若き魔術師は、光の神に仕える従軍神官達と共に一通り傷ついた騎士達を治療した後、荒れ果てた戦場跡を歩いていた。
 白夜の薄暗さは吹雪の前の雲によって遮られ、暗黒が辺りを支配し始めている。
 彼女が歩く内にテントの残骸の上に腰を下ろす一人の騎士を見つけた。
 「あら、ザート。生きてるじゃない」
 彼女の明るい声に、ザートは振り返る。
 「どうしたの。あら、頭を怪我してるわよ」
 手を当てて回復呪文を唱えようとするユーフェをザートは手で制した。
 「こんなものは掠り傷だ。放っておけば治る」
 「何かあったの? 様子が変」
 ザートの隣に腰かけ、魔術師は尋ねる。
 「タイラスが死んだ」
 「え?」
 戸惑うユーフェに彼は続ける。
 「天使の槍で貫かれてな。大丈夫だとか言っておきながら」
 呟き、手にしたテントの柱を折る。
 「タイラスには俺が騎士団に入団したときから世話になってきた。俺に父がいれば、きっとあんな男だっただろう」
 折った柱を雪の塊に投げ付けるザート。
 「戦いで死ぬのが騎士の本望だと言ってたが……タイラスはこれで満足だったのか?」
 俯くザートは不意に額に暖かいものを感じ、顔を上げた。
 「きっとタイラスは満足だったと思うわ。戦いで死ぬのが騎士の本望だって言っていたのでしょう? それに貴方がいくら不満に思ったって死者は蘇らない。それが戦いなのだから」
 治癒魔術を終え、彼女はそう言いながら自らの法衣の裾を引き裂いて簡易の包帯を作る。
 「俺は天使相手などで死なん。タイラスの分も生きてやる」
 呟くザートの額にユーフェは包帯を巻く。冬の容赦ない凍てつく風が二人に吹き付け始める。
 「ザート、さっき私と約束したでしょ。生きてたらデートしようって。約束は守ってあげるわ」
 ユーフェは微笑み言って、ザートの二の腕を掴み立ち上がる。
 「でも費用は貴方持ちよ」


 小男は苛立っていた。
 今まで彼の思惑通りに事が運んでいたはずなのに、どうも詰めで誤ってしまう。
 「ウルバーンめ、使えない奴よ。わざわざあの方を紹介して力も与えてやったというのに」
 禿げ上がった頭を叩きながら、彼は一人思索する。
 「失礼致します」
 彼の薄暗い部屋の扉が開き、一人の騎士が何やら書類を届けて立ち去った。
 男――宰相パルテミス・アリはその書類に記された死亡者名リストに目を通し、舌打ち一つ。
 リハーバーに派遣された隊に、彼は息のかかった者達を忍ばせておいたのだ。
 彼らにはリースとミアセイアの命を獲るよう指示していたのだが、今回の突然の天使の襲撃による戦いの中で命を落としていた。
 それも全て、だ。
 もちろん偶然ではあるまい。こちらの情報が漏れていたのだ。
 「おかしい」
 彼は唸る。
 「ウルバーン王子の件にしても、この暗殺の計画にしても何故こうも読まれる。一体誰が」
 そこまで呟いて、彼は首を横に振る。
 「いや。ザイルと熊公国の呼応はうまくいったのだ。うまくいかなかったのものは、新たな手を下すのみだ」
 一人彼は、修正はあるが思惑通りに進む未来を想像して含み笑いを部屋に漏らし続ける。
 それを聞くのは、部屋の隅に巣を作る一匹の蜘蛛くらいであった。


 学術都市エルシルドから首都アークスへと続く道。
 晴れ渡った青空の下、一瞬でも積もっていた雪はあっさりと溶けて、街道の石畳の縁をぬかるみに変えていた。
 寒冷祭から降ったり止んだりを繰り返した曇天は五日目の今日、ようやく透き通った青空を覗かせる。
 もっともこの青空はこの時期、束の間の素顔であることは周知の事実である。
 だがそれでも久しぶりの日の光を浴びて、人々は心から何とも言えぬ安堵感を感じていた。
 それはもちろん、街道を行く旅人にとっても当てはまる。
 遠くに目的地であるアークスの町並みが見え始めた休耕地を貫く石の道。そこに五人の冒険者達の姿があった。
 「しっかし無駄な寄り道をしてしまったわね」
 「まー、あんな奴ら相手に誰も怪我しなかっただけましだろ」
 僧衣の少女クレオソートの呟きに、板金の全身鎧をまとうソロンが苦笑いを浮かべてそう言った。
 「一応、神官的には人助けできたんだから良かったんじゃないの?」
 そう言ったシリアにクレオソートはこう厳しい口調で答える。
 「冒険者がその過程で命を落とすことまで看てあげられるほど、神様は暇じゃないの」
 それは五日前のことだった。
 寒冷祭が明けた翌日、一行は宿泊していた宿でこのような話を聞いたのだ。
 『村から北に1日ほど行くと小さな山がある。どうもそこに黒い妖精族が居座っているようだ』
 妖精族というのは、一般的には森に住まうエルフ族を指す。
 そこに黒いという接頭語がつく場合、闇に魅入られたエルフ族―――妖魔を操り、森のエルフ族と敵対するダークエルフ族を指すことが多い。
 もっともダークエルフとは言っても、肌が褐色を帯びているだけのエルフ族であり、そこに妖魔を慣らすすべを心得ているに過ぎないと言う説もある。
 彼らは主にこのここから南方、アークスとザイルの国境線以南に分布しているとされる。
 大抵は森林を拠点とした定住生活を送るが、稀にはぐれ者として数人単位で集落を離れ、彼ら自身の新たな拠点を探して旅に出ることもあると言われている。
