リハーバーからの増援で人員が増えもしたが、彼らも大きくその数を減じていた。
 「寂しくなったものだ。こんな気持ちで手紙など書いても、貰う方も暗くなっちまうな」
 彼は手紙を丸めてゴミ箱に放り投げる。
 「誰かさんへのラブレターかしら?」
 そのゴミを途中で受け止め、女魔術師は無造作に広げた。
 「ユーフェ、入るときはノックくらいしろ。魔術で入ってくるなよ。それに人の捨てた手紙を読むんじゃねぇ」
 「そうね、ゴメン」
 手紙の内容を一瞥した彼女は素直に謝った。
 「で、何の用だ?」
 ザートは改めてユーフェに尋ねる。
 「本国からの転移点に対する答えが来たの」
 やや表情を曇らせてユーフェは言う。それをザートは無言で続けさせる。
 「転移点を天使及び魔族に対して死守せよ、だって。ちなみに増援はなし」
 それはザートの予想したものだった。
 「リハーバーサイドも自国に増援を頼んだみたいだけど無理があるみたいね。リース様とシャイロク様は封印する方法を考えておくとは言ってくれているけれど」
 「そうか、そんなことだろうと思った」
 外の景色を見ながら、ザートは答える。
 「そうか、だけ? 文句とか言わないの?」
 少し怒って、少女は言う。
 「本国の方もごたついているんだろう? 第三王子が下克上起こしただとか、東の公国が反旗を翻しただとか、ザイル帝国が侵攻してきただとか、さらには西の港を海賊達が荒らし回り始めたとかさ」
 指を折ってザートは数え挙げていく。
 「よ、良く知ってるわね」
 ユーフェは驚きながらザートの寝そべるベットの縁に腰かける。
 「情報くらいは魔道ネットや新聞から入るしな、君はマンガばっかり読んでるみたいだが」
 「う、うるさいわね、いいじゃない!」
 「それに、ここを俺は守らなくてはいけないようだ」
 ザートは傍らの大剣を目の高さで構えて呟く。智天使から預かった大剣はその見た目に反して彼にとって重量をほとんど感じさせない。
 「敵の言葉を信じてるの?」
 一部始終はザートから聞いてあったユーフェは尋ねた。
 「俺の会った奴は敵じゃないと思う」
 答えるザートにユーフェは怒ったように突っかかる。
 「どうしてそう言えるのよ!」
 「何怒ってるんだ?」
 不思議そうに彼は首を傾げた。
 「怒ってないわよ」
 ザートに問われて我に返るユーフェ。なんでこんなことで怒ってしまったのか、その理由はなんとなく分かっていた。
 人間でないものに嫉妬するほど、彼は彼女の中で大きくなってしまったのかと思うと彼女は全力で否定する。
 だから、なんとなく分かりかけている理由を未だに彼女自身、煙に巻いてしまっていた。
 「アイツが敵ではないっていう理由はあるんだよ。あの天使は多分俺の」
 「貴方の?」
 「いや、何でもない。いつか話すよ」
 不満気にユーフェはザートを見るが、彼は口をつぐみ話してくれそうもない。
 しばらく二人の間に沈黙が拡がる。
 「ところで、さっきの傷は大丈夫?」
 恐る恐るユーフェは尋ねた。
 「? ああ、これか。君に回復の魔術を『かけてもらわなかったおかげで』順調に回復してるよ」
 笑って傷のある左胸を叩く。ヤブだがそれなりの腕はある軍医だったようだ。
 「ほほぅ、今から回復の魔術をかけてあげる」
 ザートの言葉にユーフェはゆらりと立ち上がり、呪文を呟き始めた。
 「ま、待て、それが怪我人に対する仕打ちか?」
 ベットの端に追い詰められるザート。
 「怪我人だから魔術をかけてあげるのよ」
 薄笑いを浮かべてユーフェがベットの上を伝ってジリジリとザートとの距離を縮める。
 その両手には青白い光が灯ろうとしている。
 「やめろ、また俺に三途の川を泳がせる気かよ」
 「今度の回復魔術はしっかりとネズミで実験したから大丈夫よ。覚悟しなさい」
 「大丈夫なものを覚悟しろなんて言うことが信じられんわ、秘技シーツ返し!」
 ザートはベットのシーツを両手で掴んで思いきり引っ張る。
 「あっ」
 ユーフェはバランスを崩し、ザートに倒れかかった。
 ドガシャ!
