<Rune>
 ウルバーンに腕を掴まれた。
 途端、世界が暗黒に変わる。
 「な、え?!」
 上下左右の感覚が失われた無音の世界で、唯一伝わる感覚はウルバーンに掴まれた右腕だけ。
 そこから大きな何かが僕に流れこんで行くのを感じる。
 同時、実際に息が詰まる胸の苦しみが襲いくる。
 それは『それ』が受けた、大きすぎる心の痛みが形を得た結果。
 巨大な圧迫感の下、僕の小さな意識は広大な闇の中に呑まれようとしていた。
 ウルバーンを通して僕の中に侵入してきたのは大きな意志力。
 一途な思いに支えられた存在力であり、生きているなにかだと本能的に知る。
 だが『それ』には死期が近づいていた―――今まさに力尽きようとしている存在だった。
 僕は意識が完全に闇の中に呑まれていくのを感じながら、延々と唱えられる一つの言葉を感知する。
 ルシフェル。
 ただその単語だけが繰り返されていた。
 すがる様にも、呪詛のように憎むようにも聞こえるその声。
 気を抜くと同じように心が壊れてしまいそうな、そんな不安を抱きつつ、僕の意識は闇の中へ。
 そして。
 「あ」
 顔に吹きつける冷たい風とともに急に視界が開けていく。
 風によって周囲の闇がちぢれ飛び、代わりに現れるのは一面の青。
 足の下に雲が、頭上には太陽が。
 それらは心なしかいつもよりも大きく見えていた。
 いや、雲が足の下に見えるってことは??
 空を浮いているっ?!
 僕は自らの背に生えた翼で、地上からはるか上空――雲の上に滞空しているのだ。
 風を操り、空を駆る今の僕の姿は一人の天使だった。
 天使は力いっぱい背の翼で風を受け、おそらく生まれて初めての加速度で疾駆していた。
 僕はようやく気付く。
 この体は僕の意思を反映していないことを。
 ウルバーンから僕に潜り込んだ『それ』が見せている、過去の幻影であることを。
 疾駆は唐突に滞空へと変わる。
 急ブレーキした先には一人の男がいた。
 それはもちろん人間ではない。
 四対の翼を持った一人の男だ。そいつを見て、僕は心の中で声をあげた。
 よく見知った顔の男だった。
 その顔は毎朝顔を洗って鏡を見ればそこにある――僕そっくりな顔だ。
 圧倒的な存在感と魔力を隠す事なくさらした八枚羽の彼は、悲しそうな表情でこちらを見つめた。
 「ミカエル、君も僕を止めるのかい?」
 「ルシフェル様」
 僕の口から発せられたのは若い女性の声。ミカエルと呼ばれる女性のようだ。
 「どうして、どうしてなのですか。全てを捨ててまで求めるものなのですか?」
 胸が、痛い。
 ミカエルの問いに、ルシフェルは小さく頷いた。
 「彼女は私達を全て敵に回してもなお、価値があるものなのですか? それとも貴方にとって私達の価値など小さいものなのですか?」
 頬に涙が伝っていた。
 このミカエルは目の前のルシフェルがこの上もなく好きなのだ。
 しかし彼は彼女を、それどころか彼を慕う全てを捨てようとしている。
 たった一つの存在のために。
 「私は、会わなくてはならない」
 噛みしめるように告げるルシフェルの言葉にミカエルは感情を顕にして再度問うた。
 「愛してしまったと、おっしゃるのですか?!」
 ミカエルは叫ぶ。
 「そうだね」
 青年は毅然と答えた。
 「私達天使は全てを平等に愛さなくてはいけない。それが我々に課せられた義務であり、存在意義です」
 「では僕は」
 ルシフェルは寂しさの表情に、わずかながらの笑みを交えてこう言った。
 「天使をやめよう」
 「っ!」
 ミカエルは反射的に腰に差す小剣を抜き放つ。
 雲に遮られることのない陽光を受けて、白銀の刀身がきらめき光る。
 「そうだ、ミカエル。ヤツはすでに我々の眷属ではなく、反逆者だ」
 重い、男の声はミカエルの後ろから。
 「ウリエル」
 振り向くとそこには、白銀の全身鎧を身に纏った中年の騎士を模した三対の翼を持つ天使がいた。
 「己の欲のままに愛の対象を決めるなど、それは魔族の所業と同じ」
 魔族という単語に、ミカエルの身が震える。
 「すでに天使長としての力を喪ったルシフェルなぞ、大天使たる我々の敵ではないわ!」
 ウリエルと呼ばれる彼は同じく腰の長剣を抜き放ち、十字の紋章を刻み込んだ四方の盾を構える。
 「ミカエルよ、同時にヤツを叩くぞ」
 そんな同僚の言葉に、ミカエルは小剣を構えて向き直った。
 ウリエルへと。
 「なっ、ミカエル!?」
 「ならばウリエル。私ももう、天使ではないようです」
 空いた左手で己の胸を押さえながら、ミカエルは涙を流しながら言った。
 彼女のルシフェルに対しての感情は、変わらぬ敬愛と、彼の愛が彼女「だけ」へと向けられないことの苛立ち。
 すでにミカエル自身、万物を平等に愛するべき聖霊として『あってはならない』心に縛られてしまっていた。
 天使である彼女が模しているのは『一途な探求者』であり、いつからか探求する対象がルシフェルへとなっていたことに、改めて今このときに気づいたのだ。
 「ミカエル、君は」
 「行って下さい、ルシフェル」
