第六章 大海原の幼い覇王

<Rune>
 『神の怒りよ、速き光よ。偉大なる我が神の名に於いて招来せよ!』
 力ある言葉に応じて神の力が具現化される。
 黄色の法衣を纏った少女のその叫びに、幾筋のもの天上からの電光が敵集団のリーダー格を中心として地面に突き刺さる。
 それよってある者は直撃して痙攣しながら気を失い、また者は直撃を避けるものの帯電した空気によりやはり同様に痙攣してその場に崩れ落ちる。
 一気に敵勢力が3分の1になったところに、それは叩き込まれた。
 「出直して来な、光波斬!」
 金色の髪の青年がおもむろに手にした剣を振りかぶると2リール程の輝く半月状の光が、慌てふためく男達に襲い掛かった。
 「やりすぎだ、さっさと逃げるぞ!」
 爆音と野党と思しき男たちの悲鳴を背に、僕はやる気に満ちた二人の襟首を掴んで、残る2人を伴ってその場から離脱したのだった。


 照りつける暑い日差し。
 青い空は天上を隈なく渡り、足元の白い砂浜とのコントラストが目に眩しい。
 改めて大地は丸かったと実感できるほどの広い海が右手に果てしなく広がっている。
 ここは常夏の地として名高いアークス南西岸の観光地サマート。
 踏みしめる足下の砂浜に、靴が砂に埋もれ、厚めの底から熱が伝わってくる。
 辺りには今の時期、アークス内地では味わえない日光と海の冷たさを楽しむ観光客が目立っていた。
 「眩しいですねぇ」
 日差しだろうか、はたまたちらほらと見える水着姿の女性客にか、元々細い目をさらに細めながらラダーが言った。
 手にしている銀色の長い筒が日の光を反射して、どう逃げても僕の目に入ってくる。さすがに故意ではないかと思わざるを得ない。
 「こう暑いと海にも入りたくなるよなぁ。例年なら今はようやくストーブを片付ける時期なのに」
 僕は故郷のエルシルドを思い出し、そしてソロン達を思い浮かべる。今頃どうしているだろうか?
 「あれ、アレフがいない」
 不意に気が付いて振り向くと、金髪の色男が消えていた。
 「アレフさんなら、ほら、ナンパに勤しんでいますよ」
 ラダーの言葉に海岸へと目をやる。
 「おねぇさん、お茶しない?」
 「お呼びじゃないわ」
 「俺と一緒に熱い夜を…」
 「ばっかじゃない!」
 「おお、貴方こそ私めの捜し求めていた…」
 「俺の女に何か用か?」
 筋骨隆々の男にぶん殴られるところで視線を外した。
 「バカだわ、恥ずかしい」
 呆れたクレアの声。とことんフラレているのに次々と声をかけている彼は不屈の魂の持ち主なのだろう。
 「アレは放っておいて宿を捜しに行こう。昨日から歩き通しで疲れたよ」
 本当に疲れているのか疑いたくなる汗一つ掻いていないアーパスは僕の腕を引っ張った。
 昨日の昼までの工程は、冬が終わり春が挨拶を始めていた気候だった。肌寒さを感じたほどだったが、一つ山を越えたところで気候がガラリと変わったのだ。
 この一帯は西の鷹公国であり大半の領土をこの様な熱帯気候として有している。
 そしてここサマートは鷹公国首都ラワールより南へ50キリール程行った所にある漁村兼リゾート地だ。
 ここから南方へ30キリールほど行けば、水の祠の手がかりがあると目測をつけているアークス皇国最大の港町ミエールがある。
 進めばさらに暑くなっていくだろう。
 「せっかくのリゾート地なんだから、豪勢な宿にしましょうよ」
 「それはいいな」
 クレオソートの言葉に相槌を打つアーパス。
 「豪勢、ねぇ。最近はあまり治安が良さそうじゃないし、どうなのかな」
 僕は一刻ほど前を思い出す。
 東から西への登山路を降りたその途端、野盗に襲われたのだ。
 すぐ目の前に海岸線は見えるが、そこは陸路。だが彼らは海賊と名乗っていた。
 久々の荒事に心をときめかせたクレオソートとアーパスが暴れて、何とか彼らを煙に巻いたのは記憶に新しい。 
 「陸地に海賊が出るくらいだしな。街中も気を付けていこう」
 僕はアレフを除いた皆に言い、見え始めたサマートの町に向けた足を速めた。


 「ここでいいかな」
 僕たちは宿屋の一件に入る。
 平屋のこの宿は南国独自の作りで壁は土を押し固めて粘土で形を整えた、暑さと湿気に適した作りをしている。
 「いらっしゃいませ。何名様で?」
 曲がった腰を叩きながら日焼けしたおばあさんが奥から現れる。
 「5人で。2部屋に分けたいのですが」
 「うーん、この時期は混雑していて大部屋しか空いていないよ。他も同じだと思うけど、どうするかい?」
 そんな答えが返ってくる。
 「ま、いいんじゃない?」
 クレオソートのあっさりとした答えに、僕はおばあさんに頷いた。
 「ごゆっくり」
 大部屋を案内してくれたおばあさんはそう言うと、もと来た通路を戻って行った。
 「取り合えず落ち着いたな」
 ツタを編んで組まれたベットに腰かけながら、僕は胸鎧を外す。外と違い、部屋の中はひんやりして心地よい。
 この宿も他に良く見られる宿と同じく、大食堂が酒場と兼用となったものだ。
