第三章 大草原の遊牧民

<Rune>
 月が美しい夜だ。
 一陣の冷たい北風が僕と焚き火を、そして草原の冬枯れした草を揺らす。
 「寂しいものだなぁ、一人旅っていうのは」
 ”何よ、私じゃ不満だって言うの?”
 「いや、そういう訳じゃ……ごめん」
 手元に置いた剣からの抗議に僕は謝る。凍えるような北風が焚き火の炎を揺らした。
 僕は新たに薪をくべると、マントにくるまってこの草原のど真ん中で新円に近い月を見上げて眺めた。
 丸い月の表面には三匹の蛇が威嚇し合っているような模様が見て取れる。
 しかしこの三匹の蛇というのはこのアークスでの謂れであって、隣のザイル帝国では二匹のドラゴンだったり、北のリハーバーでは王冠と剣だったりする。
 見た目の模様は同じなのに連想が違うというのはなかなか興味深いことだ。
 ファレスのあの子はこの模様はどう見るのだろう?
 「今頃、アスカはどうしているかな」
 ちゃんと食事は摂っているだろうか?
 怪我などしていないだろうか?
 ”自分の心配もしなさい”
 イリナーゼの溜息交じりの言葉に僕は苦く微笑む。
 アスカがさらわれ、手も足も出なかった僕は心から強くなりたいと願った。
 アークスで再会したシフ姐はそんな僕の気持ちを知り、レナードという男を紹介してくれた。
 嘘か誠か彼女曰く、レナードは東の大国である龍王朝で剣聖の地位に就いたことがあるという。
 剣聖とは龍王朝での武の象徴。多数の軍部隊を超越し、各将軍達の上に君臨する存在である。
 そんな彼は人間種ではなく、ノール種だそうだ。
 ノールとは犬の頭を持つ亜人であり、肉体的に人間よりも強靱である点が特徴だ。彼らの時間は僕ら人間より長く、寿命は約三倍であると聞く。
 ”遊牧民とはねぇ。見つかるのかしら?”
 そう。
 レナードという男は今は剣聖の地位を引退し、この大草原の地で本来の生き方に戻っているのだそうだ。
 本来の生き方とは遊牧。
 ノール族はそのほとんどが遊牧を生業としている。故に決まった住居を持たないため、エルフなどに比べて人前にはよく顔を見せるが、こちらから捜すとなると大変なのだと聞いていた。
 まさかその伝聞が自分自身で体験するとは思いもよらなかったが。
 だが。
 「見つけてみせるさ、必ずね」
 ”そう”
 一際強い風が来た。
 冷気をまとったそれは焚き火を大きく揺らすと空へと立ち消えていく。
 ”ところでさ。ルーンにとって、アスカはどんな存在なのかしら?”
 不意に尋ねるイリナーゼ。鞘から少し刀身を覗かせ、月の光を受けて怪しく輝いている。
 「僕の心を覗けば良いだろ?」
 僕は言って目を閉じた。
 ”直接貴方の口から聞きたいの。いいこと?”
 彼女は僅かに覗いた刀身に己の顔を映し、お説教モードに入ろうとする。
 ”何も言わないで通じ合えるのも良いことだわ。でも言葉にすることでもっと大切な何かを伝えることができるってことを覚えておきなさい”
 彼女は諭すように僕にそう言った。
 ”で、どうなのよ、その辺り”
 「んー」
 いざ言葉にしようとすると、それは照れが生じるものであるから。
 僕はこう答えてしまう。
 「とても大切な人、かな」
 僕のその言葉に、刀身の僅かな隙間に映るイリナーゼはまるで大きくなった子供を見る母親の様な微笑みを浮かべる。
 ”うん。一番大切な人、ね。きっとアスカも貴方のことをそう思っているわ”
 「そうだと嬉しいね」
 何故イリナーゼがそんなことを言ったのか、今の僕には当然分かるはずもなかった。


 冬枯れした草からの朝露に目を覚ます。焚き木はすでに湿った黒い炭となっていた。
 マントで身体を包んでいたものの、やはり冷え切ってしまっている。
 僕は朝の寒さに一度大きく震えた後、硬くなった身体を無理矢理大きく伸びした。
 節々が痛い。これだから野宿は。
 水袋を取り出し一口含む。夜気で冷えた水は僕の眠気を完全に吹き飛ばした。
 「さてと、行くか。おはよ、イリナーゼ」 
 ”おはよう。ところでお迎えが来たみたいだけど?”
 腰の剣からそう警告が飛んだ。少し遅れて僕もその気配を察知する。
 耳に捉える風切り音!
 その場に転がって僕は身をかわした。背後から手投げ剣が数本飛び、それらは突き刺さる先がなくそのまま遠くの地面に転がっていく。
 手投げ剣の軌道は確実に僕の急所を狙っていた。
 「しかし」
 障害物のない、このただっ広い草原の一体何処からこれが飛んできたのか?
 だが近くに、今でも確かに殺気を感じる。
 僕の右で風が動いた!
