この最果ての村に一件しかない宿屋。
 その一室に彼女は宿泊している
 ベットが一つと簡単な机と椅子が一つ――部屋のベットの膨らみに幾つかの視線が集まっていた。
 常人には感付く事のできないそれら気配は刃となって天井を――窓を突き破り、ベットの上の布団にくるまったそれに次々と突き刺さる!
 確かな感触が暗殺者達の手に伝わってくる。
 全員が同じ短刀を用いていた。やや反りがあるが磨き上げられた業物であることは一目で推察される。
 バン!
 一瞬遅れて、部屋の扉が外側から乱暴に開かれた。
 そこには一人の男が抜き身の剣を手に提げて立っている。
 布団に刃を突き刺している六人の刺客の内、五人が一斉に懐から手裏剣を取り出し投げ付ける!
 キィン、キィン、キィン!
 複数のそれらを、男は手にした剣で次々と打ち払い、一気に間合を詰めた。
 黒装束に口許まで身を包んだ刺客達は布団に突き刺していた短刀を各々引き抜き、連携した動きで男一人に接近戦を仕掛けた。
 が、それが彼らにとっては誤った選択であった。
 男の剣は一太刀ごとに一人を確実に切り伏せて行く。
 最小限の動きで刺客達の繰り出す刃を交わし、ものの数秒で五人を切り殺した。
 手抜きのない、確実に急所を捉えた斬撃だ。これが広い場所ならば結果は異なっただろう。
 狭い部屋故に、男と直接相対できる刺客は良くて2人同時だった。
 「これ程までの男がこの女に従っているとは。だが目的は達成した」
 最後の一人は叫び、玉砕覚悟で男に切り掛かる。
 ザン!
 軽い一太刀で刺客の右腕がその手にした短刀ごと床に落ちた。
 「残念だったな」
 男はそう刺客に告げて、ベットの上の布団を取り上げる。
 するとそこにあるものは死した人ではない。おそらく下の食堂に保管されていたのであろう、巨大な生ハムだった。
 「そんな、バカなっ」
 片腕を切り落とされた刺客は呆気に取られる。
 「今日は新月だからな。姫が狙われていることは予想していたから、今日仕掛けてくることは見当が付いていたのさ」
 男――シャイロクは抜き身の剣を一人だけ生き残った刺客に突き付ける。
 「あのハゲに伝えるが良い。今に尻尾を捕まえてやる、と」
 「クッ」
 刺客は身を翻すと、割れた窓から身を躍らせてこの場から逃げ去っていく。
 それを見届けた後、シャイロクはベットの上の生ハムを肩に担いだ。
 そして床に転がった短刀の1本を拾い上げる。
 「忍者か。しかし最近は道具は良くても質は落ちたようだな」
 一人呟き、部屋を出て扉を閉める。
 後には無残な五つの死体が星の明かりに照らされているだけだった。


 打ち付けるような突風が吹きすさんでいた。
 左手に海を一望できる崖を、右手に切り立った岩壁を手に当てながら二人は細い岩肌の道を行く。
 清々しいほどに晴れ渡った空の下、燦々と夏を思わせる日差しが照り付ける。
 サマートから半日南に歩いた森の奥、海に面した標高二千リールクラスのごつごつとした岩肌が目立つ山とそれに連なるように緑に乏しい渓谷が続く。
 その岩山の山頂付近まで彼らは到達していた。
 「大丈夫か。クレア?」
 黄色い神官着を身に纏う、前を行く女性に男はその背後から声を掛ける。
 「平気よ、何度か来たことあるし」
 そう言葉を紡ぎ出した途端、突風が吹き付ける!
 「危ない!」
 アレフはクレアを崖面に叩き付けた。豪快に彼女の額が岩にめり込む。
 「ぬぁにすんのよ!」
 風が止んだ途端、クレアはアレフにボディブローをかました。
 「いや、だって風が」
 「そんなものに吹き飛ばされるほどヤワじゃないわよ」
 腹に受けたダメージを噛みしめつつ、それもそうだなと納得するアレフ。
 しかしながら進んでいるのか分からない、まるで牛歩のような速さでなんとか渓谷を抜ける。
 やがて道は平坦なものとなり、木々が辺りを囲むようになった。
 その木々を観察してアレフは小さく首を傾げる。
 「植えられたもんだな、この木は。こんな岩だらけの山頂にあるはずねぇし」
 ここは標高二千リールを越えている。途中の道が岩だらけだったことも考えると、このような豊富な木々が普通ならばあるはずがない。
 「そうよ。それもある規則に則って植えられているの。木の結界ってとこかしらね」
 クレオソートは付け加えた。と、音もなくその首筋に槍が突き付けられる。
 「動いたらあかんで、そこの戦士や。動くとこの娘の命がないと思ぃや」
 まるで空間から湧き出してきたように、槍を構えた衛士は告げる。
 薄紫色のゆったりとした神官着を着こなした十代前半であろうか、はっとするような美しさを備えた女性だ。
 彼女は手にした槍をクレオソートの首筋に突き付けてアレフに警告する。
 「いつの間に? どういうことだ??」
 隙あらばとアレフは懐の短刀に手を掛けるが、彼女には一分の隙も見当たらない。
 「とまぁ、こんな風に侵入者を感知できたり、気配を消して先手を取ることができるわけ」
 苦笑いを浮かべつつ、クレオソートはアレフに解説する。
 「私の名はクレオソート・マイア。そうゾラ様に伝えてくれれば分かるはずよ」
 光の神官たる彼女は、そう目の前の衛士の少女に告げた。
 衛士はクレオソートをまじまじと見つめ、そして隣のアレフに視線を移す。
 「……なんかチャラい男やな。ゾラ様の知己とは思えん」
 「だってさ。ここで待ってる?」
 「いやいやいや、クレアの警護として来ている俺の立場ないですやん」
 「だから警護なんていらないって言ったのに」
 「歯に衣着せずだなぁ」
 アレフは肩の力を落としつつ、改めて衛士を確認する。
 紫紺の瞳に同色の腰まで流した長い髪。神官着の上から装着されたいぶし銀色の胸当ては龍の彫り物の意匠が施されている。
 真一文字に結んだ唇と険しい瞳からは、アレフの力量を以ても隙を見出せそうもなかった。
 「どちらにしろ、怪しい者をここから先に通すわけにはいかんわ。特にそっちの男」
 クレオソートに槍を突き付けた体勢のまま、衛士の女性はアレフを厳しい目で睨みつける。
 「魔力は大したことはあらへんが、常人の域を逸した体術を得ておるな」
 やや興味深げに彼女はアレフの目を見つめながら続ける。
 「ふむ、人の世界では忍者と呼ばれる特殊訓練と投薬を受けた者か。つくづく色々なことを考えるものだ」
