糸のように細い月の出るその夜、冷たい明かりの下で僅かな暖かさを持った蝋燭の灯りがテントの一つの中で揺らめいていた。
 積もった雪は未だに溶けず、それは増える傾向にすらある。
 少女は氷のように冷たい水に浸したタオルを絞り、男の額に乗せる。
 ベットに横たわった男の顔色は白くかつ血の気を失っている。荒い呼吸が唯一彼が生きていることの証であり、かつ触れると驚くほどに熱い。
 「ザート」
 少女はそう男の名を呟き、水の入ったコップを口に触れさせる。しかし彼は受け付けず、水は頬を伝って零れた。
 「もう三日も水すら…」
 ザートが倒れて三日が過ぎた。
 まるで呪いのように高熱を発して、いかなる薬・魔術も効かない。風土病という訳でもない。
 吟遊詩人のシフの見立てでは彼の手にしている剣の影響ではないかとのことだが、その裏付けすら取れていない。
 彼女の案で彼の剣の破壊を試みたが、徨牙やユーフェのみならず、リースの計らいで協力を仰いだミアセイアの魔術の腕をもってしても傷一つつけることができなかった。
 また遠くに捨てるという物理的な案も、なぜか戻ってきてしまうという現象によってなされていない。
 いわゆる「剣に呪われている」状況だ。
 「このままじゃ、ザートの体力がもたない、どうすれば」
 呟くユーフェの前でザートの顔が苦痛の顔に歪む。
 ユーフェは慌ててその白い右手で彼の額に触れ、呪語を数語を呟く。
 すると青年の顔から苦痛の表情は消え、安らかな眠りへと戻った。変わって少女の顔に大きな疲労が浮かぶ。それはまるで交換したかのようだ。
 「ユーフェ、無理をするな。私が替ろう」
 背後からの気配に彼女は振り返る。
 徨牙が足音もなくやってくる。彼は彼女を見て足を止める。
 「泣いているのか?」
 徨牙に再び背を向ける少女。背を向けたままこう答えた。
 「ザートの夢を、その苦しみを共有しているの。そうすれば彼の苦しみの半分は私が受け持てるから。大丈夫よ、これくらい。だから今は私達二人だけにして」
 「そうか。だが無理をするな。お前まで倒れたらシャイロクが困るぞ」
 「ええ」
 ユーフェは振り向くことなく答えた。そして徨牙の気配が消える。が、直後に再び気配が生まれた。
 「何? 徨牙。ここは大丈夫だから」
 「あまり大丈夫には見えないね」
 答えたのは銀色の長い髪をなびかせた吟遊詩人のシフだ。
 彼女は二日前にブラックパスを出たとユーフェは聞いていたのだが。
 「袖触れ合うのも縁とやら。それに友人からの頼まれごともあってね、材料を探していたのさ」
 シフはそう言って微笑むとザートの眠るベットへと歩み寄る。
 ユーフェの傍らでザートの寝顔を一目見てから、懐より小指大の金色の筒を取り出した。
 それをテントの窓に向けてかざす。僅かな月明かりがまるでその筒に吸い込まれるかのように吸い込まれていく。
 「月の明りを源に、その冷たき怒りを静める力となれ。メルクリウスの名の下に金を銀へ、銀を大気霊プネウマへ。万能なる世界樹の葉を介し、滞留し打ち消し合う力と力を月に帰せ」
 シフの力ある言葉に筒か更なる光を蓄える。そして彼女が空いた左手で懐から小さな葉を一枚取り出すと、それを筒の中に押し込んだ。
 更なる光が筒から放たれ、蝋燭の灯りに慣れたユーフェには眩しいほどだ。
 やがて光が収まると金色の筒は一変して青い光沢を放っていた。
 「よし、調合完了。久々の錬金は肩凝るわ」
 「錬金?」
 「ああ、こっちの話よ。さ、この錠剤を騎士に飲ませてあげなさい。これで彼の中で逃げ場のない力は出口を見つけて天に昇るはず」
 ユーフェに筒を渡し、シフは背を向けたまま手を振った。
 「とは言え、己の中の問題を片付けて剣を制さない限りは効果が発揮されないけどね」
 吟遊詩人は現れたときと同じく、こうして唐突にテントから立ち去った。
 残されたユーフェは手渡された小さな筒を見つめる。
 見たことのない装飾と金属で作成されている。だがユーフェはそんなことを気にもせず、筒の蓋を開けた。
 青い色をした錠剤が二粒、彼女の手のひらに零れる。
 「よく分からないけど、これで治るのなら」
 魔術師の少女はためらうことなく、ごく自然な動作で薬を自ら口にしてから水を少し含むと、ザートの唇に己の唇で触れた。
 騎士の喉を、魔術師の吐息に合わせて薬が通って行く。
 「ザート、頑張って――」
 悪夢を見ているのだろう、彼は額にしわを寄せ、小さな呻き声をあげている。ユーフェはそんな彼の額に何度目になるか、手を当てて呪を呟いた。
 同時に彼女にはもはや見慣れた、繰り返しの悪夢が脳裏に映る。
 悪夢の苦しみを共有することによって少しでも和らげようとする法だ。下手をすると施術者の意識を狂わせる恐れもある危険な術でもある。
 何度目かになる映像は、熱気と伴に彼女に蘇った。
 雪の降る真夜中だ。
 少年は炎に包まれた小さいながらも豊かだった家の中、外の怒号と喧騒に恐れていた。
 何が起こったのか分からない。ただ分かることは、先程笑っていた父はこの世すでになく、己の住む家もなくなろうとしていることだけだった。
 「ザート!」
 若い彼の母が、しゃがんでザートの肩に両手を乗せる。
 「貴方は生きなさい。何があっても生き延びるのですよ」
 炎に照らされた彼女の必死ながらもなんとか浮かべた微笑みは、ザートの脳裏に強く刻みついた。
 そしてユーフェは彼の意識を通して知る――ザートの母の面影は、彼に剣を与えた智天使シーケンスと瓜二つであることを。
 「母さん、僕…」
 彼が呟くが早いか、彼女は床下の地下室への入り口を開き、幼いザートを蹴り入れる!
 バタン!
 ズシン!
