下弦の月が薄雲越しに冷え冷えした光を投げかける。
 コンクリートの塊が連立するビジネス街。
 その中、申し訳程度に緑の存在を許された場所がある。
 深夜の公園だ。
 月灯りよりも強い、街灯の作る明かりの傘の下に一人の男がいた。
 黒いスーツと革のコートをまとった青年である。
 夜というのにサングラスに瞳を隠し、銀色の髪を同色の帽子で覆っている。
 「ふん」
 彼は軽く鼻を鳴らす。
 「微かな神気を追ってきたかと思えば、嫌な奴に会う」
 サングラスを取る彼は、銀の瞳で木々の作る暗がりの一角を睨んだ。
 「嫌な奴だなんて、酷い事言うのね」
 彼の言葉に応じるように、闇の中から生まれるようにして現れたのは群青のスーツに身を包んだ女性である。
 見る者をハッとさせるような美しさをにじませる彼女の瞳には、からかいの色が混ざっていた。
 「こんなところで何をやっている、狐」
 「訊くだけ野暮でしょう、犬神くん♪」
 美女は青年の隣まで歩み寄ると、白い人差し指で彼の顎をなぞる。
 「ここで『匂い』は消えているわね。猟犬としてはそこのところ、どう思うのかしら?」
 「オレの出来る事は『匂いを追う』ことだけだ。消えてしまってはどうにもならん」
 舌打ち一つ、彼は吐き捨てるように言った。
 「消えてしまうということは、ここで消滅したのか」
 青年の後ろに回り、彼女は続ける。
 「ならば神気のかけらでも残っていてもおかしくはあるまい」
 「もしくは追っ手を逃れるために、何か細工をしたのか」
 「オレの鼻を逃れるような細工などありえない」
 即答する青年。
 「では。ここで変質したのか、ってことはありえるかしら?」
 「変質?」
 振り返る青年。しかしそこには彼女の姿はない。
 「神は神でも、拠り所を変えて別の神になったということよ」
 声は上から。
 街灯の上に、彼女は立っている。
 「別の神、だと? そんなことが可能なのか??」
 彼の問いに答えるのは、しかし頭上からではなかった。
 「可能。彼女を知る者が皆無となった現世であるのならば、それだけが彼女の生き残る道」
 青年が来たのとは逆方向から、一人の女性がやってくる。
 黒く長い髪を持つ、鋭い目をした女だ。
 「彼女は太古、天津神に封じられ、国津神にすらなれなかった小さな神。永き刻により忘れられ、守る民すらいなくなった虚ろな女神」
 淡々と、まるで唱えるように黒髪の女は言った。
 「いずれは消えるだけの存在だったけれど」
 とん
 街頭の上の稲荷は犬神の隣に舞い降り、こう続けた。
 「彼女は『彼女を信じる存在』をここで得て、新たな神となったのよ」
 苦い顔をして稲荷は黒髪の女を迎える。
 「厄介な事だ。仮にも起源は太古神、変質したといってもどんな特性があるか分かったものじゃない」
 対する黒髪の女は「あら?」と呟き、対称的な表情を映す。
 すなわち楽観的なそれだ。けれど瞳は笑っていない。
 「『分からない』から滅ぼそうとするのは貴方達の悪いクセですわ。この度は仮にも我々の大先輩に当たる方でしょう?」
 この言葉に噛みついたのは金髪の青年である。
 「貴様らのような粗製のカラクリの変化とオレ達を、同じにしないで貰いたいものだな」
 「そうですね、私も貴方のように融通が効かない方々と同じと思いたくありませんし」
 ジャキン!