 ここに入る前にも何軒か寄ってみたのだが、どこの客層もあまりガラは良くない。
 女衆の主張する「豪勢な」宿はというと、この時期は観光客のせいで部屋が不足している状況だった。
 なおガラが良くないというのはこの町の場合、海賊のような連中が酒を飲み、大地が揺れないことを謳歌しているようなことを言う。
 「ゆっくり一杯いきたいところですね」
 ラダーが細い目をさらに細めて言う。暑苦しい白いローブ姿ではなく、半袖単パンのラフなスタイルに着替えていた。涼しげだ。
 手にはやはり銀色の筒を持っている。
 「涼しそうな恰好だね、ラダー」
 「ええ、先程買って来たんですよ。ルーンも着ますか?」
 言って同じものをもう一セットどこからともなく手に出す。
 「いや、僕はこの格好でいいよ」
 僕は答え、視線をアーパスに向ける。
 「ところでアーパス。久しぶりに訊くが、水の祠はこの辺りにあったりしないのか?」
 僕の何度目かの言葉に、アーパスは溜息一つ。
 「まずは喉、乾かないか?」
 すぐには答える気はないようだ。


 ズズッーーと言う音が響く。ちりんちりんと、ガラスを弾く高めの音色が耳に心地よい。
 風によって音を奏でる風鈴と呼ばれるものらしい。そのが涼しげで暑さを忘れさせてくれる。
 「これがサマートの名物ですか、美味しいですね」
 糸のように細い麺を出し汁につけて食すものを僕たちは大皿を囲んですすっている。
 そうめんと呼ばれるものだ。しばらく僕ら4人の立てるズズッーという啜る音だけが大食堂に鳴る。
 サマートの遥か沖合いに人魚達の住む海底都市があり、そこで海の神の神殿として水の祠は祭られている。
 この情報はもったいぶったアーパスがたった今明かしたものだが、宿のおばあさんも食堂のお姉ちゃんも知っていた。
 サマートでは有名な話であり、すぐにばれると思ったのだろう。
 「しかしどうやって行くつもりだ? ルーン」
 アーパスが問うてくる。
 「海底だよね、潜って行くっていうのはどうだろう?」
 「いつだったかのアーパスの水の中で呼吸ができる精霊魔術ね」
 クレオソートが思い出したように言った。
 「いや、水圧がすごいぞ。息ができても体がもたないだろう」
 「アーパスは行ったことあるんだろう? どうやって行ったんだ?」
 「……いや、ないからな」
 ないのかよ、なんか嘘っぽいが。
 するとクレオソートが思いついたようにこう言う。
 「人魚になる薬ってないの? おとぎ話であるじゃない、ほら」
 「そんなもの、あるわけないだろ」
 笑って否定するアーパスに、
 「人魚になれる薬くらい、簡単に作れますよ」
 意外な答えは意外なところから来た。ラダーはそうめんを啜ってさらりと言った。
 「何て言った?」
 アーパスは鋭い視線でラダーを見つめる。が、彼はそれを見ているのか見ていないのか、再びのんびりとした口調で答えた。
 「人魚薬ですね? 材料が一つ足りませんが、それがあればすぐに調合できますよ」
 「「材料?」」
 僕とクレアの声がハモる。
 「ええ、大海蛇の鱗が…そう、5人分ですから5枚ですね」
 大海蛇。海に住むウツボの怪物で、成獣は全長数十リールに及びその牙には猛毒を持つ危険極まりない怪物だ。
 しかし性格は一般的に臆病で、必要がなければ人を襲ったりしない。数もたいして多くなく、沖合いの岩礁を寝倉としていることが多い。
 生活圏が漁師と対立することもないので、水揚げされることもほとんどない。
 「大海蛇の鱗か。売ってる物でもないし、簡単に手に入るものでもないなぁ」
 「他に手はないんじゃない?」
 クレアはもっともな意見を出す。
 「でも私は蛇って苦手だからパスね」
 確かにこの娘は蛇が苦手だ。原因は僕にあるのだが、これはずっと昔の談。
 「しかし今は蛇よりも厄介な奴らに囲まれたようだな」
 僕は腰の魔剣イリナーゼの柄に手をやった。僕達のテーブルを中心に、潮臭い男共およそ12、3名が囲んでいる。
 荒れくれ者といった風貌の彼らはどう見ても堅気の連中ではない。おそらく先程の海賊の仲間かなにか。
 「さっきはよくもやってくれたなぁ」
 そのうちの一人が言う。大当たりだ。
 彼らの包囲の輪が次第に縮まる。僕達がそれぞれの得物を手に席を立とうとした、その時だ。
 「待ちな、おまえら。町での喧嘩は御法度だぜ」
 カウンターからの鋭い声に全員の動きが止まった。
 腰まである黒く長い髪を一つに縛り、右目を黒い眼帯で覆ったいかにも海賊の女親分といった感じの、二十代前半の女性だ。
 腰には二本の細身の剣を吊している。
 「ふん、誰かと思えばクローのじいさんトコの嬢ちゃんじゃねえか」
 最初に僕らに声をかけた男が吐き捨てるように言う。
 「テメエらの時代は終わったんだよ。おい、コイツもやっちまいな!」
 その隣、リーダーらしきスキンヘッドの男が腰の曲刀を抜いて振りかざす。
 それに従い、他の海賊達も次々と躊躇いなく剣を抜いた。
 ガッ!