 決して振り返らずに彼女は彼に告げる。
 「ここは私が足止めします。だから」
 だから。
 少しだけでいい。好きでいてください。
 後半の言葉は伝えず、彼女はウリエルへと飛び掛っていった。
 「チッ、裏切り者めが!」
 ウリエルは舌打ちすると、彼女の繰り出す小剣の連続攻撃を手にした四方形盾でうまく受け流しながら長剣を振って応戦。
 「ありがとう、ミカエル」
 言葉を残し、雲の中へと飛び去るルシフェル。
 ”ありがとうなんて…言わないで”
 ミカエルの心の声。それを振り払うかのように彼女は小剣を振った。
 「舐めたものだな、ミカエル」
 ウリエルは鼻で笑いながら、剣をミカエルに叩きつけてくる。
 「ただ意志の力を司るお前が、野望という力そのものを司る俺に勝てるとでも思うたか!」
 ウリエルは剣を一閃。
 「クッ」
 小剣が彼女の手から離れ、足下の地上へと消えて行く。
 「しまっ」
 「フン」
 そしてそのまま天使の剣はミカエルの左胸を突き通す。
 衝撃と供に視界が白濁――血を吐く苦しさまで伝わってくる。
 「すぐにルシフェルもお前の後を追わせてやる。安心しろ」
 血に濡れた剣を引き抜き、落下しようとするミカエルの髪を掴んで言い放つ大天使。
 彼が再度振り上げた剣はしかし、
 「待ちなさい、ウリエル」
 静かな声が頭上から響き、それにウリエルの動作は停止する。
 「リブラスルス様」
 「ミカエルには別の形で私の力となってもらいましょう」
 見上げれば太陽の逆光に、ルシフェルと同等の四対の翼を持った人影一つ。
 ウリエルはリブラスルスと呼ぶ新たな天使長に頭を垂れ、剣を収めた。
 ミカエルは揺らぐ視界の中で、ルシフェルに代わる新たな天使長が己の顔を覗き込んでいるのを知った。
 左右に金と銀の瞳を持つ、優しげな顔を持つ青年だ。
 しかし一転、彼の表情が残虐な笑みへと変化する。
 「お前は私の力となる」
 先程と同じ言葉とともに、彼はミカエルの顔を右手で掴む。
 瞬間、朦朧とした意識が一瞬で覚醒する。
 激痛。
 そうとしか表現できない。ミカエルと同様に僕もその痛みを追体験し、行き場のない悲鳴を上げる。
 激痛は全身だけでなく、精神そのものを圧搾、収縮する。
 彼女の体はまるで回りから押しつぶされるように小さく、小さくなって行く。
 声にならない絶叫が、自分自身の叫びとともに僕の耳に響き渡った。
 「ル、ルシフェル様」
 人格が崩壊されそうな痛みの中、ミカエルはただ祈る。
 「貴方に幸あらんことを。私はいつまでも貴方を想い続けます」
 想い、想われることは彼ら天使にとって存在の証。生存の糧。
 「ルシフェル…」
 それが、彼女の最後の言葉だった。
 彼女は小さく収束し、その身と精神は爪の先の大きさにも満たない小さな真珠に封じられた。


 天使達――聖霊に関する伝承や記述というものは魔族のそれに比べ、あまりにも少ない。
 魔族が欲望といった人の純粋な本能に根ざしたものに関わっている反面、聖霊は規律や道徳愛といった理性を踏まえたものに基づいており、まだ人のレベルは彼らと頻繁に接するに相応していないためだとする説もある。
 そんな状況であっても、いくつかの出来事は一応形としては残っている。
 中でも天使長ルシフェルの堕天は有名だ。
 天使長という聖霊を統べる存在でありながら、直接の部下である四守護達を滅ぼして自らの意志で天から堕ちた存在。
 その後、追って来た聖霊達の無数の軍団によってその身を滅ぼされたと言われている。
 何故自ら全てを捨てて殺されたのかは分かる術はない。ただこのことはありとあらゆる形であちこちに伝わり、修飾されて物語とされている。
 僕の目の前で見せ付けられた光景がこの天使長ルシフェルと大天使ミカエルのシーンであり、真実であるならば非常に重大な資料となる。
 この後、唯一生き残ったとされる大天使ガブリエルが現在に至るまで天使達を治めているとされているのだが、今の記憶ではルシフェルに代わる新たな天使長が存在したことになる。
 その名もリブラスルス。ウルバーンの言葉に出てきた名だ。
 この天使長も後に滅ぼされたのだろうか??
 それを知る術は、今のところなさそうだった。
 ともあれ。
 やがてミカエルと歩む僕の意識は次第に緩慢となっていく。
 ミカエルは金銀妖眼の天使長によって爪の大きさ程の小さな真珠に封じられた。
 その姿形となり、幾億の夜をこの姿となって過ごしたことだろう。
 ただ外界から力を奪われる『道具』となった彼女は、いつしか天使長の手を離れて地上へと堕ちていた。
 ある時は名のある騎士に、ある時は高名な魔術師に、そしてある時は気の狂った殺人鬼に力を吸い取られる。
 緩慢な意志の中、初めは数々の人間達の欲望を叶える道具となっていることに絶望を覚えていた。
 だが彼ら人の所業の結果から生み出される事象は決まって一つであることにミカエルはある時気付く。
 愚者の破滅と、滅びの後の再生だ。
 彼女は人から人へと所有が渡っていくが、それは全て偶然などではなく一人の意志によって為されている。
 それが誰なのか?
