黒い刀身から日の光を浴びてうっすらと何かが揮発している。男は剣を再び腰の鞘に戻し、ワイングラスを手に取った。
死の刀――そう呼ばれる彼の持つ剣は主に暗殺者が用いる物である。それが二振り。
刀身は片刃で、十回の新月の下で毒の洗礼を与えることによって、例え掠り傷でもそれは死につながる。
滲みているのは陰流忍術極秘の猛毒だ。解毒剤はない。
豪華な客室風のこの部屋の主の名はミレイア・グラッセ。今回のアークス遠征軍の最高司令官である。
まだ三十六いう若さでザイル帝国軍部に大きな影響力を持つに至るまで、彼の回りにはいつも危険なものが付きまとっていた。
「そろそろだ、もう少しでこのアークスは私のものになる」
茶褐色の前髪を払い、彼は一人呟いてソファに身を沈める。
その拍子に彼の胸元から親指の爪ほどの大きさをした白い珠のついたネックレスが零れる。
良く見れば珠の中から彼の鼓動に合わせるかのように白く淡い光を弱々しく放っている。
「アークスを我が秩序の下に」
不気味に微笑む彼の横顔は人間を越えたものを感じさせた。
ふと、両開きのドアがノックされる。
「お食事をお持ちしました」
女性の声が部屋の外から聞こえた。
「入れ」
彼の応えに応じ、一人のメイドが台車に料理を乗せて入ってくる。
「メニューは何だ?」
鋭い目で問うミレイアに、メイドは微笑みながら料理の盛ってある皿に被せられた蓋を開ける。
そこにはミレイアと同じ顔の首が恨めしそうに彼を見つめていた。
「ふむ。なかなか凝った趣向だ」
それを見ても平然とワイングラスを傾けるミレイアに、メイドが隠し持った手投げ剣を額に向けて風の早さで飛ばした。
キィン
澄んだ音とともに手投げ剣は彼の持ったワイングラスを粉々に打ち砕き、そのまま軌道をずらしてテーブルに突き刺さる。
「アークスの者、ではないな」
ソファに身を沈めたままで剣を抜き放ち、ミレイアは言う。
メイドは暗い視線を彼に刺したまま、応えた。
「忘れたか? 我はお前に滅ぼされた陰流の忍族」
メイドは変装を解く。黒装束に口許だけ隠した彼女は懐から取り出した短刀を構えた。
「キヅキ・ヒムロ。この名を忘れたとは言わせん」
「ほぅ、あの女の妹か。よもや生きていたとはな」
ゆっくり立ち上がり、ミレイアは珍しいものを見る視線で彼女に身体を向けた。
「おもしろい。この五年でどの程度腕を上げたか見てやろう」
ゾッとするような微笑みを浮かべ、彼は剣を半眼に構える。
「思い出すよ、あの頃を。ただ強くなることを目指していた自分をな」
ミレイアは死の刀を右手で回しながら、空いた左手で右の腰に差したもう一本も抜いた。
「ミヅキは馬鹿な女だった。最後まで私を信じていたよ、ママゴトだとも知らずになぁ」
ニタリと微笑むミレイアに、キヅキの殺気が爆発した。
それは忍ぶ者と言われる忍者にはあってはならない、感情の乱れだ。
「殺す!」
怒りの表情で彼女は手投げ剣を立て続けに放つ。
戦闘の開始だ!
本国からの使者を名乗る五人の兵士を案内する衛兵は、その足を止めた。顔がみるみる蒼白になる。
「一撃ですね、全て」
後ろに続く五人のザイル兵の一人が呟いた。
「し、侵入者だ!」
叫ぶ先頭の衛兵は次の瞬間には、紐の切れた操り人形のように床に倒れる。
「誰の仕業だ? これは」
剣の柄で衛兵を気絶させたアーパスは、前に転がる三つの衛兵の死体を見て呟いた。
「んー、おそらくはキヅキの奴だ。声を出されないように喉を切られているからな、この位の手練れと言えばあいつだろう」
ブレイドは分析する。
「あいつがねぇ? 何か只ならぬものを感じるんだが」
と、こちらはキース。
「先にミレイア将軍の元へ向かったのだろうか?」
センティナが不要となった偽物の親書を放り投げてキースに尋ねるが、当然彼は首を傾げるだけだった。
「城内の地図なら、私がうる覚えながらも記憶していますよ。記憶が確かならば、ミレイア将軍の部屋はさらに階段を三つ登って廊下を左に行った突き当たりのはず。付いてきて下さい」
「案外すごい記憶力だなぁ」
ブレイドは素直に感心。変装用に着込んでいた鎧を脱ぎながら進むラダーに、一行は従った。
「遅い!」
アレフは猿ぐつわを噛まされた看守を蹴飛ばしながら叫ぶ。
予定の落ち合う時間からすでに四半刻が経過しているが、クレオソートとルーンが現れる気配が一向にない。
「もしかして通気口で迷ってんじゃないのか?」
そんなアレフの呟きは決して的から外れてはいなかったのである。
「と、するとだ。俺のする仕事はおのずと決まってくるかな」
呟きながら、彼は次善の行動に移っていった。
<Rune>
「ねぇ、お兄ちゃん。さっきから同じところをグルグル回っているような気がするんだけど」
後ろからの声に僕は四つ足歩行を止める。
「もしも迷ったって言ったら?」
「逆さ吊りで三日間懺悔してもらう」
「道案内は任せてくれ!」
僕は歩行を二倍の早さで進めた。が、それもつかの間。
「疲れたよ、お兄ちゃん」
「そうだな、少し休むか」
何刻、いや実際には半刻程であろうか、さまよっていたのは。狭い通気口の中、僕達は小休止を取ることにした。
「まだなの?」
「あ、ああ。もう少し(だと思う)」
心の中で付け加えて、僕は通気口の壁に背中を預けた。
”ルーン、危険よ!”
イリナーゼの思念と同時に背中の壁が砕け散った!