 「そこか!」
 その方向に向かって僕は抜いたイリナーゼを突き出す。
 剣が得るのは空を切る感触ではなく、軽い金属音とともに硬質なものに弾かれた衝撃だ。
 「ほぅ」
 やや高めの、ソプラノボイスが空間から発せられる。
 「察気術が使えるとは。舐めてかかってしまったようだ」
 剣を弾いた空間が揺らめき、そこから一人の青年が現れた。
 彼の言った察気術とは気配を読む術である。ある程度の冒険者ならば身につけることが出来るものであり、逆に言えば身に着けなければ冒険者の生活においてすぐに死に至るだろう。
 「何者だ」
 若い、同年齢ほどと思われる男だ。
 草色をした硬革の鎧に身を包み、手投げ剣を差した帯が肩から腰にかけて巻かれている。その半数と思われるホルダーが空であることから、間違いなく先程の攻撃は彼のものだ。
 金色の髪と白い肌からザイル帝国の大半を占める民族ディアル出身と見て取れるが。
 「剣聖に会いに行くのだろう?」
 僕の問いに答える事なく、彼は手投げ剣をその右手に構え、剣先を僕に向けて問い返した。
 「さぁ、どうだろうね」
 「アークスに引き返せ。それがお前にとってこれから先の人生において最も賢明な選択となる」
 こいつ、何者だろう?
 僕の出身を知っており、さらに元剣聖レナードに会いに行こうとすることを知っている。
 後者を知るということは、必然的にシフ姐の縁者であろうと推測されるが。
 「残念ながら、いきなりナイフを投げてくる危ない奴の言うことなんぞ聴く筈がないだろう?」
 「聴く筈がないと分かっているから、力ずくで会わせまいと思っている!」
 問答無用で手投げ剣を三本投擲してくる。
 それらを身を返して二本避け、刀を返して一本弾き落として、僕は反撃に転じた。
 下段から中段へ剣を切り上げる。
 同時、金髪の青年がどこから取り出したのか上段から中段へ剣を振り下ろしてきた。
 青年の剣と僕のそれとが交差する。
 「「むっ」」
 両者の頬が薄く切れ、血がじわりと染み出した。この男、技量は僕と同等か、もしかしたら上だ。しかし僕にはこの手もある!
 「無尽蔵なる空気よ、かの者をその柩に封じたまえ! 霞人の戒」
 「植物の精霊よ! 奴にからまり、その動きを封じろ!」
 「「なっ?!」」
 驚きの声が互いにハモった。
 振り向きざまの僕の呪語魔術が青年の動きを封じると同時に、僕の足下から急速に植物の根が延びて僕に絡み、動きが封じられる。
 まさか奴が精霊魔術を使えるとは思ってもいなかった。
 相手にしても同様に、僕が呪語魔術を使うとは思っていなかった。
 しかしよく考えれば気付いたはずだ。
 最初の彼の手投げ剣での攻撃は、アスカがよく使う風の精霊に働きかけた不可視の精霊魔術であったことに。
 「くそっ」
 「生意気な!」
 悪態をつきながらお互いに動けずにしばらく睨み合う。こうなると先に気力の尽きた方――すなわち精神力が絶え、術が解けた方の負けとなる。
 「ふむ、風の香りを辿ってみれば、どうも面白いことになっているようだね」
 「「?!」」
 不意な言葉と気配は僕らの右手から。
 いつの間に接近を許していたのだろう、一頭の黒毛の駿馬に跨った犬の頭を持つ男が僕らを見下ろしていた。
 犬の頭そのものだけれど、その瞳に宿る光は犬とは異なり明らかに高い知性を感じる。
 「風の香り?」
 ツタに身体をチャーシューのように締め付けられつつ、僕は言葉を漏らす。
 「そう、私は風と呼んでいる。シフ・ブルーウィンドのことを」
 彼は腰に差した片手持ちの長剣を右手の親指を動かして僅かに刃を晒しそして、鞘に戻す。
 パチン!
