<Camera>
 アンハルト公国唯一の都市であり、領土のほとんどを占める首都ロン。
 幾重にも重なり合うこの円形の都市の中心には澄んだ大きな湖が存在する。
 その真ん中に立つのは重厚な灰褐色の城だ。
 この湖の地下から湧き出す大量の地下水は南の山系からの恵みとされているが定かではない。
 そして湖から流れ出す川はロンの住民と、アークス=ザイル国境間にある数々の都市の生命線ともなっている。
 灰褐色の城――ここはこのアンハルト公領の領主の住居であり、大陸経済の臍でもある。
 城の主であり、間違いなく大陸経済を左右しうる影響力の持ち主の一人であるケイン・アンハルトの執務室には一人の使者が訪れていた。
 隣国ザイル帝国の宰相ナーカス・リーの書状を携えた若者だ。
 その物腰は洗練された文官のものであるが、纏う雰囲気は厳粛な武官のものだった。
 ザイルからの使者ながらも、アークス方面出身と思われる黒い瞳に黒い髪を持ち、端正な顔をした中性的な者だ。
 「セレス・ラスパーンと申します」
 「ケイン・アンハルトです」
 長机を挟み、二人は対等に名乗り合う。そしてしばし互いに見つめ合った。
 「まぁ、儀礼的な前口上はなしで進めましょう」
 ケインからそう申し出る。
 「ではまずは我がザイル帝国からの要求を申し上げましょう」
 倣い、セレスが手にした書状を眺めながら告げる。
 「二つあります。一つはザイル=アンハルト間の街道封鎖の解除。二つ目はとササーン王国経由で我がザイルへ手出し無用と言いたいところですが」
 ここでセレスは言葉を区切る。
 「二つ目についてはすでに我らへの影響はなしとなりました」
 言って書状を折り、ケインに手渡した。
 セレスがアンハルトへ来るまでの間に、主であるガルダの対抗勢力でありササーン経由でケインから援助を受けていたブラッドが戦場で没したためだ。
 同時、ササーン=ザイル間の街道が隣接する魔の森と呼ばれる秘境からの正体不明な勢力によって封鎖されていることも挙げられる。
 「では一つ目のご要求について説明させていただきましょう」
 ケインは告げる。
 「未だ貴国では皇位継承の争いが続いており、政情が安定しておりません。結果、その戦禍が我がアンハルトに及ぶ可能性もあるため、防衛のために街道封鎖に至っております」
 ここでケインはわざとらしく溜息を一つ。
 「まずは貴国内の争いを鎮静化することが問題解決への一歩ではありませんか?」
 実際のところザイル帝国内の皇位継承争いによる戦禍は微小の域だ。
 だが主に塩や砂糖といった食料必需品を外に頼っているザイル帝国としては、主流通路として使用していたザイル=アンハルト間を封鎖されると日増しに国民への負担となっていく。
 現在はガルダが指揮を執る臨時政権によってこれらの品が販売が抑制・制御されているので大きな騒ぎとなっていないが、近いうちに騒動に発展することだろう。
 セレス個人としては継承争い前まで帝国内外の流通にかかわっていた王族までをも排除する愚かしさには唾棄する思いを秘めてはいたが。
 「ではすでに問題は解決されております」
 セレスは告げる。
 「すでに皇位は我が主であるガルダ殿下のものとなり、帝国内は安定期に移りつつあります。むしろ街道封鎖によって必需品が国内に希薄となった場合、別の争いが生じる可能性が高いでしょう」
 ザイルの国力低下を望むアンハルトとしてはそれを望んでいるのはセレスにも分かっている。
 だがそれをさせないため、争乱を「作り出さないため」にわざわざこの役を買って出たのだ。
 「我がザイルは自国を蚕食することにためらいは持たないでしょう」
 静かに告げる。この言葉にケインの薄い笑みが僅かに歪む。
 「なるほど、その指向性は私にはありませんでした」
 ケインはセレスの言葉を踏まえて未来図を推敲する。
 皇帝となったガルダは物資不足を理由に自国内の特定領域に簒奪を行うことも厭わないということだ。
 簒奪されるのはアンハルトに近い地方。そしてそこで発生するのは飢えた人々であり、棄民であり、アンハルトへの移民とつながる。
 さらにその中に偽りの移民、すなわち武装移民がいたらどうなるだろう?
 アンハルトは大陸経済の中心であり、東西南北それぞれに隣接する4つの大国のバランス上に成り立っているに過ぎず、所持する武力は大国を前にしたら紙のようなものだ。
 圧力に紙が破れ、アンハルトが世界大戦の勃発点となりうる未来がある。
 それも発端はアンハルト側からの封鎖であるとすると、他の大国からの擁護を得られにくくなる。
 ”機がブレたか”
 ケインは思う。魔の森から発生したグラムバールという男によって、彼の思惑は崩されたようなものだ。
 ササーン=ザイル間の街道が生きていれば、セレスの論は生きてこなかったはずだ。
 突発的な天災と諦めるしかない。彼は頭の中で切り替える。
 「そして対価とは?」
 セレスはケインの目をしばらく見つめたのち、こう告げた。
 「塩・砂糖に関しては、現在の相場を1.5倍に固定。これを3月続けましょう」
 アンハルトの主は危うく目を剥きそうになる。破格と言って良い対価だろう。
 ここから生み出される利益は相当なものだ。
 だが一方で、ザイル帝国はそれだけ追い詰められているということだ。おそらくササーン=ザイル間の街道の復帰はかなりの時間がかかると見ている。
 まさにザイル=アンハルト間の街道が生命線ということだ。
 これが平時であればアークス=ザイル間の街道も使用できるのだろうが、前皇帝下でいらぬ戦争を吹っ掛けた影響で半ば封鎖されていることはケインもつかんでいる。
 またザイル西方の海路についても、海賊が跋扈する状況でまともな交易ができないことも分かっている。
 そう考えれば利益はもっとあってしかるべき。
 「加えて」
 セレスが続けてこう告げる。
 「他物品については一律1.2倍の関税を同期間乗せることを認めましょう」
 ここまで言われてケインには断る理由がない。
 ないのだが。
 不意に扉が開き、一人の女性が部屋にやってくる。
 「ザイルからの使者と聞いて来てみれば、どこかで見た顔だな」
 「センティナ」
 ケインの頭痛の種がやってきた。
 「これはガーネッタ公。お久しぶりですね」
 作り笑いのセンティナに、感情のない返答をするセレス。
 「我が主、ガルダ皇帝は貴女に是非とも戻ってきてもらいたいとのお言葉を発しております」
 「まぁ、ブラッドやロアーなんかより面白くはなりそうだね」
 ケインの隣の席に座り、センティナは苦笑い。
 「ガル坊も苦労しているようだし、手伝ってやるかね」
 言って彼女はケインを見る。
 「良いのか?」
 センティナはこの国に来た時、ザイルに圧力をかけてほしいと願った。
 そしてケインはそれが自国の利益になると判断し、かつ彼個人の想いで了承した。
 「儲かるんだろ。おまけに『物資不足で苦境にあえぐザイル帝国』に恩を売れるんだ。乗っかるしかないねぇ」
 「そうですね。覚えめでたいセンティナ公の助言あってこその会談となりましょう」
 静かなセレスの言葉をケインは決め手とした。
 「アンハルト公ケイン・アンハルトの名をもって使者セレス・ラスパーンの申し出を受けよう」
 「賢明なご判断です」
 静かな微笑みをもってセレスは羊皮紙を取り出し、調印の書面策定を始めた。
 「ところでラスパーン卿?」
 センティナが不意に問う。
 「何故アークスの人間であった貴女がザイルに?」
 羽ペンの動きを一瞬止めてセレスは一拍の間の後、涼やかにこう応えた。
 「白と黒のバランスを取る為、ですね」
 「ふぅん。よく分からないけれど、それが貴女の目的につながることなのね」
 「そういうことです。今は世の安定に努めることこそが、私の敵の痛手となりますから」
 「厄介なのを敵に回したものねぇ」
 そんな二人の会話にケインは入り込めず、さりとて書面の完成を待たなくてはならず、お茶のおかわりを執事に命じる。
 「なんともまぁ、相も変わらず顔の広い御仁だ」
 彼はセンティナの横顔を眺めながらそう呟いたのだった。
 こうしてここにザイルとアンハルト公国の間で契約が取り交わされた。
 アンハルトにとっては大きな利益をもたらすものであり、ザイルにとっては補給路の確保に他ならぬ。
 加えて指揮官クラスの人材に乏しいガルダ勢にとり、センティナの復帰は非常に大きな功績とも言えたのだった。