「どわわゎゎ!」
僕とクレアは足場を失い、吹き飛んだ通気口の壁から落ちた。
「だぁ!」
「うぉ?!」
「きゃ!」
何かの上に落ちたらしい、それも人のようだ。
「あれ? ルーンじゃないですか、どうしたんです? こんなとこで」
下で潰れるラダーが僕に言った。
「とにかくどけよ!」
「あ、キースだ」
キースを尻の下に敷いて、クレアが言う。
見回すと、ここはある客室のような広めの部屋だった。しかし調度品などは砕け、廊下につながる扉は吹き飛んでいる。
そして僕達の落ちてきた所は、この部屋の上辺りに走っていたようだ。何かの衝撃でだろうか、石の壁がえぐられて通気口が覗いている。
「また新手か? 警備担当を打ち首にせんとな」
部屋の中心。両手にそれぞれ黒身の刀を構えて不敵に微笑む男に、ブレイドとアーパス、そしてどこかで見たような女性が一斉に切り掛かっていた。
三人を捌く男は、息が切れる事なく軽くあしらってこちらを見ている。
「ラダー、大丈夫か?」
「はい、私は。しかしこの方が」
ラダーの上から立ち退き、彼の隣で倒れている負傷者を見る。
そこには本来ならば僕らと同様に、ここにいる訳のない人が血まみれで倒れていた。
「キヅキ!」
抱き起こすと彼女は薄目を開ける。
「ルーン、か」
朦朧とした意識で僕を見上げ、血に濡れた手で僕の手に何かを握らせる。
「すまん。この姉の形見で、頼む」
それだけを告げ、意識を失った。見れば右肩から胸にかけて鮮血が溢れて流れている。
何故彼女がすでにここに来ていたのか? いや、考えるまでもない。それだけ彼女はミレイアに悪意を抱いていたと言うことだ。
僕が受け取ったのは彼女の短刀。おそらくミレイアに一撃を込めたかった業物だろう。
意識を失ったキヅキにすぐさまクレアが駆け寄るが、その表情が青くなった。
「お、お兄ちゃん。彼女、傷がない?! 傷がないのに血が出てるよ」
「そんな馬鹿な」
クレアは血の溢れる肩口を袖で拭き取る。確かに傷はない。
しかしまるで切られたように再びそこから血が溢れた。
「それがミレイア将軍の技の一つだ、ルーン。俺達が来た時には彼女はすでにやられていた」
キースが槍を構え直して廊下の方へ向かう。
「ルーン、ラダー。衛兵が集まりつつある。手伝ってくれ!」
キースが廊下へ消えると同時にそこから剣戟が響いてきた。
「ああ。クレア、彼女を頼む」
「う、うん!」
「さぁ、ルーン!」
僕はミレイアと三人の戦闘を一瞥後、ラダーに率いられて急いで廊下へと向かった。
廊下へ出ると同時に槍が目の前を掠める。
この部屋は廊下の突き当たりにあるらしく、今はキース一人で次々とやってくる衛兵を向かえ討っていた。
「キース、頭を下げて下さ〜い」
場に合わないラダーの抑揚のない声にキースは何かを察し、横に飛ぶ。
関を切ったように部屋へと雪崩込んでくる衛兵達に、ラダーは例の銀色の長い筒を向け、その引き金を引いた。
ゴン!
轟音を立てて、天井にまで届きそうな大きな炎の玉が筒から飛び出し、衛兵達全てを巻きこんで長い廊下を飛んで行く。
凄まじい破壊音が収まった後には、黒焦げになって倒れる衛兵達と崩れ掛けた通路。
今の衝撃で運が良いことに階段が崩れたようだ。これで新たな衛兵がやってくるのは、ずっと後のことになるだろう。
「お、おい、思いっきり俺も巻き込んでんじゃねぇかよ」
焦げた廊下から、全身黒くなったキースがよろめきながらラダーに詰め寄った。
「ま、まぁよく言うじゃないですか。失敗は成功の元だとか、人生楽ありゃ苦もあるさ、だとか」
意味が分からん。
しかしちょっと焦げただけで済んでいるキースの運の良さには脱帽だ。昔から運だけは良いよなぁ、この人。
ガギン!
鈍い音が背後に響き渡った。
「グッ!」
「ッ!」
同時にそんな二つの呻き声が聞こえる。
ミレイア将軍一人に対して三人の戦いは、あろうことかミレイア一人の戦力が三人の力を圧倒していた。
そしてブレイドと女騎士に浅い傷を負わせたようだ。二人は片膝を折って苦い顔で残るアーパスを捌くミレイアを睨んでいる。
「あれはいけませんよ。あの男の剣は死の剣、二人ともすぐに毒が回って死んでしまいます」
地顔なのだろう、緊張感のない貼りついた笑みを浮かべたラダーの言葉通り、みるみる二人の顔色が蒼くなってくる。
ミレイア将軍の振りまわす双剣はともに長さが1リールほどの小ぶりと言って良いものだ。
しかし彼の剣には、まやかしの術が施されている。
キヅキがやられたように、刀身本体は一リール程度の長さだが、そこから半リール分は『実体のない』刀身のようだ。
その部分はこちらの剣で弾く事も出来ず、切られれば傷口のない負傷となる。
そして実体部分の黒い刀身で傷つけば、ブレイドと女騎士のように毒に犯される。
それを身をもって今現在体感しているアーパスは、不可視部分の刀身によって小さな傷を無数に受けつつもなんとかミレイアに食いついていた。
「チッ!」
舌打ちをしつつ、キースは己の槍をミレイア将軍に向かって投げつける。
が、それは軽く弾かれた。しかし僅かに産まれた隙を伺って、アーパスの剣がミレイアの頬を切り裂いた!
返す刀、アーパスの剣の軌跡は確実に将軍の右腕を裂くはずだが、相手の方が腕は上だ。
軽く右手の刀であしらってバックステップを二つ、間合を取った。
「懐かしいな、アーパス。腕を上げたようだな。だが詰めの甘さは当時のままだ」
「アンタも相変わらずのえげつない剣術だ。えげつなさが増したな」
余裕の表情はそのままに、ミレイア将軍はアーパスと対峙する。すでにその目にブレイドと女騎士は入っていない。
対するアーパスは肩で息をしている。彼女の瞳には怒りの色に燃えているが、やはりミレイアの方が腕は数段上と判断せざるを得ない。
しかしアーパスの態度を見ると、昔二人の間になにかあったのだろうと想像がつく。それも彼女にとっては好ましくない結果な事項だろう。
「ルーン!」
不意にアーパスは叫ぶ。
「例のやつ、やるぞ」
「あー、それしかないと僕も思ったよ」
応え、僕はアーパスの隣に立った。
そこで初めてミレイア将軍の視線が僕に刺さる。
「ふむ? もしやお前は」
小さく眉を動かした将軍に、
「いくぞ、ミレイア・グラッセ! ルーン、合わせろ!!」
アーパスが叫び、一気に彼女の気が膨らんだ。
「了解」
彼女の気配に合わせて、僕もまたイリナーゼを引き抜いて一息に気を充填。
そして僕ら二人の声と気が重なった。
「「光波斬!!」」
互いに振り下ろした剣から三リールを超える半月状の刃が生まれ、それがクロスしてミレイア将軍に床の石畳を派手に削り取りながら迫り、そして炸裂した。
耳をつんざく爆風が生まれ、渾身の力をこめた二重の光波斬はミレイア・グラッセごとその背後の壁をも吹き飛ばす。
舞い散る砂塵はしかし、ガートルート城の最上階を半分消し飛ばしたことにより上空の冷たい風が流れ込み、一気に視界はクリアになった。
「ふん、技の出来は六分程度といったところか。まだまだだ」
吹き飛んだ壁の向こう、展望台から一望したガートルートの城下町を背景に、男は佇んでいた。
若干埃にまみれてはいるが、怪我らしい怪我も見せない彼は、言うまでもない。ミレイア・グラッセだ。
「うわ、なんで効いてないんだ?」
光波斬で費やした疲れに、妙な体の重さを感じつつ僕は予想以上の強敵を睨む。
「……化け物め」
呟くアーパスは、ほぼ力を使い果たしたかのようだ。
ここで状況を整理しよう。
こちらの戦力であるブレイドと女騎士は将軍の死の刀による毒で死の淵を綱渡り中。
復讐に先走ったキヅキは不可視の剣の傷により、こちらも出血多量中でデットエンド間近。
キースは先ほど槍を投げて隙を作ったが、お陰で武器を失って戦力外。
クレアはキヅキを介抱中でダメージ自体はないが、そもそも戦わせられるはずもない。
背を合わせたアーパスに至っては、体力精神力ともに使い果たしている状態だ。
残るまともな戦力は、僕とラダーということになる。
ちなみにアレフというのもいた気がするが、すでにここへ至る道が潰されているので駆けつけてくることは出来ないだろう。
対する相手はザイル帝国の将軍ミレイア・グラッセ。
今まで戦闘を繰り広げていたとはいえ、全くダメージがあるように見えない。
僕とラダーで今のミレイア将軍に勝てるか?