 次の瞬間、スキンヘッドの男の顔面に、隻眼の女性の目にも止まらぬ飛び蹴りが決まっていた。
 間髪置かずに繰り出されるアッパーが男を吹き飛ばす。
 「「おお!」」
 華麗な連続技に、僕達から思わず溜め息と拍手が挙がった。
 髪を掻きあげ余裕の表情を見せる女性。
 が、倒れていたと思っていたスキンヘッドの男は素早く起き上がり、油断していた女性を後ろから羽交い締めにする。
 「クッ、甘かったか」
 「いや、効いたぜぇ。だが打撃が軽いんだよ。このまま締め上げてやる!」
 男の筋肉が盛り上がる。途端、女性の顔に苦痛の表情が走る。
 「アーパス、クレア!」
 僕の合図と供に二人は動いた。しかし残りの海賊達が前に立ちはだかる。
 「人のこと心配している暇があんのか?」
 曲刀を構える海賊達。
 しかし背後から次々と呻き声が上がり、糸の切れた人形のように海賊たちは倒れていく。
 「何事だよ、これは」
 「アレフ!」
 クレアがそう声を挙げる。その時には僕らの前の海賊たちの最後の一人が口を半開きの状態にしたまま、彼の手刀で倒れ伏した。
 その間にも、僕とアーパスが3人づつの海賊を気絶させている。
 残るは女性を締め上げるスキンヘッドの男と、その両隣に一人づつ。
 「打撃が軽いだとぉぉ!!」
 「ぬ?!」
 苦悶の表情を浮かべながら、隻眼の女性がスキンヘッドの大男の羽交い絞めを腕力のみで内側からこじ開けていく。
 「ふん!」
 「なんだとっ」
 羽交い絞めを解くと同時、彼女の跳ね上がるような強烈な頭突きが男のあごに決まった。
 脳震盪を起こしたのか、スキンヘッドの大男はそのまま崩れ落ちる。
 「うわ、マジかよ」
 「ヤベェ」
 残る二人の海賊は互いに視線を交わし、そして隻眼の女に視線を移す。
 同時、逃げ出した。仲間を置いて逃げるとは。
 「ふぅ」
 その後姿を見届け、膝をつく隻眼の女性。
 「クッ、やられたぜ」
 女性は苦しそうに呟く。おそらくアバラが数本折れている思われる。
 「すみません、巻き込んでしまって」
 そんな彼女に駆け寄り、治癒魔術を行うクレアの呪文を聞きながら僕は女性に謝る。
 しかし隻眼の女性は首を横に振った。
 「あんな奴等をのさばらしておく私が悪いのさ。お嬢ちゃん、ありがとよ。もう大丈夫だ」
 クレアの治癒を途中で中断させて、立ち上がる女性。
 しかしそのまま胸を押さえ、僕に倒れかかる。
 「無理しないで。私の治癒魔法は折れた骨を完全に戻せはしないのよ。少し休んで」
 「いや、2人が逃げた今そうもいかん。すまないが私を送って行って貰えないだろうか? なに、すぐ近くだ」
 荒い息をする彼女に僕は頷き、肩を貸した。


 今思うとなんでこうなったのだろう?
 右にはいかつい顔の青年。左には荒くれ者というレッテルしか貼れない中年のオヤジ。
 そして正面には頬に大きな切り傷痕のある、貫禄のある老人。老人だが筋肉量は僕の何倍あることか・
 他にも僕らを二重三重に同じような男たちが囲んでいる。
 彼らに共通するのは堅気ではないこと、ただその一点だ。
 戦闘とは異なる、異様な怖さがこの場を支配している。
 円形のテーブルを囲むように用意された椅子に腰かけた僕とクレアは、俗に言う言う「恐い人達」に囲まれていた。
 傍目からも、彼らはかなりの猛者であることは確かだ。先程の海賊よりもその荒くれ度は上だろうと思う。
 僕とクレアの二人で、隻眼の女性を送っていったところ、この間に通されたのだ。
 「うーん、どうしたもんかね、これは」
 送っていった先は港に停泊する一隻のガレー船。なお他のメンバーは気絶した海賊や荒れた食堂の片づけをさせられている。
 「ねぇ、お兄ちゃん。一体この人達って何?」
 小声で囁くクレア。
 「何って、海賊じゃないのかなぁ、この格好と状況だと」
 「こんなことなら後片付けに残れば良かった」
 「そんなこと言わずに」
 そんなやり取りをただジッと見つめる男達。しかし暑くないのだろうか?
 「おい」
 左の中年男がドスのきいた声を発した。
 「お嬢に怪我させたのは一体どこのやつらだ?」
 ドンと机におもいきり手を突いて詰め寄ってくる。その額は汗でびっしりだった、やはり暑いのは間違いない。
 「知ってるんだろ、え?」
 と、こちらは右側の若い男。そうクレアに詰め寄る。
 ドン!
 「?!」
 若い男の鼻先に短刀が飛び、壁に付き刺さった。男がのけぞる。
 「待たせたな。それとテメエら、客人の話し相手をしろと言っといたのに何やってんだ? ああ?」
 一つしかない扉が開き、その向こうには隻眼の女性が立っている。隣には、僕の正面に腰かける老人よりもさらに威厳を備えた老人が一人。
 こちらも体格がかなり良く、白い髭を顔一面に生やしている。
 「ほら、とっとと出てった」
 海賊達を顎で扱う女性。それに従いしぶしぶ彼らは出て行った。
 部屋には僕とクレア、そして女性と老人の四人が残り、急激に温度が下がった気がした。
 「ん?」
 クレアが壁に刺さった短刀を抜いて首を捻っていた。
 「どうした? 神官殿」
 「え? いいえ、何でも」
 隻眼の女性に問われたクレアは短刀を懐にしまい、席についた。
 はて、あの短刀はこの女性の投げたものではなかったのか?