 普段ならばスルーするか、もしくは追い払うことを条件に村に金をせびるかする一行だったが、追加して入ってきた情報によって彼らはそこへ向かうことになったのだ。
 その情報とは。
 『黒い妖精族の中に、二つの人間らしい姿が見えた。何故か翼を持っている、不思議な人影だった』と。
 それはルーンとアスカではないか? そう主張するクレオソートの主導で急遽行先を、西の首都ではなく北へ変更したのだ。
 彼ら五人はたどり着いた小さな山で、確かにダークエルフの一行の総勢五名と出会った。
 彼らは彼らで、ここに居着こうと考えていたが思った以上に外部の者の侵入が多いため、ここは諦めてさらに北へと移動するつもりだということだった。
 どうも行く先々で痛い目に会っているらしい彼らは好戦的ではなく、おかげで無闇な戦闘は避けられた訳だが。
 「人間??」
 五人のリーダーらしい、刀牙と名乗るおよそ美形ぞろいのエルフ族とは思えない中年親父なエルフはクレオソートの問いに首を傾げる。
 「お頭、人間じゃなくてファレスの野郎どもになら喧嘩を吹っかけられたじゃない」
 そう答えたのは、こちらはエルフらしい美形の女戦士。
 「あぁ、お頭の拳で瞬殺だったな。まぁ、瞬殺といっても死んだわけじゃないけども」
 「その後、お前の呪法で麓の大木に縛り付けられてたな」
 こちらは精霊使いと呪語魔術師らしい二人。
 「さすがにもう抜け出してるだろ。あれ、二日前のことだし」
 「帰りに寄ってみるか」
 「そうね」
 そしてエルフたちと別れた一行が目にしたのは、ツタに絡まれて大木にがんじ絡めに縛られたファレスの青年二人の姿だった。
 雪の降る夜もこの姿で過ごしたらしい彼らはかなり衰弱していた。
 呆れ顔で二人を助け出す一行。二人は己をヤマトとヤヨイと名乗ると同時、完全に意識を失ったのだった。
 村に戻ってそのまま病院に放り込まれた二人は、寝たきりのまま一行にひたすら礼を告げたものだ。
 「だがファレス族がこの辺をうろうろしてるなんて、珍しいよな」
 「首都が近いからじゃないですか?」
 ケビンの疑問にキースがさらりと答える。
 こうしてこの話題はそれきりとなった。
 遠くに見え始めたアークスの町並みは、やがて一行を包み込むように近くなり、気が付けばアークス外周区に足を踏み入れるに至る。
 「久しぶりだな、首都は」
 「さすがに活気があるわね」
 「仕事の口も結構ありそうですね」
 背伸びするケビンに、活気に感心するクレオソート。そして期待の眼差しで周囲を見渡すキース。
 「とりあえず今日はさっさと宿探して、明日から色々動き出すとするか」
 「そうね」
 ソロンの提案にシリアは頷き、彼らは進んでいた大通りから一本裏道へと足を進めた。
 その時だ。
 「あ!」
 「げ!」
 「あれ? ソロンじゃないか?」
 大通りを貫くようにして走る無数の細道。
 外来者には無数にあると思ってしまう、そうした十字路の一つでのことだ。
 三組の集団が偶然にも顔を合わせ、互いにしばらく硬直した。
 その中でまず動いたのが、
 「それじゃ」
 足早に立ち去ろうとするソロン。
 「逃がすか! レイバルト、頼んだよ」
 そう声をあげるのは右手の細道から顔を出した妙齢の女性だ。彼女は傍らに立つスキンヘッドの大男にそう指示を下す。
 レイバルトと呼ばれた男が懐から何かを取り出し、シリアの右手を掴んで逃げるようにして歩を進めるソロンの足元に向かって投げつけた。
 二つの拳大の鉄球を一リールほどのロープでつなげたそれは、綺麗な円運動を描きながら逃げ出すカップルの両足に巻きつき、見事に転倒させた。
 ボーラと呼ばれる捕縛武器である。
 そんな二人に向かって指示を下した女性は駆け寄る。露出の高い、体のラインを強調させた黒革の服をまとう女性である。
 「捜したよ、ソロン!」
 天下の往来に倒れる戦士に、彼女はいきなり抱きついた。
 「何で逃げるのさ!」
 「こうされるから本能的に逃げるんだろうが!」
 「またまた、照れちゃってー」
 「イリッサ、アナタいい加減になさいよ」
 ソロンに押しつぶされるようにして同じく倒れるシリアが敵意を込めて唸った。
 が、美女は全く聞いていないらしい。ますます強くソロンに抱きつき、その分シリアに重みがかかる。
 「どこのモテモテ王国の王子様だよ、オマエ」
 そう呆れた声で三人を見下ろすのは、黒革の女性とは逆の小路から出てきた青年だ。
 黒い髪だが、前髪の一房だけ白い、身なりのいい男である。その彼には四人の男女がつき従っていた。
 「王子はオマエだろ、アルバート。それより助けてくれ」
 ソロンの悲痛なうめきはしかし聞き入られない。
 「うぁ、ソロンってばシリアという人がありながら、二股かけてたの、酷い人ねー」
 「「やるときはやるやつだと信じていたよ」」
 クレオソートの棒読みな非難に、ケビンとキースの感嘆がシンクロする。
 「天下の往来で破廉恥な。殿下、成敗してよろしいでしょうか?」
 アルバートと呼ばれた青年の後ろに控えていた中年剣士が、二人の女性に抱きつかれて倒れるソロンに殺意のこもった目を向ける。
 「ナセル、それってモテない男の僻みにしか聞こえないよ。ねぇ、センティナ?」
 剣を抜こうとする中年剣士に向かって、ターバンを頭に巻いた少女が隣に立つ鎧を纏った女性に同意を求めた。
