深夜。
 闇に慣れた者は月の明りですら眩しいと思うが、一般の人間であればどんなに月が明るかろうが夜は闇の世界である。
 闇に紛れて幾つかの影が動き、そして蝋燭の炎のように人の命をいとも容易く奪っていく。
 ガートルートの砦。
 その一室で彼女は眠りに就いていた。
 不意にその銀色の瞳が見開かれる。
 「何があったのか?」
 ベットから起き上がり、銀色の長い髪を手で纏めながらその女性――ローティスは部屋の隅の闇に問うた。
 それに応じて闇の中から返事が返ってくる。
 「ハッ、かなりの数の刺客が襲撃中です。ですが我々でどうにか撃退はできそうです」
 「どこの手の者だ?」
 「現段階ではまだ分かっておりません。しかしかなりの手練れも含まれておりますようで、何人かはすでに我々の警戒網を越えてしまいました」
 くぐもってはいるが、若い女性の声だ。
 身を起こした彼女、ローティスはテーブルの上に置かれてある小剣を手にする。
 「貴女も戦線に加わりなさい。ちょっと厄介なことになるかと思うわ」
 「お嬢様はどちらに?」
 「私は奴らのターゲットの所に走る」
 ローティスは告げ、足早に部屋を出る。同時、彼女の周囲にいた女の気配も消えた。


 殺気が生まれる。それもギラギラとしたそれではなく、まとわり付くような陰湿な気だ。
 相手を探るような殺気は暗殺者によく見られるものである。
 その中心にいる青年――実直さと活力をそのまま形にしたようなニールラントの男は、寝台の枕元に立てかけている愛用の大剣を手繰り寄せる。
 同時に天井が抜け、四人の刺客が彼を襲い、降ってきた!
 青年はその身を床に投げ出す。
 四人の刺客の持つ黒身の剣が彼が今までいたベットにそれぞれ突き刺さった。
 「何もんだ,お前等!」
 大剣を抜き放つ青年。
 無言のままに刺客の一人が切り掛かる。
 ギイッ
 金属音を発して黒身の剣を受け止める青年。
 そしてそのまま切り返し、刺客の胴をなぐ。
 が、普段ならば決まるその軌跡はしかし、部屋という閉鎖された空間では大剣を振うには狭すぎた。
 大剣は近くのテーブルを破壊し、刺客には届かない。
 「ちっ」
 青年は舌打ち。
 状況を判断し、優勢であることを知った刺客達は四人という絶妙なコンビネーションで剣を繰り出してくる。
 「やばいじゃねぇか」
 辛うじて剣撃を弾く青年。
 しかしそれも長くは続きそうにない。
 「ブレイド!」
 その時だ。
 一つしかない扉が開き、現れた女性が何かを投げつける。
 それは刺客の一人の頭に炸裂、ぶつけられた刺客はたたらを踏む。
 「ありがとうよ」
 刺客達に生まれた隙を見て、青年――ブレイドは投げられた小剣を拾い、刺客の一人の懐に入る。
 「まず一人」
 刺客の首筋を切り裂くブレイド。
 切り裂かれた刺客は声を上げることすらなく血飛沫を撒き散らして絶命する。
 それに構わず、残りの刺客達はブレイドに一斉に切り掛かった。
 だが小回りの効く小剣を手にしたブレイドはその全てを弾き返し、1人の刺客の左胸に剣を深く突き立てた。
 そのままの体勢で刺客を盾にするように、もう一人の刺客に体当たりをかます。
 「落ちな」
 二人の刺客を窓まで押し、勢いに任せて突き破り、落とす。
 「あと一人!」
 いつの間にか刺客の黒身の剣を手にしたブレイドは、残る一人に向かって素早く切り掛かる。
 「…」
 それを残る1人の刺客はかわして後退。進入路である寝台の天井の穴に向かって駆ける。
 「待ちやがれ!」
 追うブレイドに刺客は懐から複数の何かを投げ放った。
 月の明かりにも反射しないそれもまた、黒身の短針だ。
 「フン!」
 三本叩き落とすブレイド、しかし。
 「うっ」
 背後に生まれた呻き声に足を止める。
 「ローティス?!」
 振り返るブレイド。その隙に刺客の姿は消えた。
 「しくじったわ」
 左肩に刺さった短針を抜いて、その黒い身を調べるローティス。
 彼女の纏う白い寝着は徐々に赤く染まり、その表情は早くも青白くなっている。
 「何の毒だ?」
 自らの袖を破り、彼女の左肩をきつく締めるブレイド。
 「ちょっと分からないわ。手投げ剣の毒だから高価な毒薬は使わないでしょうけど。体に力が入らなくなってきたわね」
 震える手から短針を落とし、ブレイドにもたれ掛かるローティス。
 「神官を呼んでくる。あいつらなら大抵の毒は解毒できるしな」
 立ち上がるブレイドに彼女は首を振る。
 「大丈夫、もうすでに呼んであるわ。もっともこんな状況を想定してではなかったけどね」
 苦笑する彼女は力なく呟き、ブレイドの袖をぎゅっと握った。
 「それより今はここにいて」
 ローティスは言って大きく溜息。
 「ああ」
 彼女を抱き抱えるような形でブレイドはその場に座る。
 しばらく――ほんのしばらくだが静かな時間が流れる。それは2人には妙に長く感じられた。
 「ほんと、笑っちゃうわね」
 沈黙に耐えられなくなったようにローティスの震えた声がそれを破る。
 「この私が死を怖がっているの。今までどんな戦場でだってこんな事は感じたことはなかったのに。自分の死なんて全然怖くなかったのにね」
 毒のせいか、彼女の言う恐怖のせいか、小さく震えるローティスをブレイドは無言で強く抱きしめた。
 「…」
 薄い寝着越しにローティスの心音が伝わってくる。それが少しづつ早くなっていくと同時に震えがなくなっていくのを感じた。
 「大丈夫、君は助かる」
 耳元で囁く。
 「うん」
 意識が遠くなりながらも彼女が小さく頷く。
 同時に慌ただしい神官と衛兵達の足音が近づいてきた。


 「フラッツの仕業よ」
 翌日、ローティスは会議の後、ブレイドの自室でそう告げた。
 「おいおい、さっきの会議では不明だって言っていたじゃないか」
 「確たる証拠を持ってから正式に公言するところなのよ、会議って場所は」
 「つまり勘か?」
 ソファーにもたれながらブレイドは尋ねる。
