稲荷 Confidences 2
4. コミカル+シリアス=??


 かぽーん♪
 ケロヨンと書かれたプラスチックの桶がタイルの床に落ちて響く音が木霊する。
 「ふぅ〜、永年の疲れが抜けていくようですねぇ」
 「そ、そうだね」
 壁一面のタイル絵は朝日に富士。
 それを背景に湯船に咽元までつかり、呟くかつての神に稲荷の娘はぎこちなく頷いた。
 「それにしても、案外私が見える人が多いものですね」
 のほほんと微笑みつつ彼女。
 先程、番頭のお婆さんに入り口でしっかりと入浴料を取られている。
 さらにそれだけではない。
 銭湯に入れ違いで、学校の帰りに寄ったのだろう、アパートの階上に住んでいる姉妹のうちの妹さんの方にも挨拶を受けている。
 遠い『従姉妹』ということでその場は誤魔化したようだが。
 「ところで、アナタは」
 「ん?」
 稲荷の少女は何かを問おうとして神を見て、しかし視界に入ってしまったものにさらにぎこちなさが増した。
 「どうしましたか?」
 問う彼女を無視し、稲荷の少女は彼女の胸を凝視する。
 「D……いえ、E? なに、この大きさは??」
 「当時は土地の豊穣神でしたから」
 小さく首を傾げて答える彼女は、稲荷の少女の胸を見て、おずおずとこう問うた。
 「ええと……胸、大きくなりたいんですか?」
 「当然!」
 全くの間隙のない返答に、かつての神は優しく微笑みながらこう言ったのだった。
 「その願い、叶えましょうか?」
 「えぇ?!」
 ざばっ!
 思わず湯船から立ち上がって迫る稲荷の彼女。
 神の名を持つ女性の目の前には、Aに達するかどうかの、しかし美乳が展開された。
 「それが叶うなら……魂すらも売るわっ!」
 「ぶ、物騒ですねぇ」
 頭に載せたタオルで額を拭きながら女神は続ける。
 「でも良いんですか?」
 「へ?」
 「それに、どうして大きくしたいんですか?」
 「そりゃあ、だって……ねぇ」
 己の胸を見て、そして女神の胸に視線を移して肩の力を落とす稲荷。
 その様子を見て、女神はこう言った。
 「貴女の意中の男性が、もしかしたら胸が大きい人は好みではないかもしれませんよ」
 「そんなことっ」
 「ないですか?」
 「う、うーん」
 少女は壁一枚向こうの男性を思い浮かべる。
 その方面は結構無頓着な感じもするが……というか、昔どこかで同じような悩みを抱いていた気もするが、思い出せない。
 「でも、大きいに越した事はないんじゃないかな?」
 「着物とか着崩れ起こしますよ?」
 「今の時代は洋服がメインだし」
 「時々着る浴衣なんかで、気を引くということも考えたりしませんか?」
 「さ、策士?!」
 ニコニコ微笑む女神に警戒しつつ、しかし一瞬後に稲荷は力を抜いた笑みになる。
 「そっかぁ……手段は色々あるよね」
 「それで、どうします?」
 「ん。良く考えてみるよ」
 ざぶっと、稲荷の少女は目許まで湯船に沈む。
 そんな彼女に女神は付け加えるようにこう言いかけた。
 「あ、それから貴女、彼と同じく記憶の上書きを…」
 「あら、奇遇ですね」
 声がかかる。
 「あ、こんにちわ」
 浮き上がり、ぺこりと頭を下げる稲荷の少女。
 それは同じアパートの住人。先程会った、階上に住む姉妹のうちの今度は姉の方だ。
 湯船にタオルは入れないというしきたりに従い、Cか、もしくはDかの胸が惜しげもなく稲荷の少女の前で揺れていた。
 「………やっぱり大きい方が良いかも」
 「なにがです?」
 稲荷の少女を挟むようにしてお湯につかるアパートの住人。
 「あ、うん。男の人は胸の大きな女の人の方が興味があったりするのかなっ…て」
 「んー、そうですね」
 彼女は人差し指を顎に当てつつ、やがて思いついたようにポンと手を叩いた。
 「大きくしてもらえば良いんじゃないですか?」
 「はい?」
 隣の女神に?と思いつつ、稲荷の彼女はアパートの住人であるところの彼女の次の言葉を聞く。
 「その気になる人に揉んでもらって、ね」
 「あら、それはなかなか面白いですねぇ」
 女神もそれに同意する。
 少女は思わず想像する、その光景を。
 想像。
 そうぞ……
 「ぶっ!」
 「「あら?」」
 彼女は何か赤いモノを鼻から噴き出し2人の女性の見守る中、静かに沈んで行ったのだった。


 「まったく何やってるんだか」
 青年は小さく笑いながら背中の彼女にそう言った。
 「ごめんなさい……」
 揺られながら、彼の背を通して伝わる暖かさを感じつつ、回した腕に思わず力をこめる彼女。
 「ちょっと苦しいよ?」
 「もぅ、のぼせた理由の1つでもあるんだからっ」
 「?? どういう意味?」
 彼は思わず視線を隣を行く女神に移すが、
 「さぁ、どうでしょうねぇ」
 ほんわりした笑みで、彼女はそう返すだけだった。