 青年の両手の五指から剣のような爪が伸び、同時に黒髪の女は後ろへ一気に5mほど飛んだ。
 その手に握るは一振りの青みの刀身。一気に戦慄が2人の間に走った。
 が。
 「つまらないな、それはつまらないことだ、犬神くんに機神さん。そんなことに何の意味がある?」
 呟いた稲荷の言葉に、2人から殺気が消える。
 「…さて、私は帰らせていただきますね」
 背を向ける黒髪の女に、稲荷が問う。
 「なんだ、追わないのか?」
 「私の受けた指令は、滅び行く女神の速やかな消滅です。時代錯誤な彼女が現世に絶望した末、消滅の恐怖に暴走する前に消す事がお仕事でしたから」
 背を向けたまま、片手を振って機神の彼女は続ける。
 「違う『モノ』となったのなら、その必要はないでしょう。むしろ新しい我々と分かり合える存在かもしれません」
 「ハッ、そんな簡単なものか」
 犬神が吐き捨てるようにその背に向かって言葉を投げる。
 「まぁ、分かり合えればそれに越した事はないのだけれど、ね」
 稲荷もまたそう呟き、彼女とは逆の方向へ向かって青年に背を向ける。
 一人、深夜の公園に残された彼は一つ鼻を鳴らす。
 「オレにしか気づかないだろうな、猟犬であるオレにしか、やはり」
 一人である事を確認してから、彼は小さく微笑んだ。
 「懐かしい匂いがある。これはきっと、間違いなく関係していると思った方が良い」
 彼は思い出す、一年前の騒動を。
 今の彼の主と関係のある、人外のモノを愛し、そして愛された人間の、その匂いを。
 消え入りそうな彼の匂いが、間違いなくここにある事を彼の鼻は捕らえたのだった。


稲荷 Confidences 2
3. 兆し≦対立+順応


 人外のモノ達が公園に集った時間からは多少遡る。
 そこはすっかり日が沈んだ猫寝荘でのこと。
 「ふんふふんふ〜ん♪」
 鼻歌を歌いながら彼女は鍋に煮込んだかぼちゃの煮付けを大きめな皿に盛っていく。
 最後にラップをかけて両手に大切そうに抱えると、小走りに玄関へ。
 サンダルをつっかけて外へ出ると、おもむろに隣の部屋の玄関をノック。
 返事を待たぬ間にガチャリ、戸を開ける。
 「こんばんわー、かぼちゃの煮付けを作りすぎちゃって、差し入れでーって……?」
 元気なその声は尻すぼみに。
 彼女の視界に入ったのは、いつものお隣さんであるところの青年と、そして知らない女性だった。
 「あ、こんばんわ」
 変わらぬ笑顔で応える彼に、彼女の脳内で様々な過程が生まれは消える。
 もしかしてお姉さん? なんとなく目鼻立ちがにているよーな。そ、そうだったらあいさつしな
 きゃ!
 あ、でもでも全然関係なかったら? も、も、も、もしかしてカノジョさん?? いないって聞いて
 たけど、あれれ??
 そ、そうよ、そんなことないはず。自信ないけど、多分! だって変な女(ヒト)が寄らないように
 毎晩呪いを、じゃない、お祈りしてるしっ。
 じゃ…もしかして、出張なんとかとか?? ほぇぇぇ!! 若いパトスがとうとう抑えきれなくなっ
 ちゃったってこと?? そんなことするくらいなら、私がなんとかしてあげるのに…って、何言って
 るの、私。きゃーーー!!
 「どうしたの? ぼーっとしちゃて?」
 「ほぇ?!」
 彼の右手が、玄関先でぼーっとしている彼女の額に触れた。
 「ちょっと熱、あるかな?」
 「あ、や、なんでもないでござるよ? ほとばしる熱いパトスで思い出を裏切ったりとか考えてない
 ですよ?!」
 「はぃ?」
 しどろもどろな彼女は目の前の彼と、そしてその奥にいる女性に交互に視線をやり、
 「えーっと奥の方は、お、お姉さん、ですか?」
 「へ?」
 と、今度は青年の方が目を丸くする。
 「見えるの?」
 「??」
 「見えると思いますよ。だってその子、宇迦之御魂神の眷属ですし」
 2人のやりとりを聴いて、奥にいた女性がそんな事を言う。
 「うかのみ…?」
 首を傾げる青年と、一瞬遅れて、
 「きゃーーー!」
 「な、なに??」
 悲鳴を上げる稲荷なカノジョ。
 「あー、えっーと、アレですね。ちょっと失礼します!」
 「はぃ?」
 言うや否や、ずかずかと部屋に踏み込みはカノジョはきょとんとする女性に詰め寄った。
 「あ、あ、あ、貴女、よく見たら神族じゃないですかっ! 何やってるんですか、ここで」
 青年に聞こえないように小声で言うカノジョに、女性は小さく首を傾げて答える。
 「何をやっているも何も……私は彼の神様になりまして」
 「は?」
 「お隣さんですね、よろしくお願いします」
 ふかぶかとお辞儀する女性に、思わずカノジョも頭を下げてしまってから、
