<Camera>
 アーパスとアクラの前でルーンの姿が忽然と消えた。
 慌ててアクラは遠見の鏡でルーンの姿を映しだそうとするが、鏡は灰色の空間を映すのみだ。
 「なんだこれは、一体どういうことだ?」
 「ルーンはこの世界に存在しない場所にいるのよ」
 アクラは顔を顰めて答えた。
 「今の男、リブラスルスの代理者と言った。そして今回のほつれの問題には何者かの意志が見える」
 「敵とも言っていたな、ルーンの。何者だ、リブラスルスというのは」
 「かつて魔王を滅ぼし、狂った天使の長をこの世界から叩き出した勇者よ」
 アーパスは鋭い目をしてアクラを見る。
 「厄介なことになりそうだな」
 アクラはそんなアーパスに遠見の鏡を押し付けると、久々に動かす尾びれで神殿を後にする。
 「おい、一体どこに」
 「アーパスは遠見の鏡、いえその水の神器で今まで通りルーンの補佐を。私はリブラスルスの件も含めて直接準備の指揮に当たるわ」
 「だが肝心のルーンは一体」
 「分からない。でもこんな無茶な呪法は永続的なはずはないわ。きっと戻ってくるわよ。それを信じて私は時間を無駄にしたくない」
 「分かった」
 2人の双子は頷き合い、それぞれ別々の方向へと泳ぎ出した。

<Rune>
 浮遊感が落ち着くと、僕は人魚の姿から人間のそれへと戻っていた。
 周囲には水なんてなく、遥かに高く並べられた書物の森――薄暗いその空間は仄かに香る磯の香りはなく、書物特有の紙と粉臭い匂いが鼻に届く。
 「ここは一体?」
 「ほぅ、限定条件下とは言え、ゲートを通さずに招き寄せることができるとは。あの女の呪法は未知の領域だな」
 声に僕は振り返る。
 「ここはバベルの図書館――生まれ、滅びゆく国の歴史や起こりうる事件、そして全ての生きとし生けるものの一生を綴る無限の情報の集う場所さ」
 先程の遠見の鏡に映っていたルシアーヌの姓を持つ男がそこには立っていた。
 「金銀妖眼か」
 独特の雰囲気を放つ双眸に僕は身構えた。
 金銀妖眼を持って生まれる者は常にこの世に2人いると言われている。
 その特徴を持つ者は、類いまれな力を有し、かつ独特の能力を持つとされている。しかしそれは俗説であり、実際はどうなのかは分からない。
 またこういったおとぎ話ばかり先行して伝わっているため、例えそのような特徴を持って生まれてきても、片目を潰したり眼鏡などで隠し通したりとすることが多いようだ。
 当然、そういった者達に特殊な能力なんてものはない。
 「俗説ではあるが、確かなことだ。私には滅びへと導く力が見えるのさ」
 そう微笑むカイ・ルシアーヌと名乗る男に、僕は思わずこうぶつけた。
 「誇大妄想をこじらせすぎじゃないのか?」
 一瞬、カイはぽかんとした顔をして、そして大笑いした。
 「いいね、アスカの相棒なだけはある。そんな君だから、ここを見せたかった」
 カイは本棚の中の本を一冊取り出した。
 「ルーン、君は運命を信じ、それには逆らうことはできないと思うかい? 思わないよね」
 僕は無言で頷く。
 「だが人の一生など終わってしまえば一冊の本のようなものだ。このようにね」
 彼は手にした本の背表紙を僕に見せる。そこには『セイル・クライス』という人の名が記してあった。
 「この本にはセイル・クライスという男の一生が記してある。これだけではない、ここにある書物のほとんどが同じだ」
 両手を広げて彼は言った。
 「これでも君は、運命を信じないかい? すでに決められたシナリオ通りに気付くことなく歩んでいる自分自身を疑ったりしないのかい?」
 芝居がかったように言う彼に、僕は鼻で笑って切り返した。
 「では君は僕の本を読んだのかな?」
 カイの動きが止まる。
 「そこにはこれから僕がどう答えるのか、書いてあったかな? 書いてあるとするのならば、なぜ君は僕の回答を求めるのだろうね」
 カイは僕の言葉に俯き、そして顔を上げると満面の笑みで拍手をする。
 「素晴らしい。最後の力で君をここに招いて正解だったよ。その君の言葉に僕も希望を持つことができた」
 彼は大きく頷く。
 「滅びを導く力を捕捉することができるこの能力に、ただそれを観察するだけではなく逸らすこともできる可能性を見せてくれた。それはありがたいことだ」
 彼は言うだけ言って背を向ける。
 「次に会う時は完全に敵同士だ。遠慮なく殺すつもりでかかってきてくれ。それが僕の、アスカの兄としての願いだ」
 「おい、ちょっと」
 伸ばした僕の手はしかし、何も掴むことはできなかった。
 僕は一人、バベルの図書館に残される形となった。
 仕方なしに出口を探して本の森をさ迷い歩く。
 しかしながら凄い量の書物だ。本棚の上が見えない。
 永遠に天井が続いているようだった。
 「本当に全ての生きる者の一生が書いてあるのか?」
 カイの言葉を思い出し、僕は立ち止まって一冊の本を棚から取り出す。
 題名にはイルハイム・プラットとあった。
 「書いてあるわよ」
 不意の言葉に僕は辺りを見回す。
 ぽん、と僕の前に一人の少女が降り立った。どうも上の方の本棚にいたようだ。
 「君は、ルーフさん?」
 「お久しぶりです、ルーンさん」
 それはかつてアスカとともに立ち寄った温泉街で出会った旅の少女。
 たしかルーフ・サイゼリアと名乗っていた。
 「なんだかとんでもない所で会うね」
 「全くですね」
 答える彼女はしかし、驚きの表情がない。表情に乏しい人なのだろうか?
 「ルーフさんはここの出口を知りませんか?」
 問いに、彼女は苦笑いを浮かべた。
 「バベルの図書館とは過去から未来、全ての瞬間という時間を繋ぐ時に出来た次元の観察所です。故にその起源は一つであり、その数は無数でもあります」
 「時間論かい? そういえばその分野で聞いたことがあるんだったな、バベルの図書館って」
 学院の授業が思い出される。
 そこではバベルの図書館というものがこの世の何処かに存在し、全ての情報が置かれているという。
 だがここで彼女と時間論について論議している暇はない。
 「それはそれとして、出口は」
 「ないですね」
 「そうか、ないか……って、どうすればいいんだよ!」
 「そう言われましても。普通はある程度時間が来ると強制的に叩き出されると思いますが」
 「そうであればそのうち元に戻れるのかな?」
 「さぁ?」
 「困ったなぁ」
 「お困りですか?」
 不意の声は正面からだ。
 いつの間にか、黒いローブに身を包んだ黒い長髪の男、いや女か? 中性的な感じを匂わせる二十代後半の人がこちらを見つめていた。
 「どちらさまで?」
 「私はツクヨミ。ここの管理人です、以後よろしく」
 言って彼は微笑んだ。
 「管理人? ここの?」
 「はい。このバベルの図書館の司書をしております」
 慇懃に腰を折って告げる彼の声は女性のものに近い。どうも男性でも女性でもないように見える。
 「ツクヨミさん、僕はどうやってここを出たら良いんでしょう?」
 問いにツクヨミはじっと僕を見つめる。そして小さく首を傾げて怪訝な表情を浮かべると、こう告げた。
 「ここは全ての時間から隔離された場所なので、通常であれば精神のみが立ち入りを許されるはずなのですが」
 「ですが?」
 「どうやら実体でこの世界にやって来られたようですね。どうやって来られたのでしょう??」
 「さっきのカイとか言う男になんか変な魔術で連れて来られたみたいなんだけど」
 「もしも貴方が通常のゲートを通って来られたのなら、こんなことは決してないと思います」
 「げーと?」
 聞き慣れない言葉だ。
 「はい。知識の集積所であるここへの入り口は外の世界には何ヶ所かあります。その入り口から来られたのならば、肉体は元の次元に置き、精神体でのみの入場となりますからここで時間を奪われる事もないのですよ」
 なるほど、噂には聞いたことがある。
 バベルの図書館は別名、アカシック・レコードとも呼ばれ、この世の何処かにあるという伝説の地。
 そこにはありとあらゆる知識と記憶が集積され、保管される。誰が作ったのか、それは誰も知らない。
 そこへの出入りは転移魔法陣による精神体の転移でのみなのであろう。
 精神でのみならば時間の概念がないので時が経たないのだ。
 「しかし僕は」
 「はい。実体で『ここ』へやって来られました。下手をすると外の世界が貴方のいない世界として認識され、変化してしまうやもしれません」
 「ヤバイな、何とかしてさっさと元の世界に戻らないと」
 僕は呟き、続ける。
 「方法は……」
 言って周囲を見渡した。そうだな、ここはあらゆる知識の集うバベルの図書館だ。
 分からないことは何もない。
 僕は目の前に立ち並ぶ無数の本棚を見上げた。
 「ここから探すのか? この中から戻る方法を!」
 僕の叫びにも似た声が、静かな図書館に大きく響き渡ったのだった。