 刃と鞘とが打ち合い、高い金属音が一つ響く。
 同時、僕と金髪の青年の束縛の魔術が弾けるようにして効果を失った。
 「「どわっ」」
 身体の支えを失い、僕と青年はともにその場に転げる。
 「さて、私の縄張りで無用な争いをしている君達は何者かね?」
 馬上からそう問う貫頭衣を着こんだノール族の男。馬と同じ黒い毛に、額の部分だけに小さな白い点がある。
 「僕の名はルーン・アルナート。この地に住むというレナードという剣士を探しています」
 答える僕の言葉に、彼の目が僅かに大きくなったことに気がついた。
 「なるほど。で、そちらは?」
 ノール族の男は隣の青年に視線を移す。
 「俺はアーパス・ブレッドという。傭兵だ」
 「ほぅ、君が『水剣』のアーパスか」
 感心したように馬上の彼は告げる。
 「知っているのか、俺を」
 驚いた顔で青年はうめく。
 「お世辞にも依頼の成功確率が高いとはいえない、しかし『そこそこ』の成果を出すという噂で私の耳には伝わっているが」
 それは嬉しくない噂だな。
 男は僕に目を戻し、こう告げた。
 「私がレナード・セザム。君が探している青き風ことシフの友人さ」
 僕は気付いた。
 彼の向ける瞳は、まるで新しいおもちゃを前にした犬のように楽しそうな色をしていたことを。

<Camera>
 アークスの顔として名高い白亜の城は、いつにない緊張感に包まれていた。
 放浪王子帰還――それは三年に一回あるかないかのことであり、同時にいつも決まって波乱の幕開けなのである。
 国王アークス十六世と第一王位後継者アルバートは密室において、二人で話し合っている。
 「俺は王位は要らない。シシリアにくれてやるのが一番だろう」
 ぶっきら棒にアルバートは父に言う。
 「何故継がないのだ。お前ほどの力の持ち主は他にいないではないか!」
 彫りの深い顔をさらにしわで深め、王は父として告げる。
 「力? 力ってのは魔族の力のことか?」
 自虐的に笑うアルバートに王は首を横に振る。しかしそれは意味がないことを父は知っている。
 「お前は人間だ、魔族ではない」
 呟くように王は言う。
 「それは俺の幼い時に言ってもらいたかったな」
 子は表情を変えずに返した。
 「すまん」
 「何故、あやまるんだ?」
 頭を下げる老人にアルバートは冷たく言った。対する答えはなく、疲れた表情で王はこう尋ねる。
 「お前はどうするのだ、これから」
 「しばらくはシシリアの手伝いをする。アイツはアイツで物事を大局的に見ているからな。雑事は俺がある程度片付けてやるつもりだ」
 言ってアルバートは立ち上がる。
 「なによりも、だ」
 彼は厳しい顔つきになり、独白するように言葉を漏らした。
 「ウルバーンは支配欲が強い奴だったが、それを利用していた奴等の動きがどうも読めない。天使だったか、絡んでいるのは?」
 「ああ。もっとも予め彼の行動は報告が上がっていたからな。若干の苦戦はしたが対応は想定内だった」
 「結果論だろう? 欲望にとらわれることのない天使なんてモノが絡んでいるだけでおかしい話だ。とてつもないことが始まろうとしている予感があるんだ」 
 部屋の扉の前まで歩くアルバートのその言葉に王からの反応はない。
 そこに彼なりの答えを見出し、子は父に振り返った。そして最後にこう尋ねた。
 「王は、いや父上は母上を、ニリュート王妃を愛していたのか?」
 「愛していた。こう言ってもしかしお前は信じてはくれんと思うが」
 質問内容に対する返答は一瞬。そこに迷いや考慮はない、心からの答えであると彼は判断する。
 「そうか。だがそれを聞いて少しは安心した」
 そしてアルバートは部屋を出る。
 残されたアークス十六世は今は一人の男として、亡き唯一心から愛した先妻に思いを馳せる。
 「ニリュートよ、アルバートは大きくなったよ。いずれ全てを知るだろう」
 閉じた扉を見つめながら、老王は大きく息を吐きながら言葉を綴る。
 音もなく揺れる燭台の光に、国王のいくつもの皺に陰が落ちた。
 蝋燭の一つ一つの弱々しい光の中、国父は若き日々に出会った数々の友の顔を思い浮かべる。
 その中で未だに一際精細に思い返されるのは二リュートの困ったような、それでいて嬉しそうな顔だ。
 その表情を浮かべさせたのは、彼が彼女に告白した時。
 「捨ててしまうのなら、お前の余命は俺に預けてくれないか?」
 常に無表情だった彼女に『笑み』というものが生まれたのは、この時からだったと記憶している。
 しがらみや障壁を打ち砕き、やがて王となった彼は多忙となり、その地位を確立していく中で様々なものを失っていった。
 失ったものと、今得ているものはしかしながら決して天秤にかけられるものではない。
 だが時々彼は考えてしまう。
 もしも自分が今のアルバートのように王になることを固辞し続けていたらどうなっていたかと。
 二リュートの寿命を早めることもなかっただろうし、多くの友を裏切りの果てに失うこともなかったかもしれない。
 そこまで思い至り、国父は一人首を小さく横に振る。
 「あやつは友に恵まれておる。王道であろうが覇道であろうが、きっと乗り越えていけることだろう」
 アークス王は父として、子であるアルバートの未来を祈り続けた。


 ウルバーン王子亡き後の第二騎士団団長室には新たな団長が腰を下ろしていた。