 思考はしかし、底を尽きつつある力の衰退によって途切れ途切れのものとなる。
 もぅ、力の最後の一滴まで絞りつくされた。その夜が今日だった。
 「あぁ、るしふぇるさま」
 最後の最期に彼女はめぐり合ったのだ。
 王国の王子と称する男の目の前に立っているのは剣を構える僕だった。
 似ている、彼女は思う。彼女は王子の体で慣れない剣を振う、試す様に。
 そして確信した。
 視界は再度暗転する。
 僕は彼女と向き合った。
 白銀の長い髪に不思議な光彩を放つ金色の瞳。まるで絵のような美を備えた三対の翼を持つ存在――大天使ミカエル。
 「僕はルシフェルじゃないよ」
 彼女の言わんとしていること、すなわち僕が滅びたルシフェルの転生体と考えていることを否定する。
 ミカエルは小さく首を横に数回振ると、僕に向かって右手を伸ばす。
 細くて弱々しい、白い手だった。
 「では貴方の意識と体を頂きます。ルシフェル様を救うために」
 言い、僕の額に手を触れる。
 僕は知っている。
 彼女にもう、そんな力は残ってはいないことを。温かくも冷たくもない、感触すら定かではない感覚が額に灯る。
 「僕は僕だよ。君は僕に干渉できない。でも、君のことは忘れない」
 告げる僕に彼女は何を見たのか。
 彼女は嬉しそうな、悲しそうな、相反する二つの表情を浮かべて僕の胸に飛び込んでくる。
 「ルシフェル様」
 まるで重さを感じさせない彼女は、生前と同じで異なる言葉を残し、小さな光の粒となって闇に溶けてゆく。
 その時、何故か僕の頬に一雫の涙が伝っていた。


 視界が揺らぐ。
 次第に現実へと戻って行く意識の中で、僕は両手に強い感触を覚えた。
 「ルーン!」
 アスカの顔が目に飛び込む。
 僕の両手を必死に掴むその表情には、どこかほっとしたものが伺えた。
 「ごめん、心配かけたね」
 身を起こす。周りを見渡せば、そこは先程まで戦っていた謁見の間。
 「何か、分かりましたか?」
 アスカの隣でシシリア姫が尋ねてくる。彼女には僕がミカエルと接触していたことが分かっていたようだ。
 僕はしかし、首を横に振る。
 ウルバーンの背後関係などは分からなかったし、なにより彼女――ミカエルをこれ以上曝す必要はあるまい。
 おそらく僕によって裂かれたウルバーンの体には、断ち割られた真珠の入ったペンダントが見つかるだろう。
 だがそれが何であるかは、きっとどこの誰にも分からないはずだ。
 彼女を封じたルシフェルに代わる天使長リブラスルス以外には。
 「これから、どうするのですか?」
 逆に僕は尋ねる。
 第二騎士団の処遇、王族たるウルバーンの謀反とその死。
 すでに手は打ってあるに違いないであろうが、影響は国民及び近隣諸国にとって大きなものになることは間違いないはずだ。
 僕はこの謁見の間の玉座の前に横えられたウルバーン王子の亡骸に視線を送る。
 彼もまた、ミカエルと同じく一途だったのかもしれない。対象が権力でなければ、このようなことにはならなかっただろうに。
 「こういう時の我々だ、案ずるな」
 答えたのは大柄の騎士クラール・シキム。第三騎士団の団長だ。
 ポンと彼は僕の肩に手を置き、言った。
 「今回は部外者である貴殿の協力、ありがたく思う。お前の太刀筋は真っ直ぐでいて鋭い。が、未だ完成されてはいない」
 そして彼はニヤリと笑う。
 「その目で世界を見、そして接しろ。お前がこの世界を堪能して物足りなさを感じたらここへ戻って来い。俺は快くお前を騎士団に迎えさせてもらおう」
 彼はそう僕に告げると、部下を率いてこの場から立ち去る。
 かつて勇者として名を馳せていた彼からの最大の賛辞として受け取っておく。
 さて。
 「僕達もそろそろおいとまするよ。部外者だからね」
 僕は立ち上がる。それを見てアスカも並ぶようにして立ち上がった。
 「これを忘れるな」
 シシリア姫の後ろに黒い影のように控えていたサルーンから剣を受け取る。
 イリナーゼだ。血は拭われ、刀身は相変わらず怪しく輝いている。いや、忘れているわけじゃなかったけどね。
 「ありがとう」
 「お礼は私が言うものです。何の関係もない貴方方を付き合わせてしまったのですから」
 シシリア姫は優しく微笑みながら右手の中指に唯一嵌めた指輪を外した。