<Camera>
 「なぁ、ローティス。龍公の首都の治安が乱れているみたいだな」
 ガートルートの城中にある執務室。
 青年はここで仕事をするもう一人の人物、参謀たる女性に尋ねた。
 「あら、どうしてです?」
 机上の書類から目を放して彼女。拍子にズレた眼鏡を片手で直す。
 ローティスに青年は一冊の冊子を投げ寄越した。
 出来の悪い紙で作られた冊子。毎日届くそれは巷の情報局が市井向けに発行している情報誌だ。
 その二面辺りが開かれている。そこにはこう書かれていた。
 『龍公国首都アンカム近辺に盗賊多数出没。仮にも公国首都にあるにも関わらず一向にその勢いを止めることのできない公国の首脳陣の無能さが伺える』
 「そのようですね」
 あくまで聞き流すようにローティス。そんな彼女に青年は大きく溜め息を吐いた。
 「感心せんな、こんなやり方は」
 「どういうことかしら、ブレイド?」
 「お前の差し金だろう?」
 「まさか」
 驚いた顔でローティスは呟く。「善良なこの私がそんなことすると思われているんですか?」
 僅かに怒気を孕んで、彼女はブレイドに言い返した。それに青年は口ごもる。
 「すまん。疑っちまった」
 「いいんですよ。それだけ勘繰れるくらいでないと生きていけませんしね。実際に私の差し金ですし」
 「って、おい!」
 「嘘ですよ」
 小さく舌を出してローティスは告げる。
 「全く嫌な世の中だな。これにしても、結局は困るのは普通の人間だ」
 呟き、ブレイドは再び山と積まれた書類に目を移した。ローティスもまた仕事に戻る。
 ”まさか気づくなんてね”
 内心、彼女はほっとする。ブレイドの予測は的を得ていたのである。
 ”この人のことだから、私がそんなことしてるって知ったら、許さないでしょうね”
 真っ直ぐな青年を眺めて一人、苦笑い。
 評判というのは市民から来るものだ。故にそれを落とすには直接市民に害の及ぶ出来事を起こしてやれば良い。
 権力争いに勝つためには、体裁など構っていられない。例えモラルに反していようと、それはこの戦いにあっては反していない。
 市民の立場に最も近い感覚のブレイドには理解できない世界だ。
 利用できるものはどんなものでも利用する。それが野盗であろうと魔物であろうと。
 彼女はそんな世界で今まで生きてきた。己の手を汚し、ある時は体をも汚した。
 ”汚い世界ね”
 それ故にブレイドには気づかないで欲しい。支配者には知らなくて良いこともある。
 汚れた仕事はローティス自身で片付けるつもりだ。この若い指導者は、今はまだ理想を見つめていれば良い。
 一途な理想は人を惹きつける付けることができるから。
 ”しかし”
 ローティスは目を細める。
 ブレイドの感。それは武力による戦いのみに作用するものではないようだ。
 こうして事務処理を体験させることで、彼は確実に今までなかった知識を吸収している。
 例えば市井の情報誌などこれまで読む習慣などなかったはずだ。
 確実に大きくなるブレイド。
 ローティスはそれを弟を見るような感覚で、楽しげに眺めていた。