 かの一件により第二・四騎士団の首脳部にはそれぞれ謹慎や降格の処置がとられた。全体的に見れば寛大な処置でもある。
 ただしウルバーンに積極的に呼応した第四騎士団の団長ハーグス・イスナに対しては斬首の処置がなされている。
 そんな中で新たに昇格した第二騎士団団長ブレイド・ステイノバは慣れない書類処理を副官に任せて、父親譲りの大剣を磨いていた。
 黒髪に黒い瞳、肌色の肌と典型的なニールラントの幼さを残す彼は去年に騎士になったばかりの新参者である。
 歳はやっと十九となったばかりで、おそらくアークス始まって以来の若き団長だ。
 だからと言って彼にそれだけの高い能力があるという訳ではない。彼以外に適任者がいなかったというのも一因である。
 ブレイド・ステイノバはウルバーンの前の団長エッジ・ステイノバの一人息子である。
 エッジはその人柄、礼節、武芸において軍事顧問グレイム・イラに匹敵するほどの高い評価を受けていた騎士であった。
 また彼は南の公国である龍公国の公主を僅か二年だが務めたことがある。現在から数えると三代前の公主である。
 ちなみに辞めた理由は明快なことに『肩凝るよ』とのこと。根っからの戦い好きの武人だったらしい。
 しかし、ある反乱を鎮める道中で彼は死ぬこととなる。
 原因は当時部下であったウルバーン王子がどさくさに紛れて暗殺したと、専らの噂ではあるが証拠もなく定かではない。
 道中の酒場で店員や客、お付の騎士一党もろとも何者かに惨殺されたのだ。
 当時団長を失った第二騎士団は唯一の生き残りの副官であったウルバーンに託されることとなる。
 そしてそのウルバーンの跡目を彼を団長にしてしまった負い目であろう、その息子であるブレイドにと、騎士上層部の意見が可決してしまったのだ。
 なお第四騎士団に関しては、第三騎士団で高名を挙げている世俗騎士レイ・キセノンが団長に就任した。
 「セレス・ラスパーンだよな、君の名は」
 二人の副官の内、一人の名を呼ぶブレイド。
 「はっ、何か?」
 男にしては細い面をあげて、副官セレスは答える。
 「君がウルバーンに止めを刺したんだよな。間違っても俺は刺さないでくれよ」
 笑って言うブレイド。
 「団長殿が道を誤ったときには、覚悟して下さい」
 氷のような微笑に、若き騎士は人知れず背筋を震わせた。
 「え…と、それで君がクレイ・ガーランドだったかな」
 「はい、団長。よろしくお願いいたします」
 三十代後半のいぶし銀の渋さを漂わせ始めた騎士は低い声で答える。
 「はっきり言って俺は自分のやることがよく分からない。頼むぞ、二人とも」
 ブレイドは頭を下げて言った。それに対し二人の副官は立ち上がって敬礼する。
 「じゃ、がんばってやってみようか!」
 一人呟くブレイド。デスクワークが分からない彼は今は唯、剣を磨いているしかなかった。
 そんな彼の姿をエッジ・ステイノバを知る軍事顧問グレイムが見たならば、ブレイドに今や亡き親友の面影をそのままに見たことだろう。


 第三騎士団長クラール・シキムは愛用している板金の鎧を着こみ、宮廷内を歩いていた。
 彼は今から進軍の準備をしなくてはならない。攻撃するのは反旗を翻した東の公国である熊公ブルスランだ。
 東の公国は南のザイル帝国から何かしらの軍事支援を受けているとも考えられる。
 また何よりも、同じアークス皇国をなす一角である。『叩き潰す』のでは自ら弱体化するようなものだ。
 大きな軍事衝突の末の軍事力低下は、南のザイル帝国のみならず、今は中立の東の大国「龍」との緊張も高めかねない。
 なるべくダメージを少なく、迅速に反逆者である熊公を処断する。
 それには北の虎公国と連動して、なるべく被害を少なく勝利しなくてはならない。
 どのような作戦で攻めて行くべきか?
 考えていた彼は、後ろから突如蹴りが加えられたのに気付かなかった。
 後頭部に打撃を受け、彼の巨体がゆらりと前へを傾いていく。
 「クラール! 何、ボーっとしてんの?」
 鈴を鳴らすような軽快な声に彼は瞬間的な気絶から覚め、前へ倒れかけた身体を強引に元に戻す。
 「俺に蹴りを入れるとはいい度胸だ、相手にしてくれよう!!」
 勢いよく振り返る彼の前には、背丈では彼の胸ほどまでしかない細身の女性が一人いるだけだ。
 美しいその細面には、半ばそれを隠すようなターバンが巻かれている。
 「って何だ、フレイラースじゃないか。久しぶりだなぁ」
 親しい友を前にして彼は破顔する。
 「何だとは何よ! ぼーっとして、どうしたのよ?」
 放浪王子として知られるアルバートが旅先で意気投合し、旅路を共にするエルフ族の少女は小さな頬をぷぅと膨らませて巨漢に詰め寄る。
 冷静沈着でどこか人間を見下した感をもつエルフ族を裏表のないクラールは苦手としているが、表情がころころ変わるこの少女にはそんな苦手意識を何故か持っていなかった。
 「うむ、これからの任地で戦が始まるんだがその作戦を練っていたのだ」
 答えにフレイラースは笑い出す。
 「あなたに作戦? どうせ力業で正面からぶつかるんでしょう? 作戦も何もないじゃないの」
 クラールの性格をよく知る彼女はそう言う。
 「まるで俺のことを猪突猛進みたいに言わないでくれ」
 「みたい、じゃないわ。そのものじゃないの」
 はっきりと言われ、クラールは頭を垂れる。