 「……そろそろからかうのはそれくらいにしてやったらどうだ?」
 「まったくだ。正直、そろそろ目立ってきている」
 女騎士センティナと禿頭の魔術師イルハイムの諌めにより、ようやくソロンは解放されたのだった。


 首都アークスに数多く見られる宿屋兼酒場の一つ。
 『朱空の雲海亭』の名を持つアークス外周区西側に位置する一階の酒場に、十二名の男女が詰めかけていた。
 ソロンを筆頭としたシリア、ケビン、キース、クレオソートの五人。
 そしてアルバート率いる、フレイラース、ナセル、イルハイムと帝国ザイルの騎士センティナの五人。
 最後にこの宿のスポンサーでもあるイリッサとレイバルトの二人、計十二名だ。
 「ここはアタイら盗賊ギルドの直営だから、気兼ねしないでよ。さぁ、酒持ってきな!」
 イリッサは笑って厨房に向かってそう叫ぶ。
 「盗賊ギルドって?」
 うかない顔色でクレオソートはそんなイリッサを睨んだ。
 「イリッサはアークス地区の盗賊ギルドのボスなんだ」
 クレオソートの呟きに、アルバートが早速出された良く冷えたエールを飲みながら、小さく答える。
 盗賊ギルドとは街の裏の世界を仕切る組織のことだ。
 町中で殺し合いや窃盗などがやたらと起こらないのは、彼ら盗賊ギルドが犯罪の調節をしているからであると言われている。
 なおこちらの世界での同類語ではヤクザ、マフィアというものがあるとかないとか。
 しかしながら当然、一般の人々にはイリッサの立場は悪の大ボスくらいにしか映らない。
 クレオソートのそういった表情に慣れているのか、ギルドのボスであるイリッサは女傑らしい笑みを浮かべて彼女の前に料理の入った皿を置いた。
 「ま、誰かがこういう仕事しなきゃなんないんだからさ。そう怖がらないで、アタイのもてなしを受けてくれよ」
 一方で同様にイリッサを知らなかったケビンとキース、センティナについてはこの状況に全く気兼ねせず、自分のペースを保っているというのは大物であるというのか鈍感であるというのか?
 一同に飲み物が行き渡ったのを確認して、イリッサは言う。
 「では久々の再会と、新たな出会いに!」
 「「乾杯!!」」
 皆がそれぞれジョッキを打ち鳴らし、しばし歓談となった。
 「ソロンにシリア。あの件だけど噂は聞いているんだろ?」
 イリッサがそう二人に切り出したのは、乾杯からしばらくしてのことだ。
 彼女は今までとは表情を一変、固いものとして二人に尋ねる。
 『あの件の噂』、それ以上の言葉を聞く事もなくソロンとシリアの二人は静かに深く頷いた。
 「それもあって俺達はここへ戻ってきた。なぁ、シリア」
 イリッサの真面目な問いにソロンとシリアもまた、鋭い視線を彼女に向ける。
 「そっか、そうでなければここには戻らないよな」
 盗賊ギルドのボスらしく、冷たい視線を机の上に落としながらイリッサもまた頷いた。
 「その御婦人と何かあったのか、ソロン?」
 と、話に横から割って入ったのは早くもジョッキにして五杯目を空けたケビンだ。
 「まぁ、色々とな」
 ケビンに言葉を濁すソロン。小声でイリッサには「また後で」と付け加え、再びジョッキを傾けた。
 対するイリッサもシリアに視線を送りつつ、苦笑いを一つ。
 そして唐突に椅子の上に立ち上がった。
 「取り合えず自己紹介。アタイはアークス盗賊ギルドを統括させてもらっているイリッサ・ハーティン。そしてこいつは手下その一のレイバルト」
 呼ばれて、給仕を手伝っていたスキンヘッドの大男が軽く頭を下げる。
 「次はこちらね」
 言葉を続けたのはシリアだ。
 「私はシリア。で、私の隣のこいつがソロン。で、こっちの二人はケビンとキースで元エルシルドの衛士よ。それでそっちに座っている神官がクレオソート、同じくエルシルド出身ね」
 最後に白い髪を持つ青年がこう締めくくる。
 「で、俺はアルバート。俺達はソロンとシリアによく旅先で会うんだ。ついでにこのイリッサとも、とある件で知り合った仲だ」
 彼はそう言いながらソロンとシリア、イリッサに意味ありげな視線を向ける。
 「それからイリッサは知らないと思うが、こちらは騎士センティナ。実はソロンと昔、面識がある」
 どこの騎士かを曖昧にするアルバート。
 「で、フレイラースにイルハイムにナセルだ。よろしくな」
 紹介された三人はテーブルの上に並んだ料理を各々口いっぱいに詰め込みながらもごもごと言っていた。
 「あ、あの、イリッサさん?」
 クレオソートが恐る恐る盗賊ギルドの長に声をかける。
 「何だい、お嬢ちゃん?」
 優しい顔で、イリッサは神官に尋ねた。
 「盗賊ギルドというと、この街に出入りする人についてもある程度把握していると、そう聞いたことがあるのですが」
 各町や都市に必ずといっていいほどある盗賊ギルドは、テリトリーへの人の出入りの一切を把握していると言われている。
 それは犯罪者や多額の貨幣の持ち主等をトレースするためとも言われ、この把握がどれだけ出来るが彼ら盗賊ギルドの実力値ともなっている。
 「確かにある程度は把握しているよ。ただし、明らかに一般の旅行者であるとかはチェックから漏れていることが多分にあるけれどね」
 手にしたジョッキの中身を飲み干し、彼女は新しい一杯をレイバルトから受け取る。