 彼は異様に苦い紅茶の入ったカップを片手に、冊子を読んでいた。
 ここアークス首都で発行されているかわら版だ。その記事の端、誰もが読み流す小さな記事に眉を細めている。
 『占星術師マチルダ・ナムチ、自宅にて自殺』
 題されたそれは、決して彼の知る人物ではない。
 だが彼は気が付いている。最近多くの占星術師を中心とした占い師達が狂気や自殺に走っていることを。
 それも実際に力のある術師達がである。
 こういった職業はペテンが大部分を占めているので気が付く者でないと気付かない。
 「何かが起こるな、とんでもないことが」
 彼は誰ともなく呟いた。
 真昼の暖かな光が中庭に面した部屋の中を包み込む。
 梅雨を知らせる湿気を帯びた風が吹き込み、その場にいる四人の間を吹き抜けた。
 アークス王城の中庭に面した一角である。
 そこに王子であるアルバート、そして仲間達であるフレイラースとイルハイムが丸机を挟んで椅子に腰かけていた。
 「何が、アル?」
 その彼の隣で冊子を覗くようにしていたエルフの女性が尋ねる。
 「カンムリッジ天文台の天球儀が何の前ぶれもなく砕けたそうだ」
 静かに、こちらはお茶を口にした禿頭の中年だ。彼の目の前には中空に黒いスクリーンが浮いており、そこに描かれた記事を見て唸っている。
 天球儀とは天の星座図を球として表したものだ。カンムリッジ天文台はアークス西部にある学術機関であり、星とそれが地上に及ぼす影響を調べている有名な建物である。
 そしてそこで使われる直径8リールの天球儀もまた、星の動きを学ぶ者ならば誰でも知っている。
 「天が語っているのだ。滅びの予兆を」
 禿頭の男、イルハイムはそう言って記事の結論部分を読み上げた。
 「だろうな、フレイラースとイルハイムはこの件に関して調べてみてくれないか?」
 「内密にかしら?」
 カップをテーブルに置き、フレイラースは中庭に出る。青々とした芝が彼女の足に触れた。
 エルフの彼女は青空を見上げ、眩しげに目を細める。
 「政治関連のお仕事は大丈夫なの? シシリアから結構頼まれているんでしょう?」
 「そっちの方はメドがついたよ。それにお前たちに頼む調査はそのシシリアの動きを探ることでもある」
 「ああ、彼女、何か隠していそうだもんね。気を付けるわ」
 「隠しているとすれば、それは悪いことだろう。我々が知りたくもない、な」
 イルハイムは溜息とともに頷く。
 「あの方はなるべく他に迷惑が掛からないように事を処理する傾向にあるようだ」
 「ほぅ、イルハイムらしくないな。人をかうなんて。まぁシシリアはそういう奴だからなぁ」
 アルバートは苦笑する。
 「そしてあいつの周りにはあいつを想う人間が集う。良い悪いに拘わらず、だ」
 「本人気付いてないけど、完全に人たらしだもんねぇ」
 芝の上で踊りながらフレイラースは笑う。
 アルバートは厳しい目でかわら版を見つめ直した。そこから見えない答えを導こうとでも言わんばかりだ。
 「ふむまずは」
 そんなアルバートを眺め、イルハイムは腰を上げた。
 「ワシがちょっと本格的に占術で『視て』みようとするか」


 所狭しと魔術用の器具が置かれた部屋で、彼は唸っていた。
 黒い水晶玉を開け放たれた両開きの窓の前にあつらえた机の上に置いている。
 時は日が変わって一刻が過ぎた深夜。
 水晶玉を中心に四本の蝋燭が消え入りそうな炎を上げながら、四方を囲んでいた。
 ローブを頭から被った男、イルハイムの唸るような呪を前に黒水晶が次第に中心から淡い光を放って行く。
 その様子を後ろから眺めるのはアルバートとフレイラース。
 今、イルハイムは星占いを行っている。
 巷で占い師が自殺や発狂するという多くの記事を受け、実際に『何か』見えるのかを試しているのだ。
 天球儀にしても、占いに大きく関連しているものだ。ならば実際占ってみようということだった。
 「ハァ!」
 イルハイムの気合いが放たれた。
 四本の蝋燭の炎が急に勢い良く燃え盛る。
 黒水晶の中に幾つかの光点が灯り、そして何事もなかったように蝋燭の炎を始め、全てが消えた。
 星明かりだけが部屋の中を照らす。
 ポゥ
 ランタンの明かりを灯すアルバート。
 「何か見えたか?」 
 「…」
 無言のイルハイム。彼はゆっくりと振り返る。
 心なしか、何とか見える口許が震えて見えた。
 「どうしたの?」
 と、こちらはフレイラース。
 「大いなる災厄がやってくる、というのはある程度確かなようだ」
 絞り出すように、彼はしわがれた声を出した。
 「どういうことだ?」
 「天から大いなる災厄がやってくる」
 「天からの災厄? そんなもの軽くあしらってやらぁ」
 イルハイムにアルバートは笑って答えた。
 イルハイムは咳払いを一つ。そして言葉を続ける。
 「2つの災厄が訪れる」
 「手に余るわね」
 「大サービスだな、こりゃ。しかし具体的にどんなものなんだ?」
 「一つは確率の神による物質的な災厄。一つは織物の縦糸と横糸がほつれるような……世界そのものの災厄」
 「「…」」
 沈黙する2人。最初に我慢しきれなくなって、口を開いたのはアルバートだった。
 「結局、どういうことか分からんぞ」 
 「あ、私も!」
 自分の無知を知られるのが怖かったらしい。
 「………」
 それを聞く無言のイルハイム。
 実は彼の気持ちが彼ら2人と一緒だとは、決してバレる事はないだろう。
 「アルはこの厄災とやらにシシリアが絡んでいると考えているの?」
 フレイラースの問いにアルバートは小さく頷いた。
 「あいつの仕事を手伝っていて、どうもなにかしら『一つのこと』について俺に対して空白だった感がある。多分これ関係だと俺は睨んでいる」
 「なぜお前に協力を申し出ないのだろうか?」
 こちらはイルハイムだ。
 「俺が適任でないのか、もしくはすでに準備を整えるための人員が揃っているか、その辺じゃないだろうか?」
 「なら放っておいても?」
 フレイラースの言葉に首を横に振るアルバート。
 「言っただろう。あいつの下に集まる者達はあいつの為に働くが、深読みしすぎて余計なことをしかねない奴も多い。詰めを仕損じてその厄災とやらが発生してしまったら、どうしようもない」
 そう告げる彼の口調を見つめながら、フレイラースとイルハイムは「お前が深読みしすぎて余計なことをするんじゃないか?」と思ったとか。