 音を立てて二人はベットから落ちる。
 「いたたっ」
 後頭部を床にしたたかに打ち付けて、ザートは一瞬視界が暗転する。
 「ザート」
 呟く少女の顔がザートの目の前にあった。彼はユーフェを抱きしめる形でベットから落ちている。
 落ちたときの拍子でユーフェのポニーテールが解けていた。髪が彼女の頬にかかり、ザートの頬にもかかっている。
 視界の暗転は彼女の黒髪のせいだったようだ。
 「ユーフェ?」
 可愛いな――ザートは彼女を素直にそう思う。
 彼女の顔をこんな間近で見るのは初めてだった。そして宮廷魔術師という大職に身を置きながらも、それ以前に歳相応の女の子であることを彼に思い出させた。
 ザートはユーフェの顔にかかる解けた髪をそっと払う。
 それに少女は抗わず、ただ騎士の瞳を見つめていた。自然と2人の距離がどちらからでもなく近づいていく。
 バサリ
 テントの入り口の布が不意に払われた。
 「ザート、転移点の件はご苦労だっ…」
 「「あっ!」」
 「お見舞持ってきて…あら?」
 「結構良いテントじゃない…か」
 「アタイらも泊め…って、ほほぅ」
 突然の来客に双方の動きが止まり、沈黙が辺りを満たす。
 数瞬の後、訪問者シャイロクはきびすを返し、言い残した。
 「邪魔したな、続けてくれたまえ」
 「「ちょ、ちょっと待った!」」
 「お見舞はここに置いていくからね」
 その後を追うリース。
 「「事故ですよ」」
 しかし二人の言葉は指揮官達には聞こえていない。
 「やれやれ、若いもんはいいものだな」
 「そうねぇ」
 「「お前等も見た目は若いだろうか!」」
 老人のような事を言いながら、駿牙と徨牙もテントから出て行った。
 再び二人に戻される静かなテントの中。
 「行っちゃったね」
 茫然とユーフェは再びしまった入り口を見つめていた。
 「む、シャイロク様は良しとして姫様には絶対に変な噂を流されそうだ、駿牙も口は軽いみたいだし。何としてでもそれだけは止めなくては」
 頭を抱え言うザートの袖を、ユーフェは引っ張る。
 「変な噂って、何?」
 「そりゃ、あの状況で」
 「そんな噂が流れたら、迷惑?」
 寂しそうに尋ねる彼女にザートは言葉を失う。
 と。
 耐え切れなくなったように笑い出すユーフェ。
 「冗談よ、冗談。私、姫様に本当のこと言ってくるから、ね?」
 微笑みながらユーフェは小走りにテントを後にした。
 「あ、ユーフェ!」
 ザートの右手は空を切り、少女は後ろ手に手を振ってテントの外へと出て行った。
 「後で謝った方が良いのか、やっぱり」
 残されたザートは一人、頭を捻るしかなかった。


 シャイロクは一人の青年とともに酒場のカウンターで対策を考えていた。
 対策とは転移点に対するものである。
 「秀牙、君ならどうする?」
 シャイロクの問いに秀牙と呼ばれたダークエルフの青年はしばし思案する。
 オライアンの連れてきた五人のダークエルフの内の一人、この秀牙はシャイロクにはない軍事作戦を立てることができた。
 魔陣――人を規則的に配置することにより、場に魔力的な結界を張る法である。
 先だっての天使との戦いにおいては彼の助言を執ったリースにより、アークス軍に活力回復と移動速度上昇の加護を得ることが出来た。
 これは集団魔術という陣形、すなわち個々の潜在的に秘めている魔力を幾何学的に配置することによって引き出すという、人にはすでに失われた知識である。
 「どうするも何もありませんね。命令通り死守するしかないと思います。しかしあまりその神殿とやらに兵を置くと集中攻撃されますから、それを囲むようにテントを配置したら良いのでは?」
 秀牙は無難な答えを出す。無論、その配置に関しては防御力増強の布陣をもって臨むつもりだ。
 「しかしこればかりは気合いで乗り切るしかないか。いつまでもたせられるか分からないがな」