 「そういう訳ではないわ、それなりに根拠はあるんだけどね。今、確定させるために調べさせてるわ」
 髪と同じ銀色の瞳に光を宿し、彼女は言った。
 結局、短針に塗られていた毒は強力な麻痺薬だった。
 ただ象ですらその一掠りで倒れてしまうという代物なので、量が多いと死んでしまうのは確かだが。
 「フラッツか。現龍公の後見人だろ? どうしてそんな奴が俺を狙うんだよ」
 「東の熊公国の現状を知っているでしょう?」
 対側のソファーに身を下ろしながらローティスは尋ねる。
 「ああ、この間謀反を起こして央国と虎公国に潰された東の公国だろ、それが?」
 「つまり公国と言えども潰されるのよ。今までは央国と公国の立場は条約上、同じだったの。その暗黙の了解を無視して潰した。すなわち他の公国にとってもそれがあり得ると言える」
 「いやいや、やたらと潰せるわけじゃないだろ? 亀裂が走るだけじゃないか。東のそれは仕方ないにして無闇に公国を潰したりはできないだろう?」
 「さぁ、どうかしら? 王族にもウルバーンのような野心家もいたし」
 「ふむ。でもどうして俺を狙う?」
 ローティスの論と今彼らがぶつかっている問題とはリンクしているとは思えない。
 「貴方、エッジ・ステイノバの息子でしょう?」
 しかし呆れたように尋ねるローティス。それにブレイドは頷いた。
 「エッジ・ステイノバはわずか3年だけだけど、龍公の地位にいたじゃないの。何より彼は前龍公の母方の兄だし。彼の息子である貴方は現在の龍公にとって…」
 「だけどなぁ、俺にその気はないしさ」
 言葉を遮るブレイド。
 それは無論ローティスには分かっている。が、世間はそうは見ない。
 「関係ないわね。何より貴方はこの戦いでガートルートを解放した。勇者ステイノバの再来として、現在僅か4歳の幼い新龍公よりも貴方を支持する声の方が強いのよ」
 「じゃあ、何だ? フラッツってやつは俺が龍公にでもなるつもりでいるとでも思っているのか?」
 「向こうはおそらく、ね」
 「馬鹿馬鹿しい。そんな訳の分からん血縁で命を狙われるなんて頭にくるな」
 「まぁね。とりあえずそっちの方は私が何とかして尻尾を捕まえるわよ」
 「頼む。しかしお前、毒は大丈夫なのか? 昨日は死にそうだったのに、今朝から動き回っているが?」
 心配気に尋ねるブレイド。
 「解毒されたからもう平気よ。それに」
 言葉を切らす軍師。
 「それに何だ?」
 不思議そうに尋ねるブレイドにローティスは彼女には珍しく優しげに微笑んだ。
 「久々に私を怒らせた件だからね。必ず相手を破滅に追い込んであげるわ」
 言って彼女は立ち上がり、部屋を出て行く。
 その後姿を見送って、ブレイドは一人こう呟いた。
 「怖ぇなぁ。表情と言ってることが逆じゃねぇかよ」
 一つ小さく震えてから、後々のことを考えてデスクワークをさぼるのをやめて改めて机に向かったのだった。


 龍公国首都アンカム。
 央国首都アークスより南に七十キリールばかり行ったところにある、全体的に優雅で華やかな造りの都市である。
 ガートルートの城塞都市とは対照的であるこの都市では、その印象にはそぐわない戦士や傭兵、そして必要以上の数の騎士達が集まっていた。
 都市の北側にそびえる剛健優雅な城――そこに現在の龍公は腰を下ろしている。
 若干4歳の第四王子ゲラルドとその母親である王妃リラ、そしてそのリラの弟であるゲラルドの叔父フラッツ。
 現在の執権はフラッツとリラにあると言えるだろう。
 そのフラッツはかつては前龍公が腰を下ろしていた執務室の主となって、似合わない口髭をいじりながらリラを前にして頭を痛めていた。
 「まずい、まずいぞ。何でお前はブレイドに暗殺団を仕向けたんだ!」
 「あのブレイドは次期龍公になる資格を持っているのよ。熊公国をご覧なさいな、ヌーガンシュ殿の娘とか名乗る遠縁の者が次期熊公に就任したじゃないの。ザイル帝国にあれだけの侵入を許した私達を、アークス王が放っておく訳がないでしょう?」
 「アークス王なぞ問題ではないのだ、あの方は我々には介入してこない。謀反を起こしたわけではないからな。私が恐れているのはローティスのことだ」
 言って三十代後半の男は頭を掻いた。白いフケが舞い散る。
 それを不快げに見つめて、リラはフンと鼻を鳴らした。
 「あんな小娘に何ができるの? あんたはあの娘を買いかぶりすぎよ。現にドライクすら守れなかったじゃないの」
 なお、第一から三までの王子はリラの子ではなく、先妻オーフィの息子達であった。
 「守れなかったのではない、見捨てたのだ。どうせドライクのことだ、無茶な用兵をしようとしたのだろう」
 小心者のくせに人の話を聞かない王子の顔を思い出しながら、フラッツは顔をしかめて続ける。
 「現にアラート様もあの娘の忠言を聞いていれば死ぬことはなかったはずだ」
 アラートというのは前龍公のことだ。頭は固いが、豪胆で部下思いの人柄であった為、慕う者は多かった。
 しかしフラッツの言葉にリラは軽く失笑する。
 「いくら求婚してフラれた相手だからって、そこまで買う必要はあって? 所詮は小娘一人、どうということは」
 「ローティスはアラート様が自ら出向いて士官させたのだ。しばらくドライクの下にいたのもアラート様への一応の忠義だろう。その女が自ら進んでブレイドの下に就いたの
 だぞ、ブレイドを守る為ならどんな手でも使ってくるに違いない」
 「なら、やられる前にやればいいのよ。簡単なことね」
 言い捨て、リラは執務室を後にする。
 「まて、姉さん!」
 しかしフラッツの言葉は閉じられた扉に届いたに過ぎなかった。


 ちょうどその頃の熊公国首都ブルトン。
 公主の椅子には、一人の二十代前半の女性が腰を下ろしていた。
 名をティターナ・アントラント。前熊公とは遠縁の者であると言うが詳細を知るものは少ない。
 彼女の青い瞳はこの地に住まうスーフリューの民族である証明と、そしてそれ以上にその強気な表情、全体から醸し出される気品はヌーガンシュ以上の器の大きさが感じられた。
