<Rune>
ガートルートから西へ進む街道の途中。
僕らは少し脇道に逸れた所で野営をしていた。
頭上には雲一つない夜空。下弦の月はとても細く、満天の星空だ。
夕食も終わり、個々にくつろいでいる時の事。クレアの煎れてくれたお茶を啜りながら、僕はこの先の道を考えていた。
水の祠の名は知られている。きっと話を辿っていけばある程度の場所までたどり着けるだろう。
たどり着いて、そこにある水鏡でアスカの居場所を知る。
それだけのことだ。その先やそこまでの細かいことはやりながら考えて行こう。
”そうね、貴方の思うままに進みなさい”
イリナーゼの思念が不意に現れ、そして消えた。まるで寝言を言ったかのようだ。
「どうしたの? お兄ちゃん、何か考え事?」
「あ、いや。大したことじゃないよ」
微笑んで答えるが、クレアはじっと僕の目を見つめる。
「これからのことでも考えていたんでしょ?」
僕は目を見張る。なんで分かったんだろう?
「なんで分かったんだろう、って思ったでしょう?」
「すごいな、クレアは。心が読めるの?」
「お兄ちゃんの心だけは読めるのよ」
それはとても怖いことだなぁ。
そう言えば昔からだ。幼馴染みのクレアには全て分かってしまう。父や母と過ごした時間以上に一緒にいたからだろうか?
「んー、クレアは今、『野営かぁ、ふかふかのベットで寝たかったなぁ』って思ってる?」
「思ってないよ?」
「そっかぁ」
クレアには僕の思っていることは分かるのに、どうして僕にはクレアの心は読めないのだろう?
「そろそろ夜のお祈りしなきゃって思ってる」
「熱心なことで」
クレアは高位の光の神の司祭故に、強い信仰心を持っている。
ちなみに僕は特に信仰している神はないので、この辺はクレアとは大きく考えが異なる点だ。
「そうそう、お兄ちゃん。祈りの力って信じる?」
お茶の入ったカップを両手に、クレアは僕に尋ねた。僕はそれに首を傾げる。
「祈りの力の最終形が神聖魔術じゃないの?」
すなわちクレア達のような司祭の行使する神聖魔術とは『神』という偶像に対して蓄積された人々の『祈りの力』を借り受けて行使されるものであると、僕は学院で学んだ。
「うーん、そういうのじゃなくて。願望を祈りに託して、みたいな」
「なんとかになりたい、とかなんとかに成功しますように、とか?」
「そうそう、そういう祈り」
クレアは小さく頷く。
「昔から神学会と魔術師協会合同で研究されてるテーマだけどね、人の祈り――信じるってことには力があるの」
カップのお茶を一口飲んで、彼女は続ける。
「どういう原理が働いているかは複雑で分からないけどね。それは魔力ともちょっと違っていて、人の中に無限にあるものなんだって」
「信念みたいなものかなぁ。何が何でもやり遂げるって思いが強いだけ、それが通じたりする」
「うん。それは魔力とは違うでしょ? ではなにかっていうと、お兄ちゃんが今言ったみたいに信念としか言いようがないのよね。信念は突き詰めていくとその人それぞれの自我につながっていくの」
「信念が通じなかった時、心も折れるしなぁ」
「でしょ。だから、さ」
クレアは顔を上げて僕を見る。
「お兄ちゃんがアスカさんをそこまでして追いかける意味はよく分かんないけど、しっかり信念さえあればきっと叶うと思うよ。一念天に通ずってね」
どうやら励まされたみたいだ。
「ありがとう。てっきり光の神への入信を説得されるのかと思ったよ」
「あら、いつでも受け付けてるわよ?」
笑ってクレア。
「でもお兄ちゃんもさっき言ったけど、私の使うこの神聖魔術も祈りの力からきてるのよね。突き詰めて言えば神の力じゃなくて、神を信じる私達の祈りが集積して力となっている、そう私も考えてるわ」
言い換えれば、光の神の力などないと言っているようなものだが、司祭が言ってしまっていいのだろうか。もっとも魔術師協会の一般見解はクレアの言葉通りだ。
ふと、僕は思う。
「じゃあ、ある特定の人物を神に仕立て上げて信者を作れば、そいつは神になれるってことになるんじゃない?」
「そうね、それはありえないことでもないわ。それは人に限らない。物でもいいし、何か抽象的なものでもいいの」
確かにそうだ。商売の神や博打の神などもこの世界には存在しているが、それらはかつても、そしてこれからも実体のない偶像神である。
「でもそれは既存の神の力とは異なり、万能な力ではないわ。人の信仰心を失ってしまえばその力もまた消え失せる」
すなわちこうだ。信用を失ってしまえばそれには価値はなくなると。
「だからね、お兄ちゃん。人の祈りの力って残酷だと思わない? 祈りの量と力が強ければ強いほど、万能になる。反面、信じられなくなったら祈りの対象は全くの無能になる。唯一絶対のものなんてこの世にはないものなのね」
「まぁ、あれだな」
僕はお茶を飲み干して呟いた。
「一番強いのは、祈りの力にしても何にしても、勘違いせずに自分自身の力量を正確に把握して、ここ一番で勝負できる奴だね」
<Aska>
私とミーヤは大きな両開きの石の扉の前に到着した。
表面には巨大な二匹の蛇の紋章が彫り込まれており、そっとやちょっとでは動きそうもない。
ミーヤの話では合言葉で開くのだそうで、キーワードはすでに聞いている。
この向こうにスパイラルの教祖カーリはいる。
「準備は良い、ミーヤ」
「はいですニャ」
こくりと頷くファブルーの子。ここに到達するまでに、作戦は決めてあった。
教祖であるカーリの力は、信者であるスパイラルのメンバー達の魔術に対する信仰心から来ている。
信仰心の力は一つ一つは小さいが、集まると馬鹿にできない強力なものとなる。
また個人の力でない為、そっとやちょっとでは崩れない。
その力を無効にするには、信者の信仰心を喪失させることが一番だ。だがこれにはかなり無理がある。
一人一人を説得していく時間などありはしない。
だが、もう一つ方法があった。それは「ここ」だからできる方法。
人であるリャントが風の精霊界へその身で行け、風の精霊王へ至る道と直結していることが分かったからこそ私は知った。
この神殿は「風の特異点」に建てられている。だからこそできる手法だ。
すなわち。
「おさらいするわよ、ミーヤ」
「開けたら、とにかく僕がカーリさんとか、他にいればみんなを引きつけるのニャ」
「その間に私が『扉』を開く。特異点を塞いでいる封印をね。そうすれば風の解放の力が『ここ』から溢れてくるはず」
風が司る力の一つに「解放」の能力がある。その力を、なんでか知らないがここに施された封印を解除することで、この一帯のあらゆる力を解放する。
そうすればミーヤから聞いた、カーリの扱うとされる信者たちの信仰心からの教祖としての力は一瞬失われると予想されるのだ。
この間に決着を付けてしまえばいい。
「いくわよ」
「はいニャ」
私は両扉に手を触れて、キーワードを呟いた。
「普遍に流れる力を一つの意志の下に」
バタン!