 溜め息を就くシャイロク。
 「何を酒場で溜め息なんて就いてるんだ? 私のおごりだ、呑むと良い」
 不意に二人の前にジョッキに入ったエール酒が後ろから置かれる。振り返るとそこには赤い髪が目に付くリースの姿があった。
 「あまり仕事に根をつめると体をおかしくするぞ。そういう所は少しはオライアンを見習った方が良いな、シャイロクは」
 彼の隣に座り、リースは自らもエール酒を煽って言う。
 「こういう人なんだよ」
 「大変ですねぇ」
 シャイロクと秀牙は互いに呟き合い、再び溜息。
 「何、二人で言ってるのよ」
 リースは二人の参謀役を睨む。
 「じゃ、私はこれで。お酒はシャイロクさんに譲ります」
 「おい、ちょっと」
 一早く逃げ出した秀牙をシャイロクは止めようとするがそこはエルフ、持ち前の素早さで彼の手は空を切る。
 「全く。逃げ出すとは何て奴だ」
 秀牙の分のエール酒を奪って、リースはシャイロクに同意を求めた。
 「姫は絡み酒ですからね」
 「何か言ったか?」
 眠たげな目で聞き返す。
 「いいえ、何も」
 リースは明らかに酔っていた。彼女の場合、何か嫌なことがあったりやりきれなくなったりすると酒を飲むのだが、その際の酒癖は非常に悪い。
 酒癖と言っても彼女が暴力を振うのではない。
 ただ延々と愚痴をこぼすのだ。秀牙は先日の天使撃退の打ち上げの際、シャイロクと共にその愚痴に徹夜で付き合わされたという苦い経験を持つ。
 「で、今日は何の愚痴ですか?」
 逃げることは諦めたシャイロクはリースに付き合うことにする。ここで逃げたら後ほど何をするか分からない姫君である。
 「天使共は何を考えている? 転移点とやらを狙っているようだが、それを使って何をしようとしているんだ?」
 「さぁ?」
 シャイロクはエール酒を一口飲む。ほろ苦さが口の中に広がり、一瞬の爽快感を与えた。
 「さぁ、だと? お前に分からないことがあるはずがない!」
 言い切ってリースはシャイロクの頭をこずく。
 ”疲れているな、姫は”
 シャイロクの心が痛む。
 そもそも本国で王族の命――すなわちリースの命も含まれるが――それを狙う妙な動きがあったため、この北方の地への赴任の任務を彼自身快く引き受けたのだ。
 だがこの赴任地での任務は理解しがたいものだった。
 善の象徴として知られている天使が現れたかと思うと、彼らは攻撃まで仕掛けてくる。
 まるでリースは自分自身が悪であるかのように思ってしまうのであろう。
 「全く困ったことだな」
 小さく副官は呟く。
 この対人間でない戦いに判断の大部分を副官であるシャイロクに任せきりなのもリースのやり切れなさの一つなのであるが、これにはシャイロクは気が付いていなかった。
 「いつまで寒いの、ここは!」
 無言のシャイロクにリースは理不尽な文句を言う。
 「私達が任務を終了する六月の終わりには暖かくなりますよ」
 「今、暖かくしなさい」
 シャイロクは立ち上がり、自らのマントを外して彼女の肩にかけてやる。
 リースは一瞬驚いた顔をするが、怒ったようなそれでいて嬉しいような顔をして店のカウンターに向かってこう叫んだ。
 「エール酒のおかわり、四杯ほどちょうだい!」
 「そんなに辛いのなら帰るか、アークスへ?」
 カウンターに立つ主人を目で止め、後ろからシャイロクはリースに囁いた。
 「な、何言ってるのよ、できるわけないじゃないの、そんなこと」
 「俺にできないことはない」
 部下ではなく友としてのシャイロクの言葉と気付き、リースはバツが悪そうに軽く目を伏せる。
 「ごめん、お酒はこの辺にしておくわ。知ってるでしょう、シャイロク? 私が何事も途中でやめるのが嫌いだって事」
 エールの入ったジョッキから手を放し、リースは小さく告げた。