 龍王朝首都・央京。そこから北に3キリールほど行った森に隠者が住んでいる。
 その名を書院といい、かつては王朝内で重要な職に就いていたこともあるという噂がある。
 彼はうららかな春の風をその身に受けつつ、庭の東屋で書物の編纂に取り組んでいた。
 ちょうど今書き上げたのは、先日皇帝から依頼された件の顛末である。


 魔王というものが存在する。
 それは大抵はいつ如何なる時代にも登場する、言わば時代の風物詩でもあると言えよう。
 そして今この時代にも、魔王は存在していた―――
 龍王朝の遥か北、リハーバー共和国の北東部に位置するシルバーン大山脈は、東へ行くほどに高く険しく変化していく。
 シルバーン山系における龍王朝の領土はその半ばまで及び、大陸で一位を誇る不死山という美しくも険しい山に終始するのだ。
 不死山は樹海と呼ばれる亜人・魔物達の多く住む人間が立ち入らざる領域に囲まれ、霧の中に麓は青く、山頂付近は雪で白く生える、見る者に深い感慨を与える霊山である。
 またその名の通り、山頂には不死の霊薬があるとされるがそこにたどり着く者が存在しないために真偽は定かではない。
 だがしかし、そんな噂に近い話はこの一年に妙に信憑性を帯びてきた。
 理由は簡単。
 半年ほど前から不死山を拠点として魔王が発生したのである。
 魔王『紅』――暗黒の肌を持ち、赤い瞳、赤い髪を紅蓮の炎の衣の中に光らせる美しき青年。
 彼の細い腕の一振りで村は塵に帰り、一睨みで人の心は粉々に砕け散ると伝えられた。
 不死山にて何を発見したのかはっきりとはしないが、彼の力は強力であり、瞬く間に樹海の魔物を統率。
 亜人をもその支配下に置き、徐々に龍王朝の領土を侵食し始めたのである。
 そこで時の龍王朝の皇帝・慧錬帝は配下の七聖が一人、国家の武を司る剣聖・翔巴へ魔王『紅』の討伐を命ずることとなる。
 剣聖の下に編成されたのは龍王朝精鋭の侍が777名。
 侍とはここ龍王朝における戦士のことであるが、西の数ある王国の騎士達とは異なる役職である。
 主に「切る」ことを主体とした「刀」を用い、その刃に人の持つ生命力である「気」を込めることにより只ならぬ破壊力を放つことができる一騎当千の戦士なのだ。
 故に古来より龍王朝は他国からの侵入を独力で防ぎ続け、今では独特な文化を身の内に内包している。
 なお侍の技術の発祥であるとされる東方の島国では、そのいでたちが『袴』と呼ばれるスカートなようなものであることと、長い髪を頭上で変わった形に結わえる『ちょんまげ』なるヘアスタイルという独特な恰好をしているのだが、それについては取り入れられていない。
 それはさておき。
 剣聖率いる討伐隊はしかし、その全てが深い樹海より帰らぬ人となる。
 殺されたのか、それとも魔なる樹海に飲み込まれたのか、はたまた紅の闇に魅入られたのか?
 以前より勢力の増大を続ける魔王は徐々にその勢力範囲を広げて行く。
 そこで慧錬帝はかつての知聖――今や現役を引退した、龍王朝の知恵袋である先代の知聖・書院へ、力を授かりに己の足を以ってして赴いた。
 現在の知聖・考規の立場はないが、彼自身がそれしかないと導き出した答えなのだから仕方ない。
 先代の知聖の持つ『力』、それは異世界からの強い力を持った者の召喚である。
 いわゆる救世主と言えば分かりやすいであろうか?
 他力本願と言えばそれまでだが、圧倒的な部の象徴であった剣聖が消えた今、慧錬帝が頼ったのは易である。
 知聖が行った易によるとこうだ。
 『遥かなる壁を越えた勇者、闇を蒔く悪しき者へ光を与えるであろう』
 何とも簡潔であり何とも単純な宣託だ。
 そして前知聖・書院は帝の指示に従い異世界から勇者を召喚した。
 現れたのは一人の少年。
 名を『前原 剣』という、十六歳のどこか頼りなげな男だった。
 彼は帝の無理を承知な依頼に戸惑いつつも、持ち前の正義の心で承諾。魔王・紅討伐に向かったのである。
 まず彼は不死山に向かう道中で、龍王朝で最大の力を有した巫女であり帝の娘である少女・妃巫女を仲間に加えることとなった。
 彼女は不甲斐ない父に激怒し、異界の勇者の力となるために馳せ参じたというが…なんともはや。
 次に樹海にて斧を振らせれば右に出る者はいない、ドワーフの老戦士・ヴァルダと意気投合する。
 彼は魔王に個人的な用件があるそうなのだが…これは別の物語に関わるのであって、この勇者の物語にはかかわってこないとここでは述べよう。
 数々の罠、魔物、策略を越えて、樹海の奥深くの洞窟で3人は見つけることとなる。
 石と化していた剣聖・翔巴をだ。
 妃巫女の祈りの力によって呪縛を溶かれた剣聖を仲間に加え、四人はとうとう魔王の座す不死山の山頂へと辿り着いたのである。


 鼻腔へ仄かに爽やかな香りが到来する。
 「ふぅ」
 老人は筆を止め、溜息一つ。
 コトリ
 湯気の昇る湯呑みが、ちゃぶ台の上に置かれた。
 「本日は何を書かれているのですか?」
 琵琶を鳴らすような旋律で声がかかる。
 「ふむ、以前召喚した少年の武勇談をまとめておこうかと思っての」
 老人は湯呑みを手にし、一口。
 熱くもなく、ぬるくもない。安い茶のはずだが苦くない程度に極限まで茶の芳香が溶出されている。
 「あの方ですか」
 顔を向けた老人の言葉に微笑むは着物姿の女性。歳の頃は二十代前半だろうか、老人との関係と聞かれたら孫というのが的確だろう。図らずもそれは誤りではないのだが。
 「乙音よ」
 「はい?」
 乙音は老人に首を傾げた。何故なら老人が珍しく難しい顔をしているからである。
 「もしも運命というものがあるのならば乙音よ、お主はそれを信じてはならぬぞ」
 「剣少年のようにですか?」
 「そうじゃ。異界の住人という不確定要素ではあったが、それにより皇女・妃巫女殿の運命も大きく変わった。そしてそれは」
 「龍王朝の今後にも影響すると?」
 コクリ、と老人は頷く。
 「でもその『変わること』自体が運命であったとは考えられませんか? いえ、運命とは後から語られるものではないでしょうか?」
 乙音の言葉に書院は目を細める。
 笑み、である。
 「そう考えられるようになれば良い。フィースのトコのルーンのような、己自身で全てを決める、その心があればのぅ」
 書院は満足げに頷いて、再び筆を取る。
 続きを綴らなくてはいけない。せめて文書として残し、彼の功績くらいは残しておいてやりたいと彼は思っている。