ノー
無理だ。論外。
逃走経路は?
ダメだ。
さっきラダーに潰され、今僕とアーパスで追い討ちをかけてしまった。
ヤバイ、詰んだか??
「気を良く練ることだ。己の中の気を練り、かつ意識を外に向けろ。力は己の中だけにあらず、外にこそあると知れ」
ミレイアは諭すように言いながら、両手それぞれに握った黒身の刀をゆっくりと振り上げる。
その二つの剣先それぞれに先ほど僕とアーパスが放ったそれ以上の威力が込められた「力」が集積しているのが分かる。
そこから感じるのはミレイア本人の力だけではない。
むしろ先ほど僕らが放った力すらも取り込んだかのような、周囲のあらゆるものから少しづつ集めた力であると。
操気術を習ったばかりの僕にはそう思えた。
そうか。
ミレイアの言葉の意味を知る。所詮は己一人の力では限界がある。
突破するには周囲の力を拝借すれば良い、ということだ。
だが、それはやり方によっては。
「邪法ですよ、彼が言うのは」
いつの間に隣に立っていたのか、ラダーがぼそりと僕に言った。
「なぜ貴様が操気術を使える!?」
ラダーの声をかぶせるように、苦々しくアーパスが叫び、ミレイア将軍は応える。
「私の掌握した陰流忍術の里の長老と呼ばれた者共は五人のダークエルフでな。まぁ、その正体は一部の者しか知ることは出来なかったが」
なにげにすごい秘密を話してないか、この人。
「無駄に長生きをしている分、色々なことを知っていてな。忍術以外にも色々学んだものだ」
告げる間にも、彼の気の力は周囲のそれを巻き込みながらも練り上げられ、巨大なものになっていく。
「光波斬とはこうやるのだ、よく見るが良い!」
そしてとうとうミレイアの双剣に生まれた輝きが爆発した!
「くそっ、親愛なる水の精霊たちよ、君たちの庇護をっ」
叫ぶアーパス。
「いけない!」
「ヤバイ、団長!!」
背後ではキヅキを抱えながら、ブレイドと女騎士に向かって駆け寄るクレア。
彼女からは防御を祈る強い神聖魔術が発せられている。
そしてキースもまた、その後ろからクレアを抱えるようにして倒れこんだ。
「光波斬!」
僕らの放つ半月状の形ですらない、純粋な破壊の光が放たれた!
「くっ、やれるだけやってやる。イリナーゼ、補助を頼むっ」
”無茶するわねっ”
迫る光に向かって僕はイリナーゼを突き立てる。
それは束の間の瞬間とも言うべき、人に認知できないほどの時間の中。
僕の気は、敵意そのものの迫り来る気に一部溶け込んだ。
ゴァァァァァァァァァァ!
強い光と衝撃波が僕を、アーパスを、そして皆や廊下で倒れる焦げた衛兵達をも飲み込んだ。
視界は白い。
イリナーゼを前に突き出した体勢の僕は、まるで濁流の中で弄られる一本の木のようにいつ終わるとも知れない時間を耐えた。
それはきっと一瞬のことだっただろう。
しかし僕には永遠とも思える、長い時間だった。
真っ白な視界はやがて舞い散る砂塵に変わり、爆音は吹き抜ける風音に変わる。
「ぶはっ!」
そこでようやく、僕は思い切り息を吐く。
両足ががくがくと震え、立っているのがやっとだ。気力を全て使い果たしてしまった。
僕はミレイアの言うように気を練り、そして彼の放つ気へ己のそれをねじ込ませて一体化し、流れの一部を変えたのだ。
己の気を用いて周囲に干渉し、操る。それは使い方によっては他人を操ることにもなる、ラダーの言った邪法そのものだ。
結果、僕を三角形の頂点として、その鋭角に拓かれた背後以外は瓦礫すら消し飛ばされて平らな石の床しかなくなっていた。
僕の背後には半ば瓦礫に埋まったクレア達。そして倒れ伏すアーパスと。
「いやぁ、すごい技でしたね。びっくりしましたよ」
ひょっこりと僕の背後から顔を出すラダーの姿。なにげに無傷だ。
「なかなか見所がある。もしやと思ったが、やはりそうか」
双剣を腰に収め、ミレイア将軍は純粋に驚きの笑みを浮かべて僕に言った。
「貴様からは懐かしい『匂い』がすると思ったが。そうか、ルシフェルか!」
叫ぶように言った途端。
ミレイア・グラッセの背に、三対の輝く翼が生まれた。噴き出すような神聖なオーラが彼を中心に立ち上る。
「ぇ、天使さま?」
後ろの方から消え入りそうな声でクレアの声が聞こえた。
その通りに目の前の変異したミレイア将軍からは強烈に神聖な気配が漂い始めている。
なんだ、この展開は?! つい最近も同じようなことがあった記憶が。
そう、白亜の城アークスでのことだ。第三王子のウルバーンが死に際に見せた姿――四大天使の一、ミカエルの時と同じ気配だ。
異なるのはミカエルはウルバーンに使役されていたように見えたが、目の前のミレイア将軍はむしろ同化しているように感じる点だ。
反して同じ点は、ミカエルもまた僕のことを「ルシフェル」と呼んだことだ。
当然、僕にはそんなルシフェルなどという存在とはなんの縁もない。
「なんのことだ」
返す僕の言葉に、ミレイアは邪悪さを秘めた神聖なる笑みのまま言った。
「記憶がないのならば好都合。目覚める前に貴様に眠るその力、この俺が食らってやろう」
三対の翼をはためかせ、雲一つないガートルートの快晴なる青空に浮き上がるミレイア。
僕はイリナーゼを構え、天で双剣を振りかざした異形の将軍の来襲に備える。
「俺の名は四大天使が一人、ウリエル。我が野心の糧となるが良い、ルシフェル!!」
ミレイア=ウリエルは叫び、自らの翼と落下のスピードを合わせて僕に突きかかってきた。
思ったよりも無駄口が多くて助かった。すでに僕には迎撃の態勢は整っている。
自らの中で練った気を用いて、周囲から少しづつ気を取り集める『集気術』。
先程のミレイア将軍の光波斬を避けるために、いちかばちかで行った防御の中でそのコツを掴んでいた。
今、僕が集めきった気は普段僕が使える出力の三倍程度まで膨れ上がっている。
これを使い、右手で握ったイリナーゼに気を乗せて迫り来るミレイア−ウリエルに力を解放した!