扉は大きく開く、その向こうには。
「ネレイド!」
目の前の光景に私は思わず叫ぶ。
中は広い部屋。ミーヤの言う通り、向かいには巨大な扉があった。
そして辺りにはアルバートやイーグル達が横たわり、中心では千切れた翼を持つ中年の男がネレイドの首を片手で締め上げている。
男は傷を負っている。だが苦悶の表情を浮かべながらも、不気味に笑っていた。
「アスカ、逃げなさい」
片手で首を掲げられながら弱々しく叫ぶネレイド。私は作戦などすっかり忘れ、剣を抜いて男に切り掛かろうと駆けだした!
「駄目ニャ、お姉ちゃん。クラーケン!」
ミーヤの左手が床の石畳へ走る。手に握られた木炭で瞬時に描かれたのは簡略化した召喚陣。
そこに魔力の結晶体である魔晶石が三つ投げ入れられ、そいつは召喚された。
クオオオオオォォォ!
声なのかなんなのか分からない。
そんな轟音を立てて、体長十五リールはあろうかという巨大な「イカ」が現れた。
「な?!」
複数の翼をもつ中年の男はネレイドを投げ捨てて、迫りくる触手に業火の一撃をお見舞いする。
が、水棲の幻獣であるクラーケンには炎の攻撃は効果が低い。吸盤を数個焼いただけで、男は触手に絡めとられた。
ほのかに美味しそうな匂いがした。
「しまった、雷を放つべきだったかっ」
男の言葉は途中で途切れる。クラーケンの複数の触手に捉えられた彼は、そのまま一口で食われたのだ。
男を飲み込んだ大イカは、まるで何事もなかったかのようにその場で身をくねらせていた。
「お姉ちゃん、早く鍵を!」
叫ぶミーヤ。一方、剣を収めた私はクラーケンから感じる、次第に大きくなるその魔力に思わず後ずさった。
「な、何、この魔力は?」
苦しいほどの圧力に背中を押されるように、私は向かい側の壁にある巨大な両扉へと走る。
背後、クラーケンが一瞬大きく膨らんだかと思うと、内部から爆ぜた。
幻獣を形作っていた水が、私達の足下を濡らす。走りながらも私は後ろを振り返る。
崩れた大イカの残骸の中に翼を持つ男が立っていた。その全身から有り余る魔力を放出しこちらを見据えている。
目が、合った。
次の瞬間、男のその赤く輝く瞳に私は何かの重圧をその背に受けて、壁の扉まで吹き飛ばされて叩き付けられた!
思わぬ衝撃に気を失いそうになる。
「お姉ちゃん!? 行け、バジリスク!」
ミーヤの次なる呼びかけに応じて召喚された青い大蜥蜴は、素早い動きで男に飛びかかる。
『うっとうしい、消えろ」
翼の男は右の手のひらを襲いかかろうとするその怪物に向ける。
そこから生まれるのは大きな光の玉。呪語魔術により形成された、爆縮の力だ。
それが大蜥蜴に放たれたかと思うと、生まれたばかりの幻獣は粉々に吹き飛ばされた。
そしておまけと言わんばかりに、砕けた残弾がミーヤと、倒れ伏すアルバート達に降り注ぎ小規模な爆発を立て続けに起こした。
「まず…い、鍵を」
私は体を引き摺って鍵穴を捜す。
まるで壁に彫り込まれたとしか思えない、扉としての機能などあるとは思えない両開きの風の大扉。
それはまるでこの世と風の精霊界をつなぐ、門のようだ。
ふと私の壁に伸ばした右手の人差指が、親指ほどの大きさの凹みを捉える。
それは小さな鍵穴だ!