 魔王『紅』はドワーフ族の戦士ヴァルダの命と引き換えに滅んだ。
 これにより樹海の魔物は沈静化し、亜人と支配された村々に平和が訪れたのである。
 剣聖である翔巴は以前にも増して強くなり、今後の龍王朝の武は確たるものとなるだろう。
 そして勇者・前原 剣と巫女・妃巫女は―――


 竜の住まう山より2人は3人になってサマートへと帰ってきた。
 「たっだいま〜!」
 「おかえりなさい、クレオソート」
 宿屋の一室、元気に飛びこんだ彼女を待っていたのは微笑む金色の瞳の青年だった。
 「あれ? お兄ちゃんはまだなの?」
 「うーん、一度戻ってきたんですが」
 ラダーは困ったような困っていないような顔で答えた。
 「材料関連の問題で水の祠へは昨夜一人で向かいました。そろそろ帰ってくるんじゃないですかね」
 「え、一人で? 大丈夫なの??」
 「人魚の案内人もいるから大丈夫とか言ってましたよ。後からアーパスもやっぱり心配とか言って追いかけていきましたし」
 答え、ラダーはクレオソートの後ろにいる2人を見た。
 「ところで相当きつい旅をしてきたんですかね?」
 そう感想を漏らす。
 後ろのアレフの顔は痣だらけだったりする。
 「ま、いつものコトよ」
 「ああ、いつものことですか」
 彼のさらに後ろにいる女性を見て、ポンと彼は手を打つ。それにアレフは無言だ。
 ラダーはアレフがところ構わず女性に声をかける性癖があることを認識している。
 同時、それによって高い情報集積能力を発揮していることも認めているが、それを知っているのはアレフ以外に彼だけだろう。
 「紹介するね、メイセンよ。人間の女の子に見えるけど、竜なの……多分」
 最後の多分というのは、実物を見ていないことからだ
 クレアに言われ、メイセンはラダーの前に出る。
 「初めまして、メイセンと申しますぅ?!」
 いきなり彼女の変わったイントネーションのある声が裏返り、今まで以上に変わった発音になった。
 「初めまして、私はラダー・アクトルと申します」
 右手を出すラダーにメイセンは慌ててクレアの背に隠れた。
 「人見知りの激しい娘ですね」
 出した手を引っ込め、ラダーは笑う。
 「? そんな娘じゃないんだけど」
 首を傾げ、クレアは彼女を見る。
 「俺も道中ぶんなぐられっぱなしだったし」
 「それはアンタが手を出すからでしょう?!」
 そこまで言って、クレアは気がつく。メイセンが小さく震えていることに。
 「どうしたのよ、メイセン」
 「いやいやいや、アンタらはこのお方にそんな軽々しく声をかけて、何しているのか分かってるん?」
 顔を青くして竜の娘は言った。
 「軽々しく?」
 クレオソートとアレフは顔を見合わせる。
 「メイセンさん」
 「は、はひ?!」
 ラダーに声をかけられ、メイセンは直立不動となる。
 「余計な事いうと、食べちゃいますよ」
 「なんだよ、ラダーも女好きだな」
 アレフはニヤニヤ笑いながらラダーの脇に肘をぐりぐりと食い込ませる。
 「そうですねぇ、貴方ほどじゃありませんが」
 「ホント、お兄ちゃん以外の男って下品だわー」
 クレオソートは溜息をつきながら椅子に腰かけた。
 そこにアーパスが帰ってくる。
 「帰ってきていないか」
 一同を見渡し、アーパスは小さく舌打ち。
 「ちょっと、お兄ちゃんは?」
 「分からん、連れ去られた」
 一言。クレオソートの眼光が厳しくなる。
 「水の祠ってことは水の転移点でもあるのでしょう? やっぱり光の子と関係あるの?」
 アーパスは眉間にしわを寄せてクレオソートを睨む。
 「なんでそのことを?」
 「お兄ちゃんとはずっと一緒に過ごしていたんだから、それくらい推測つくわ。当の本人は気づいていないでしょうから、私がしっかりしないと」
 クレオソートは改めて荷造りを始めた。
 「なんだ、クレア。急に」
 「お兄ちゃんのことは心配だけれど、事態が動き出したってことでしょう。私は私の為すべきことを成し、お兄ちゃんの力になるわ」
 アレフに答え、彼に振り返る。
 「アレフ、一緒に来てくれる? 結構忙しくなると思うけど」
 「水臭いな、今更」
 彼もまた旅装を整えた。
 「メイセンはアーパスとともに。ルーンお兄ちゃんが帰ってきたら力になってあげてね」
 「おい、どこへ行くんだ?」
 アーパスの問いにクレオソートは意を決した表情で荷物を背負った。
 「貴方のお姉さんと同じよ。もしもお兄ちゃんが光の子なんかじゃないなら、放っておくんだけど。アーパスは水の守部の代理としてしっかり役割を果たしなさい」
 「クレオソート、お前どこまで知っているんだ?」
 アーパスのそれには答えず、彼女はラダーに振り返る。
 「行くんでしょう、貴方も」
 「ええ、その時のようです」
 そして。
 クレオソートとアレフは南へ。
 ラダーは東へと旅立った。
 後に地元の農夫が「巨大な金色の竜が東へと飛び去るのを見た」という噂が流れたという。