 頭上で入り口が閉まり、何か重いもの、本棚か何かが倒される音が響く。
 ザート少年は必死になって入り口を押し上げようとするが、びくともしなかった。
 やがて家の中に多人数の足音が聞こえてくる。
 「最後の一件だ。奪え奪え!」
 粗野な中年の男と思しき号令に、家のものをひっくり返す音が響いてくる。
 バタン
 すぐ近くの部屋の扉が開かれる音がした。
 「女がいるじぇねぇか、捕らえろ!」
 「盗賊などに汚されはしない!」
 「ぐわ! 指がぁぁ」
 「クソ、殺せぇ!」
 頭上で起こる戦いの音に少年は耳を塞ぐ。
 己の無力を呪い、突如訪れた暴力を恨んだ。そして母の死を止めることが出来なかった自分自身にも。
 現実に戻ったユーフェの胸は痛かった。同時、どうにもならない虚脱感が襲う。
 「ザート、もう貴方は強いから…大丈夫だから」
 呟き、彼女は横たわる彼の胸に顔を埋めた。
 再びユーフェの意識がザートの夢の中に埋没する。
 「え?!」
 ユーフェの前には、聖剣を持った幼いザートがいた。
 彼の視線の先には地下室の扉、そしてその先には彼の母と野盗達がいるのが「分かった」。
 「この力さえあれば」
 聖剣を見つめて幼い彼は呟く。
 「この力さえあれば、母さんを救える。いや、町の皆も救える!」
 『そうだ、救える』
 声は彼の手の中からだ。
 「救える、この聖剣の力があれば」
 『そうだ、お前の思うままだ。神聖なる私はお前に力を与えよう』
 いけない、ユーフェは直感した。
 これは違う。吟遊詩人も言っていた、剣を制さない限り、と。
 これはエセ聖剣の攻撃だ。散々ザートを痛めつけ、弱ったところに救いの手を差し伸べる。
 その手を取ってしまったらどうなるのか。
 ユーフェは想像もしなかった。彼女は幼いザートを後ろから抱き締める。
 「違う、これは過去の貴方の記憶。すでに取り返しはつかない、終わったことなの!」
 『救える、聖剣のチカラがアレバ』
 魅力的な力がザートの手から零れ落ちた。
 「ダメ! ザートは終わったことをいつまでもぐずぐず悩むような人じゃないでしょ!」
 泣きながら少女は少年を強く強く抱きしめる。
 「僕は」
 呆然とする幼いザートは扉の先、彼の母親を見上げて言う。
 「それでも母さんを救いた…」
 そこまで言ったとき、扉の向こうにいる彼の母親の表情が一変した。
 息子を送り出した慈愛の表情から、憤怒のそれにだ。
 ばしん!
 ザートの頬が母親によって叩かれた。
 呆然とするザートに、彼の母は言う。
 「どんな状況であれ、女の子を泣かせるとは何事かっ!」
 びくりと幼いザートの体が震えたかと思うと、彼は彼を抱きしめる少女に目を向ける。
 「あ…」
 呟き、そして彼の手から聖剣が落ちて砕けた。
 それを合図に澱みと力が天に昇っていく。
 「ごめん、ユーフェ」
 幼いザートが今の目で少女に告げた。
 「良いってことよ」
 泣き笑いを浮かべたユーフェの視線の先、夢の中の彼の母親が小さく頭を下げたのを見た気がする。

<Rune>
 色々あって一週間―――とんとん拍子に、あまりにもできすぎているかのように物事は進んでいった。
 僕とアーパスによる操気の先制攻撃は初戦こそ高い効果を得たが、ある程度の段階を経るとその効果はあまり期待できなくなった。
 敵も当然のことながら、ある程度の規模になるとお抱えの魔術師や呪文使いを揃えており、むしろ魔術による遠隔攻撃が開戦の合図に等しいものとなる。
 ともあれ、このサマート近海は元々がクロー一派の本拠地ということもあって、そこまでの規模の海賊がいなかったのが幸いした。
 「フレーン一家盗伐、おめでとうございます!」
 「「おめでとうございます!!」」
 ミースの世話役である老海賊の号令下、広いはずの部屋がぎちぎちに詰まるくらいに埋め尽くされた海の猛者達の声で満たされた。
 「戦いはこれからだ、だが今日一日は大いに騒いでくれ。乾杯!」
 台上のミースがそう叫ぶと、会場はあっという間に無礼講となった。
 ミース率いるクロー一派の快進撃は続き、初戦であるグレアム一家を倒した後にも幾つかの海賊を潰した。
 するといつの間にやら彼女の傘下に加わりたいという者が増え、それとともに船の数が増して行ったのである。
 新たに加わって来るのは潰された海賊の残りであるとか、潰される前に加わってしまう者、騒ぎを聞きつけた海の民やクローに憧れてやってきた者など、千差万別。
 しかしそのどれにも共通しているのは、荒れくれ者と一言で片付けられる点であろう。
 そしてつい先程このサマートの近海域の周囲百二十キリールで最も大きな海賊フレーン一家を壊滅・吸収したことでアークス西岸の四分の一を制したことになった。
 が、彼女の言葉通りこれからなのである。
 これから敵対することになる主に北側の海域は、海賊は海賊でも言ってしまえが変だが武闘派として有名である。
 特にエトラング・メルクランという海賊は鷹公国水軍にすら攻撃を仕掛け、一個師団を壊滅させたりしている。
 さらに中には魔法や魔物を操っている一家もあるらしい。
 しかし、何はともあれここで僕達の手伝いは終わりと言って良さそうだ。たった一週間で終わるとは思ってもいなかったが。
 ミースは僕とアーパスの力によるところが大きいなどと言うが、最初の理由で僕達二人は専ら『始めの挨拶』止りで、あとは彼女の指揮の上手さで決まってきたようなものだと思う。
 「さてと。おーい、アーパス!」
 隣にいたはずの相棒に振り返ると海の男達に混じって酒の呑み合いをしている。
 どうもこういった連中と妙に気が合うらしい。だから男装しているのだろうか?
