた。
 『恐怖か、十中八九そうであろう』
 答えるのは少女自身。
 「となると、問題は化け猫を操っているヤツが何を望んでいるか、だな」
 男が顎に手を添えて唸った。
 「鎌イタチが『怒り』、桜が『楽しみ』、そして今回の化け猫が『恐怖』」
 女が指を折って数えていく。
 『単に我々が気づいていないだけで、他にも妖を操って人の感情を調べている可能性は高いな』
 「人の感情、か。だが何の為に?」
 男の問いに少女の中の声が応える。
 『もしもこれがワシならば、人を知り、そして』
 一旦言葉を区切る。
 『自身が人に近づくため、であろうな』
 「人に近づくため、ですか」
 女は納得したように頷くが、男の方は訝しげだ。
 「何故に人に近づくために?」
 『では何故、犬であるお主は人の姿をしている?』
 逆に問われ、男は「むぅ」と小さく唸った。
 『ワシはここにいて、ここに在らざるモノ。今回の騒動を起こしているモノもまた、ワシと同じような存在のような気がすることはワシがここに来た時にすでに話したな』
 「はい」
 「ええ」
 『ワシのような実体となる本体がすでになく情報のみの存在は、心の奥底で実体をとることに憧れを抱くのだよ』
 「そうなのですか?」
 犬の男は呟き、
 「…だから問答無用で乗り移るのか」
 憮然と女は小さく呟いた。
 『今回のヤツも、何らかの原因で実体が無い存在であるとしたら。それでいて『生まれた』ばかりの存在であるとしたら?』
 「人になるために動き出すってことかな?」
 そう、少女の声が漏れた。
 『ではないかな? だから人の感情を理解しようと様々な方法でサンプル数を増やそうとした』
 「ちょっと待って」
 女が顔を曇らせて発言許可を求める。
 「もしも、そのサンプルの中で他とは違う例があったとしたら。特異な例があったとしたら、どんな反応があるだろうか?」
 「それは」
 「もちろん」
 男と少女は顔を見合わせ、そしてはっとする。
 「ヤツは……」
 男の言葉を少女の中の声が引き継ぐ。
 『もう一度、『彼』を狙うだろう』


 時間2分前。
 店の裏の小さな公園。そこで自転車を止めてカノジョを待つ。
 時間ぴったりに、慌てて出てくるのがいつものことだ。
 空を見上げれば、西の空が赤く染まっていた。
 明日も晴れだろう。
 視線を下ろす。
 思わず身体が強張った。
 そこには黒い大きな人影が1つ。
 「お前は……っ」
 僕の目の前には先日出会った豹頭の怪人が立っていた。
 「やはり」
 怪人は一人呟きながら一歩一歩近づいてくる。
 「やはり、人間でありながらこの妖に対して耐性がある」
 僕は身構える。走って逃げ切れるか……いや、多分無理だ。
 相手は人間ではない。それお稲荷や犬神の追跡をすんなりと抜けることができる存在だ。
 「実に興味深い素体だ」
 豹の口元が引きつる。恐らく笑っているのだろう。
 怪人が一歩こちらに進むたびに、僕もまた一歩後ろへ下がっている。
 やがて。
 とん
 「ふみゅ」
 背中に柔らかいものが当たり、それはクルリと僕の前へ。
 「お待たせ。遅くなっちゃった」
 それは僕のカノジョ。小さく舌を出して笑っている。
 当然、僕の目の前にいる――カノジョの背後にいる豹頭の怪人には気づいていない、のだろう。
 「さ、早く帰ろう!」
 カノジョは僕の腕を胸に抱いて、引っ張っていく。
 3歩進んだところで、豹の怪人に頭からぶつかった。
 「あぅ、ご、ごめんなさい!」
 慌てて顔を上げるカノジョ。
 怪人と目が合い、硬直。
 「あ、えーっと、マスクお似合いですね」
 「いや、ツッこむところそこじゃないですから!」
 思わず僕がツッコミ。
 カノジョを抱きながら、後ろへ数歩下がる。
 「なるほど、妖全般に対する耐性はその娘から得たということか」
 豹頭の怪人は何かを納得しながら両腕を広げた。
 両手の指に5本づつの刃が光る!