 「なんだ、俺の心を読んだか?!」
 アレフはさらに警戒の色を強くする。
 「読まれてたら今頃この娘、顔が真っ赤になっていると思うけど」
 一方、緊張もなくクレオソートが感想を述べる。
 「俺って四六時中、欲情しているとか思ってないか?」
 「違うの?」
 「ひどい扱いだ」
 「我らと異なり、弱い器である彼らはいかに己を伸ばすかの向上心が強いのだよ、メイセン」
 「尊師!?」
 メイセンと呼ばれる女衛士は背後から、老人の声とそれに伴って人影が一つ現れた。
 日の光を返すほどの禿頭に、胸まである真っ白い髭をもった老人が笑みを浮かべて歩み寄ってくる。
 「久しぶりじゃな、クレオソート。何か訊きたいことがあるようじゃのぅ」
 「はい、ゾラ様。光の子について何かご存知であればと」
 光の神官のその言葉に、老人は一瞬の思案の後に背を向ける。
 「ついてきなさい。わしの知ることを教えよう」
 言葉に、メイセンの槍がクレオソートから引かれる。それを合図にクレオソートはゾラの後を追う。
 さらにその後を追おうとしたアレフの前に、メイセンの穂先が向けられた。
 「お前は呼ばれていないし、ゾラ様のお話を理解できるとも思えん」
 「しかし」
 「光の神官の身に危険が及ぶことは決してないわ。むしろ地上のどこにいるよりも安全や」
 言い切るメイセンに、アレフは溜息一つ。警戒を解いた。
 「仕方ない、ここで君と待つしかないな」
 態度を一変させてアレフは槍を突き付けられているにも拘らず、女衛士に妙に馴れ馴れしく言う。
 「私としては、あんさんにはお引き取り願いたいのだけど」
 「まぁまぁ、そう言わず。君のように美しい人に出会えるチャンスなんてそうないからね。ゆっくりお話ししたいな」
 のたまうアレフ。完全に街中ナンパモードに突入している。
 「美しいって、あんさんなぁ」
 呆れ顔のメイセン。しかし槍の穂先は未だアレフの胸の前である。もっとも当初の理由から違うそれへとすでに変わっているかも知れない。
 「俺の名はアレフ。君には忍者と言われたが、今は気ままな冒険者さ。美しい女戦士の貴女の名は?」
 やや芝居がかったように言うアレフに、彼女は笑みを浮かべる。それはしかし苦笑の類だ。
 「まぁ、美しい言われて嬉しくない女性はおらへんわな。ウチはメイセン、尊師ゾラ様を御守りする青龍が一族の女や」
 微笑みメイセンと名乗る彼女は言った。
 「メイセンか、君に似合った可愛らしい名前だ……って青龍??」
 テンプレ通りに決めようとしたアレフの言葉が途中で裏返る。
 彼女の言葉をもう一度頭の中で反芻し、そして彼はじっと彼女の顔を見つめ直した。


 クレオソートはゾラの小さな背中を追い、木々の間を進む。
 彼女には見える。これらの木々がここに住む者を守ろうという意志を持っていることが。
 やがて目の前が大きく開ける。
 大きな岩山に洞窟がぽっかりと口を開く場所に出る。その前は芝が青々と茂った広場となっており、石造りのテーブルと椅子が並んでいる。
 ゾラはそのうち一つの椅子に腰掛けた。クレオソートもそれに倣う。
 いつの間にか、2人の前にコップが置かれる。その中からは何とも言えない甘い香りが漂ってくる。
 「ありがとう、ドライアード」
 クレオソートはそう声をかける。
 彼女にはその姿を捉えることができないが、給仕をしてくれたのが樹の妖精ドライアードであることは既知の事実だ。
 中身が様々な花の蜜を絶妙なバランスで混ぜ合わせて、冷え冷えの岩清水で溶いた特製のジュースであることも知っている。
 クレオソートはそれを一口口に含み、目の前の老人に小さく頭を下げた。
 「お久しぶりです、尊師ゾラ様」
 「遥々ようこそ、クレア。3年ぶりだね」
 老人は彼女の成長を確かめるようにゆっくりと眺め、小さく頷く。
 「僅か3年。その間に何があったのかワシには知る由もないが、光の子に行きついてしまうとはのぅ」
 ゾラの反応にクレオソートは身体を固くする。
 「やはり簡単な話ではないのですね。私は創成記にある光と闇の申し子を連想したのですが、それに何か関わりがあるものでしょうか?」
 クレオソートの意見に老人の笑みが苦いものに変わる。
 「創世記の光の申し子は女神フィース、闇の申し子は安息神カルスであるとするのが通説じゃが、そこからどのような連想を?」
 ゾラはクレオソートの思考を促す。
 「フィースは光を縦糸に、カルスは闇を横糸にしてこの世界を編んだとされています」
 彼女はこれまで考えていたことを少しづつ吐露する。
 「ではその「子」である光の子とは、この世界を構成する光の要素を操ることができる存在なのではないか、と」
 「それはすなわち、神そのものではないかの?」
 「いえ、神の子です」
 クレオソートはそう言い切った。
 「なるほど。そうであればどうするかね、クレアや?」
 そこで彼女は言葉に詰まる。
 「どうすべきなのでしょう?」
 小さく、彼女は呟いた。
 「そもそも何故彼がその力を持って今のこの世界に具現化したのか、何かやるべきことがあってこの世界に生まれたのか、そして彼のような存在がこれまでもこの世界にあったのか、私はそれが知りたいのです」
 クレオソートのその言葉に、ゾラは澄んだその黒い瞳を閉じた。
 「例えばお主の纏うその衣服。大事に使っていてもいつかは綻びも生じよう。その綻びはどのように直すかの?」
 クレオソートの表情に厳しいものが走る。
 「ワシの知る光の子に関する情報は、断片的な物しかない。そもそも記録されるほど認知されているものでもないのでのぅ」
 大きくため息。そしてどこかに書かれているものを読むようにこう告げた。
 「光の子とは、光を統べる存在・闇の子と対になる者・大いなる意志による力・滅亡と生成・人柱という名の英雄・試される存在・光を紡ぎし者・光と闇・四大精霊との調停・転換期・愛し愛される者・全てを滅ぼし全てを救い得る者・二つの魂の繋がり・そして解放と自由」
 そこまで言うとゾラはその瞳を開く。
 「アカシックレコードにもこれくらいの情報しかないのぅ。やはり概念的なものであろう」
 アカシックレコードとは、どこかにあるこれまでの、そしてこらからの全ての情報が収められた情報体のことだ。