 「私の為に無茶なことはしないで。もう我儘は言わないからさ。でも一つだけ頼みを聞いてくれる?」
 「頼み?」
 シャイロクは首を傾げて赤い姫君に尋ねた。
 「今だけは、今だけでいいから私をただのリースとして見ていて」
 彼にそう囁きマントの上、肩に置かれた彼の手に己の手を重ねる。
 寂しさを紛らわすような薄っぺらい賑やかさに包まれた酒場の外は、降り続く雪に相変わらずの静寂の世界が広がっていた。

<A Lady>
 私はいつからここにいるのだろう?
 そして何をしているのだろう?
 頭の中ががはっきりとしない。色々な事が脳裏を過ぎ去っては消えて行く。
 膨大な知識量が私を、今の場所から圧倒的な物量で押し流していくような錯覚に陥らせている。
 そう、私の名は?
 私は、誰?
 気が付くとここは暗い闇の中だった。上も下もない、本当の闇。
 闇は私を優しく包み込んでくれる。全てをその闇に任せること誘惑に逆らえず、私は闇に飲まれるかのように深い眠りに就いていった。
 夢?
 私は眠りに就いた。私は自分自身そう思っていた。
 再び私のまわりは闇。上も下もない闇だった。
 寝ているのか起きているのかすらも分からない。自分自身が眠りに就く瞬間を判定できる人間がいるであろうか?
 「このまま闇の中から出られない」
 私は呟く。その声で私は私の存在を確認する。闇の中では全てが朧だ。完全なものがない。
 「このまま闇の中から出られない…の?」
 再び私は呟く。この言葉は今まで私が信用していた闇に対して恐怖の感を想起させた。
 私は、そう。何かを思い出さなければ!
 私が私であるための何かを、さもなくばこの闇に飲まれてしまう。
 私は考える。考えることすら分からないが、混乱した頭で何か答えを求めた。何か一つでも良い、答えを!
 「ルーン?」
 灰色の頭の中から一つの単語が浮かんだ。
 何だろう、この言葉。一体何を表しているのだろう?
 「ルーン」
 私はもう一度その単語を口にする。何か懐かしく暖かさと運命めいたものを感じた。
 「ルーン、とは何かしら?」
 ただその単語を口にすると、気分が楽になる。
 「とにかく、ここから出ないとね」
 出ると言ってもどこから?
 私は自分でその言葉に否定する。
 「ここはどこなの?」
 問い。もちろん答えなど返ってくるとは思っていなかったが。
 「ここは闇の精霊界の深層。上位精霊すら踏み込むことのできない闇の重圧の中心。どこからきたのかな、お嬢さん?」 
 「誰?!」
 降って湧いた答えに振り向く。しかし何も見えない。ただ闇が拡がるだけだ。
 「目で見るんじゃない。心で見るんだよ、それが精霊の理さ」
 「精霊の理?」
 再び聞こえた声に私の知識が動く。
 そう。目で見えるものなどごく少数。本当の姿を見るには心で見なくてはならない。
 世界を構成する様々な精霊達は、目で見えるものではなく心で『視る』ものなのだ。
 それを教えてくれたのは、誰だっただろう? 思い出せないけれど、大事なのはこの言葉だということが分かれば良い。
 私は目を閉じてまわりの闇と同化する。心の平静により、視界が急に開けた。
 闇の中、闇自体を凝縮して作られた巨大な十字架に一人の男性がくくりつけられている。
 いや、半ばその十字架に飲み込まれているような形だった。
 「貴方は?」
 私は問う。それは先程話しかけてきた声の主に違いない。
 「幾千夜振りのお客だろう。嬉しいね」
 彼は四対の翼を持つ青年だった。闇の中でもその体自体が神々しい淡い光を放っている。
 そしてその青年の両の瞳は閉じられていた。
 「私は天使…いや、今では堕天使かな。全てを裏切った罪を償うためにここに封じられているのです」
 彼の声、姿にどこか懐かしいものを感じる。以前に会ったことでもあるのだろうか?