 「実はお前達に頼みたいことがあってな。私があの酒場にいたのはお前達を待っていてのことだ」
 席に着きながら、隻眼の女性は言った。
 「頼みたいこと?」
 僕は首を傾げる。目の前の彼女は初対面だし、僕には海賊の知り合いなどいない。
 「ああ。お前達がゲインの一派、と言っても分からないか。サマートに入る前に海賊の一派をうまいこと退散させただろう?」
 サマートの来る途中のあの事を言っているらしい。陸地のことだが、やっぱり海賊なのか、アレは。
 「確かに。あれがあんたの仲間だったとか?」
 尋ねる言葉に軽く笑う女性。
 「違うよ。あんなゴロツキ海賊なんぞ本来は私等が潰すべきなんだ、まぁ、陸に上がればそれはただの野盗だし、海賊ですらないなんだがな」
 足をテーブルに投げ出して彼女は怒りを抑えたようにして答えた。
 それにクレアが小さく首を傾げる。
 「私等っていうことは、海賊に派閥でもあるのかな?」
 「そうだ。かつてこの海域一帯はクロー一派という由緒正しき海賊が支配していた」
 そして隻眼の彼女は胸を張る。
 「私はミース・クロー。かつてはこの海域を総べていたクロー[世の孫さ」
 告げる彼女の言葉に僕の息が詰まった。
 初代海賊クローと鷹公王子との魔王『青』の討伐伝、さらに四代目クロー[世とアークス前国王との魔龍成敗は絵本になるほどのあまりにも有名な話である。
 その詳しい内容はまた別の機会にということで。
 だがいつの頃からだろう、おそらくはそのクロー[世が現役を退いた頃から、このアークス西海域での治安は悪化した。
 私掠船が横行し、海にまつわる魔物が出現する。現在では鷹公国の海軍と各派閥の海賊との争いが絶えることがない。
 西海域の治安悪化は海運業に悪影響をもたらし、経済の遅滞を促す。
 昨今では鷹公国だけでなく、アークス皇国としての国全体の問題として取り上げられているのだ。
 「しかし今となっては私らは、お前達が潰したゴロツキ集団と戦力的には大して変わらない。情けないことさ」
 自虐的な笑みを浮かべ、海賊ミースは続けた。
 「後を継がなきゃならない私にしても、その残党如きにも先程のような有様だ」
 「それで僕らに頼みたいことというのは?」
 僕の問いに彼女は隣の老人に視線を向け、話を促す。
 老人はいかつい顔とは別に柔らかい笑みを受けべてこう言った。
 「我々の頼みとはしばらくの間、貴方方に我々の戦力となってくれないかということです。報酬はしっかりお支払します」
 「しばらくの間とは?」
 問う僕。
 「ちょっと、お兄ちゃん。やる気なの?」
 「話は最後まで聞いてみないとね」
 引き受けるとは言っていない。老人は頷き、答える。
 「少なくともこのサマートの漁民が安心して仕事ができるくらいの間です」
 考える僕をクレアが非難の目で見つめていた。そんなことをしている暇はない、そう言いたいのだろう。
 しかしこれはこれでいい案なのではないだろうか?
 「僕達は大海蛇を捜している」
 僕の言葉にミースと、そして老人の表情におや?というものが浮かんだ。
 「訳あって鱗を何枚か手に入れなくてはいけない。それに協力してくれるのなら仕事を受けよう」
 僕はそう返事をする。
 彼女たち海賊は、海を渡る者達だ。大海蛇の居場所も当然知っているだろう。それも歴史あるクロー一派なのだから。
 「大海蛇の鱗か。人魚薬でも作るつもりか?」
 ミースの言葉に僕らは驚く。さらに、
 「水の祠に用があるのならば私の知り合いの人魚に案内させるが、それでどうだ?」
 彼女の予想外の言葉に僕達の動きが止まった。
 「決まりですな」
 言って笑う老人は席を立ったのだった。

<Camera>
 静寂と夜の冷気が支配する大理石造りの廊下。
 天井まで4〜5リールはあろうかという大きな通路は、ザイル帝国首都イスファンに建つ王城シンクロトロンの一角に過ぎない。
 その凍り付いた空間を、黒く塗られた全身鎧の重さをまるで苦にする事なく一人の騎士が歩いている。
 不意にその前方の空間の歪みに気付き、足を止めた。
 歪みから白い足が、そして白い翼、目許のみを隠した黒い仮面の顔が順次現れる。
 「何か私に御用か? 黒き魔女殿」
 音なく現れた有翼の女に、黒き騎士は尋ねる。
 その声は周りの静寂と調和した、言うなれば静かな声だった。
 「不用心ですね、ガルダ。この時期に護衛を一人も付けていないとは」
 黒き魔女レイナの言葉に、黒騎士の兜の隙間から覗く口許が軽く微笑みに歪む。
 「貴方に心配されるとは、私も株が上がったものだ。嬉しいよ」
 「私は貴方に期待していますから」
 「ほぅ、それは個人的に、だろうか?」
 兜を取りながら、ガルダは魔女に問うた。
 下から現れたのは黒い髪と黒い瞳、白い肌のディアルとニールラントの混血である。
 「個人的にと解釈していただくと嬉しいですわ、『陛下』」
 レイナは言い、何かをガルダに向かって放り投げる。それを騎士は鉄甲をした右手で受け取る。
 それは小さな襟章であった。三本の錫杖を加えた鷲を形どったもの。
 将軍を表したものである。そしてそれは赤く薄汚れていた。
 ザイル帝国においての将軍という位は、最高位である四人いる軍師に各々二人づつ直属し、合計八人いる。
 「グラッセ将軍の襟章か。牙の失った狼を狩るとはな」
 グラッセ将軍は王子であるガルダとは異なる陣営に属し、なにかと彼とは衝突する部分があった男だった。
 ガルダとしてはしかし、あからさまに敵対の意向を示してくる相手は嫌いではない。
 彼が嫌悪するのは笑顔で右手を差し出して、後ろに隠した左手でナイフを握っているような相手であるからだ。