 金色とも銀色ともつかない、飾りのないシンプルなものだ。
 彼女がそれを軽く縦に押さえると二つに割れ、薄い二つのリングとなる。
 それを僕とアスカの二人にそれぞれ渡してくれた。
 「これは?」
 「これは二つの心が、離れていても通わすことができるという謂れのあるものです。お二人の幸せを祈って」
 神聖語で祝福の句を一節口ずさむシシリア姫。
 「ありがとう、シシリアさん」
 「旅の安全をお祈りしておりますわ、近くに寄られた際には遠慮なく尋ねてください」
 アスカと握手を交わしながらシシリア姫は微笑んだ。
 「えぇ、その時までにはお土産話がたくさん出来るようにしておくわね」
 僕の相棒はそうして友人としての笑みを姫君に向けたのだった。


 背後にアークス城を臨みながら、僕らは城下町へと歩みを進める。
 城内で起きていた騒乱など知らない城下は、深夜だというのに祭りの賑わいが衰えている兆しがない。
 「ルーン?」
 「ん?」
 歩きながら、僕の腕を掴むアスカは目をつむり僕に顔を向けた。
 「え?」
 足を止める。
 「分からない? 私の気持ち」
 え、それって。
 僕を見上げるようにして瞳を閉じるアスカ。
 行動に移すべきか迷った僕は、ゆっくりと彼女に手を伸ばし。
 不意に彼女は目を開く。慌てて伸ばした手を引っ込めた。
 アスカは開いた手に握ったリングを見せた。先程シシリア姫から貰ったものだが。
 「あぁ、なんだ」
 そうか、そのことか。
 「なんだって、何? 私の気持ち、分からなかった?」
 それに僕は首を縦に振る。むしろ違うことを予想してしまったじゃないか。
 「そう、やっぱり謂れは謂れね」
 彼女は残念そうに溜め息一つ。
 「楽だと思ったんだけどなぁ」
 「何が?」
 「ん? ううん、やっぱりこういうのは道具に頼っちゃ駄目ってことね」
 「何か伝えたいこと、あるの?」
 「んー、今の私の気持ち、ルーンには分かる?」
 僕は彼女と同じくシシリアの指輪を握ってみる。
 当然と言うか、もちろんというか、何も聞こえるはずもない。だから僕は、
 「お腹が空いた、とか?」
 ありきたりの答えを言う。
 僕が彼女に抱く気持ち――彼女もそれと同じなら嬉しいのだが、そんなに世の中はうまくできていないだろうと思うんだ。
 「うっ、半分当たり。ま、そんなところかな」
 乾いた笑いで彼女は答え、僕の手を掴んで引っ張った。
 「そうと決まれば!」
 「今夜はぱーっと行きますか!」
 握られた手は暖かく、けれども風の様に消えてしまいそうだったから。
 僕は強く硬く、彼女の手を握っていた。

<Camera>
 ここはリハーバー王国西方に位置し、北にシルバーン大山脈を臨む麓の村。
 地元民くらいしか知らない、小規模な集落である。その名もブラックパス。
 寒冷祭から一週間が過ぎ、年の明けた今までにも増して冬の寒さが増した頃だ。
 村に唯一の宿屋を一人切り盛りする老主人ハーデン・ベルクさんは困っている。
 昨夜のことだ。吹雪の中、南のアークス皇国から騎士の一団――およそ四百名がこの何にもない村に突如駐屯を始めたのだ。
 駐屯地は村の郊外にある古い遺跡。
 ほとんど崩れた、いつ建てられたかも分からない廃墟を中心に、数十もの簡易テントが建てられている。
 言うまでもなくこの小さな宿屋にそんなに多くの客を招き入れることは不可能だった。
 しかし指揮官クラスはこの宿に泊まることになっている。
 当然テントなどでこの吹雪の中、過ごせるものではないと思っていたが、南の国は魔術王国と言われるだけある。特別製のテントらしく凍死者などはまだ出ていない。
 が、やはり寒いものは寒い。昼間からこの一階の酒場は非番の騎士達で一杯になっている。酒でも飲んでいないとやっていられないのだろう。
 儲かるのは良いが、そろそろ食料などの在庫が尽きてきている。しかも材料の調達は春になるまで不可能なのだ。
 ここが宿の主人の頭の痛いところだった。
 だがそんな頭痛の種は彼らの目的を知ってからは小さなものに成り下がった。
 騎士達の目的は北のシルバーン大山脈から南下してくるであろうとされる、魔族達の侵攻を食い止めるというものだった。
 北の大氷原に何が起こっているのか?
