月が出ている。
 煌々と冷たい光を眼下の大地へと常に振り撒いている、丸い月だ。
 照らされた暗黒の大地の一角に、彼はいた。
 高句麗の都市の郊外に存在する数ある小さな村の一つ、そのまた郊外。
 大きな桜の巨樹の下、赤く長い髪を無造作に流した青年が酒瓶のままに杯を傾けている。
 彼は上を見上げていた。
 まるいまるあい月と、そして彼に降り続く桜のカケラ。
 桜の巨樹は満開だった。
 そう、今の季節は春。
 時代は我々の生きる現代からおよそ1000年以上も前。
 仙術やまじないが世の理であり、魑魅魍魎が人の世を跋扈した、古き時代の話である。


風の王国 −vol.8 月下傾夢/刀牙(A Day 3/4)


 青年は酒瓶を傍らに置いて嘆息。
 「風流、ですね」
 一人、微笑む。
 その言葉と同時に一陣の風が彼の前を駆け抜けた。
 彼の羽織る髪の色と同色の、ゆったりとした赤い道服(ここでの道服とは陰陽の理を知り、人的に行使のできる資格を有した者が着ることを許された、一種の制服のようなもの)と、長い髪が僅かに巻き上がる。
 「ん?」
 彼は前髪に隠された見えない「はず」の右目で来訪者を確認する。
 飾り気のない薄地の白い長衣だけを纏った美女の範疇に十分属する妙齢の女性だ。
 しかし美しさよりも、その全身から自然と発せられる隙のない鋭さが、軽い気持ちで異性が近づくこと躊躇わせるだろう。
 「貴女も一杯呑みに来たんですか?」
 そんな雰囲気も特に気にするでもなく、傍らの酒瓶を軽く持ち上げて赤い髪の男は背後に立って桜を見上げている彼女に振り返ることなく声をかけた。
 「そうね、一口いただこうかしら」
 凛とした声が夜の闇に生まれる。
 彼女は青年の手から酒瓶を受け取り、そのまま口にして傾けた。
 「ホントに一口だけですよ」
 青年の言葉は遅かった。
 彼女は左手を腰に当てて、まるで風呂上りに牛乳を飲むように一気に呑む。
 「?
 何か言った?」
 空になった酒瓶を闇の中に投げ捨てて、彼女は問う。
 少し遅れてカシャンと陶器の割れる音が届いてきた。
 「……いえ」
 長衣の女性は青年の隣に腰を下ろし、彼と同じく桜を見上げる。
 「春、ねぇ」
 「そうですねぇ」
 ざざざ……
 暖かな微風が桜の枝を鳴らしていく。
 それに伴い、桜色の小片が今までにも増して二人に降り注ぐ。
 「ところで、ちょっと手伝ってもらいたいのだけれども」
 肩までの髪を揺らせて、静かな時間を打ち切ったのは女性の方だ。
 「私は今、仕事を終わらせたばかりなんですけど」
 青年は己が腰を下ろす「それ」をとんとんと叩きながら応えた。
 「いいじゃないの、緊張感が抜けきってないまま次に移ったって」
 女性もまた、腰を下ろす「それ」にどんどんと拳を叩きつけて言う。
 二人が腰を下ろしていたのは、巨大な猪だ。
 全長5mはあろうか、長い年月を経て妖となった怪物である。
 しかし今はその腹部が鋭い切り傷で破られ、絶命していた。
 見渡してみると桜の木の周りは人の手の入った畑だ。だが所々巨大なパワーシャベルでほじ返されたように荒らされている。
 青年の仕事とは、この村の畑を荒らす猪の妖を退治する事であった。
 「それにね、舞台は高句麗の町なのよ」
 得意気に彼女は言うが、
 「…遠慮します」
 青年は顔を暗くして答えた。
 「何言ってるの。この機会に久しぶりに妹さんに会ってあげなさいよ」
 非難の目つきで女性は彼を睨む。その視線から逃げるように、彼は顔を背けて呟いた。
 「私達は会わない方が良いんですよ…」
 「兄妹でいられなくなってしまうから?」
 試すような女性の言葉に、背を向けた青年の肩がわずかに動く。
 「いいじゃない、もともと兄妹じゃないんだか…むぐ」
 女性の言葉は最後まで続かない。その口にはトック(朝鮮半島では一般的な食物。日本では餅に近い)が詰め込まれていた。
 「おしゃべりな女性は嫌いですよ」
 彼の言葉にしかし、トックを詰め込まれた彼女はそれを一気に呑み込むみ、憮然と言った。
 「別に貴方に好かれようとも思ってないし」
 あかんべーをしながら彼女は続ける。
 「むしろ私はあの娘の方の『味方』だから、本当のこと喋っちゃおうかしらねぇ。きっと喜ぶと思うわよぉ」
 彼女に背を向ける青年の耳元へ、そう囁いて挑発する。
 彼の肩が一瞬怒りに震える…が、力なく振り返った。
 そこには諦めの表情が映っている。
 「で、何をすればいいんです?」
 彼のその言葉に、彼女は満足げに微笑んだ。
 青年の仕事。
 それは明日の夜、高句麗の町の『乾山園』という霊園にある桜の死守―――