 酒はどちらかというと苦手な僕は、大部屋の熱気にたまらず会場を後にした。
 ここミースの選んだ現在の本拠地は、サマート沖に浮かぶ孤島だ。
 ここにはすでに数十隻の船とそれを収納できる入り江、建造物が作られていた。
 僕は海風に当たる為、いつも乗っているミースの船がある入り江近くまでやってきた。
 さすがにこんな場所で呑んだくれる奴はいないようで、聞こえてくるのはさざ波の音と遠くから騒ぎ声だけだ。
 僕は桟橋の端まで歩き、遠く海を眺める。
 西に面したここからは、ほとんど沈みかけた太陽により水平線が少しだけ赤く染まっている。
 さざ波と供にやってくる優しい潮風が僕の前髪を揺らした。熱気に火照った頬に心地良い。
 「あら、そこにいるのはルーン?」
 不意の声に辺りを見回す。
 「上よ、上」
 そんな女性の声に見上げると、桟橋に横付けされたガレー船のデッキから人の顔が覗いている。
 腰まである長い黒髪を風に任せ、白いゆったりとした服を着た、どことなくアスカに似た女性だ。そう思うのは彼女と同じ深紫色の瞳の色のせいだろうか。
 誰だろう??
 「よっと!」
 彼女は掛け声一つ。桟橋へと直接、僕の前へ飛び降りてきた。
 「どうしたの、その顔は?」
 小さく首を傾げて僕を見る。
 「いえ、どちら様かな、と」
 「へ? 私が分からないの?」
 呆れたように彼女は言い、長い髪をくくりあげて右目を手で隠す。
 するとそこには見知った顔があった。
 「ミース?」
 「そうよ、何で分からないの?」
 首を傾げ、桟橋の端に腰かけるミース。僕もその隣に腰かけ、サンダルを履いたまま足を海水に浸した。
 「言葉遣いが違うね」
 一番の疑問を答える。
 素足に感じるのは、初夏を思わせる周辺の空気よりも冷たい感触。うっすらと感じていた暑気が薄れていく。
 「まぁ、こういう時もあるわよ」
 笑う彼女の髪が風に流れ、仄かな石鹸の良い香りがした。
 僕は改めて彼女の顔を見つめる。
 笑みの中に見えるのは、しっかりと存在する両目だ。
 「隻眼は嘘だったのかい、何でまた?」
 「海賊って言えば髑髏に眼帯じゃないの」
 当然、という風に言い切った。
 あまりのさっぱりとしたその態度に僕達二人はしばらくの沈黙の後、ほぼ同時に押し殺した笑いを漏らす。
 今のミースはどう見ても海賊の頭領には見えない。普通の女の子だった。
 「私にはね、兄がいたの」
 彼女は突然にそう言った。
 「兄?」
 「そう。父は叔父さんが跡を継がなかったから、兄に託したの。でも兄は魔法に興味をもっちゃって、家を出てアークスのエルシルドって街に行っちゃった」
 意外な地名が出てきた。
 もしかしてちゃんと彼女の兄がエルシルドにいたとしたら、学院で会っている可能性もある。
 「賢者の街エルシルドか。ちゃんと賢者になれたのかな?」
 「どうかしら、ここを出て行ってそれきり音沙汰なしなのよ」
 群青色の空に輝き出した一番星を見上げながら、ミースは続ける。
 「ずっと前のことだけどね。それにショックを受けて祖父は持病を併発して寝こんだわ。それ以来、悪いことが続いたのよね」
 ふぅ、と溜息一つ。彼女は小さく笑って言った。
 「かつての部下が下克上したり、お金持ち逃げしたり、手練れを引き抜かれたり、船を盗まれたり、ホントに行き詰ってた」
 「先代は晩年にかなり苦労したんだね」
 「ええ。心労も重なって亡くなったわ。私は海賊稼業はこれでおしまいにしようかと思ったけど」
 ミースは未だにお祭り騒ぎの続くアジトを一瞥。
 「こんな状態でも、祖父が亡くなっても黙って付いてきてくれる部下達がいた。だからこうして海に出たの」
 「クローの一族としての責任感かい?」
 その僕の問いにミースは少し考え、そして小さく首を横に振った。
 「0とは言わないわよ。でも結局のところ私は、海が好きなんだって分かってたから」
 すっきりとした顔で、彼女はそう答えた。
 「だから今の海賊達の無法ぶりには耐えられなかったわ。でも大々的に旗を揚げる最初の勢いがなかなか得られなかった」
 僕の目をまっすぐに見て、彼女は告げる。
 「貴方には感謝している、ルーン・アルナート。ありがとう」
 「どれくらいの力になれた分からないけれど、新たな英雄クローの伝説の序章には載せてもらえそうで幸いだよ」
 「お話として語り継がれるには、まだまだ全然実績が足りないわ。登場人物になりたいのなら、私の右腕になるくらいにまで活躍してもらわないとね。どうかしら?」
 僕は小さく首を横に振り、お誘いをお断りする。
 「僕も海は好きだよ。ミースがこれから作ろうとする海の世界を楽しみにしている」
 「ええ、楽しみにしていなさい。きっと途中で船を下りてしまったことを悔しがるわよ、ルーン」
 海賊の時にはないその優しい表情に、僕もまた微笑み返した。

<Camera>
 彼女は羽ペンを紙の上に置く。
 ガートルートの復興はこの短期間に驚くほどの進捗を遂げた。
 それは元々この土地が通商上の要地であったことにも起因するが、法をかなり甘くし、税を軽くしたのがその原因の主なところかも知れない。
 それに比例して治安も下がってきてはいるが、それに関してはガロンやケビンといった者達がいるので落ちるところまで落ちるということはないだろうと彼女は踏んでいる。
 一方で龍公首都アンカムの不穏な動きが目下の問題だ。
 伝聞によれば、幼い龍公の名において騎士や傭兵などの戦力を集結しつつあるらしい。
 そして彼女。ローティスには個人的に一つの心配事があった。
 彼女と旧知の仲であり、友でもあるセレス・ラスパーン――アークス王家御用足しの商家ラスパーン家の長女。
 復讐の為に騎士になった親友である彼女が一通の置き手紙を残してこの地を去ったのである。