 実際、旧・新の熊公臣下のほとんどは短期間のうちに彼女に絶対の忠誠を誓っている。
 なお新たな臣下というのは、彼女がこの乱が勃発する前に滞在していた北の虎公国から彼女を慕ってついてきた騎士や文官、そして新たに乱の後に採用された者達だ。
 それがおよそ半数を占めている。
 そんな彼女の前には、アークス騎士団のクラール・シキムとシュール・アイセの二騎士団長が跪いていた。
 「この度はお世話になりました。アークス央国に対し、このティターナ・アントラントは今後最大限の協力を惜しまないでしょう」
 ティターナの言葉はあくまで公国と央国は別である、という意味も込められている。
 それを知った上で、2人の騎士団長はゆっくりと顔を上げた。
 「では我々はこれにて」
 クラールが立ち上がる。
 そして彼女の脇に控える若者に視線を移した。
 「ところでライナー殿はいつ本国へお帰りになられるのですかな? 御父上から何度となく帰還命令が来ていると聞き及んでおりますが」
 聞かれて虎公第二王子であるライナー・アルフレアは微笑んで答えた。
 「それはおそらく聞き間違いでしょう。私は隣国であるこの熊公国が安定するまでティターナ殿の力になるよう、命を受けております」
 北の民族ユーイに特有の茶色の髪を掻きあげ、ライナーは言う。
 それはクラールの予想した通りの答えだった。
 「そうですか、それでは」
 二人は下がる。
 そしてティターナもまたライナーと供に、部屋を後にした。
 「クラール殿、先程は何故あのようなことを?」
 剛身の女騎士シュールはクラールに尋ねる。
 「ライナー殿のことか、知っておるだろう?」
 しかしシュールは何の事だか分からず首を横に振る。
 「ライナー殿の父上――現虎公だが、ライナー殿がこっちで仕事をしている間に勝手に縁談の手続きを進めていたようなのだ。相手はライナー殿も良く知る者ではあるそうだがな」
 「ほぅ、それで?」
 「彼としては本国に帰ればおそらく、あの性格からして断わり切れずに結婚させられてしまうであろう」
 「いいのでは? もう二十五歳と言うし、あれだけの才能と容姿があるのだ。そろそろ腰を落ち着けたほうが良かろう」
 シュールは実際他人ごとなので軽く答える。
 「まぁ、それを言ったらそうなんだがな」
 「何かあったのか?」
 「いやいや、アンタもこの戦いであれだけ二人の側にいて気付かないのか?」
 「しかし公家同士の結婚は固く禁じられているぞ」
 「分かってんじゃないかよ、なんだかめんどくせえな!」
 思わずクラ―ルは声を荒げる。
 大きな勢力を作ることを防ぐ為、公家や王家同士の繋がりは暗黙の了解の内に禁じられている。
 だがクラールは2人の男女を今回の件で良く知って知ってしまった為に、何とかしてやりたいと思ってはいた。
 おせっかいというか、こんな人間らしい一面が、彼が部下に慕われる一因でもある。
 「何だ、そんなことか」
 あっけなくシュールは呟く。
 「そんなことで済むことなのか?」
 「ああ、そういうものはなるようになるもんだ。放っておけば良い」
 身も蓋もない。こんな自由な性格がシュールの部下に好かれる面でもあるが、クラ―ルに言わせるとただ杜撰なだけだろうと言うことになる。
 「まぁ、俺達がどうする訳でもないんだが」
 所詮は武闘派の二人が何をどうすることもできるはずがない。
 彼ら2人は今後の熊公国の繁栄を祈りつつ、央国への帰路に就いたのだった。


 この雪の大地に来て何度目になるだろう、天使達の侵攻を防ぎ終えて彼は大きく息を吐く。
 慣れとは怖いもので、兵士達の天使達に対する畏怖は初期に比べて酷く薄くなっている。
 彼ら天使たちの攻撃パターンが比較的単純であることも、それを助長していた。
 上空から攻撃を仕掛け、地上が崩れたところで突撃をかけてくる、という戦法をとる彼らに対しての対抗方法はほぼパターン化してきたと言って良い。
 出現した時点で距離を取って射撃準備に入る天使たちは、魔術師隊を率いるミアセイアらによって浮力を奪われる。
 距離というアドバンテージを失った天使達は、しっかりと陣形を組んで効率よく戦う人間達に対してはあまりに無軌道に力を振るう。
 だが一つ一つの力が強くとも、それらがバラバラで連携も何もなければいくらでも対処が可能だった。
 「しかし、それでもこいつら撤退も何もないから殲滅戦にしかならないのがなぁ」
 「それに倒しても死体も残らなければ、装飾品も戦利品もない」
 「戦いとは虚しいものだ」
 そんなザートの言葉を受け継いだのは、駿牙と徨牙である。
 「とりあえず、今日も酒場で暖かい酒でも飲もうぜ」
 言って駿牙がザートに後ろから肩を組んだ時だ。
 ザートの膝が力が抜けた様にかくんと折れる。
 「おおっ?!」
 「おいおい、大丈夫か?」
 ザートは線の細い駿牙に押し倒されそうになる。
 「いや、なんか足元がフラフラするんだよな。最近は特に戦いが終わると急に力が抜けるんだ」
 「なんだよ、まだ天使相手に緊張してるのか?」
 「そーなのかなー。まぁ、飲もうぜ」
 そんな二人の後ろ姿を徨牙が鋭い視線で見つめる。
 彼はザートに背負われた無銘の聖剣に鋭い視線を当てていた。
 魔力の流れを常に見ている彼には、ザートらには見えないものを感じ取ることができる。
 それはすなわち、巨大な聖剣がザートから魔力とも気力とも言える、いわゆる生命の波動をじわじわと吸い取っているのを。
 それと交換に、極めて純度の高い闇に属する精霊の力がザートに流れ込んでいた。
 「どういうことだ?」
 徨牙は目を細めてよく分からない力の流れを解明しようと試みるが、彼のこれまでの長い人生の中でも見たことのない等価交換だ。
 ザートがもしも魔術を用いるのであれば、取り込んだ精霊力により魔術の威力は上昇するだろう。
 だが彼は魔術が得てではない。そうなると彼に注げれ続ける精霊力は一方的に溜まり続けるのではないだろうか?
