若桜さんが再来


【見上げれば】

 「まぁ色々ありましたが
 藍色に染まる西の空を見上げて、彼女は小さく微笑んだ。
 「一段落つきましたね」
 両手に抱えたレジャーシートをぎゅっと一度強く抱きしめ、乙音は階段を下りて進む。
 決して広くはないけれど、楽しむには十分な広さを持つ猫寝荘の駐車場へと。


 「あれ? 亮お兄ちゃんだ」
 放課後、学校からの帰り道。
 川沿いの堤防を歩く雪音と恵美は、土手で一人の青年を目にした。
 彼はススキを数本、穂ごと摘み取っている。
 彼女達の声に気がついた彼は顔を上げ、手を振ってきた。
 「亮お兄ちゃん?」
 「うん、お隣に住んでるお兄さん」
 「ふーん」
 雪音の説明に恵美は軽く頷く。
 その間に亮は2人の前にやってきた。
 「なにやってるの、亮お兄ちゃん?」
 「ああ、乙音さんにちょっとススキを摘んでくるように頼まれてね」
 「ススキを??」
 「何に使うのやら」
 首を傾げる2人に、恵美は恐る恐るこう告げる。
 「お月見じゃない?」
 「「お月見??」」
 2人は声を重ね、そして空を見上げる。雲一つなく、暗紫色に染まりつつある空だ。
 西は僅かに赤く、暑かった夏の面影をそこに僅かに感じさせる。
 そして。
 東の空には丸い丸い月が一つ。
 まだ日の光もある為か、あまり目立っていない。
 「どうだろう?」
 「どうかなぁ」
 亮と雪音は互いに首を傾げつつ、そして。
 「今日の夕食は何にしようかな」
 「すごい関心なさそうね」
 恵美は白い目で友を見るのだった。

 
 猫寝荘の入り口。
 アパートまでのスペースには車4台分が止められるスペースがある。
 そこには現在、乙音の愛車と大家の軽トラックの2台が止まるだけだ。
 空いた2台分のスペースには本日、ブルーシートが敷かれており、その真ん中には。
 秋風に揺れるススキの穂。
 お盆に載ったダンゴの山。
 そして。
 「んー、この一杯がたまりませんねぇ」
 日本酒の入った杯を傾ける乙音の姿があった。
 すでに月は天高く上り、星々が見えないほどの白く明るい光を地上に向けて放っている。
 電柱に備え付けられた街灯よりも明るいその冷たい光の下、雪音と亮はダンゴを片手に夜空を見上げる。
 「今夜は中秋の名月なんだって」
 2人にそう告げる乙音。言いだしっぺの彼女だが、お酒ばかりで肝心の月を見ていない気がする。
 「こうまじまじと夜空を見上げたことはないけど」
 「良く見えるものだねー、お月様」
 亮と雪音がそう呟いて、そして。
 ダンゴを口にした。
 「あれ、お月見ですか」
 そんな声はアパートの入り口から。
 「やぁ、そーくんもどう、おだんごもあるよ」
 「じゃ、お邪魔しまーす」
 ブルーシートに靴を脱いで上がる卯月総一郎。見上げる名月に思わず耳が出そうになるのを堪える。
 「あれ?」
 「みなさん、どうしたんですか?」
 間髪居れず、続いて101と102の社会人コンビが帰宅した。
 その背後から、
 「また宴会? 今度は月見にかこつけて、ですか?」
 204の土屋がコンビニの袋を片手に苦笑いを浮かべている。
 いつしかそこには人が集う。
 こうして月下に人々は笑い、そして中秋の名月を肴にしばしの祭を楽しんだのだった。