私は懐から『鍵』を取り出す。どこで手に入れたのか思い出せない、けれど大切な誰かからもらったことだけは覚えている、奇妙な魔力を持つアイテム。
「あれ?」
それは年季が入って古ぼけたキセルだったはずだ。
しかし今、私の手の中では金色に輝く黄金の鍵に姿を変えていた。
私はそれを右手に持ち替える。
「貴様、何を?」
気付いたのだろう、翼を持つ男はそう声をかけてくる。
男の視線は伸ばした私の右手に刺さる。
「ここで貴様が風の鍵を持っているのか?!」
彼は大蜥蜴を砕いた爆縮の光を再びその手に宿らせる。
男――すなわち彼が教祖カーリなのだろう。なぜ人間だったはずの彼が複数の翼を持つ異形に姿を変えているのか分からない。
分からないが。
「そうか、お前が闇の子か。させぬわ!」
そう叫ぶカーリ。
「これで終わりの始まりよっ!」
私の右手の鍵が、鍵穴に刺さった。
同時、カーリの攻撃魔術が私に襲い来る。私が爆ぜる音が耳に届く、その寸前。
カチリ
一瞬の無音の中で、鍵が音を立てて回った。
「しまっ…」
カーリの声の最後は聞こえない。
風の門は勢いよく開き、部屋の中にいる私達全員どころか、神殿の外にいる全ての皆を風の奔流の中にすっかり飲み込んだのだった。
ここは現実世界と精霊界との狭間。
蜃気楼のようにあるようでない、そんな曖昧な世界で「幽界」と呼ばれることのある世界だ。
私はそこで記憶を見ている。
誰の記憶なのだろうと疑問に思うが、まるで行先に立ちふさがるかのように目の前に立つ男を見て分かった。
これはスパイラルの教祖、カーリ・バンの記憶だ。
「随分前の記憶ね」
「ああ」
複数の翼を持った彼は懐かしそうな表情を浮かべて頷いた。
「これは私が信仰という力を信じるきっかけになった出会いだ」
彼の両手は血に濡れていた。
手に生み出した魔力剣で、初めて人を切ったのだ。
切られた相手、すなわち彼が敵と認定した兵士の男は足元ですでに事切れている。
そんな死体が十二あった。兵士達にはアークス皇国の紋章が付いており、この国の正規兵であると読み取れる。
「ああ」
彼は思わず呟く。なんてことをしてしまったのだろう。
人を殺しただけではなく、この国自体に喧嘩を売ってしまったようなものだ。
「あの…」
おずおずと、そんな声がかけられた。
ぼんやりと振り返れば、そこには一人の女がいた。若く、美しい彼女は神々しいまでに銀色の長い髪を持っていた。
彼が兵士達に戦いを挑んだ理由。
それが彼女だった。
彼女は返り血に濡れる彼の頬に手を伸ばす。思わず彼は身を引くが、思ったよりも強く彼女に右頬を摘ままれた。
「痛っ」
彼は我に返る。
彼は兵士の一人に頬を深く切られていた。この時の彼は戦いの興奮の為にこの時まで痛みを忘れていただけだ。
「ちょっと、じっとしていてください」
添えられた彼女の左手の熱が、彼の右頬に伝わる。
一瞬熱くなったかと思うと、次の瞬間には傷は完全に消えていた。
これは彼女の自身の備える治癒の『魔法』だ。そして彼は彼女の起こした奇跡を知っている。
彼女は傷を癒すだけでなく、病気や不治の病すらも癒すことのできる未知の力を持っていることを。
神や知識に頼ったこれまでの『術』ではない。彼女の自身の作り出す『法』による、この世のルールから逸脱した力だ。
それ故に、世の中から『白の魔女』と恐れられ、かつ敬われ、そして忌避されていることを。
「本当に神聖語や呪語などなしに治癒が使えるのですね」
彼は改めて感心して呟いた。
「たいしたことではありません。神聖魔術でもなんであれ、結果は同じでしょう?」
言って白の少女は彼の目を見て告げた。
「ありがとうございました。でも、ちょっと困ったことになってしまいましたね」
彼女の瞳に確かに感謝の念と、そして言葉通りに困惑の色が彼には見えた。
「どういうこと? あなたが十二人もの兵士を殺したの?」
「ああ、あの時の私はどうかしていた」
カーリは困ったように言った。
「当時アークスの北東部では流行り病が猛威を振るっていてな。彼女は旅をしながら救いの手を差し伸べていた」
彼は続ける。
「とある寒村で治癒を行っていることを私は聞きつけ、スパイラルの一員として彼女がどのような力を持っているのかを知りたくて足を運んだんだ」
言葉を紡ぐカーリの表情は柔らかい。
「確かに彼女の行う奇跡は素晴らしかった。だが同時に私は思ったよ、彼女こそが奇跡の存在なのだと。救われた人々の信仰を一身に受け、ますます力を強めていく彼女を見てね」
「で、不穏分子か何かの容疑がかかったか、偉い人の病気を治すためかで彼女はアークス正規兵に捕まった、と」
「そんなところだろう。それを聞く前に飛び出してしまったからな」
苦々しく彼は言う。
「武骨で鉄の匂いのするあいつらに、彼女の細い腕が掴まれた瞬間、怒りに我を忘れてしまった。お前たちが触れて良い存在ではないのだ、と」
「それって」
私は思う。目の前の翼を持つ異形の男をこれまで遠く感じていた存在だったが、手の届く存在であることを感じ、言った。
「いわゆる恋ってやつじゃないの?」
私の言葉にカーリの目が文字通り点になる。
