<Camera>
 「失礼」
 ブルトン盗賊ギルド長・バインは地下に設けられたアジトの客室に入る。
 その客室には大きな地図を広げた三人の客人がいた。
 「これが今回の戦いに参加する者のリストです。どうぞ」
 「ありがとよ。アンタは参加するのかい?」
 封筒を受け取った女性は笑いながら尋ねた。バインは笑みを絶やさずに答える。
 「いえ、私はこのブルトンのギルドを預かる身。一日でもこの街は目が放せませんので。全体の指揮お願い致します、ハーティン殿」
 「はいはい、任せときな。アタイは奴等には個人的な恨みもあるんでね」
 部屋を出て行くバインにそう声を掛ける。
 「これがリストか。有名な奴はいるか?」
 ハーティンと呼ばれた女性の手から封筒を取り、地図を見ていた男は中の書類を眺めた。
 「毒の牙ライブラとか、破戒僧チェルパンだとか、二殺剣のサルーンなんかはいる?」
 残る女性の言葉にハーティンは首を横に振る。
 「そいつら全員、盗賊ギルドなんかニャ登録してないわよ」
 「そうなの? じゃあ、紋様師リャントや水剣アーパスなんかは?」
 マイナー過ぎるのだろうか、ハーティンは小さく首を傾げる。
 「おい、そんなのよりもすごいのがいるぜ。バインのおっさんも、雇うのは盗賊ギルドの関係者だけとか言っときながら、しっかりゲストを呼んでるじゃねぇか」
 男が微笑みながら言った。
 「アルバート・アークス。アイツこんなところで何やってんだ?」
 「へぇ、前回のメンバーが揃った訳ね。おもしろくなりそうじゃない」
 ハーティンが獣のような剣呑な光を瞳に宿らせて、笑って答える。
 「ん、こいつは?」
 剣士の男はリストの中の名前の一つに目を止めた。
 「どうしたの?」
 「いや、このアスカっていうのは、いや人違いだな」
 呟いて顔を上げた。
 「さて、明後日の出発に向けて計画を煮詰めようぜ」
 リストをしまって男は言う。三人は再び机の上の地図を睨んだ。
 地図にはここブルトンを北の街道で三十キリールばかり行った所にあるレガルの村。
 さらに北にそびえるウライシル山脈と、目的地であろう×印。
 そしてそれに重なるようにして遺跡のマークが入っていた。


 熊公国首都ブルトンから北へ行ったところにあるレガルの村。
 この村からさらに北に広がる大森林に踏み込み、ウライシル山脈を目指すこと数キリールの所に岩山の一角をくり抜いた比較的大きな神殿があった。
 その神殿は恐ろしく古いものであるにも関わらず、目立った風化が見られないことに、ある者は強い魔力を感じることだろう。
 神殿の前には小さな村が拓けていた。ちらほらと人の姿が見て取れる。その誰もが魔術師のようなローブを羽織っていた。
 古来より暗殺を生業とする魔術を探求する教団――スパイラル。ここは現在の彼らの本拠地であった。
 岩山の神殿の奥、最も深い所に彼はいた。巨大な扉を背に白髪の混じった中年男が待っている。
 白く長いローブに、神官がかぶるような高い帽子を目深にかぶっている。深い皺が幾重も彼の顔を刻み、瞳は両目とも閉じられている。それだけなのに、言い知れないものを彼は周囲に発している。
 それは人外の力と言うべきか、息詰まる程の聖気と言うべきか。魔族の発する瘴気に相反するものであった。
 彼の座するは、磨き抜かれた石壁に四方を囲まれた巨大な部屋であった。
 その広さはドラゴンが立って歩いても頭をぶつけることはないほどのものだ。
 彼の背後には、この巨大な空間に部屋に相応しい大きな両扉が、その口を堅く閉ざしている。
 一方で彼の正面には彼のサイズにふさわしい大きさの普通の出入り口がある。
 巨大な石扉に正対した、小さく感じさえもするその扉が不意に開いた。
 慌てた様子で紫のローブを羽織った初老の男が入室し、部屋に座する白い男の前にかしづく。
 「偉大なる我らが指導者、ラ・カーリ様に申し上げます」
 ローブの男は跪づき頭を垂れたまま告げた。
 なお『ラ』とは教団で最高指導者に付けられる冠詞で、次に位置するのが導士を意味する『レイ』である。
 ラは当然一人であり、レイの名を持つ者は教団内において少なくはない。
 そして次に『エア』、そして最下位である『アース』が続く。
 「『鍵』の消息を捕らえ、逆探査を開始致しました」
 中年の報告に教祖ラ・カーリはゆっくりと閉じた瞳を開いた。青い澄んだ瞳に汗をかいた初老の男が映っている。
 雪のような白い肌が、杖を持つ右手のローブの裾から覗く。杖は古木から手折られたような形状だ。
 整った顔立ちと生気のないような白さの中に、無機物のような冷たさが伺える。歳の頃は中年である三十か四十か。しかし多めに刻まれている皺も手伝って、初老のようにも見える、年齢不詳の男だった。
 「さようか。レイ・セイル」
 抑揚のない声で教祖は一言を放った。
 「はっ、鍵は我々がこの地の風守であるリャントよりここを占拠する際に、混乱に乗じて侵入してきた『黒の突風』と名乗るダークエルフの盗賊団に宝物共々持ち去られたようです」
 「ほぅ」
 目を細め、レイ・セイルに向けて、彼は吐息する。
 「その盗賊団は途中、精霊を扱うゴブリンが率いる大野盗団の罠に掛かりまして、宝物共々鍵もその野盗団に奪われたと探査結果が出ております」
 弱肉強食と言うべきか、なんとも不毛な話である。
 以然、頭を垂れたままレイを名乗る魔術師は言った。
 「このゴブリンの野盗団も行く先々で冒険者などに狩られ、次第にその数を減らして行きました。そしてアークス−エルシルド間のかつてエルフが迷いの魔術をかけ、未だに作用している小さな森に居を構えたようでございます」
 カーリは続けるように無言で促す。
 「結果的には近くの村による盗伐で全滅したとのことです。鍵は村の雇った傭兵の手に渡った模様でございます。そしてその傭兵は」
 続くセイルの言葉にラ・カーリはその無表情をようやく崩して微笑みの形にする。
 その笑みはまるで下手な彫刻のような、感情の吐露とは言えないようなものだった。
 教祖の顔を仰ぎ見ることなく、頭を垂れたままのレイ・セイルは運が良かったと言わざるを得ない。ラ・カーリの笑みはそれほどまでに見る者の精神の深層に食い込むような、ある種の呪いのようなものが宿っていた。
 教祖は告げる。
 「盛大に歓迎しようではないか、レイ・セイル。事象の見えざる手は我らスパイラルの側にある」
 「ハハッ!」
 レイの位の魔術師は終始、頭を垂れたままで答えて走るようにして部屋を後にした。
 元の通り、一人に戻った教祖は不自然な笑みの表情のままで誰ともなく呟く。
 「もう少しだ、鍵が戻ればこの風の拠点を制圧できる。もう少しお待ちくださいませ、リブラスルス様」
 教祖は振り返り、背後にある巨大な扉を見上げた。
 「このガブリエルの束ねる力によって御身を必ずや『外』より救い出してみせますぞ」
 教祖の哄笑が響き、それが止むと再び聖堂たる大部屋は彼の好む沈黙に包まれた。