 「ち、違います! 彼の神様って、それってどういうことですか?!」
 「説明、いります?」
 「……」
 カノジョは、にっこり微笑む自称神の女性をじっと睨みつけ、そして背後を振り返る。
 「?!」
 突然睨まれて、思わず狼狽する青年。
 視線を元に戻し、
 「分かりました、分かりましたよっ。とにかく、私が稲荷であることは内緒ですよ!」
 「そうなんですか?」
 「そうなんです!」
 「そうですか」
 「何を2人でこそこそと?」
 やってきた青年に慌てて稲荷なカノジョは振り返り、
 「いえ、あぅ、その」
 戸惑う彼女の肩に両手を置くのは神の女性だ。
 「彼女も私を信じてくれるそうです、ね?」
 「あー、だから見えるのか」
 合点の言った顔の彼に、
 「ちがっ……あー、う、うん、そうなんです。え、えっと、とりあえずっ」
 どこか泣きそうな顔をした稲荷なカノジョは手にしたお皿を彼に差しだし、
 「かぼちゃの良いのが入ったんで。食べてくださいね」
 そう言って押し付けたのだった。


 「えーと」
 お茶の香りが立つ湯呑みを手にしながら、彼は困っていた。
 ちゃぶ台を挟んで、彼の左右に2人の女性が視線で対峙している。
 片方は警戒心を顕にした、どことなく少女の面影を残す女性。
 お隣に住んでいる、彼と同じく社会人一年生であることから仲良くなっている娘だ。
 まるで肉食獣のような鋭い目つきで相手を睨んでいる。
 時々彼にそんな視線をチラリと向けるものだから油断できない。
 対するのはのほほんとした雰囲気を纏う、こちらも女性。
 目の前の敵意をさらりとかわしている風でもある。
 先程まで着ていた時代錯誤な巫女のような服装から、今は彼の私服であるゆったりとしたシャツとチノパンに着替えていた。
 眼前の少女に比べると、どうしてもふくよかな胸にリーチがありそうだ。
 と、そんな事を思っていたら彼は少女に睨まれた。
 「で、どうするんですか?」
 「ど、どうするって?」
 思わずどもってしまう彼。
 「もしかして、一緒に住むつもりですか?」
 「あー」
 今気づいたかのように、彼は感嘆の声を上げる。
 「1つ屋根の下に! 良い歳をした! 男女が! 夜を共にするってのは!」
 文節毎に力強く区切って、彼女はビッシィ!と困った顔で笑顔を浮かべる女性を指差した。
 「善からぬことになるんじゃないでしょうか?!」
 「いや、僕はそんなことは…」
 「アナタには聞いていません!」
 「あれ?」
 青年の言葉をさくっと却下。肩透かしを食らったかのように彼は首を傾げた。
 少女が睨むのは、神を名乗る女性の方だ。
 「大丈夫ですよー」
 右手をはたはたと振りながら、女性は微笑む。
 「あ、でも彼が求めてくるのなら、考えちゃうかもしれませんけど」
 ぎゅーーー
 「しませんしませんしません」
 少女にほぼ反射的にネクタイを締め上げられながら、全否定する青年。
 女性はそんな2人を微笑ましく見守りながら続けた。
 「私は南東の方角に神棚さえあればいいですから」
 「「南東?」」
 玄関から反対側の、窓側に2人は思わず目をやる。
 パチン♪
 女性が軽く指を鳴らすと、窓の上に鳥箱のような神棚が現れた。
 「「ちっちゃ!」」
 スズメしか入りそうもないその小ささに、2人の声がハモる。
 「今の私の力ではこのくらいの大きさで充分です」
 「って、そんな小さな中に入れるの?」
 恐る恐る問う青年に、彼女はコクリと頷いた。
 「昔は社くらいの大きさが必要だったんですけどねぇ」
 神を名乗る彼女は、遠い目で頭上の神棚を見上げた。
 「貴女は…」
 少女は問う。
 「貴女は、彼に憑く前は一体何を?」
 「え? 僕、取り憑かれたのか?!」
 「キツネにも取り憑かれているみた…むむ?!」
 言葉を引き継いだ女性の口を、慌てて少女が塞ぐ。
 「え、なになに?? 何を言おうと??」
 「あ、そうだ!」
 青年の疑問を遮り、少女は「えーと」と前置きして、そして思いついたようにこう言った。
 「お、お風呂行きません? そう、そうしましょう! うん!!」
 「銭湯?」
 「そう! そこの神様にも場所とか案内できるし。うん、そうしましょう」
 「いや、どうして急に……」
 戸惑う青年はしかし、
 「お風呂ですか、何百年ぶりでしょう!」
 そう言った女神の言葉に思わず、
 「さ、行こうか」
 と、頷いたのだった。
 「あら? お二人ともどうして私から距離を??」
 別に臭くはなかったそうな。

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