 「セレス、一人でできることには限りがあるのよ」
 カーテンすら閉め切った暗い部屋でローティスは残されたその手紙を懐から取り出す。
 そしてそれを蝋燭の炎に近付けた。
 一瞬、明るい光を放つとそれはゆっくりとその形を白い灰とし、この地上から消え去った。
 ローティスはそのまま蝋燭の炎を見つめ続ける。
 「貴女の行く道に幸あらん事を」
 一つ祈り、彼女は脳裏から友の姿を消し去った。
 そしてもう一つ、目下の課題がある。
 ブレイドは彼女が守らなくてはならない。戦いは戦いでも剣での戦いではなく、駆け引きの戦いだ。
 「ブレイド、か」
 彼女は思い出す。
 あの時、死を恐れたのはブレイドの優しさを知ったから。自分に向けられるそれを失いたくはなかったから――だから『死』を恐れた。
 「馬鹿ね、私は」
 寂しく微笑み、両手で自分の肩を抱く。
 そんな時、唐突に暗い部屋の扉が勢い良く開かれた。
 「ローティス、昼飯食いに行こうぜ」
 ブレイドの陽気な声に。
 「うぁ、暗っ。部屋の主の性格を表しているかのように暗っ!」
 キースの驚きの声が部屋の中の静寂と薄闇を汚した。
 瞬時に二人の額に拳大の文鎮がクリーンヒットする。
 「ノックくらいできないのかしら? 相変わらず常識が足りないわね」
 「常識のある人は文鎮を投げつけたりしないと思うぞ」
 「案外、剛腕っすね」
 ブレイドとキースは額をさすりながら答えた。
 「まぁいいわ。もうお昼なのね」
 扉からの日の光に、眩しそうに目を細めて彼女は呟いた。
 「キヅキが先日城を出て行きましてね、下町でウェイトレス始めたそうで、安くするから是非とも来てくれって」
 キースは立ち上がるローティスに告げる。
 「へぇ、あの娘がウェイトレス? やっていけるのかしら?」
 ローティスは彼女の無表情な顔を思い出す。あの顔が笑っているところを見てみたい気もする。
 「それじゃ、行きましょうか。団長殿のおごりでね」
 「そうっすねー」
 どさくさ紛れのキース。
 「おいおい、ワリカンだぞ。聞けよ、俺の給料は安いんだぞ!」
 ブレイドはさっさと行ってしまう二人の背を追った。


 セレスは馬を止め、振り返る。
 復旧を遂げたガートルートの城壁が彼女の目の前にそびえ立っていた。
 「さようなら」
 無表情なその横顔に一瞬陰りを見せ、彼女は城壁を背にする。
 「ハッ!」
 彼女は一人、南に向かって馬を駆る。
 その砂煙の後にはアークス騎士副官の襟章が主を失い、地面の上で輝いていた。


 彼は目を覚ました。
 本当に、本人が驚くほどにぐっすりと寝たような気がする。
 ザートはベットから身を起こした。軽く首を鳴らし、立ち上がる。
 気分も軽いが、身体もいつも以上に調子がいい。
 「そう言えば俺、いつ寝たんだっけ?」
 眠りにつく前のことを思い出そうとして、しかし記憶がぼやけている。
 「まぁ、いいや」
 楽天的な彼は考えるのを辞めて、服を着替え、胸鎧を着込む。
 その上から防寒用のマントを羽織り、最後に枕元に立てかけられている大剣を背負った。
 「さてと、外の空気でも吸うか」
 彼がテントを出ようとしたその時、ちょうど入り口をくぐったところで何かが彼の胸にぶつかった。
 「よっと、ユーフェ。歩くときにはちゃんと前を見て歩けよな」
 ぶつかってきた彼女を受け止め、彼は言う。
 「ザート?」
 ユーフェは彼を見上げる。呆然とした表情に騎士は笑う。
 「何だよ、幽霊でも見るような目で」
 首を傾げるその時には、ユーフェは彼に抱きついていた。
 「い、一体何なんだよ、ユーフェ??」
 しかし彼女はそれには答えず、何かを我慢するように無言で彼を強く抱きしめた。
 どうしたものかと、おろおろする彼の視界の隅に足早に近づいてくるダークエルフの2人の姿が映る。
 自然と彼は救いの目を苦笑いを浮かべる彼らに向けていたのだった。


 ザートは一週間寝こんでいた。
 そもそも本人に自覚は薄かったが、彼が無銘の聖剣を手にした時から彼に異変は起こっていた。
 彼の気質とは異なる力が剣から無理矢理注がれ、その代償として彼の生命力が少しづつ吸い取られていたのだ。
 一度、剣とつながってしまったラインを切ることは難しく、呪いに近いこの症状はここブラックパスに駐留する魔術師や聖職者達には解決することはできなかった。
 しかし吟遊詩人のシフが扱う魔術薬により、剣とザートとのラインの修正がなされて彼は回復に向かったのだ、ということだった。
 「ユーフェが心配したのなんのって…うぷ」
 駿牙の言葉はユーフェの押し付けたクッションによって飲み込まれる。
 「ともあれ治って何よりだ」
 しみじみ呟く徨牙にザートは頷く。
 「まったくだ。あの吟遊詩人にはどこかで再会したいものだ。礼を言わないとなぁ」
 彼はそう言うと、ユーフェに振り返り、
 「それに、ありがとな、ユーフェ」
 笑って彼女の頭をクシャっと撫でた。
 「ちょ、ただ普通に看病していただけよ、フツーに!」
 顔を伏せるユーフェ。
 「吟遊詩人のシフ、だったか。ユーフェは確かに聞いたのだな、錬金術と」
 思い出したように言った徨牙の言葉に、ユーフェは顔を上げる。
 「え、えぇ。錬金とか言ってたけど、徨牙は知ってるの?」
 「錬金術とは太古に開発された学術体系だ。すでに死んだ学問と言って良いだろう」
 長寿であるエルフ族の彼が『太古』と言うほどだ。恐ろしく遠い昔のことなのだろう。
 錬金術とは簡単に言えば、どこにでもある物質から金を生み出そうとする術だ。
 突き詰めていくと、全ての力――自然のエネルギーや人の命までが元を辿れば一つであり、その根本たる物質プネウマを生み出す秘薬エリキサ―――を作り出すのが彼らの最終的な目的であったとされる。