 「遅いぞ、徨牙」
 「あ、ああ。雪で足元滑るぞ、ゆっくり歩け」
 徨牙はしばし思考を停止し、前を行く二人に静かに告げた。
 「滑るかよ、なぁ。ザート」
 「おっと?!」
 「はうぁ!」
 足を滑らせたザートに巻き込まれ、駿牙と二人もろとも雪深い大地に人型を残す。
 「まったく」
 徨牙は苦い笑みを浮かべてそんな二人に追いついた。


 戦いの後の酒場は普段よりも活気が浅い。
 それなりに損害が出ていることと、人間相手の戦いとは異なり、勝利してもいまいち達成感がないせいもあるのだろう。
 「おーい、こっちこっち!」
 「なんだよ、魔術師組はいつもより早いな」
 円卓席を一人占拠しているユーフェを見つけ、三人は向かう。すでに彼女の手には一杯目と思しきジョッキが握られていた。
 「とりあえず、エール酒。三つね」
 四人がけの円卓席に腰を下ろしたザート達はひとまず勝利を祝う乾杯を行う。
 「天使どもはやはりラグランジュなんとかとやらを狙ってここに侵攻してきているんだろうか?」
 エール酒をあおりながら、駿牙が問う。
 「そうなんだろう。こんな雪深い辺境に他に何がある訳でもないしな」
 ザートは溜息を吐きながらそれに答えた。
 「ふむ。しかしそれは可能性の1つとして仮定し、そろそろ腰を据えてこの辺に『他に何があるのか』を調べてみてもいいかもしれない」
 と、こちらは徨牙だ。
 魔力の湧き場であるラグランジュポイントは天使や魔族といった精神生命体にとっては魅力的な場所だ。
 しかしこれまで彼らがこの場所に投入してきた戦力は、明らかに単純なこの力場に見合うだけの物量を越えている。
 それ以上に何か彼らを引きつけるものがあると思えるのだ。
 「まぁ、何があるのかと言われれば、あれしかないと思うんだけどね」
 ユーフェがそう答える。
 「あれか」
 「それしかないと言えばないわね」
 徨牙と駿牙は溜息を吐きながらそう呟いた。
 ジョッキをテーブルに置き、ザートは困った顔で言葉をつないだ。
 「かつての魔王イリナーゼとやらの城だったとか、そんな噂の古代遺跡か。しかしあれはなぁ」
 「広すぎるものねぇ」
 ユーフェもジョッキの中身を半分ほどまで飲み干してからテーブルに置いて頬杖をついた。
 このブラックパスの周辺は古代遺跡と称されてはいるが、本当のところは何なのかが分かっていない。
 一応名前を「ベフィモス・ガーデン」と学名が名づけられているが、この遺跡がどこからどこまでなのかといった範囲も調査されてすらいない。
 この村も遺跡の一部が所々に見て取れることから、実は彼らが今いるこの場所も遺跡の中と言って良いかもしれない。
 広く見て、首都アークスの二から三倍の敷地はあると推測される。
 「何かあるにしても、多分地下だろう? 地上には石造りの建物の土台とかしかないし」
 駿牙は運ばれてきた揚げた芋のスティックを一本口に含みながら、皿をテーブルに置く。
 「なんか魔術でちゃちゃっと調べられないか?」
 「「そんな便利な魔術はない」」
 ザートの愚痴にユーフェと徨牙がハモる。
 「何かヒントとかでもあればなぁ、おっと」
 ジョッキを掲げたザートの上体が不意にふらついた。ユーフェが眉間にしわを寄せる。
 「どうしたの、もう酔ったの?」
 「いや。なんだか最近調子が悪いというか、バランスが取れなくなるというか。疲れがたまってるのかもしれないな」
 前に彼を悩ませていた頭痛の方は現在、鳴りを潜めている。ザートはこの時、油断していたのかもしれない。
 「今日の酒はほどほどにしておけよ」
 徨牙はやや心配そうに騎士にそう忠告した、その時だ。
 酒場に凛と竪琴の音が響いた。
 同時、女性ながらも低く落ち着いた歌声が酒場に染み渡り、戦いの後の高ぶった精神状態の兵士達にもそれは一気に染み込んでいく。
 それは過去の物語。
 世界を滅ぼしかけた魔王軍を打ち倒した歴戦の兵士たちの物語。
 際限なく溢れてくる魔物たちを相手に一度は絶望しつつも、現れた勇者によって希望を得た幾千の戦士達は、ついに魔の軍を撃退する。
 その歌の内容は、いつ果てることなく襲い来る天使たちを相手にしている彼らにとって、己の境遇と重なるところがあった。
 だからだろう、短く語られたその歌が終わると同時に兵士達は喝采をもって吟遊詩人を褒め称えた。
 「なんだろう、すごい良いモノを聴いた気がする」
 「よくよく考えると、歌なんて真面目に聴くのは何百年ぶり?」
 「荒んだ生活してるな、お前ら」
 徨牙と駿牙の言葉に、ザートは呆れた顔をする。
 「あの吟遊詩人、また来たのね。今の歌も前に聞いたものだけど、ちょっとアレンジ入ってたわよ」
 ユーフェは呟く。そんな吟遊詩人は兵士達の喝采を受けながらザート達のテーブルに近づいてくる。
 銀色の長い髪をした女性吟遊詩人。年齢不詳の不思議な雰囲気を醸し出している。
 彼女の歌をヒントに、ザート達は以前にラグランジュポイントを発見したのだ。
 「好い歌だった。一杯おごらせてくれ」
 「あら、ありがとう」
 ザートの言葉に吟遊詩人は慣れた仕草で会釈する。
 「こんな雪しかないところに、また来たのか?」
