風の王国 −vol.9 紅い月/All Cast(A Day 4/4)
時は深夜。
燃え盛る炎の中に人影が一つあった。
今まさに焼け崩れんとする森の中の一軒屋。
その木製の骨組みから舞い散る火の子をもろともせずに、しかし今にも周りから迫りくる炎に燃え尽きてしまいそうな細い影。
それは妙齢の女性だった。
炎の中に白く映えるゆったりとした長衣を羽織り、闇夜に浮き出るような派手な豹柄のケープをまとっている。
「さすがに天下の大義賊の息子ってトコかしらね」
笑ってはいるが、口調は忌々しげだ。
「でもこうしてアジトの一つは潰したんだから、善しとするかな」
自らに言い聞かせるように一言。
そして彼女は炎の中、頭上を見上げた。
天井は焼け落ち、夜空が覗いている。
満点の星空が見えてもおかしくはないのだが、いかんせん、今彼女の立っている場所は星空から見下ろした場合は月のように明るい。
「機会は次が最後でしょうね」
溜め息一つ。
視線を元に戻した。
と、その時、とうとう火の手が彼女へと伸び、豹柄のケープに燃え移ったではないか!
だがしかし、それを冷静に見つめながらも炎の中の女は呟く。
「炎…赤い…あ、そうだっ、手伝ってもらうかな、彼に」
わずかに微笑み、彼女は両手で印を切る。
すると女の姿は忽然と消え去り、主を失った豹柄のケープだけがふわりと炎の海へと落ちて燃え尽きていった。
高句麗の都の東端。
桜散る春のうららかな陽気の中で彼女は歩を進めていた。
やがて一軒の衣類店へと足を止める。
とは言っても一般的とは言いがたい。
異国の情緒があふれる衣類のみがそろった、いわゆる輸入衣類店と言うべきか。
「ねぇ、いる?」
彼女は薄ぐらい店の奥に向けて声を放った。
しばしの沈黙の後、
「おや、久しぶりだね雪豹。今日は何の用かな?」
親しげな口調で現れたのは若い男だ。
しかしこの国には珍しい金色の肩まで届く長い髪と青い瞳、白い肌を有している。
「私の用事っていったら一つしかないでしょ、ヴァレリウス」
雪豹と呼ばれた彼女は小さくむくれて、異国の青年に言い放つ。
「お気に入りの豹柄のケープが燃えちゃったから、代わりを買いにきたのよ。それくらいも分からないの?」
青年は改めてまじまじと彼女を見つめる。
確かに以前、人並み以上の美貌を持ちながらも洒落っけのない彼女に見かねて、彼女の誕生日への贈り物として西洋で流行っているケープを手渡した覚えがある。
そうだ。
派手かとは思いつつもおしゃれに目覚める刺激になればと思い、豹柄を贈ったのだ。
「ああ、そうかぁ。使ってくれていたんだね」
「んー、ま、まぁね」
ゆったりとしたヴァレリウスの満足げな笑みに、雪豹は思わず顔を赤くして背けてしまう。
そんな彼女を眺めつつもヴァレリウスは、彼女の来訪の真の意味も知り、目的の「もの」を取りに店の奥へと戻っていった。
「って、なんで私が顔を赤くしなきゃいけないのよ…って?」
雪豹は彼の後姿を見送ると、そう小声で愚痴る。
その愚痴はしかし、視界の隅に入った、ちょこちょこと動く浅葱色によって中断される。
「わぁ、きれい……」
感嘆の念を込めた少女の声がそこから聞こえた。
雪豹は視線を巡らせる。
すると店の前に飾られている西方の婚礼服を、憧れの眼差しで見上げる浅葱色の着物を羽織った少女の姿を一人見つけた。
まだ可憐さよりも可愛さと言った方が似つかわしい、幼さが残る横顔に彼女は声をかける。
「これはずっとずっと西方にある仏国って所で新婦が着る婚礼服なのよ」
かつてヴァレリウスにもらった答えをそのまま口にする。
「へぇ…え?」
雪豹の言葉にちょっと驚いた顔で声に振り返る少女。
「綺麗でしょう?」
「ええ…こんなの着て結婚式やったら、幸せでしょうねぇ」
まさに『夢見る少女』の面持ちで応える少女に、雪豹は笑って応える。
「カレシに買って貰ったら? 滅多にお目にかかれないわよ、コレ」
「え、いや、それはちょっと」
いないのかな?と思ったりするが、少女の視線が値札に走っていたのに気付いて雪豹は苦笑。
確かに『普通の』人間がおいそれと買える価格ではない。
「おまたせしました、ありましたよ」
店の奥からヴァレリウスの声が届き、少し遅れて姿を現した。