「光波斬!」
半月状の光はいつもよりも分厚く、鋭い。
「フン!」
空中でミレイア=ウリエルは双剣で迎撃。右の剣で見事に光の半月を砕いた。ニタリと微笑む将軍。
「甘いわ!」
「まだまだ!!」
足元に落ちていた槍―――キースの三節槍を蹴り上げてキャッチ。気の力を乗せて左手で突き上げる。
槍はその穂先に光波斬と同様の輝く破壊力を込めて、まっすぐにミレイア=ウリエルを串刺しにせんと発射された。
「なんの!」
将軍は残る左手の剣の腹で槍の打撃を受け止める。
バギン、という音とともに残る双剣の一本と、槍がともに砕け散った。
「もらったぞ、ルシフェルッ」
若干勢いを殺されたが、猛烈なスピードで上空から僕に掴みかかるミレイア=ウリエル。
「っ!」
そして僕は懐から抜いた「それ」を鞘から抜いて突き出した。
キィンッ………!
澄んだ音を立てて、僕とミレイア=ウリエルは交錯する。魔剣イリナーゼと魔将軍の右手にある死の刃が激突した。
次の瞬間、僕の左肩が血を吹いた。続いて焼けるような痛みが左腕を襲う。
「クッ」
思わず膝を付く。見れば左腕がイリナーゼごと肩口から持っていかれていた。
鋭利な断面ではなく、力づくでもぎ取ったようなそれだ。
後ろを振り返る。
「ぐふぅ、まずは腕一本」
カラン、と乾いた音を立てて魔剣が千切れた左腕から落ちた。
僕の左腕を持った異形のミレイアは傷口から血を浴びるように食らっていた。
身に纏う聖なる気配と、内なる野生が相克してますます化け物じみて見えてくる。
しかし交錯の瞬間、僕の一撃にも手ごたえがあった。
僕は右手に掴んだものを見る。
それはキヅキから手渡された短刀。その短刀の切っ先が、白い小さな珠を貫いていた。
小さな珠には細い鎖が付いており、おそらくミレイアのネックレスではないかと思われる。
パキン
音を立てて、短刀の切っ先に刺さった珠が粉々に砕け散った。
途端に。
「がぁぁぁぁぁ!!!」
ミレイア=ウリエルが絶叫する。いや。
彼の背の三対の輝ける翼が朝もやのように消えていく。
「がはっ!」
石畳に両手を付いて、ミレイア将軍は血を吐く。
いや、あれは先程まで呑んでいた僕の血か。そして彼は両腕で自身を掻き抱き、
「ぐぁぁぁぁ!!」
さらに絶叫する。まるで生きながらに見えない己の何かを引き剥がされたかのように。
「潮時ですね」
告げるのはラダー。手には僕の左腕とイリナーゼを持っている。
「さぁ、肩に掴まって」
血を失っているせいでぼんやりしだした意識の中、彼の肩に掴まる。
「ま、待て、貴様っ!」
後ろからミレイア将軍の声が聞こえてくるが、僕達の歩みの方が早いらしい。
やがてアーパスを回収してクレア達の所までくると、ラダーは懐から手のひら大のプレートを取り出した。
「逃がさんぞ、よくも我が半身を。ウリエルをやってくれたなっ」
ミレイア将軍の怨嗟の声が次第に近く聞こえてくる。
「逃がさんぞ、決して」
その言葉に返すのはラダーだ。
「こちらが見逃してあげるのです。『力』を失った己を見直す時間を差し上げますよ、将軍。では」
ぴんっ、とラダーはプレートを爪で跳ね上げる。
途端に僕は高所から落とされる感覚を得て、血が足りなくなったことも手伝って気を失ったのだった。
<Camera>
時間は若干遡る。
突如、ガートルート城の最上階が吹き飛んだ。
時間を置かずに再度爆発のようなものが起き、最上階は屋根とともに完全に消え去ったのだった。
それを完全武装したアークス騎士が、遠見眼鏡と呼ばれるササーン王国で開発された単筒を目に当てて見つめていた。
「出るぞ、ガロン」
「はっ、セレス様」
副長の印を胸に抱いたその騎士の指令に、長く黒い立派な顎鬚を持った屈強な騎士が答える。
ともに繋いだ馬に跨ると、
「全軍、突撃。目標はガートルート城。ブレイド団長が『やった』ぞ」
「「おおっ!!」」
顎鬚を持つ騎士の言葉に、武装した騎士達が応じる。
そして間を置かずにアークス第二騎士団とそれに付随する傭兵団は、ガートルート城へと早足で陣を進めたのだった。
「セレスが動いたか」
そこから五キリールほど離れた場所に布陣しているのは主を失った龍公軍。
現在の指揮を執っている軍師のローティスは、アークス正規軍の動きを察知して自らも軍馬に跨った。
「勝機だ。動ける者は剣を取り、我に続け!」
叫ぶ。
が、動くものは彼女の側近と僅かな騎士だけだ。
「どうした、勇猛果敢と名高い我ら龍公騎士団が怖気づいたか! 主の仇討ちだぞ」
彼女の言葉にも返す者がいない。
昨日の戦いで不死者のような元住人達と戦い、さらには主である第二王子であるドライクまでも失った。
何のために戦うのか、その意義を見出せなくなっていたのだった。
仇討ちということで士気を高めようと考えていたが、それ以前に根本から気力が折れてしまっている者ばかりのようだ。
むしろ、これでは邪魔なだけだった。
「いかがいたしますか、ローティス様?」
側近の一人が耳打ちする。彼女は小さく舌打ちし、
「戦える者だけ続け。意志のない者は邪魔だ!」
そう檄を飛ばし、馬で駆け出した。
結果から言うと難攻不落のガートルートの北の城門は開いており、戦いはあったもののアークス軍はザイル帝国軍を南の城門から追い出すことが出来た。
勝因は複数あるが、一つはガートルートの町の中で我慢に耐えかねた住民達が光の髪の神官達の手引きもあり、城の爆発騒ぎを契機に蜂起したこと。
一つは指揮者であるミレイア将軍との連絡が取れなかったことから、ピラミッド構造の指揮系統を持つザイル帝国軍が組織的な動きを取れなかったこと。
そして何より、北の城門が何者かの手によって開かれたことが大きな勝因と言えよう。
全ての発端はガートルート城の最上階の爆発だ。
それを行ったのは第二騎士団団長であるブレイドであることは、誰もが察していた。
こうしてアークス−ザイル間の南の要所であるガートルートをめぐる戦いに一つのピリオドが付いたのだった。
<Rune>
白いふわっとした場所に僕は漂っていた。
あー、そうだ。これは「夢心地」ってやつだ。
目が覚める、その直前のぼーっとした至福の時だ。
いつもならばそろそろクレアが「起きろー」と叫びながら部屋に乱入してくる頃だろう。
……いや、あの生活は今は遠い彼方だ。
今、僕は。
「全く、参りましたよ。苦し紛れに見えた短刀の一突きはマグレですよね」
ぼんやりした視界の先から、そんな声がかかった。
知らないけれど、遥か昔に聴いたことのあるような声。いや、もしかしたら遠い未来に聞くかもしれない声か。