 それは宿屋の主人の知るところではないが、静けさと温泉だけがウリだったこの地が戦乱に巻き込まれるなど考えたこともない。
 確かに遥か太古のこの地は温暖であり、魔族の王の住む城がある北の大氷原の副都心的な役割を果たしたという伝説は残っている。
 その名残りとも言うべきものがあの古い遺跡『ベフィモス・ガーデン』だ。
 しかしそれだけだ。今のこの村は一年の半分が雪に覆われるだけの土地に過ぎない。
 「何か起こるとは思えんがのぅ、この辺鄙な土地に」
 生まれながらこの地に住んでいる彼は、ただただそう呟くのだった。


 正月二日目の静かな夜。
 北のこの地にもアークスと同じく新年を祝う習慣はあるらしく、質素ながらもそれぞれの民家で祝っているのが見て取れる。
 バササッという羽ばたく音に彼は青白い空を見上げる。
 何か大きな鳥のようなものが飛んで行ったようだ。近くの木の枝が揺れていた。
 彼はマントの前をきつく閉じると、急ぎ足で踏み固められた雪道を急いだ。そして彼はテント群の一つのそれの扉を開けて中に入る。
 「寒いなぁ、やっぱり」
 「お帰り」
 一人、中にいた老騎士は彼に陽気な声を掛ける。
 この地に駐屯してから数日が過ぎ、改めて寒さを思い知る。敵は魔族などではなくこの寒さなのではないかと思うくらいだ。
 今のところ魔族などの姿は現れず、特に変わったことはなく時間は過ぎている。
 後三日もすれば、リハーバー側の派遣部隊が増援としてこの地で交流する予定だ。
 またリース姫の命を狙うという動きもなく、ミアセイア王子ともいざこざなど起こっていない。取り合えず順調ではあるようだ。
 しかし彼――騎士ザートは思った。
 「去年もいい娘が見つからなかったなぁ」
 暖炉の前で屈みながら、若い騎士はぼやいた。
 「そうしてお前もワシの様に老いて行くのだよ」
 「それだけは何としても阻止せねば!」
 老域に差しかかりながらも独身。平騎士の地位に甘んじているタイラスの言葉に、ザートはますます何とかしなければと思う。
 「あいつはコネがあったとは言え、いきなり部隊長になっちまったからなぁ。魔族が出てきてバッタバッタと倒して軍功をあげるしかないか」
 今や遠い場所となった同期の友人を思いだし、彼は呟く。
 「ワシとしてはこのまま出てこなければいいんだがなー」
 彼ら二人は簡易テントの中で雑談していた。
 簡易テントと言っても、その素材は熱を逃がさない特別な素材でできており、魔術により温度調節も可能なものだ。
 このテントには彼ら二人と、副官であるシャイロクも滞在していた。
 シャイロクは本来、村の宿屋に泊まるべきなのだがこちらにきている。おそらく寒さに時々暴れるリースのとばっちりから逃れる為であろう。
 「しっかし今は夜だろ。どうして明るいんだ? 不気味だなぁ」
 ザートはテントの外から差し込む青白い明かりに呟いた。
 「お前、知らんのか? これは白夜という自然現象だ。この二、三日は日が沈まんのだよ」
 老騎士が剣をベットの脇に立て掛けてそれに答えた。
 「よく知ってるな」
 「年の功だな」
 笑うタイラス。おそらくこの北の国に派遣されたのはこれ以外にも何度かあったのだろう。
 コンコン
 テントの扉がノックされる。
 「入るわよ」
 答えを待たず、不意に外から声がして、吹雪とともにポニーテールの少女が入ってきた。
 「ユーフェか。どうしたんだ? こんなとこに」
 「あらザート。シャイロク様は?」
 椅子の一つに座り、魔術師ユーフェは雪を落としながら顔見知りとなった騎士に尋ねる。
 「さぁ、今日は朝出て行ったきりだが」
 「リース様のところね」
 タイラスは困った顔をしてそれを無言で肯定。
 「リース様が珍しいことに誘いに来たんだよ。どういうことだろう?」
 ガルーダシップの中で向かえた寒冷祭での騒ぎを思い出し、ザートは真剣に呻いた。
 「あれは凄かったからのぁ、まぁ、シャイロク様も悪いんだが」
 呻くタイラス。それに魔術師は笑いながら手を横に振った。
 「違うわよ。まぁ挑発しておいた甲斐があったってことね」
 ユーフェはザートの差し出した紅茶の入ったカップを受け取る。
 「挑発って、何をやったんだ? お前さん」
 お茶のおかわりをしながらタイラス。
 「私がシャイロク様を取っちゃうよ、ってね」
 熱い紅茶を一口啜り、彼女はウィンク一つ加えてそう告げる。
 「またお節介なことを」
 「半分本気だったから、お節介じゃないわよー」
 ザートの非難をあっさりかわす。
 「しかし副官殿はもてるの。十分の一でも良いから分けて欲しいわ」
 「んなこと言ってるから、今も独身なのよ」
 老騎士に言葉の凶器を突き刺すユーフェ。
 「ま、まぁ、それはそうとして」
 「そうとするのか」
 話を変えようとするザートにタイラスはツッコミ。
 「取り合えず、ユーフェ。魔族の動きなんてのはなかったのか?」
 「ないわ。そもそもこの遠征自体、どうもあやしいのよね。本当に魔族がいるのかしら? 全然邪気が感じられないのよ」
 椅子の一つに腰掛けながら若き魔術師は愚痴った。
 「やはり我々を、いやリース様とミアセイア様を城から離すことが目的なのかの? しかしそれにしては手がこんでるようにも思える」
 タイラスの言葉に一同は考え込む。
 「あ、でもね。この地から妙な力を感じるの。何処からか良く分からないけど、それが日毎にだんだんと強くなっているような気が」
 「力、か? ユーフェみたいな魔術師しか分からないな、それは」
 「んー、私も感覚で感じてるだけよ。ザートは何か感じない?」
 「いや、全然。なぁ?」
 ザートに同意を求められたタイラスもまた首を縦に振る。
 「そう。気のせいなのかなぁ?」
 欠伸をしながら椅子の背もたれにもたれるユーフェ。
 と、何かに弾かれたように立ち上がった!