<Rune>
 光の子と闇の子は世界を構成する縦糸と横糸を、己の命を削ることで四元素より生み出すことができる。
 世界の『ほつれ』が大きくなった時、世界そのものがその身の内に住まう生き物より生じさせる、一種の世界保存機構の一つであると考えられるだろう。
 ではもしも『ほつれ』が大きくなってしまったら、世界は一体どうなるのであろうか?
 それ以前にこの世界とは一体何なのか? ということを説明した方が早いだろう。
 世界はまるでシャボン玉のように『無』の中に浮かんでいるのである。
 無とは虚無/変化のないもの/何もないことであり、全ての構成元素の素粒子/生命の海/混沌でもあるという意見がある。
 その実態は明らかではないが、無に包まれたものは同じ無となる。
 『ほつれ』により無が世界を包む時――それは全ての終わりであり、また再び形あるものへと形成されるまでの準備期間に入るとも言えなくもない。
 世界はそんな無の中に、光の縦糸と闇の横糸で織られた球体の中に存在しているというのが現在の論である。いや、正確に言うならば物質界とその裏面性を帯びた精神界がである。
 精霊界はこの薄膜である光と闇の布の間に存在しているのだ。
 すなわち世界を流転する精霊力/魔力、そして我々生命たる素は無より精霊界というフィルターを通して世界に具現化しているのである。
 これこそ『無』が万物の素粒子とも考えられる所以だ。
 とまぁ、そんな講釈が延々と流れ込んで来ていた。まるで学院で睡眠学習している時のようだ。
 唯一違うのは眠いって入ても強制的に脳みそに叩き込まれるという点だろう。
 ”む、難しすぎる”
 危うく欠伸を漏らしそうになり、僕は流れ来る情報を本のページをめくるようにスキップした。
 この「世界構成論」は学院でも特別講習として習った記憶がある。覚えいないが。
 『ほつれ』というのは異世界、と言っても同じ世界内にある精霊界などではなく本当の意味での異世界からの何らかの召喚を行うことによっても瞬間的に発生するらしい。
 もっとも精霊召喚と全く違う意味を持つこの召喚は手順も全く異なり、現在では喪失技巧とされている。
 遥かなる過去には『ほつれ』を故意に生じさせ、そこから無を取りだしエネルギーとしていたと言う何とも信じがたい伝説があるのだが……「世界構成論」が正しいとしてもそうでないとしても、そんな危なかしいことは知っててもやる気は起きない。
 ともあれ、僕が光の子であるということはどこかに生じたこの『ほつれ』とやらを闇の子とともに埋めりゃいいということか。
 その為には前例をある程度確認しておく必要がある。
 前に遠見の鏡で見たけれど、あれだけでは材料が足りない。もう少し光の子のイメージが欲しかった。
 僕は前代の光の子について『特徴的な画像』という単語をイメージし、検索の意識を解放する。
 僅かなタイムラグを伴って、僕は赤い世界に飛び込んでいた。
 灼熱の地である。
 周囲は岩壁で覆われ、ホール状のこの場所の真中には暴れ狂う金色の竜がいた。
 すぐ近くには溶岩が流れている……とするとここは恐らく何らかの山の火口であろう。
 つい、と竜の視線が一点に注がれた。そこには3人の戦士風の男女の姿がある。
 まっすぐな瞳で竜を見上げる一人の女性。
 彼女の傍らで歴戦のドワーフ戦士が膝を付く。その後ろでは黒い翼をその背に持った黒髪の美青年が目を回して倒れている。
 「クロースターもヴァルダも休んでて良いから」
 にっこり笑う彼女。亜麻色の肩までの髪が溶岩から吼え上がる炎に赤く映える。
 赤く燃えるその瞳には、えも言わぬ好奇心に満ち満ちていた。
 およそ決死の戦いを前にした者の表情ではない。何かを楽しもうとした、まるでスポーツを前にした小犬のような雰囲気さえ覚える。
 言い換えれば戦いに余裕を持ち込んでいるとも言えなくもない。
 「待て、アッティファート。無茶なことをするでない!」
 ドワーフの戦士は慌てて彼女のズボンを掴もうとするが、彼の短い手は空を切った。
 アッティファートは跳躍したのだ。
 その高さはおよそ8リール―。人間の所業ではない。
 「いっくよぉ、炎の番人ラダーさん!」
 彼女の細い腕が掴んでいるのはイガイガの巨大な球がついた凶悪な棍棒――メイスと呼ばれるものだ。
 ラダーってあの竜が? 同姓同名ではなく、と思うが考え直す。
 『燃え尽きろ!』
 竜が『叫』ぶ。
 炎がその顎からほとばしった!
 炎の先には竜に向かって落下中のアッティファートの姿。滞空状態では避けられない。
 映像の中とはいえ、彼女の隣にいた僕は思わず僕は目を閉じる。
 「カァァッツ!!」
 魂を揺るがす彼女の喝に、僕は思わず目を見開いてしまう。
 彼女に炸裂する炎の吐息――僕は包まれるがそれは映像故に熱さは当然感じない。
 だがこのリアルな記憶は、そうであると認識していなければ熱を感じてしまいそうだ。
 竜の瞳に勝ちを確信した色が映った。
 数瞬後にそれは驚きに、そして敗北感に染まることとなる。
 炎から抜き出たアッティファートは無傷?! あちこち焦げてたり、煤で黒くなっているけれど。
 そのまま彼女は唖然とする竜の頭に向かって落下。握り締めたメイスで彼の頭を叩きつけた。
 ごきん
 『うがぁぁぁ!!』
 一撃。
 ただの一撃で竜はその巨体を熱き大地に沈めたのだった。
 「私は人よりちょっと丈夫にできてるのよ、ラダーさん」
 笑って彼女は目を回した竜の頭を軽く平手で2、3度叩き、岩壁の一面を仰ぎ見る。
 そこには祠と、そして大きな扉が一つ。
 それが何なのか、僕には分かった。水の祠で見たものと同じだ。
 感じるものは水の魔力ではなく、対極である炎の魔力ではあるが。
 「ええと」
 アッティファートは何かを探すように辺りを見渡し、見つけたようだ。
 呆然とするドワーフの横をすり抜け、倒れた黒い翼の男に駆け寄った。
 「ねぇ、クロースター?」
 つん、彼の背中を突ついてみる。
 返事はない。
 「もぅ!」
 やおらに彼の首筋を右手で掴んで持ち上げ、彼女は彼を小脇に抱えて炎の転移点である両開きの門に向かった。
 彼女の背丈よりもずっと高い両開きの岩の門。
 そこに向かって右足を振り上げ、
 「せぇい!!」
 ミドルキックを放った。
 ドカン、だかゴゴンだか、ありえない音を立てて両開きの扉は彼女の右足が触れた部分を中心にひびが入り、そして向こう側に向かって砕け散った。
 扉の向こうは燃え盛る炎の精霊界。
 それも炎の精霊王の居室であり、案の定そこには炎の巨人がいた。
 感情表現がほとんどないとされる精霊のはずなのに、炎の精霊王は目が点になっていた。
 そんな彼を見上げて、光の子は小脇の闇の子クロースターを精霊王に向かって。
 投げつけた。
 『えええええ?!?!』
 叫ぶ炎の精霊王。慌てて彼を受け止める。
 アッティファートは精霊王にグッと親指を立てて微笑むと、颯爽とその場を後にした。
 そこまで見て、僕はそっと記録を閉じる。
 「この調子で地の転移点の結界も修復できない感じで壊したんだろうな、この人」
 基本、脳筋の人らしい。あまり参考にならなかった。
 というかやっていたことが人間業ではないと思う。
 検索球から手を離し、僕は軽く頭を振った。
 ここはバベルの図書館の閲覧室。
 この空間を出るにしても、どうせなら1つ2つ分からないことを調べていってもバチはないだろうということでツクヨミの力を借りて調べものをしていたのである。
 ここには書物以外に検索球と呼ばれる映像保管の魔道具もあり、己のイメージをぶつけることでそれに関する映像を引っ張り出せるというどんな理屈で機能しているのか分からない道具が揃っていた。
 おかげで調べ物は捗っている。
 さて、今の画像の他に己の意識下に集めておいたのは次の情報。
 世界保存機構である光の子・闇の子、すなわちこれは紡ぐ者(エスペランサー)と呼ぶそうだが、これが発動したのはこれまでで一度きり。
 前代の光の子・闇の子であるアッティファートとクロースターである。
 二人は四元素の大転移点のうち2つの封印を解いた――火と地の2つだ。
 封印とは精霊界から流れ出る精霊力の弁のようなもの。それは一度解かれると解いた者に力を送ることとなる。
 もしも解いた者が死んだときは、再び封印が下りる。その封印は時が経てば経つほど堅牢なものとなるらしい。
 が、先程の映像にもあるように光の子は封印そのものをぶち壊してくれたために現在では神の世のような堅牢な封印ではなく、人との手による封印を施されているようだ。
 先代の二人は順番的には火を解いてから水、風と行って、最後に地のそれを解こうとしていたようだが、『世界のほつれ』の時間が迫っていたために火を解いた後に真っ先に地の転移点へと向かった。
 もしも時間があったならば四つの封印を解くことができ、彼らの十分な魔力ならば世界のほつれを完全に塞ぐだけの力があったと、僕は思う。
 何よりこのアッティファートさん、魔力以上に人並み外れた体力の持ち主だ。
 性格は豪胆で姉御肌。論より先に手が出る活動家タイプ。
 そんな彼女をクロースターは元より、無頼骨なドワーフのヴァルダ、今からは想像できない暴れ者だったラダーでさえ憧れとして見ていたようだ。
 なお、アーパスが水の守り部であったようにラダーは火の、そしてこのドワーフのヴァルダというのも地のそれだ。
 しかしラダーの奴は竜だったのか? それも竜の中で最強とされる黄金竜だ。今の姿は人化の法で人のそれとなっているが、分からないものだ。
 ともあれ。
 ”分からないことが多すぎる”
 調べれば調べるほど分からないことが増えていく。
 見なきゃ良かったな、と後悔するが時すでに遅し。
 キリがないので調べるのはここまでにしようと決断する。
 これだけでも十分な情報量だ。
 そしてなによりも何より今はここを抜け出すことが先決だ。
 精神体でなく肉体を持ってこの空間に紛れ込んだ僕は今の状況、非常にまずいと思われる。
 バベルの図書館は全ての時代へと通じる「時間のへその緒」のようなもの。
 普通ならばここへやってこれる幸運な者は精神体として訪れ、ここで経過する時間に左右されることなく万物の検索に耽る事ができるのだ。
 だが僕には「ここでの時間」が流れる。
 元の時代へ戻るには足がかりがない。例えるならば錨を降ろしていない船のようなもの。
 元の場所に戻るには果たして如何なる方法を取ればいいのか?
 頼みの検索球での調査でも、方法については判明しなかった。
 いや、方法はあるのだが現在の僕には閲覧が許されていないようだ。
 これから発生する未来にその方法は発生するようで、過去の僕にはその情報を認識できないようになっている。
 「まいったなぁ」
 「まいりましたか」
 「ルーフさん」
 何かと縁がある彼女は僕の顔をしみじみと眺める。
 「いろいろ調べられたようですね」
 「ええ、無駄に調べてしまいました。つまみ食いしながらって感じなのでとりとめもないですが」
 検索球での調査は思ったことが次々に流れ込んでくるため、調べたつもりがないことでも脳裏に残っていたりする。
 長時間の使用は頭が混乱して危険だと思う。
 「結構結構。きっとその知識はいつか貴方の道を開くでしょう」
 「いえ、今の道が開かないんですけど」
 僕は大きくため息。
 「実体のままに来た者を元の時系列に戻すなんて方法、もしも分かっても僕には使えそうもないですし」
 「そうなんですか?」
 声はルーフさんの後ろで資料の整理をしていたツクヨミさんから。
 「頼んだらいいのでは?」
 呆気ないその言葉に、僕は首を傾げる。
 「そちらのルーフ嬢は貴方と同じく、実体を持ってここにいますよ」
 「え?」
 「そうですよ」
 呆気なく頷いてルーフさんは笑みを浮かべる。
 「どうやら条件は果たしたみたいなので、元の世界に戻してあげますね」
 ジワリ
 ルーフさんの瞳の色が変化する。
 黒から、金銀妖眼へ。
 「それって」
 「案外、この金銀妖眼って遺伝の要素が強いと思うんですよね。私の叔父がそうでしたから」
 僕を中心に光の壁が発生する。円形の直径1リールもないものだ。
 「私の能力はこのアカシック・レコードに直接立ち入ることができるというもの。だから時間移動なんかもできちゃうんですよ」
 そう言う彼女の目元。そうだ、彼女に似ているんだ。
 「ルーフ、それ以上は」
 「はいはい」
 ツクヨミさんに咎められ、彼女は能力を発揮する。
 光の壁は強く瞬き、そして僕の目の前に光の道を作り出した。
 お昼のサマートの港だ。眩い日光と初夏を思わせる風がやんわりと吹いている。
 僕は視線をふと横に向けた。
 微笑むルーフさんと、手を振るツクヨミさんの姿が光の壁の向こうにある。
 僕はある言葉を送った、それはしかし光の壁を通して向こうには届かない。
 だがルーフさんは意味を理解し、彼女のアスカに似た形の良い唇が何らかの言葉を発した。
 それもやはり僕のところには届かない。が、その意味は届いていた。
 そう、初めて会ったあの時から、彼女のことは本能で気づいていたと思う。
 だが確信などありはしなかった。
 そりゃ、当然だろう。彼女が僕の前に現れたのはきっと将来僕が何らかのヘマをしでかすか、それに近い状況に陥ったに違いない。
 僕は右手を軽く上げ、しばしの別れ。彼女もそれに倣って右手を上げる。
 僕はこう言ったのだ。
 「いつもすまないねぇ」
 それに彼女はこう答えたに違いない。
 「それは言わない約束よ」
 僕は想いを胸に抱き、前だけを見つめて足を踏み出した。
 歩を進めるごとに胸に抱いた彼女の想いが、手のひらに掴む霞みの様に消え去るのを感じながら。