だがやがて大きく彼は息を吐いて言った。
「なるほど、そういう認識の仕方もあった訳だ。いや、むしろそれであれば私の生き方も幾分マシになっていたかもしれないな」
「だが、聖女フィースとの短くとも幸せな時間はあったことは否めない。彼女にとっても幸せな時間はあったはずだよ。そうだろう、カーリ」
バリトンの効いた声が私の隣にかけられた。
「あなたは」
「初めまして、闇の子よ。リャント・フェムルと申します。門を開いてくれてありがとうございました」
文様のような刺青を顔にも描いた初老の壮漢。彼と風の王が対面していたイメージを先程ほど私は見たはずだ。
刺青の彼は私に小さく一礼すると、カーリに向きなおる。
「彼女はその慈悲により世を追われ、我々はそんな彼女に僅かな間ながらも安息の場所を提供しえた。それは間違いない事実だと思うぞ」
「そうだな。だが私は結局彼女に迷惑をかけてしまった。そこの闇の子の言う通り、それが恋だと気づかずに、彼女を聖女として信仰の対象としてしまった。彼女に完璧を求めてしまった」
「そしてその信仰の力を研究の対象とした我々にも責任はある。その間違いは20年前の当時、彼らによって正されたではないか」
リャントの言葉によって、彼の記憶が解放される。
私の目の前で、過去のリャントが行った戦いの光景が再現された。
彼の呼び出した幻獣がまた一匹、倒されて送還されていく。
相手は見た目は小娘に過ぎない年齢の少女だが、認識を改めた。
光の女神フィースを信奉する高位の神官である、と。それも「体育会系」だ。
年齢相応の細い腕に光り輝く豪腕をリンクさせ、さらに一匹の幻獣を叩き潰した。
「なるほど、あの方に仕えていただけの事はある」
リャントは後ろの祭壇、玉座に腰掛ける女性に軽く視線を移す。
彼女は表情を表すことなく、腰掛けたままこの状況を見守っている。
白の魔女と崇められ、一部畏怖される存在。
その姿は遥か昔から確認されていたが、こうしてこの教団に迎え入れるまでにどれだけの時を有したことだろう。
おそらく彼女こそ神の力の持ち主であり、神そのものである。
そのように教主のオレガノ・マークリーは判断したのだ。
そして悠久の時を生きる彼女に、こここそが彼女の居場所であることを切々と説いたのだ。
こうして『彼女』はここにいる。
「しかしどこで間違えたのか」
彼は新たな幻獣を一匹召還して迫り来る神官の少女に向ける。
教団は彼女という力を得て、なにかおかしな方向へ向かっていた。
これまで力とは何かを模索し、その根源を追及していく集団であったはずだった。
しかしいつの間にか力をどう使うかへと、方向がズレてしまっていた。
故に様々な団体との軋轢が生まれていく。
「有り余る力は、所詮我々には大きすぎるものだったのか」
違うな、と彼は思う。聖女たる彼女の力を利用しようとした、その発想が生まれた時点で全てが間違えたのだ。
幻獣を召還する速度と、送還される速度とでは後者が速くなってきていた。
次第に迫る神官の少女の猛攻を眺めつつ、彼はこの戦場全体を俯瞰する。
教団のシンボルたる『彼女』の御前であるこの場は、龍族の召還も視野に入れた大広間だ。
ここでは現在、相互に干渉しあった6つの戦場が繰り広げられている。
一つは教祖であるオレガノ・マークリーと、今回彼らを「討伐」するリーダーであるアラン・エリシアンの戦い。
オレガノは齢三十五の好漢だ。筋肉で覆われた立派な肢体には白銀の全身鎧が覆っている。
武器は得意の両手持ちの大斧。武器鎧共に彼らスパイラルが魔力の粋をもって補強した特別なものだ。
対するアランも同世代。体格もほぼ同じだが機動性を重視しているのだろう、鎧は胸当て辺りが金属の軽鎧だ。
武器は両手持ちの大剣。これは別名「獣殺し」と呼ばれる魔剣であると情報が入っている。
聞いた話では二人は過去に目的は異なれど同じ道を一時は歩んだ仲だと聞いている。
そんな二人の戦いは一振り毎にそれこそ旋風が巻き上がるもので、おいそれと近づけない真剣勝負のものだ。
その隣では寄り添うように二つの戦いが展開している。
オレガノの妻で教団での第二位であるエイシャ・マークリーと、犬頭の槍使いライブラ・クォン。
エイシャはあらゆる武器に通じ、そこに魔術の力を載せている。
対するライブラもまた主武器は槍だが、あらゆる武器を扱うことで傭兵の中では有名な女だ。
もちろん魔術も同時並行で扱うが、エイシャが魔術よりなのに対してライブラは武器寄りなのが大きく異なるところだろう。
この二人の戦いは手数が多く、大胆なオレガノ達の戦いとは正反対に下手に手を出でばどちらに有利に働くか分からない怖さがある。
もう一つはカーリ・バンとロイ・エンブルの戦いだ。カーリはオレガノの弟だが、体格はオレガノほど恵まれていない。
しかし魔術の腕は教団一であり、実質現在のスパイラルは彼の頭脳で成り立っていると言っていいだろう。
彼に襲い掛かるロイは盗賊ギルドから派遣された殺し屋で、カタールの使い手だ。情報は少ないが体術面では今回の敵対メンバーの中では一番高いのではないだろうか?