 「貴女は?」
 歌うような声で彼は私に問うた。
 「私は……分からないの。自分が誰だか、それにここが何処だかも」
 目を閉じた天使を名乗る彼はしばし考え込んだ後、こう問い直した。
 「ではあなたは今、何を知っていますか?」
 微笑む天使を名乗る彼の質問に私は当惑する。
 「質問が悪かったかな。貴女は人だ。だからこの精霊界にいてはいけない存在。あなたは元の世界に戻りたいのかな?」
 「私は人? 私の世界?」
 彼の言葉に私の沈静しかけた頭に再び荒波が立つ。
 「私は自分が何者なのかも、いるべき場所も何も知らない」
 答える己の声が小さく震えていることに気付く。
 「いいや、貴女は自分のやるべきことを知っている」
 対する彼はしっかりした、厳しくも聞こえる口調で告げた。
 「貴女はやるべきことをなす為に、この世に生を受けた。そして貴女は知ったはずだ、その宿命を」
 「やるべき事?」
 彼の言葉の意味が分からない。が、何か心に突き刺さる。
 先程まで私を押し流していた知識の波。
 それが私の心に大事な何かを叩きつけたことは間違いない。
 だけど。
 それを思い出すのは、きっと今の私では心が壊れてしまうような気がする。
 「私には、貴方の言っていることが分からない、分かれない。でもそのうち分かる時が来るような気がする」
 心に浮かぶ言葉を選びつつ、私は目の前の天使に告げる。
 告白を彼は静かに、急かすことなく、じっくりと聴いてくれている。
 その様はとてもとても安心できるものであり、だからだろう。
 私はこんな言葉を選んでいた。
 「私と一緒に来てくれない? 私はここから出る方法も、いえ、それ以前に何も分からないの」
 言葉に彼は微笑み、そして私に告げる。
 「貴女がもしも私の宿命を断ち切れるのならば、私は貴女に仕えましょう」
 天使は試すように、自らを半ば飲み込む闇の十字架を見せながら言った。
 「この十字架は許されることのない罪人である私の、罪の重さの分だけ闇に埋まっています」
 「そう。どんな悪いことをしたの?」
 「世界そのものを敵に回してしまった、とでも言いましょうか。結果的にあの人にも迷惑をかけてしまいました」
 私は首を傾げる。
 「あの人って、誰?」
 彼は答えない。ただ寂しげな笑みを浮かべるだけだ。
 「どんな悪い事をしたか分からないけれど」
 私は彼の右手を取った。
 白く、まるで女性のように細い手指は衰えの為だと分かった。
 「一人で、それもこんな世界の果てで後悔しているだけじゃ、その人もきっと喜ばないよ」
 「えっ」
 「それに貴方のしたことを、貴方自身は後悔しているの? していたら、きっとそんな穏やかな顔ではいられないと思う」
 私は沈黙した彼の手を引く。
 重い。
 だから私は、そう。
 『背の翼』で羽ばたいた。
 力強く、おもいっきり、この世界から飛び出すつもりで最大限の力を以ってして。
 底が見えないけれど心地よかった闇の中から出るのはちょっと勇気がいることだけれど。
 ルーン、力を貸して。
 思わず浮かんだその言葉は、人の名前だったことを思い出す。
 翼に力が灯る。
 「外へ!」
 私は声に出す。
 「外へ」
 堕ちた天使が呆然と言葉を口にした。
 途端。
 周囲の闇が白い光に引き裂かれていく。
 彼を飲み込んでいた闇の十字架もまた、溶けるようにしてその姿を崩していく。
 黒の闇の世界が白の光の世界に崩されていった。
 私はその中で、天使の手を握って崩れる世界を飛ぶ。
