稲荷 Confidences 2
2. 日常≒非日常



 朝。
 それは万人に等しく訪れる。
 彼女は口に食パンならぬ油揚げを一枚くわえながら、畳の上に広げた新聞を読んでいた。
 まずはテレビ欄を一瞥した後、社会欄を。
 『美濃八幡神社の封印石が破られる』
 そんな記事が比較的大きく載っていた。
 他には『飲酒運転の海坊主、逮捕』だとか『猫又見習いの術暴走、3名軽傷』などなど。
 なお新聞名は日刊もののけ新聞とある。
 「封印石?」
 彼女は気になったその記事に目を走らせる。
 内容はこうだった。
 その神社には太古に封印された『神』を祭っていた(この場合、祭るとは監視するの意)。
 封印自体はかなり強力で落ち度はなかったのだが、それを封する物自体は永遠ではないため、劣化していたらしい。
 そしてとうとう封印石にひびが入り、それをきっかけに封は破られてしまった、というのだ。
 「封印されていたのは……ふぅん、分類は女神かぁ」
 何分、昔のことで正確な記録はないが、小さな集落での神だったらしい。
 大きな力があるとは思えないが、神は神。因果律を操り得る存在である。
 「でもそんな昔の人が今の時代を見たら結構困るんじゃないかな??」
 呟く彼女。
 記事の終わりはこう〆られていた。
 『それらしい者を見かけ次第、連絡の事』と。
 彼女はちゃぶ台に置かれた玄米茶を一口。何気なく時計に視線をやる。
 時計の針は8:30。
 「……うわっ、ゆっくりしすぎた!? 走らないと間に合わないっ!!」
 油揚げを玄米茶で飲み干し、慌てて立ち上がる。
 鞄を手に取り、玄関へ。
 と、足を止めて壁に立てかけられた鏡を一瞥。
 紺色のスーツに身を包んだ、どこか幼さの残る女性の姿が映っていた。
 僅かにずれたリボンタイを直し、
 「よしっ」
 再び駆け出す。
 ばん!
 玄関の扉を開け放ち、艦載機のようにアパートを飛び出した。
 途端。
 どす!
 「きゃ!」
 「ぐっ」
 何かもぶつかり、彼女はたたらを踏んだ。
 「あれ?」
 目の前には胃の辺りを押さえた隣の部屋の男性がいる。
 「あ、おはようございます」
 「お、おはよう…ございます」
 彼は青い顔をしながら返答。
 「顔色悪いですよ、風邪ですか?」
 「う…そ、う、いうわけでは、ないんですけど。肘が良い感じで入りまして」
 「へ?」
 「いえ、なんでも」
 息を切らしながら彼は応える。
 「それより遅刻しそうなんじゃ?」
 「あ、そうでした! それでは!!」
 彼女は彼に元気よくそう答えると、土煙を上げながら駆け去っていく。
 「朝から元気だなぁ」
 見送った彼は冷や汗をハンカチでぬぐうと、空を見上げる。
 透き通った青空は秋晴れ。
 何もかもが平和に包まれているかのように思える、一日の始まりだった。


 青い空。
 白い雲。
 朝、見上げた通りの良い天気だった。
 「ふぅ」
 思わず僕は緊張の糸を切って、ほっと一息。
 ここは某ビジネス街。ちょうどお昼時である。
 僕は公園のベンチに腰掛け、空を眺めた。
 午前中は業務系の仕事に追われていたため、パソコンを睨みっぱなしだった。
 果てしなく遠い青い空を眺めていると、目が楽になる気がした。
 膝の上には近くのコンビニで買ってきた、おにぎり2つとパン1つ、そして飲み物が入ったビニール袋。
 「昼ご飯でも食べるかなぁ」
 視線を空から膝の上に下ろした、その時だった。
 「あれ?」
 何か視界に、変なモノが入った気がする。
 再度、今度は膝の上から空へと視線を上げた。
 「……ん?」
 間違いない。
 何か、そう何か変なモノが視界に入った。
 僕は今度は、ゆっくりと視線を下ろしていく。
 空から雲へ、雲から公園の木々へ。
 木々から空を眺める女性へ、女性から公園内の電灯へ。
 電灯から噴水へ…って??