 捉え方は様々あり、人によってはそれを「バベルの図書館」と呼ぶこともある。
 「それでも十分参考になりましたわ、アカシックリーディングの能力を持つゾラ様に訊けて良かったです」
 言葉を裏腹にクレオソートの顔色は冴えない。知りたいことを十分知れなかったからではなく、少なくとも光の子に対して良い評価はないことを知った為であろう。
 「クレアや。お主の行く先にはおそらく多くの困難が待ち受けているであろう。それでもお主はその男に付いて行こうというのかの?」
 どこまで知っているのだろう、ゾラのその言葉にクレオソートは数瞬間を置き、そして頷いた。
 「未来を作るのは自分自身ですから。私は自分の信じるところへと進み、全力を尽くしたいのです。それならば後で後悔することもありませんわ」
 真っ直ぐな瞳でクレオソートはゾラを見つめた。
 沈黙の後、ゾラはその瞳に微笑みを浮かべる。
 「全く。3年前に比べて随分と大きくなったのぅ、クレアや。そして強くなった」
 好々爺の笑みを浮かべてゾラは続ける。
 「もうワシの予知の瞳ではお主を見出すことはできなんだ。お主にそこまで想われるその男が羨ましいのぅ」
 「だって私にとって一番大切な人ですもの」
 クレオソートも笑ってそう言った。
 「お主の行く先に必ず満足行くものがあることをここで祈っておるよ」
 「はい。頑張ってきますね、ゾラ様」
 クレアは立ち上がってそう告げ、ゾラに背を向けた。
 その背に向かってゾラは言葉をかける。
 「そうそう、メイセンを連れて行くと良い。まだ世間知らずの若い子だが、それ故に未来への可能性を秘めておるじゃろう」
 「メイセン? あの衛士さんのこと?」
 振り返り、クレオソートは尋ねる。
 「うむ、あれでも青龍の娘じゃ」
 彼はそう言うと立ち上がって空を見上げる。
 そして大きく息を吸って、ゴゥと音を立てて吐き出した。
 瞬間、老人の姿は消え、代わりにそこには体長二十リールはあろうかという真っ白な龍が姿を現した。
 「龍族を代表して、あの娘にこの世界の進むべき未来への分岐点を見せてやってくれ」
 ゾラの声で白龍は告げる。
 それにクレオソートは神妙に頷いて答えとした。


 サマートの船着き場に降り立った2人を、肩に担いだ銀色の筒を陽光の下にさらした青年が笑顔で向かえた。
 「あれ、ラダー。二人は?」
 暖かな海風に長めの金色の髪を掻きあげながら、アーパスは青年――ラダーに尋ねる。
 「用事ができたそうで。今日中には戻ってくるとは思いますが。それにしても早かったですねぇ」
 天頂で燦々と輝く太陽に細い目をさらに細めて、ラダーは答えた。
 「そっか。丁度良かったかもしれないな」
 もう一人の青年、ルーンはそう言うとラダーに小さな革袋を一つ手渡した。
 大海蛇の鱗が入ったものだ。
 「おや、ちょっと少なくないですか?」
 「うん。実は在庫が3枚しかなかったらしい」
 「どうしましょうかねぇ」
 「いや、人魚薬は1人分で良い。ルーン一人で行くことになった」
 アーパスが不快げに言った。
 「そもそも鏡を観に行くのは僕の用事だけだし。さっと行って見てくるものを見てくるよ。案内役の人魚も今夜来てくれることになってる」
 「じゃ、さっさと調合してしまいますね」
 まるで食事の用意をするように気軽に答えるラダー。
 「しっかし久しぶりの陸地は良いものだね」
 「そういうものですかねぇ」
 そんなことを話しつつ、拠点である宿に戻るルーンとラダーの背を眺めながら、アーパスは振り返って大海原を見つめ返す。
 「行こうが行くまいが、いずれ知ることだ。下す決断はきっと予想通りになるだろう。それが気に食わないだけだ」
 アーパスは空の青と海の青の境界がおぼろげな、その先をじっと見つめて呟いたのだった。

<Aska>
 月のない星明かりのみが地上を照らす中、笛の音が山の中に吸いこまれるようにして響く。
 風の精霊が私の横笛の音に呼応するように辺りでダンスを始める。
 村外れ。周囲の山々を見渡せる崖に腰かけて私は風にふかれ、笛を吹く。
 曲目は忘れてしまった。ただ、森の恩恵と風の自由を讃える曲であったと思う。
 笛を奏でるのは私の少ない趣味の一つ。もっとも故郷ではあまり歓迎される趣味ではなかったが。
 この曲は私が一番気に入っている曲で吹いていると、今は特にルーンとともに旅をしていた頃を思い出す。
 アークスに入る前の、とある宿場街の宿屋のテラスで一人、こうして笛を吹いていたらルーンは何も言わず私の横で聞いていた。
 吹き終わると一言、いいね、と言ってくれたのをつい最近のように感じる。
 幼い頃に一人きりだった私が唯一心を開いた、近くて遠い優しい人。
 そして再会し、私に新しい世界への一歩を踏み出させてくれた人。
 ヤマトやヤヨイは「下手の横好き」とか言うが、音楽なんてのは心がこもっていればいいと思う。
 不意に私の後ろに気配が現れ、マントか何かが私の肩に掛けられた。
 私は笛を吹くのを中断する。
 「暖かくなってきたとは言え、風邪をひきますよ」
 彼、イーグルは優しく微笑みながら言った。
 彼には目深のフードは必要がなくなり、今では精悍なディアル系の顔を露にしている。
 先日の風の転移点を通して風の精霊界の門を開いた際、発生した全てを解除する力によって、彼の中から吸血鬼の魔力が消えた為だ。
 「うん、ありがと」
 私は貰ったマントを胸の前で合わせる。
 冬が終わったとは言え、まだまだ冷気の精霊がこの地に力を残しているのは確かだ。
 「笛、趣味なんですか?」
 星の光にその金の髪に不思議な光彩を放つイーグル。
 「うん、あんまりうまくないけどね」
 私は彼を見上げながらそう答えた。
 「俺がかつて仕えていた方も、笛が唯一の趣味でした」
 遠く、山々を見ながら彼は思い出すように言った。
 「それって、昔いたっていうザイルのお姫様のこと?」
 かつてイーグルの噂を聞いたとき、耳に挟んだ情報の一つ。
 「ええ、心も美しい人でした。しかし結局、俺は彼女を救えなかった」
 「…」
 私は再び笛を口に寄せる。私が知る数少ない曲の内の一つ、思い出と供に消えゆく人へと贈る曲を。
 「ちなみにあの人も巧くはなかったですね」
 ぼそっと呟いたイーグルの言葉はどう解釈すればいいんだろうかね?