 早くも新たな龍公が龍公国首都アンカムで決まったらしい。若干四歳の第四王子である。
 王子が成人となる十六歳になるまで、執権は叔父フラッツという男が当たるらしい。
 所変わって、ここはアークスの南。城塞都市ガートルート。
 龍公国が一定の安定を得るまで、このアークスの南の砦とされるガートルートは彼らアークス第二騎士団の守護の下に入った。
 今回亡き龍公が率いてきた龍公軍の内、怪我をした者や最低限首都に必要な人員はアンカムへと引き返し、残りはガートルートの守備に加わっている。
 傭兵団は一旦解散している。こうして守備に就くのは央国の第二騎士団を主体とした約五百名ほどの規模となった。
 このガートルートから南へ五十キリール、ザイル帝国内に位置するザイル北壁として名高い城塞都市マーレでは魔将軍ミレイア・グラッセが少なくなった軍団を再編成し、虎視眈々と侵略の機会を狙っていることだろう。
 「めんどくせぇなぁ、クレイが生きてればなぁー」
 「団長殿、手を休めない!」
 後ろからの叱咤にブレイドは溜め息を就いて再び目の前に積まれた書類の山と格闘を再開した。
 かつてのガートルートの総指揮官が用いていた執務室は、今は第二騎士団団長の仕事部屋となっている。
 中央に構えられた大きな黒檀の机にブレイドは向かい、しきりに羽ペンを動かしている。
 後ろでそれを見守るようにして立つのは、ウェーブの掛かった銀色の長い髪を持つ美女。長めの定規を片手にブレイドに目を光らせていた。
 「ローティス、君は手伝ってくれないのか?」
 「団長たるもの、デスクワークくらいこなしなさい。これはその練習だと思いなさいな」
 言って彼女はブレイドの背中を定規で叩く。
 「セ、セレスのやつ、よりによってこんな奴を」
 「無駄口叩かない!」
 再びローティスの定規がブレイドの背を打った。
 ローティスは先の龍公に仕えていた軍師であったが、龍公亡き今はブレイドの副官セレス・ラスパーンの紹介により、ブレイドの軍師となっている。
 「去年のガートルートにおける税の回収率/穀物の出来高?」
 「そういうものはこの城にある資料室で調べるものです」
 「んじゃ、行ってくる」
 立ち上がるブレイドをローティスが定規で止める。
 「一人でできるんですか? 逃げたりしたら」
 「ま、まかせとけって。それじゃ!」
 ブレイドは逃げるようにして執務室を後にした。
 一人残されたローティスはブレイドの処理した書類をつまみあげる。
 「鍛えがえのある指揮官ね。おもしろいじゃない」
 全く、Sの気がある軍師である。


 「え〜と、資料室はここだな」
 ガートルート城の奥。
 人気のない、だた広い部屋には所狭しと本棚が並び、古書やファイルが無数にしまわれていた。
 「マジかよ、この中で一体どうしたら良いんだ?」
 ブレイドは本棚の谷の間、茫然と立ち竦む。
 「でもやらなきゃローティスが恐いし。しっかしどうやって調べりゃ?」
 不意にカサッと紙を開く音が奥の方で聞こえてきた。
 彼はまるで取り残された迷子のように、音のする方向へとふらふらと足を運ぶ。
 やがて本棚の一角にファイルを手に何かを調べる女性の姿を見つけた。
 歳の頃は二十代前半、黒髪のショートカットに眼鏡を掛けている。
 ゆったりとしたその服装から、おそらくこの城に仕えている書士か何かだろう。彼女はブレイドの気配に気付き、ゆっくりと本から顔を上げた。
 「あら、貴方は?」
 少し驚いたような表情で女性はブレイドを見やる。
 「調べ物があって来たんだが、何処をどうやって調べたらいいか分からなくてね」
 「どういった物でしょうか? 私でよければお手伝い致しますが」
 本をしまって、女性はブレイドに歩み寄る。
 「これなんだが、分かるかい?」
 ブレイドは手にした書類を手渡す。それを女性は一瞥して頷いた。
 「こういった資料室の構成はどこでも一緒なんですよ。だからやり方を覚えてしまえば例えば首都アークスの資料室でも簡単に情報が引き出せるようになりますわ。付いてきて下さい」
 「はぁ」
 生返事で頷くブレイド。
 入口まで戻った二人は、あるパネルの前まで来る。
 「このパネルには分野別に保存されている資料の位置を表しています。貴方がお探しの資料は大別すると国際情勢になりますね」
 説明する彼女の横顔にブレイドは初対面ではない印象を受ける。安っぽい小説ではないが何処かで見たことのある顔だ、と彼の感は告げていたがどうしてもそれが誰かが引っかかってこない。
 「あの、私の顔に何か?」
 「い、いや、えっと、美人だなって思って」
 「よく言われます」
 「おいおい」
 やはりこの強さは彼の周りにいる女性達に共通したものだが、合致する人物に思い当たらなかった。
 「国際情勢のコーナーはB-15ですから、このパネルで見るとこちらですね」
 そんな思いはいざ知らず、言って女性は再び移動する。その後ろをブレイドは慌てて付いていった。
 「そして内容は例えば穀物の出来高ですから、コの行を捜すんです」
 言いながら書士はファイルの一つを手に取り、ページをめくっていく。
 「ほら、ありました。こうやって捜して行くんです。慣れれば簡単ですよ」
 ファイルのページを開いたまま、彼女はブレイドに渡した。
 「むぅ、ありがとう。頑張ってみるよ」
 書類にデータを書き込みながらブレイドは礼を言う。それに書士は微笑んで答えた。
 「せっかくですからもう少しお付き合いしますわ。慣れていないと大変ですものね」
 「良いのかい、君は仕事があるんじゃ?」
 ファイルを戻してブレイドは尋ねる。
 「気分転換ですわ。黙々と調べ物をしていると肩をこりますの」
 「助かるよ。そうそう、俺はブレイドって言うんだ。君は?」
 「私はセ」
 言いかけて書士はファイルを落とす。
 「ん、どうしたんだい?」
 それを拾い上げてブレイドは尋ねた。
 「いいえ、手が滑って。私は、セリネと申します」
 「セリネか、可愛い名前だね。よろしく」
 「ええ、こちらこそよろしく」
 やや顔を赤らめ、彼女はそう答えた。