 それは彼が10歳に満たない頃の記憶だ。
 まだその頃は彼にも家があり、親もいた。
 彼のことを兄と慕う、彼の血族が命を賭して守らなければならない一族の少女もいた。
 世の中は今に比べて人同士が争う戦乱の世でもあったが、それでも己の周りは今の彼よりも平和だったと記憶している。
 だが、そんな平和の終わりは突然やってくる。
 「逃げろ!」
 身の丈よりも大きな斧――蛮器として知られる金剛戦斧を振りかざしながら、彼の父は背後の二人に怒鳴った。
 すでに屋敷には火の手が上がり、この地に住まう者達を根絶やしにせんとする兵士達が次々と侵入していた。
 「命に代えても、護れ」
 父の言葉に彼は無言で頷く。右手には血に塗れた短剣を、左手には少女の手を握って。
 「行くよ」
 「え…でも!」
 彼は少女の手を引き摺る様にして駆け出した。
 少女は後ろを振り返り、振り返りながらもやがて彼に合わせて全力疾走に切り替える。
 やがて背後から剣戟の音が聞こえてきた。
 その音が止まない内に、二人は屋敷から、そしてこの村から抜け出すことに成功する。


 小高い丘の上から、火の手に包まれて確実に灰となっていく生まれ育った村を二人は見下ろしていた。
 「くそっ!」
 それを見つめる少年の髪は地の色以上に赤く映える。
 「一体、どうして」
 少女が呆然と呟く。熱気の孕んだ風が彼女の長い黒髪を舞い上げていく。
 そして二人は見つける。
 いや、見つかった。
 炎の上がる村からこちらに向かって、幾人もの兵士達が二人に向かって駆けて来るのを。
 彼らの言葉は異国のものだ。
 だが、彼には内容はなんとなく分かっていた。
 『娘を殺せ』
 一族の王の娘である傍らの少女の命を奪わんと、異国――高句麗軍の兵士達が殺到してくるのだ。
 「逃げるよ!」
 「う、うん!」
 少年は少女の手を引いて再び走り出す。
 だが相手は大人だ。それもいくつもの戦いを経験してきた兵士である。
 両者の距離はあっという間に詰まっていく。
 「「あっ!!」」
 二人の足はそして止まる。
 目の前に川が立ちはだかっていたのだ。
 それも昨日の大雨でのたうつ蛇のように濁流と化している。
 「どうしよう…」
 少年の袖をぎゅっと掴み、少女は彼を見上げる。
 少年は片手に握った短剣を握り締めた。
 「動くなよ、小僧ども」
 「「!?」」
 この国の言葉が投げかけられた。
 川から目を離し、二人が振り返るとそこには三人の異国の兵士の姿。
 「っ!!」
 少年は短剣を正眼に構え、両の目で敵を睨む。
 「おいおい、やる気か?」
 兵士の一人が薄ら笑いを浮かべて抜刀した。
 その刀身には真新しい赤い曇りが浮いている。
 少年は少女を一瞥。
 「な、なに?」
 少年の鋭い視線に少女は僅かに怯えながら問う。
 彼は一言。
 「生きろ」
 「え…」
 少女を川に突き落とした!
 「んな!!」
 驚きに目を丸くする兵士に、少年が駆ける!
 幼い右手が、しかし確実な手ごたえとともに一閃。
 抜刀していた兵士の首が、力なく垂れ落ちて赤い噴水が上がった。
 「油断するなっ」
 残る二人の兵士のうち、一人が叫んで抜刀。
 だが遅い。
 すでに少年は彼の懐に入り込み、唯一の刃を左胸に突き立てていた。
 「小僧!」
 最後の一人が倒れ行く兵士から身を剥がした彼に向かって剣を一閃!
 「くっ!」
 強い頭部への衝撃と伴に、少年の右の視界が赤く染まった。