 私は風の転移点で風の扉を開いて風の精霊王に、私の闇となる力と存在を認めてもらった後に同じく光に属する炎に認めてもらう為、炎の転移点へと向かっていた。
 無論、愉快な仲間たちも一緒である。
 ちなみに四大精霊は光と闇より生まれたとされる。
 光の分子である風と炎、闇の分子である地と水、私は対立するこの二つの精霊に認めてもらうことで真の闇の力を持つ者――闇を紡ぐ者になれるのだと、父カルスより受け取った知識にある。
 もっとも私にとっては光も闇もどうでもいいことだ。
 自分が闇の子として認めてもらうのも強い興味はない。
 だが、認めてもらえれば私は強くなれる。そうすれば母と父を救い出せる。
 そして行き着く先に必ず現れる彼と、世界の外側で糸を引いている元凶と決着をつけねばならない。
 そしてそれ以上に、私はルーンを死なせたくはない。
 私達二人がこれから行おうとしている――彼がそれを知ればどうするだろう?
 どれを選んでも死が待つだけなのならばこの私が直前に何とかしようと、そう思う。
 それはかつての光の子の気持ちに通じるものがあるだろう。
 彼女が何故そんなことをしたのかが、最後の最後でしくじった理由が今となっては良く分かっていた。
 ルーン。幼い頃にいつも一人きりだった私の心を明るく癒してくれた人。


 「ちょっと、アスカ。なにぼぅっとしてんのよ!」
 肘で脇腹をこずかれて私は我に返る。
 隣には相変わらず玉の輿を狙って旅を続けるという設定の魔人ネレイドの姿がある。
 いや、実は設定とかではなく本気のようだと最近知った。
 私達はアルバート、ソロンらに別れを告げた後、南のササーン王国にある炎の転移点へと足を向けている。
 現在、私達はアークスの熊公国南に位置するアンハルト公国と呼ばれている商業国へと入るか否かの地点にいた。
 この周辺は山地で、街道はあるのだが結構きついものがある。
 が、そんな疲れをもろともせずにネレイド、さらにミーアは足取り軽く私達の後に付いてくる。
 先を行くイーグルとやや距離が空いてしまい、私は歩を早めに進めた。
 周囲は背の高い草に覆われ、私の背では街道の先以外は遠く見渡せない。
 草々の間に木々がぽつぽつと生えているのが分かる程度だが、このシチュエーションは野盗が潜んでいても気づけないものだと思う。
 とん
 私は鼻柱を先を進んでいたイーグルの背中にぶつけた。
 襲い来る野盗との戦闘シミュレーションをぼーっとしていたので、彼が立ち止まったのに気づかなかったのだ。
 「ふみぃ、どうしたの?」
 鼻を押さえて尋ねる私。
 しかし彼は答える事なく右手に広がる鬱蒼とした草原を睨付けている。
 「死臭ね。ミーアとアスカはここで待っていなさい」
 ネレイドもまた鋭い表情で言うと、イーグルを伴って茂みの中へと入って行った。
 「死臭? ミーアは気付いた?」
 猫の亜人である彼は小さく頷く。それもそうだ、猫に近い彼は人の数倍もの嗅覚を持っている。
 「ちょっと古い、複数の血の臭いがするにゃ」
 そんな呟きが終わるかどうかのタイミングい。比較的早く、二人は茂みの中から戻ってきた。
 心なしか顔色が青い。
 「どうだったの?」
 「行きましょう、アスカ」
 イーグルは一方的に言い放ち、私の背を押す。
 「ちょ、ネレイド、一体何が?」
 私のその問いに彼女は小さな声でぽつりと呟いた。
 「しばらくハンバーグが食べられそうもないわ」
 「聞いた私がバカでした」
 こうして私達は小さなことには構わず一路、中継点であるアンハルト公国目指して再び歩き始めたのであった。

<Rune>
 三日月と星々が天高く輝くその晩、僕はミースから渡された海図をもとに手漕ぎのボートで沖に繰り出していた。
 この数週間の海での戦いで、海図の読み方を覚えたのは収穫の1つだ。
 「サマートから北西の大輝星方向に10キリールか。腕が疲れるなぁ」
 しかし半刻も漕ぐと、見渡す限りの大海原の中にぽっかりと浅瀬が現れた。
 ここに錨を下ろし、僕は一息をついた。
 ―――月の光、海の囁き、貴方は今どこにいるの?