視界と同様にぼんやりとした思考に包まれながら、僕はそいつを見る。
全身を鎧で身を固めた、若い男だ。
その目には野心というか、純粋に前へ進んでやるといった風な活力に溢れている。
「だれ?」
問う僕に、男は苦笑い。
「誰と来たもんだ。俺だよ、ウリエルだ。かつてはお前の下で四大天使の一人ともてはやされた、武と野心の化身だよ」
まじまじとそいつは僕を見つめる。
「ん? ルシフェル、お前」
「だから僕はルシフェルなんかじゃ、ない」
僕の言葉にウリエルは思案顔。
「そう、だな。お前は『まだ』ルシフェルじゃないようだ、そうか、そういうことか」
一人合点するウリエル。
「お前がミレイア将軍を操っていたのか?」
男に僕は問う。鎧の天使はしばし考え、
「どうなのだろうな」
彼は答えた。
「アイツは俺が望んだ人間像に近かった。ただひたすらに力を求め、求めた末になぜ求めたのかを忘れるくらいに」
楽しそうに、彼は笑う。
「封印され、人を左右する存在になっていた俺だが、アイツといた時間は楽しかったな。許されるのならば、アイツの行く末を見届けたいものだ」
告げるウリエルの姿が次第に揺らいでいく。
「消える前にルシフェルに文句の一つでも言っておきたかったが、今のお前じゃ意味がない。だから忠告だけを残してやる」
その身が陽炎の向こうに消えようとしていた。ミカエルと同じだ、彼の存在が拡散されようとしている。
「己を確信しろ。さすれば死が魂を覆い尽くそうが、無が魂を蝕もうが、お前は常に永遠だ」
消え行く光の中、ウリエルのそんな言葉を聞いた。
そして、僕は目を覚ます。
気が付くと僕は寝台に寝かされていた。
「目が覚めたか、ルーン」
サイドスタンドに腰掛けたアーパスが、僕の顔を覗き込んでくる。
「ああ。何か頭がクラクラするよ。ここは一体どこだい?」
半身を起こして周囲を見渡す。アークス軍の幕屋に見えるが。
「俺達がブレイドと最初に会った陣さ。ラダーの奴が妙な道具を持っていてな、あの場所から瞬間移動とかいうものをしたらしい」
そういえばなにか妙なプレートを掲げていたのを思い出す。
後に聞いたことだが、ラダー独自の『科学』という技術で作り出した魔術を取り込むプレートで、あらかじめプレートに使用したい魔術をかけておくことで好きなときに一度だけ使用できるそうだ。
非常に有用な技術だが、難点はそのプレートは量産が出来ないらしい。
「そういえば!」
僕は己の左腕を見る。
「生えてる??」
「何言ってんだ?」
首を傾げるアーパスに僕は視線を移し、上から下までまじまじと見た。
「な、なんだよ。あんまりジロジロみるなよ」
「アーパス、毒は?」
そう、僕は左腕を引きちぎられ、アーパス達は猛毒に苦しんでいたはずだ。
「クレオソートさんですよ」
僕の疑問に答えたのは、幕屋にやってきたラダーだった。
「彼女は光の神の高位神官だったのですね。びっくりしましたよ」
「いや、だからといって未知の毒を解毒したり、僕の左腕を何ともないまで回復させることは無理だろ」
ベットから降りて僕は言う。現在、疲労も何もない、完全に回復された状態だ。
「聖体降臨ですよ」
ぼそり、ラダーは言う。
「整体?」
アーパスは字が違う方を挙げるが、僕はラダーの言葉に絶句する。
「クレアは、彼女はどうなった?! 生きているのか??」
聖体降臨――神をその身に一時的に降ろし、奇跡を行う術である。
認められた非常に高位の神官のみが可能な術であり、出現するのは神ゆえに、死者蘇生以外のあらゆる奇跡が可能と聞き及んでいる。
しかしその代償は大きく、大概は行使した神官の命は出現した神の魂に押しつぶされ、良くて廃人。ほとんどの場合は絶命すると聞いている。
「クレアさんは、その…」
言葉を詰まらせるラダー。まさか、やっぱり。
「ルーンお兄ちゃん、おっはよう!」
金色の髪をなびかせながら、元気な声で飛び込んできたのはクレオソートその人だった。
「うぁ、全然元気だ?!」
「なによ、元気で悪いの?」
「いや、だって聖体降臨とか、普通やったら死ぬだろ」
「死なないのがこの私なのです」
偉そうに薄い胸を張って彼女は言った。
「まぁ、お兄ちゃんに関することだったから無事なんだろうけどね」
「ん? なに?」
小声で何かを言ったクレアに僕は問うが、
「なんでもなーい」
笑ってごまかされた。
「ともあれ安心したよ。みんな無事だったんだな」
「むしろお前が一番ダメージ大きかったぞ。丸一日寝込んでいたからな」
呆れ顔で言うのは、クレアの後ろから一緒にやってきたアレフだった。そういや、こいつだけミレイアとの戦いにいなかったな。
「集合場所に集合もせず、おまけに救出するはずのやつらもとっくに脱獄しているし、俺はいったい何なんだよ」
愚痴を聞かされる。あぁ、そういえばそんなことにもなっていたなぁ。
「しかししっかり仕事をしてくれたと、ウチの団長は言ってましたよ。指揮系統を撹乱させても、城門が閉まっていれば相手に建て直しの時間を与えますからね」
最後にやってきたのはキースとキヅキだ。キヅキはいつもの覆面を外し、さっぱりとした地顔を見せていた。
「それでミレイア将軍とザイル帝国軍は?」
「アークスと龍公の混合軍によってガートルートは奪還。ミレイア将軍を始めとして南へ二十キリールの所で軍を再編成しているそうです」
「取り合えず俺達のお役は御免だな」
アーパスはさらりと言った。そこにはミレイア・グラッセを狙うような意志を感じない。
「いいのか、アーパス?」
「今回はちょっと脱線しただけだ。力の差を知っただけでも、儲けものさ」
彼女からはどこか吹っ切れたようなものを感じる。
確かに力の差は歴然だった。こっちは七人がかりでも結局は歯が立たなかったのだから。
あれだけの力の差を見せつけられれば、少なくともまだまだこちらも力をつけなくては再戦に値しない。
「ルーン」
そう声をかけてベットサイドに腰掛るのはキヅキだ。
「ああ、そうだった」
僕は胸鎧やイリナーゼとともに置かれた短刀を拾い上げて彼女に手渡す。
「ミレイアは倒せなかったけれど、彼の『化物』の部分はコイツで倒したよ」
ウリエルのことは説明しようがないのでこんな言葉になってしまう、が。
「見ていた。だから、ありがとう」
言って彼女は。
微笑んだ。それはとてもとても安らかで、可愛らしい表情で。
「「ぉー」」
誰ともなく感嘆の声が漏れる。
「なんだ、その反応は」