 エールのジョッキを手渡し、ザートは彼女に問う。
 「先日ここに寄ったのは、北の森の中にあるホビットの集落に寄るためよ。今日はその帰り」
 この雪の中を一人で踏破するとは、相当旅慣れていると言って良いだろう。
 「風の便りに天使が出たとかなんだとか聞いてね、唄のネタにならないかと情報集めてたんだけど、結構大変なことになっているようね」
 ジョッキの中身を一口、吟遊詩人はそう答えた。
 「まぁ、それなりに大変だが、ネタに命がけなアンタも大変だな。俺はザート、アンタは?」
 「私はシフ、では出会いに」
 二人はジョッキを合わせる。続けてユーフェ、駿牙と徨牙とも合わせた。
 「さっきの歌、ユーフェの話だとこのあたりのことだとか?」
 駿牙がシフに問う。すると。
 「ええ。今の歌は過去にここのマスターから聞いたお話と先日、近所のおばあさんとの茶飲み話をつなぎ合わせたものよ」
 「ここか」
 徨牙が小さく唸り声とともに呟く。
 「例の力場以外に何かあるのは間違いないな、明日から本格的に探索に動いてみるか。ユーフェ、手伝ってくれよな」
 そう言ったザートがグラリと動いたかと思うと、
 「なんだこりゃ、世界が回ってる??」
 よく分からないことを言って床に倒れた。
 「ど、どうした、ザート?!」
 慌てる駿牙を一瞥、ユーフェはザートの額に己の右手を当てた。
 「ちょっと、すごい熱じゃない!」
 「あー、ユーフェの手は冷たくて気持ちいいなぁ」
 「アンタが熱いだけよ。駿牙、徨牙、このバカをテントに運ぶの手伝って!」
 怒声をあげるユーフェはしかし内心の焦りが見て取れた。
 そんな彼らに制止の声が入る。
 「ちょっと待って」
 吟遊詩人のシフだ。彼女はザートの傍らにある大剣を指さして問う。
 「この剣、どこで手に入れたのかしら?」
 それに駿牙と徨牙は困ったように目を合わせた。
 「剣から所有者である彼に強い聖気が当てられているわよ」
 「どういうことだ?」
 徨牙はシフに問う。
 「分からないわ。でもまるでこの大剣は自らが聖なる剣だとでも主張しているようね。本性は悪であることを隠すかのような必死さで」
 「どうしてそんなことが分かる?」
 訝しげに徨牙はシフに問うが、彼女は困ったようにこう答えるだけだ。
 「似たような剣を前に見たことがあるから、としか言えないわね。ただの剣に見えても、生きているようなものだってあるものよ」
 「それは一体…」
 戸惑う徨牙を押しのけ、ユーフェはシフにつっかかるように問うた。
 「ザートのこの高熱はそのせいなのね、じゃあ治すには」
 「剣をへし折ればいいわ。もしくは剣に己が持ち主であることを納得させればいいんじゃないかしら」
 「ど、どうやって?」
 「……」
 駿牙の疑問にシフは沈黙をもって答える。そんな彼女らに徨牙はザートを見つめながら一言、こう告げた。
 「もう試されている。ザートはこの大剣にな」
 徨牙が大剣をわずかに鞘から抜くと、まるでザートの胸の鼓動に合わせるかのように薄く淡い光が明滅していたのだった。

<Rune>
 ここサマート近辺の海は地形的には扇状の湾内である。
 湾と言ってもその広さは海岸線の長さでおよそ120キリールほどあり、波は非常に穏やかだ。
 遠浅のこの地形は小島が点在し、珊瑚礁にも恵まれている。反面、海底地形に通じた者でないと、座礁の危険が大いにあると言って良い。
 一方で海産物は豊富であり、さらにそれらを寝床にする海賊もまた多いことは避けられない。
 船を寝床とする海の民はその巧みな航海術を駆使して貿易などの商いに身を投じていく。
 一方で海賊行為を行う者も出てくるのが世の常だ。
 かつて――五年程前までにはそれら海の荒れくれ者を一つに束ねていた海の英雄がいた。
 その名はクライザ・クロー。彼亡き現在、海賊クロー一族最後の英雄であると評されている。
 彼が病に倒れ、その一人息子が重責に耐えられず姿を消した後、威光は失われた。
 同時に海は荒れ、略奪が横行し、それら陰の気を啜るために魔物まで現れ出す。
 この悪循環を断ち切ろうと、元の海に戻そうと立ち上がった者がいた。
 その名はミース・クロー。クライザたるクロー[世の孫娘である。
 彼女は数少なくなった元一家の仲間を従えて、他の海賊が群雄割拠するこの海へとその身を投じることとなったのが、この一年ばかりのことだった。
 しかし質は良くとも人数は少なく、船も一隻のみ。資金も足りず、結果として海賊崩れである先程のゲイン一派ですらまともに相手ができない状況だった。
 そんな折に目下、目の上のタンコブであった彼らを煙に巻いた僕らを見出し、転換を図ろうというのがミースの狙いである。
 なお先程倒したスキンヘッドの大男こそがゲインその人であり、現在はその配下の大部分ともどもミースに下ったのは余談である。
 翌日、僕らはミース一派の駆るガレー船に乗り込んで船上の人となっていた。
 目指すはサマートに根を張る海賊の一大勢力、グレアム一家に殴り込みをかけるためだ。
 グレアム一家はガレー船三隻に小型船八隻を有する比較的大きな規模の海賊だ。
 「野郎共、気合い入れて行くぞ。これからが始まりだ!」