 「ぬぉ?!」
 僕の視線は電灯の上へセットされる。
 そこには一人の女性が『立って』いた。
 地上およそ5mの位置。足場はもちろん片足がつける程度の、小さな面積だ。
 歳の頃は20を少し過ぎたくらいだろう、長く真っ黒な、まっすぐな髪が印象的な女性だった。
 藍色の、前合わせの着物のような変わった衣装を身に纏い、静かに空を見上げている。
 「な、何だ??」
 この公園を往く者は多いが、誰一人彼女に気づいていないようだ。
 それだけ電灯の上にいる彼女は自然であり、危なげのないものだった。
 なにせ僕だって、さっき気づいたくらいだ。
 その時だ。
 「わっ!」
 強いつむじ風が公園内を走った!
 それは電灯の上の彼女をも包み込み、ぐらりとその身が宙を舞う。
 「危なっ…?」
 思わずベンチから立ち上がる。
 が、彼女の姿はまるで今吹いた風に乗ったかのようにさっぱり消え去ってしまっていた。
 「あら、貴方には私の姿が見えるのですか」
 やや低めの落ち着いた女性の声が、言葉を吐く息と共にすぐ耳に後ろに聞こえた。
 「うぁ!」
 慌てて振り返れば、そこには電灯の上にいた女性がベンチの後ろから背もたれに肘かけて、僕の真後ろにいた。
 細めの目から覗く瞳はまっすぐに僕を捕らえ、そこからは何かを解す様な感覚を覚える。
 白い肌に映える赤い唇が、妙に艶っぽく見えた。
 「うーん、なにか貴方の中で『閉ざされて』いるみたいですね」
 「え?」
 「閉ざされているその先に、私が見える起因があるようです。これはまた面妖な事ですね」
 小さく首を傾げ、彼女はよく分からない事を言う。
 「あの…」
 「はい?」
 素直に彼女は僕の言葉に応じる。僕は何を聞こうとしたのか。
 とりあえず、
 「何で電灯の上なんかに?」
 ふと出たこの問いに、彼女は嬉しそうにこう答えた。
 「私が見える方を見つけるために、ですわ」
 「君が見える人、を?」
 「はい。そして」
 「そして?」
 「そして……お腹が空いてもうダメです」
 「ふぉ!?」
 笑顔のまま、彼女は崩れるようにして倒れ込んできたのだった。
 「ちょ、ちょっと!」
 半身で後ろを向き、彼女を支える格好になる。
 ベンチの後ろからくてっと僕に倒れこんでくる彼女は、僕の膝の上にあるビニール袋に視線が釘付けだ。
 「あの、そんなにお腹、空いてるんですか?」
 ぐー
 お腹の音で返事が返ってくる。
 仕方なく、僕は昼食だったはずのタラコおにぎりを取り出し、彼女に手渡した。
 「良いのですか?」
 「できれば自分で買いに行って欲しいですけどね。どうぞ」
 「それではありがたく、供物としていただきますね」
 「供物?」
 なんだかそう、訳の分からない単語を吐いたかと思うと、彼女はおにぎりをそのまま口に持っていった。
 「あ」
 言うのは遅い。
 「????」
 おにぎりを口にくわえた彼女は、顔いっぱいに?マークを浮かべている。
 「ほべらえむぁい」
 食べられない、そう言っているんだろう。当たり前だ。
 「ビニール包装、ついてますから」
 「ふぃにーる?」
 相当お腹が空いているのか、それともただの阿呆なのか。
 僕は彼女の口からおにぎりをすぽんと取ると、包装の矢印のマークを指差した。
 「ここを、こう。順番通りに剥くんでしょうが」
 1,2,3と、おぼつかない指先でビニール袋をとっていく彼女。
 「? あら、そうなのですか。道理で食べられないなと……あらあらあら、こうなっているんですねぇ」
 しみじみと呟く。
 「海苔もぱりぱりしているんですね。それではいただきます」
 はむ、と今度はちゃんと口に入れることができた彼女だった。