 「ほほぅ、早かったですね」
 ローティスは少なからず驚いていた。
 「まぁね、がんばったからな」
 ブレイドは得意気に答える。そんな彼をローティスはまじまじと見つめ、軽く手を打った。
 「手伝ってもらったようですね、それも女性。だから嬉しそうなのかしら、ん?」
 その言葉にブレイドが硬直する。
 「な、何を証拠にそんなことを」
 ローティスに背を向けたままで彼は尋ねる。
 「あ、いや。その反応だけで十分だと思うんですけど」
 苦笑いでローティスは続ける。
 「敢えて言うなれば、貴方と書類から香水の香りがします。これは」
 ブレイドに鼻を近づけて彼女は小さく首を傾げた。
 「セリネの花の香りですね」
 その単語にブレイドは一瞬怪訝な顔をする。
 「は、鼻の調子が悪いんじゃないか?」
 「で、お相手はどんな方です? 美人でした?」
 ブレイドの言葉を聞かないローティス。すでに検索モードへと突入している。
 彼の周りをうろうろ回るのが非常にうっとうしい。
 「書士の女の子だよ」
 面倒そうにブレイドはそう呟いた。
 「書士ですか? お名前は?」
 興味津々で尋ねるローティス。さすがにそれには返事をしない。
 「ところで」
 ブレイドは今気付いた、という風に切り出した。
 「さっき言ってたろ、セリネの花って。それってどんな花なんだ?」
 「セリネは有名な高山植物ですわ。その花は昼は白く、夜は黒くなるって」
 「昼と夜とで色が変わるのか」
 「昼に摘んだ花の香りと夜に摘んだ花の香りは異なることでも有名です」
 「へぇ。ちなみにさっきローティスが嗅いだ香りはどっちのものなんだ?」
 そんなブレイドの問いにローティスはふむ、と顎に指を当て。
 「さー、どっちでしょーねー」
 しらばっくれる。
 「ちょ、なんで教えてくれないんだよ」
 ブレイドが抗議を上げたその時、ドアがノックされる。そして三つの人影が入ってきた。
 副官のセレスと、キース、ヒムロである。各々に書類の束が抱えられていた。
 それら三つの山がブレイドの机の上に積み上げられる。
 「なんだ、これ?」
 「追加ですよ、団長殿」
 「いやいやいや、軽く言ってくれるなよ。こんなん終わらんだろ」
 「デスクワークは慣れが重要です。がんばって下さい。分からないところはローティスが教えてくれますから。それでは」
 書類の山を最後に整えてセレスは無表情でそう告げた。
 「がんばれ」
 「ふぁいと」
 キースとヒムロも我関せずといった感じでセレスに続いた。
 「お、おい、ちょっと」
 ブレイドを背に三人は部屋を出て行く。再び執務室には二人が残された。
 「お友達もああ言ってますから、がんばって行きましょうか」
 「あんな奴ら、友達じゃねぇ!」
 悲痛な叫びが一つ、広めの部屋の中にこだました。


 その日の夜、ローティスは資料室に足を運んだ。
 月明かりだけが差し込む、そのカビ臭い部屋に一つのランタンの明かりが灯っている。
 「精が出るわね『セリネ』さん」
 「ローティス? やめてよ、その呼び方」
 セリネと呼ばれた明かりの主は、書物から目を放すと暗闇に浮かぶ女性に振り返る。
 「んで、セレス。捜してるものは見つかったの?」
 ローティスの言葉にブレイドの副官であるセレスは首を横に振った。
 「いい加減諦めたら? 貴方がセリネっていう偽名を使ってブレイドに会ったのも、もう今が嫌になったからじゃ」
 「やめて。私はあの人の仇をとるの。そしてあの人の成しえなかった夢をこの私が叶える。ブレイドに付き合ったはちょっとした遊びよ」
 「死者に義理立てしても仕方無いわよ。似てるじゃないの、ブレイドも」
 ローティスはセレスに睨まれて口を言葉を区切るが、気の毒そうな表情を浮かべてこう続けた。
 「最後に友達として言っておくわ。貴女はもうできることをやった。割り切ることも大切よ」
 言いながらセレスに背を向ける。
 「それからね、私。あのブレイドって男を気に入ったわ。貴方が目的の為に手段を選ばないというのだったら、私と敵対することになるかもね」
 セレスはローティスのその言葉には反応せず、傍らに積み重ねた書物の一冊を開いた。


 途端、彼女は少女となり森の中にいた。
 広い空間の中は、書物という名の知識の実が本棚という木に収まっている。
 そう、これは遠い日の出来事。まるで昨日の事のように色褪せない情景が目の前に展開されていく。
 少女はこの森を熟知していた。慣れ親しんだ場所だった。
 そんなある日、彼は現れた。まるで森に迷い込んできた旅人のように。
 「これじゃないしな、分からんな、これは。こんなんでレポートが終わるのか?」
 そう溜め息をついたのは一人の青年だった。
 歳の頃は少女よりも三つ四つ上の二十代前半の男である。
 「あの、どうしたの?」
 少女は困った顔をした青年に声をかけた。
 「学院の卒業レポートを書くのに調べ物があるんだが、どう調べたら良いのかさっぱり分からなくてね。こんなことなら普段から図書館を使っていれば良かったよ」
 微笑む青年に、少女は微笑み返して言った。
 「手伝ってあげようか?」