 「誰か探して欲しい人がいるのかい?」
 「はい」
 クレオソートはまっすぐにそう答えると、懐から一枚の羊皮紙を取り出す。
 「ルーンっていう男性の足取りって掴めませんか?」
 魔術によって描かれた似顔絵――念画をイリッサに手渡し、神官は尋ねる。
 盗賊の長は真摯な目でクレオソートを見つめた。
 「ルーン、かい? アンタの好きな男かなにか?」
 「ち、違います!」
 顔を赤らめて全力で否定するクレオソート。
 「じゃ、何? それが分からなきゃ、捜せないわねぇ」
 そんな訳がないはずだが、イリッサの言葉にクレオソートは口ごもる。
 盗賊の長は真剣な顔をしてはいるが、目は明らかに笑っていた。
 「ルーンは、兄のようなものです。その兄が何も言わずに旅に出てしまって…」
 俯き、呟くようにして答えるクレオソート。
 「だから」
 顔を上げ、イリッサをまっすぐ見つめ返しながら彼女は告げる。
 「だから何の為に旅に出たのか、何を求めて旅に出たのか、せめてそれだけでも直接聞きたいんです」
 「オーケーオーケー、よく分かったよ。しかしあの坊ちゃんがこんなにモテるとはねぇ」
 思わず口を突いて出たイリッサの呟きにクレオソートだけでなく、ソロンも詰め寄る。
 「何でお前がルーンを知ってるんだ? ま、まさかお前の毒牙に?!」
 「誰が毒牙よ、誰が!」
 ソロンにアッパーを食らわせて黙らせると、コホンと咳払いを一つ。
 「ちょいとした件で知り合っただけよ、安心なさい」
 そうクレオソートに優しく告げる。それは今にも食ってかかりそうな目の前の神官に若干の余裕を与えることが出来たようだった。
 「狭いもんだな、世界ってのは」
 ケビンは鳥の足にかぶりつきながら言った。
 「こうしてソロンとイリッサに広い街中で一同に出会った時点で狭いよな」
 頷きながら同じく鳥の足を取ってアルバート。
 「もう少し世界が広ければ、生き易くなるものだがな」
 「同意です」
 センティナの呟きに、キースがしみじみと頷いてパンをひとかけら口に放り込んだ。
 「教えてください、ルーンお兄ちゃんはどこにいるのかを」
 一方でクレオソートがそうイリッサに改めて問うた。
 彼女は「ふむ」と頷き、まずは簡潔にこう告げる。
 「もう、ここ首都アークスにはいない」
 「え」
 「これについてはアタイも一緒にいたからね。詳しく話した方が良さそうだね」
 イリッサはそう言うと、改めて椅子に座りなおしてジョッキを一息に飲み干す。
 「レイバルト、ちょっとキツイの頼むわ。お嬢ちゃんにはジュースか何かを」
 彼女のオーダーに琥珀色の液体の入ったグラスが出される。強いアルコールの香りがする一杯だ。
 対してクレオソートには柑橘系の香り漂う一杯が供された。
 「ルーンお兄ちゃんは一体?」
 「まあまあ落ち着いて、食べながら聞きなさい。あれは二日前のことよ―――

<Rune>
 肌を刺す寒さは相変わらずだけれども、暖かなベットの中で朝を迎えられることは幸福であるとしみじみ思うようになったのは最近のこと。
 それは僕の相棒も最近とみにそう感じているようで、お互い口にこそ出さないが朝に顔を合わせただけでそうと読み取れる。
 ウルバーン王子謀反の夜から翌日。
 宿屋に併設してある食堂で朝食を摂りながら、僕は置いてあった今朝の新聞に目を通す。
 安っぽい紙に刷られたインクの香りがエルシルドの街にいた頃を思い出させる。
 まだ旅立ってからそんなにも経っていないはずなのに、街にいた頃が妙に昔の出来事のような気がしてしまう。
 新聞は大都市や情報網が発達した街にしか置かれない。
 大抵は一紙あるだけで驚きだが、ここは魔術王国の首都。
 新聞もこの宿に置かれてあるだけで四紙もあるのが驚きだ。
 そのうちのメジャーと思われる一紙を眺める。
 さすがに昨夜の件は緘口令が敷かれていたのか、はたまた印刷に間に合わなかったのか記事にはなっていない。
 だが同時平行で起こっている世界各地での事件が紙面を賑わせていた。
 東では四公国が一つ、熊公国が反旗を翻した。
 昔からその兆候は見られたが、とうとうやってしまったといった感だ。
 そしてアークスの西の海では他大陸との最大貿易港である鷹公国ミエールの街が海賊の為に封鎖された。
 これも長く問題視されていた出来事だ。一部噂では南のザイル帝国が海賊達に武器や資金供与を行い、アークスへ対して暗に攻撃を仕掛けているのだ、という説もある。
 そして他の紙面同様、一番を賑わせているのはこの事件。
 南のザイル帝国が不可侵条約を破り、アークスの南の公国である龍公国へ侵攻したというニュースだ。
 ザイル帝国軍を率いるのは、戦いのやり口が汚いことで広く知られているグラッセ将軍。
 勝利の為に毒物等の使用も過去に行ったことがある人物だ。
 世間的に見れば毒物の使用は蔑まれはすれ、褒められることではない。
 けれども自軍の損傷や消耗を最低限度に留めることを重視するとするならば、ケースバイケースでそんな方法もありなのかもしれないとも思う。
 「なんだか急に世界が動き出した、そんな感じがするわね」
 紙面を読み聞かせていた僕に、アスカはパンをかじりながらそう呟いた。
 「そうだね、まるで口裏を合わせたかのような感じだ」