 「え、敵なんですか?!」
 「そうだよっ!」
 あっと驚くカノジョを引っ張りながら、僕は怪人に背を向けて駆け出した。
 当然ながらヤツは追いかけてくる。それもかなり余裕で、だ。
 「お前は私の素体となりうる可能性がある。殺しはしない、安心せよ」
 「何か言ってるね」
 「そーだねっ、そんなことより良い感じの撃退方法はないかなっ!」
 僕に引っ張られながら、カノジョは「うーん」と唸り、
 僕と怪人の間で背筋を伸ばして悠然と立ち尽くす。
 そしてビシッと天を指で差して、
 「姉・召還!」
 無論、すぐ来るものではない。
 「他力本願だなっ!」
 「人のこと言えないでしょ!」
 ごもっともだ。
 「残念だが、昨日のお仲間はそう簡単には…」
 豪腕を頭上に振り上げた豹頭の怪人は、狙いをカノジョに定める。
 「…こない!」
 振り下ろす,僕はカノジョの腰にタックル。押し倒して凶刃から何を逃れた。
 「っ!」
 「え?!」
 左わき腹に痛みを覚えるが、とにかくコイツの前から逃げなくては。
 カノジョの手を取り立ち上がり、
 「うっ」
 頭から冷水を浴びたような感覚を覚える。両足から力が抜け、僕はカノジョの上に覆い被さるように倒れてしまう。
 「血がっ!」
 僕の下で、カノジョが懸命に僕のわき腹を押さえていた。
 両手が真っ赤に染まっている。それは……僕の血?
 すぐ背後に豹頭の怪人の気配。こちらに向かって鋭い爪の伸びた手を伸ばすのが視界の隅に映った。
 と。
 「ぐっ!」
 その腕が横に凪ぎ飛ばされる。
 白い旋風が僕のすぐ隣で巻き起こった。
 『鎌イタチの速度を侮る無かれ』
 「おまたせ♪」
 それは年端もいかない少女だった。
 「またお前か」
 豹頭の怪人は忌々しげに言い放ち、少女に向かう。
 両腕から繰り出される10の凶刃を神速で交わしながら、彼女もまた何らかの方法で切りつけているようだった。
 だがその攻撃は怪人の肌を通さないようだ。
 少女は一瞬、怪人の後ろを見つめる。
 「余裕は無いぞ」
 怪人の連撃が襲う。それに対し少女は彼の懐に飛び込んだ。
 彼は大きく態勢を崩し、腕を大ぶりに薙いで少女を撃退させた。
 「きゃふ!」
 鎌イタチの少女はその一撃に吹き飛び。
 隙が生まれた!
 「そこだ!」
 裂帛の覇気は怪人の背後から。
 現れたのは犬神。
 彼の右腕が、後ろから豹頭の怪人の右胸を貫いた!
 血に塗れた腕は怪人の胸で、彼を覆うように纏われていた黒い霧をしっかりと掴んで離さない。
 「教官、今です!」
 彼が叫んだかと思うと、
 『解析する』
 異なる声がその口から漏れた。
 一瞬遅れて、彼の手にあった黒い霧は煙のように消えてなくなった。
 「逃げられた!?」
 『大丈夫だ、ある程度は分かった』
 2つの声が彼の口から漏れている。
 『厄介だぞ、この相手は』
 彼のものではないと思われる声が続ける。
 『無線というのか? 人の作り出したネットワークを介して移動している』
 「移動先は?」
 『大丈夫だ、掴んでいる。それよりも』
 彼(ら)はこちらを見る。
 「大丈夫でしょう、彼女は姉とは異なる属性を選択していますから」
 犬神である彼は僕と、僕の下で僕のわき腹を押さえているカノジョを見遣って言った。
 僕は視線をカノジョに移す。
 カノジョは目に涙を溜めて僕のわき腹を押さえている。
 カノジョの手を通して、焼けるような痛みとくすぐったさが伝わっている。
 冷静に見やれば、ビールの大ジョッキをぶちまけたくらいの血が地面に広がっていた。
 結構傷は深いようだ。
 「止まった…」
 小さな溜息が彼女の口から漏れる。
 そしてもぞもぞと僕の下から這い出し、僕の顔を覗きこんだ。
 端正なカノジョの顔は、血と涙でぐしょぐしょに汚れていた。
 「ごめんなさい、私がついていながら…」
 「ついていてくれたから、血は止まったんだろ」
 笑って僕は応える。が、その声は失血のせいか掠れ、彼女にようやく伝わる程度。
 「ありがとう、助かったよ」
 言葉に、カノジョは首を横に振りつづけるだけだった。
 「ちょ、何だ、この血は?!」
 驚きの声がカノジョの背後から上がった。
 「怪我したのか!」
 視界に慌てた表情のカノジョの姉が現れた。
 「あー、大丈夫大丈夫」
 「全然ダメでしょうが。声掠れてるしっ! 貴女がついていながらこれはどういうこと!?」
 カノジョに詰め寄る彼女に、僕は腕を掴むことでどうにか引き止める。
 「これは僕の油断だから……」
 「でも」
 「むしろかなりヤバイ傷を治してくれたんだよ。感謝こそすれ…」
 口が彼女の手でそっと塞がれた。
 「分かったから。しゃべるのも辛いんでしょうから黙ってなさい」
 言って、犬神に彼女は視線を移した。
 「先生。私達は先に失礼します」
 『ああ、後で連絡する』
 犬神を通した声に、稲荷姉妹は僕に振り向いた。
 柔らかな2つの表情に、僕は安心してしまったのか急速に気が遠のいていったのだった。

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