 私は水。形なきもの。
 この姿を変えて、時すらも越えてきっと貴方の元へたどり着くわ。
 だから待ってて、そして探して。
 伝えられなかった言葉を伝えたいから―――

 竪琴の音と供に聴く者を惹きつける歌声が聞こえた。
 浅瀬を挟んだ向こう側、そこに一人の人魚がいた。
 「こんにちわ。アーシェさんですか?」
 僕の声に人魚の背中が小さく震えて、慌ててこちらに振り向いた。
 「あわわ、いたんですか?! ってか、聞いてました、今の歌」
 「ええ。いい歌ですね」
 上手くはないが、気持ちのこもった歌だった。
 不意にアスカの笛の音を思い出す。彼女のそれも、気持ちはこもっていた。
 しかし気持ちがこもっているということは技術とは別に危険な側面もある。
 人魚の歌の場合は本人にその気はなくとも、おそらく呪歌の性格を帯びているだろう。
 人魚の呪歌は魅了の歌。旋律の中に魔力を込め、聴く者を虜にするという呪歌に属する魔術なのだ。
 「いえいえいえ、私の歌なんて、趣味にすらならないもので」
 えらく腰の低い人魚である。
 亜麻色の腰まである長い髪はややウェーブがかかり、その表情はどこかしらミースに似た面影のある少女だった。
 岩礁に腰かけるその姿は、青い大きな尾びれが彼女が人魚であることをアピールしている。
 「ルーンさんですね、ミースから話は聞いていますよ」
 可愛らしく微笑みながら彼女、アーシェは言った。
 「聞いた通りに裏表のなさそうな人ですね」
 「それは褒めてるんだかなんだかなぁ」
 「いえ、褒めてるんですよ。でないと私達の街に案内なんてできませんし」
 「??」
 アーシェの言葉に引っ掛かりを覚える。それに彼女は気づいたようで説明してくれた。
 「5年くらい前に人魚薬を飲んで武装化した人間達が私たちの町を襲撃したんです。それ以来、人間の立ち入りは禁止されているんですよ」
 「え、それじゃあ」
 「でもミースのお願いってことであれば話は別です。忍び込む為に私がこうして出てきたんですから」
 ぽん、と薄い己の胸を叩いてアーシェ。大丈夫だろうか?
 「水の祠までしっかりと連れて行ってあげますから、大船に乗った気持ちでいてください」
 「まぁ、これから僕らは海の底に沈むんだけどね」
 「なるほど、なかなか面白いこと言いますねー!」
 大笑いするアーシェに僕は一抹の不安を隠し得ない。
 「ともあれ、じゃあ行きましょうか」
 言って岩場から海に飛びこむアーシェ。
 僕は懐から小さな瓶を取り出す。出発前にラダーに調合してもらった人魚薬だ。
 僕は掌を広げて瓶から一粒の黒い丸錠を取ると一気に飲み干した。
 「効能は半日。体の構造が変化することもあって、海の民の言葉も話せるわ。だから決して下では共通語を使っちゃ駄目よ、いい?」
 アーシェの言葉に僕は頷く。
 同時、体の芯から熱くなっていくのを感じた。
 「なんだ、これ。苦しいっ」
 思わず咳き込む。しかし肺に溜まる続ける熱気は取れない。
 「がはっ!」
 大きく空気を吐き出した次の瞬間、僕の体に異変が生じた。
 両足は大きな魚の尾びれに。
 そして胸に2つのふくらみが。
 「なんじゃ、こりゃー!」
 「なんだって、人魚じゃないの」
 首を傾げてアーシェは言う。
 「いやいやいや、なんで僕が女になってるのさ?」
 「なんでもなにも、人魚の性別は女しかないんだけど」
 「……よくマーマンとか半魚人みたいのいるじゃないか」
 「あれ、種族違うし」
 大ショック! いや、ちゃんと調べていなかった僕が悪いのだが、思い込みとはいけないものだと反省。
 「じゃ、人魚族はどうやって子孫を増やしてるんだよ」
 「そりゃ、もちろん」
 アーシェはにっこりと微笑んで言った。
 「地上の男をたぶらかして、とか。そんな感じ?」
 「そうですか」
 なんだか生々しい話になりそうなので、僕は話を打ち切って海へと飛び込んだ。
 真夜中の黒い海面から先はやっぱり何もかもを飲み込んでしまいそうな、沈んでしまえば浮かんでこないそんな錯覚を覚える。
 それを振り払い、僕はアーシェとともに深く深く潜っていく。
 水中で息ができることや、尾びれの使い方なんかはまるで生まれた時から知っていたように問題なく受け入れていた。
 さっきアーシェが言った「体の構造が変化する」とはこういうことかと納得する。
 ふと海面を見上げると、岩礁につながれた僕のボートの底が小さくなって見えた。
 人間の時では視認できなかった暗闇の中、僕はアーシェの青い尾ビレを追って海の底を深く泳ぎ行く。
 やがて暗闇の中に珊瑚に囲まれた石造りの家々が見えてくる。
 所々あかりが灯っているが、ほとんどの人魚達は就寝中なのだろう。その静かな町の中を、僕とアーシェは泳いで行った。
 「こっちよ」
 アーシェに腕を引っ張られ、やがて僕は神殿のような建物に連れてこられる。
 「ここが海の神の神殿。私達人魚の崇める神様の神殿だけど、本当のところは神殿の奥にある水の祠を崇める施設と言った感じかな」
 彼女は物陰に隠れつつ、左右を注意深く見渡すとまっすぐに神殿の中へと泳ぎ行く。
 僕もまたその後に続く。
 神殿は石造りだが、天井や壁には貝やらイソギンチャクやらが付着している。
 唯一床は綺麗にされているが、そもそも人魚は水の中を泳ぐので床に着ける足もない為、体裁だけなのであろうと思う。
 神殿内の入り口は巨大な柱が数本立っているだけで、完全にオープンなスペースだ。
 壁には等間隔に魔術光が灯されているが、人間の視力だと真っ暗闇だろう。今の人魚の視力でもやっと周囲が見えるかどうかといった感じだ。
 やがて僕たちは誰にも遮られることなく、神殿の一番奥へと到達する。
 そこには10リールはあろうかという巨大な蛇を形どった石像と、それを祭る祭壇があった。おそらくこれが「海の神」のモチーフなのだろう。
 アーシェはその像の後ろ側に回り込む。
 そこは壁かと思いきや、両開きの大きな扉があった。そこには海の生物が意匠を凝らせて数多く彫り込まれている。
 「この先が水の祠。開けるから手伝って」
 アーシェが右、僕が左の扉を思い切り押す。