 建物から早足で出てきた青年に、アラムスは早速声をかける。
 「まいりましたね、これは」
 「金具、曲がってマス」
 「結構長いこと酷使させてたからなぁ」
 荷車の下に潜り込んで状況を説明するイーザに、オラクルは頭をかきながら応える。
 「面倒でスマンが、アラムスとイーザは一度荷を全て降ろしてくれ。その間に僕は補修の金具を買ってくるよ」
 「中央のウラド商会が扱っていたかと思います」
 「分かりまシタ」
 アラムスの忠告と、傾いた荷車の下からのリザードマンの声を背にオラクルは町の中心部の方へを足を向ける。
 「おや、オラクルさん」
 「イーグルさん、買出しは終りました?」
 一区画も行かないうちに彼は片手に荷物を持つイーグルと、自身の背丈よりも高く積まれた荷を背負ったミーヤに鉢合った。
 「はい。さすが大陸の中心だけあります、何でも揃っていますね」
 「そうなんですよ。我々商人が本拠を置くにはこれほど恵まれた立地はありません」
 「オラクル、おでかけニャ?」
 荷物の向こうからの声にオラクルは苦笑い。
 「はい。馬車の荷車の軸受けが破損してしまいまして。替えの金具と軸を買いに」
 「お手伝いしましょうか?」
 「いえ、たいした荷物にもなりませんし、大丈夫ですよ」
 イーグルの申し出を丁重に断り、オラクルは会釈をして再び足を進める。
 五歩も歩いたろうか、その時だ。
 「危ない!」
 イーグルは叫び、荷が詰まった袋をオラクル目掛けて投げつけた。
 「え?」
 立ち止まるオラクル。彼が思わず袋を受け止めようとした時だ。
 ボスッ!
 投げナイフのようなものが袋に突き刺さる。
 ボスボスッ!
 時間差を置いて投げつけられた合計三本が的確に袋に立つように刺さった。
 袋がなければオラクルに間違いなく突き刺さっていたことだろう。
 「うわっ!」
 思わず袋を取り落とし、後ろへたたらを踏むオラクル。
 トトトッ!
 と、今度は彼のいた地面に二本、投擲物が突き立った。
 「逃げて!」
 イーグルの叫びに応えるまでもなく、オラクルは脱兎のごとく駆け出した。
 「ミーヤ、皆に連絡を」
 オラクルの後をイーグルは追う。彼の視界左右の端にはオラクルを追ういくつかの影が見え隠れしていた。
 「早い?!」
 前を駆けるオラクルはイーグルが思うほどよりも早い。
 道にある馬車や荷物などの障害を巧く利用して見えない敵から逃走を続けている。
 むしろ人ごみに出られてしまったら、イーグルでも見失ってしまいかねない勢いだ。
 彼は駆けながら、地面に突き刺さっていた飛来物を一本抜き取り、駆けながらそれを確認する。
 艶のない黒いナイフの刃だけのような金属。
 クナイと呼ばれるこの武器は、暗殺者や忍者といった諜報員が用いるものだ。
 「さてさて、何の因果で命を狙われているのでしょうね」
 小さくなりつつあるオラクルの背中を追いかけながら、彼は難しい顔で一人呟いた。


 「!?」
 ハルモニアは唐突に立ち上がった。二階の窓から外を、オラクルはいたはずの馬車の荷車を見下ろす。
 そこには荷車から荷物を降ろすアラムスとイーザの姿しかない。
 「アラムスさん、オラクルは?」
 上からの声に中年の男はゆっくりを見上げる。
 「荷車の補修部品を買いに行きましたよ」
 「オラクルが襲われてるニャ!」
 同時、リザードマンの隣にコロコロと走り込みながらファブルー族が駆けてくる。
 「っ、いつの間にか結界から出てる?!」
 「どうしたの、ハルモニアさん? ちょっとミーヤ?」
 アスカの問いに答えず、彼女は駆け足で階段を駆け下りていく。
 そのまま建物の外へと飛び出した。
 「必ず、あなたは守るから」
 「ちょ、ちょっと!」
 そんな彼女の様子を窓から見下ろしたアスカも、戸惑うイーザの隣で要を得ない言葉で説明をしだすミーヤの反応から察し、そこから飛び出す。
 「なに、どうしたの?」
 「ネレイドはそこで待機!」
 彼女はそう言い捨て、自身の白いその翼をはためかせて駆けるハルモニアの後を追った。