 レイナはむしろ、隠した手にナイフどころか毒を塗っているようなタイプであることを彼は十分に承知している。
 「だが、そのような人間が今は必要な時だ」
 パキッ
 黒騎士が手に力を入れると襟章は砕け散り、石畳の上に散らばった。
 ガルダは兜を片手にレイナの横を通り過ぎる。
 一人その場に残った黒き魔女はそれに振り返る事なく、現れた時と同様にその姿を虚空へと消した。


 人々の生活のざわめきが聞こえてくる。
 昼の日差しの入る今の時期にしては暖かな部屋に男は一人、空間に2×1リール程の黒く厚さのない板を浮かべていた。
 まるで小さな宇宙へと繋がっているような、そんな二次元のスクリーンである。
 そこにはザイル帝国で使用されている文字が次々と流れて行く。まるで川の流れのようだ。やがてその文字列は不意に終了し、スクリーンには一列の文字が表示される。
 『ACCESS OK! ササーン王国 TO アルマ運輸 ON 岩塩 OF 100トラッシュ』
 「ふぅ、これで何とかなるかな」
 スクリーンを眺めていたディアル民族――金色の髪と白い肌を持ったザイル帝国の主要な民族――の青年は呟いた。
 やや貧弱な印象を与える体つきに、長めの髪を後ろで縛った十代後半の青年だ。
 彼は小さな控室でスクリーンを前に溜め息を一つ吐く。彼の両手の前には、光の格子でできたキーボードが一つ浮いている。
 軽くキーボードの端を押すと黒いスクリーンはキーボードもろとも音もなく消え去った。
 彼の行っていたのは『魔導ネット』と呼ばれるものだ。
 アークス皇国を起点に魔術の発達した現在、各国に張り巡らされた通信網により物の売り買いを始め、教育や会話などを行う事ができるまでになっている。
 魔術を用いているが、使用者はそれに関する魔術を知る必要はなく、簡単な通信契約とスクリーン、そしてキーボードを購入することにより誰でも参加できるという手軽さが利点だ。
 つい数年前までは一部のマニアにしか用いられていなかった機能であったが、アークス皇国によるネットの拡大という後援と商人達の参加、すなわち物の相場を素早く知るという欲求とが重なり、今では一般的なものになっている。
 この商人達の運動は主にアンハルト公国から始まった。またこの魔導ネットには名目上、国境というものが存在しないので人々の自由な交易が保証されていることも爆発的に広まった一つの起因と言って良いだろう。
 この名目上というのは、魔導ネットを使っての商売には商人協会からの許可書が必要なのである。
 もっともこれは魔導ネットでなくとも商人として商売をする上では必要なものではあるが。
 「さて、行くか」
 青年は机と書類しかない殺風景な部屋の、一つしかない扉に手を掛けて押す。
 「にゃ!」
 「おっと、大丈夫か?」
 扉が不意に開いて、向かい側から開けようとした者がしたたか扉に額を打ち付けたようだ。
 薄く黒い色のかかった眼鏡をかけた同世代らしき女性が額を押さえてうずくまる。
 彼女は目に涙を浮かべながら青年を見上げた。
 「痛い。オラクル、ひどいわ」
 恨み節を伴った彼女に見つめられ青年は肩の力を落として彼女の目線に合わせてしゃがんだ。
 「すまん、ハルモニア。だから泣くな」
 彼に頭を撫でられ、女性は眼鏡をしたまま目頭を押さえると微笑んで頷いた。
 「どうだったの? 塩の買い付けは」
 雑踏に消え去りそうな鈴の鳴るような声でハルモニアは尋ねる。
 それに対し、オラクルは彼女を促して歩きながら答えた。
 「ああ、ササーン方面からうまく取り寄せたよ」
 その言葉に女性から溜め息が漏れる。
 「で、そっちの方はどうだったんだ? 搬入に手違いがあったようだが」
 「書類上の不備だったわ。よくあるミスね」
 二人は人々が忙しなく行き来する往来を歩きながら情報を交わす。
 ここはザイル帝国首都イスファンに建つ王城シンクロトロンの物資搬入門だ。
 そして周囲には搬入に来る商人、人足相手の物売りから出店、宿屋までが立ち並んでいる。
 このシンクロトロン城はアークスのそれのおよそ五倍以上の大きさを誇っている。
 そこにはアークスの白亜の城と謳われるような優美さはなく、それとは正反対である質実剛健さを湛えている。
 帝国首都イスファン自体が巨大な城塞都市だが、その中心にある王城シンクロトロンはさらに内部にある城塞都市といった趣だ。
 事実、城内にはそれに相当する兵士や何より多くの王族達が暮らしている。
 現在、国王には一人の正妻と八人の側室がいる。さらに暗殺などですでに二度、正妻は変わっており消えた側室も数多い。
 が、これは現在の王に始まったことではなく建国以来同じことが続いている。
 また、現在の国王に生きている兄弟は数人しかいなかった。現時点での王位継承者たる資格を持つ者は全部で二十三名。
 しかし暗殺などが横行していなければ三十名以上いただろう。
 ザイル帝国の王族は代替わりするごとに壮絶な後継者争いを行うことで知られており、それは血の粛清と呼ばれている。
 「強い者が支配する」という国是に照らし合わせてもこれは避けられない自体であることを国民は皆理解しており、奴隷制度がこの国に関しては未だ残っていることは、この風土のためであろう。
 「そうか、現王は余命幾ばくか」
 何処からかリンゴを手にしたオラクルはそれを齧ってハルモニアに応じた。
 「ええ、だから私達も気をつけないと」
 彼女は建物の間を吹き抜ける風で舞った栗色の髪を軽く撫で付け、オラクルからもう一つのリンゴを貰いながら深刻な顔で頷く。