 世界が急激に悪い方へ悪い方へと転がっていく瞬間であるように感じる。
 実際に「こうなる」ことを裏で操作している人間がいるにしろいないにしろ、利権に関わる人間の欲望が見え隠れしていることは確かだ。
 「でもだからといって、私達に何か出来ることあるのかしら?」
 「そうだねぇ」
 偉そうなことを考えてみても、一介の冒険者である僕達にはどうする手段も持たない。
 「取り合えず、今まで通り旅を続けることくらい、かな?」
 僕は困ったようにそう答えて続ける。
 「その為には生活の手段を稼がなくちゃならない。要はお仕事だ」
 「なるほどー、じゃあせめて世界がこれ以上悪くならない方向に貢献できるお仕事を探しましょうか」
 相棒にしては珍しく前向きな意見。
 「よし、それじゃちょっと見てくるね」
 僕は席を立ち、食堂の一角に設けられた掲示板に歩み寄る。壁一面に求人や厄介事の依頼などが所狭しと並べられていた。
 冒険者や旅人の集う宿にはこのような掲示板があり、仕事の斡旋などがスムーズに行えるようになっている。
 僕は一通り見渡すと、そのうちの一つに着目。内容を記憶してアスカの元へと戻った。
 「何かあった?」
 「ああ、下水に逃げこんだ霊術士を捕まえるってのがオススメかな」
 「下水?」
 「そう、下水道」
 ここ首都アークスは上下水道が完備されている。首都に限らず比較的大きめな街であれば上水及びに下水道が完備されていることがアークス皇国の自慢の一つである。
 そして首都の下水道だが、こまったことにまるで迷路のように入り組んでしまっているのだ。
 これは建築に次ぐ建築を繰り返して都市が肥大してしまった結果、生じてしまった問題だ。
 「逃げ込んだって、それってどういうこと?」
 カップに入ったお茶を啜りながら、アスカは首を傾げる。
 「一から説明しよう」
 僕もまたお茶を一口あおってから彼女に答える。
 「まず依頼者はアークスの魔術師ギルド。魔術師ギルドというのは魔術使い同士の連携体だね。互いに連絡や道具、知識を教え合う、まぁそういった組織みたいのがあるんだ」
 「へぇ」
 「で、そのギルドには霊について研究してる一人の学者がいたんだ」
 「ほう」
 トーストにジャムを塗りながら聞くアスカ。
 「その学者は昔からちょっとオツムのどこかが飛んでいたらしいのだけれど、交霊術のセンスはトップクラス。発想も奇抜でね」
 「なんかオチが見えてきたから、予測していい?」
 「どうぞ」
 そこまで言って僕もトーストをひと齧りする。
 「そんな紙一重な霊術士の奇抜な発想がついにギルドに受け入れられなくなって対立。霊術士はとうとうキレちゃって、下水道の迷宮に自分の研究成果とともに閉じ籠もった、とかそんな感じ?」
 「見事、その通り。ぴったり賞として追加のジャムをあげよう」
 「いらない、太るし」
 ジャムの瓶を僕に押し返して彼女。
 「でも別に害はないんでしょう?」
 「今のところは。でもいつその研究成果とやらが暴走して市民を襲うか分からないから」
 「そこでそうなる前に、その霊術士をふんじばってくるってことね。でも下水ってのがねぇ、匂いが付きそうだなぁ」
 明らかに嫌がるアスカ。
 「報酬がかなりの額でね」
 前金が出るだけでなく、捕らえた者には追加で成功報酬もある。美味しい仕事だ。
 「内容もたいしたことなさそうだし、僕一人でやるよ。アスカは待ってて」
 「そういう訳にもいかないでしょう?」
 ちょっとむっとした表情で彼女は僕を見る。
 「ルーンがやるなら私もやる。働かざる者食うべからずよ」
 「そか、ありがとう」
 そういって微笑むとアスカはぷいと目をそらしてしまう。
 文句を言いながらも付いてきてくれる気丈な少女を何気なく眺めていたら突然、後ろに柔らかな感触を伴なって何者かに抱きしめられた。
 「?! な、なになに??」
 「お兄さん、アタイと遊ばない?」
 甘えた声と、少し遅れて鼻腔を襲う声以上に甘い香り。
 柔らかな肢体に拘束されながら振り返れば、酔っ払ってでもいるのか二十代後半の美女が僕の耳にそう囁きかけた。
 彼女の緋色の長い髪が僕の頬にかかる。
 露出の高く、薄い服を通して胸のふくよかさが僕の背中に伝わってきた。
 「い、いや、遠慮しておきます」 
 「そう言わないでさぁ〜」
 美女は男子として嫌いのはずがないが、突然抱きついてくるというのはどうかと思う。
 僕は彼女を引き剥がそうをもがくが、何度もくっついてくる。
 「こら、ルーンが嫌がってるでしょ。離れなさい!」
 見兼ねたアスカの一喝に美女は始めて彼女の存在に気付いたような素振りを見せた。
 「あら、妬いてるの、お嬢ちゃん?」
 彼女は挑戦的な視線をアスカに向けた。しかしそれをアスカは乾いた視線で正面から見据える。
 「妬いてなんかいないわよ」
 全く正真正銘、本気の一言だ。これはこれでひどく寂しい。
 そしてアスカは隙のない視線で彼女と、そして僕に対してこう言ったのだ。
 「ルーンの財布を返して。それがないとは私としても困るの」
 アスカの言葉に僕は懐をまさぐる。
 「あ、ない!」
 「チッ」
 舌打ちして美女は逃走を計ろうとする。が、僕の右手は彼女の二の腕をしっかりと掴んでいた。
 僕はそれを捻りあげ、反対の手に握られた財布を取り戻す。