 首都ロンは中心部に向かうにつれて大手商会たちの支店が立ち並ぶ。
 比例して行きかう商人たちの数も増え、網の目のように張り巡らされた通りは人や馬車でごった返していく。
 その中を一人の青年がすり抜けるようにして駆け抜けていく。
 逃すまいと幾つかの影も追いすがるが、次第にその数は減じていった。
 「しつこいな。逃げ足だけは自信があったんだけど」
 青年、オラクルは舌打ち一つ。
 商店と商店の間の狭い路地裏にその身を忍び込ませ、右の二の腕にはめた銀色の腕輪の表面を左の人差し指で撫でた。
 腕輪の表面に刻まれた刻印が淡い光を放ち、オラクルの目の前に小さな魔力板が二枚展開する。
 魔導ネットを展開したのだ。文字が一つ一つ羅列された板をタップし、何らかの文字列を叩きだしていく。
 二次元のスクリーン状の板に書き出されるのは、
 「アプリケーションプログラムQooを実行、と」
 途端、オラクルの脇にずんぐりむっくりとした白黒の鳥が出現。
 「頼む、僕の姿を真似てくれ」
 「アラホラサッサー」
 彼がそう言うと、一瞬で白黒の鳥はオラクルを鏡に映したかのように瓜二つの姿となる。
 服装も何もかもが全く同じだった。
 「さて」
 彼は思案する。ここが色々な選択肢の中でも大きな分岐点である、そんな漠然とした感覚があった。
 「よし、クーはこのまま路地裏を行ってくれ。僕は大通りに戻って逃亡を再開する」
 「オイオイ、死ンデクレルナヨ」
 「死なないよ」
 二人は右手同士で叩きあうと、そのまま互いに間逆の方へと疾走を再開した。


 追っ手達は眉をしかめる。
 「なんだ、二つに分かれた?」
 「どういうことか分からんが、両方しとめれば良いということだ」
 彼らは手早く二手に別れていく。
 「どういうことだ?」
 それを追うイーグルもまた首を傾げる。しかし彼にはその身一つしかない。
 「手練れがいそうなのはこちらだな」
 判断し、彼は路地裏へとその進路を執った。
 その上空。
 「あ、イーグル発見」
 アスカは路地裏へと進む仲間の姿を確認した。
 追っていたハルモニアはすでに行きかう人ごみの中に埋没してしまい、後を辿ることができなかった。
 「オラクルを追っているのは…三人?」
 黒装束の人影が駆けるオラクルを追っている。しかし表通りに出たオラクルは慣れた足取りで人込みの中を行く。
 追手もなかなか追いつけないようだ。もっともそのせいでイーグルも追いつけないのだが。
 その内の追手の一人が身軽に建物に登る。そして隣接した商店の屋根の上を行く。
 上からの追撃だ。そして懐に手を入れたかと思うと一閃。
 「っ!」
 オラクルの右足に何かが刺さった。その場に転倒するオラクルと、追いすがる二人の黒い影。
 騒動の気配を悟り、倒れたオラクルから慌てて距離を取り始める群衆に、短剣を抜いてその中を駆け抜けるイーグル。
 私は急降下する、オラクルに何かを投げつけた屋根の上の黒装束に向かって。
 刈り取るような右足の一撃が黒装束の背中を打ち、くぐもった声を上げてそいつは逃げ惑う群衆の中に落ちていく。
 同時、倒れたオラクルに飛び掛かる二つの影。それぞれの手には黒い刀身の短剣が見て取れる。
 どうする、間に合わない?!
 「ぐっ!」
 声を上げてその内の一人が短剣を取り落とした。握っていた右手にはイーグルが投げたと思われる短剣が突き刺さっている。
 しかしもう一人!
 オラクルに向かって振り下ろされる短剣、その刀身は何かに濡れており、毒ではないかと予測された。
 それが彼に突き刺さる、その瞬間だ。
 ぞん
 そんな音が響いたと思う。一瞬、周囲の喧騒が静まった。
 「ぎゃぁぁぁ!!」
 叫び声は黒装束から。短剣を握った右腕が二の腕から切り落とされていた。
 オラクルをを守るように立つのは礼装の騎士。端正な顔立ちの彼の手には血濡れの剣が握られていた。
 「世界有数の都市の真ん中で刃傷沙汰とは、何事か?」
 右腕を押さえてうずくまる二人の黒装束に彼は問う。
 ざわつく周囲。身構える二人の黒装束と追いつくイーグル。
 一触即発の雰囲気が湧きだしたその時だった。
 「キャアアア!!」
 張り裂けるような叫び声が一本向こうの大通りから聞こえてきた。
 それはどこかで聞いたことのある声。そう、ハルモニアのものだった。
 途端、騎士の後ろで尻もちをついていたオラクルの姿が歪む。
 文字通りに歪んだ。そしてそれは一瞬、白黒の鳥のような姿を取ったかと思うと、空間に溶けるようにして消えた。
 「え、何? これって??」
 屋根の上から一部始終を見ていたアスカは叫び声の上がった向こうの通りからもざわめきが生まれていることに気づく。
 ドクン
 ひときわ自身の心臓の音が大きく聞こえた気がする。
 いや、そうではない。
 「これは」
 何が起こったのかを理解する前に、唐突に生まれた浮遊感とめまいに襲われて一瞬目を瞑った。