 「それに作戦なんてのは一人で考えるものじゃないでしょう? あなたの部下には、あなたよりの頭の良いのがたくさんいるんだから相談すれば良いじゃない」
 お気楽に彼女は言った。それはクラールとしても分かっているところだ、だが。
 「一応、作戦の概略を立てんと団長としての誇りがなくなっちまうだろうがよぅ!」
 「そんなちょっと吹いたら飛んじゃう誇りなんていらないわよ。あんたはあんたの領域でその誇りとやらを持ちなさい」
 にべもない彼女の言葉は、クラールの心に納得と同時に浅い傷を残す。
 「まぁまぁ、私も同行してあげるから、そう気を落とさないで。っと、どこ行くのよ!」
 彼女の言葉にクラールは走って逃げた。が、重い鎧を着込んでいる彼は、すぐにフレイラースに回り込まれる。
 「何よ! そんなに嫌がらなくても良いじゃない!」
 「お前がアルバートと喧嘩するのは勝手だがな、俺を巻きこむのは止めてくれ。俺の方はお遊びじゃないんだぞ!」
 クラールは懇願するようにエルフ娘に言った。
 「お遊びですって! だいたいアルの奴…」
 「みなまで言うな、俺が当ててやろう。大方……そうだな、アルバートがシシリア姫に妙に親切なのが気に食わないんだろう?」
 「ふぇ?!」
 「そんで言ったら、アルバートは俺には俺の考えがあるんだ、とか言って喧嘩になったか」
 「み、見てたの?」
 キョトンとするエルフに騎士は首を横に振り、「状況を鑑みて大体予想がつく」と答えて続ける。
 「アルバートには何か思うところがあるようだな。シシリアに親切ってのは初耳だが、そんなことで喧嘩はやめておけ」
 「そんなこと、ですって!」
 フレイラースは激昂する。
 「すまんすまん、お前はアルバートが好きなんだろ? だったら奴の側にくっついてろよ。シシリアに取られちまうぞ」
 笑ってクラールは言った。
 「シシリアはアルバートの妹でしょ?」
 ジト目で彼女はクラールを睨つける。しかしそれを無視して騎士は続けた。
 「そうかな、法律では従兄妹の結婚は禁じてはいない。それにシシリア姫は想っている男がいないようだしな、どうだか分からんぜ。じゃあな!」
 クラールは茫然と佇むエルフの横を通り抜ける。しばらくして彼は背中から走って遠ざかって行く足音を聞いた。


 一人の騎士の先導の下、ローブを羽織った中年男が白亜の宮殿の廊下を歩んでいた。
 騎士は大柄という訳ではないが、ローブの男と体格が変わらなく見える。ローブ姿の男が思ったよりも大柄なのだ。
 騎士は廊下に面する扉のうち、一つの前に立ち止まった。
 「ありがとう、ナセル殿。下がっていて下さい」
 男の言葉にいかめしい表情の中年騎士は敬礼し、その場を去って行く。
 そして男は扉をノックする。数瞬の後、若い女性の許可を告げる声が返ってきた。
 男は扉を開ける。
 「失礼致します。アークスまでわざわざ足をお運びになられて誠に光栄に存じます。センティナ・ガーネッタ殿」
 男は言って、敬礼。
 「私こそ押しかけてしまって、申し訳ございません」
 ソファから立ち上がって、鎧から簡易な服装に着替えた女性もまた恭しく答える。
 「本来ならば我が王自らが出向かれるところなのですが、生憎近頃は取りこんでおりますので。この私ルース・アルナートが御挨拶をさせて頂きます」
 顔を上げて、彼は静かに微笑んだ。
 センティナはローブの男を顔を見て、僅かに微笑を崩す。
 「貴殿が黒き光として名高い魔術師団長のルース殿ですか。お会いできて光栄ですわ」
 彼女はそこまで言って、しげしげと彼の顔を見つめた。
 「何か?」
 「いえ、失礼しました。貴殿の面影がどこかでお会いしたことがあるような気がして…いいえ、そんなことはありませんわね」
 顔を赤くして俯くセンティナ。
 この光景を彼女のことを良く知る――すなわち例えばアルバート一行が見たら、その似合わない態度と言葉遣いに一週間は笑い転げることだろう。
 初対面の人間から見れば上品な王族にしか見えない。ルースはもちろんだが普段のセンティナの姿など知らない。
 そのセンティナがルースの息子であるルーンと剣を交えていたことなど、慧眼であるルースも知る由もあるまい。
 ともあれ、そんなセンティナの態度にルースは軽く微笑んで言葉を続けた。
 「ところでセンティナ殿は何か訳あってこの城へ?」
 「いえ、宛のない旅の途中にアルバート殿下とお会いしたのです。ですからこれといった理由はありませんの」
 ルースに席を勧めて、センティナはソファに再び腰かける。
 「左様でございますか。話は変わりますがセンティナ殿は現在の貴国の状況をご存じで?」
 ルースは貴族独特の前置きなどをさらりと飛ばして、いきなり本題に入る。
 ストレートな男だ―――センティナは思う。
 センティナの祖国であるザイル帝国が、このアークス皇国との不可侵条約を破り、南の公国に攻め入っていることは彼女の耳にもすでに届いていることだ。
 一応、帝国王族の遠い親戚に当たる彼女に対し、帝国の戦力を探ってくることは分かっていた。悪ければ、人質にされるという可能性も考えている。
 しかし現在の彼女は正式にザイル帝国王族から『勘当』されている身、言わば自由の身であった。
 だから、いざとなったら彼女は強行にこの場を去る事が出来る。
 ”そんなことにはなりそうもないがな”
 センティナは内心、ルースを見つめながら呟いた。