微笑みは一瞬にして消え、キヅキは鋭い目で周囲を睨んだ。
「キヅキさん」
すかさずキースが、短刀を持ったままの彼女の両手を彼の両手で握り締め、
「結婚してください」
そのまま彼は投げられた。背中から落とされて、なかなか景気の良い音がする。
「いてて。で、団長から謝礼を預かってきているよ」
案外タフなキースは、ずしりとした皮袋をテーブルに置いた。
「本来ならここに足を運びたかったらしいけど、奪還したガートルート城の復旧とか城下町の安定化とかで身動きが取れないみたいでさ」
改めて僕、アーパス、ラダー、クレア、アレフを見回して、
「できれば引き続き手伝って欲しいそうなんだけど、どうだい?」
僕は首を横に振る。他の四人は苦笑い。
「探さなければいけない人がいるんだ」
「手がかりはあるのか?」
キヅキの問いに僕は小さく首を横に振る。
「南方からの人も多いガートルートに行けば、なんらかの手がかりがあると思ったんだけれど」
戦争のいざこざで、それどころではなさそうだ。
「ルーンは遠見の鏡という物を知っているか?」
キヅキが思い出したようにそう言った。
「西の海域に住む人魚族が守る水の祠にある大きな鏡で、探し物の場所を映し出してくれるらしい」
「へぇ、遠見の鏡か。そんなものがあるなんて」
なるほど、次の目的地は決まった。
「ありがとう、キヅキ。そこを目指してみるよ」
「道中気をつけろよ、ルーン。ガートルートに寄るようなことがあれば、是非とも城まで足を運んでくれ」
「旅路に幸運を」
そう言ってキースとキヅキは共に幕屋を出て行った。
「じゃ私もついて行くよ、お兄ちゃん。また腕が取れたりしそうで放っておけないもの」
いや、もうそんな大怪我は勘弁して欲しいよ。
「おいおい、ルーン。まさかこんな子供を連れて行くのか?」
クレアの言葉にアーパスが鋭い非難を刺す。
「誰が子供ですって? 私は貴方よりもお兄ちゃんの力になれますよーだ」
「子供は子供だろ」
「その子供に命を救われたのは誰でしょう?」
「ぐぬぬ……」
やはり口でクレアに勝てる奴はいないな。アーパスも口下手な方だし。
「やれやれ、だ」
「まったく」
「そうですねぇ」
なぜかアレフとラダーが僕の言葉に頷いていた。
<Camera>
かつては不落の都としての装厳を讃えていた城塞都市は今や所々が瓦礫と化した、死にかけた街となっている。
街の所々には今もなお、埋葬されずに放置された死体が目立つ。
「酷いものだな」
「そうですね」
ブレイドはこの城塞都市ガートルートの復興のため、直接兵士達に指揮を与えている。
今や南に退いたとは言え、いつまたザイル帝国軍がやってくるか分からない。
人口三万を数えたこの都市は、今やその三分の一の約一万弱にまで人口を減じていた。
犠牲者の大部分が攻め込まれた際の毒による死を向かえ、運良く生き残ったとしてもザイル軍の占領下で、略奪・暴行を受けてきたようだ。
さらに運が悪かった者は先日の戦いのように、麻薬を飲まされ生きる人形とされることもあった。
ブレイドやアレフによる陽動作戦や、それに乗じた光の神の神官を始めとしたレジスタンスによる一斉蜂起も手伝ってこうして解放はされたが、犠牲者も相当数出ていたことを付け加えておく。
「キヅキの気持ちがよく分かるよ。破壊された街っていうのは見ているだけでやるせなくなってくる」
「どういうことです?」
上官であるブレイド団長の呟きに、瓦礫を持ち上げたキースは続けて尋ねる。
「彼女は個人的にグラッセ将軍に恨みを持っているようですね。団長は知っていたんですか?」
タオルで汗を拭う彼にブレイドは首を横に振った。
「アイツが無口なのを知っているだろう?」
「まぁ、そうですね」
「だが、陰流忍術を身につけているアイツの素性は何となく分かっている」
「陰流の隠れ里が一夜で滅ぼされたって話は、俺も噂で聞いたことあるなぁ」
「噂じゃないようだ。アイツの故郷である陰流の隠れ里は一人の忍者によって滅ぼされたって話だ。俺はその忍者がグラッセだったんじゃないかと思う」
ブレイドは自ら考え込むように言った。それにキースは小さく微笑んで答える。
「今回のグラッセ将軍との戦いで、彼女は何かを得たと思いますよ。ルーンとの会話であの娘、笑ってましたし」
「え、マジ?!」
「えぇ、下手な天変地異よりも希少ですね」
「くー、見たかったなぁ」
少し案した風に笑うブレイド。
瓦礫を荷車に積み、キースは傾いた太陽に目を細めて願う。幸、あらんことを、と。
彼自身、過去に復讐のために人生を賭けたことがある。そしてその為に長い時間を失ったのだ。全く無駄な時間であったと、今は思う。
「団長殿、ガートルート城の改装、終了致しました」
不意の背後からの声に二人は振り返る。そこにはウェーブのかかった銀色の長い髪を風に揺らす若い女性が立っている。
「ああ、分かった。龍公軍の処置は引き続き君が行ってくれ」
「了解致しました」
軽く微笑んで彼女は去って行く。
「誰です? 今の?」
キースと共に瓦礫を積んでいたケビンが、名残惜しそうにその後ろ姿を眺め続けていた。
「ローティス・リスキィ。龍公軍の軍師だよ」
「へぇ、デキる感じの女性ですね、俺は苦手だな」
「良い女が分からないとは、キース。お前もまだまだ若いな」
「ケビンの旦那はプライド高い女性が好きですしねー。俺はキヅキちゃんみたいな清楚系が良いなぁ」
「お前らの趣味なんぞ、どうでもいいよ」
心底興味がない顔で瓦礫を荷台に投げ込むブレイド。
「でもどうして龍公の軍師が団長に指示を仰ぎに来るんで?」
「龍公亡き後を継いだドライクのぼっちゃんが死んじまってから、龍公全軍を取りしきっているらしい。ま、もっともドライクが生きていても同じことだろうがな」
ケビンに答えるブレイド。要はドライクには軍の運営能力はないともいう。
「うちの騎士団も副官のクレイが死んじまったんだよな。口うるさい奴だったが、俺の苦手なデスクワークが得意な良い奴だった」
しみじみと呟くブレイド。
「となると団長はデスクワークをしなきゃなんないんじゃねぇのか? こんな所で肉体労働してる暇あるのかよ?」
何度目かの瓦礫を持ち上げて、ケビンが尋ねる。
「代わりにセレスが全部やってくれるって。はっはっは」
そしてブレイドの後ろ頭にどこからともなく木材が飛んできた。セレスイヤーは地獄耳だ。
「団長なら少しは頭を使えってことでしょうね」
「そうだよな」
キースとケビンはひっくり返った若い団長を見下ろしてそう呟いた。