 ハルモニアは駆ける。
 彼女の脳裏にはオラクルの位置を示す地図が展開されている。
 その彼の位置がなぜか二つ生まれていた。
 オラクルの生体情報を完全に模した何かが生まれたということだが、それが何なのかが分からない。
 彼は彼でハルモニアが知らない能力を有していたということだろう。
 「どっち?!」
 彼女は駆ける、そして賭けた。
 二つに分かれた分岐である路地裏に進まず、大通りをそのまま疾走する。
 彼女の前には道ができている。人ごみも馬車も何もかもが彼女が駆ける前に左右に吹き飛ばされていた。
 さながら波を割るかのようだ。
 こうして全力疾走のできる彼女は追いついた。
 大通りの真ん中。
 尻もちをつくオラクルに三人の黒装束が迫っている。
 それを中心にトラブルを予期した群衆が距離を取り、さながら広場のようになっていた。
 「ブロード副隊長」
 「来たな」
 黒装束の一人が背後から来たハルモニアに気づき、抜身の剣を構えた一人に視線を移す。
 剣を手にしたブロードと呼ばれた男は、その件を柄に戻して地面のオラクルを見る。
 彼の右の太ももには後ろからナイフが一本突き刺さり、地面にゆっくりと赤い水たまりが広がりつつあった。
 致命傷ではないが、立って走るには無理があるだろう。故にブロードはハルモニアに視線を移すことができた。
 「ようこそ、王女」
 陰鬱に笑う彼の顔にはしかし憎しみがこもっている。
 「帝国きっての隠密である我らをよくもまぁ、これだけ殺してくれたものだ」
 「オラクル!」
 たどり着いたハルモニアはしかし、彼の言葉など聴きはしない。
 「大変、血が!」
 彼女が一歩足を踏み出すと同時、ブロードの左右にいた仲間が見えない何かに踏みつぶされるようにその身長を二次元に変えた。
 「化け物が。仲間たちの敵だ、狂え!」
 ブロードが手を振ると同時、その首はねじ切れる。
 しかし手から放たれた液体に濡れた短剣がオラクルの腹に吸い込まれた。
 「ぐっ!」
 「オラクル!?」
 駆け寄るハルモニア。オラクルは腹に突き刺さった短剣を引き抜くと同時、血の塊を吐き出した。
 「ぐはっ!」
 着物を染める染料を頭からかぶったかのように、オラクルの顔色が紫になる。
 そしてその顔が、腕が、背が、足が奇妙に膨らみ、肥大化していく。
 「どうしたの、何が…毒?!」
 オラクルを抱きしめるハルモニア。
 「敵はまだいる、逃げろ、ハルモニア」
 蚊の鳴くような声でオラクルがそう呟いたかと思うと、軽い破裂音を立てて彼はハルモニアの腕の中で血肉に変わる。
 「オラク、ル??」
 呆然と、ハルモニアは血に濡れて前の見えない眼鏡を外す。
 露わになった金と銀の瞳で、手の中に残った血と肉の塊を眺めた。
 「あ、ああ」
 真っ赤に染まった彼女は大きく息を吸い込み。
 「キャアアア!!」
 叫んだ。
 現状を、現在を受け入れることができなかった。
 右の銀の瞳に過去が映る。オラクルがいたからこそ、自分があった。親族からも生粋の魔女と恐れられ、力を隠し続けた過去が。
 左の金の瞳に未来が映る。もう決して来ない、苦労があり、慎ましいながらも穏やかなオラクルと歩む世界。
 現在を、受け入れることはできない。
 過去と未来を視る金銀妖眼が現在を否定した。
 「変えなくちゃ」
 血塗られたハルモニアは呆然と呟く。
 「オラクルが生きる今に、変えなくちゃ」
 全てを投げ打ってでも。
 「今の現在は、本当の現在ではない」
 彼女から膨大な魔力が発せられる。向け先は虚空。その先にあるのは、
 「路地裏を進んで」
 発せられる小さな呟きは、過去へ向かってだった。


 シシリアは思わず左目を押さえた。
 そして苦悶の声を漏らしてうずくまる。
 「どうした、シシリア!」
 黒衣の騎士サルーンが彼らしくもなく慌てて彼女に寄りそう。
 「その瞳は」
 顔を上げたシシリアを見て、サルーンは絶句する。
 シシリア姫の左の銀色の瞳が金色に変化していたからだ。
 「選択がなされたのでしょう」
 サルーンの助けを借りて、彼女は立ち上がる。
 「おかげでより先を見通せるようになりました。さらに忙しくなりますよ」
 両の金色の瞳に笑みを浮かべて、彼女はそう親愛なる騎士に告げた。


 「ぬ」
 右目を彼は思わず押さえる。
 長い黒髪が屈んだために頬を撫でた。
 「時空に変動が起きた?」
 それだけを見るとただの中二病にしか見えないのだが、顔を上げたときには彼の両目はともに銀色になっていた。
 「物語も終盤に入ってきたということかな、リブラスルスよ」
 彼の名はカイ・ルシアーヌ。秩序をもたらすものリブラスルスの代理者であり、執行者である。
 「おやおや、中二病ですか? そういうお年頃ですか??」
 そんな彼をからかう可愛らしい声が飛んでくる。
 一緒に周囲を吹き飛ばす衝撃波も同伴してきた。彼の周りにあった氷山が積もった雪とともに吹雪の中に舞い散った。
 「厄介なものを配置してくれる」
 「雪音ちゃんって呼んでよ、鳥の人」
 吹雪の向こうに姿を見せるのは少女一人。その背後には氷で作られた立派な城が控えていた。
 「暇で暇でしょうがないんだから、付き合ってよね」
 「少女愛好の趣味はないのだがな」
 一瞬で互いに接敵、打撃戦が展開されていく。

<Aska>
 何かが変わった感触があった。
 自身にではない。世界そのものに何らかの変化があった感触だ。
 私は今、ある商店の屋根の上にいる。
 眼下には傷ついたオラクル、それを守るようにして立つ礼装の騎士。
 右手に傷を負った二人の黒装束に、それを挟むようにしてイーグルが立っている。
 そこへ先ほど私が蹴り落した三人目の黒装束が騎士に歩み寄った。
 「セレス様、この者は」
 「ゼナか。貴殿には殿下より即帰還せよとの命が下っているはずだが、こんなところで何をさぼっている?」
 「いえ、決してそのような」
 騎士にかしこまる黒装束。
 「殿下にお考えの上での帰還指令だ。どうせ無駄に手勢を失っただけであろう?」
 騎士の言葉にゼナと呼ばれた黒装束は一つ小さく震えた。
 「もう一度言わせるつもりか?」
 「はっ」
 ゼナと呼ばれた男は残る負傷した二人に目配せすると、あっという間に人ごみの中に消えていった。
 私は翼を広げて彼の前に舞い降りる。
 「助かりました、ありがとうございます」
 オラクルの言葉に騎士は小さく首を横に振る。
 「貴殿はザイルの血統を引くものの一人、オラクル殿であろう?」
 「貴方は?」
 イーグルに応急処置をされながら負傷したオラクルは問う。
 「無駄に知る必要のないことは知らない方が良い。ただ血の粛清は終わったとだけ伝えておく」
 彼は踵を返して去っていく。その背中はこれ以上話を受け付けないという強い意志を感じた。
 「オラクルさんの怪我は?」
 「傷は深いですが、たいしたことはないでしょう」
 応急処置を終えたイーグルはそう笑みで返した。
 「そうだ、ハルモニアは?」
 イーグルに手を貸してもらって彼は立ち上がる。
 「そうだ、さっきハルモニアさんの悲鳴みたいのを聞いた…ような?」
 いや、聞いたはずだ。そのはずだが、妙に記憶が曖昧だ。
 「向こうの通りで叫び声を聞いた、ような気がします」
 イーグルもまたそのように答え、三人で顔を見合わせる。
 私もまたオラクルさんに肩を貸し、隣接する隣の大通りへと向かった。