 青年の名はオラクル・フラント。王位継承権第十八位である、現王の従兄弟の二番目の息子だ。
 今年で十九歳の彼はシンクロトロン城への食料や日用品の搬入の職務に就いている。
 一方の女性の方はハルモニア・シーレ。王位継承権第十二位を持つ現王の側室の娘の一人である。彼女もまたオラクルと同様搬入の職務に就いていた。
 ただ彼女がオラクルと違う所は第二王位継承権を持つロアーの婚約者である点であろう。王家の一族は彼ら二人のように供に行動することはほとんどない。
 何故なら何時何処からやってくるか分からない暗殺は同じ兄弟からのものであるからだ。
 今、後継者候補として挙げられるのは第一王子ブラッド、第二王子ロアー、第五王子ガルダに、まだ七歳と幼い第八王位継承権を持つエルーン王女の4名であるともっぱらの噂だった。すでに水面下での争いは始まっているだろう。
 一方でオラクルやハルモニアのように王位継承権から遠く離れ、名声もなく国民にあまり知られていない王族は暗殺の対象からは外されているはずだった。
 しかし彼らも自らの命の危機を感じる時が訪れようとしている。
 具体的な世代交替の到来である。
 新しい施政者が必要ないと判断すれば、オラクルやハルモニアはこの城から放り出されるだけマシだ。
 禍根を絶つために殺される可能性も高い。
 「気をつけようもないだろう」
 リンゴを食べ終わり、彼は続けて難しい顔をする。
 「しっかしアンハルト公国が経済圧力をかけてきているって言うのに、上の方はそれに気付いているのかも分からんな。武器を振り回すだけが戦争じゃないのにな」
 オラクルは肩の力を抜いて乾いた笑いを浮かべる。
 「まぁ、どんくさい僕がこの閉鎖された城の中で襲われたら、それまでさ」
 門の袂まで来た彼ら二人は次々と門をくぐり抜けて行く物資を眺める。
 「私は嫌よ」
 食べていないリンゴを握りしめ、ハルモニアは呟くようにして言った。
 「君は大丈夫だろう? ロアーがこの後継者争いで死ぬような奴とは思えないし」
 彼の言葉にハルモニアはムッとした表情を浮かべる。
 「私が言っているのはそう言うことじゃないの。オラクルが死ぬところなんて見たくないってこと」
 俯くハルモニアを見ない振りをして、オラクルは陽気に答えた。
 「俺だって死ぬつもりはないさ、こうして城の食料と日用品の搬出を牛耳っているのは俺の利用価値を認めさせる手なんだが」
 青年は苦笑いしながら頭を軽く掻く。ザイル帝国は強さ――言いかえれば武力を重視する。故にオラクルのような頭脳系――商人や学者はこの国では余り認められていないのだ。
 だからこそ、このような考え方が残り文化的には全体的に秀でていない。
 「前々から一つ聞きたかったんだが、どうして君はこの仕事をしているんだい? 君の立場なら奥で楽に暮らせるだろうに」
 リンゴの芯を投げ捨てて尋ねるオラクルにハルモニアは顔を上げ、微笑んでこう答えた。
 「分からないの?」
 彼女は不意に駆け出し、搬入の馬車の荷に飛び乗る。
 彼の問いに彼女の答えはない。彼女は小さく微笑むだけだ。
 「さぁ、仕事に戻りましょう」
 叫ぶ彼女にオラクルもまた、荷馬車を追いかけて駆け出した。
 この夜、ザイル帝国国王であるザーツハルトV世が逝く。享年65歳であった。


 多くの者が殺し、殺された。
 だが虐殺ではない。
 王族が、要人が、その家族が、血族が、そして関連する使用人達が殺されたりした。
 それはしかし、この国の人々にとってはある程度予想していた展開である。
 むしろそこに取り入ろうとしていた者達には大きな益か、大きな損失が生まれた。
 血の粛清。
 ザイル帝国国王の後継者を決める争いである。
 王城シンクロトロンの奥。
 高位の王位継承権を持つ者の居住区では血の匂いに満ちていた。
 「ロアー、約束が違…」
 這いつくばって血塗れの手を伸ばすのは第3王位継承権を持つハインリヒ王子だ。
 それを見下ろすのは無手の王子。第2王位継承権を所持するロアー王子である。
 共に21歳の2人は異母弟で、生まれはロアーは僅かに1か月早いだけであった。
 虫の息のハインリヒを見下ろすロアーの後ろには、黒装束の男達が数十人控えている。
 「約束など破ってなんぼだ」
 痩せぎすなロアーは屈強な肉体を持つハインリヒに冷たく告げてハインリヒの部屋を退出する。
 軽く指を鳴らすと、それが合図であったのだろう、黒装束の男たちから数人が飛び出てハインリヒに止めを刺した。
 「進捗はどうだ?」
 誰ともなく問うロアーに、黒装束の男の一人が答える。
 「事前の予定の7割は達成しております」
 それにロアーは小さく舌を打つ。
 「禍根は残すな、必ず絶て。ブラッドの兄貴の留守は俺が務めねばならん」
 ブラッドとは第一王位継承権を持つザーツハルトV世の長兄だ。
 現在、ザイル帝国南部で発生した反乱鎮圧に出向いており、この血の粛清に直接の参加はしていない。
 だが彼の息はすでに帝国全土にあまなく広がっている。
 「心得ております」
 黒装束の男の返答にロアーは頷く。
 ブラッド王子はロアー王子とは仲が悪いこととなっているが実は表面上だけのことだ。
 二人とも異母弟であり、性格上も能力的にも共通点がまるでない。
 ブラッドは主に武闘派であり、むしろハインリヒ王子の方が性格的には近いものがあった。
 その武力によってカリスマ性もあり、現在将軍の地位を確固たるものにしていることからも高い能力が伺える。
 一方でロアーは策略家であり、野心を密かに熟成させてじわじわと目的を実行していくタイプだ。