 ずずずっ、という音とともに扉が観音開きに開いていく。
 ちょうど人一人が通れる隙間ができた段階で、アーシェは手を止めた。
 「さて、私の案内はここまで。この先は一人で行くのよ」
 「え、付いてきてくれないの?」
 思わず大きな声が出てしまう。
 「ええ。そもそもこの扉を開くこと自体、許可がいるの。この先は私達にとってとても神聖な場所なのよ。でも今回はご指名だから特別私が案内したってわけ」
 「ご指名? ミースに頼まれたのではなく?」
 なんだか変な話になってきた。
 「ミースとは友達だけど、私一人の判断でここまでできないわよ。まぁ、行ってみれば分かるわよ」
 言いながらアーシェは僕の背中をぐいぐいと押して、扉の隙間から中へと押し込んでしまった。
 「それじゃ、ごゆっくり」
 「ごゆっくりって、ちょっと」
 反論を聴く間もなく、扉を閉められてしまう。
 「まったく。しかしどういうことだろう?」
 どのみち、僕は水の祠にある遠見の鏡を見るためにここまで来たのだ。引き返すつもりはない。
 視線を前に向けると、先にぼんやりとした光が灯っていた。
 この部屋の中は先程の神殿の入り口スペースよりもさらに広い空間のようだ。
 しかし海水の流れがないことから、ある程度密閉された空間なのだと推察する。
 僕は意を決して先へと尾びれを動かして進んだ。
 大した時間もかけずに僕はそこへとたどり着く。
 「………これは」
 呆然とした声が漏れた。
 そこには壁一面の巨大な両開きの扉があった。
 その扉は数リールの厚みの氷の層に覆われており、扉の中央に位置する所に『彼女』が氷の中に固定して眠っていた。
 『彼女』はの長い金髪はまるで瞬間的に凍結されたように一本一本氷の壁の中で広がっている。
 苦痛を感じることなく眠るように閉じられた瞳、端正な顔立ち。
 水を思わせる薄く青い神官着を纏い、アーシェと同じ青い尾ビレを持っている。
 そして、ふくよかな胸の前に両手で抱えた大きな円形の鏡。これが遠見の鏡であろうことはすぐ見て分かった。
 鏡面をこちらに向けているのだが、そこにせわしなく様々な映像が切り替わり切り替わり映っていたからだ。
 『彼女』の顔立ちに僕は覚えがあった。いや、覚えとかそういう話ではない。
 「アーパス?」
 僕の呟きは静かなこの空間に響き、そして『彼女』の耳に届いたらしい。
 氷の中、ゆっくりを目を開く彼女。
 ぼんやりとしたその瞳にやがて僕の姿が映り、彼女は覚醒した。
 「いらっしゃい、ルーン。よく来たね」
 『彼女』は氷から上半身を出すと、明るくそう言った。それは間違いなくアーパスの声だ。
 アーパスの声だが、とげがない。
 「あ、間違えたわ。初めまして、ね。よろしく、ルーン」
 ころころ笑って言い直す彼女。
 「初めまして。ところで貴方はどちらさまで、なんで僕の名を?」
 問いに彼女は「あ、そうね」と頷いてこう答えた。
 「私の名はアクラ。この水の祠の巫女の一族であり、アーパスの双子の姉よ」
 なるほど、そうつながっていたのか。
 なんとなく納得する。そんな僕の表情を読んだのか、彼女は続ける。
 「あとアーシェは私の侍女で、彼女を通してミースとも面識あるし、今は亡きクローとも文通の仲だったわ」
 「ご指名っていうのは、貴女だったのですね」
 「ええ。あとびっくり情報だと思うけど、貴方の身内に近い吟遊詩人のシフさんは良くここに寄られていろんなお話をしてくれるの」
 それは確かにびっくりだ。
 「ルーンのことはシフさんを通して、生まれてからエルシルドを旅立つまで、ずっとここでアーパスと見守ってきたのよ」
 「は?」
 「私達人魚は人間のおよそ4倍の寿命ですから。特に私は使命を受け継いでからというもの、ここから身動きが取れなかったからたっぷり堪能させていただきました」
 てへ、とか笑って告げるアーパスそっくりの人魚に底知れぬ怖さを感じた。
 「お姉ちゃんと呼んでいいのよ」
 「それはストーカーと呼ばれるものです」
 「いやん、その石ころを見るような目でお姉ちゃんを睨むなんて、ぞくぞくしちゃう」
 なんか身をくねくねさせている。アーパスにそっくりな顔だけあって、反応に困る。
 ともあれ、気を取り直して僕は尋ねた。
 「しかしなんで僕なんかを。シフ姐の関係者だから?」
 「いいえ、光の子だからです」
 笑みを消し、アクラは告げる。
 「光の子?」
 「はい。貴方はこの世界の綻びを紡ぎ直す二人の織人の一人。光の縦糸を紡ぎ出し、闇の子とともに『破れ』を直す役目を持って生まれた者なのです」
 だめだ、さっぱり分からない。
 僕の表情を見て、アクラは小さく首を傾げた。
 「アーパスから何も聞いていないのですか? あの子はその為に貴方のもとに向かい、共に強くならんとしたはずですが」
 「いえ、なんのことやら。むしろアーパスは僕をここに来させなかったようでした。最後は諦めたみたいだけど」
 アクラは額に手を当てて、うーんと唸る。
 「アーパスはここに貴方を送り出すとき、何か言ってました?」
 問いに僕は考える。ラダーから薬を貰い、宿を出たときも一人だったし。
 「あぁ、そう言えば」
 そのもっと前。ミースとともに最後の海上勢力を制圧した時に神妙な顔をして僕にこんなことを訊いたっけ。


 「最後の忠告だ。アスカを捜すな。諦めた方がお前の為だ」
 その言葉で、アーパスは僕が水の祠へ行くことではなく、主目的であるアスカを捜すことを止めさせようとしているのだと分かった。
 「残念だけどそれは無駄な忠告だよ」
 「お前はお前とアスカの命を犠牲にすれば多くの者が助かると言われれば、その命を差し出すのか?」
 なんだか極端な質問を投げつけてくる。
 「それとも多くの者を見捨て、自分達は生き残るのか? どちらか二つに一つしか道はないとすれば、お前はどちらを選ぶんだ?」
 一歩踏み出して問うアーパス。
 「答えろ、ルーン」
 そんなもの、前提がおかしい。
 「新たな方法を見つけるさ」
 一歩踏み出し、僕は答えた。
 「新たな方法だと? それで結果、共に滅ぶ道だったらどうする?」