「おや、いらっしゃいませ」
彼は雪豹の隣にいる少女の存在に初めて気付き、営業スマイル。
「あ、こ、こんにちわ」
少女は慌てた風にぺこりと頭を下げた。
「ゆっくりご覧になっていってください」
外国人であるヴァレリウスの容姿に多少驚いた表情の少女に、当の本人はいつもの柔らかな笑顔だけを向けると、雪豹に手にしたものを広げる。
それは豹柄のケープであるが、今まで彼女が愛用していたものとはやや黒斑が大きなものだった。
「これは如何です? さすがに前と同じものは見つかりませんでしたよ」
「んー、そうねぇ」
雪豹は顎に指を当てて一瞬考え、彼から受け取ったケープを纏う。
「ま、これでいっか」
「もぅ代えはありませんから、次回の仕入れまで燃やしたりしないでくださいね」
困った表情でヴァレリウス。
「次回の仕入れっていつよ…」
「私が国に帰って、またこちらへ戻ってくる頃です」
「だからそれっていつよ」
雪豹は苦笑い。来れを燃やしてしまったらもう替えはないということだ。
「あ、おじゃましました!」
元気な声に、雪豹とヴァレリウスは少女の存在を思い出す。
「あら、もぅ行ってしまうの?」
「何のお構いもできずに申し訳ありません。またのご来店お待ちしております」
応える二人に少女はもう一度、ペコリと頭を下げて店を後にしていった。
「悪い事をしてしまったなぁ」
その後姿を見送りながら、店主であるヴァレリウスは困った顔。
「大丈夫よー、私がちゃんと接客しておいて上げたんだから」
得意げに胸を張る雪豹に、
「それが一番悪い事だったなと思って…ぐふ」
最後の『ぐふ』は脇腹に雪豹の肘鉄がめり込んだ為である。
「ったく」
彼女は改めて豹柄のケープを広げて己の肩にかけた。
すると彼女の右手には黒ずんだ石の嵌まる2つの指輪が残る。
「それを使うほど、今回のヤマは厄介なのかい?」
「……言わば保険よ」
問うヴァレリウスに答えながら、雪豹は両手の中指それぞれに指輪を嵌める。
すると黒ずんだその石からは僅かな燐光が漏れて、そして消える。
「ちゃんと返しに来るから安心してよね」
「俺の物じゃないだろ。君の姉さんから預かってるだけだし」
「このまま私が戻らなくて指輪が戻ってこないと、姉さんは貴方に怒るかもよ?」
冗談っぽく笑いながら、そう雪豹はヴァレリウスに振り返った。
しかしヴァレリウスは神妙な顔で彼女を見ている。
「……俺も手伝おうか?」
真剣に気遣う表情をされて、彼女は慌てて首を横に振った。
「だ、大丈夫よっ。私は勝算のない仕事はやらない主義なんだから」
「だが人手はいるんじゃないのか?」
「その点は解決済み!」
自信を持って雪豹は言い放つ。
「切られたり殴られたり潰されたりするのに馴れてる専門家を連れてきてるから」
「………」
しばらく見詰め合う二人。
「そんな職業じゃなくて良かったよ」
溜め息をついて視線を外したのはヴァレリウス。
彼は心底、今回の彼女の相棒に同情の念を思うのだった。
天を仰げば夕日もその残滓を僅かに西の空に残すのみ。
大きく丸い、そして赤い月が浩々と空と、そして地を照らしていた。
ここは高句麗の町の喧騒からは外れたところ。
しかしその中心地に極めて近い。高句麗城に多数ある倉庫のうちの一つだ。
数ある宝物庫のうちの目立たない一つであった。
「いつもこんな仕事してるのかい?」
「たまたまよ」
周辺には城の関係者の姿も無い。
宝物庫である小さな二階建ての倉の前には、辮髪の青年と浅葱色の着物を纏った少女の姿がある。
「この中には何があるんだろ?」
「んー。なんでも珍しい宝珠があるんだって」
辮髪の彼の質問に、着物の少女はそう答えた。
「そうそう、椿水ちゃん。こうして仕事に付き合ってあげてるんだから、ちゃんと約束守ってよぉ」
西洋人の血を引く証である青い瞳を少女に向け、彼は陽気に言った。
「何よ、ポルコ。今守ってるじゃない」
「?」
彼――ポルコは首を傾げる。
「ちゃんと『今』デートしてるでしょ?」
「………そっか、なるほど、こりゃ得したなぁ」
あはは、と素のままに嬉しそうに笑うポルコに、呆れ顔を向ける椿水。
と、
「誰!」
「動くな!」
瞬時に二人に殺気が走り、背後の倉に振り返り誰何の声を上げた!