キヅキ・ヒムロは城の4階のベランダから遥か西の方向を見つめていた。そして思い直したようにその視線を南の方へと移す。
「!」
後ろに気配を感じ、彼女は振り返る。
「さすがに陰流忍術の遣い手。私の気配の察知は当然だな」
微笑み、セレスはキヅキに敵意がないことを告げる。
「セレス・ラスパーンか、何の用だ?」
ポーカーフェイスでキヅキは目の前の騎士に尋ねた。それに騎士は含み笑いで答える。
「用はない。ただ、今の君を見るかぎり私の心配は無用だったようだ」
「心配? 一体何が言いたい?」
「復讐からは何も生まれない。ただ自己満足に終わるだけ。そう言いたかった」
言い残し、セレスは部屋を後にする。
「復讐など……私の討つべき相手は、すでに討たれたよ」
残された忍者はそう、小さく呟いた。
部屋を出るとまるで彼女を待っていたかのように銀髪の軍師・ローティスが現れた。
「そうよ、復讐からは何も生まれないのよ」
寂しそうに言ったローティスに、セレスは厳しい目を向ける。
「私は自己満足でいい」
答え、廊下を去って行く。
「どこへいくのかしら?」
「図書館だ」
「ふぅん。貴女が副官として『ここ』へ来たのはそれがお目当てってことか」
無言で背中を向けて去っていくセレス。
それを見送りながらローティスもまた、己の道に戻っていった。
ガートルートの地下にはアークス皇国の前身である魔術帝国の頃からの図書館があることは、あまり知られていない。
その面積は広大であり、所蔵書物も古くは石板のものまで存在する。
幾たびの戦争にも被害を受けたことはなく、ただただここに「存在する」。未知の魔術で守られているのでは?という見解もある程だ。
そもそもこのガートルート城は地下図書館の「受付部」としてその上に建てられたのではないか?という説もある。
広大なその図書館は、知る者たちの間では全ての知識が所蔵されている「バベルの図書館」とつながっているとの噂もある。
真偽の程は、未だに知られていないが。
彼は本の森の中にいた。
果てしなく広がると思われる本棚と、天井はなく酷く明るい星明りを放つ天空がある。
こここそがバベルの図書館。
ある賢者はそう呼称する、過去から現在、未来に至る、世界のありとあらゆる情報の存在する空間だ。
白い翼を持った青年は一冊の本を静かに読んでいた。
その題名は『セレス・ラスパーン』と書かれている。彼はふと手にした本から目を上げる。
ピシッと乾いた音を発てて、彼の中指に嵌まった指輪が砕け、砂となって床に落ちた。赤い宝石だったらしいが、それは粉々な砂に変質してしまっている。
同様に小指には宝石がすでにない指輪が、人差し指と薬指にはそれぞれ青と緑色の宝石が嵌まった指輪をしていた。
彼は視線をちらりと己の指に向ける。
「ウリエルもまた、か」
呟くは案外に低い声。
「ミカエルとは異なり我欲の強い奴であったからな」
黒い前髪を掻き揚げ、彼はアメジスト色の瞳で先の見えない天井を見つめる。
「世界の光と闇は乱れている。約束の日に必ずリブラスルス様をお迎えし、混沌としたこの世に秩序建てなくては、な」
呟き、彼は再び書物に目を移していった。
彼が読むのはアークスの騎士『セレス・ラスパーン』の生い立ちから現在、そして未来に至る物語。
その中に彼自身の介入点を見出し、そこから約束の日に至るまでのシナリオと合致させる。
「なるほど、動いてもらうか」
ニタリと、ファレスの男はそう呟き邪悪に微笑んだのだった。
アルバート第一王子はベットの上で目を覚ました。彼の胸の上には疲労の色を見せて眠っている一人のエルフの姿がある。
彼は現在の自分の体が深い傷を負ったこと、そして今現在もまだ癒えていないことを思い出す。
傷はほとんどが塞がっていたが、それは表面上の処置であり、根本的な部分では癒えていないのだ。
彼は何日も寝ずに処置を施してくれたのであろう、胸の上で眠るエルフに心の中で礼を言うと同時に、その存在を確認するかのように彼女の髪を軽く梳いた。
アルバートは靄のかかった記憶の糸を手繰り寄せる。
そう、あれは乱戦状態の東の公国。熊公領首都ブルトンの王城でのことだった―――
「動くな!」
熊公ヌーガンシュ・ブルスランはターバンを巻いた少女の細い首筋に短剣を突き付ける。
熊公は反逆に際し、兵を一千余り招集し糧抹を蓄えていた。
ザイル帝国及びミアセイア王子の呼応により反旗を翻したところを、クラールの率いる騎士団と央国の指示により動いた北の公国・虎公軍の兵に囲まれ、各地で敗退・撤退を余儀なくされたのだ。
そして熊公城に立て籠もること一ヶ月と二十日、決死隊により城門は開かれアークス軍が雪崩込む。
その時、アルバートは決死隊に加わっていたエルフを捜していた。
彼がそのエルフの存在を確認するのに一ヶ月かかってしまったのが、そもそもの失敗だった。シシリアの行っている仕事との両立は彼にはやはり無理があったのだ。
ともあれ、ようやく所在が分かったと思いきや、エルフは決死隊において捕虜にされてしまっているという。
アークス城に負けるとも劣らない広大な敷地内の至る所で剣を交わらせ、将軍クラールを先頭にしたアルバート一行五人はついに元凶である熊公を王の間に追い詰めた。
斧を使わせれば右に出るもののいない熊公ブルスランでもアルバート王子、クラール、ナセル、シュール将軍の副官ブラドの四人の使い手を前にしては負けは必至。さらに魔術師の援護があるのだ。
そこでブルスランは決死隊の最後の生き残りで捕らえた魔術師を人質に取った。
アルバートの側でよく顔を見たというおぼろ気な記憶で生かしておいたのは正解だったらしく、王子の顔には動揺が走っていた。
「卑怯な! ザイルに寝返るだけでなく人質まで取るとは!」
クラールの叫びにヌーガンシュは笑い声を上げながら後退する。
「要は勝てばいいのだ。違うか、シキム伯? お主と私は似た者同士だと思っていたのだが」
玉座を強く押すと後ろの壁に隠し通路が現れる。
「ではまたどこかで会い見まえよう!」
と、笑う熊公の顔が苦痛に歪む。腕の中に捕らえられていた少女がその腕を噛んだのだ。
「小娘が!」
ヌーガンシュがターバンの少女に短剣を振りかざす!
「フレイラース!」
アルバートが走った!
ヒュ!
音を立てて一本の矢がブルスランの短剣を持った二の腕ごと背面の壁に縫い付けられている。
「な?!」
予想外の方向からの攻撃に動きを封じられた熊公。
「終わりだ」
アルバートの黒身の剣が大男の右肩から胸までを切り裂く!