 人通りの多い街角、魔術光の灯る街灯を背にして一人の少女が立っていた。
 雪の降る夕方のことである。雪とそれに伴う冷気を含んだ弱い風が彼女の長い黒髪を揺らし続ける。
 不意にその風が止んだ。少女は顔を上げる。
 「すまんセレス、遅れちまった」
 黒いコートを着た青年が息を切らせて現れた。
 「遅いよ、凍っちゃうかと思ったじゃないの」
 怒る少女を青年はコートに包む。
 「で、どうだったの?」
 コートの中から少女は見上げて青年に尋ねた。
 「来年の春から宮廷騎士団に仲間入りだよ。それも憧れの勇者ステイノバが団長の第二騎士団だ」
 「おめでとう、やったじゃない!」
 少女は心からの賛辞を送る。
 「ああ、これで夢にまた一歩近づいたよ」
 歩きながら言った青年の言葉に少女は首を捻る。
 「夢? 夢って騎士団に入ることじゃなかったの?」
 少女の不思議そうな言葉に青年は微笑んだ。
 「そうだよ。それが叶った上での新しい夢のこと」
 「どんな夢なの? 世界一周旅行するとか?」
 「ハハハ、まぁそんな大それた事じゃないけど金の掛かることだよ」
 「何なの? 教えてよ」
 「叶ったら教えてあげる」
 意地悪く、青年は笑った。そしてその笑顔が白く曇る。
 景色が変わり、それはある建物の中に変わった。


 少し歳を経て女性らしくなったセレスの前に、鷲の紋章の入ったマントを羽織る青年がいる。
 「おめでとう、副官に出世だってね」
 「君も一級書士に昇級したそうじゃないか。もっとも君の実力なら一級書士も軽いと思うけど」
 「上の目があるのよ。まぁ社会に出ればこんなものでしょう」
 「そんなもんか。それはそうと仕事中に呼び出しなんてどういうことだい?」
 それにセレスは耳を貸すように合図する。
 「貴方と同じ副官のウルバーン王子に気を付けて。何かをやろうとしてるそうよ。出所が高い噂なの」
 彼の耳にそう囁いた。
 「ありがとう、忠告として受け取っておくよ。確かに奴は王子ってことを鼻にかけて団長からも煙たがられてるしね」
 「うん、気を付けてね。じゃ、私も仕事に戻るわ」
 背を向けようとするセレスの腕を青年は掴む。
 「どうしたの?」
 「君への昇級祝いを忘れてたね」
 青年は言って、首から下げていたネックレスをセレスにかける。
 セレスは驚いた顔で答えた。
 「ちょっと、これは貴方の家族の唯一の形見なんでしょ。こんな大事なもの、受け取れないわ」
 「だから受け取って欲しいんだ」
 青年は微笑みながら、セレスの頬に触れる。
 セレスはそっと目を閉じた。


 彼女が目を開くとそこは一件の宿屋だった。
 アークス皇国の街の一つ。商業都市サークロンで豪商達がむやみに私兵を募っているとの情報から、宮廷騎士団が派遣された。
 任務上、大きな軍を動かすことは国民の不安を駆ることになるので少数精鋭が徹底された。
 そしてその役は彼が所属する第二騎士団へと回ってきたのである。
 派遣されたのは第二騎士団の団長と皇国魔術師隊を含む精鋭三十名。
 そしてサークロンでの事務処理としての書士が5名である。
 第二王位継承権を持つウルバーン第二王子も副官として任務を帯びてこの中に含まれていたという記述がある。
 その彼らが任地へ赴く途中の借り切った宿屋でのことである。
 「おや、この娘がいつも君の言っている将来のお嫁さんかね」
 一階に設けられた食堂でセレスに歳経た騎士がそう言葉をかけた。
 「だ、団長!」
 白髪の目立ち始めた精悍な中年騎士の言葉にセレスは顔を赤らめた。
 彼女の愛する若き騎士は、団長ステイノバに必死に何かを訴えている。
 「まぁ任務とは言え、ここは城内じゃないからな。そう堅くなるな。わしは向こうで食ってるから」
 ステイノバはそう言うと、二人の前から姿を消す。
 それを見届けてから、彼女は彼に小さく問うた。
 「私が貴方の婚約者?」
 「団長の言うことは聞き流してくれ、な?」
 「いいわよ、婚約者で」
 セレスは微笑みながら、カウンターの席に就いた。その隣に青年は座る。
 「しかし、どうして君がここについてきたんだ?」
 「上からの命令、偶然よ」
 ネックレスに付いている銀製の鳥を触りながら、セレスは答える。
 この間、青年から受け取ったものだ。
 「そうなのか。ん??」
 青年の言葉が止まる。
 不意に周りが風景が歪み、マーブルチョコレートのような景色になる。
 その光景に一階で食事をしていた派遣隊は騒然となった。
 「セレス、離れるなよ」
 周囲の異変に青年は腰の剣を抜きセレスを守るように構える。
 同じように他の騎士や魔術師達も構えた。精鋭として選ばれただけあり、大きな混乱は見られない。
 ざわめきを押しのけるように、食堂の中央の空間が歪ませて一人の青年が現れた。
 その背には輝く四対の翼を持ち、長い黒色の髪を後ろに流している。
 「なに、あれ?」
 セレスは唖然と呟く。まるで天使のような姿をした翼を持つ存在は、吐き気がするほどの不自然な清らかさに満ちていた。
 その天使然とした存在の隣に一人の男が並ぶ。
 「さて、死んでもらいましょうか」
 それはこの派遣隊の副官の一人であるウルバーン王子だった。
 彼の視線の先には騎士団団長のステイノバの姿がある。
 「ウルバーン、お前」
 団長の声にウルバーンは鼻で笑った。
 「邪魔なんですよ、ステイノバ『元』団長殿」
 不敵な笑みを浮かべるウルバーンへ、隣の天使然とした何者かが声をかける。
 「ウルバーンよ。与えてやったミカエルとしての力の程、見せてもらうぞ」
 「御意、リブラスルス様」
 そうウルバーンが答えると共に、リブラスルスと呼ばれた『何か』は現れた時と同じように不意にその姿を消した。
 ウルバーンは虚空に向かって深々と頭を下げ、そしてゆっくりと上げる。
 その面には狂喜の表情が宿っていた。
 「それではみなさん、さようなら。天使達よ!」
 ウルバーンの声に応じ、彼を中心として四人の武装した『天使』が現れる。
 一対の翼を持ち、全身鎧に身を包んだ屈強な兵士。その表情はみな同じ無表情だ。
 リブラスルスと呼ばれた『何か』よりもよっぽど自然な清らかさだと、セレスは場違いながらも感じた。
 「行け!」
 ウルバーンの手が振り下ろされると同時に天使達が襲いかかる。
 「くっ、体が?!」
 セレスを守る青年の体が傾く。同じような事が他の騎士達にも顕れた。
 「団長、この空間では我々人間の力が著しく低下します、グワッ!」
 叫んだ魔術師が、素早く切り込んできた一体の天使の剣によって額を貫かれて倒れる。
 「怯むな!」
 それでも一体目の天使を切り倒したステイノバが叱咤激励する。
 返す刀でさらに一体を切り伏せる。
 「無駄ですよ」
 倒された数だけ、ウルバーンの周りに天使が新たに現れた。
 「くそっ、逃げるんだ、セレス!」
 青年はそう叫んで、ふらつく体で天使の一体に切りかかった。
 本来の太刀筋よりも劣る軌跡を描くが、二、三合も打ち合うとその天使を無に返す。
 しかし騎士達の数は確実に減って行った。対する天使の数は常に四人。それも一人で2、3人分ほどの力を持っている。
 「くそっ」
 立っているアークスの騎士は片手で数えられる程に減じている。その中にはすでに団長ステイノバの姿はなかった。
 やがて青年の前に二体の天使が立ち塞がる。
 打ち合いも虚しく天使一体の攻撃は防ぐものの、もう一体の振った剣が青年の左肩に深く食い込み、深紅の液体が天使達を濡らした。
 「!」
 セレスは叫びにもならない声を挙げる。
 その彼女へは弓を持った天使からの矢が放たれ、光速と化した矢がセレスの胸に吸い込まれて行った。