 真実の近いところまで行きつけたと徨牙は伝承で聞いているが、大昔に捨てられた死学を知る手段は現在はない。
 「興味深いところではある」
 「まだまだ私らの知らないことが多いね、この世界は」
 駿牙が笑って徨牙の肩を叩いた。
 「と、ところでさ、ザート?」
 「ん?」
 ユーフェはザートにおずおずと問うた。
 「ザートって、どこかの小さな村の出なんだよね?」
 ためらうように尋ねた。それにザートは首を捻る。
 「生憎と俺は幼い時の事はあまり覚えていないんだ。その時その時生きて行くのが大変だったからね。でもあまり大きくない村だったような気はするなぁ」
 彼はそう答える。
 「だが、どうしてそんなこと知ってんだ? 俺でもよく覚えていないのに」
 「ん、まぁ色々と。でもあまり覚えていなくても、あの天使については心当たりがあるんでしょう?」
 質問を濁しながらも、魔術師は剣士に尋ねた。
 ザートは無言で頷き、しばらく思案した後に口を開いた。
 「何がどうであろうと、俺達は天使からこの一帯を守らなきゃならない。守っている内に分からなかったことは次第にはっきりしていくと、俺は思う」
 「そう。じゃあ最後まで見せてもらうことにするわ。ね、徨牙?」
 女エルフの言葉にフードを目深に被った魔導師は、その奥の表情におそらく苦笑を浮かべながら頷く。
 その時だ。
 バサリと布の音を立ててテントの入り口が開いた。
 自然と4人の視線はそこに向かう。
 「やっほ〜。ユーフェちゃん、いるぅ〜?」
 のんびりとした口調はしかし、その声色はユーフェと同一のもの。
 4人の前に姿を現したのは、ユーフェと瓜2つ。しかしユーフェの纏う白い魔術師のローブとは異なり、紫紺のローブを羽織っている少女だった。
 「なんだ? いや、違うな。血縁者か」
 ザートは素早く理解する。目の前の少女は彼の良く知るユーフェとは異なることを瞬時に見抜いたのだ。
 「バストのサイズが明らかに異なる。歳も2つ3つは上だな、姉と言ったところか」
 「いえ、まぁ、そうなんだけどさ。ふつふつと湧き上がるこの怒りはどうしたら良いかな?」
 ひきつった笑みを浮かべて、彼の隣のユーフェがザートを睨む。
 「何の用、ナーフェ姉さん。こんな僻地に足を運べるほど、姉さんは暇な立場じゃないでしょう?」
 「もぅ、つれないなぁ〜、ユーフェちゃんは〜」
 遠慮なくテントに入り込み、手近の椅子に腰かけてナーフェはしみじみと妹を見つめる。
 「近くを寄ったから、ユーフェちゃんの顔を見にきたのよぉ。よかったぁ、元気そうで。ちっとも連絡入れてくれないんだもの、心配で心配で〜」
 「心配って……いつまでも子供じゃないんだから」
 「じゃ、彼氏かなにかでもできたのぉ?」
 「どうして『じゃ』なのよ」
 明らかに苦手なものに接するような態度でユーフェは言う。
 仲が良いのか悪いのか、それなりのコミュニケーションを交わす終いを眺めながら、駿牙が小声で徨牙に囁く。
 「顔はそっくりね」
 「性格はかなり違うようだがな」
 「体格も全然違うな。ユーフェの奴、何か吸い取られてるんじゃないか?」
 ザートが徨牙と駿牙の会話に、やはりこちらも小声で加わる。
 こそこそと話をする三人に気付いたナーフェは彼らに向き直り、微笑んだ。
 「妹がお世話になってますぅ、私は姉のナーフェ、アークス宮廷魔術師団の団員ですの」
 「宮廷魔術師団? ユーフェと同じなんですか?」
 やや驚きの表情でザートは問う。
 「ええ、私達は姉妹で団長さんにスカウトされたんですぅ。ところであなたは?」
 「失礼しました。俺はザート・プラン。アークス第七騎士団に所属しています」
 襟を正し、ザートは答えた。地位的にはナーフェの方が上であるからだ。
 ナーフェはザートを見つめる。言葉遣いは間延びしていて間が抜けているように思われがちなナーフェだが、ザートは彼女の自分の中をも見通すような視線に身動きが取れなくなっていた。
 それは時間にして2,3秒。
 ナーフェはそして、驚いたように両手を口に当てた。
 「あらあらあら、ユーフェちゃん。この人、あなたの何なのぅ?」
 「へ? 何って」
 「彼氏って言うんだったらぁ、狙わないでおいてあげようかなぁ、なんて思ったりなんかして」
 唐突にナーフェはユーフェに言い放った。
 「な、な、な、何言ってるのよ!」
 妹は姉に叫ぶようにして言った。
 「そもそもどうしてここに来たの?! 近くを寄ったからじゃないはずよ」
 ユーフェは話題をさくっと変えて食らいつくように言った。
 ナーフェはそんな妹に小さく笑って返す。
 「せっかちねぇ、そんなんじゃ彼氏に愛想尽かされちゃうわよ〜」
 「だ、だから」
 「私、団長さんに頼まれてラグランジュ、だっけ? 地の転移点とやらにちょっと用事があるのぉ。はい、これがリース様の承諾書なのね」
 ナーフェは言って懐から一枚の紙を取り出す。
 それには確かに地の転移点への立ち入り許可を示したリースの認印。そして依頼書にはルースのサインがある。
 「それでぇ、ユーフェちゃんに案内してもらおうかなぁって思ったりなんかしてぇ」
 「ルース様の指示って……何をするの? あれは危険よ、現に私だって」
 言い掛けるユーフェの口をナーフェの人差し指が止めた。
 「大丈夫よぉ、ユーフェちゃんは根が真面目だからねぇ。私はのんびり屋だからいつも通りに安全運転よぉ」
 ユーフェは言葉を詰まらせる。ユーフェの失敗はすでに聞き及んでいるのだろう。
 「さて、話もついたようだから案内しますよ。行きましょうか」
 ザートが二人の間に割って入るようにテントの入口に歩み寄った。
 「天使たちの狙いが転移点にあるにしろ、その他にあるにしろ、どちらにしてもあそこは調べなきゃならないと思っていたからな」
 「違いない」