【新車?】

 「あれ?」
 彼は駐車場に止められた車を見る。
 いつもの彼女の車が止められている定位置に、今は違う車が止まっていた。
 「色は同じだが」
 彼女の好きな赤い車だ。しかし今までとは明らかに形状が違う。
 そう、これは。
 「こいつはフォルクスワーゲン・ビートル
 彼はその車に近寄る。
 「1938年の生産開始以来、2003年まで生産が続き、四輪自動車としては世界最多となる生産台数2152万9464台の記録を打ち立てた伝説的大衆車―――Wikiから引用」
 なんだか訳の分からない独り言だが、一昔前までは日本でも良く見た車だ。
 カブトムシやワーゲンの通称で親しまれた、車体がユニークな逸品である。
 「しかし何だってこんなレトロな車ばっかり選ぶんだろうな、あの人は……っとぉ?!」
 窓から中を覗いた彼は語尾を驚きに変える。
 レトロな外観とは裏腹に、車内装備は無駄に充実していたからだ。
 計器類は全てデジタル式に換装。カーナビはもちろんのこと、ETCまで装備されているようだ。
 「うわ、エアバックも積んでるのか。中身別物じゃん」
 しかしマニュアルなのはデフォルトだ。
 「そうなんですよ、亮クン」
 「うぉ、どこから現れたんですか、乙音さん?!」
 「亮クンが見えたので、車の陰に隠れてました」
 「さいですか」
 突然の車の持ち主の登場に亮は改めて問う。
 「どうしたんですか、これ?」
 「はい。前の車を変な人に貸したら訳の分からないことになったので、改めて何とかしろって言ったらこれが返ってきたんです」
 「?? 訳分かりませんね」
 「まぁ、走ればいいんじゃないですか。と言うわけで亮クン」
 「はい?」
 言って乙音は右手にキーを振りつつ、笑顔でこう言った。
 「慣らし運転をしたいので助手席に座りなさい」
 「命令形?! 決定事項?!?!」
 その日の夕方。
 相変わらずのクラッチワークの酷さに車酔いした亮とすっきりした顔の乙音が、学校帰りの雪音によって目撃された。
 「姉上に何かを吸い取られたのかな?」
 という感想があったとかなかったとか。


【秋の味覚と義務】

 彼女は愛車の屋根の上に落ちた1枚の葉を手に取った。
 指先でそれをくるくると回す。
 赤い楓の葉は、しなることなくクルクルと回った。
 「秋ですね、亮クン」
 そう呟く彼女の声を聴きつつ、彼もまた屋根の上に載った黄色いイチョウの葉を手にとって日にかざす。
 「そうですね、秋もそろそろ終わりです」
 「冬は冬で、きっと大変なんですよ」
 「違いない」
 顔を合わせ、2人は笑う。
 そんな穏やかな2人に向かって、少女の怒号が飛んできた。
 「なにやってるの、2人とも! さっさと落ち葉掃いてよっ、焚き木が出来ないじゃない」
 良く見れば、彼と彼女の手にはそれぞれ竹箒が握られている。
 「秋は落ち葉焚き」
 「冬は雪かき」
 「「大変だなぁ」」
 はぁ、と大きく溜息を吐く2人に、再度少女の怒号が響いた。
 「おいも、焼けないじゃないの!」
 「「今掃きます、すぐ掃きます!!」」
 食欲の秋、なのかな??


【秋の終わり 冬の始まり】

 バン!
 勢いよく玄関の扉が開かれた。
 慌てて彼が振り返ると、ドアの向こうには悲壮な顔をしたお隣の娘さん――雪音の姿がある。
 「大変なの、亮お兄ちゃん!」
 彼女が彼の腕を引っ張り、連れて行った先は彼女達の住む隣の部屋。
 そこには、彼女が悲しみと落胆と諦めと、そして怒りを浮かべる理由があった。
 「あぁ、そういうことか」
 彼は目の前に繰り広げられる情景に小さく微笑む。それは哀れみのこもった表情だ。
 「どうにか、どうにかして、亮お兄ちゃん!」
 僅かに涙すら浮かべて請う雪音の指差す先には。
 コタツに首から潜り込む、彼女の姉の姿があったのだった。


 「先週末に学校から帰ってきたら出してあって、それ以来ずっと入ったままなの」
 「あぁ、もうそんな季節か」
 確かに朝と晩は肌寒くなってきたが。
 都心に近いここでは、11月の今はまだコタツは早いと思われる。
 「なんとか引っ張り出せないかな?」
 「無駄ですよ、亮クンでもね」
 雪音の言葉の返事はコタツからだった。
 「姉上!」
 「フフフ、コタツを装備した私が簡単に出てくるとでもお思いかしら?」
 首だけをコタツから出して不適に微笑む乙音を見つめながら、亮は呟いた。
 それは隣の雪音にも聞こえるか聞こえないかくらいの、小さな小さな呟きだった。
 「太った?」
 「ふ、ふとってないもん!!」
 ばさり!
 コタツをひっくり返して乙音が立ち上がる。
 上下薄緑色のジャージという、なんともひどい格好である。
 「さぁて、運動の秋よ。ランニングでもしましょうか」
 「姉上……ようやくコタツから出て…」
 「さ、走るわよ、雪音」
 「へ、アタシも?」
 「当然でしょう。さ、これに着替えなさい」
 「え、ちょ、ちょっと待って…」
 「さぁさぁさぁ!」
 「えーーー?!」
 姉に急かされ、雪音はいつの間にやら手渡された衣装を手に部屋の奥へと追い立てられ。
 バタン
 亮の目の前で玄関の戸が閉まった。