 右目の黒い眼帯がいかにも海賊であるとアピールするようなミース、いやクロー\世が三十名ほどとなった部下達に叫ぶ。
 「「おお〜!!」」
 数は少ないながらも気合いは十分、そんな感じの声が青い空の下、船上に響き渡った。
 当然、その中には僕達の声も含まれている。
 ミースの要求を受け入れた僕はラダーとアレフ、そして付いて来たがっていたクレアを残して、アーパスと供に彼女の船に乗り込んだ。
 3人を残したのは簡単な理由。ラダーとクレアはカナヅチであるため。アレフは2人の護衛と、処々情報収集のためだ。
 また対艦船の戦いにおいては、僕とアーパスの操気術がミースの求めるものであるため、逆に海を知らない者が乗り込むと足を引っ張る可能性が高いのだ。
 そんな僕らが乗り込むミースの船は一隻のガレー船。
 比較的大きなこの船はかなり古いが、見るからに頑丈そうだ。それもその筈、彼女のお爺さんであり伝説にも名を残すクロー[世の駆っていた船なのだそうだ。
 「しかしこちらは一隻か。ちょっと戦力差があるんじゃないか?」
 アーパスの愚痴に僕は苦笑い。
 「僕らの技がどの程度役に立つのか、まぁ見てみようよ」
 目的地はサマート沖に浮かぶ珊瑚礁に作られたグレアム一家の本拠地。
 グレアム一家は百名前後からなる海賊一家であり、かつてはクロー[世の部下のさらにその部下でもあったという、いわゆる孫部下だそうだ。
 「見えてきたな」
 思ったよりも激しく揺れる船の手摺に掴まってアーパスが言った。
 海の中にぽつんと佇む小山のような建物の山と、それを囲むように二隻のガレー船。
 残りは仕事(?)に出ているのだろうと推測できる。しかし戦力差はこの時点で二倍だ。
 「ルーン!」
 船の穂先に立ったミースが呼ぶ。
 「挨拶がわりに一発ぶちこんでやんな」
 女でもやはりクローの血を引くだけはある。部下の男達をさらに上回る気迫で僕に指示した。
 彼女は僕とアーパスの操る術の規模を知っている。一応事前に海に向かって術を解放したところを見せているのだ。
 「え? いいのかなぁ」
 「やるぜ、ルーン」
 騒ぎ事が好きなアーパスが剣を抜いて口端を上げる。
 「じゃあ、手前のガレー船を狙ってみようか。ダメージ与えられるかなぁ」
 「自信持てよ。それじゃ行くぜ、光波斬!」
 僕の後ろからアーパスの放つ3リールばかりの半月状の光が僕の頭上を飛ぶ。
 それに合わせ、僕は腰から抜いたイリナーゼに力を込め、その半月状の光を押すように振り下ろした。
 「光波斬/相乗!」
 二つの操気術は光の十字と化す。
 僕とアーパスの力を込めた光の破壊弾は真っ直ぐと晴天の下、珊瑚礁の脇に浮かぶ一隻のガレー船へと吸いこまれ、そして……
 ゴァ!
 珊瑚礁側に面したガレー船の左半分を瓦解させる。材質をケチったのか、随分もろい船だと思う。
 そのまま半壊したガレー船は珊瑚礁側に喫水線を越えて倒れてゆく。
 ゴワシャ!
 そんな音を立てて、珊瑚礁の上に立つ建物群をガレー船の本体やマストがなぎ倒していった。
 「うわぁ」
 後ろでアーパスの何とも言えない声が聞こえる。
 「やりすぎじゃね、ルーン」
 「いやいやいや、なんで僕のせいだけになってるんだよ、当たり所が悪かっただけだろ、あれは」
 「それを言うなら当たり所が良かったんじゃね?」
 2人の言い合いを聞きながらそんな呟きがスキンヘッドの大男、ゲインから漏れた。
 珊瑚礁のアジトと浮かぶ船からは怒号と悲鳴が聞こえてくる。
 「いかがいたします、船長」
 ミースの片腕である老海賊の問いにクロー\世はこう叫んだ。
 「突撃、グレアム一家を制圧せよ!」
 隻眼の彼女の号令下、我らのガレー船は崩壊しかかったアジトへと向けて真っ直ぐと進んでいく。
 遠目に見ても混乱しているグレアム一家に、数はまだ少ないがそれなりの手練れの揃ったクロー一派が負けるはずもなかった。

<Camera>
 暦の上では春を向かえてはいるが、ここザイル帝国首都は内地にある為、まだ残雪が残っている。
 ザイル帝国国王ザーツハルトV世死後、3日が過ぎて早くもシンクロトロン城を中心とした冷たい氷は溶けようとしていた。
 幾多の血を吸ってきた王城の石畳を、黒い全身鎧に身を包んだ第五王子ガルダ・フラグマイヤーは踏みしめるようにして進んでいく。
 その後ろには白い仮面を付けた黒の魔女レイナと、継ぎ接ぎだらけの大きな熊のぬいぐるみを抱えた七才の幼い少女が付いてくる。
 黒の騎士はやがて石畳の先の大きな両開きの扉の前に行き着いた。
 彼が手を触れる前に両扉は開かれ、騎士や文官達が両側に並ぶ赤い絨毯が一つの玉座へと導いた。
 騎士ガルダはその様子を軽く一瞥し、真っ直ぐと玉座へと向かうとそれに腰を下ろす。
 両脇には後ろから付いてきていた二人の女性が控る。ガルダは彼の前に跪く数百の騎士、文官を見渡すとよく通る声で告げる。
 「レード将軍、貴公に騎士及びに軍兵五千を与える。南部タスタニアで陣を構える反逆者ブラッド・フラグマイヤーとその一派を殲滅せよ」
 「ハッ!」
 最前列に控えていた初老の騎士の一人が応えて立ち上がり、ガルダの通ってきた道を逆に通って大広間を出て行く。