 そんな2人は互いの長所と短所、そして己のそれを理解しており、それを踏まえて手を組んでいる。
 彼らの到達悲願は、ブラッドが国を表から、ロアーが裏から支配することだ。
 「ん?」
 ロアーの足が止まる。
 「ロアー王子」
 そう声をかけられた。
 「君は、ハルモニア姫か」
 帝国南東部に地盤がある血族で、先方の親との利害一致の為に許嫁となった娘。
 彼自身は正直なところ、政権を取ってしまえばいつでも撤回してしまえると考えていた、その相手だ。
 城内は暗い。
 さらに月が薄雲に隠れてしまい、彼女の姿は彼からは良く見えない。
 「なぜです?」
 彼女は問う。
 「なぜ、オラクルに刺客を放ったのです?」
 ロアーは彼女の言葉をしばし考えた。
 オラクル、という単語が何を示すものか彼にはすぐには思いつかなかったのだ。
 「あぁ、君の同僚の。彼は継承権十八位だったからな」
 禍根は残さない。ましてや地方への地盤も、際立った武力も野心すらもないような男だったと記憶する。
 「何度もお手紙で彼を殺さないよう、お願いしたはずです」
 ハルモニアからの手紙は知っている。だが読んでいなかっただけだ。
 「いつ邪魔になるか分からないものは、予め排除する。それが私のやり方だ」
 立ち塞がる格好のハルモニアの背後から、風が吹く。
 同時、薄雲が動いたらしく、月光が彼と彼女を照らした。
 ロアーの鼻に新しい血の匂いが掠る。それに彼は僅かな不自然を感じた。
 「私の手紙を読まれていなかった、そういうことですね」
 目の前に立つ彼女は赤いドレスに身を包んでいる。
 厚ぼったい眼鏡の彼女は、ロアーから見てどこにでもいる女の一人でしかない。
 だからだろう。
 「面倒だな」
 ロアーは呟く。すでに彼女の親を通して南東部ゴウセル地方への地盤は確立した。
 目の前の彼女は、ただの女に過ぎない。
 ロアーは軽く指を鳴らす。その行為に彼の背後の殺し屋たちは戸惑う。
 「やれ」
 小さく、冷たく言い放った主人の言葉に、黒装束達から数人が飛び出てハルモニアに殺到した。
 悲鳴一つなく血飛沫が舞い散る。
 暗殺者達の血だ。
 「なんだ、これは?」
 ロアーは目の前で成された事実を理解できなかった。
 しかし先程感じた不自然に気づく。そうだ、風は彼女の方から流れてきていた。
 彼の背後で死んだハインリヒの死臭ではない。
 なのに血の臭いがするのは、彼女にその匂いが染みついているからではないのか?
 「面倒ね」
 呟くようなハルモニアの言葉が放たれる。
 状況を理解する前に、彼の視界が上下反転する。
 彼女の血で赤く染まったドレスが、ロアー王子の瞳に映った最期の光景だった。


 目線の鋭い中年太りの騎士は、矢継ぎ早に指示を配下に下していく。
 彼の宛がわれた暗殺対象者は夜明け前の現段階で8割方完遂されている。
 だが彼の主は満足しないだろう。主である王位第五継承権を持つガルダ王子は常に完璧を求めるからだ。
 国王を失くして半日。すでに表立っての争いに突入している。
 彼の陣営にとって最大規模の闘争相手に異変が起こったことを彼が知ったのは、配下の一人の報告だった。
 「ロアー王子一派の動きが読めなくなったと?」
 ロアー陣営には彼の腹心を忍び込ませている。特にロアーとともに動くであろう、実行部隊にだ。
 そこから常にロアー陣営の動きを把握していたのだが、情報が途絶えて一刻が過ぎていた。
 「何があった?」
 中年騎士は王城シンクロトロンの奥へを配下の者達を数名つけて乗り込んでいく。
 普段であればロアー陣営の圧力で入ることのできない区画も、完全にスルーの状態だ。
 逆にそれが彼の警戒を誘った。
 「どういうことでしょう、グラハ様」
 「分からん。ブラッド王子と袂を別ったか?」
 やがて彼らはそこに至った。
 グラハと呼ばれた騎士はその惨状に胃液が喉元までこみあげてくる。
 隣ではすでに彼の配下が数人、吐いていた。
 「どういうことだ、これは」
 グラハは呆然と呟く。
 これまでどのような凄惨な地獄のような戦場でも踏破してきた彼をしても、目の前の惨状には肝が冷えた。
 そこはまるで子供が赤いペンキを撒き散らかしたかのような状態だった。
 グラハの足元にはロアー王子と思われる頭部が無造作に転がっている。
 他、ロアーの手足となって働いていた殺し屋達だったものも、どれがどれだか分からない状態になって散乱している。
 これはまるで、人を雑巾のように絞ってねじり切ったような、一方的な殺戮の跡だ。
 死体の中にはグラハに密通していた者の姿もある。
 「どんな殺し方だ、これは」
 分からないが、これによってグラハにとり最大の壁であった勢力が消え去ったことになる。
 しかし彼は喜べない。
 ロアーが相対した敵は決して、グラハにとっての味方ではないからだ。
 何者か、どの勢力かは分からないが、決して敵に回すことはできないと、彼はこの時心の底から思ってしまった。


 その夜、オラクルは寝つきが悪かった。
 彼の住まいは王城の外、その外壁沿いにあるアパルトメント2階の一室だ。
 妙に外では野良犬が吠えているし、向かいの通りから良く聞こえてくるはずの酔いどれの罵声が聞こえない。
 王城を中心に妙な殺気を感じていた。
 「あー、もう!」
 丑三つ時、彼は起き上がりざまに魔導ネットを起動する。
 各国のニュースや話題をかいつまみながら、ポットに注いでおいた水を飲む。
 その中で不意に生まれた速報をクリック。
 「ぶっ!」
 彼は水を吹きだした。速報にはこうある。
 ザイル帝国国王・ザーツハルトV世死去、と。
 「とうとう来たか」