 「オレも走るのか…」
 「普段運動していないんだから、丁度いいでしょう」
 「まぁ、それもそうか。しかし」
 亮は乙音の隣――着替えた雪音を見る。
 白い体操着に紺色のブルマという、なんともマニアックな姿だった。
 「ふとももが寒いーー! てか、どうしてアタシだけブルマ?! 姉上はどうしてジャージなのー!」
 「だって雪音。私がブルマなんて履いたら、AVの撮影とか、もしくは痴女かなにかに間違われてお縄になっちゃうでしょ」
 「後半は当たってるじゃないかーー!」
 叫んでしかし、雪音はその視線に気付く。
 「あの、どうしたの、亮お兄ちゃん?」
 いつもになく真剣な亮の視線に、雪音は思わずたじろいだ。
 「雪音ちゃん」
 「は、はい!」
 「体操着はブルマの中に入れないのか?」
 「はぃ?」
 「あら、亮くんは体操着を入れる派なの?」
 「乙音さんは入れない派ですか?」
 「えぇ、だって激しい運動をしたときに、おへそとかちらりと見えるのがいいじゃないですか」
 「なるほど、目から鱗が落ちる思いです」
 真剣に語り合う2人を背中に、雪音は一人走り出す。
 こんな大人には絶対なるものかと、強い決意を胸に秘めて。


【フルマラソン】

 薄暗く狭いその部屋で、2人の男女が顔を見合わせていた。
 ニヤリと、同時に微笑む。
 「ツマミの準備は?」
 男の問いに、
 「ちょっと奮発してイタリアのパルマから空輸してきたプロシュートと、それに鳥取から浜干しの一夜スルメを用意したわ。もちろんカキピーを始めとした乾きモノも準備万端」
 女が答え、こう問い返す。
 「お酒は?」
 「先日の大阪の取材の折に池田の酒『呉春』を用意しよた。それと宮城の一ノ蔵酒造から純米大吟醸酒も、ほれこのとおり」
 答える男の両手にはそれぞれ一升瓶が握られていた。
 「で、例の物は用意したのか?」
 「もちろん。亮クンはアレの用意はちゃんとした?」
 「当然だ、コレがないと始まらん。ククククク」
 「フフフフフ」
 薄闇の中、男女の不気味な笑いが無駄に満たされていく。


 爽快な朝。
 突き刺すような朝日はしかし、肌を突き刺す冷気によって相殺され、頬を撫でる北風に思わず身震いをしてしまう。
 制服姿の雪音は玄関に出ると同時、お隣さんであるところの少年と時間ぴったりに顔を合わせた。
 「おはようございます、雪音さん」
 「おはよう、そーくん」
 「? どうしたんです、何か元気がありませんね??」
 総一郎は雪音の僅かな翳りに気付き、直接問うた。
 「う、うん。あのね」
 雪音は一瞬躊躇いつつも、彼に一つの問いを投げかける。
 「一昨日から姉上が戻らないの。行き先告げずにいなくなるなんてこと、今までになかったし」
 「乙音さんが?」
 「で、でもでも、姉上はあんな性格だから、ふらっとどこかに旅行にでも行ったのかもっ……」
 まるで自分に言い聞かせるようにまくし立てる彼女を、総一郎は首を傾げつつ彼女の隣の部屋へと足を運んだ。
 「そーくん?」
 「ええと、一昨日TUTAYAのレンタルビデオを大量に抱えた乙音さんを見まして」
 ドアノブをひねる。
 抵抗もなく、その部屋――亮の部屋は開いた。
 「多分こちらにいるのではないかと…」
 恐る恐る告げる総一郎の前を無言ですり抜けると、雪音は亮の部屋に飛び込んだ。
 「こ、これはっ!」
 部屋の中で雪音が見たその光景は。
 『ジャーック!』
 ステレオで響くそのセリフはちょっと前のTVコマーシャルでよく聞いたもの。
 唖然とする雪音の目に映る光景とは。
 30インチのLED液晶テレビ。
 大きめのコタツ。
 その上に広げられたツマミの残骸と、日本酒の空瓶。
 周囲に散乱する発泡酒の空き缶。
 そして、山と詰まれたアメリカのテレビドラマ「24」の山が7つ。シーズン7までが揃っているということか。
 最後に、寝ているのか起きているのか分からない状態の、亮と乙音。
 「あの、何やってるの?」
 唖然としつつも放った雪音の問いに、2人の返事が分担で返ってきた。
 「24の」
 「フルマラソン」
 「7日間不眠不休で観るつもりーー?!?!」
 結局、シーズン2の半分くらいで意識が飛んでいたそうな。