 「ちょっと、放してよ!」
 注文通り手を放す。他の客の見守る中、彼女は露出の高い紫の服から白い足を覗かせながら食堂を逃げ去って行った。
 財布を懐に戻した僕にアスカの鋭い言葉が刺さる。
 「調子に乗って鼻を延ばしているから気がつかないのよ」
 「いつ鼻を延ばしたんだよ、気が付かなかったのは仕方無いじゃないか。あれはプロだよ、絶対」
 ふーん、と相棒は鼻を鳴らして僕の言い訳を聞く。
 「少しはのぼせたと思って、あいつを役人に突きださなかったんでしょ?」
 冷たい視線を僕に突き刺して、アスカは淡々と僕の行動を分析した。
 ダメだ、勝てない。
 「ごめんなさい」
 付き合いはそんなに長くないのに、ことごとく僕の思考は読まれている気がする。もしやシシリア姫から貰った指輪の効力か?
 確かに僕が自分で盗まれたことに気が付いていたら役人に突き出しただろう。それが出来なかったのは気付けなかった自分自身に負い目があったから。
 何も言えずに無言になってしまった僕は黙々と朝食の残りを摂る。
 それを相棒であるアスカは何故か微笑んで眺めていたのだった。


 じめじめとした空気はわずかに腐臭を帯び、ねっとりを肌にまとわり付く感覚を覚える。
 暗黒の中で聞こえるのは、わずかに足元を濡らす下水をはじく僕ら自身の足音と、松明の光に驚いたのか時々聞こえてくるネズミの声。
 「出入り口くらい、あちこちに作っておけば良いのになぁ」
 「自分の失敗を棚に上げないでくれる?」
 僕の思わず口を突いて出た呟きに、アスカの冷たい言葉が襲い掛かった。
 その通りなので何も言えず、ただ足を前に動かすしかない。
 僕らは今、アークスの地下を走る下水道の中にいる。
 下水道の高さは二リール弱。剣は振り回せないのでイリナーゼは宿に留守番だ。
 僕は武器として薪割りなどに多用する手斧を、アスカには魔術のバックアップに回ってもらうため魔力効果を高めるワンドを購入した。
 だが彼女の腰には氷紋剣が提げられている。なんでも「お守り代わり」だそうだ。
 そんな僕らは運が良いのか悪いのか……いや、この場合は悪いのだろう、敵影らしきものに遭遇することすらなく下水道を歩き続けている。
 敵影どころか、同時に潜入しているはずの同業者達にすら出会わない。
 「まいったなぁ」
 そんな呟きも虚しく響き渡る。
 事の起こりは、半日ほど遡る―――
 「という訳で、何としても霊術士ナクラスを捕らえて欲しい。頼んだぞ」
 魔術師ギルドの依頼主は、集まった二十数名の冒険者達を前にして下水道網の地図を配る。
 藁半紙に刷られたそれは、小さくまた非常に入り組んでいて分かりにくい。
 そして早速、各々地図を手にギルドの案内人の見送り下、下水へと潜って行ったのだった。
 下水道内では無作為としか思えない頻度で分岐路が存在する。
 分岐が起こるたびに冒険者達はそれぞれ散って行き、僕とアスカの二人きりになるのにさほど時間は要しなかった。
 そして右に左に、地図をにらめっこをしながら地下を練り歩き、現在に至る。
 「ルーン。松明じゃ、ちょっと暗いね」
 背後のアスカの声に僕は足を止めた。
 「なぁ、アスカ」
 言って向き直り、僕は彼女の両肩を掴む。
 「な、何? こんな所で?!?」
 僕はアスカの目を見つめる。彼女は僕の視線を交わすように右を見たり左を見たり。
 けれどしばらくすると、まっすぐ僕を見てくれた。
 「ど、どうした、の?」
 顔を赤らめて彼女は問う。
 僕は大きく深呼吸。言わなくてはならない。
 「僕を信じてるかい?」
 「う、うん。信じてる、よ?」
 小さく彼女は頷く。嘘偽りない答え、それ故に僕は胸を痛めた。
 恐くてこの先が言いずらいが言うしかない。僕は甘く見ていたのだ。
 ここで怖いのは霊術師の放った化け物などではなかった。
 「ごめん、道に迷った」
 「え?」
 ポカンとした相棒の顔。それは僕の言葉をゆっくりと咀嚼して、
 「ええええーーー!!!」
 次の瞬間には彼女悲鳴が下水道に木霊した。


 トン、と不意に背中に見知った暖かさを覚える。
 「ほらほら、いつまでもクヨクヨしないの」
 背中から抱きついたアスカは右腕を僕の首にまわしながら言った。
 「取り合えず下水の流れる方向へ行けばどうにかなるわよ」
 「うん、そうだね。ごめん」
 アスカの優しい言葉に僕は頷き、僕は片手の松明を握りなおす。
 前方の闇が広がった気がしたからだ。
 松明の光は目の前の通路がやや広がり、行き止まりになっていることを示した。
 しかし左右に通路がある。すなわちT字路であるが、この場合は僕らの歩いてきた下水が一段階太い主流に合流したことを示している。
 「どっちに流れてるのかしら?」
 「ん? ちょっと待て」
 前へ出ようとするアスカを手斧を握った方の右手で制し、僕は耳を澄ます。
 どちらからか分からないが、何か音が聞こえてくるのだ。
 「何か近づいてくるみたい」
 アスカも音を捉えたのか、耳を澄ます。
 音は足音のようなもの。右手からだ。
 どこか引きずるような、重い足取り。
 僕は手斧を構えながら主流に合流する辺りまで歩を進める。
 「右だな」
 下水が流れていく下流側。光の届かない闇の中で何かが蠢いていた。
 僕は手にした松明を投げ付ける!