 ザートの言葉に徨牙は頷く。その後ろでは武装を点検する駿牙が続く。
 「それでは、出発ぅ〜」
 ナーフェの緊張感のない、のんびりした声がテントに響く。


 いくつかの兵の和を抜けて、ザートとナーフェ、そしてユーフェと駿牙、徨牙の五人はかつて探索が失敗に終わった古神殿の地下へと再び足を踏み入れる。
 「ふぅん、比較的新しいものねぇ」
 周囲に光源としての光の球を浮かべて、ナーフェは薄暗い遺跡の天井を見上げた。
 「新しいんですか?」
 前を行くザートの問いに、ナーフェは微笑んで答える。
 「うん、4〜5百年くらい前かなぁ」
 「いや、古いだろ」
 ザートのツッコミにナーフェは小さく微笑んで続ける。
 「転移点とは、神々がまだこの大地に存在している頃に作られたと言われているの」
 魔術師は今までのように間延びした口調ではなく、はっきりとした言葉遣いで言った。
 「作られた?」
 こちらは徨牙の問いだ。
 「ええ、転移点は世界創造を司るプログラムの一環に過ぎない。神々がこの地を去る際にこの世界がプラスにもマイナスにも、どちらにも傾かないように作られた天秤のようなものよ」
 彼女は答える。一方で徨牙は彼なりの見解があるが専門外と考えたのか、彼女の言葉を促した。
 「プログラムっていうのは?」
 「地水火風という最も大きな力を、それぞれ吹き溜まりのように一ヶ所に集中させるようにしたもの―――それが四大転移点」
 薄暗い階段を一歩一歩下りながら、ナーフェは教師の様に解説した。
 「それはある条件を満たした存在にのみ、純粋な力として作用する。その存在こそがその時点でのプログラムコア。人々には英雄とも言われるし、人柱であったりもするわ」
 ザートはナーフェの事務的に紡ぎ出される言葉に頭を捻る。駿牙にしても同様のようだ。
 「だが実際にユーフェは、ここの力を引き出して使ってみせましたが」
 「正気は失っていたがな」
 ザートの問いに駿牙は追加、ユーフェは憮然とする。
 「ユーフェちゃんが使ったのはここの力の表層部分。むしろ澱というか、本質じゃないおまけの部分ね」
 さらにユーフェは憮然とした。
 「おまけであっても、莫大な魔力に相当するから天使や魔族たちが魅かれてやってくるのね。でもここに関して言えば天使たちの攻撃はそれだけじゃないけど」
 「では何に?」
 騎士の問いにナーフェは「さぁて」と答えるだけだ。
 「続けましょう。神々は転移点を無関係な存在に利用されることを禁止した。特定の条件を備えた存在のみに作用すると言っても、そのメカニズムを理解すればセキュリティが突破される可能性も推定したのでしょう。そこで四つの転移点に扉という封印を施してそれを守る守り人を配し、さらに彼らに来るべき存在に対してそれぞれの力を十二分に発揮できるよう神器を与えたの」
 「で、でも」
 ユーフェは前を行く姉に問う。
 「扉の封印だけど、ここにはそんな神代の時代になされたような強力なものはなかったわよ。それに守り人なんてのもいなかったし」
 「扉の欠落については、ここが一度来るべき存在によって扉ごと破壊されたからよ。そして同様のことが、この地の転移点の他に火の転移点についても言えるわ。この二つはかつて開封され、その後簡単な封印がなされただけ。もっともそんな封印でも、普通の魔族や天使の目を欺くには十分だったみたいだけど」
 「扉の開封ではなくて破壊か、どうも前の『特別な存在』とやらはバカだったようだな」
 徨牙の呟きにも似た言葉に、ナーフェは頷いた。
 「自分の役割もよく分かっていなかったみたいだし。でも神の作り出したものを『破壊』できる力の持ち主というのは恐ろしいことだわ」
 やがて5人はかつて土人形達と戦闘を行った地下神殿へと到達した。
 遠くに巾三リール、高さ五リールはある純白の大理石で作られた扉があるはずだ。そこが地の転移点である。
 扉の表面には龍や天使、魔族などを象徴した複雑な文様がびっしりと刻み込まれていたことをザートは記憶している。
 「かつての開封というとこの土地の伝承にある魔王イリナーゼに関することか?」
 問いは徨牙だ。
 「いいえ、魔王の件はそれこそ4,5百年前のこと。開封はここ最近、十数年前のことよ」
 はっきりとナーフェは答えた。
 彼らの前に広がる地下神殿は、整然と敷き詰められた石が奇麗に平らに磨かれ、横に十数リールの通路として先まで延びている。
 両壁面には5〜6リールおき人型の像が並べられていた。
 なお、かつて四人が対峙した尽きることのない土人形の衛兵達は、すでにミアセイア王子によりその魔術効果を消去されて今は彼らを阻む者はいない。
 「へぇ、外よりもずいぶん暖かいのねぇ」
 口調が元の、のんびりとしたものに戻るナーフェ。
 大理石のように綺麗に磨かれた石の地面と壁面は先へ進むといつしか剥き出しの普通の土へと変わっていく。
 やがて先頭を行くザートの足が止まる。
 彼の視線の先には、彼らが明かりとして従えているのと同じ魔術光の球が三つ見えた。
 光に照らされ、近づいてくる毎に輪郭がはっきりとしてくる。ザートは背の剣に手をかけて身構える。
 対する相手は彼らとは正反対に、全く気にせずに近づいてくる。
 「ミアセイア王子?」
 相手の表情を見てユーフェは呟く。同時。
 「彗牙? 彗牙じゃない!」
 駿牙の声が重なる。
 魔術光に照らされた二人は、赤い法衣を纏った黒髪の若者とダークエルフの娘だった。
 ダークエルフの娘は五人の誰とも目を合わせないように下に俯き、若者はナーフェと目を軽く合わせると何もなかったように横を通りすぎて行く。
 残る4人はその後ろ姿をただ見送るしかなかった。
 「彗牙の奴、どうも近頃姿を見せないと思ったら」
 光が遠くになってから駿牙は呟いた。