 宿屋は燃えていた。
 それを村人達がバケツリレーで消そうと試みるが一向に収まる気配がない。
 その絶えることのないように思われる轟火を、誰にも見つからないように建物の影でセレスは茫然と見つめていた。
 強い衝撃で歪んだ鳥の飾りが付いているネックレスを手に。


 セレスは主を無くしたアパートの一室に訪れていた。
 「惜しい人を亡くされました」
 大家の言葉にセレスは部屋の真ん中に位置する机の、1つしかない引き出しを開ける。
 中には何処かへの受領書が一枚。
 「これは?」
 それは送金を示す物だ。送り先は隣街にある孤児院になっている。
 そしてそこは何度か聞いたことのある、彼の育った場所でもあった。
 「彼から酔った勢いで一度聞いたことがあります。夢はかわいいお嫁さんと孤児院を開くんだって」
 「そう、ですか」
 「あの方は先の魔将軍グラッセ侵攻で身なし児になりましたから、色々苦労なさったんでしょう」
 そんな大家の言葉を聞きながら、セレスは引き出しの中にあった短剣を手にした。
 「必ず仇は取るわ。覚悟なさい、ウルバーン。そしてリブラスルス!」
 セレスはその長い髪を短剣で切り落とした。
 黒い霧のように『それ』は乾いた部屋に舞う。
 「ちょ、アンタ」
 慌てる大家に振り返ることなしにセレスは壁に掛けられた鷲の紋章の入ったマントを取るとそれを羽織った。
 それは第二騎士団団員の証でもあるものだ。
 セレスは瞳に強い意志を込め、かつての恋人の部屋を後にした。


 「セレス・ラスパーンと申します。ウルバーン団長殿」
 鷲を形どった刺繍の入った黒いマントを羽織った『青年』が膝をつく。
 「ステイノバ前団長とその一行を失ったことにお悔み申し上げ、唯一貴方様が御無事であったことへの御幸運をお祈り致します」
 ウルバーンは歩み寄り、青年の顎をつまんで顔を上げさせる。
 「御幸運、か?」
 少数の騎士が見守る執務室に緊張が走る。
 「はい、証拠が残らなかったことへの」
 無表情に答える騎士にウルバーンは薄く微笑んだ。
 「セレス・ラスパーン。お前を第二騎士団副官に任命する」