そこから少し離れたところ、そして『彼女』が座る玉座に一番近い所ではレナード・セザムとルース・アルナートの直剣同士の戦いが続いている。
レナードは『彼女』のつてで教団に招かれた客員である。魔術には疎いようだが、操気術という東方由来の変わった術を用いる。
ライブラと同じ犬頭を持つノール族であり、高い剣術を有している。
その彼と互角に打ち合うルースは二十代の若者だ。レナードとは旧知の仲のようだが、互いの技に遠慮は見られない。
彼はどうやら『彼女』に用があるようで、戦いながらレナードに必死に何かを訴えている。
表立っては見せないが『彼女』自身も、興味の大半は二人の戦いに向いているようだ。雰囲気でそう感じる。
そして最後。彼ことリャント・フェムルと神官の少女レナ・ベルナーズの、召喚術と纏神力術の応酬戦。
この戦いと重なるようにしてアランと同じ大剣の使い手アッティファート・ブラインと、同胞である黒翼の賢者クロースター・シークとの剣と魔術の戦いが続いている。
リャントは紋様師であり、体の各所に幻獣召還の刺青が彫られている。そこを通して自らの血を代償に彼らを現出させていく。
そんな彼をクロースターが援護しつつ、苦手であろう前線に出てアッティファートと直接打ち合う。
アッティファートは自らの身長ほどある大剣と戦場を踊る。
その強烈な斬檄をクロースターの細剣が受け止めることなく脇に流し、攻撃の隙を突いていく。
レナはそんな荒い攻撃のアッティファートを援護しつつ、纏った光の神の力で文字通りに幻獣を一体一体その拳で砕いていくのだ。
現在の戦況は一進一退だが、彼とレナとの間の均衡が徐々にレナ有利に傾きつつあり、それはアッティファートとクロースターとの戦いにも波及しつつある。
「んなっ?!」
彼の視界の隅にそれが目に入った。
レナードが剣を引いたのだ。ルースはそのまま『彼女』が腰かける祭壇へと駆け寄っていく。
「させるかっ!」
クロースターがそんなルースに振り返り、魔術を施行しようとする。それは愚手だ。
「もらった!」
隙を逃すアッティファートではない。クロースターの闇の矢を防いだ幅広の大剣の「面」を、そのままクロースターにぶつけていく。
首を変な方向に曲げて、声もなく倒れ伏す黒翼の賢者。
「ハアッ!」
同時、纏神力術で強化された右拳でレナが彼の最後の幻獣を打ちのめした。
彼は肩の力を落とす。彼の戦いはひとまずここで終わった。
視線をやれば、アッティファートもレナも祭壇上の『彼女』とルースとの様子に視線を向けている。
彼もまた二人の動向に目を向けた。
なにやら口論をしている。その様子は『彼女』を彼が知ってから初めて見る状況だ。
あまり感情を表に出さない、それも怒りや悲しみといった負の部分は滅多に見せることのない彼女が、ルースに対して怒っている。
なぜ怒っているのかは分からない。それを見つめるアッティファートはニヤニヤ笑っており、レナはおろおろしている。
そして。
「ほぅ」
彼は思わず感嘆の言葉を吐いた。
ルースが聖女である彼女を抱きしめ、その唇を奪ったのだ。途端、彼女は彼の胸に顔を埋めてしまう。
視線をアッティファートにやると、彼女もこちらに目を向けて笑顔で親指を立てていた。
レナの方は何故か怒りに燃えている。彼女は聖女である彼女がここに来る以前に彼女の侍女を名乗っていたようで、おそらくそれと関係しているのだと思う。
「やれやれ、だな」
呟いた彼は、同じようなセリフを呟いたのであろう、レナードと顔を合わせてお互いに苦笑いを浮かべたのだった。
オレガノの胸にアランの大剣が突き刺さり、心の臓を突き抜けて背中に貫通した。
同時、互いの全ての武器をぶつけ合わせたエイシャとライブラの戦いが終了する。
手の内をさらけあった二人だが、最後の最後でエイシャはライブラの持つ鋭い牙でその喉を噛み裂かれたのだ。
その隣、カーリは二人の身内の死よりも、その先で展開された結末に呆気にとられた。
彼の信奉する聖女が、名も知らぬ剣士に奪われたのだ。
彼女を見続けてきた彼だからこそ分かる。彼女の心が、あの剣士に奪われたことを。
「あ、れ?」
思わず声が漏れる。何かが、彼の中で喪失した。
信じていたモノがきれいさっぱり心の中から消えてしまった、そんな感覚。
今までの信じていたそれが、あまりにも大きかったために彼の中身はまるで空洞の様になってしまう。
どうして失ってしまったのだろう?
何も考えられなくなった頭に、その問いが生まれた。
失わないモノを信じればいいではないか。
答えがどこからか示された。
それはなんだ?
問うた。
信じることだ。
答えが来た。
何を?
問う。
お前自身をだ。お前がお前自身を信じ、皆を信じさせ、崇められればいいではないか。
「そうか」
カーリは一人、呟く。
「私が、教祖になればいい。このスパイラルを率いればいい」
ぶつぶつ呟く彼に、刃が迫る。
まだ彼は戦闘中だ。相手は暗殺者で名の知られたロイ・エンブル。
彼の秘儀中の秘儀である四方分身の術で、ロイは四方向から「実体を持って」カーリに止めの一撃を放つ。
ロイの両手には猛毒の塗られたカタールがある。かすれば相手を戦闘不能に陥れることができる。
勝った。
ロイは内心、笑みを浮かべる。
そしてそのままの気持ちを抱いたまま、ロイはこの世を去る。
カーリは頭を失った暗殺者の肉体を見下ろした。カーリの右手の人差指には淡く輝く指輪が一つ。
これはどうしたものだったか?