ポルコが手にする白玄の力を宿した槍の穂先が、倉の扉に突き付けられている。
そして何も無いはずのその穂先からは、じわりと赤い血が滲んでいた。
「あらら、ばれてしまったか」
男の声がしたかと思うと、扉の前に一人の青年の姿が唐突に出現した。
彼のその首筋にはポルコの持つ槍の穂先が僅かに刺さっている。
「盗人かっ!」
椿水が確認する。
おかっぱ頭をした若い青年は肯定するでもなく否定するでもなく二人の門番を見つめている。
「何を盗もうとした、言いなさい!」
彼女のその言葉に、その盗賊は含み笑いを漏らす。
「何がおかしいんだい?」
ポルコは眉をしかめつつ、そう問うた。
「知らないのかい? ここに収められているのは竜の珠と呼ばれる、何でも願いの叶う宝珠さ。それをこうして奪いにきた以外にあるかい?」
言って青年は懐から拳大の丸く白い球体を取り出した。
「何でも?」
「願いが??」
警戒しつつ、椿水とポルコはその球体を見つめる。
「そう、それも10年に一度の赤い月の昇る満月の晩だけ。それが…」
「今日、ね」
「「?!」」
盗賊の言葉を続けたのは女性の声だ。
驚きつつも、ポルコと椿水は声のする背後に注意を分散する。
闇夜の物陰から姿を現したのは礼服に身を包んだ妙齢の女性。
二人、いや盗賊を含めた三人は彼女の存在に息を呑んだ。
彼女の纏う礼服は帝職と呼ばれる、この高句麗国王朝から一流と認められた者のみが着こなす事の出来る装束であるからだ。
無論、その帝職についている人間など、両手で数えるほどしか存在しない。
「仙術を極めた仙女……雪星か」
悔しげに下唇を噛んで睨む盗賊。
「そう言う貴方は……駆け出しの盗人?」
「違うわぃ! 伝説の大盗賊になる予定の沙棘様さ!」
槍を突きつけられながらも胸を張って言いのける盗賊・沙棘。
そんな彼に、雪星は一言。
「名前控えておきなさい」
「「はーい」」
「あーー!」
沙棘が叫ぶがすでに遅い。
椿水はしっかりと捕り物帖に彼の名前を記入する。
「ま、まぁいい」
沙棘は気を取り直し、余裕の表情で続けた。
「ともあれ、帝職が出てきても恐くも何ともない、僕にはこれがあるからね!」
右手を空に掲げる!
……だが手にしているのは毬だった。いつのまにか差し換えられたのだ!
「あ、あれ?」
「口上が長いのはよろしくない、隙が必ず生まれる物だ」
今度は男の声が雪星の隣から。
そこには何時現れたのか、仙女と同じ帝職のみが着る礼服を纏った男が一人。
腰には月齢によって特殊な能力を示すといわれる伝説の銘刀「月夜剣」を提げている。
この剣を持つ帝職の男と言えば雪星と同じく有名である。
「智風っ!」
歯軋りを立てて沙棘は鞠を地面に叩きつけると、手を後ろに回して何かを取り出した。
それは持っていた鞠よりも一周り大きな黒い球体。
「あれは煙玉,逃がすな!」
智風の言葉は遅かった。
「覚えておけ、この沙棘様の名前をっ!」
鞠と同じく沙棘は煙玉を地面に叩きつける。
どむ!
一際大きな爆発音が轟いた!!