<Camera>
 港の前で海を眺めていた2人の前に、彼は光を纏って現れた。
 「ただいま」
 告げる声の調子はいつものものだ。
 「おかえり、ルーン」
 小さく笑って剣士は彼を出迎える。そこにはちょっとした安堵の色も混ざっていた。
 ルーンは剣士の隣の、青い衣をまとう神官を見て首を傾げる。
 「ウチの名はメイセン。クレオソートさんの言葉もあるけれど、ウチ自身の意志で光の子であるアンタのこれからを見させてもらう」
 「そうか、よろしくね」
 言ってお互いに握手を交わした。
 「あとの3人は?」
 「それぞれ用事があるんだってさ。お前絡みのな」
 「そっか」
 ルーンはアーパスの言葉に嘆息する。
 「色々と手伝ってもらっちゃってるなぁ、僕」
 「そうだな」
 アーパスは頷いて言う。
 「お前がやるって言ったんだ、みんな付き合うだろうさ」
 「アーパスもかい?」
 「まぁ、仕方ないな」
 「ありがとう」
 言われ、アーパスは顔を赤くして空を見上げた。
 カモメが3羽飛んでいる。彼らは北へと向かうらしい。
 「じゃ、僕らも出発しようか」
 ルーンは大きく背伸びして、そう言った。