 大抵の貴族や文官などならば、長々と世間話を興じた上で本題に触れるか触れないかに留まるものだが、この黒き光の異名をザイル帝国の軍部に轟かせるルースはいう男は違うようだ。
 だから彼女は言葉を選んで応える。
 「存じておりますわ。なんでも条約を破棄し、戦いを挑んでいるとか」
 彼女は足を組み直し、そう答えた。口調はいかにも自分は無関係であるといった風だ。
 「では、話が早い。貴殿に仲裁役を買って出てもらいたい」
 ルースの思ったとおりの言葉にセンティナは前以て用意しておいた表情――微笑で以って相対する。
 「私が帝国王族からすでに出奔している事は御存じでしょう? 今は帝国の人間であっても政治には何の関わり合いもない者です。そんな者の言葉を聞くザイル帝国の者などいないでしょう?」
 「それはご謙遜ですな」
 さっぱりと切って捨てるルース。
 「貴殿を未だに慕っている帝国の兵士は多い。王妃から直接、帰還するようにとの触れも出ていると聞き及んでおりますよ」
 事実、センティナを慕う帝国軍人は多い。
 彼女はかつてのアークス−ザイル戦線において高い戦績を収めている。もっとも彼女が活躍したのはザイルにとって勝ち戦ではなく、撤退戦においてだ。
 帝国の基本律は「強き者こそ至上」であり、現在においてもその思想は変わらない。
 故に彼らにとっての負け戦は唾棄すべきものであり、己の軍であっても敗残兵にかける情けはない。
 そんな中でセンティナは帝国将軍として一団を率い、常に軍のしんがりを務めて多くの仲間を救ってきた実績があった。
 包囲戦、殲滅戦、掃討戦――多くの負け戦に関わり、それらの数だけ味方を救った彼女を崇拝対象とする者さえ多いと言われている。
 一方で弱者に情けをかけることを蔑みの目で見るザイル帝国上層部も多く、彼らとの反目の末に命の危険を感じて出奔したというのがもっぱらの噂だ。
 「嫌です、と申し上げたら如何様になさるおつもりかしら?」
 センティナはルースをまっすぐ見据えて尋ねる。射抜くようなその視線はしかし、ルースに対しては通り抜けるような歯ごたえのなさを彼女は感じた。
 その感触は彼の答えにも現れていた。
 「それならそれまでです。客人である貴殿をどうこうするつもりは我々にはありませぬ故」
 さらりと言い除けるルース。
 ”そう来るか”
 彼女は心の中で呟き、答えた。
 「では、嫌です」
 「そうですか、それは残念です」
 呟いて、さも残念そうに席を立つルース。それを予測していなかったセンティナが彼を止めた。
 「お待ちください。説得などはなさらないおつもりで?」
 「説得させていただいても、果たしてお引き受けくださるのでしょうか?」
 逆に問われ、言葉に詰まるセンティナ。仲裁役などやってやるつもりは毛頭ないのは事実である。
 しかしこうもあっさりと引き下がられるとセンティナとしてもおかしいようだが、どうも釈然としない。
 加えて理由はないのだが、彼女はルースとしばらく話を続けたかったのも事実だ。
 彼女は困って辺りを見回し、そしてある物に目を止めた。
 「そうですね、私と剣で勝負して一本でも取れましたら前向きに考えましょう」
 壁に飾られている二振りのサーベルに目を止めて彼女は言う。
 その回答にルースは沈黙する。しかしそれも数瞬、困った口調でこう述べた。
 「私は非力な魔術師ですよ、それに歳ももう四十五。若く剣士として名高い貴殿に勝てる訳もないでしょう?」
 残念そうに彼は答える。
 センティナはふむ、と人差し指をおとがいに当ててこう返す。
 「それもそうですわね。では私は目隠しをする…というのではいかがでしょう?」
 この答えにはルースが眉間にしわを寄せる。
 「目隠しをしたご婦人に剣を向けるなど、私にはとてもとても」
 「その目隠しをした婦人に勝てるおつもりで?」
 挑発するセンティナ。この時、彼女は自分でも何故このような持ちかけをしたのか理解していなかった。
 このような悪ふざけなど、彼女がまだ剣を取る以前に捨てた行為のはずだった。
 しかし何故かこのルースの顔を見ると一泡吹かせたいという気持ちが湧き出てくる。
 後に彼女はこのときの自分をこう振り返っている。
 『認められたかったのだろう』と。自分を追い落としたザイル帝国軍部上層部が黒き光として恐れる彼に、一種の憧れを抱いていたのだろう、と。
 センティナの挑発を受けたルースは困った顔で、しかし僅かな逡巡をもってこう答えた。
 「怪我をさせるつもりはありません」
 サーベルを手にしながら彼は言う。
 ルーンの行動にセンティナは内心嘲笑う。ある程度の技量を持った者は例え視覚がなくとも、相手の気配を察知して普段通りの剣技を振うことができる。
 センティナはとうにそのレベルを越えていることは言うまでもない。
 だが彼女はその逆もまた可能であることを知るレベルには達していなかった。
 「では、中庭で」
 サーベルを手にしてセンティナはテラスから中庭に出る。日は傾き、植えられた樹木が長い影を落としていた。
 「言うまでもなく魔術はなしですよ」
 ハンカチーフで目隠しをしながら、センティナはルースに念を押した。それに中年は頷いて答える。
 「では、いつでもどうぞ」
 サーベルを肩に担ぐように構え、目隠しをしたセンティナは閉ざされた視界の中で微笑んで言った。
 しかしその微笑みはすぐに凍りつく。
 ”見えない! どういうこと?”