 騒然としていた。
 人の壁で広場ができていた。その中心にあるのは二つのぺしゃんこに潰れた死体と、一つの首のねじ切れた死体だ。
 転がっているその前には、両目を閉じたハルモニアさんが座っていた。
 彼女が膝の上に抱くのは、白黒の鳥のような生物…のようなモノ。
 「プログラムヲ終了シ、コマンド待機ニ戻ル」
 淡々とした声高な言葉が「それ」から響き、そして消えた。
 カランと音を立てて一本の短剣が石畳の上に落ちる。刀身が何か黒いもので塗れており、おそらく毒であろうと察せられる。
 「ハルモニア」
 足を引き釣りながら駆け寄るオラクル。
 「オラクル、良かった」
 大きく息を吐き、ゆっくり目を開ける彼女。
 「ハルモニア、それは…」
 オラクルは絶句する。
 彼女の開いた両の瞳は、共に白く濁っていた。そこにはおそらく目の前のオラクルは映っていない。
 「そっか。そうね」
 ハルモニアは差し出されたオラクルの手を握りしめながら呟く。
 「今を否定してすべてを拒んだ結果ね。今もこれからも見えなくなってしまったけれど」
 彼女は見えなくなった瞳でしかし、安堵の笑みを浮かべて目の前にいるであろう彼にこう言った。
 「貴方が生きていて良かった。それだけで私は先に歩んで行けるもの」


 「へぇ、アスカさんってそんなところまで行かれたの?」
 「そう、お祭りが盛り上がっててね」
 「財布をどこぞの馬の骨に全部渡したバカもいたわね」
 アルマ運輸のオフィスで私とハルモニアさん。ネレイドの三人はティーカップを傾けてくつろいでいた。
 こうして話してみて分かったが、ハルモニアは見た目よりもずっと明るい娘だった。
 懐かしい感じのする同世代の女の子という印象だ。
 もしかすると、昨日の事件で目が見えなくなってしまったことで、雰囲気が変わってしまったのかもしれない。
 昨日の事件―――オラクルが何者かに襲われ、ハルモニアもまた謎の黒装束集団に襲われた事件だ。
 公国の役人により対処されたが、オラクルを襲った者たちは行方知れずであり、ハルモニアを襲った方は損傷が酷く誰だか分からない有様だった。
 群衆の証言では何か見えないものに圧し潰され、ひねり殺されたようだったというのが共通見解であり、偶然鉢合わせたハルモニアはショックで目が見えなくなったという結論に達した。
 彼女はその部分の記憶が抜けているそうでトラウマのようなものはなくて良かったとも言えるが、視力を失ってしまったのが辛いところだ。
 しかしながら彼女はめげることなく、この建物内にいる限りは行動に不自由なく動けていた。
 なんでもどこに何が置いてあるのかを覚えているらしい。
 「ところでハルモニアさん、昨日も訊いて結局答えが聴けずじまいったのだけれど」
 「うん?」
 「オラクルさんと結婚してるの?」
 「……はい、来月落ち着いたら簡単な式を挙げることになりました」
 「おめでとう」
 昨日のことだったらしい。事件の後、会社に戻って落ち着いたところで告げられたそうだ。
 「良いわねぇ、いつか私も」
 それを聞いて乙女モードなネレイドだが、多分彼女には無理だと思う。
 と、ドアがノックされて噂の彼が姿を現す。
 「アスカさんにネレイドさん。準備が整いましたよ」
 言って微笑むオラクルさんの雰囲気はどこかで見たことがある気がしていた。
 それが何か今、気が付く。
 そうだ、どことなくルーンに似ているんだ。
 私は自然とハルモニアさんに視線を戻す。
 彼女は顔を彼から逸らし、赤く染めて何やらぶつぶつ呟いていた。
 ”ハルモニアは私には似てるのかな?”
 自分では気付かないうちに私は笑みを浮かべて、ネレイドの腕を掴んで立ち上がる。
 「さ、行くわよ、ネレイド! またね、ハルモニアさん。今度会うときは子供の顔を期待しているわよ」
 「ちょ、アスカさん?!」
 そんな私の言葉が果たされることを期待しつつ、心の中で二人の幸せを願った。


 「あら、二人とも服変えたんだ」
 私は階下で待っていたイーグルとミーヤの姿を見て呟く。
 二人は今まで頭をすっぽりと覆うフード付きのマントに結構使い込んだ服装ではっきり言って怪しかったのだが、こざっぱりした軽装になっている。
 イーグルは軽金属と思われる胸鎧に長弓を肩から提げた狩人スタイル。
 一方ミーヤはその猫のような姿を今までのようなに貫頭衣で隠そうともせずに半袖、長ズボンと、腰に短刀を一本提げただけの軽装だ。
 「ええ。吸血の呪いも解けましたから。日の光を恐れることはありません」
 「僕もみんなと一緒なら姿を見られても撫でられないしいじめられないニャ」
 「そか」
 嬉しそうに微笑む二人に私も微笑を返す。でも私は撫でるよ、ミーヤ。
 「それでは。心機一転、ファレイラ火山へ」
 「「おー!」」
 休養ばっちりの皆の返事が続く。
 「後は頼むぞ、アラムス、イーザ」
 「お達者で」
 オラクルさんとハルモニアさんの見送りを受けつつ、アラムスさんとイーザさん、そして新事務所への荷物を載せた荷馬車は私達四人を載せて南の街道を一路ササーン王国目指して進み行く。
 目指すはフレイムレイの村。
 天は高く、突き抜けるような青空の美しい日だった。