 ザートとタイラスもまた、本能的に剣に手を延ばす!
 「何だ、これは?! 物凄い殺気だぞ」
 三人は外に飛び出す、そして硬直した。
 位置的には北ではなく南。
 輝く光が吹雪く白い空に次々と現れ、それが人型を取っていく。
 視認できるその数はおよそ百あまり。加えてさらに次々と増えていく。
 「何だ、あれは。魔族、なのか?」
 「いや、あれは聖霊、だぞ」
 ザートの言葉にタイラスもまた、茫然と答える。
 「きれい」
 それは場違いなユーフェの呟き。表情は忘我のものだ。
 仄かに赤く染まる南の空。一つ一つ輝く光点は次第に大きくなり、幻想的な情景を描いていた。
 「敵だ!」
 誰かがそう叫んだ。それに三人は我に返る。
 「そうだな。姿がどうであれ、殺気がビンビン伝わってくるぜ」
 ザートは雪上歩行用のかんじきを履きながら呻いた。
 彼はすでにその気配から空に浮かぶ者達が紛れもない敵であることを確信していた。
 「戦闘準備! アレは敵だ」
 シャイロクの声がどこからともなく響き、神々しいまでのそれをただ眺めていた騎士達の意識を戻す。
 騎士達の装備は雪原用に白く塗装した革鎧に統一されている。
 金属鎧では体の熱が奪われる上に身動きが取れなくなるためだ。また手にする剣も対魔族用にと魔術が掛けられている。
 「魔族じゃなく天使かよ」
 「もぅ、何がなんだか分からないわね」
 と、こちらは杖を構えなおすユーフェ。彼女の横顔に極度の緊張を見たザートは苦笑いを浮かべながら言った。
 「そうだな、訳分からん。そうだユーフェ、生きて帰ったらデートでもしてくれよ」
 「どさくさに何を言ってるんだかね。ま、生きてたら考えてあげるわ!」
 笑いながら魔術師は騎士に返し彼らはそれぞれ持ち場へと散って行く。
 こうして烈火将軍リースの指示の下、アークス軍は正常に機能した。
 ザート及びタイラスもまた、所定の戦列に加わる。
 「空にいる敵をどうするんだ?」
 ザートは隣のタイラスに呟くが、彼は無言のままだった。天使達は彼ら騎士団のいる古い遺跡を囲むように上空で控えている。
 次々と集まりつつある天使の数はおよそ百五十。
 その全てが薄い衣を纏ったマネキンのような同じ顔――無表情で中性的な青年の姿を取っていた。
 その中から一人、鎧を着けたゴツイ天使が現れる。二対の翼が他の天使との違いを明確にしていた。
 戦士の天使は彼らの指揮官であるが如く、人差し指で地上の騎士団を指さす。
 それを合図として百五十の天使が一斉に手に光弾を生み、投げ付ける!
 ゴウゥゥゥ!
 それらはテントを、騎士を貫く。
 殺傷能力は高くはないが、頭部に食らえば戦闘不能になること請け合いな神聖魔術『気弾』に近い魔術だ。
 それが雨の様に降ってくる。
 「おいおい、シャレになんないぞ!」
 「どうにか引きずり下ろせんか?」
 一回目の光弾の脅威から運良く避けることができたザートとタイラス。彼らの同僚はその五分の一程が今の攻撃に何らかの被害を受けている。
 地上の混乱とは相対的に、天使達は統率をもって再度一斉に手の内に光を生み出した。
 「やばい、どうにかしろ!」
 悲鳴のように叫ぶザートの声を聞いたかのように、白夜で薄明るかった空が唐突に天頂から血の如く赤く染めあげられる。
 と、同時。
 上空の天使達がまるで糸が切れたかのように次々と落下、あるいはゆっくりと降りてくる。まるで飛翔能力をなくしたかのようだった。
 ザートは天使達より遥か上空に人の姿を確認する。
 赤い衣を纏ったミアセイア王子を中心として、ユーフェを始めとする魔術師達が円陣を組んでいる。
 この空の色の変化も影響しているのだろう、何かの魔術を施行しているようだ。
 空の赤さと天使達の浮力を奪ったのは彼らに違いない。
 「今だ、かかれ!」
 シシリア姫の声が戦場に響き渡る。
 騎士達は我に返り、落ちてきた天使達に次々と切りかかって行く。
 ザートの対魔族用の剣は、手近に落ちた天使を両断した。
 殺された天使はこの世のものとは思えない絶叫を挙げて、塵と化す。
 天使はどれも武器は帯びておらず、薄い衣を一枚纏っているだけの姿だった。彼らは地に堕ちた今、逃げる力すらなく騎士に倒されている。
 肉弾戦になると極端に弱いようだ。
 『Kowogiseinisi Senmetsuseyo!』
 やがて一人、上空で待機している鎧を着けた天使が耳をつんざくような音を発した。
 その指揮官の叫びに、圧倒的に不利だった天使達はふらつく足取りで手近の仲間と手をつなぎ始める。
 決まって三体ずつだ。すると三体は瞬時に融合する。
 まるで出来の悪い人形の粘土細工を捏ね合わせるような不快感を騎士達は覚えた。
 「ザート! 叩けるだけ叩くんだ、融合させるな」
 タイラスの言葉にザートは天使達への攻撃の手をさらに強める。