 白亜の城と呼ばれていた王城は燃えていた。今まで戦火からは最も程遠いと思われていた『ここ』にまで煙が到達していた。
 そう、こことはアークス王のいる謁見の間である。
 そしてセレスとウルバーン、野心を持った第二騎士団の騎士達は前を国王と魔術師団長、後ろを第五騎士団団長及び紅の姫シシリアに挟まれていた。
 その状況を楽しむかのように、ウルバーン第三王子は人外の力を発揮する。
 「我が指導者リブラスルスの盟約に基づき出でよ、第七位権天使らよ!」
 彼の言葉に反応して四つの光が彼の頭上に現れる。それはすぐさま形を取り、四人の人形のような無表情の顔を持つ天使となった。
 その光景はかつてセレスの見たあの時と同じだ。
 「「御命令を。マスター」」
 機械的な声が四人の天使から響く。それをセレス達を挟んだ戦力達は、天使という存在に驚く。
 ウルバーンはその様子にいやらしい笑みを浮かべる。しかしその時、彼はセレスが腰の剣に手を振れたことに気付いていなかった。
 彼はあの時と同じように天使達に命令を下す。
 「あの愚か者共を先程の騎士達のように石に変えてやれ!」
 「「きぃぃ!!」」
 吠える天使達。そして彼が『敵』とに意識した生命体は足から石化が始まって行く。これはあの時とは違う光景だ。あの時からウルバーンも天使のさらなる使い方を覚えたということだろう。
 だがシシリア姫や王達は自らの身に石化が始まりながらも、事の成り行きを静かに見守っているだけだった。
 当然だ、何故なら――『彼女』がそこにいるからだ。
 「最後に笑うのはこの私だ。フフフフ、ハハハ!」
 ウルバーンは動けなくなる騎士達のざわめきの中、これ以上もない笑い声を上げる。
 その時だった。彼の笑いが終わる前に、左胸の後ろから長剣が生えたのは。
 「これ以上はさせませんよ。ウルバーン殿」
 セレスは無表情に言い放った。
 こうして直接の仇は打った。しかし本当の仇はこの男ではないことを『彼女』は知っている。
 「セレス、貴様何故裏切った」
 背中のセレスへ対し、ウルバーンは血を吐きながら呟いた。
 「裏切るも何もない。私は貴方に仕えているのではなく、現王に仕えているのだから」
 結局、この男は何も知らなかった。愛する人を死に追いやった力をこの狂った野心家に与えた、リブラスルスという男のことを。
 騎士セレスは突き刺さった剣を捻る。それと供に大量の血がウルバーンから溢れ出し、足もとを赤く染めた。
 我に返ったウルバーン側近の騎士達がセレスに切り掛かるが、それはシシリア姫の付き人によって簡単に阻止される。
 石化が解けたのだ。
 「お前が情報を流していたのか。どうりで分からないはずだよ」
 唇の端から血を流しながら、半ば呆れたようにウルバーンは言った。
 情報を流したのは物のついでのことだ。流した先のシシリア姫はセレスが王にのみ仕える真面目な騎士と捉えているようだが、それは大間違いだ。
 ”私はあの人の代わりをしているだけ。だから最低限、騎士らしく”
 セレスは心の中で呟き、剣を引き抜く。ウルバーンからさらに多くの血が流れ出した。
 その血は血の色の赤ではなく、絵の具のような赤であることに気が付いたのは彼女だけだった。
 人に似せて作られた『天使』という存在と力に、同化して変質しつつある『人間』のなれの果てだ。
 人間から逸脱した存在に堕ちようとしていた彼は囁く。
 「いや、違うか。俺は釣られたんだな、野心があるかどうかを。そうだろう?」
 青ざめた顔のウルバーンは振り返り、セレスに尋ねた。
 「シシリアはね。でも私は違う、私は仇を打っただけ。貴方がステイノバ団長を襲撃した当時の、貴方の同僚だった副官のね」
 セレスは告げる。
 「前から訊きたいと思っていた。私が襲撃したという証拠は?」
 血を吐いてウルバーン。
 「あの時、私は書士として同行し、虐殺の中で唯一生き残った。貴方に私が女であることがバレたのは計算の内よ、貴方の警戒を解く為のね。もっともそれによって殺されたとされた書士であることに気付いていなくて良かったわ」
 それにウルバーンの表情が歪んだ。ウルバーンはこのセレスを信じていた。おそらく生まれてから最初で最後、人を信じるということを学んだ。
 だからこそセレスに関してはウルバーンは未来への計算の対象外――王になった暁には娶ることさえ考えていたが――考慮していなかったのである。
 当然、そういったウルバーンの心情もセレスには掌で転がすように分かっていた。
 「そうか。まぁ、いいさ。お前に殺されるのなら、悔いは、ない」
 よろめき、ついにウルバーンはセレスにもたれかかるようにして倒れる。
 「私の人生は暗いものだった。しかし例え演技であっても、お前と出会えて良かったよ」
 第三王子は苦笑いを浮かべて続ける。
 「一つ、忠告しておこう。リブラスルスはこの世界に存在しない『もの』だ。しかしその触手はこの世界に存在している。我々人間のすぐそばであり、最も遠くの場所に、な」
 何かガラス状の物が砕けるような音がセレスの耳に微かに届く。同時にウルバーンは息を引き取った。
 ”リブラスルスはこの世界に存在しない”
 セレスの脳裏にウルバーンの言葉が引っ掛かる。
 ”やはり奴は人ではないのか。とすればその名の表す意味通りの?”


 古代。
 大図書館がこの地に存在していた。それはアークスという国家がまだ存在していない、スパイラルという魔術そのものを信奉する教団よるものであるとされている。
 その場所が龍公副都心。南の砦として名高いガートルートであるという情報が入ったのはウルバーン死後、五日後のことだった。
 セレスは早速、ザイル帝国に苦しめられる龍公援助の形で第二騎士団が向かうように取り計った。
 ラスパーン家は王家御用足しの商家として大きな力――強いて言えばその財力だが、王家を左右させる程の力を持つ。
 セレスが騎士団に騎士としているのも、ラスパーン家の権力によるところが大きい。
 「お呼びになりましたか? セレス様」
 セレスはその声に我に返る。執務室の椅子で思いに耽ってしまっていたようだ。
 「ガロン、我々は龍公の援助に向かうだろう。準備をしておけ。だがクレイ殿には内緒でな」
 セレスは彼女に対してかしこまる、長く黒い髭を持つ巨漢に言う。傍から見ると妙に不釣り合いである。
 「御意」
 ガロンと呼ばれた武将はそう真っ直ぐに答えた。
 早くもその一週間後には第二騎士団と傭兵隊の派遣が決定した。


 このガートルートの資料室はかつての名残であろう、古代文献が多い。
 もちろん貴重な資料も数多く存在するが、そのどれにもリブラスルスに関しての記述は非常に少なかった。
 しかしそれであっても0ではない。セレスは膨大な書物と格闘を余儀なくされていた。
 そんな中で分かった事――リブラスルスとはその言葉の直の意味通りに『秩序』の意がある。
 魔族は世界が混沌へと向かうように作用し、対極する位置にある天使は世界が秩序の方向へと作用する。
 あの忘れもしない姿から、すなわちリブラスルスは天使の眷属であり、何等かの意味を以てウルバーンなどに力を与えた、とセレスは考えている。
 しかし、ウルバーンは言った。
 リブラスルスはこの世界には存在していない、と。
 そしてその触手は存在している、と。
 では彼女が見たあのリブラスルスは何なのだろう?
 愛する人を亡くして三年、ウルバーンを倒すことはできたが、最も倒すべき相手であるリブラスルスの所在ははもちろん、その正体さえもまともには掴めていない。
 ”どこかに、きっと何処かに鍵があるはず。リブラスルスへと続く鍵が”
 セレスは尽きることなくまた一つ、新しい書物を手にした。
 不意に誰もいないはずのこの図書室から人の声が聞こえてくる。
 「マジかよ。でもやらなきゃローティスが恐いし。大体どうやって調べりゃいいんだ?」
 途方に暮れた声に彼女は、その方へ視線を移した。どうやらこの知識の森に迷った者らしい。その足音がこちらに近づいてくる。
 「あら、貴方は?」
 上官であるブレイドの出現にセレスは少し驚く。これほど資料室に向かない男はいないだろう。
 「ここに調べ物があって来たんだが、何処をどうやって調べたらいいか分からなくてね」
 困ったようにブレイドは言った。どうやらセレスがセレスであることには気が付いていないようだ。
 ”なんだかあの人に似ているわね”
 不意に浮かんだ暖かい考えを打ち消して、セレスは尋ねた。正直、調べものに邪魔である。
 「どういった物でしょうか? 私でよければお手伝い致しますが」
 ”でも少しはつき合ってあげましょうか、大変そうだしね”
 セレスは心の中で微笑んで、立ち上がった。


