稲荷 Confidences 2
5. 日常≒その先の世界


 夕暮れ間近な猫寝荘。
 こんこん
 一階の一室。そんな軽いノックの音と共に、
 ピンポーン
 電子音が響いた。
 「はーい」
 ぱたぱたとスリッパを鳴らして彼女は玄関口へ。
 「今、開けますね」
 相手を確認することもなく、無防備に玄関の扉を開けたそこには。
 「やっほー」
 陽気に挨拶の言葉を投げる、妙齢の女性。黒く長い髪を後ろに流した彼女は、緋色のスーツに身を包んでいた。
 「お、お姉ちゃん?!」
 「外は寒いわね、上がっていいでしょ?」
 「あ、うん」
 「おじゃましまーす」
 戸惑う妹に、彼女は手にしていた白いビニール袋を手渡すと勝手知ったるように部屋に上がりこんだ。
 妹である彼女はその後を追いつつ、小さな鼻をくんくんと動かした。
 香るのは手にしたビニール袋だ。早速開けて中を見てみると、
 「わぁ、らっぽっぽのポテトアップルパイだぁ」
 中身は直径20cmばかりのアップルパイが一ホール。まだほんのりと暖かく、リンゴとおいもの香ばしいさが漂ってくる。
 喜色を浮かべる妹に対して、一方突然の訪問者である姉は部屋の奥で早くも広げられたコタツに足をツッコみ、
 「飲み物は日本茶が良いなー」
 そんなことを告げている。
 「もぅ!」
 小さく微笑みながら、稲荷な彼女はキッチンへとパイを手に足を運んだのだった。


 コタツの上には四等分されたパイが一つづつ。
 湯気を上げる日本茶の湯呑みがこれまた2つ。
 それらはカチャカチャという金属と陶器を鳴らす音で、みるみるうちになくなっていった。
 「いきなりどうしたの、お姉ちゃん?」
 彼女がそう問うたのは小皿の上のパイが完全になくなってからのことだ。
 ぼんやりとつけてある14インチのTVからは、ちょうど夕方のニュースが始まる時間。
 その問いに、妹よりも艶やかさに長ける姉は、コタツに肘を立てて顔を載せながら彼女に問い返した。
 「姉が妹のところに遊びにきて、何かおかしいかしら?」
 「そんなこと、ないけど……」
 不満げに答える彼女は湯呑みに手を伸ばす。
 けっこうぬるくなってしまった日本茶をちびりちびり。
 姉はそんな妹の様子を眺めながら、そのままの流れで問う。
 「んー、そうそう、カレシできた?」
 ぷほ!
 お茶が霧状に彼女の口から放たれて、小さな虹が出来た。
 けほけほと咳き込む彼女は目に涙を貯めて抗議する。
 「突然、何を訊くの??」
 「いないの? 気になる人とかでもいいんだけど」
 首を小さく傾げて姉は訊く。
 「わ、わたし達みたいな人じゃないモノは、妖力があるんだよっ」
 「うん、そうね」
 「特定の人間の傍で長い時間、妖力を晒しちゃうととその人間をも妖化させるって、お姉ちゃんも知ってるでしょ?」
 「うん、知ってる」
 「だから…」
 「だってアンタ、そこまでの妖力ないじゃん」
 「あぅ」
 「そんな心配は、せめてしっぽが3本以上になってから言いなさい」
 「うぅ」
 「あと、免許も取ってないくせに」
 「うぐぅ」
 責めるような口調と表情だった姉はしかし、最後には優しい表情で諭ようなそれに変わっていた。
 「そんな心配、しなくて良いんだから」
 「…うん」
 小さく微笑んで、彼女は顔を上げる。
 そして彼女を見守る姉の顔を見た。
 そこに広がるのは暖かな微笑み。それが……ニヤリとしたそれに変わる!
 「だから、ゲロっちゃいな!」
 「結局、目的はそれかーーー!!」
 夜のアパートの一室に、そんな叫びが木霊したのだった。


 「あー、寒いなぁ。こんな日には鍋だね」
 早足で帰路を進むスーツの上にロングコートを纏った彼は、誰ともなく一人呟いた。
 ややそれに遅れて、
 ”それもいいですね”
 頭の中に響く声がやや眠たげだ。
 彼に神を名乗る女が取りついて早一週間。
 実体化していると力が減るとのことで、普段は朝と晩以外姿を見せる事はなかった。
 眠って力を貯めているらしい。
 「じゃ、その方向で」
 返事を聞くことなく、彼は帰路の途中にあるスーパーマーケットへと足を向けたのだった。


 電柱の上から、そんな彼を見つめる男がいた。
 金色の髪に黒いコートを纏う青年だ。その肩には3本の足を持つ奇妙な烏が留まっている。
 「どうした、まだ進展がないのか、猟犬」
 烏が言葉を紡いだ。それに驚くことなく、青年はこう質問で返した。
 「………何の害もない場合、放置しておいてはいけないのか?」
 「『上』からは消滅か、捕獲を命じられている。吾は伝令でしかなく、決定権はない」
 鳥故にだろう、表情なく言葉を返した烏は店舗から出てきた会社員の男を黒い瞳で見つめて小さく頷く。
 「なるほどなるほど、人に取り憑いているということか」
 「それが問題と言うわけではない」
 小さく鼻を鳴らして猟犬と呼ばれる青年は顔をしかめる。
 問題は、目標の男と彼の飼い主が知り合いであるということである。
 ターゲットは、とある事情で彼の正体を知っていたのだが、今現在は覚えてはいないはずだ。
 だからこそ、面倒ではあった。
 「吾に任せよ。丁度小腹も減っていたところだ」
 肩の烏が不意にそう呟いた。
 「っ?! 待て!」
 青年が肩の烏を見た時には、すでにその漆黒の翼を広げていた。
 烏は滑空する。目標の男に向かって。
 烏は背後で猟犬の驚きの気配が一瞬感じたが、それは彼に対してぶつけられる寸前に断絶された。
 気配だけではない。彼の顔を薙ぐ風も、耳に飛び込んでくる雑踏も、感じられる空気の味も香りも。
 外界から取得される情報全てが寸断されるのだ。
 すなわち時間が、止まる。
 否。
 正確に言えば、彼が時間の狭間に飛び込んだというのが正しい。
 この停止された時間の中で、彼は本来の力を発揮する。
 音もなく、遮るものも何もなく、彼は目標に向かって神威の足を伸ばした。
 過去と現在、そして未来を摘み取る、3本の猛禽の足を、彼に向かって―――


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