 しかし融合を終えた天使達は、槍と盾を構えた一回り大きい姿となり再び騎士達に襲い掛かった。
 「何だ、急に強くなったぞ!?」
 シャイロクと背を合わせ、二体の天使と切り結ぶリース。
 先程の武器も鎧も持っていなかった天使に比べ、数段に格が上がっている。
 槍を扱う腕も普通の騎士と比肩する程に熟達したものだった。その強さに再び戦況は天使側に傾く。
 「一体に対し三人で当たれ。数の上では我々の方が今や勝っている」
 リースの指示が、まだ失われていない命令系統を通して騎士達に伝わって行く。
 数では百五十程いた天使だが、落下した時にその四分の一は倒され、さらに三体づつ融合したので数では初撃の光弾を受けたとはいえ、アークス軍に分があった。
 しかしその強さに他の騎士や皇国魔術師隊も次第にその数を減らしてゆく。
 一方、魔術顧問として従軍していた第二王子ミアセイアはその赤い法衣を風になびかせ、天使達の指揮官たる鎧を着けた天使に向き合っていた。
 この遺跡一帯に施工した魔術「赤の布陣」は、一定以上の魔力の持ち主でない限り浮力を伴う魔術に制限を受ける。
 彼が向き合っている指揮官の天使は、一定以上の魔力を有しているとも言える。
 『Nanimonoda Ningengotokiga korehodonotikarawo!』
 「何を言っているのか分からんが、お前は第六位の能天使だろう? 誰の指示で我々を襲う? いや、聞いても無駄なことか」
 彼は手にした錫杖を軽く回す。
 答えるように能天使もまた腰の剣を抜いた。剣とは言っても、精神生命体の彼ら――それも能天使の体の一部なのであろう、刃が生き物のように脈うっていた。
 能天使が切り掛かる! 蠢く剣がミアセイアの額に叩きつけられる寸前のことだ。
 すでにミアセイアの魔術は完成していた。
 彼が無造作に右の掌を天使に向けると赤い光の奔流が天使を飲み込んだ。能天使はその特徴のない顔を苦悶の表情で歪ませる。
 光が消えると肩で息をする天使の姿があった。鎧の装甲は焼け焦げ、剣も半ばで折れている。
 「ほぅ、今ので滅びんか。なかなか厄介ではある。失せろ、この世界の法に反する存在よ」
 ミアセイアが彼に突き付けた杖を軽く動かすと、能天使は内部から破裂する。そして彼の破片は塵となって消えていった。
 完全に存在を消し去ってから、赤の魔術師は眉を不機嫌そうに寄せる。
 「ふむ。殺すべきではなかったか。言葉はなくとも直接脳から情報を引き出せたかも知れぬな」
 呟きながら彼は一人、地上の激戦を上空から眺め、欠伸を一つ。悠々と観戦モードへと移行したようだ。
 今日の彼の仕事はこれで終わりなのだ。


 天使の突き出す槍にタイラスは脇腹を貫かれる。が、槍をそのまま両手で抱え込んだ。
 「今だ、ザート!」
 「ハァ!」
 ザートの剣は武器を取り返そうともがく天使の首をはねる。
 天使が絶命すると同時にタイラスを貫いていた槍もまた塵に帰った。
 「生きてるか、タイラス」
 「大丈夫だ。行け」
 初等の回復呪文を口ずさみながら、タイラスはザートを促す。
 それを背に聞きながら、ザートは残り少なくなった天使に切り掛かって行った。
 一方でそこからわずかに離れたところ。
 シャイロクの剣が天使の槍を折る。その隙にリースが右に回り込み天使を切り裂いた。
 「戦陣を紅の輪舞へと変更。天使を一人残らず殲滅せよ!」
 リースの指示が飛び、騎士達は天使を中心にその包囲網を徐々に狭めていく。
 その包囲網の中心付近。
 「四精霊の名の下、全てのものを分解せよ! 滅びの風よ!」
 中心に集まった5体程の天使の中心に向かって、ユーフェの魔術が炸裂する。
 虚空に生まれたピンボールほどの黒い球が、天使達を吸いこんでいく。
 「消えろ!」
 残る数体の天使に騎士達は一斉に襲い掛かり、魔術師達の援護魔術が飛びかう。
 そんな激戦は日が暮れるころまでには終息に向かっていく。
 退却することを知らない天使軍を相手にした終息とは、どちらかの玉砕だ。
 この日、生き残ったのは。
 「ハッ!」
 ザートの一刀に最後の天使が倒れて伏せる。
 塵へと帰る天使達の残骸を見送りながら、しかし歓声を上げる騎士はいない。
 戦場を包むのは、ようやく戦いが終わったことによる安息感と、正体不明の敵に対する苛立ちと目的の分からない戦いをしたことによる虚無感。
 こうして多大な被害の下、勝負にようやく決着が着いたようだった。


 その夜の冷え込みはいつもにも増していた。
 冷えるという感覚は気候的なものだけではないようだ。心が満ちた不安が、さらに寒さを感じさせる。
 彼ら第七騎士団は魔族の万が一の進行を食い止めるために、このシルバーン大山脈の麓に駐屯しているのだ。
 しかし、何故魔族の対極にいる存在――聖霊である天使の攻撃を受けなくてはならないのか?