 光に照らされたのは三体の動く死体―――いわゆるゾンビと呼ばれる意志のない黄泉からの怪物だ。
 おそらくこれが霊術師の連れている化け物なのだろう。
 ゾンビとは、人間などの死体に対して呪語魔術もしくは神聖魔術による呪術を行うことにより術者の意のままに動く人形を指す。
 そこには生前の記憶はなく、自我すらない。この術は最も邪法の中でもポピュラーとされるものの一つである。
 一方、自我のある者は異なる生まれ方をするとされ、外見は同じでも基本的には全く異なるリビングデットとして区別される。
 僕の目の前に現れた三体は前者、すなわち邪法により生み出された霊術師ナクラスの手駒だ。
 さてこのゾンビであるが、当然防腐処理などされていない。
 出会った三体は良い感じに年期が入っているらしく、全身腐敗していた。描写はすまい。
 凄惨な外見と、鼻を覆いたくなるような腐臭を目の当たりにして僕は思わず一歩後ろに下がってしまう。
 その時だ!
 「あぅ」
 妙に女らしい呻き声を挙げて背後のアスカがいきなり倒れた。
 「なっ?!」
 魔術か?
 僕は彼女を守るようにゾンビ達との線上に立ち塞がる。
 左右を見回し警戒するが、ゾンビ以外の気配は感じられなかった。
 「一体なんだ??」
 ともあれ僕は呪語魔術『炎の刃』を詠唱する。
 「英知の光よ、炎の刃よ。力をこの刃へ宿るべし」
 僅か三小節で確立した魔術は僕の手斧に宿り、灼熱の炎を吹き上げる。
 「いくぞ!」
 ゾンビを始めとする不死の怪物には魔力の宿った武器が効果的だ。
 刃を振り上げる僕に、ゾンビ達もまた腐った足を引き摺りながらゆっくりと近づいてきた。
 彼らの動きは緩慢だ。彼我との距離を一気に詰め、僕は先頭のゾンビの振り下ろした毒の爪をその手斧で受け止め、横になぐ。
 回避運動も取らずに両断されたゾンビを足蹴にし、残る二体に対しても袈裟切りに手斧を叩きつけた。
 三体のゾンビは潰れた喉に空気を吐き出しながら、火が灯った切り口から砂と化して行く。
 やがて完全に砂と化し、敵意が消えたのを確認してから、僕はアスカを抱き起した。
 脈はある。息もしている。
 ただ純粋に気を失っているだけのようだ。
 「おい、アスカ」
 ぺちぺちと柔らかな頬を叩く。
 形の良い瞼が小さく痙攣し、やがてアメジストの瞳がゆっくりと開かれる。
 最初は焦点が合わなかったが、次第にその中に僕の姿が映っていくのが分かった。
 「う、あ、おはよう、ルーン」
 「おはようじゃないよ。一体どうしたんだ?」
 水袋を彼女の口に含ませ、意識をはっきりとさせる。
 「何って、……ルーン!」
 いきなり抱きついてくる彼女。
 「おい、一体どうしたって??」
 彼女が本当に震えていることに気付き、僕は質問をやめて軽く背中をさする。
 しばらくそうしているとようやく彼女からは次第に震えは止まり、両腕から力が抜けていった。
 「ごめん。私、ゾンビとかああいうの、ダメみたいだわ。気持ち悪くて怖い」
 アスカは顔を胸に埋めながら呟く。意外な弱点ではある。
 「何で最初に言わなかったんだ? 霊術師の化け物って言ったらああいうのに決まってるだろ?」
 「霊術師って何やる人か知らないもの」
 「む。そう言われると僕も何も言えなくなるな」
 思わず苦笑い。
 「こうなったら出口を先に探すのが使命だね」
 「え、あ、だ、大丈夫!!」
 慌ててアスカは僕の袖を掴んでそう言った。
 「一度請けた仕事はしっかりやらないと。こんなことでギブアップするのなんて」
 彼女は自分のせいでやめるということを潔しとしない。けれども、だ。
 「でももっとグロいの出てくるかもよ?」
 「う……」
 怯えたような、それでいて不服そうに彼女は僕を上目遣いに睨み、
 「大丈夫」
 消え入るような声で続けて言った。
 「ルーンに手を握っててもらえば…ううん、背中に手を当ててていい? 邪魔にはならないようにするから」
 真摯な瞳で見つめられる。
 女の子にここまで言わせてなお、我を通せるほど僕は強固な意志を持っていなかった。
 「そうだね、そうだ、大丈夫」
 笑って僕は立ち上がり、彼女の手を引っ張る。
 「僕が」
 言いかけて言葉を詰まらせる。
 「僕が?」
 「しっ!」
 問う彼女に人差し指を口の前で立てた。
 足音だ。
 今度は左――上流の方からだ。数は単体ではないが大人数というわけでもなさそうだ。