<Camera>
 アークスの白亜の城。
 その中庭にある騎士達の簡易練習場に二人の騎士が顔を突き合わせていた。
 剛剣使いの第三騎士団団長クラール・シキムと大斧使いである第六騎士団団長シュール・アクセの二人。
 お互い呼吸が荒れることもなく火花を散らせて互いの得物をぶつけ合っている。
 使い手同士の戦いはダンスに見えるとも、剣戟の音は名曲に聞こえるとも言われるが、この二人の場合にはどうもそんなことはないらしい。
 ギィン!
 一層耳障りな金属音が響いたところで二人はお互い武器を収めた。
 パチパチパチパチ
 終わるのを待って、乾いた拍手が一つだけ響く。
 二人はそちらへと視線を向けた。隻眼の中年騎士が笑みを浮かべて近づいてくる。
 「なんだハノバ殿か、お相手しようか?」
 「いや、結構ですよ」
 剣の柄に再び手を置いたシュールの悪意のない誘いに、彼は首を軽く横に振った。
 「珍しいな、こうして団長三人が集まるなんて」
 クラールが笑みを浮かべて言う。
 クラールとハノバ、ハノバとシュールというラインでは昔から親交はある。
 今回の遠征でクラールとシュールに接点ができたわけだが、ハノバの笑みはそれを喜んでいるのも加わっているようでもある。
 「熊公国ではお疲れでしたな」
 「ええ。騎士の補充と休養も取らせないといかんですよ」
 事務処理の多さを思い出したのか、疲れた顔でクラールはうなだれる。
 「ウチの被害も大きかったな。ここで連続して遠征などさせられたら不満が爆発されかねん」
 こちらはシュールだ。
 「でしょうね。ウチの第五も復旧やらなにやらでてんやわんやですよ。ですから」
 ここでハノバの声のトーンが低くなる。その意味を二人の団長は昔から知っていた。
 「南の龍公国への援軍には第一が行くことになったそうです」
 「エノリアの坊ちゃんがか?」
 「泣いて帰ってくるのがオチだろう?」
 明らかに小馬鹿にした口調の二人にハノバは苦笑。
 「さて、どうでしょうね。彼もまた。我々と同じアークス騎士団の団長が一人」
 どこか遠くを見つめるようなハノバは続ける。
 「彼独自の能力が今回、初めて試されるという訳ですよ。楽しみじゃありませんか」
 言うハノバは決して笑っていないことに気付く二人。
 ハノバの様子に自然とクラール、シュールともに表情を厳しいものにしていく。
 「少なくともウチらには」
 「ない力を持っていると、そういうことですね」
 二人の戦士系騎士団長はそう言葉を続けたのだった。


 第一騎士団団長室。
 白い肌に金色の髪の二十代後半の青年は机の前で小さく微笑んでいた。
 厚めのメガネの奥には力強い光が宿っている。
 「僕の出番が回ってきてしまったと、そういうことだね」
 彼の目の前には一枚の書状。
 そこにはこう書かれている。
 『エノリア・アムア率いるアークス第一騎士団は、龍公国でザイル帝国を警戒する第二騎士団と合流し、アークス守護の任に就くべし』
 指令書だ。
 これまでエノリアが団長に就任して三年、第一騎士団に出動の要請はなかった。
 それはエノリアがそう仕向けてきたことだ。
 彼は功よりも己と、己の力である騎士団の弱体化を阻止することを第一と考える。
 騎士団など威力で良い。実際に剣を振る必要は実はない。
 振るような場面には、それに適した別の団と荒っぽい団長に任せておけば良いのだ。
 それがエノリアの考え方だった。
 だか今の状況でそれを続けるのは難しい。戦いを避けてきた第一騎士団だったが、とうとう人材不足も重なって出動することになってしまった。
 どこも衰退しているこの時期に、第一騎士団はこれまでの温存策もあり十二分に体力も予算もある。
 エノリアにはどのような敵が来ても負ける気はしなかった。
 「幸運なことに龍公国は現龍公と今の第二騎士団団長ブレイドとの不仲がある。現龍公はブレイドを討とうしているようだし」
 エノリアは机の上を見上げた。
 そこには半透明のスクリーンがあり、様々な情報が行き交っている。
 魔導ネット。それもネットワーク構成に貢献している者のみに与えられる『地域総責任者』の称号を持つものだけが見ることの許される完全情報だ。
 「時代は僕と共に動いていると言っても、過言じゃないぞ」
 エノリアはスクリーンの中に現龍公の傭兵募集と特別徴兵情報を見つけて、龍公の謀反策謀への手応えを確かにした。
 だが彼は気付いていない。
 その彼の意欲さえも、一人の天才軍師に操られていることを。

<Rune>
 白い幹の立木が整然と左右に並ぶ住宅通り。
 僕の住んでいたエルシルドの街で言うと高級住宅地街区だ。
 しかし今いるこの地ではこういった高級住宅地の比率が高い。
 住まう人々の収入が一律高いことも意味しているのだろう。
 それに伴い一様にして治安が行き届き清潔なのが特徴な地だ。
 ここはアークス皇国の北に位置する虎公国首都レイバンである。
 この公国は南にアークスの央国、北に長年の同盟国であるリハーバー共和国とに接し、直接の戦禍を数世代にも渡って受けていない。
 歴代のここを治める公王も暴君や野心の強い者がなく、むしろ教育の行き届いた賢王が多いことにも今の安定した治安と暮らしが見て取れるのだろう。
 僕達の向かう先にはこの先。さらに大きな屋敷が居を構える地域。
 主に王の側近や名家、貴族などが住む屋敷群だ。
 「ルーン。どうして俺達はこんな場違いな所に来てるんだ?」
 僕のちょっと後ろを歩いているアーパスが周囲を見渡しながら問う。
 「今はこんなトコ、寄ってる暇なんてあらへんのやないの?」
 その隣、澄んだ女性の声でしかしイントネーションがやや狂った言葉を飛ばすのはメイセンだ。
 「だよねぇ」
 僕は思わずため息を一つ。
 立ち止まって後ろに振り返った。
 アーパスは青い胸鎧の上から、緑色の厚手のマントを羽織っている。北の地にやってきて涼しくなってきた、というより寒くなってきたために先日買い直したのだ。
 そしてその後ろに佇むのは背丈よりも長い斧槍を右手に突いた、紫紺の髪と瞳を持つ少女だ。
 こちらは同色のゆったりとした神官着の上からやはり緑色のケープを羽織っている。暖かそうだが、本性は龍であるメイセンにとって人間の感じる寒い暑いはどれほど響くのだろうか?
 「でもね、仕事をしなくちゃいけないんだ」
 「あんまり時間に余裕はあらへんよ、早めに地のラグランジュポイントへ行かな」
 「うん、そうだね。でもさ、路銀がないんだよ」
 「なんで?」
 心底不思議そうにアーパスが問うた。お前は僕よりも冒険者歴は長いだろとツッコミを入れたくなるのを何とか抑える。
 「なんか高級な宿にばっかり泊まるし、食事はやけに豪華だし」
 「ルーンも高いご飯を美味しい美味しい言っとったやないか」
 「ベットもフカフカとか喜んでいたな」
 「いやまぁ、そうだけれども。そうだけれども!」
 流された僕が悪いのか? 財布を握っている僕の紐が緩かっただけなのか??
 静かな住宅街にうるさい僕ら冒険者達の怒声が響く。
 しばらく無意味に喧々轟々と言い争うが、誰とも無くそれに気付いて争いは止まった。
 「何はともかく、お金を僕達は稼がなくてはいけません」
 僕は子供達に言い聞かせるように二人に告げる。
 「浪費しなければええんやないの?」
 「今、僕達は今夜泊まるお金もありません」
 「誰やねん、そんなに使い込んだ奴は」
 唸るメイセン。今の騒ぎを収めたばかりなので僕はぐっと言葉をこらえる。
 「本格的な防寒具も買ってないし、今後の行動に余裕をみるためにもある程度の資金が必要だ。それもあって額の多い仕事を取ったんだよ」
 「それをあの時の吟遊詩人に頼んでたのか?」
 アーパスの問いに僕は小さく頷く。
 実はこの仕事を探すために立ち寄ったこのレイバンの酒場でたまたま僕は彼女に出会ったのだ。
 彼女――エルシルドでの僕の住む宿の常連であり吟遊詩人のシフ・ブルーウィンド。
 この仕事はシフ姐に都合してもらったのである。
 何故彼女がここにいたのかは愚問だ。シフ姐は旅を本領とする吟遊詩人なのだから。
 再会懐かしむ間もなく、僕は二人を連れてここに至る。
 「依頼内容はなんやの?」
 「依頼主に会うまで詳しくは分からない」
 メイセンに答える。リスクと秘匿性の高い仕事だ。故に提示された報酬は高い。
 僕達は歩を進める。やがて住宅地は大きく立派な門の目立つ建屋が多くなってきた。
 そして地図に示された建物。一段と閑静な一角に到着。
 目の前には延々と続く塀と遥か遠くに立つ巨大な屋敷。
 そここそがシフ姐に貰った地図に表された地点。
 名門貴族、モールド家であった。