 「まだ!」
 彼は動ける,今倒した二人目の兵士の剣を転がりざまに拾い、渾身の力を込めて残る兵士に投げつけた!
 「うぐっ」
 彼の投げた剣は、体勢を崩していた兵士の喉許を突き刺して、兵士ごと地面に伏せさせた。
 「はぁはぁはぁ……」
 少年は膝をつく。右目から彼の髪よりも赤い血がこぼれるように流れる。
 残る左目で、少女を突き落とした激流を見た。
 すでに彼女の姿はない。溺れ死なないことを祈るばかりだ。
 「う」
 彼は出血の為、遠くなりそうな聴覚で近づきつつある複数の馬の足音に視線を川から外した。
 やがて一個師団と思われる一軍が彼の前に姿を現す。
 気丈に短剣を構える少年。しかし多量の出血の為だろう、その足も腕も震えている。
 「逃げられたか?」
 「よもやこの濁流の中、生きてはいないでしょうね」
 一歩前に出た二騎が、少年を見ることなく話し合う。
 指揮官と思われるきらびやかな鎧武者と、対称的に軽装の女性だ。
 と、鎧武者が初めて少年に気づいたように彼を見下ろした。
 「子供と思って油断したか、どのみち我が部隊には不必要な兵だな」
 身構える少年から、命の途絶えた三人の兵士へと視線を移して、吐き捨てるように彼は言う。
 「あら、この子の腕がたつとは思わないの?」
 軽装の女性は試すように鎧武者に問うた。
 「どんなに腕がたとうと、三人の大人相手に勝てるというのは大人側に油断があった以外のなにものでもない。どのようなネズミが相手であろうと全力を出して叩くのが我々の部隊の基本だ」
 そして彼は馬から下りて腰の剣を引き抜いた。僅かにそれ自体が光を放つ両刃の剣である。
 神を守護する虎頭の騎士が用いるとされる神器――真光剣と呼ばれる銘刀だ。
 「ちょ、ちょっと!」
 慌てる女性。しかしそんな彼女とは対称的に後ろに控える兵士達は無表情に鎧武者を見守っていた。
 鎧武者に相対する少年が先に動く!
 短剣の銀色の光が鎧武者の喉許を狙って突き進む。
 ギィン
 金属音を立てて、少年は手にした短剣に引っ張られるように地面に叩きつけられる。
 鎧武者が無造作に剣を横に払ったのだ。その刃を短剣で受け止めたのである。
 そんな少年に両刃の剣を振り下ろす鎧武者。
 身をかわす暇もなく、彼は唯一の短剣でそれを受け止め……
 「がはっ!」
 剣に伴われた衝撃波が少年を大地に叩きつけた。
 そして彼はそのまま動かなくなる。
 「馬鹿!
 子供になんでここまでするのよっ!!」
 女性もまた馬を下りて、動かない少年に駆け寄って抱き起こす。
 全身を見えない力に強打された上、右目からの出血で虫の息だ。
 鎧武者は彼女の言葉を聞く事なしに、部隊へ指令を伝える。
 「村の消火に当たれ。逆らう者へは掃討をかけろ。すみやかに占拠し、次の戦いに備えるのだ」
 「「はっ!!」」
 そして部隊はそれぞれ散っていく。
 「貴方らしくないわよ」
 非難をあげる仲間の女性に、鎧武者は背を向ける。
 「そいつが望んだことだ」
 「どういうことよっ」
 鎧武者もまた騎上の人となり、女性の胸の中で気を失う少年に小さな笑みを向けた。
 「我々の足止めさ。「もしも」川に流された姫が生きていれば、この余興は彼女が逃げおおせるには十分な時間だ」
 「え……」
 「先に行っているぞ」
 鎧武者は言い残し、村へと戻る。
 後には困惑した女性と、瀕死の少年が残されるだけだった。