 「しかし様子が変だったな。目を合わせまいとしていたが、何をしているんだ?」
 「彗牙も子供じゃないんだから大丈夫でしょう? あの王子にしても悪い奴じゃなさそうだし」
 「どうしてそう言えるんだ?」
 ザートの問いに駿牙は徨牙を指さす。
 「あの王子は徨牙ほど不気味じゃないし」
 その言葉に徨牙はがっくりとうなだれる。それを完全無視してユーフェは呟くようにして言った。
 「ミアセイア王子が何をやっていたかは気になるわ。ちゃんと許可を取ってあるのかしら?」
 しかしすぐに思い直したように姉に振り返った。
 「さ、着いたわ、姉さん。ここよ」
 行き止まりの土壁には立派な細工を施された大きな両扉が無造作に取り付けられている。
 その前には土が盛られただけのように見える祭壇らしきものがある。
 今でも初めて来た時と同様、その祭壇と言わず壁と言わず強力な力を、魔術を知らないザートですらそれなりに感じている。
 「さぁて、それじゃあ、お仕事を始めますかぁ。ミアセイアちゃんみたいに魔力のつまみ食いする人もいることだしね」
 ナーフェはそう言うと無造作に祭壇へと歩み寄り、胸の高さまであるその土の祭壇の上に両手を付けた。
 途端、風もないのにナーフェのポニーテールに結んだ髪は解け、纏う紫紺のロ−ブが定まらぬ風の中にいるようにはためいた。
 まるで眠っていた獣が起きたように、押さえつけられていた大地の力が下から溢れ出したかのようだ。
 「姉さん!」
 危険を感じて叫ぶユーフェとは裏腹に、ナーフェののほほんとした表情は崩れる事なく、そのまま静かに目を閉じて湧き出る力の奔流に身を預けているかのように見える。
 やがて力の流れは小川のせせらぎのように静かなものとなり、そして収まった。
 ナーフェはゆっくりと目を開け、乱れた髪を手で撫で付けながら四人のところへと戻ってくる。
 「四大転移点ではそれぞれの精霊の王に会えるって言われているのぉ。現状に満足して欲しいものが何もない人なら力に振り回されることはないわぁ。それに私みたいに唯、地の精霊王に会いたい人とかもねぇ」
 さらりと言う内容は、咀嚼すれば大地の精霊王に会ってきたことを意味する。
 それを理解する前にナーフェは言葉を続けた。
 「ユーフェちゃんは真面目だから強くなりたいとか思うでしょう? だから力に飲まれちゃったのよぉ」
 髪を下ろしたナーフェは笑って言った。下ろすとやはりユーフェとの歳の差のぶん、大人びいて見えた。
 「それと封印が甘かったからちょっと固く締めなおしておいたわ」
 まるでバルブを回すかのように右手をひねりながらナーフェは言う。
 「これで天使達の侵攻が弱まればいいんだけど、その辺はちょっと分かんないわねー」
 確かにナーフェが何かをする前と比べ、この祭壇周りから感じる殺気のような、濁流のような力の奔流は消えて小川のせせらぎ程度になっているようにザートには感じた。
 「で、姉さんは地の精霊王と何を話したの?」
 「ひ・み・つ」
 ユーフェの問いに人差指を小さな唇に当てて答えるナーフェ。
 「ルース様は同じような事を他の転移点でもやらせているの?」
 「さー、どうでしょー」
 その表情には肯定とも否定とも取れないものが見えていた。
 「ところでユーフェちゃん、一仕事したらお腹すいちゃった。何か食べよぉ、ね。ザートさんも駿牙さんも徨牙さんも」
 「ちょ、ちょっと、姉さん!」
 ナーフェに背中を押されて、ユーフェは仕方なしに祭壇の前を後にする。
 「ん?」
 その時、ザートは何かに気づく。
 「おい、徨牙。これなんだと思う?」
 「?? レバー?」
 土の盛られただけの祭壇の下、無造作に二十セリールほどの木の枝のようなものが刺さっていた。
 前回は戦闘中だったので気づけなかったが、明らかに不自然な棒だ。
 徨牙はその棒を掴んで下へと下げる。
 がこん
 そんな音がして、右手の壁からごごご…と重い物が動く音がした。
 「隠し部屋?」
 ただの土壁と思われていたところには、人2人が通れるほどの通路が現れている。
 長い間開け放たれたことがないようで、かび臭くどこか冷えた空気が彼らの足元に流れてきた。
 ザートと徨牙は顔を合わせる。
 「……これは行ってみるしかないな」
 「わくわくするな」
 「男っていくつになってもこういうギミックが好きよねぇ」
 駿牙が我先にと前を行く男2人の背中を眺めてため息とともに呟いた。
 隠し通路は短く、すぐに1つの部屋に行き当たる。
 「ここは?」
 小部屋といった感じの、当然周囲は窓もない、しかし磨かれた石に囲まれた部屋だった。
 「何かしらね?」
 ユーフェが灯りである魔術光を強めに調節すると、部屋全体が明るく照らし出された。
 部屋の中心には小さめの丸テーブルと椅子が2脚。
 化粧台にクローゼット、そして石壁の半面を覆う大きな鏡があった。鏡は長い月日のせいか、白くくぐもっている。
 「あら、なんだか女性の衣裳部屋みたいな感じね」
 「いや、衣裳部屋そのものだな」
 クローゼットを開け放った徨牙は、そこに朽ちた衣装が数多く散らばっているのを発見する。
 その風化した衣装の中に彼は手をおもむろに突っ込むと、何かを引きづり出した。
 それは長い月日の中でも色褪せることなく当時のきらびやかさを保持した、一着の緋色のドレスだった。
 「あら、素敵ねぇ」
 純粋に歓声を上げるナーフェだが、隣のユーフェは眉を寄せる。
 「なにそれ。なんだか凶悪な付加魔術がべったりついてるんだけど……そもそもその素材、魔物の毛とかじゃないの?」
 「みたいだな。よく調べなくては分からないが、着用者の生気を吸い取って、代わりに多大な魅力を周囲に発散するようだ」
 「私が着たらどうなるかしら?」
 駿牙のからかうような問いに、徨牙は真面目に回答する。