 「知らないよ、そんなことは。でも用意された方法より、自分で決めた方法なら後悔はしないだろう?」
 「それで皆納得するとでも思うのか」
 唇を噛みしめて、アーパスは言った。
 「そんなことは関係ないよ。見ず知らずの奴の為に喜んで命を差し出す程、僕は人間ができてないんでね」
 そう答えた後、アーパスは疲れたように小さく笑って僕に背を向けた。


 「ということがあったけど」
 アクラはそれを聞いて大きくため息をついている。
 「完全にツンデレをこじらせてるわねぇ。気持ちは分からないでもないけど、情報の秘匿は不利にしか働かないわ」
 改めてアクラは僕に視線を映してしっかりと見定める。
 「光の子ルーンよ、よくぞこの水の転移点まで来ました。水の守部たる私、アクラ・ブレッドは貴方の素質を見定め、資格があるかどうかを判断させていただきます」
 まるで前々から決められていたセリフを朗読するかのようにアクラは告げる。
 「我々、水の守部は水の神アクアリーンと水の精霊王との盟約によって、もっとも水の精霊力の滞留するこの地を守護し続けてきました。闇に属する水の守り部は、相反する光の性質を有する光の子を見定め、共に歩める存在かどうかを試験させていただきます」
 彼女の持つ遠見の鏡が強い光を放つ。
 深海の闇に慣れた僕の目には、まるで日の光を何倍にも強めて直接見たような衝撃が襲った。
 光の中、僕はゆっくりと目を開ける。
 僕は自分が他の景色の中にいるのを知った。海底の神殿の奥深くではなく、ここは外の世界だ。
 周辺は厚い氷と雪に覆われた極寒の大地。
 そして空には雲一つないすっきりとした青空が天高く続いているが、しかしその途中で何もない空間へと変わっている。何と言うべきだろう、灰色の何もない空間だ。そこに青空の青、日の光、風の流れ、全てが吸い込まれて行っており、何もないその空間はそのたびに大きく広がっていっている。
 それはまるでシャボン玉のようなこの世界を、外から破るように『なにもない』なにかが急速度で侵食していくような感じだ。
 「これは一体」
 「これは前回の光の子と闇の子の、虚無との戦いの記録です」
 いつの間にか、アクラが隣にいた。
 そして知る。これは遠見の鏡が作り出した映像なのだと。
 世界を食らい、次第に拡がって行く灰色の虚無。まるで流れ出したら止まらない、死に至る血のようだ。
 だがそれに立ち向かう四人の姿があった。
 「あれは?」
 その中に見たことがある人物の姿が一つ。
 彼にはいつもの微笑みははなく、剥き出しの敵意と感情があった。
 そして他の人物達も必死の表情が見える。
 「あれはラダー?」
 間違いなくいつものほほんとしているあの男だ。
 他にドワーフと黒い翼を持つファレスの男、そして中心人物らしき人間の女性がいた。
 ラダーとドワーフは手にした何かを構え、呪文のようなものを唱え始める。
 同時、二人からは膨大な魔力が生じ始めた。まるで炎と地の精霊力そのものだ。
 それを遠慮なく吸い取り、さらに自ら力を集めるようにファレスの男が両手に闇の糸を、女性が光の糸を紡ぎ出す。
 それは折り重なるようにして次々と虚無の中へと吸い込まれて行く。
 灰色の虚無の中に線を引くように伸びていく光と闇の糸。それは『なにもない』虚無の中で折り重なり、拡がりを持ち、空白だった世界に新たな空間を作り出す。
 作り出されては飲み込まれ、再び作り出されての繰り返し。
 延々とそれが続くように思えた。
 だがそれは実際にはほんの数瞬だったに違いない。
 やがて虚無は威力をなくし、次第にその形を消して行った。
 すでに炎と地の力は尽き、光と闇の力だけがまるで絞るように大きな虚無を埋めて行く。
 虚無が完全に消えると思われた、その時だ。
 不意にファレスの男が力を失い倒れる。
 まるでそれを待っていたかのように、虚無は再度膨脹する。
 思わず叫ぶラダー。しかし彼もまた力を使い果たしたのだろう、その場に膝を付いた。
 「………」
 自らの体から紡ぎ出していた光の糸を止め、倒れる仲間達を見渡す女性。
 彼女は一瞬彼らを見渡した後、背負っていた大剣を引き抜いた。
 飛翔の呪語魔術を行使すると、まるで止めを刺さんとばかりに、膝をつく三人に向かって大剣を振り抜いた。
 大剣を掬い上げる様に3人からごっそりと魔力を奪う。刀身に強力な魔力吸収の加護がかかっているようだ。
 だがこれまで扱ってきた魔力と比較するとごくわずかなものに過ぎない。
 それでも彼女は不敵に笑って上空の虚無に向かって舞い上がっていった。
 その姿に、悲痛の叫びを倒れたままのファレスの男は発した。
 彼女は親指を立てて微笑み、虚無の中へと消えて行く。
 数瞬後、何もないはずの虚無が眩しく輝いた。
 そしてその光が消える頃には虚無もまた消え、先程の出来事が嘘のように、ただ青い空だけが広がっていた。
 人間の女性の姿がその場になかったことが、先程の戦いが嘘ではなかったことの証明でもあった。
 やがて氷の大地に吹雪が戻ってくるころ、よろよろと起きあがったファレスの男は肩を落として一人去って行く。
 そしてラダーも、屈強そうなドワーフも、それぞれ一人で別々の方向へと散って行った。
 ここで周囲りの風景が元の石壁に戻る。
 「これが虚無。世界にほつれが生じたとき、それを狙ってこの世界の構成要素を砕いてしまう。この世界の穴を塞ぐのが光の子、闇の子の使命なのです」
 「さっきの映像は?」
 「先代の光の子と闇の子の記録。彼らは使命をあまり理解せず、準備も怠ったままで時を迎えてしまいました」
 寂しそうにアクラは語る。
 「我ら水と、風の助力もなしに、かつ織機である神器も持たずに虚無に挑み、しかしあそこまで対処しました。称賛に値します」
 「でも失敗した?」
 アクラは小さく頷く。
 「ほつれがわずかに残っていたのでしょう。そこから次第に世界の穴が大きくなりつつあります」
 「あの『ほつれ』とやらはどうやってできたものなのかな?」
 僕は問う。
 そんなものが世界のあちこちにあるとしたら、かなり厄介なことになるのではないだろうか?