 「旦那、着きましたよ。旦那!」
 「あ、ああ」
 ガタゴト揺れる荷馬車にてんこ盛りに盛られた干草。
 その上で青年は、穏やかな昼の光の中で目を覚ました。
 自然と閉じられた刀傷の残る右目に手が伸びる。
 「久しぶりの夢、ですね」
 呟く。そして、
 「おじさん、ありがとう」
 「おぅ、旦那も気をつけてな」
 彼は御者の中年の男に一礼。荷台から飛び降りた。
 ここは高句麗の町。
 半島で最も栄える都市だ。
 去り行く荷馬車を見送り、赤い髪の青年は大きく深呼吸。
 彼の立つ大通りには同じような荷馬車が行きかい、華やかな着物で着飾った女性を呼び止める露店売りの商人や、籠いっぱいの芋を抱えて売り歩く農民などの様々な人の姿が見て取れた。
 「さて、時間までどうしますかね」
 一人でそう言葉を呟きながら、人の流れに乗って歩き出す青年。
 しかし先程見た幼い頃の夢を思い出し、自然とその足は一定の方向に向けて進んでいったのだった。
 


 高句麗の都の中心に座する高句麗城。
 その広大な土地の中には、この国の政治を取り仕切る全てが詰まっている。
 そんな土地の一角に青年は足を踏み込んでいた。
 ある人物に会うため、だ。
 「相変わらず堅苦しいですね」
 「そうかな、慣れじゃないの? オイラは何とも思わないけど」
 彼の言葉に応えるのは辮髪の男だ。
 彼と同じ陰陽の道服に身を包んだ、しかしこの土地の人間にはない青い目を持っている。
 異国の人間の血が混じっているのだろう。
 人懐こそうな笑顔で、辮髪の彼は続けた。
 「猪の怪を一人で倒したんだって? 結構大変じゃなかったかぃ?」
 「現れるのを待っているのが面倒だっただけですよ。それに貴方も一人で牛魔王を倒しに行かれたと聞いてますが、そちらの方が大変だったのでは?」
 「んー、まぁ、なんとかなったさー。って、あれは?」
 辮髪の彼は、通路の向かいからやってくる人影に気づいて指差した。
 それは浅黄色の着物を着た少女だ。暗い顔で俯いてこちらに向かってくるが、二人には気づいていないようだ。
 「よっ、元気?」
 「久しぶりですね」
 立ち止まった二人に、少女は、
 どん
 「あたっ!」
 ぶつかった。
 「もー、どこ見て歩いてるのよっ!」
 剣呑な目つきで二人を見上げる少女。その目つきが数瞬後に驚きに変わる。
 「あー、久しぶりじゃないの。どーしたの、二人して」
 「たまたまオイラが仕事の報酬受け取りに来た時に会ったんだよ。偶然偶然」
 辮髪の青年が垢抜けた笑いを浮かべながら言う。
 「そうなの?」
 少女は赤い髪の青年に問う。
 「そうですよ。それよりも浮かない顔をしてどうしたんですか?」
 「聞いてよー、ちょっと遅刻したくらいでさぁ、ウチの上司ったらすぐ怒るのよっ!!」
 それから数刻、二人の青年は少女の愚痴に付き合わされることになるのだが、赤い髪の青年の方は途中で辮髪の友を犠牲にして、その場を抜け出したのだった。


 木蓮の花が中庭に咲いている。
 そして彼が足を踏み込んだ部屋には、一人の書士が机に向かっていた。
 「こんにち…」
 そこまで声をかけて、彼は口をつむぐ。
 くすんだ赤い道服に身を包んでいる、先程の少女と同い年くらいの子だ。
 彼女は春の暖かな陽気に、幸せそうな寝顔を見せていた。
 赤い髪の青年は足音を立てないよう、静かに彼女に歩み寄る。
 まず目に入るのは彼女の腰まではある、長くまっすぐな髪は無理矢理染めたような赤い色だ。
 「せっかくの黒髪が台無しですね」
 彼は苦笑しながら、机の上に流れるその赤い髪を一房手に取った。
 さらりとした柔らかな触感は、良く頭を撫でてあげた幼いあの頃と変わらない。
 「ん」
 何か夢を見ているのか、小さく唸る彼女。
 そんな彼女の幸せそうに見える寝顔を見つめながら、赤い髪の青年は幼い頃より課せられた己の使命を心の中で反芻した。
 彼女が目を覚ますまでの僅かな時間。
 彼は護るべき姫君の平和な時間をその傍らで感じ取り、満足げに微笑むのだった。


To be continued , The Last Chapter ...


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