そう、黒の魔女と呼ばれるファレスの女に魔術補助用としてもらったものだったか。
指輪から彼に、強力な力が流れ込んで来るのを感じる。
それはまるで一つの意志を持った力のようだった。
そこまで考え、カーリは思考を切り替える。今現在、教祖であるオレガノと、その妻であるエイシャを失った。
だがスパイラルは、教団は健在だ。
彼は祭壇を見る。
そこには彼が信じた聖女と呼ばれる信仰の対象は、もういない。
「ではここにはもう用はない」
カーリは予め用意しておいた呪を1つ唱えると、この戦場から消え去ったのだった。
「こうして私は教祖になり、そしてスパイラルを変えて自らを信仰される対象となっていった」
告げるカーリを私は睨む。
「そうして得た力の末に、貴方は何を見たの?」
「そうだね、私は」
彼は自らの両手を見る。
「私は、彼女に憧れていただけだった。だから私自身が彼女の位置になれるはずがないのだ。なのに、なぜこのようなことになってしまったのだろうなぁ」
自嘲するカーリの姿が、歪む。
「いや、私は自らを信じられる力を欲したのだ」
頭を抱えるカーリの姿が、翼を持つ聖職者然とした男と再びダブり、そしてズレていく。
「私は彼女を、フィースを好きなだけだったんだなぁ」
そう泣き笑うカーリと、
「違う、信仰の力を基に、より巨大な力を求めるのだ!」
破れた翼を持つ中年男の叫びが重なる。
私は漠然と理解する。カーリの行いは確かにカーリの意志だ。
だが、それを後押しした存在が、こいつだと。
「アスカ殿」
隣でリャントが言い、私は頷いて腰の剣を抜き放つ。
僅かな冷気を孕む細身の剣。私はそれをおもむろにカーリへと放った。
魔力を帯びた氷の刀身はカーリを傷つけることなく、翼を持つ天使の左胸を貫いた。
パキン
乾いた音を立てて、カーリの右手の指輪が一つ、割れた。
翼を持つ中年の男の姿を持つ天使は乾いた目で私を見て、そして上を見上げる。
「ルシフェル、様」
傷ついた天使の視線の先は私の背後。
髪飾りに宿ったルシフェルだった。彼は目の前の天使を見つめている。
ただただ、その瞳には寂しさしかない。
「ああ、ルシフェル様。何故貴方は我々を裏切ったのですか」
天使の言葉に返事はない。
「貴方が裏切らなければ、リブラスルスのような輩に従うことなどなかったものを」
天使はただただ訴える。己の命はすでに尽きていることを承知で、ただただ無念を訴えている。
「何か言ってください、ルシフェル様。貴方を裏切ったこの私に、恨みの言葉を!」
「すまない」
悲痛な声でルシフェルは一言告げる。
その一言だけで。
「あぁ」
傷ついた天使はその表情に柔らかな笑みを浮かべ、そして滂沱した。
流れて塵行く涙と共に、天使の姿は風に散り消え行く。
「さようなら、ラファエル」
ルシフェルは髪飾りの中に戻りながらこう呟いた。
「我が友よ」
<Rune>
「はっ!」
僕は目を覚ました。いつの間にか寝汗をかいていた。そして全身凍りつくように寒い。
「どうした、ルーン。悪い夢でも見たか?」
焚き火に薪をくべながら、アレフは僕を眺める。
「鎮静剤でも出しましょうか? 良い薬があります」
こちらはラダー。相変わらずの細い目の笑顔は何故か安心を与えてくれる。
「いや、大丈夫。ちょっと妙な夢を見ただけだよ」
答え、僕は焚き火にあたる。全身小刻みに震えるのは寒さからだけではない。
「そうですか、でも丁度良かった。見張り交替の時間です。アーパスを起こしますね」
ラダーは微笑みながらそう言うと、僕の隣で寝息を立てる剣士の鼻を摘み、何処から出したのか水の入ったヤカンを出してその口に注いだ。
「ぶべっ、何しやがんだ、てめえ!」
水を吹き出してラダーに顔面パンチを食らわせるアーパス。そんな二人を見やりながら、溜め息をついてラダーと共に見張りをしていたアレフは床に就いた。
”どうしたの、ルーン? 心拍数が上がってるわ”
傍らに置いた剣からの思念に、僕は少し考えてから答えた。
”妙な夢を見たんだ。自分が自分じゃなく他人の目から回りを見ているような”
”無理して言葉にしなくて良いわよ。私達の会話は心の伝達なんだから”
目を閉じるとイリナーゼの微笑む姿が見える。それは僕のことなら何でも知っているような、いや、実際知り得ている可能性もある。
そして彼女の存在故に、弱くなってしまいそうな自分を捨てるように僕は目を開いた。
”もう大丈夫、ありがとう、心配してくれて”
「何ぼんやりしてんだ、ルーン?」
剣の塚で頭をこづかれ、僕はイリナーゼとの会話を打ち切る。焚き火の対する側で眠そうな顔のアーパスがいる。
「なぁ、アーパス。ここは何の建物なんだろう? 勝手に入り込んじゃってるけど、良いのかなぁ?」
僕は思い出したように回りを見回しながら尋ねた。
僕らの野宿している場所は街道からやや外れた古い神殿のような石造りの建物だった。
森の中に一件佇むそれは、まるでその存在を森によって完全に隠されたかのように人や魔物の手に触れられる事なくそこにあった。
「大丈夫だ。人の住んでいる形跡はないし、多分廃墟になってから数十年単位で人は踏み込んでいないはずだ」
彼は分析した。ふとアーパスの言葉が引っ掛かる。
何故『はずだ』を付けるのか? 彼はこの建物の存在を知っていたのか?