 「お待ちしておりました、社長」
 眼鏡を掛けた蜥蜴男が彼らを出迎えた。
 トカゲの頭とシッポを持ったリザードマンの彼はおそらく微笑んだのであろう。人間にとっては慣れない笑みを浮かべて2人にと握手を交わす。
 商業国アンハルト公国。
 列強大国の境にあるその小さな国は、微妙な立場を利用して自立し続けてきた商人の集う国である。
 その首都ロンには多くの商店が立ち並ぶ。
 オラクルとハルモニアは物資の詰まった馬車を曳きながら商店が軒を連ねる中についこの間、新しく居を構えた店へと到着した。
 アルマ運輸――魔道によって確立された情報網を利用して設立された多くの仮想会社の一つ。
 その創立者であるオラクル・フラントは数ヶ月前、会社を現実世界へと移したのである。
 とは言っても、やはり現実に商品や金が目の前で行き来することはなく、専ら会社のオフィスにはネットに参加するための端末及び伝票が置いてあるだけである。
 「首尾はどうだい? アラムス」
 「公国が帝国に対し、経済封鎖を始めております。まだ声明は発表されておりませんが」
 アラムスと呼ばれた中年の蜥蜴男は丁寧な口調で答える。
 「そうか。あ、ハルモニア、君は実際には会ったことはなかったよね。紹介しよう、アルマ運輸の副社長さんだ」
 馬車から下りて、オラクルは隣の少女に蜥蜴男を紹介する。
 「お初にお目にかかります。アラムス・リーバと申します」
 「ハルモニア・シーレです。お名前は仕事上お聞きしておりますわ」
 「私もです。ところでお二人とも、ここでは実名をお使いにならない方が宜しいでしょう。盗賊ギルドの目は鳶の様に鋭うございますから」
 「そうですね。偽名についてはおいおい考えていくことにしましょう」
 ハルモニアは頷きながらそう答えた。
 「ともあれ、長旅お疲れさまでした。どうぞ、客室を用意してありますので」
 アラムスに導かれ、二人はアルマ運輸の三階建てビルへと初めて足を踏み込んだ。


 不死山の山頂は戦いの影響であろう、そこかしこに黒く焦げた痕が残っている。
 その黒い焦げ痕から立ち昇る赤い影。
 それはやがて人の形――黒衣に身を包んだ赤眼赤毛の美丈夫へと姿を変えた。
 知る人は知るだろう、彼はかつて魔王『紅』と呼ばれていた事を。
 「ふむ」
 彼は手の届きそうな夜空を見上げ、風をその身に受ける。
 そしてそのまま、視線を南西へと下ろす。
 赤い瞳に何を見るのか、彼は僅かに微笑んだ。
 「光よ、見せてもらおうぞ。汝の力をこのヴァルダ・マーナに」
 風が一際強く吹きすさぶ。
 次の瞬間には彼の姿は風に吹き散らされたかのように、跡形もなく消え去っていた。

Temporary end & continuation ...


 「お姉さんの物語って、たくさんの物語が集まってるんだね」
 「なに言ってんだよ、お前。たくさんじゃないだろ? 一つじゃん」
 コツン、眼鏡の男の子の頭を少年は軽くこずいた。
 「私は2つのお話って感じがする。ルーンさんとアスカさんの2人のお話」
 少女がそう呟いた。少年はさすが困った顔をしている。
 シャララン♪
 吟遊詩人は竪琴を軽く弾き流す。
 途端に三人は彼女に視線を戻した。
 「物語はね、聴く人の数だけあるの。だから貴方達が思ったお話は貴方だけのお話なのよ」
 歌うようなその言葉に、しかし子供達は首を傾げるばかり。
 どうやら難しかったようだ。
 吟遊詩人はそんな彼等にクスリと微笑み、再び物語を紡ぎ出す。



   想い想いて遠く二人
   されば心は近くなる
   二人飾るは舞い散る悲劇
   されど常に愛おしき………



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