 呟く間にも、国王死去に伴うスレッドが次々と立っていく。
 話題の中に王位継承権を持つ王族を探せ!や、一人いくらくらいの謝礼がつくか、なんてものもあってオラクルは思わずスレッド群を一気に閉じた。
 「こりゃ、かなりやばいかな?」
 呟きつつ、彼はメールボックスを開く。
 メールの中の一つ、最近魔導ネットで友人となったユキネと名乗る人物からのメールを改めて展開。
 メールの文面は明確簡潔。
 『身の危険を感じたら使って。きっと守ってくれるよ』
 オラクルはメールの添付ファイルをダブルクリックで起動する。
 黒いスクリーンには瞬時にワイヤーフレームで形成された鳥のようなものが描かれて、
 『アプリケーションプログラムQooを起動しました』
 「へ?」
 二次元のスクリーンから、一匹の黒鳥がポン、と音を立てて飛び出してきた。
 それは白と黒の色を持つ、体長80セリール程度のずんぐりむっくりとした鳥のようなもの。
 「え、えええ?!?!」
 オラクルは思わず声を挙げる。当然だ、魔導ネットには物質を現出させる機能などないからだ。
 驚くべきことに、その鳥は次の行動を起こした。
 ガチャリ
 音を立てて唐突に開いた扉。そこから帯剣した傭兵計三人が問答無用で襲い掛かってきたのだ。
 対し、白黒の鳥はノーモーションで頭から三人に突っ込んでいく。
 「ごふ」
 「ぐへ」
 「どへ」
 恐ろしく堅い頭なのだろうか、白黒の鳥は高速で無慈悲な軌道を飛び回ってあっという間に傭兵達を片付けた。
 「助かった、のか?」
 『オイ、おらくる氏』
 いつの間に来たのか、オラクルの足元に白黒の鳥が立って言葉を放った。
 『サッサト逃ゲロ。やべェゾ、オレサマノ索敵ニヨルト周リガ敵ダラケダゼ』
 鳥の言葉の途中から、オラクルは数少ない荷物をカバンに詰め込んでいた。
 「荷馬車は…あったな、あれで逃げよう。アンハルト公国向けの荷物を詰め込んだばっかりだし、丁度いい」
 スクリーンとキーボードを消してオラクルは部屋を駆け出した。
 いつの間にか白黒の鳥が消えていたことに、彼は気が付かなかった。


 集荷と荷積みを行った荷馬車を一時保管するセンターがあるのは、彼の3時方向にあるアパルトメントから外壁沿いに時計周りに進んで5時方向だった。
 「あった」
 荷馬車の列の中に彼の所有する荷馬達を見つける。そこに彼はカバンを放り込んだ。
 「お早いですね、オラクルさん」
 管理センターの室長が眠い目をこすりながら出てくる。
 ザイル帝国の玄関口にも相当するここは基本、眠らずに営業している。
 「ああ、急ぎなんだ。納期に間に合わない、僕のを出してくれ」
 「相変わらずお忙しいですな。分かりましたよ」
 荷馬車の用意を任せ、オラクルは6時方向に目をやった。
 ここからは見えないが、その先にはハルモニアが住んでいる同じようなアパルトメントがあるはずだ。
 「いや、あいつは大丈夫」
 第二王子であるロアーの許嫁なのだ。末端である彼とは立場が違う。
 そもそも連れ出したらそれは略奪とかそういうものではないのか?
 でも。
 オラクルは首を横に振る。彼には猶予は残されていない。
 先程も誰の依頼か分からないが、己の命を取りに来た傭兵に襲われたばかりだ。さっさとこの地を離れなくては。
 彼はしかし、どうしてもハルモニアが寝ているであろう方向へ目を向けてしまう。
 彼女との出会いは5年ほど前の王城内での王族同士の会合だ。
 器量は良いが、ただそれだけの娘。それがハルモニアの周りからの評価だった。
 そんな彼女は土地の権利と権力の関係で、かなり前からロアーとの婚約は決定されていた。
 そのこともあったのだろうか、会った当初は無気力な娘だった。
 一方でオラクルは年若い頃から兵站の一端を担っており、人手が何時でも必要な状態が続いていた。
 嫁入り前の娘に少し社会を知ってもらう、そんな意味でハルモニアはオラクルに預けられたのだった。
 元々要領のいいハルモニアはオラクルの良き相方として仕事を務め、今ではオラクルが立ち上げたアルマ運輸の副社長の任にも就いている。
 だが政変の発生した今、それ以前の立場など無に等しいとオラクルは実感する。
 そう、無に等しいのだ。
 「くそっ!」
 オラクルは6時方向に向かって駆けだした。
 ロアーの許嫁という立場ですら、無に等しいのだと知ったのだ。


 「ハルモニア!」
 彼は部屋の扉を蹴り開ける。
 「え?」
 絶句する。
 そこは生活感のない部屋だった。
 机とベットが1つづつ。ただそれだけがある部屋だ。
 そして部屋の主はいない。
 「ここには住んではいなかったのか?」
 そんなことはないはずだ。何度か部屋まで送り届けたことがある。
 「オラクル?」
 「?!」
 急に名を呼ばれ、オラクルは身構えながら背後に振り返る。
 そこには真っ赤なドレスを纏ったハルモニアの姿があった。
 いや、違う。
 全身、血に塗れた姿だったのだ。
 「ハルモニア、どうしたんだ、その恰好は」
 「あの、私…」
 「まぁ、それは後だ」
 「え?」
 「決めろ、ハルモニア」
 オラクルは呆気にとられるハルモニアに告げる。
 「僕かロアーか、どちらを選ぶのか?」
 「オ、オラクル? それってどういう」
 不意に鐘が鳴る。
 朝を告げる鐘の音だ。同時に街が目覚め出す、時間がない。
 「もういい、行くぞ!」
 彼は彼女の手を握って走り出す。
 そんなオラクルにハルモニアは拒むことはなかった。


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