 「亮クン、今度はHEROSマラソンでもしない?」
 「いいですねぇ」
 懲りない2人である。


【聖夜に気付くこと】

 街は赤と白の装飾に彩られ、陽気に満ちていた。
 12月24日――クリスマス・イブ。
 猫寝荘に住む彼女は、地元の馴染みの駅からいくつかの西へと上った駅前広場にいた。
 彼女の住むこの地域の都心とも呼べる市の駅前だけに、行き交う人の数が多い。
 クリスマス・イブの夜ということもあってか、カップルが多い気がするのは気のせいではなかろう。
 そんな人ごみの中、褐色の厚手のロングコートを纏った乙音はのんびりと街中を見渡すようにして歩きながら帰路へとついていた。
 「今日は亮クンはお仕事って遅くなるって言ってたけど、せっかくの聖夜だしね」
 彼女が右手に提げるのは細長いビニール製の袋。中にはどっしりとした形の瓶が一本入っている。
 「たまにはシャンパンなんかもしゃれてて良いよね」
 瓶の銘は「クリュッググラン・キュヴェ」。
 クリュッグはシャンパンの帝王と呼ばれ、その独特な味わいは呑む人を結構選ぶとされている。
 決して安くないそれを軽く振り回しながら、彼女は小さく鼻歌を口ずさみながら駅を目指す。
 ご機嫌である。
 「あ」
 ふとそんな彼女の軽い足が止まる。
 百貨店のショーウィンドの前。
 中には可愛らしい赤いショートコートに身を包んだマネキンの少女がいた。
 サンタを模したそれは、同色の赤いミニスカートを履いている。
 「雪音に似合いそうねぇ」
 思いつつ、脳内で自分にも着せてみて思わず赤面。
 「RPGとかで職業が違うと装備できない防具の意味が、ようやく分かった気がするわ」
 一人呟き、改めてマネキンを見上げる彼女。
 ふと。
 彼女は見てしまう。
 「え?」
 ショーウィンドウに反射する、行き交う人々の姿の中に。
 「亮クン?」
 見知った顔の青年があった。それもその隣では可愛らしい女性が腕を組んでいる。
 彼は昨夜言っていた。今日は仕事で久々に街に出るので遅くなる、と。
 乙音は振り返る。
 振り返り、窓に映っていた景色が歪んだ偽物だと信じて真実を見る。
 「亮、くんだ」
 人ごみの中に消えていくその後姿は間違いなく、隣に住む青年のものだった。
 「あ、れ? 仕事でって……」
 仕事で街に出る、間違いない。
 遅くなる、それは仕事で?
 今夜は聖夜。カノジョと仕事の後に街で会って遅くなる。
 「あ」
 彼は別に嘘を言っていない。そもそも、
 「亮クンって…」
 カノジョがいるいないを問うたことがなかった。
 別にいたって、おかしくない。
 それなのに、
 「あれ? どうして私」
 こんなにも。
 「苦しい」
 空いている左手で、思わず己の左胸を押さえる。
 「なんで私は、なにを私は、期待していたんだろう?」
 見上げる空は薄闇。厚い雲に覆われ、街の明かりも手伝って星は見えそうもない。
 冬にしては暖かいここでは、降ったとしてもそれは柔らかい雪ではなく冷たい雨だろう。
 帰路に着く乙音の足は、先程とは打って変わって重いものになってしまっていた。