 東の空が白み始めている。
 空気は夜気に凍え、しかし人が数時間触れなかったことによる清浄さを孕んでいた。
 それは新聞配達すらまだ来ない、深夜に近い刻。
 黒いコートに身を包んだ男が、道を歩いていた。
 歩く動作だが、その速度は驚くほどに早い。
 足音すら立てずに彼が辿りついたのは、下町にひっそりと佇む一棟の古びたアパートだ。
 「ここか」
 電柱の白色灯に照らされた2階建てのそれを見上げ、彼が1歩足を敷地に踏み出そうとした時だった。
 「っ!」
 不意に2mほど背後に飛ぶ。彼のすぐ後ろにはブロック塀が迫っていた。
 「つけられていた?」
 彼は今先程までいた場所に立つ影に問う。
 「いいえ、ここは私のテリトリーですの」
 まず目に飛び込んでくるのは、日の沈む夜空よりも深い蒼の色。
 そこには鈍い蒼に輝く刀身を提げた、一人の女性の姿がある。
 白いガウンを纏い、その下にはパジャマと思しき服装が見て取れた。
 そんな彼女の手にした刀身は、アスファルトの表面を薙いでいる。まるで熱を持つナイフでバターを切ったかのような切り口である。
 「テリトリー、だと?」
 男の眉が軽く上がる。
 金色の髪に隠れた瞳で、彼は彼女の背後―――アパート一階の一室を見つめた。
 「すでに知っていたのか、奴の居場所を」
 男の目が、細まる。
 「これに限った事ではないな。何やらコソコソと暗躍しているようだ」
 一人、納得したように頷きながら、彼は半身に構えた。
 「通してもらおう」
 断言。
 「お断りします」
 即答。
 「ならば」
 金髪の男は両手を振り下ろした。途端、五指に直刀が生まれる。
 同時、彼の端正な顔には、刀のような牙が伸びた!
 「圧して通るまで」
 「させません」
 そして。
 2つの影が、衝突した!
 交錯は一度きりだ。
 何かが折れる高音と、何かが圧し通る濁音が重なる。
 少し遅れて、ちゃりちゃりとした金属音。地面に滴る液体の音。
 女の蒼い刀が、男の左手の五指から直刀をそれぞれ切り落としていた。
 男の右手の五指から伸びる刀が、女の右胸を貫いていた。
 「っく!」
 女から小さなうめきが漏れる。
 男が右手を払いのけるように振ると、女は糸の切れた人形のように地面にくず折れた。
 彼は無言のまま、アパートの敷地に足を踏み入れる。
 と。
 「ふなーぉ」
 猫の鳴き声が夜気に染み渡る。
 男の足が止まる。
 「ふなー」
 どこか間の抜けた声だ。しかし。
 しかし、金髪の男は額に汗をかいていた。
 「ぐる、ぐるるっ」
 人間の物とは思えない……むしろ犬の唸り声に近いものが彼の咽から漏れる。
 「ふなーーーーぉぉ」
 応える様に、猫の鳴き声が今まで以上に大きく響き渡る。
 そして。
 とん
 そんな足音を立てて、一匹の三毛猫が彼とアパートを挟むように現れた。
 「うぅぅ……」
 唸る男はしかし、覇気がない。
 「ふなーぉぉ」
 猫はダメ押しとばかり、夜空にそう吼えた。
 「ふなーぉ」
 「なー」
 「うにゃーぉぉぉ」
 「なぁぁぁ!」
 すると、四方八方から猫の声が響き始める。
 男は左右を慌てて見まわす、すると一つ、また一つと闇の中に光る目が生まれて行く。
 「ぐ、ぐるるるっ!」
 最後に男はそう一声唸ると、来た時以上の素早さでこの場を逃げるように去って行った。
 それを見届けるように、暗闇に生まれた瞳は次々に消えて行く。
 「ふなーぉ」
 「あぁ、大丈夫ですよー、ありがとうございました」
 三毛猫は倒れる女性の頭の近くに座って一声。
 「今、頑張って修復中です。じきに動けるようになりますから」
 「にゃー」
 「う、分かりましたよー。ちゃんと漏れたオイルの掃除しておきますってば」
 うつ伏せに倒れたまま、のんきな口調で彼女は猫に答えている。
 「ところで、どうして助けてくれたんですか?」
 「うにゃ」
 「え、棚子を助けるのが大家の役目、ですか。カッコイイです、男らしいっ!」
 「にゃ!」
 「例えですよ、分かってますよ。三毛猫は雌しかいないってことくらい。もー」
 白んだ夜空を猫は見上げ、身を一振いさせると、ようやくもぞもぞと動き始めた女性を後に、アパートの管理人室に戻って行ったのだった。

 
 黒いコートの男は足を止める。
 目の前、街灯に照らされて一人の女がいた。
 「猟犬ともあろう者が、引いちゃうんだ」
 「……キツネめ、後をつけていたな」
 「そりゃ別れ際、何か出し抜こうって感じだったしね、アンタ」
 ニヤニヤと笑みを浮かべつつ、彼女は男に問うた。
 「で、どうして引いたの? あの猫、相当な使い手だったの?」
 「……大人の事情だ」
 苦々しく男は、そう応える。
 「大人の事情?」
 小首を傾げる稲荷の女。
 「この世界は人の世界でもあるが、人の世界には我々犬と、そして猫の世界が共存している」
 「あぁ、そうみたいねぇ」
 「犬と猫の間で、住み分けができているのだ。奴はそれを持ち出してきた」
 「へぇ…?」
 分かったような、分からないような稲荷の表情。
 「あそこは猫の領域だった。あれ以上進むのなら、犬と猫の全面戦争だ、と」
 「ふーん、アンタでも一応世間体を気にしているんだ」
 「オレ一人の問題ではないからな。さすがに全世界の犬猫を敵に回せない」
 「へー」
 余り感心なさげに稲荷。
 「まぁ、私はキツネだし。関係ないかな」
 「キツネも犬科だが?」
 「はっ!」
 世知辛い世の中を感じながらも、夜が明ける。


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