 出口と思われる、上へ上へと向かって。
 「ありがとう」
 隣、天使の彼がそう告げる。
 「貴女は私の運命を断ち切った。私もまた、貴女の運命を断ち切る為に力を貸しましょう」
 ゆっくりと彼は閉じた目を開いていく。その瞳の色は黒。そしてどこかで視たことのある、懐かしさと安心を感じる色だった。
 「ああ、貴女でしたか。なるほど、運命とは実に面白いものだ」
 何故か私の顔を見て微笑む彼は続ける。
 「私の名はルシフェル。私を必要とする時はこの名を心で唱えなさい。それまでは…そう、貴女のその髪飾りに宿りましょう」
 「ルシフェルさんね、よろしく」
 私にルシフェルは優しく微笑み、静かに消えて行った。それとともに私は白に塗りつぶされた黒の世界の出口を通り抜ける!
 視界を覆いつくすのは真っ白な光。
 一瞬のホワイトアウトを経て、やがて視界は見慣れた形を映し出し、耳には人々の雑踏が飛び込んでくる。
 「ほら、嬢ちゃん。天下の往来でボケっとしてんじゃないよ!」
 後ろからの声に私は慌てて道を開ける。
 私の後ろでつかえていた荷馬車が石畳の道を進んで行った。
 「こ、ここは?」
 街の中だった。石畳の大通りに、それに面して並ぶ露店と市場、そして人々。
 そのどれもが新鮮で、そして美しく見える。
 私は私のいるべき世界に戻ってきた、らしい。しかしこれからどうしたら良いのか?
 「取り合えず歩いてみよう。そして」
 暖かみを帯びた西風に、私は遠く春の香りを感じた。

<Rune>
 天高く、風が優しく頬を撫でていく。
 「ありがとうございました!」
 僕の言葉にレナード師は満足げに頷く。
 アーパスが女性であり、かつ人間に化けた人魚族であることを知った夜。
 僕らは師の課題を達成していた。
 「二人とも。己の力に過信するな、常に自らを鍛えることを忘れないように」
 「「はい!」」
 答える僕らに師は大きめの皮袋を投げてよこす。
 「自慢の羊の干し肉だ、持って行きなさい。ここから南西に四十キリールいくと龍公国の首都ガートルートがある。まずはそこを目指すと良いでしょう」
 僕とアーパスは最後に一礼し、師の元を旅立つ。
 また会える日が来るだろうか?
 その時には、アスカを紹介できればと思う。その為には。
 「強くならないとな」
 僕は隣のアーパスには聞こえないように、小さくそう呟いて誓う。
 次の目的地は城壁都市として名高いガートルート。
 そこに着いてから、次を考えよう。
 僕は広い世界の中、小さな一歩を重ねていく。

Temporary end & continuation ...


 ―――バーテンさん、紅茶に少しブランデーを入れてくれないかしら?」
 吟遊詩人の言葉に酒場の主人は微笑み、注文に応じる。
 「ねぇ、お姉さん。このお話はお姉さんが直接見ていたの?」
 赤い髪を揺らしながら尋ねる少女に、青い髪の吟遊詩人はただ微笑むだけだった。
 「さぁ、続けるわよ。心を開いて聞いてね―――



   離れし者、その心は離れず。
   娘は彼を想い、彼は翼ある者を想う。全ては連関の輪の如く。
   想いは続く、命の続く限り。
   そしてその跡に歴史という名の物語が残る。
   綴られしものは彼には綴りしもの、彼は道を切り開く。
   唯一つを追い求めて………



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