 瞬間、周りの景色が回り出す。渦となった景色は一点に吸い込まれて行った。そしてそこには一人の忘れもしない男が立っている。
 「我が名はリブラスルス。我を探らんとする貴殿の過去、見せて頂いた」
 当時と変わらぬ超然とした態度と強烈なほどの神聖さ。
 だが良く見れば『違う』。当時は力の差がありすぎて圧倒されていただけだが、冷静になれる今は違う。
 リブラスルスと名乗るこの男は『人』であると判断できる。
 しかし彼の背後にある存在は間違いなく『人』ではない。
 すなわち、目の前の男はリブラスルスの触手である。
 ここに至ってセレスは我に返る。
 「今までの回想は」
 「そう、気になったので読ませていただいたよ、君の物語を。なかなか面白い物語を紡いでいるね」
 彼は一冊の本を手にしていた。その背表紙にはこう書かれている。
 『セレス・ラスパーン』と。
 それで気が付いた。
 彼女は今現在、自身が存在している場所が世界の最も近くて最も遠い場所であることを認識する。
 改めて認識を見渡す。ここはガートルートの図書室などではなかった。
 周囲には整然と立ち並ぶ本棚。そのどれもが高く、その果てが見えない。
 書架の回廊もまた果てしなく続いており、壁が見えなかった。
 何よりも収められている書物。その厚さはまちまちだが、題名は全て人の名であった。
 「ここは、やはり」
 息を呑むセレス。リブラスルスは爽やかな笑みを浮かべて一礼した。
 「ようこそ、悠久の図書館へ。ここはこの世界の全ての知識の集う場。すなわち」
 「具現化されたアカシックレコード」
 「正解。そして君の求める物は必ずここにある。このリブラスルスが勤勉な君を招待しよう」
 悠然と告げるリブラスルスを前に、セレスは胸の前で右手を強く握る。
 壊れたネックレスの凹凸は、彼女の手のひらにこれが現実であることを知らせる痛みを与えている、夢ではない。
 「私が求める、物だと?」
 セレスは翼を有する男・リブラスルスを睨みつける。
 「そんなものは調べるまでもない。求めるものは」
 彼女は懐から小剣を抜き放つ。
 「貴様の命。あの人の仇だ、思い知れ!」
 白刃煌めく、その瞬間だった。
 「?!」
 セレスの手の中にあった小剣の、刃がまるで煙のように消えてなくなる。
 「ここは貴方達、人間の言うところのバベルの図書館。全ての知識と記憶、出来事を本という形で封じ、記録した物が置かれる所です」
 背後からの突然の男の声に彼女は振り返る。
 彼女の後ろには閲覧用の長机と、その向こうにはカウンターがあった。そのカウンターに声の主はいた。
 「貴方は?」
 セレスの警戒した問いに、彼は抑揚なくまっすぐにこう答えた。
 「私はツクヨミ。別名は時間神と呼ばれるこの図書館の管理人です」
 灰色のローブに複雑な魔法文字を刺繍し、同じく灰色の長い髪から覗く端正な顔立ちは男にも女にも見える。
 実際には24日をかけて彼は男女を往ったり来たりする体質なのだが、それは今のセレスの興味対象外であった。
 「この時間帯に人間が訪れるなど珍しいこともある。そこの有翼人の影響か?」
 ツクヨミは座ったままで彼女の向こう、リブラスルスと名乗る男を睨んで言った。
 それに対し、リブラスルスはおどけたように肩の力を抜いただけだ。
 「この場所は閲覧のみが許される行為。それ以外については禁止されている」
 バベルの図書館の管理人は2人に言い聞かせるように告げる。
 すなわちそれはセレスに対してリブラスルスも手を出せないということだ。
 「分かっているよ、ツクヨミ。なにせ私は常連だ」
 リブラスルスは軽く管理人をいなすと、セレスに視線を向ける。
 「君のいじらしい努力に免じて、ここへ招待してやったのだ。存分と調べるがいい」
 にっこりと微笑み、『一対の白い翼』を持った若者・リブラスルスは言った。
 「私は、私と来たるべき世界の為に混沌を求めている。混沌の末に生まれる秩序を」
 極めて理性的な光をそのアメジスト色の瞳に宿し、彼は最後にこう告げた。
 「その為に二重三重で手を打っている。果たして君はこれらに対してどう返してくれるのかな?」
 そして空間の中に溶けるようにして消えていった。
 残されたセレスは彼の言葉を心の中で反芻する。
 「何か必要な資料はあるかな?」
 佇むセレスに、そうツクヨミが問うた。
 「リブラスルスに関する文献を」
 彼女は言う。それに対し管理人はやや困った顔をした。
 「リブラスルスは多重の存在だ。文献はあるがそれは膨大な物となろう。そしてあの高次な存在を人間であるお主にどこまで理解できるだろうか?」
 言いながらもツクヨミは手元の紙に何やら書いていく。
 「これらを調べてみるが良い。ここでの時間はお前だけのもの。誰も、時間である私も邪魔はすまい」
 セレスは紙を受け取る。
 「ありがとう。それでも私は理解し、追わなければならない」
 紙を一瞥し、彼女は背を向ける。
 「それにある程度は推測している。ここで会ったことで確度が高くなった」
 「ほぅ」
 感心したようにツクヨミから声が漏れる。
 「リブラスルスとはアークス以前の古代文明においてその名に意味を持っていた」
 厳しい顔でセレスは告げる。
 「その意味は秩序と正義。それは魔族の有する混沌と悪の正反に位置する意味」
 本の森を歩きながらも、不思議なことにツクヨミとの距離は変わらない。
 ここが本当の意味での距離や時間から逸脱した世界であることの証左だろう。
 「なるほど、すなわちそれは?」
 管理人の促しに彼女はこう答えた。
 「天使の長、もしくはそれに相当する絶対的な概念」
 足を止める。
 彼女の目の前の本棚には、リブラスルスに関する書籍が一面に並べられていた。
 「あの人を殺したウルバーンに力を与えたリブラスルス。きっと同じようにこの世界に混沌を生み出すために戦乱の種を蒔いているはず」
 目の前の一冊を手に取る。
 「そんなリブラスルスが私にその存在と姿を見せ、さらに『ここ』へと導いた。そこに何が隠されている?」
 彼女は自身に問いかけるように呟く。
 「ただの気まぐれか、それとも自身の存在を誰かに知ってもらいたかったのか」
 言いながらも彼女は首を横に振る。
 「奴は存在を確信した私に、行動を求めている。それはきっと奴に都合のいい行動となる。私はそれを避けなくてはいけない」
 不意に先程のリブラスルスの瞳の光を思い出す。
 そこには不思議と、一つの目的の為に盲信を続ける者の狂気は皆無だった。
 何を考えているのか?
 「私は奴の思考の、さらに上で動かなくてはいけない。あの人のためにも」
 二冊目の本に手を伸ばし、セレスは情報と思考を重ねていった。