 「アスカはちょっと向こうを向いてて」
 「え、でも」
 「じゃ、良いと言うまで目を瞑ってて」
 「ん」
 彼女を背に、僕は手斧を構える。
 地下水路の遠く深い闇から迫りつつある足音。しかし今度のそれはゆらゆらと揺らめく光を伴っていた。
 ランタンの灯りと伴にぼんやりと浮かび上がるのは二つの人影。
 相手もこちらを警戒しているらしく、しばし探り合いが続いたが結局、向こうの殺気が消えることで接触を果たす。
 近寄ってきた顔の一つを見て、僕は別の意味で警戒する。
 「君は」
 「アンタは!」
 ランタンを持つのは禿頭の巨漢。その腰にはイガイガの付いた凶悪なメイスを提げている。
 この男の顔は知らない。知っているのは僕の顔を見て声を上げたその相方の方だ。
 それは女性。手にしているのは二又の鞭であり、黒いぴったりとした革の鎧に身を包んでいる。
 ややくすんだ感を抱かせる緋色の髪の彼女は、今朝のスリだった。
 「朝方の坊やじゃないか。こんなところで何してるんだい、ってこれは愚問だねぇ」
 悪びれることもなくニヤリと微笑む彼女はこちらに警戒こそすれ、攻撃を加える気はないようだ。
 「君こそ説明会には来ていなかったじゃないか」
 手斧を収め、僕は問う。
 「アタイは別口さ。この下水網をこれ以上荒らされる訳にはいかないんでねぇ」
 なるほど。その言葉だけで彼女の背後が分かる。
 「盗賊ギルドか」
 「ふぅん、あながち間抜けというわけでもないんだねぇ」
 否定しない言葉が返される。
 考えれば分かることだ。下水に限らず、このアークスの地下を縦横無尽に走る上水網を初めとしたライフラインを管理下にすれば、表に姿を現す事なくこのアークスのどこにでも行けるのだから。
 そんな便利な通路をぽっと出の霊術師などに脅かされたのでは、盗賊ギルドとしてもたまったものではないだろう。
 「アタイはイリッサ・ハーティン。アークス盗賊ギルドの長さ。で、こっちはレイバルト、アタイのボディーガード」
 「なっ」
 僕は思わず身構える。彼女の言葉の後半部分は耳に入っていない。
 彼女はギルド長――すなわちこの首都アークスの裏を牛耳っている頭ということだ。思わずまじまじと彼女を見てしまう。
 容姿は悪くはない。歳の頃は二十を少し出たくらいだろうか。しかしとても荒くれ者達を束ねられるようには見えない。
 幼い子が背伸びをしてもまるでその地位に追いついていない、そんな印象しか受けない。だから。
 「えーっと、長?」
 「その顔、信じてないね?」
 頬をぷーっと膨らませてイリッサ。その様子だけでとてもとても見えない。
 ふと彼女の傍らに控える巨漢に視線を移す。むしろこちらの方がよっぽど長らしい面構えだ。
 夜中に後ろにいたら思わず悲鳴を上げてしまいそうな禿頭の巨漢はしかし、拗ねて頬を膨らませる自称・長を慈しみの目で見ていた。
 「……本当に、盗賊ギルドの長?」
 コクリと巨漢は自信に満ちた態度で頷く。
 最近の盗賊ギルドは根本的に趣旨変えしたのだろうか?
 「あ、えーっと。僕はルーン・アルナート。連れはアスカ・ルシアーヌ」
 「ふぅん、ルーンか。ところでどうだい、ここであったのも何かの縁だ」
 ニヤリと笑みを浮かべて盗賊ギルド長はこう提案した。
 「一緒に行動しないかい? アンタらも二人じゃ心許ないだろ? 何、魔術師ギルドの方の報酬なんていらないよ。アタイらは下水から変態を追い出せばいいだけだから」
 イリッサの提案は道に迷った僕達にとって、とても心強いものだ。
 「どうする、アスカ?」
 一応、これまで沈黙を保っていた相棒の意見も聞いておく。
 彼女は胡乱な目で主にイリッサを睨みつけた後、
 「ルーンの自由に」
 視線を外すと、興味が失せた顔で返答。僕は軽く頷き、イリッサに右手を差し出す。
 「よろしく、イリッサ」
 「よろしく、ルーン」
 そして僕達二人は握手を交わす。
 「いやぁ、しかし助かったわぁ」
 笑いながらイリッサは握手をしながらこう言った。
 「実は道に迷っちゃってねぇ。ここで人に会えたのは神の導きってやつ?」
 彼女のあっけらかんとした笑い声が下水道に響き渡る。
 「「え??」」
 イリッサの発言に動きを止める僕とアスカ。
 「「へ??」」
 僕らの様子にイリッサとレイバルトもまた、やがて息を呑んだのだった。


[Back] [TOP] [NEXT]