 「ナーカス・リー、貴様を宰相の職に命ずる。アンハルトを壊柔せよ。それができぬのならばここから去れ」
 その言葉に白い髭を蓄えた腰の曲がった老人は立ち上がる。
 「仰せのままに。必ずやよい結果を陛下に」
 そして再び跪く。
 ガルダは次々と指示を放っていく。内政・外交・戦争・内乱、それら全てに対する指示をこの場で伝える。
 彼を王と看做した騎士・文官達は逆らうことなく従順に自らの任務として行動に移っていく。
 現段階でザイル帝国国王を僭称するのは2名。
 王城シンクロトロンを制圧した第五王子ガルダ・フラグマイヤーと、南西部タスタニアの地にある大都市ブレードに居を置いた第一王子ブラッド・フラグマイヤーだ。
 腹違いの兄弟である二人は共に王族として高い能力を有している。剣技はもちろんのこと、あらゆる体術や知略も豊かであり、それぞれのカリスマ性も高い。
 だがその方向性が若干異なっていた。ブラッドは一人で全てをこなしてしまう万能型であり、ガルダはなるべく他者に押し付ける傾向がある。
 そして共に完璧を求める傾向があり、それ故にブラッドに対しては物事の進みが遅いという欠点があり、ガルダに対しては他者に厳しすぎるという意見が強い。
 このような背景から、シンクロトロン城におけるガルダの各指示に対して指名された担当者はこれまで以上の緊張を以て事に当たることとなる。
 現段階での仮王ガルダの方針としては、第一に内乱としてブラッド王子を叩いて殲滅することが挙げられる。
 これについては将軍位の中でも古参であり、ガルダの長きに渡る後援者でもあるレード・アクセルが大軍を用いて対応する。
 外交においては、自治領として認識しているアンハルト公国からの物資制限を、古老であるナーカス・リーの手腕によって解除させることが至上だ。
 また敵対関係にある北のアークス皇国とは、一時的な和平を締結する必要性を外交部に検討させている。
 アークスサイドにおいても、侵攻された龍公国の国力が低下し、ザイルへの侵攻どころではないとの情報もあるが、正直なところガルダの信頼のおける戦力を回すだけの余裕がない。
 内政面では税収の観点からも至急ブラッドの勢力を潰す必要がある。取り急ぎは全ての税に関して5%のカットを半年行う方針だ。
 ザイル帝国は帝国の名を関していても、各都市の実力者が帝国を支えている形態をとっている傾向が強い為、いかに各都市の支持を取り付けるかが鍵である。
 ガルダは最後にこう言い放つ。
 「私の為ではなく、このザイルの為に大いに働いてもらうぞ」
 「「はっ!」」
 満場一致した答えを聞きながらガルダは満足気に見渡し、玉座を発った。


 ぽくぽくぽくぽく。
 馬車が揺れる。
 「ハルモニア、何か食べるもの取ってくれ」
 御者を務める青年・オラクルは馬車の奥にいる眼鏡を掛けた女性・ハルモニアに馬を制しながら言った。
 「は〜い」
 幌付きの荷台からは明るい声が返ってくる。
 彼ら二人はザイル帝国首都からまずは北へと抜け出し、アークス南公国へ入る。
 そして東公国周りアンハルト行きの街道を使って、北からアンハルト公国へと考えていた。
 彼ら王位継承権をもつ二人は亡命したのだ。現王が寿命により死去し、あからさまな身の危険を感じた為である。
 アークスへ逃げることは得策ではない。今の状況からは、経済的に圧迫を掛けてくるアンハルト公国の方が軍事的にも中立地帯であり、治安もしっかりとしている。
 もっとも何処へ逃げたところで彼ら二人を狙う刺客はおそらく消えたりしないのだが。
 街道をひたすら進み、すでに彼らが城を抜け出して早3日が過ぎていた。
 その間に運が良いのか、はたまた彼らを狙うほど余裕がないのか二人を追う刺客の姿はなかった。
 その為もあってか、彼らは西の公国最南端からアンハルト公国にようやく入ろうとしたところにまでたどり着くことができた。
 「はい、あ・な・た」
 ハルモニアの言葉とともに差し出されたパンに、オラクルは思わず荷台から転げ落ちそうになる。
 「な、な、何言ってるんだよ」
 顔を赤くしてオラクル。
 「さっきの宿屋で夫婦ですかって聞かれて、そうだって答えてたじゃないの」
 輪切りにしたバゲットに野菜とハムを挟んだ簡単なサンドイッチをオラクルに手渡して、ハルモニアは頬を膨らませて言った。
 「そう答えた方が色々怪しまれないだろう」
 オラクルは言い訳のように返す。
 「そうねぇ」
 溜め息を吐くハルモニア。と、不意に彼女の視線が街道脇の茂みへと鋭く走った。
 「オラクル、止めて」
 「どうした?」
 ハルモニアに答えて、馬車を止めるオラクル。
 彼女は軽い足取りで馬車から下りる。
 「ちょっと」
 「ん、何だ、トイレか」
 呟いた彼の左頭に石が直撃した。
 沈黙したオラクルを背にして、ハルモニアは茂みと小枝を掻き分けて街道から森の中へ移動した。
 彼からは見えない地点で足を止め、不意に眼鏡を外す。
 途端、彼女を中心として森の息吹きが止まった。正確に言えば彼女を中心としてかなりの範囲が無音地帯となったと言える。
 その彼女に向かって幾筋もの手投げ剣が飛来する!