 「かつて神のしもべとして創造された天使達の長が狂い、相反する存在である魔族と共謀して世界を滅ぼそうとした時代があったそうです。その際にあまりの巨大な力の為にこの世界の外に追放されたとの記録がわずかに残っています」
 「その時にほつれが生じた、か。異世界からの召喚とかでも発生しそうだね」
 「あまりに大きな力でなければ、光と闇の強靭な糸のおかげでほつれは自然解消されるはず。今回のほつれはしかし、人為的な意図も感じます」
 「どういうこと?」
 「分かりません。なので充分に準備して臨みたいのです、光の子よ」
 そこで思い至る。
 「ということは僕がそのほつれとやらを塞ぐのかな?」
 「その役目を担っています。不本意ではあると思いますが」
 「ちなみに闇の子というのは?」
 「貴方がお探しのアスカさんです」
 僕の中で何かがつながった気がした。アスカと初めてエルシルドの街で出会ったが、おそらくそれは初対面ではなかった。
 光と闇は表裏一体。それらが作用して色々な部分でつながっていたのだろうとそう思う。
 僕は一応訊いてみる。
 「ほつれは放っておいたらどうなるのかな?」
 「ご想像にお任せします」
 「ですよねー」
 先代の光の子は足りない魔力を自らの命で代用することであそこまで行ったのだろう。
 僕が同じ立場であれば、命を張ることができるか?
 「世界の為に、命を賭けることができますか?」
 考えていることと同じことをアクラに問われた。
 放っておいたら世界が滅び、結果僕たちも死ぬ。
 だから放っておけないが、まるで生贄のように命を捧げたくない。
 で、あれば。
 「なるほど、最初に戻るね」
 僕は小さく笑って頷いた。
 「僕はこれに関して、十分に準備して臨みたい。その為に色々手は下してくれているんでしょう、アクラさん」
 「ええ」
 年上らしい余裕に満ちた笑みで彼女は答える。
 「その為にお姉ちゃん達は準備してきたんですもの。ね、アーパス」
 「え?」
 振り返ればそこには憮然とした表情のアーパスがいた。
 久々に人魚の姿をしている。
 「なんだよ、じろじろ見るな」
 僕の視線にアーパスは噛みついた。
 「アーパス、あのさ」
 「なんだよ」
 「ありがとな」
 「!?」
 彼女は珍しく、顔を赤くしてうつむいてしまう。
 「さぁ、アクラさん。始めようか」
 僕は告げる。
 「光の子として、なすべきことをなそじゃないか。誰も失わないように、これからを生き残る為に!」
 アクラは満足げに頷くと、呪語を一言呟いた。それは『親愛』の意味の一言。
 途端、水温が下がった。扉を塞ぐ厚い氷の層が一瞬にして冷水へと変わったのだ。
 同じ水に変わったということは、水の祠――水の転移点の封印が解けたと同時に。
 「?!」
 唐突に柔らかい何かで顔を覆われた。
 「私に自由をくれてありがとう、ルーン」
 アクラに抱きしめられていた。
 「ちょ、アクラ。お前何やってんだよ」
 「アーパスはいつもルーンにやってるんだからいいじゃない。たまには私にも」
 「やってないわっ!」
 「うん。アーパスはこんな胸はない」
 「テメェ…」
 そんなことをやっている間に、両開きの大扉がゆっくりと開いていく。
 扉の向こうからは海水とは異なる、強烈な水の精霊力が漏れ出してきた。
 やがて扉が完全に開かれると、その向こうには大きな女性の姿が見えた。
 身長は分からない。精霊界は物質界とは異なる概念の為、大きいものは大きい、小さいものは小さいとしか表現できないためだ。
 目の前の女性は「とにかく大きく、強い」である。
 姿は尾びれを有した人魚のようにも見える。
 ”ルーン、ですね”
 心に直接声が響く。
 ”我は水の精霊王。規定の物事に捉われない柔軟な発想と他者に頼ることのできるその強さを我ら水が属は認め、その力となりましょう”
 言ってその存在は微笑みを見せた。無意識に僕は右手を差し出す。
 精霊王は僕のその手にやはり右手を乗せると、僕の手に温もりを残して消えて行った。
 扉がゆっくりと閉まってゆく。しかしそれは先程のまるで鍵が掛けられていた状態ではなく、来るべき時まで閉まっている状態。
 それまでは何物にも何事にも開かず、力の片鱗すら漏らさぬような、そんな閉じ方だ。
 「さて、ルーンにはこれから北の地にあるかつての魔王の城跡ベフィモス・ガーデンに行ってもらいます」
 アクラはそう告げた。
 「そこには地の転移点があるのだけれど、かつての光の子が封印を力づくで壊してしまったから、結構力が漏れ出しているの」
 無茶苦茶だな、先代。
 「そこで地の精霊王と会ってもらいます。水の精霊王と違って厳しいお方みたいだから、気を付けて」
 「分かった。でもその前に僕がここに来た目的を果たさせてくれないかな?」
 すなわち遠見の鏡でアスカの今を見ることだ。
 「はいはい、妬けちゃうわねぇ、アーパス」
 「なんでだよ!」
 言いながらアクラは遠見の鏡をこちらに向けてくれた。
 鏡の映像は僕の今の顔を一瞬映したかと思うと、他の景色を映し始めた。
 そこは何処かの森の中を走る街道。新緑に色づいた木々の間に4人の旅人の姿が見える。
 その四人の内の一人がふとこちらに振り返った。
 長い黒髪に、僕の買った黒く輝く髪留めが見て取れる。
 一瞬見えたその横顔は、決して囚われのそれではなく元気そうに見えた。
 それが分かれば充分だった。
 だが。
 ザッ!
 鏡の映像はしかし灰色と雑音に満ちあふれる。
 「何、これは。水を伝って何かが、来る!」
 アクラの警告。彼女の手にある鏡の映像が灰色から白と黒に別たれ、そして一つの形を取った。
 金と銀の瞳を持った黒い長髪の青年がこちらを向いた形で映し出される。歳の頃は僕よりも二つ三つ上であろうか、背には一対の翼を持っている。
 「お初に御目にかかる、ルーン・アルナート」
 映像を通してもなお、その溢れるばかりの怪しげな魔力が感じ取れた。
 「誰だ、お前」
 鏡の中の青年に危険なものを覚え、僕は身構える。
 ここに侵入する際に武器を帯びることは敵意を抱かれると思い帯刀してこなかったことが悔やまれる。
 「私はカイ・ルシアーヌ。リブラスルスの代理者さ」
 「ルシアーヌって、まさか」
 「敵を知らぬ君に顔見せと言ったところだ。あまりに君が持つ情報は少なく、哀れだからな」
 言ってこちらに手をかざす。
 途端、僕は奇妙な浮遊感に襲われた。


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