 彼女の心の目には彼女を取り巻く気配が手に取るように感じられる。中庭の木々、そこに止まる小鳥、噴水の水量からそよぐ風の方向まで。
 だが目の前にいるはずの相手であるルースの気配が一切感じられなかった。
 ”一体、何が? まさか逃げた?!”
 センティナは意識を周囲に集中させる。例え使用しないと約束はした魔術により気配を消していたとしても、魔力は感知できるはず。
 だがそれを込みでも、黒き光として恐れられる男の気配は見つからない。
 ”どうして? こんなことができるのは……”
 彼女を超える一流の剣士か、それに似た存在のみ。
 焦るセンティナは唐突に、まさしく降って沸いたかのようなルースの気配を捉えた!
 「んな!」
 思わず声が漏れる。感じ取ったルースの気配は一つではない。
 彼の気配は個体としてではなく、空間となって彼女を包み込んでいた。初めての感触に戸惑いと恐怖すら生まれてくる。
 そしてセンティナを包囲したルースの気配はいきなり殺気へと変貌した!
 「クッ!」
 センティナはその殺気を消し去ろうと剣を振う。
 が、その剣先は足下の土を抉ったに過ぎない。
 ”達人の域じゃないの!?”
 内心悲鳴を上げる、そして。
 「私の勝ち、ですね」
 耳元に彼の声が囁かれ、センティナの首筋にルースのサーベルの背が優しく当てられた。
 「とんだ魔術師さんだこと。近頃の魔術師は剣も一流なのね」
 サーベルを捨て、目隠しを取るセンティナ。
 「紳士の嗜みですよ」
 戻した視界には先程と変わらぬ微笑を浮かべるルースがいた。やはりとても達人級の剣士には見えない。
 「全くご謙遜なさること。嗜み程度ではありませんわ、私との力量の差は天と地ほどもあるはず」
 鋭いセンティナの視線を天を仰ぐことでルースはかわす。
 「取り合えず、約束は守りましょう。もっとも私が行ったところで無駄だと思いますけれど」
 センティナは呟くように言って溜め息一つ。
 「宜しくお願い致します」
 ルースは深く頭を下げる。センティナはそんな彼を見て小さく微笑んで言った。
 「それにしてもアークスにはそれなりの剣士がいるものですわね。貴方を含めてもう二度も負けたましたわ」
 同じく空を見上げてセンティナは呟く。
 「もっとも、負けから学ぶものの方が多いのは事実ですわね」
 頬を優しく撫でる風で髪を整えながら、彼女は暮れ行く日を眩しそうに見つめた。


 首都アークスへと伸びる南の街道。
 その中途に二つの人影があった。
 くすんだ金髪を持つ青年と、頭をフードですっぽりを覆うローブを纏った男だ。
 「これからアンタはどうする?」
 青年の問いに正体の見えない男からくぐもった声が応えた。
 「我らが故郷が潰された今、自由になった我らの腕を買う奴はごまんといるさ。取り合えずこの国の盗賊ギルドにでも雇われようかと思うが。そういうお前はどうするのだ?」
 問い返され、青年は悪く笑ってこう答える。
 「俺か? まぁゆったりのんびりと世界を見て回るよ」
 「いい加減、腰を据えた方が身の為だぞ。と、こんな事言うようじゃあ、我も歳を食ったもんだな」
 「年長者の忠告として、ありがたく受け取っておくよ」
 青年は笑いながら彼に背を向ける。
 ローブの男もまた、青年に背を向けて彼らはそれぞれ反対の方向へと去って行った。
 首都アークスより南の街道に三日ほど行ったところにある小さな街――テイルヘッド。
 程なくして金髪の青年はその街にたどり着く。
 この街は彼にとっては見知った地であるらしい。慣れた歩調で一軒の店へと入っていった。
 「いらっしゃい、あら? 久しぶりね」
 そこは大理石造りの大きなこの宿屋兼酒場。
 扉をくぐると同時、看板娘から陽気な声が届いた。
 「この街に来て真っ先にやることは君の顔を見ることさ」
 「あら、嬉しい。ご注文もたくさんしてもらえるともっと嬉しくなっちゃうかも」
 「まだ酒は良いや。昼飯をお願いしたいな」
 「分かったわ。ゆっくりしていってね」
 気障な男の定番のセリフを慣れた口調であしらった娘は、微笑んで仕事を再開する。
 大理石造りの比較的大きめなこの宿屋兼酒場は繁盛していた。
 その大部分が旅の傭兵や街のゴロツキといった無骨な男ばかりであったが、端のカウンターに全く不似合いな黄色い色彩があることに彼は気付く。