 気づくとそこはガートルートの図書館だった。
 時間は夕方から夜に変わったころ。
 ローティスと別れてからの時間は進んでいなかった。
 「なるほど、私だけの時間とはこういうことね」
 リブラスルスを理解できずとも、その存在と目的を知ったセレスは燭台を拾い、階段へと向かう。
 「今となってはどこまでできるか分からないけれど、嫌がらせくらいにはなるはず」
 その足取りは騎士セレスではなく、一個人としての彼女のものとなっていた。


 大陸のほぼ中央に小さな国がある。しかしそれは政治上、国ではない。
 アンハルト公国と呼ばれるそれは、東を龍王朝、西をザイル帝国、そして北をアークス皇国の東の公国・熊公国の三国と接している。
 かつ南には多くの亜人達の住む大山脈と森林とに恵まれた、温暖で豊かな土地が広がり、その先には南の雄・ササーン王国が控えている。
 この公国はアークスとザイルからは属国として、龍王朝からは委任地として見なされることによって、かりそめの独立を果たしていた。
 言い換えれば他国がこれほどまでにこの地に固執するのには理由がある。
 どの大国からもその一部であるという見地と三国が接するという地形から、この地は商業能力が高く、また文化レベルも大陸で最先端を誇っている。
 代々、大国を大国で制する世渡りのうまい事で有名なアンハルト公は今期で十四代目。
 当主はまだ二十四歳と若いケイン・アンハルトだ。。
 彼が当主に就任して間もないが、税率を品目ごとに変える方式を導入することで今まで以上の交易による収益が上がったのが特徴だ。
 付随して正式な大学の設立など、その政策は次々と功を成し、手腕の評判は非常に高い。
 そのケインの住む公国首都。ロンの中央に位置した簡素な造りの王城に一人の女性が訪れていた。
 「お久しぶり、ケイン」
 執事に連れられて、彼女は当主に謁見する。
 「おや、センティナじゃないか。どうしたんだ、急に」
 茶色の髪と瞳、肌色の肌を持った若き当主は突然の来訪者に驚きも、喜んでいた。
 「珍しいな、鎧は着ていないのか?」 
 「まぁね、機動力を活かすことにしたんだ」
 腰に差した剣を叩きながら、彼女は軽快に笑って答える。
 「それは置いといて頼み事をしたいのだが良いか?」
 幾つか並んだソファの内の一つにゆったりとその身を任せながら、彼女は尋ねた。
 「君の頼みを断わったことがあるかい? 反対はあるけど」
  苦く微笑んでケインは答える。困ったような、また嬉しいような表情だ。
 「うむ、実はな、ザイルに攻め入って欲しいのだ」 
 「おや、ちょっと耳が遠くなったようだ。おかしなことが聞こえたような気が。今、何か言ったかい?」 
 「ザイルに」 
 「俺をからかってるのか?」
 しかしセンティナは真剣に首を横に振る。
 「本気か?」
 ケインは額に汗をしながら目の前の女性に言った。
 「もちろん」 
 「駄目だ、その頼みは断わる。というか意味が分からない」
 はっきりとケインは言い返した。
 「どうして!」 
 「当たり前だろ、俺は当主だ。この公国の民を守る義務がある。だいたいどうしてそんなことする必要があるんだよ」
 テーブルに手をついてケインは叫ぶようにして尋ねた。
 「一言で言えば仕返し、かな」 
 「おいおい」 
 「私がグラッセの馬鹿野郎に捕まったのは知ってるでしょう?」
 ソファでくつろいでセンティナは髪を撫で付けながら言った。
 「ああ、大変だったようだな」 
 「暗くて狭くて臭い牢獄に何日閉じ込められてたか分かる? 気が狂うかと思ったわよ」
 言ってテーブルを叩く。まぁ、実際のところは寝て過ごしていたのでどこでも眠れる彼女にとっては休息のようなものだったようだが。
 「それに口では言えないあんな事やそんな事やこんな事さえ、させられたんだぞ!」
 一気にまくし立てるが、ケインはそれを聞いているのかいないのか、メイドの運んできたコーヒーを受け取り口に運ぶ。
 「何でそんなに呑気なの?」 
 「偽の書類にサインさせられたり、契約書を書かされたり、内職をさせられたんだろ。俺が一体何を想像すると思ったんだ?」 
 「あら、分かってた? とにかく許せないの、あいつは!」 
 「この国の立場を考えろよ。ウチは三国のバランスの上に成り立ってるんだぞ。軍隊が欲しけりゃお前、一応ザイル王族の血があるんだからそっち方面で頼んでみろよ。それが駄目でもお前に付いて行く騎士は多いだろ?」
 「まぁね。でも私はあんたと騒ぎを起こしたいの。勝手だけど、最後に一番って決めた人と大きな事をやりたいんだ」
 ケインの瞳を見据えてセンティナは言う。
 しばらくの沈黙の後、視線を外したのはケインだった。
 「全く勝手だな、君は。しかしそこまで言われたらやるしかないな」 
 「ありがとう」 
 「だが君の言うような騒ぎじゃないぜ。このアンハルト公国お得意の戦い方だ」
 ニヤリと微笑んで、ケインはソファから身を起こした。


[Back] [TOP] [NEXT]