 案外早く仕事を切り上げることが出来た。
 彼はケーキの入った箱を手に、寝床である猫寝荘に到着する。
 今日はクリスマス・イブ。
 せっかくなので隣の姉妹とケーキでも食べながら過ごせればと思い、玄関の戸を叩く。
 ガチャリ
 扉が開くと、そこには雪音の顔がある。
 困った顔だった。
 「どうしたの?」
 「亮お兄ちゃん、早かったんだね」
 「ああ、取材も案外すんなり終わってね。せっかくのイブだからケーキ買って来たよ」
 そう言って彼は彼女に手にした箱を渡す。
 「で、どうしたの?」
 「あ、あのね」
 雪音は亮にしゃがむようにジェスチャーすると、その耳に囁くようにして言った。
 「亮お兄ちゃん、カノジョさんとデートしてたんじゃなかったの?」
 「は?」
 「姉上が駅で女の人と仲良く歩いてる亮お兄ちゃんを見たんだって」
 「それ、編集長だけど?」
 「カノジョさんは編集長さんなんだ」
 「は?」
 「どうでもいいけどなんかね、それを見て姉上が不機嫌でね。家に帰るなりシャンパンを一気飲みしてふて寝してるの」
 「なんだそりゃ?」
 亮は首を傾げる。
 「取材でさ、編集長にカップルで人気のスポットとやらに連れまわされたんだよ。何を勘違いしてるんだか」
 雪音は神妙に頷く。
 「うん、姉上も『何を勘違いしてたんだろう』ってぶつぶつ言いながら呑んでて、ついさっきつぶれたの」
 「??」
 雪音は年上の彼を見上げながら、困った顔をしてこう告げた。
 「私からその編集長さんとのことは姉上に話しておくけどさ、亮お兄ちゃんもそろそろはっきりさせなきゃいけないと思うんだ」
 「はっきり? 何を??」
 亮の言葉に大きな溜息。
 「姉上をどう思ってるかってこと! 2人ともその辺を全然考えないままだから、いざというときに一歩が踏み出せないんだよ?」
 雪音はそう亮に言い聞かせるように言うと「おやすみー」とだけ告げて扉を閉める。
 一人、外に残される形となった亮は小さく呟く。
 「どう思ってるか、なんて言われてもな」
 振り返り、外を見る。
 細かい雨が降り始めていた。雪になれない、冷たい雨だ。
 「考えたことなかったよ、そんなこと」
 考えてみて、しかし思考が停止する。彼がお隣の姉をどう思っているかということを。
 嫌いではない、好きに近いだろう。
 だがそれ以上のことを考えようとすると、どうしたら良いのか分からない。
 何故なら。
 「今の関係がきっと心地良いからなんだろうな」
 彼女から見たらどうなんだろう? そこまで考えて彼は苦い顔になる。
 分からない。彼と同じ気持ちなのか、それともまた違う感情を持っているのか。
 そう悩んでしまって一つだけ彼に分かることがあった。
 きっと明日からは、今までと同じように彼女と接することは難しくなるだろうということを。


【2人の関係】

 ガー
 という眠る者にとっては不快感でしかない音とともに、
 ごつごつ
 と、硬い物で背中を突かれて彼女は目を覚ます。
 「なぁに、雪音?」
 目を覚ました彼女は妹を見上げる。
 雪音は白いエプロンを付け、両手には掃除機を構えていた。
 広くもないアパートの一室。
 その中心に置かれたコタツで寝こける姉の背中を、掃除機のノズルで突っついているのだ。
 窓と玄関の戸は開け放たれ、身体の芯まで冷やし得る冬の澄んだ空気が風を作って部屋の中を流れていた。
 その様子にますます彼女――乙音はコタツに潜り込んだ。
 「さぁ、姉上。今年の汚れは今年の内に落とさないと!」
 「毎週掃除してるんだからいいじゃないの」
 ぼやく姉に、妹は掃除機を一旦止め、腰に手を当てて怒るように言った。
 「今日は新しい年を迎えるための大掃除です! ほらほら、さっさと起きた起きた!!」
 ばさり!
 コタツ布団を大きく跳ね上げてしまう雪音。
 後に残るのは骨組みだけのコタツと虚しく輝く赤外線。そしてジャージ姿の乙音だ。
 「さーむーいー」
 さらにコタツに潜ろうとするが、逃げ場はない。赤外線の直射を受けて部分的に熱いだけだ。
 「いい加減に起きなさい! 顔を洗って着替えてっ、ホラホラホラ!!」
 がつがつ
 掃除機のノズルでコタツを叩く雪音。
 「うー」
 「そして今年のわだかまりは今年の内にすっきりさせないと!」
 「……なんのこと?」
 骨組みの間から、乙音がジト目で妹を見上げる。
 「さぁ? それは姉上が一番知ってることでしょ?」
 乙音はしばらく雪音を睨んだ後、観念したのかコタツから這い出て洗面所へ向かう。
 「……まったく。亮お兄ちゃんにしても、どうでもいいことでケンカするんだから」
 ガー
 再度掃除機のスイッチを入れ、コタツの敷布団を綺麗にしていく彼女。
 ゴミを吸い込んでいくその様子を眺めながら、
 「こうやってどうでもいいわだかまりも吸い込めればいいのにね」
 呟く。そして振り返り、
 「姉上、出かけるのなら傘、持って行って! 夕方には降るみたいだから」
 着替え終わった乙音が掃除から逃げようと、忍び足で玄関へ行こうとしている背中に声をかけ、
 「あとクイックルワイパー買ってきて」
 「……はーい」
 気のない声の返事を聞き、後で自分で買いに行こうと決めたのだった。