もうもうとした煙に辺りは包まれる。
「げ」
沙棘のうめきと、
「煙玉なのに……爆風で吹き飛ばされ…た」
途切れ途切れの弱々しいポルコの言葉。
「今、「げ」って言ったでしょーーー!」
そして椿水の叫び。
「少しくらい調合間違えたって良いだろー、さらば!」
沙棘の捨てセリフを最後に、一同の咳き込みが始まったのだった。
仄かに香る甘い香りは花の――桜の花の香りだ。
それは意識すると幻のように消えてしまう、僅かで控えめな香り。
嗅覚に訴えるものは微弱な桜の花だが、それを補うように視覚に訴える力は強い。
今、赤く長い髪の青年は、迫り来るような圧倒感を持った桜の木の下で呆然と頭上を見上げていた。
咲く誇る白い花々はまるで戦場で弾ける瀑布のような迫力で彼と、そして彼の右腕を抱いて同じように見上げている少女を見下ろしている。
「うん、確かにこりゃすごい」
「……ん」
青年の言葉に少女は小さく頷く。
「まぁ、ここが墓地じゃなきゃ、もっと良かったんですけどねぇ」
遠く夕暮れ時の町の喧騒を聞きながら、男は苦笑い。
ここは乾山園。
高句麗でも指折りの美しい桜が一本ある、霊園である。
「でも」
少女の囁くような小さな声に彼は耳を傾けた。
「でも、静かだから良い。それに、兄様と花しか見ないから」
二人を見下ろす桜の木。
さらにその木を見下ろす赤い月はますますその赤みを増して行った。
「酷い目にあったわ、大丈夫?」
顔を含め、あちこちを煤で黒くした椿水は身を起こしたポルコに問う。
「うん、ありがとう」
沙棘の煙玉の『爆発』で不覚にも怪我を負ったポルコだが、椿水の仙術によりどうにか復活して首をぽきぽき鳴らす。
元気そうなポルコを見て椿水は安堵の溜め息一つ。
その視線を智風と雪星の二人に移した。
やや離れたところにいた二人は煤の被害は受けていないものの、視界を奪われ、咳き込みも手伝って、沙棘は結局逃してしまっていた。
椿水が見つけたのは智風の手の中にある『竜の珠』である。
「あれ、その竜の珠…」
白いそれは真中で真っ二つに割れていた。
「ああ、さっきの爆発は案外大きかったからね。あの衝撃さ」
苦笑いの智風。
それに対し、雪星は軽く笑って応える。
「良いのよ、これは偽物だから」
「へ?」
「本物は何処に??」
首を傾げる椿水に、ポルコ。
「10年前に行方不明よ」
「当時、盗んだ奴は凄腕だったが、結局捕まったという記録がある」
雪星の答えに智風が付け加えた。
「凄腕の盗賊かぁ、なんて名前?」
興味津々といった風にポルコが身を乗り出した。
「それが記録にないのよ。まるで歴史から抹殺するようにねー」
「おい、雪星。そんなことをぺらぺら喋っちゃ…」
「良いじゃない、別に。私達だって知らない事なんだし」
諌めようとした智風を雪星は笑って一蹴。
「歴史から抹殺ってことは、当時の実力者達が結構痛い目に遭ってて、それを世間は歓迎してたって事じゃないですかー?」
「せ、正論ね」
陽気に笑いつつも的確なことを言うポルコに雪星は意外なものを見る目で彼を見つめた。
「捕まったその盗人はどうなったのかしら?」
「殺されたんじゃないのかぁ?」
「幽閉だ」
「「え?」」
椿水の疑問に智風がはっきりと答え、その答えには雪星すらも首を傾げた。
「今でも『幽閉』されている事になっている」
「えー、でも今牢獄にはそんな感じの人いないわよ」
「牢獄にではない」
「?? じゃ、何処?」
智風は雪星に真剣な面持ちのまま、こう答えた。
「霊園・乾山園だ」
「ど、どういうことです? 死んでなお、その魂を拘束しているということですか?」
椿水の言葉に雪星は僅かに考え、小さく首を横に振った。
「そんな仙術があったとしても、今では禁忌だろうし。それに智風の言ったことも元々は記述間違いかもしれないわ。まぁ、気になるんだったら暇な時にでも調べてみなさい」
優しく微笑み、彼女は「んー」と伸びを一つ。
「じゃ、後は頑張ってね。さっきの沙棘みたいな『竜の珠』の噂を聞きつけた盗賊が今夜は多いと思うから。さ、智風、次の宝物庫も点検するわよ」