 それも北ではなく、南からの襲撃だ。まるで味方から攻撃されているような錯覚すら受ける。
 「すさまじい損害だな」
 宿屋の一室で被害状況を記した書類を作成するシャイロクは、自ら記述した数字にあからさまな不快感を示す。
 この戦いで、およそ三百名の騎士の内、四分の一が死亡、百五十名が負傷した。
 皇国魔術師隊も十五名が負傷している。またテントの損傷も激しい。
 「怪我の具合はどうだ、シャイロク?」
 同様に戦闘記録を綴るリースは彼女の片腕にそう問うた。
 「治癒魔術が効いている、たいしたことはない」
 答える彼の左の二の腕には真新しい包帯が巻かれていた。戦闘中に受けた矢傷だ。
 天使達の中に弓矢を使うものがいなかったことがリースには疑問だったが、彼にそのことを問うても明確な答えは彼女には告げられなかった。
 「しかし相手が魔族ではなく天使とは一体どういうことだろうか?」
 「さぁ? シャイロクに分からないことが私に分かる訳ないでしょ」
 諦めたように言い放つリース。烈火将軍の名をもってどのような戦場も駆け抜けてきた彼女だが、疲労の色が濃い。
 「ただ言えるのは、敵の敵は味方ではないってことね」
 燃えるような赤い髪の美女はそう呟き、吹雪き始めた窓の外を眺める。
 酒場の二階にある宿屋の窓からは、すでに遺跡の側に設置してある野営用テント群の姿は雪と薄闇によって見えなくなっていた。
 戦いの跡は雪で覆われ、その痕跡が現れるのは春になるであろう。
 もしくは新たな戦いがその上に重なっていくのか……こちらの方が有力ではあるが。
 「なんだか最近は世の中が悪い方へ悪い方へと進んでいる気がするわ」
 リースは大きくため息をついてそう言うと、視線を窓から机上に戻す。
 「本国でもウルバーン王子が謀反を起こしたしな。王子が死んだことで収まったようだが、呼応するようにザイル帝国、海賊、それに東の熊公国まで反旗を翻した」
 書類作成の最後にサインを綴りながら、シャイロクは言う。
 本国での一件によって、リースを狙う手は緩められたはずだとシャイロクは予見していた。
 彼の主の命を狙っているのは、後継者争いで最も野心家であるウルバーンであると踏んでいたのだ。
 しかし実際は異なっていた。
 ウルバーン亡き現在、今日の戦闘において間違いなく『身内から』、数度弓矢による狙撃があったのだ。
 リース自身はまだ敵が身内にいることに気付いていないようだが、シャイロクが誤ってその一撃を受けてしまったのは失態だった。
 ともあれリース暗殺を企むのは、ウルバーン王子だけではない別の勢力であるとこの一件から言えよう。
 「リハーバーからの増援部隊が来るのは来週だったな。期待はしないが来てくれればこちらの騎士達の士気も上がることだろうに」
 リースもまた最後のサインを終えて、席を立ち大きく背伸び。
 「取り合えず野営用のテントが足りて良かった、か」
 「それだけ騎士が死んだということだから、良かったとは言えないな」
 答えるシャイロクの気配が僅かに硬質なものになり、リースはそれが大きな失言であることを知る。
 「すまない、お前の付き合いが深い騎士も死んだのだったな」
 「ああ。しかしこれが戦争だ。戦いで死ぬのは騎士として本望。違うかな?」
 同じく立ち上がったシャイロクはリースのまとめ終えた書類も合わせて一つの封筒にしまいながら愛すべき姫君に尋ねる。
 それにリースはしばし考え、答えた。
 「違うね。それは死なない奴の言う言葉だよ。何より私はシャイロクが死ぬところは見たくない」
 リースはソファに腰を下ろしながらそう答えた。
 「というか、死ぬな。これは命令だ」
 ソファからシャイロクを睨みつけるリース。
 そんな彼女にシャイロクは封筒を胸に抱えながら、彼女の前にしゃがんでその右手を取った。
 「ご随意に、愛しの姫君」
 手の甲に唇で触れる。
 「ちょ、あの、えと」
 目を白黒させて慌てるリース。
 そんな主を微笑ましく眺めたシャイロクはきびすを返しては退室を願い出る。
 一つは作成した書類を本国へ早急に転送するため。そしてもう一つ。
 「天使についてはミアセイア王子が何か知っているかも知れない。確か天使の指揮官と二・三ではあるが言葉を交わしていたからね」
 言いながら彼は部屋の扉へと向かう
 「シャイロク、私も…」
 「姫はここで休んでいてくれ。またいつ襲い掛かられるか分からないから」
 リースを押し止め、シャイロクは部屋を出た。
 一人になった部屋で、扉の向こうに見えるはずの副官の背中を追いかけるように視線を動かすリース。
 口を何か言いたそうな形にしたところで、小さく首を横に振って元に戻す。
 「シャイロク……そうだね、今はこんな事を考えてる場合じゃない」
 呟き、リースはソファにもたれかかる。
 途端にどっと疲労が沸き起こり、急激な睡魔に襲われる。
 「ちょっとだけ、休もう」
 そんな呟きは途中で寝息に変わっていったのだった。


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