 駅前の商店街。
 すっかり日は沈み、空は曇天。いや、今にも雲が雨になって落ちてきそうな雰囲気だ。
 今年最後の日にも関わらず、街には人が多い。まるで今年やり残したことを今日中に済ませてしまいたいような、そんな気迫にも満ちている。
 そんな商店街から駅の改札口を見つめる一人の女性がいた。
 歳末大セールと書かれたポスターが貼られている柱に背を預け、ぼんやりと人の流れを見つめている。
 不意にその焦点が改札口から出てきた男性の一人に合った。
 「あ」
 と声を漏らし、柱から背を離して一歩前を進む彼女だが、そこで歩が止まる。
 「ぅ」
 彼にしては珍しい背広姿は駅前から隣接するバス停を抜ける。
 彼女はただ、彼の姿を目で追うことしか出来ない。
 その時だ。
 ぽつ
 ポツ
 ぽつ
 天からの贈り物はやがて押し寄せるようにばら撒かれた。
 ザーっと。
 どしゃ降りにも近い雨が降り始めるまでにそう時間はかからなかった。
 彼女が目で追っていた男性は慌てて改札口付近まで引き返し、困った顔で空を眺めている。
 この時にはすでに、彼女は止まっていた2歩目を進めていた。


 「まいったなぁ」
 彼が見上げる空は暗く、そして重たく厚い雲で覆われていた。
 何より、降り続ける雨は止む気配がない。
 「仕方ない、濡れて帰るかな…」
 諦めて雨の中への一歩を踏み出した彼だが、首を傾げる。
 濡れないのだ。
 「あれ?」
 「あれ、じゃないわ」
 すぐ隣からの声に気付く。
 大きめの傘が彼の頭上にあることを。そして彼の隣には、
 「……乙音さん」
 「ぐ、偶然ですから。たまたま見たら亮クンがいて、たまたまおっきな傘持ってたから、資源の有効活用しないとっ」
 何が資源なのか良く分からないが、ツッコミはない。
 顔を逸らして言う彼女に、亮もまた目を逸らして呟くように言った。
 「今日」
 「え?」
 「お酒買ったんですが、一人じゃ呑みきれないし。でも一度封を開けると風味が落ちるんで、資源の有効活用のためにもどうですか?」
 「……私も」
 「へ?」
 「私もさっき焼き鳥買いすぎちゃって。一人じゃ食べきれないから、捨てるのもアレだし、一緒にどう…かな?」
 おずおずと、2人の視線が合う。
 やがて、どちらからともなくそれは笑顔になった。
 ごーん
 遠く、そんな腹の奥底に届く音が響く。
 ごーん、ごーんと。
 続けざまにそれは打ち鳴らされる。
 「除夜の鐘?」
 「あ、亮クン?」
 乙音は不意に傘をたたむ。
 2人を打つのは冷たい雨ではなく、
 「雪?」
 雨は、みぞれからやがて雪へと変わって行く。
 「これは積もりそうですね」
 「明日は雪かきしなきゃ、ですね」
 2人は星の見えない空を見上げる。
 静かに静かに、雪が街を覆い始める。
 それはまるで新年を、汚れのない真っ白な街で迎えるかのごとく。
 「さ、早く帰りましょう」
 「うん! ……あ、クイックルワイパー買い忘れたわ」
 「何か言いました?」
 「ううん、なんでもなーい」
 傘はたたまれたけれど、小走りで帰路に着く2人の距離はより近くなっていくのだった。


The relation between Him&Her is approaching ...


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