 薄い黄色の法衣を纏った少女だった。その色彩は光の女神フィースの信徒であることを示している。
 彼は軽い足取りで彼女の隣に腰を下ろす。少女は端正な顔を彼にふと向けるが、すぐに前に向き直った。
 「ほぅ」
 感嘆の息を漏らして、金髪の青年は遠慮なく彼女を見定めた。
 歳の頃は彼よりも下であろう、十代半ばか。彼のくすんだ色とは異なる、艶のある金色の髪は肩までかかる。
 整った鼻と黒い瞳。彼がこれまで出会ってきた美人の域でもかなり上に位置していた。
 そして光の神のシンボルを形どった聖印を首から下げ、法衣にも黒い糸で左胸に同様のシンボルが刺繍されている。
 黒色の刺繍は準司祭を意味していた。階級で言えば普通の生活をしていては『なれない』高位である。
 普通の信者であれば毎月教会に寄進することで神の加護を得るに留まり、それ以上の地位を得ることは困難だ。
 そんな中で、準司祭というクラスに到達する方法は限られている。
 一つは貴族や富豪の出身で、己の社会的地位を高める為に通常ではない寄進を行う事。
 一つは代々司祭の家系に生まれること。すなわち縁故だ。
 そして稀なケースだが、その個人の能力が高いこと――特別に神に愛されていることも挙げられる。
 この少女がどのような背景で準司祭の地位を得ているのかは、この時点では青年には判別はつかない。
 ともあれ。
 彼女の外見かその地位か、どちらに思わず溜息を漏らしたかは彼自身も分からずに吐いてしまった。
 興味が沸いたのだろう、彼が彼女に話しかけようとするのと。
 「お待たせ、本日のランチよ」
 看板娘がカウンター越しに昼飯の載ったトレイを差し出すのと。
 「おらぁ! シャバ代出さんかい!」
 入り口の扉を蹴破って四人組の荒れくれ者が乱入してきたのは同時だった。
 「「………」」
 賑やかだった酒場は、突然の珍客に一瞬にして静まり返る。
 「? 何だい、ありゃ?」
 青年は隣の少女からカウンター越しの看板娘に視線を移し、トレイを受け取りながらそう問うた。
 「うわ、あいつらはここいら一帯を締めようとしてる新参のマフィアとかヤクザとか、そんな奴らよ」
 看板娘の声が小さく震えているのを、彼は見逃さない。
 「この店の親方はあいつらに反発してる一人なの。でもあいつら、この街のお偉方ともつながりがあるみたいで警備隊も手が出せないのよ」 
 「そこの女ぁ、主人連れてこんかい!」
 静まり返った店内を見回した荒れくれ者達は、唯一人の看板娘の姿を見つけ歩み寄る。
 「ヤバいよ、今日は親方休みで、アタイと奥さんしかいないの。どぉしよう」
 ささやく彼女の声は、向かってくる彼らの接近により小さな悲鳴で途切れる。
 「おら、どけ!」
 男の一人は金髪の彼を邪険に横にどかし、神官の少女との間に割り込んでカウンター越しに看板娘の前に出た。
 「どん!」と思い切りカウンターを拳で叩きつける。
 「ひっ!」
 看板娘の小さな悲鳴を聞きながら、男は拳をどかすと硬い木でできたカウンターの表面が拳の形に凹んでいた。
 「こうなりたくなかったら、今までためてた場所代をきっちり払いな」
 「端数はまけてやってもいいぜ」
 腰巾着の様な子男が言葉を加える。
 「兄貴は女だからといって容赦はしないぜぇ。この間も出店のねぇちゃんを病院送りにしたけぇ」
 訛りのある言葉で畳み掛けるのは肩に鎖を巻いた中背の若者。
 そして最後に。
 「でも安心しな、病院は病院でも産婦人科じゃねぇからよ」
 後ろに控える身長二リールを超えた大男がそうオチをさらし、四人の男達の大笑いが静かな酒場に響いた。
 それに対して看板娘は気丈に、目を潤ませながらも睨み返している。
 「今日は主人がいません。後日になさって…」
 「いないから来たんだよ! いつも痛い目に合わされてるからなぁ」
 「ふ〜ん、てぇことは、お前らここの主人には今まで四人がかりでも勝てなかったって事か。だらしねぇな」
 そう言うのは金髪の青年。彼はリーダー格の男の隣でゆっくりと椅子から立ち上がった。
 「何だ、てめぇ。部外者は引っ込んでな!」
 小脇の小男が言うが早いか、その右目にフォークが生える。
 「な、なんだこれ…うわぁぁぁ!?!?」
 騒ぐ小男の顎を、彼は教本の手本のようにきれいに蹴り上げる。


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