神殿を囲む木々や草々は完全に神殿と同化していた。そして神殿の中に納められていたと思われる書物などの類いは、固い表紙を残して完全に消滅している。
「ここは神殿みたいだしね。そのせいで聖域にもなってるから、魔物の類いは近寄れないみたいだよ」
古典的な特徴を持つ石造りの面影を残すこの建物には、微弱ではあるが聖なる気配が漂っていた。
「何の神殿だ?」
試すような微笑みを浮かべて彼は僕に尋ねる。
「さぁ? 壁のレリーフを見る限り、水と大地を讃えた神――土着の偶像神の神殿なんじゃないかな」
僕は自分の背にした壁を見上げながら答えた。
壁には枯れた大地に痩せた犬を連れた妊婦が、担いだ水瓶からラム酒を撒いているレリーフが一面に浮き彫りされている。
「ほぅ、結構博学だな、ルーンは。学院卒業は伊達じゃないってことか」
「まぁね、損する知識はなかったみたいだって、近頃思うようになってきたよ」
「じゃあ、そのルーン君に神殿の奥にある壁画を見てきて貰おう。それが何か、教えてくれないかな?」
炎を見つめ、薪を一本くべながらアーパスは言う。
「この奥に壁画があるの? どうして始めに言わなかったんだよ」
「この連中にそんなものに興味を示す奴がいると思うか?」
アーパスの率直な意見に僕は唸りながら深く頷いた。
「見てきな。お前ならそれが何か分かるはずだ。そしてお前自身を知るんだ」
いつにない神妙な面持ちの兄弟弟子に、僕は言いかけた言葉を飲み込む。
そして僕は焚き火からたいまつ代わりの木を束ねて一人、奥の部屋へ向かった。
古き美しい時代、神が一人の人を愛した。全てを愛すべき義務のある者が一人のみを愛してしまったのだ。
そして世界の均衡は崩れた。木々は枯れ、異形の魔物が跋扈し、人々は戦を求めるようになった。
神は愛する人の為に世界を元に戻すことに全てを捧げた。しかしすでに手遅れであり、世界の崩壊が迫っている。
崩壊を免れるには、神の命を以て、傾いてしまった均衡を元に戻すしか道はなかった。
神は彼が愛する人に約束し、旅立った。必ずまた会うと。
強き意志を持った命は永遠なる混沌の中ですら消えず、果たしてその神は永き道程の末に人となり、想い人に再会することができたのだった。
これは古き、そしてまだ生きとし生けるものが神を尊敬していた頃の物語―――
かつては鮮やかであったのだろう、しかし今はくすんだ色で壁一面に描かれたレリーフは水の神にまつわる神話の一つだった。
神を捨てた者――すなわち水の神アクアリーンの話については知らない者は多い。
僕は学院で教わったから知っているが、水の神の信者がこの世に少ないことも起因しているのだろう。
漁師の一部が明日の大漁を願うくらいのものだ。
しかし水の神の教えは学院では広域に渡っている。
特に生命に関しては、この神話で述べられている『強い魂は波を乗り越えいつかの時代、何等かの生命として転生する』といったものや、生命量一定の法則と呼ばれる生命の水理論が魔術でいう召喚やゴーレム生成などで学ぶべき領域でお目にかかる。
これを僕に見せて、アーパスは何を期待しているのだろうか?
強い意志を持った命はやがて復活する――僕が死ぬかも知れないとでも言いたいのか?
いや、それ以前に彼女は何者なのだろう?
レナード師の下で剣術を学ぶことを一緒に志願した人魚族の女――しかしそれ以前の彼女は?
レナード師に僕を近づけまいともしていた。
それに今回の水の祠に関しても行動がおかしい。あからさまに場所を知っていると思われるが、むしろ水の祠に僕を近づけまいとしているように見える。
にも関わらず僕と供に旅をする。まるで僕の行動を邪魔しているかのようだ。
視点を変えてみる。今の僕の旅の目的はアスカを探し出すこと。
アーパスにとって、僕がアスカを探し出すことは何らかのマイナスとなるのか?
もしかしてアスカをさらった魔人の側にいるのか?
「いや、違うな」
思わず声に出る。僕が邪魔なら、あの魔人があっさりと僕の命など奪えるだろう。
では何か?
アーパスは防ごうとしている。僕がアスカを探す工程の先に得る結果を。
”全て貴方の末路、そして誕生すら何かによって仕組まれたものだとしたら。第三者の為に貴方を取り巻く全てが仕組まれたものだとしたら?”
腰に提げたイリナーゼが僕の心の陽炎を言葉と化す。
「そんな馬鹿な、僕のどこにそんな価値があるんだ? 僕はただのどこにでもいる人間じゃないか」
僕の声が小さく聖堂に木霊する。
”本当は他の人と違うと思っているくせに。自分は他と違う、自分だけの何かがあるって、貴方は思っていたりしない?”
「そんなこと、考えたこともない」
”嘘。私は貴方の心の影、貴方の事を良く知っているわ”
「君に僕のことがどれだけ分かっているって言うんだ」
”一番良く貴方を理解しているのは他ならぬ貴方。だから貴方は人に優しくなれる。自分を知らない者は他人を知ろうともしないから”
「僕は、僕は。風景に取り込まれたくないと思っている。いつでも人にルーン・アルナートとして見てもらいたいと思っている」
そうしないと、自分でも自分がどこにいるのか分からなくなってしまうから。
「その為に他の人にはない何かを持ちたい、そう思った。だから捜して、そして今でも捜している」
”でも見つからない。見つからないばかりか、見つけられようとしているのかもしれない”
なんらかを防ごうとしているアーパス、なんだかんだと旅についてくるラダー、惜しみない助力をくれるクレア、どうも読めないアレフ、僕に懐く振りをする魔族のイリナーゼ。
「疑おうと思えばいくらでも疑える。でもそんなの、大抵妄想に過ぎないじゃないか」
”そうなのかしら? 他の人にはないものが貴方にはあり、そしてそれは貴方の為にではなく、第三者の為にあるものだったとしたら?”