 僕達は執事を名乗る銀髪の老紳士に屋敷の一室に通された。
 格調高い調度品が部屋の構成と溶けこんだ見事な客室だ。
 触ると壊しそうなので、自然と僕達は革張りのソファの上で待機。
 美しい調度品に見飽きる時間も無いまま、扉が開いた。
 そこから現れたのは淡い青紫色のドレスを纏った貴人だ。
 歳の頃は20代半ばであろうか、腰まである長い髪は美しい烏色。
 北方民族特有の、やや釣り眼がちの茶色の瞳に高い鼻立ち。一般的な感覚の持ち主であれば分類的には美女の中の美女に属するだろう。
 そんな彼女の小さな赤い唇は僅かに笑みの形を作っていた。
 僕はこの貴人を知識として知っている。隣に控える仲間の二人に視線を移した。
 「「すごい美人…」」
 自然と出た呟きが重なる人魚と龍。種族を越えても同じ感想とは、この美しさは美術の域まで到達しているとも言えなくないだろうか?
 この貴人の美しさは外見もさることながら、貴族特有の気品である内面からのものもある。
 僕達のような野を走る冒険者には備える事が出来ない雰囲気をまとっていた。
 彼女は僕達の前まで静々と歩み寄ると、スカートの裾を両手で摘んで軽く一礼。
 「お初にお目にかかります、私がフィリプ・モールドでございます」
 掠れ気味なハスキーボイスで自己紹介。
 「よろしく」
 「初めまして」
 ぺこりと頭を下げるアーパスとメイセン。
 「よろしくお願いします」
 僕は作法に則り、胸に手を当てて敬礼する。
 視線を仲間に移すと思った通り二人とも、やや解せない顔をしていた。
 目の前の彼女に対してだ。
 「あ、あの」
 おずおずとメイセンが貴人に問いかける。
 「はい。何でしょう?」
 にっこりと柔らかな微笑を浮かべて貴人。メイセンはかなり困った顔をしつつも、しっかりと言葉を続けた。
 「お名前、男性のように聞こえるんやけど?」
 「ええ、私は男性ですよ」
 瞬間、アーパスとメイセンの時間が止まったように感じた。
 「そんなことよりもフィリプさん。仕事の話に入りましょう」
 「時は金なり、ですね」
 僕の言葉に彼は机を挟んだソファに腰かけ、膝の上に手を組んだ。
 時を見計らったように執事が紅茶の入ったカップを僕達の前において下がって行く。
 彼の名はフィリプ・モールド。れっきとした男性である。
 僕がこのことを知っていたのは彼が著名な魔術師であるから。これでも僕はアイツールの王立学院出の賢者なのだから知っていて当然なのだ。
 彼の記した『精霊と法式』や『神聖魔術にみる呪語の欠片』などは呪語魔術の分野だけでなく、これまで似て異なるものとされていた精霊魔術と神聖魔術との架け橋となったことは学術界において大きな功績だ。
 また駆け出しの魔術師や賢者を志す者や単純な呪語魔術を学ばなくてはいけない下級騎士などは、彼の『よく分かる魔法』シリーズには何度となくお世話になったことだろう。
 僕は作者近影から彼が男性であることを知ったわけだが。直にこうして会うのは当然初めてだけれどなるほど、確かに美人だ。
 男だけどね。
 フィリプは紅茶を一口含んで、形の良い唇を湿らせると決心したように切り出した。
 「さて、依頼内容なのですが。私の双子の妹をさらって欲しいのです」
 「さらう?」
 お互い顔を見合わせる僕達三人。
 彼との交渉は、とてもとても物騒なその一言から始まった。