 「袖を通した途端にミイラ化すると思うが」
 「まぁ、素敵ねぇ」
 説明を聞いても同じセリフのナーフェにそのドレスは献上された。
 「化粧品は完全に朽ちてるわね。もしかしてここって、例の魔王の秘密の衣裳部屋じゃないかしら」
 ユーフェの推理に一同は頷く。
 「だが魔族とかって、鏡に自分の姿が映らないんだろう? 身支度とか、1人でするもんなのか?」
 ザートはそう言いながら、くぐもった鏡を手でこすってみる。
 すると白かった鏡はぼんやりと彼の顔を映した。
 その彼の背後にいる天使の姿も、だ。
 「んなっ?!」
 後ろを振り返り、身構えるがそこには何もいない。
 恐る恐る鏡を見返すと、やはり彼の背後には1人の天使がいた。
 しかしそれは目を閉じて両手を胸の前で合わせ、まるで眠っているかのようだ。そしてその顔には見覚えがあった。
 「この剣を渡した天使、シーケンスとか言ったか」
 彼の言葉に鏡に映る天使の眉が小さく動いたが、そのまま眠りは継続する。
 「あー、これって照魔鏡ねぇ」
 彼の隣にナーフェは歩み寄り、徨牙からもらったドレスでおもむろに鏡を拭いた。
 すると鏡に付着した埃が嘘のように取り払われ、そこに5人が映し出される。
 正確には5人プラス、その他大勢である。
 ザートの背の大剣に寄りかかるようにして眠る天使の女と。
 ナーフェの背後にまるで山の様に積み重なってうごめく死霊達。
 「「!?!?!?」」
 ユーフェ以外の3人は鏡に映る異常な映像に強張った。
 「照魔鏡は魔族や天使と言った鏡に映らない精神体も映し出すことができるの。だから姉さんの持つ死霊も映るのね」
 ユーフェは納得したように言うと、思い出したように3人に告げた。
 「姉さんは死霊使いなの。言い忘れてたわ」
 「そうなのー」
 「「そうですか」」
 心持ち、一同とナーフェとの距離が開いた気がする。
 「ともあれ、魔族の王たるイリナーゼがこれを用いていたのは間違いないようだな」
 徨牙は納得したように言った。すると駿牙がぽん、と手を打って言う。
 「えーと、もしかして天使達の目的って、コイツを奪うことじゃない?」
 「どういうこと?」
 ユーフェは首を傾げる。
 「たしかシャイロクさんに聞いたんだけどさ、天使達はどうも『人』を真似たい傾向にあるとかどうとか言ってたよね」
 「なるほど。真似るは良いが、己の姿を見ることができないからそれを確認する手段が欲しい、と」
 徨牙が合いの手を打って告げた。
 「そうねー。照魔鏡自体、希少なものだし、これだけ大きなものなんて見たことないものねぇ。その線はアリかも〜」
 「ならさ」
 ザートがナーフェに言う。
 「こんなものだったら、天使にくれてやっても良いんじゃないか? それで攻撃の手が緩むのなら、儲けもんだ」
 「……それはここの司令官であるリース様の判断次第じゃないかしら〜」
 もっともなことを言われ、一同はとりあえずこの場を後にしたのだった。


 この時期に珍しく月の明かりのない澄んだ星空の下、ナーフェは微笑みを浮かべながら天を見上げる。
 「じゃあね、ユーフェちゃん。また近いうちに会いましょうねぇ」
 視線を正面に戻し、彼女は愛する妹に言った。
 「姉さんも無茶しないでよ、何をやってるんだか分からないけどさ」
 ユーフェの憮然とした言葉に、しかしナーフェは変わることのない微笑みを向けるだけである。
 「そうそう、ザートさん。貴方に伝言があるのぉ」
 彼女はその隣の人物へと視線を移した。
 「俺に?」
 騎士は首を捻る。
 「ええ。私が死霊使いってことはさっき知ったでしょう?」
 「ああ。本物はもっとおどろおどろしいものかと思っていたけれど、ナーフェさんは違いますね」
 「そーかしら? まぁいいけど。でね、貴方の後ろの人からの言葉を伝えるわね」
 「前言撤回して良いですか?」
 その意見は無視された。
 「生きなさい、貴方のためにも。そして貴方を取り巻いていくであろう、人達の為にも。私は貴方をいつまでも見守っていてあげるから」
 ザートの古い朧げな記憶に残った面影をその身に纏い、ナーフェは告げる。
 「そうか、ありがとう」
 騎士は紫紺の魔術師の、現実の裏を見るような不思議な瞳を見つめながら微笑みを浮かべた。
 「しかし後ろの人ってのは、死霊使いの貴方の目に映った人か? それとも照魔鏡に映ったあの天使のことか?」
 「風と光よ、私を包みあの人の元へ」
 ザートの言葉には答えず、ナーフェは転移魔術を発動させて光に包まれる。
 「貴方達に幸、あらんことを。それからザートさん、ユーフェをよろしくね!」
 言い残し、ナーフェは天高く消え去った。
 星の間を駆け抜ける流れ星を見上げた駿牙の頬に、白いものが落ちてくる。
 「また降ってきたか、もう雪は終わったと思っていたのに」
 徨牙のうんざりとした声。星空は次第に厚ぼったい雲に遮られていく。
 「俺はテントに戻るぜ、おやすみ」
 ザートは振り向かずに三人に向かって右手を挙げて歩き出す。
 「あ、ちょっと待ってよ、ザート!」
 ユーフェが彼の背中を追って駆け出した。
 「転びなさんなよ、ユーフェ」
 駿牙の言葉が終わるか終わらないかのうちに、ユーフェは足を滑らせてザートの背中に激突していた。
 「駿牙、お前も気を付けろよ」
 二人の様子を見て、徨牙は隣を行くエルフに言う。
 「あら、珍しい。あんたが人の事を心配するなんてさ」
 さも珍しいと言わんばかりに口に手を当て駿牙は驚く。
 「そんな夜もあるさ」
 彼には珍しく一瞬微笑みを浮かべると、やや歩足を速めて歩き出す。
 それに駿牙もまた、彼の背を追いかけるようにして軽足で進み始めた。


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