イリナーゼは問い続ける。
”貴方はどうするの? そのまま見えない誰かの為にその力を解き放つの? 定められた運命を歩むの?”
「運命なんて言葉は嫌いだ。僕の進む道は僕自身で決める。アスカの居場所を知る為に水の祠へ向かうのは僕の意志だ」
”本当かしら? それは建て前で貴方は他の人にはない力を第三者によって引き出してもらいたいだけ。一番楽な道ですもの”
イリナーゼの言葉だが、それは実は僕の心の底にある言葉だと気付く。
”その果てにアスカに会える。それは確かに約束されたことだから。だから貴方は逃げているのではなくて? 自分の行動で失敗するのが怖くて逃げているのでは?”
「逃げてなんかいない、逃げてなんか。僕は真実を知りたいんだ。いったい僕達に何が起きようとしているのか、望んだ果てになにが起きるのかを。だから僕は僕自身の意思で行動を決めるし、これからもずっとそうだ」
”真実は人の数だけ存在するわよ”
「だからこそ知りたい。真実は一つだけではないんだから」
”そう。ならルーン、貴方は自分の真実を捜しなさい。その経緯がどうであろうと、貴方が後悔のしない道を進みなさい。無数にある結果にやがてはその一つを選ばざるを得ない、だから貴方は貴方の正しいと思う方へと向かいなさい”
「そのつもりだよ、イリナーゼ。ありがとう、ふっきりがついた」
脳裏のイリナーゼはそれに微笑み、やがて消えて行く。
そして僕は仲間達のいる広間へと足を戻した。
僕は物思いに耽りながら元の広間に戻る。
「アーパス?」
皆が寝そべる真ん中に焚いた火をじっと見つめているアーパスの横顔に遠く違うものが見えた。
妙に女性びいて見える――いや実際に女なんだけど。
「どうした? ルーン」
こちらに振り返るアーパス。すでに先程の雰囲気はすっかり消し飛び、いつもの鋭さがその目に宿っている。
「え? いや、何でもないよ。それよりレリーフの内容は僕が学院にいたときに習ってたよ」
向かいに座りながら僕は額を軽く叩いて言った。
「そうか、ならお前はそれを信じるか?」
「宗教の勧誘みたいだね、それ」
「俺は水の精霊が主体の精霊魔術を使ってるが生憎、神なんてものは信じていないんでね。それはそうと、どうなんだ?」
いつになく真剣な面持ちのアーパスに戸惑いながらも、僕は答える。
「まぁ、実際ありえる話だと思うよ。これで復活した悪の魔導師の話なんて山ほどあるから」
言って思い出す。
ドラマなどで「必ず蘇って見せるぞ」と言いながら死んでいく悪の魔術師を「終わった」などと言いながら朝日を見つめて抱き合う主人公とヒロインの話は良く耳にするところである。
ところが彼らは本当に蘇っているのだ。だからこそ、ああいった悪の魔術師は世に尽きないのであるという学説すらある。
有名なものには南のササーン王国で『妖神』とまで恐れられた邪悪なる魔術師イルハイム・プラットなどが挙げられるだろう。
「強い魂は終点である死すらも乗り越える。ルーン、お前はそんな強い魂になれ」
「何だよ、突然。何かあったのか?」
どうもアーパスの言いたいことが分からない。僕は薪を火にくべながら尋ねる。
「俺はお前に死んで欲しくはない」
先程のいつものアーパスでない雰囲気で言った。
「アスカとやらにに会えばお前は死ぬことになる。それでもお前はそいつを追うのか?」
有無を言わさぬ口調で問うアーパス。しかしそれに関しては僕の答えは前と変わらない。
「ああ。その決心がついたのはついさっきだけどね。もっとも死ぬ気はないけど」
「分かった、それについてはもう何も言わない。ただ一つ、覚えておいてくれ」
アーパスはまっすぐと僕を見て、言った。
「お前が死の恐怖から逃げ出したって誰も文句は言わない、いや、言わせないってことを」
「アーパス?」
その時の寂しげなアーパスの表情はこれ以前そして以後に見ることはなかった。
「さて、もうそろそろ交替の時間だな。起きな、クレオソート!」
アーパスはそう言いながらクレアを起こすと、そのまま毛布を頭から被ってしまう。
「おはよ、お兄ちゃん。どうしたの、ボケっとして」
「どちらかと言うとクレアの方がぼうっとしてると思うぞ、僕は」
眠気まなこをこする妹分を眺めながら、僕はアーパスの言葉を心の中で反芻していた。
”アーパスは何かを知っている。でもその何かにどんな意図があろうとも”
「僕は僕の判断で決める。それだけは変わらないよ」
微かな寝息を立て始めたアーパスに小さく僕は呟く。
「何かあったの? お兄ちゃん」
おぼつかない手付きでお茶を煎れるクレアに僕は軽く首を横に振った。
「しばらく付き合うよ、クレア。だから僕にもお茶を一杯くれないか?」
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