 が、それは彼女にぶつかる寸前に中から爆発するように全てが弾け飛んだ。
 彼女はそれらが飛来した方向、すなわち彼女を包囲した刺客達を静かに見渡した。
 「「!?!?」」
 無音の中、また一人の刺客が投げた手投げ剣が中から破裂する。
 予想もしない出来事に刺客達にどよめきが起こるが、それすらも無音のままだ。
 刺客達が攻撃もしくは逃げる選択をする前にハルモニアは行動に移る。
 彼女は彼女を囲む彼らに向かって、その紅黒く光る双眸を向けた。


 「クワォクワォ!」
 オラクルはその音にハルモニアの消えた茂みを見つめる。
 「何だ、カラスか。お、戻ってきたな」
 茂みを掻き分け出てくるハルモニア。
 「さ、行きましょ」
 しかしオラクルは彼女の顔色が青いことに気が付く。
 「大丈夫か? 顔色が青いぞ。調子悪いのか?」
 心配そうに尋ねるオラクルの隣に彼女は腰を下ろす。
 「いいえ、そうじゃないの、オラクル」
 彼女は馬を走らせようとするオラクルを眼鏡越しに見つめる。
 「どうした?」
 手を止めて、オラクルは尋ねる。
 「ん、何でもないの、何でも」
 頭を振り、彼女は視線を下に向けた。
 「? そうか」
 優しげな視線をオラクルは彼女に向け、そして手綱を手に前を向く。
 そしてハルモニアもまた街道の先を見つめる。きつい上り坂の向こうに街が広がるように、彼女はいつか全てを明かせることができる自分がいることを信じていた。


 先程の広大な謁見の間とは一転やや薄暗い、人が二十人もいればいっぱいとなる会議室にガルダはいた。
 他にはぬいぐるみを抱えた少女と仮面の魔女、及びに中年の騎士と黒いマントを羽織った青年が集まっている。
 「では、お前達が消すことができなかった血族はあと2名いるということか」
 ガルダの感情の薄い言葉を、中年の騎士とマントの青年に投げかける。
 「この混乱の中、見逃したのが何名かあるのは仕方がないわよ」
 仮面の魔女は言う。
 「オラクル・フラントとハルモニア・シーレか。二人一緒に逃げているのだったな」
 「男の方は生かしておいても害はなさそうだけど、女の方は血が濃いわ」
 幼女がガルダの言葉にそう呟いた。物騒なセリフではあるが、明るい口調だ。
 「ゼナ、お前の部下を使っても駄目だったのか?」
 ガルダに問われ、マントの青年は頭を下げてこう答えた。
 「これまでに精鋭を三度に分けて放ったのですが、その全てが死にました。何かに引き千切られるようにして殺されており、人の仕業と思えません」
 ゼナと呼ばれた青年は悔しげに噛みしめた。
 「グラハよ、お前の部隊を第二王子ロアーを消す為に送りこんだ際、このロアーの許嫁であるハルモニアもいたと別途報告されているのだが」
 対して中年騎士は弁解するように答える。
 「事前にご報告致しましたが、我々が向かった時にはすでにロアーは殺されておりました」
 彼らが手を下すまでもなかった。すでにグラハ達が踏み込んだその場は、ロアーの配下の者も加えた血で一面赤く染まっていたという報告をガルダは受けている。
 「ハルモニアについては危険だな。グラハの見たロアーの死も、ハルモニアの仕業と見ていいだろう。何かに憑かれてでもいるのか?」
 ガルダは隣の幼女、エルーン第八王女を見ながら呟いた。
 「一方のオラクルについてはどうだ?」
 「こちらは単に運良く逃げ出しただけと思われます」
 ゼナが答える。
 「そもそも彼には直接、手の者を向けていません。適当に人を雇って狙わせましたが、彼らからは巧く逃げられた旨を聞いております」
 「オラクルはアンハルト公国も含めた外来からの資材調達の能力が高く、別途私の方で身柄を拘束して保護しようとも動いておりました」
 と、こちらはグラハだ。彼は続ける。
 「ハルモニア王女はオラクルの仕事の補助を生業としており、そのつながりで共に行動しているのかと思われます」
 「そんな2人が一緒にアンハルト公国に逃げ込もうとしているわけね。愛の逃避行?」
 仮面の魔女は面白そうに言う。
 「ねぇねぇ、ガルダ。あたしが『やって』あげようか?」
 無邪気な笑顔で少女は騎士を見上げて尋ねた。
 「やってみろ、エルーン」
 「うん!」
 エルーン王女はゼナから手渡されたハルモニアの念写手配書をじっと見つめる。
 少女は青い瞳でハルモニアの似顔絵を凝視した。やがて彼女の瞳に蒼い光が宿ると。
 「!?」
 不意に少女の小さな体が見えない何かに突き飛ばされ、そのまま部屋の隅、石の壁に叩き付けられた。
 悲鳴をあげる余裕すらなく、少女はうずくまる。
 エルーンが行ったのは高度な呪いの一種である。念写を通してそこに通じた魔力の糸を手繰り寄せ、念写対象者へ自身の『呪い』に汚染された魔力を注ぎ込む。
 エルーンの呪われた魔力は対象者の半分に即死を与え、残り半分に脳の死を与える。最後に残った半分は体内の魔力経路をズタズタにされて一生を寝て過ごすこととなる。
 だがそれを跳ね返された。
 それはつまり、対象者がエルーンを上回る強い魔力障壁で守られているか、もしくはエルーン以上に呪われた魔力を持つか。
 「何か憑いているというのは憶測でもなんでもないようだな。エルーンですらこうならば、人間を挽き肉にするくらい訳もない」
 壁を背に一人咳き込む少女を見ながら、ガルダはゼナに視線を移す。
 「オラクルという男を殺せ。お前の考え得る最も惨い方法でな」
 「それは、しかしなぜ?」
 「ハルモニアを精神的に追い込め。死体でも構わぬが、できれば生かして連れて来い」
 有無を言わさぬその命に青年は無表情に頷き、部屋を出て行く。
 「グラハ、お前にも仕事をしてもらう」
 「ハッ」
 騎士グラハは姿勢を整える。
 「今からゴウセル地方へ行ってもらう」
 「なるほど、蒼天と地平の騎士が狙いですな」
 「話が早い。今は優秀な手駒が必要だ、頼むぞ」
 「心得ました」
 応え、グラハはゼナを追うようにして部屋を後にした。
 その様子を仮面の魔女レイナはテーブルに腰かけながら冷たく見つめている。
 「蒼天と地平ねぇ、あの双子がこちらになびくかしら?」
 「グラハが心得たというセリフを吐く以上、可能性は高い」
 「ふーん」
 魔女は興味を失ったようにそう答えると、続けてニヤリと笑みを浮かべて言った。
 「色男さんはハルモニア姫を捕らえてどうする気かしら?」
 「強い者には強い血が必要だ。違うか?」
 即答されてレイナは笑みを苦く変える。
 「エルーン姫の魔力をも跳ね返す強力な力を貴方に押さえることができて?」
 「私にできないとでも言うのかね?」
 それに魔女は首を横に振る。
 「力を押えつけるのは力だけではないわ、それは人にも言えることよ。まだその辺り、貴方は理解が薄いわね」
 言い放ち、黒の魔女レイナはその姿を虚空へと消して行った。
 残り香すら消えたのを確認し、ガルダは部屋の隅に告げる。
 「行くぞ、エルーン」
 「う…ん」
 おぼつかない足取りで立ち上がるエルーン。白い額に掛かる金色の長い髪の間から、一筋の赤いものが伝わっていた。
 「…」
 ガルダは少女に歩み寄る。それに少女は笑みを作って見せるが、無理をした幼い子供の演技でしかなかった。
 彼はエルーンを抱き上げる。
 「ガルダ?」
 思いもしない行動に戸惑い、顔を赤くするエルーン。
 「じっとしていろ」
 「うん」
 目を閉じるエルーン。そしてそのまま彼女は気を失った。


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