赤い噴水をほとばしらせながらブルスランは後ろに倒れていった。
束縛を解かれた娘はそのままアルバートの胸に飛び込む。アルバートは彼女をその存在を確かめるかのように強く抱きしめた。
その二人に熊公の血走った目が向けられる。
「アルバート王子、せいぜい気を付けるがいいさ。ミアセイア王子のようにお前の身内に刺客がいるのだからなぁ。わしも所詮は一つの駒に…ぐあぁぁ!」
不意に熊公ヌーガンシュ・ブルスランは炎に包まれ、絶命した。呪語魔術の炎の呪文である。
「イルハイム!」
ナセルの咎めるような言葉に、緑色のローブの魔術師は表情を見せずに彼の前から立ち去った。
事の結末を見届け、クラール将軍は彼のいるところからは二階にあたるテラスに向って振り向き、深く頭を下げる。
矢を放ち、友人を救ってくれた恩人は照れ臭いのか、無愛想に手を振ってその場を去って行く。
その姿を彼女の忠実な部下・ブラドはクラールと共に微笑みながら見送った。
「ナセル、イルハイム、ブラド! 残軍処理に向かうぞ」
クラール将軍はブルスランの焼けた死体から首を切り取り、アルバートと少女を残し、三人を連れて王の間を出て行く。
外からの微かな喧噪を伝える最後の砦には、少女の泣き声だけが小さく響いていた。
「アル、ごめん、ごめんね」
アルバートは泣きじゃくる少女の頭を軽く撫でる。彼もまた、今は彼に必要な人の側に居たかった。
しかし
「アルバート王子だな?」
板金の鎧を身を纏った五人の男達が二人を囲む。兜の奥で光る眼光には明らかに殺意の光が宿っていた。
鎧の胸元に付いた紋章は二本の斧――紛れもないクラールの率いる騎士団のもの。
「熊公の言っていた刺客か?」
返事をする事なく男達は思い思い剣を抜き放ち、二人に襲いかかってくる!
アルバートは剣を抜くと相棒に目配せする。それにターバンの少女はいつもの笑顔で応じた。
「速き雷の精霊よ、我が前方を汝の洗礼で清めたまえ!」
アルバートを背にしたフレイラースは両手を前にかざす。その両手の内から輝く球体が現れたかと思うと彼女に襲いかかろうとした三人の刺客を電撃が襲う。
「ハァッ!」
アルバートの剣は安々と一人の刺客を鎧ごと紙を破るように切り捨てた。返す刀、もう一人を下から切り伏せる。
アルバートが二人目を倒したのと同時に、フレイラースの精霊魔術で三人の刺客が声を上げる事なく電撃で焦がされ絶命した。
「身内に刺客がいるのは知っていたが、一体何処のどいつが黒幕なんだ?」
もう動かない刺客達を改めて見下ろした時、廊下から金属鎧の音を立てて一人の騎士が現れ、開口一番叫ぶ。
「アルバート様、先程怪しげな集団が……って、これはこれは。お怪我はありませんか?」
騎士ナセルは彼ら二人の周りに散らばる賊の姿の成れの果てを見ながら歩み寄る。
「ああ、大丈夫だ。こいつ等の素姓を調べてくれ。親玉を叩き殺してやる」
剣を鞘に納めながらアルバートはナセルに背を向ける。
「その必要はありませんよ」
「ん? どういう事だ?」
ナセルの確信に満ちた言葉に彼は不満気に振り返り、驚愕と苦痛の表情を露にする。
ナセルの大剣がアルバートの右肩から胸まで食い込んだ!
「アル!」
フレイラースの叫びが講堂に響いた。
「死になさい、王子! あなたは邪魔なんですよっ」
剣に力を入れる。大量の血が剣を伝ってナセルの手を濡らす。
「貴様が…ブルスラン公の言っていた刺客かよ」
血を吐いて愛剣レイトールの剣に手をかけるが、それ以上体の自由は利かなくなっていた。
「あなたとともに過ごした長い時間、騎士としての屈辱の時間は決して忘れませんよ、さようなら!」
大剣に最後の力を込め、アルバートを鎧ごと両断した場面を思ったナセルだが、それ以上に力は込めることはできなかった。
不審気に自分の腕を見つめたナセルは声にならない絶叫を放つ。
彼の両腕は大剣を握ったまま、二の腕で断ち切れていたのだ。
「一体?!」
疑問と恐怖の表情を残したまま、ナセルはフレイラースの小剣によってその首を断ち切られた。
「アル、アル! いやぁ!」
意識のないアルバートにすがり付く少女を押し退けて、何処から現れたのか、緑色のローブを着た男――イルハイムはその骨のような細い腕で彼に突き刺さった大剣を抜き放つ。
さらに血がほとばしり、アルバートの顔色は青くなっていく。
盛大な返り血を受け、イルハイムは己のフードを後ろへ下げる。
彫りの深い老域に差しかかった、やや禿げ頭気味の男の顔が現れる。血色は悪く、この状況にさらに悪くなっている様にも思える。
「フレイラース、治癒魔術だ。まだ助かる」
静かに言うイルハイムの言葉には死神を近くに見ている響きがあった。アルバートの傷は誰が見ても簡単に助かるようなそれではない。
しかし強力な精霊魔術師のフレイラースの力を以てすれば助かるかもしれない。そうイルハイムは自ら最も恥じる行為――祈りを抱いていた。
軽いノック音と伴に一人のローブの男が入ってきた。
「イルハイム、ここはどこだ?」
未だに顔が青いアルバートは上体を起こして尋ねる。
「首都ブルトンの、とある一軒屋だ。クラールの計らいで借りている」
答え、彼は一冊のファイルをアルバートに手渡す。
「現在の国内外の情勢を記録しておいた、いろいろ起こったのでな。それとフレイラースには礼を言っておけ。一週間も眠らず、お前に治癒魔術をかけ続けていた。とてつもない精神力だ」
「ああ、分かってる」
彼は膝の上で眠る彼女にそっとシーツをかけてやる。
フレイラースの操る精霊魔術による治癒術は、女性にしか宿らない生命の精霊に働きかけるものだ。
術者の命を削り、一時的に対象者の再生力を向上させ、傷を塞ぐというもの。
結局のところは対象者の力を引き出して治す力を早めている、と言って良い。
神聖魔術についても同じような機構で傷を癒すのであるが、重傷者の場合は術者の生命すらも削る精霊魔術の方に回復力については部があると言われている。
「イルハイム、お前は気づいていたんだな。ナセルが裏切り者だと。だからヌーガンシュを奴の目の前で焼いた」
小さく頷く魔術師。裏切り者の末路を知れば、気も変わるかもしれないという彼なりの忠告だったのだ。
「すまない。あの後、我々も別の騎士達によって足止めされてしまった。ナセルの所業は他の同志達との連携の結果だった」
「いや、俺も甘く見ていたよ。黒幕は相当な奴だな」
「その辺は継続してこちらで調べておこう」
「頼む」
そこで話題を切り、アルバートはイルハイムに渡されたファイルを開く。
そこには相変わらず物騒な事件が書かれている。その内の一つに彼は目を見張る。
『アークス−ザイル南部戦線、終結』
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