 モールド家はここ虎公国において名門の旧家の一つである。
 かつて公国という形が成り立っていなかった程の昔、現在の虎公であるアルフレア家と同盟を結んでいた一族の長とも伝えられているそうだが、それくらい公王家とはお付き合いが長いようだ。
 その懇意加減は今でも至り、現公王とは知己の面でも深いということだ。
 そして本題。
 今の虎公第二王子であるライナー・アルフレアと、フィリプさんの妹であるコーリンは同い年。幼い頃から共に学び、遊んだ幼馴染みであった。
 そんな二人は二十四歳同士。政略結婚が前提な家柄からしてちょうど婚期な年頃だ。
 そこで現虎公王レイガーは、ライナー王子が戦乱の真っ只中にある隣国の熊公国へ救援に行っている間に縁談を進めてしまったそうで。
 それに驚くのは当事者達。
 ライナーとコーリンは猛烈に反対したが、頑固な両家の父親は問答無用で婚姻を進めてしまったのだそう。
 そんなこんなで結婚式はとうとう一週間後。そこでライナーとコーリンは考えた。
 『結婚式に当事者が出なきゃ良い』
 そんなことをすればお互い勘当されかねない。
 しかしながら二人はいつでも一人で暮らしていけるだけの能力やカリスマを兼ね備えているので、絶縁されても不自由なく生きていけるどころかそれを望む節もあるらしい。
 ライナー王子に至っては第一王子がすでに結婚して次期虎公と期待されているので後継者問題にもならないとのことだ。
 そこで僕達への依頼。
 「妹のコーリンをさらって、ここから北にあるバサラの村の村長宅へ送り届けて欲しいのです」
 「でも、そんなことしたら、俺達はお尋ね者になるんじゃ?」
 「そうならないように気をつけてくださいね」
 フィリプは美術的な笑みを浮かべてアーパスに答えた。
 「なるほど、だから報酬が良いんやね」
 一人納得するメイセンだ。
 「でも」
 僕はフィリプに問う。
 「でもですよ、貴方は良いんですか? 妹さんが勘当されても」
 フィリプは寂しそうに、しかししっかりと頷いた。
 「望まない結婚をさせられるのは、女にとって一人で生きていくこと以上に辛いものですから」
 自身に立場を置き換えたように、しみじみ言う彼女に『しかし貴方は男でしょう』とツッコミをいれたいのを我慢。
 「でもそんなに結婚が嫌なものかな?」
 意外な言葉が出た。アーパスである。
 「よく知り合ってる幼馴染み同士だろ? そんなに嫌い合うことはないと思うんだけどな」
 「へぇ、アーパスにしては穏やかな意見だなぁ」
 アーパスは僕を見ると何故か顔を赤くして顔を逸らした。なんだ、その反応?
 「いえ、嫌い合ってなどいません」
 優しく微笑むフィリプ。
 「むしろ互いを信頼しあった親友同士ですよ」
 「だったら何故?」
 「親友過ぎたのでしょうね」
 自信をもって言うフィリプの意見は分からないでもない。例えば僕に妹同然であるクレアと結婚しろといわれても非常に困る。
 あまりにも近しい存在である為、そのように見れなくなってしまう。
 つまりはそういうことなのだと僕は思うが、こればかりは当人になるかそれに近い状況でない限り分からない感覚だとも思う。
 「人間というのは変わっとるんやね。ウチらは親兄弟の間に子供ができるなんて普通やで」
 「こらこらこら!!」
 「?!」
 ボソリと呟くメイセンの口を塞ぐ。龍族の特殊な異性関係なぞ今披露する必要は全くない。
 というか、なんだその感覚は。龍族おそるべし?
 僕は咳払い一つ。
 「簡潔に言うと、僕達がコーリンさんを無事にバサラの村に送り届けて、結婚式当日に彼女を公式の場に立たせなければいいわけですね」
 「そうです。また確実に王家からの追跡が入ります。それを考慮の上です」
 「そうやけど、虎公家としても公式に軍を動かせへんやろ。当人同士が逃げ出したなんて恥を世間に撒き散らすもんやからな」
 「となると、追跡してくるのは俺達みたいな傭兵か」
 唸るアーパス。これはこれで厄介だ。
 もしも城付きの兵士ならばどこかしらに隙が出やすい。しかし同じ冒険者や傭兵となると話は別だ。
 彼らはこういったことに関してはプロフェッショナルだ。僕達は苦労することになるだろう。
 そしてもしも失敗すれば、例え雇われの身であろうと王家の婚約者の誘拐犯である。存在を確定されたら確実にお尋ね者だ。
 それ故に報酬は高い。
 「如何いたしますか? 貴方方はシフ様のご紹介、相当の腕利きと見込んでのお願いです」
 ふと思う。フィリプとシフ姐がどんなつながりなのか?
 聞きたいところでもあるが今はそれどころではないだろうな。
 僕はアーパスを見た。
 彼女は小さく頷く、それは僕の意志に任せるということだ。
 メイセンを見る。
 彼女もまたにっこり微笑むのみ。
 そうだね。
 「フィリプさん、やらせていただきます。王家側にこれ以上時間を与えないためにも、すぐにでも出発を」
 「ありがとうございます」
 深々とお辞儀するフィリプ。そして顔を上げて手を叩いた。
 僅かして僕達をここまで案内してくれた執事さんが三度やってくる。
 「コーリンをここへ。早速旅立ってもらいます」
 「お寂しくなりますなぁ」
 感慨深げに執事は言い、部屋を後にする。
 しばらくして部屋の扉がノックされた。
 「どうぞ」
 フィリプの声に扉が開く。
 現れたのはゆったりとした青紫色の絹のローブを羽織った小柄な少年だった。
 顔立ちはなんとなくフィリプに似ている。腰の左右に一振りづつ剣を指し、茶色の瞳はフィリプとは異なり茶目っ気に満ちていた。
 烏色の髪はショート。活発そうな女顔な男性である。歳が五つは若く見えるのが、フィリプとの大きな差だ。
 「妹のコーリンです」
 「よろしくなっ!」
 八重歯をキラリと光らせて親指をグッと立てながら彼ではなく彼女、コーリンは告げた。
 「なるほどとは言えないが、なるほど」
 「理解したとは言えへんけど、理解したわ」
 アーパスとメイセンは何だか分からないが納得したような言葉を吐いている。
 観た印象でこざっぱりした性格と受け止められるコーリンは、兄とは正反対の『男らしい女性』なのだ。
 「コーリンさん。ライナー王子と結婚したくないってのは、ちなみにどうして?」
 僕は確信を得るため、彼女に問うた。
 「何言ってるんだ、男同士結婚できるわけないだろ」
 「あら、嫌だ。コーリンは女性でしょう?」
 「僕は男だよ。昔から何でも言ってるだろ、姉さん」
 「私は男ですよ」
 ぷりぷり怒るコーリンと困った顔のフィリプ。
 僕は合点が行った。双子の兄妹でフィリプは男性だけれども女性の心。コーリンは女性だけれど男性の心。
 双子ゆえか、魂が生れ落ちる際に入れ替わってしまったのだろうか?
 複雑な家庭ではある。
 「男同士結婚させるなんて、酷いことするよなぁ。君もそう思うだろ?」
 コーリンが僕に同意を求めてきた。
 「その辺はノーコメントで。僕はルーン、こっちはアーパスとメイセンです」
 「よろしくな」
 適当に相槌を打っておいた。
 ライナー王子も結婚を断るはずだ。相手は女性であっても心は男なのだから。
 先程フィリプの言っていた親友というのは文字通りの親友なのだろうな、とも理解する。
 「事は急げだ。早速旅立とうよ」
 「そう、だね」
 僕はそんな彼女に笑顔で頷き、コーリンと互いに自己紹介をするアーパスとメイセンの順応具合に感心さえ覚えた。

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