「ああ。では二人とも、ここは頼むぞ」
「「は、はい」」
そして二人の帝職は再び椿水とポルコをここに残して他の宝物庫も点検すべく背を向けたのだった。
乾山園で桜の花を見上げていた赤い髪の青年――刀牙が枝の間に見えた月の高さに気付いたのは遅くなってからだった。
「しまった……」
小声の呟きは彼にもたれる様にしていた少女の耳にも入る。
「どうしたの、兄様?」
「ああ。時間が経つのが早いなと思ってね」
困った笑いを浮かべて刀牙は妹――夜想の頭を軽く撫でる。
「もぅ、今日は帰りなさい。私はこれから仕事…」
言葉が途中で途切れる。
「む」
「うっ」
桜の木の下、二人は同時に口元を袖で覆った。
瞬時にむせ返るほどの瘴気が場に満ちたのだ。
『解放しなくては、私が救わないで誰がやるのだ…』
「こ…声が、聞こえる」
「夜想!」
心ここにあらずといった感じでふらりと歩き出した少女の細い二の腕を、刀牙は荒々しく掴むと逃がさないように抱き寄せる。
「悲しくて、恨めしくて、そして懐かしい…父さまや母さまが使っていた言葉」
彼の胸の中で夜想はぼぅっとした表情でそう呟いた。
「完全に瘴気にあてられたか」
やがて少女の体から力が抜ける。異常なほどに濃密な瘴気に気を失ったのだ。
仙術を得てとする彼女はもともと霊媒体質が高い,もろに影響を受けてしまったのだろう。
彼女の体をその場に寝かし、刀牙は腰の剣を抜き放つ。
仄かに光を放つ両手持ちの直刀だ。
虎頭の騎士が用いることで有名な『真光剣』と呼ばれる本来、人外用の刀である。
「何者だ」
刀牙は誰もいない桜の木に向かって問うた。
応えはすぐに来る。
「桜がキレイだろう?」
男の声だ。
一際太い枝の一本に男が立っている。
革製の鎧を纏って、腰には一振りの刀を提げていた。
彼は続ける。
「ここには10年前に、天下に名高い義賊の中の義賊がその命の火を消された場所なのさ」
刀牙は剣を下ろしつつも抜き身のまま、枝の上の彼を睨む。
「英雄と呼ばれた彼の命を吸って、この桜はこんなにキレイに咲いている。そう、今でも彼は命を吸われつづけているんだよ。当時のこの王朝に仕えていた仙人と魔術師達の呪いさ」
「魂さえも樹木の養分にされる、古き禁忌の術ですね」
刀牙の前髪で隠れていない左目が細められる。
「彼は俺達のような小数部族の光だった。力の支配による圧政を広げ続ける高句麗の支配者達に恐怖と絶望を、そして貧しき者達にはその奪った富を常に分け与えた」
遠い過去をまるでその瞳で見つめているかのように、枝の上の彼は言い放つ。
「この英雄は遊撃を得意とする、できない事は何もないと言わしめたほどの、神の如き力を有した大義賊だったんだよ。俺達の一族の誇りだった」
最後の一言は刀牙にとっては懐かしい発音を含む異国の言葉だった。
だから彼もまたその言葉で応える。
「北の遊牧民…尭族か、君は」
「ほぅ、その言葉は。君も尭族なのか? 俺の名は秀玲蘭だ、中原では名の知れていた秀の血族さ」
刀牙は答えない。
「覚えているか? 我々は支配されてきた。ただ静かに仲間達と暮らしたいだけなのに、この王朝に力ずくで従わされてきた」
やはり刀牙は秀玲蘭に応えない。彼は続ける。
「何もかもを受け入れなければ滅ぼされた。押し付けられる正義は、俺達にとっては正義でも何でもなかった、そうだろう?」
「お前は何をするつもりだ?」
静かに、しかし重く刀牙は問う。
秀玲蘭は腰に提げた袋から拳大の白い球体を取り出した。
それはすでに青白く発光しており、とてつもない力を感じさせていた。
放つ光は心臓の鼓動のように明滅している。
「この竜の珠で…伝説の英雄を復活させる!」
彼は叩き付けるように竜の珠を真下――桜の木の根元に投げつけた。
竜の珠は柔らかいものにめり込むかのように、ずぶずぶと地面にめり込んでいく。
「彼の復活を、この高句麗王朝の支配を覆す第一歩にしてやる!」
自信に満ちた表情で秀玲蘭。
そんな彼に刀牙は剣を構え直した。
殺気がその全身にほとばしる!