 「これは変わったおにぎりですね」
 ほむほむと口を動かしながら、彼女は小さく首を傾けた。
 「変わった??」
 「海苔も、米も、この魚の卵も、この地で取れたものではないのですね」
 「そりゃ、まぁ」
 コンビニが原材料を一括購入して作られたものだ。そりゃ当然だと思うが。
 「とても不思議な味。一口噛み締めるごとに様々な風景が飛び込んできます」
 目を瞑り、彼女はそんな不思議なことを言った。
 「もう一個、食べます?」
 そんな僕の申し出に、彼女は首を横に振る。
 「供物を『いただいた』こと自体が私の食事ですから。一つで充分ですわ」
 「?? そう?」
 なのでもう一つのおにぎりとパンは、当初の予定通り僕のお昼ご飯となる。
 2人ベンチに並んで食べながら、僕は尋ねた。
 「ところで、貴方はどういった方ですか?」
 ジュースを飲みながら僕は問う。
 それにおにぎりをようやく半分まで食べた彼女は優しく微笑んでこう答えた。
 「神様ですよ」
 あぁ、そうか。
 やっぱり電波な人なんだ。もう冬も近いというのに、春になって出てくる種類の方がどうして?
 「なんだが失礼なこと、考えていませんか?」
 「いいえ、全然。で、神様のお名前は?」
 「………」
 黙ってしまった。
 「それで、どこから来たんです?」
 「あ、えと」
 困った顔で彼女は周囲をきょろきょろと見回し、そして最後に視線を僕に定めた。
 「私がいた所は、もうありません」
 「? ない??」
 「名前も、もぅ私を知る者がいないため、ありません」
 「??」
 「私達のような神は、信じる者がいなくてはやがて消え行くのみ。拠り所となる場所がなければ、これもまた消え行くのみ」
 寂しそうな笑顔を浮かべて、彼女は言った。
 「ちょっと長すぎる刻を眠ってしまったみたいです。お寝ぼうさんですね、私」
 えへ、と言いながら自らコツンと頭を叩く。
 「もぅ力も尽きそうですし、眠ったまま消えていれば楽だったかもしれません」
 うーむ、独特なワールドを展開する女性だ。これ以上関わると面倒なことになる気がする。
 「じゃ、神様」
 「はぃ?」
 「僕が君を信じてあげる。だから…そうだな」
 びしっ、と僕が指差すのは桜の木。
 「あの木を満開にしてみて」
 そろそろ冬が始まろうとしている。当該の桜の木はすでに紅葉が始まっていた。
 これでこの電波っ子も正気に戻るというものだ、うん。
 僕の言葉に彼女は、
 「え?」
 真剣に僕を見つめていた。
 「本当ですか?」
 「へ?」
 「本当に、私を信じていただけるのですか?」
 まっすぐな、まっすぐな瞳だった。だからつい、僕は、
 「あぁ」
 と首を縦に振ってしまった訳で。
 「それでは…」
 言って彼女は立ち上がる。両手を頭上に掲げると、ゆっくりと桜の木に伸ばして一言。
 「春です。咲きなさい」
 一瞬、周囲がまるで春のようにぽかぽかの陽気になった気がした。
 直後、僕の頬に何かが触れた。
 「え?」
 それは桜の小片。
 「えぇぇぇぇ?!」
 目の前の桜の木は、紅葉をつけながらも桜色が負けじと主張し、満開に咲き誇っていた。
 驚き、口の閉まらない僕を前に、神を名乗る彼女は静かに言う。
 「すでに名もなく、帰る場所もない私ですが…」
 小さく頭を下げる彼女。上げた顔には桜に負けない満開の笑みが咲いていた。
 「貴方が信じる限り、私は貴方だけの神となりましょう」
 季節外れの桜の花に公園中の人々がどよめきをあげる中で、彼女は厳かにそう言ったのだった。

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