「昔の私なら、君に協力していたかもしれない」
枝の上の秀玲蘭を見つめながら続ける。
「だが、今の私の望みはこの子の安息と平和」
背後で苦悶の表情のまま気を失った妹を一瞥する赤い剣士。
彼は続ける。
「たとえ今の平穏が同胞の血の上に成り立ったおぞましい物であるとしても、この子が現在、平和である事には変わりない。それを破る事は、私が許さない」
言いきった彼に、秀玲蘭は腰の剣を抜き放ち、そして叫ぶ。
「享受するというのか、この一方的な押し付けがましい平和を。圧倒的な力でのみ、正義を正義と証明付けるこの世界を」
「それは今の君にも言える事だろう?
古の英雄を復活させる事は力で今を否定する事ではないのか?」
睨み合う二人。
先に視線を外したのは秀玲蘭だった。
「……もう遅い。英雄は今夜ここに復活するっ!」
桜の木の下から地面に亀裂が入る。
その亀裂からは眩い光が漏れ、
「ぐおぉぉぉぉん!」
閃光に満ちる中、満月に向かって何かが吼えた。
桜の木の根元から姿を現したのは、土くれを身に纏った白骨。
左胸に当たる部分には秀玲蘭が持っていた竜の珠が心臓の鼓動を示すように明滅を繰り返している。
その鼓動をリズムとして、白骨に肉が生まれていく。
竜の珠の力で蘇ろうとしているのだ。
「ならばこの命を賭しても、阻止する!」
刀牙は剣先を白骨の化け物に向けて言い放ち、刀身に己の気を集中させた。
彼の様子を見て、筋組織の半分が蘇った古の英雄は…確かに微笑む。
刀牙はまだ充分に動けない白骨に向けて大きく剣を振りかぶり、駆ける!
「させるかっ!」
枝の上の秀玲蘭が叫び、腰の剣を投げ放つ。
刀牙の振りかぶった赤く光の放つ刀身は、ゆっくりとだが回避行動に移る白骨の英雄へ破壊の力を打ち下ろした。
「必殺尽力!」
刀牙の叫びと共に、
ごぅ!
噴き上げられる土ぼこり,後ろへと飛びのく刀牙、そして桜の枝の上で目を細める秀玲蘭。
土埃が落ちつく。
そこには左半身を削がれた古の英雄が立っていた。
右胸の竜の珠の鼓動に合わせて削がれた半身の修復がすでに開始されている。
対する刀牙の右肩には深々と短剣が突き刺さっていた。
秀玲蘭の放ったものだ。
「くっ、しくじった…か」
青い顔で刀牙。彼の放った技は己の生命力のほとんどを破壊の力に変換するもの。
加えて決して浅くない肩の傷からの出血ですでに戦う力は残されていない。
「同胞の血を引きながら、与えられた偽りの平和に甘んじようとは。その罪、死を以って償うがいい」
秀玲蘭は懐から取り出した短剣を刀牙に向けて投げ…
「怨霊達よ,かの者を束縛し、生命の息吹を吸い尽くせ!」
女の声が霊園に響く!
すると白い靄のようなものがいくつも秀玲蘭の身に纏わりついた。
「ぐぁ!」
見えない何かに絞めつけられるように血を吐く秀玲蘭。
桜の幹にその身を預け、術を放った少女を睨みつけた。
刀牙の後ろで兄と同じく青い顔で立つ赤い道服の少女――夜想だ。
「助かった、よ」
「どう、いたしまして」
息切れしつつ二人。
「だが止められまい,英雄の復活を止めるものはもういない!」
怨霊に生命を食われながら、勝ち鬨を上げる秀玲蘭。
だが、まるでこの瞬間を待っていたかのように『それ』は来た。
ごごん!
何か重い物が上空から落ちてくる、落下音が3つ立て続けに夜の空気を震わせる。
「?!」
二人の兄妹に向けて進んでいた古の英雄の歩みが止まる。
いや、何か見えない壁にぶつかった様にその動きを止めたのだ。
「何事だ!」
叫ぶ秀玲蘭。
耳を澄ますと、朗々たる魔術の呪句がだんだんとこちらに向かって近づいてくる。
「竜よ竜よ、全き純粋な変幻の力よ。変貌せしその力を元の純粋へと戻し、あるべき場所へ戻るが良い」
「ぐがぅ!」
ほぼ人の形を取り始めていた古の英雄が初めて、苦悶の声を挙げる。
それを機に彼を構成していた血肉が土塊へと戻り始めた。
「な、なんだと! 竜王の力を一体誰が?!」
見えない怨霊を気合いで引き剥がしながら秀玲蘭は叫ぶ。
「分かっているんじゃなくて?」
声は秀玲蘭のさらに頭上から。
ゆっくりと宙を舞って降りてきたのは豹柄のケープを纏った白い長衣の女性。
両の手は白く輝き、なによりその頭には特徴のある煌びやかな冠が眩い光を放っていた。
「竜宮からの使者、か」
「臨時の就任だけど、ね」
忌々しげに言葉を吐いた秀玲蘭に訂正を入れる雪豹。
彼女はそのまま桜の木の根元まで降り、そしてほとんど土へと帰してしまった人形の胸を、つんと押した。
古の英雄はそのまま後ろへと倒れ、
ぼす
完全に崩れ去る。
彼女は崩れ去った英雄の中から薄汚れた宝玉を取り上げる。
「人間には過ぎた力よ」
呟き、そして枝の上の秀玲蘭を見上げた。
「返してもらうぞ」
彼女のものではない、しわがれた声で彼に言い放つ。
すると雪豹の頭上の冠が不意に消え、同時に手の中の竜の珠も忽然とその存在を消した。
「っと、お仕事完了」
にこっと微笑む雪豹。
そんな彼女を秀玲蘭は睨み、そして視線を後ろの刀牙、夜想へと走らせて舌打ち一つ。
「今回は引いてやる。だが俺は諦めない。必ずや我ら尭族をこの王朝の支配から解き放ってやるぞ!」
言い捨て、夜の闇に消えた。
「ふう…」
緊張が切れたのか、その場にくず折れる夜想。そのまま再び気を失ったようだ。
雪豹は、同じく足元のおぼつかない刀牙に歩み寄って笑った。
「やぁ、生きてる?」
「遅いじゃ、ないですか。出方を伺って、ましたね」
荒い息で切れ切れに応える刀牙。
「あの魔術は骨が折れるのよ、姉さんの神器を拝借してもね。妹さんがあいつの足止めしてくれなかったらいつまでも出てこれなかったわ」
やれやれと首を横に振って雪豹。
そんな彼女を見て苦笑した刀牙は己の肩に刺さった剣を抜き放つ。
止まりかけた血が吹き出す。
「……取り敢えず、私の傷を癒しては貰えませんかね?」
青い顔で訴えた。
「あー、ちょっと無理っぽいわね」
額にうっすらと汗を浮かべつつ、雪豹。
「どーしてです?」
「私も、そろそろ限界だから……よ」
言うや否や、雪豹は刀牙に倒れ掛かる。
「…それって、私の命は風前の灯…かも?」
彼女を受けとめるだけの力の無い刀牙もまた、ぐらりとその身を傾ける。
そのまま2人は折り重なる様にして倒れたのだった。
この後すぐに気を失っていた三人を、椿水とポルコが見つけたのは運が良い…ということなのだろう。
空は晴れ渡る。
夏も間近な、のどかな田舎町。
ここは扶余の片田舎だ。
「相変わらず頑丈にできてるわねぇ」
「それだけが取り柄ですからね」
小川に糸を垂らしている赤い髪の男に、豹柄のケープの女は呆れた風に言った。
「でもさすがに血を流しすぎましたからね、あれから肝臓料理ばっかりでしたよ」
陽気に笑いつつ、彼は竿を上げる。
すると小魚が一匹……途中で落ちた。
「で、妹さんから手紙を預かった来たのよ」
「そうですか」
彼は一つの手紙を受け取る。
それをそのまま懐にしまった。
「? 読まないの?」
「あとで。大体中身は分かってますから」
「ふーん」
頷き、彼女もまた青年の隣の川辺に腰を下ろした。
「でね、また高句麗でお仕事があるんだけど…って」
そそくさとその場を立ち去ろうとする彼の道服の裾を慌てて掴む。
「逃げるなーー!」
「逃げます!」
「逃がさん!」
「逃がして!!」
そんな問答が今日も続く―――
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