白黒双月
5 雨降って地乾くはいつ?


 しとしとしとしと
 雨が降る。
 毎年のこの季節、けれども今年は例年に比べてやってくるのが早いと思う。
 梅雨。
 これが明けると同時に草木は一斉に萌え茂り、痛いほど暑い陽の光がさんさんと降り注ぐ季節となる。
 夏を前にしたこのじめじめとした時期。
 蒸し暑い日もあれば、妙に肌寒い日もあったり。
 さらには風が強い日もあれば、霧のような雨で傘が役に立たなかったり、さらにはものすごい暴雨だったり。
 とかく、天の状態が定かではないものだ。
 「おはよう、そーくん」
 「おはようございます、雪音さん」
 朝。
 アパートの前で交わす恒例となりつつある挨拶。
 「いってらっしゃい、二人とも」
 「「いってきまーす」」
 姉の乙音さんに見送られ、僕達は学校を目指す。
 今朝も雨。傘をさしてもまるで役に立たない、大気全体を濡らす雨だった。
 「あー、こりゃ学校ではジャージに着替えるしかないわね」
 白い傘とカバンを片手に、空いた方の手でハンカチを取り出してセーラー服の全体をぱたぱたと叩きながら雪音さんは愚痴る。
 「教室が蒸しますね」
 同様に僕も学生服全体にうっすらと張り付いた細かい水滴を手を振って払い落としながら応えた。
 6月から衣替え。
 本来ならばワイシャツだけでいいのだが、まだちょっと肌寒い今日はつめ襟の学生服を着込んできた。
 対する女子はブレザーから薄い生地のセーラー服に変わっており、こちらは上に一枚羽織る子が多く見られる。
 一方で面倒くさがりの雪音さんは「教室は蒸してて暑いしー」との理由で、少し肌寒くてもそのままだ。
 「ねぇねぇ、そーくんはクラスに大体馴染んだ?」
 実は世話好きな雪音さんはそう訊いてくる。
 「えぇ、一応僕の顔をみんなには覚えてもらえたと思います。なんというか、目立つ友達ができたもので」
 「へぇ。そういう友達も大事よねぇ」
 目立つ友達――クラスで前に座る井上くんだ。学級委員を務める彼は、なんというか生まれもって人々の中心に立つような、そんな雰囲気を持っている。
 そして教室では席順で決められた班ごとでの行動が多いため、僕と彼は同じ班になる。
 彼が目立てば隣にいる僕もまた、とそんな具合だ。
 「でもその友達は目立つだけじゃないのがちょっと」
 「ん?」
 井上くんの生来持っているリーダー気質に反意をむき出しにしているのが、女子の西岡さん。
 井上くんが男子代表で学級委員になったとき、率先して女子代表に立候補した子だ。
 なんでも二人は家もご近所で、幼稚園から小学中学とずっと一緒の学校だったそうだ。
 やや天然が入っている井上くんとしては、西岡さんを仲のいい友達と思っているようだが、彼女からすると彼は対立する存在と捉えているようにしか見えない。
 ただ、様々な部分で出来は井上くんの方が上なので、彼女にとっては越えられない壁なのかもしれない。
 「へぇ、なかなか面白そうなクラスね。担任が無責任代表な楠木先生ってのもカオスねー」
 「無責任、ですか」
 「無責任よ。学級委員がしっかりしてないと通知表をつけることすら忘れかねないわ」
 「それはむしろ職務放棄に近いんじゃ??」
 そんなことを話している間に校門を潜っていた。
 たどり着いた昇降口で傘をぱたぱたとはたいて雨を落とす。
 「うー、結局びしょぬれだわ」
 唸りながら雪音さん。セーラー服の襟元に指を入れて前後にパタパタと振って水滴を落とすが、すっかり染み込んでしまっていた。
 薄手のその生地は振られて一瞬空気を取り込むが、すぐにぺたりと彼女の肌にまとわりつく。
 「あ」
 気付いてしまった。
 雨に濡れた制服越しに、うっすらと下着の線が見えることに。
 「ん? どーしたの、そーくん?」
 目をそらした僕に雪音さんが回りこむようにして立ち位置を変える。
 「あー、いえ」
 「んー、どうしたのかにゃー??」
 確信犯だ、この人。
 と。
 「おい、雪音。なにやってるんだ?」
 声は彼女の背後から。そこにはワイシャツ姿の、目つきの鋭い男子学生が一人。
 「あら、市松。おはよ」
 市松と呼ばれた彼は、雪音さんを一瞥。
 「ふむ、無地か。柄モノの方が似合いそうな気がするが…それ以前にその胸じゃ、付けても付けなくても変わらな」
 「冷静に見るなぁぁぁ!!」
 彼の言葉が終わる前に、顔を真っ赤に染めた雪音さんが振り上げるかかと落としがきれいさっぱり、市松さんの頭に炸裂したのでした。
 ちなみに下はイチゴの柄モノでした。


 「おはよ、総一郎」
 「おは…って、風邪か、歩?」
 「うん」
 雪音さんと別れた後、後ろからかけられた声に振り返ると、そこにはマスクで口元を覆った歩がいた。
 どことなく、ぼーっとしていて頬が赤く上気している。
 「えと、大丈夫?」
 「ん。あんまり大丈夫じゃない。巧も風邪引いてね、あいつは完全にダウンだから、担任のセンセに休みって伝えといて」
 「あ、うん」
 そう歩は僕に伝えると、ふらふらと体を左右に揺らしながら彼女の教室の方へと歩いていく。
 ごん!
 と思ったら、大きな音を立てて壁にぶつかった。
 「ちょ、そんな調子でよく学校まで来れたね?!」
 ずるずるとその場に座り込みそうになる彼女の手を掴む。
 「ぅー、力が抜ける」
 呟くように言うと、ぺたりとその場に座り込んでしまう。
 なんだかここまで来るのに完全に燃え尽きてしまったようだ。
 「無理しないで歩も休めばよかったのに」
 言いながら僕は彼女に背を向けてしゃがんだ。
 「保健室で寝てた方がいいよ」
 「んー、ぁー、そうするー」
 間延びした返事の後、とさっと背中に歩の体温を感じた。
 霧のような雨で濡れたのだろう、しったりとした制服のせいで小さく震えている。
 「悪化しそうだよ、これじゃ。着替えとか持ってきてる…わけないよね」
 病人を背負いながら保健室へ向かう道すがらに問う。
 消え入るような声で返事があった。
 「……教室に、体育の時間用のジャージがある」
 「そうか、雪音さんも同じ事言ってたな。すぐ持っていくからちゃんと着替えなよ」
 背中でこくりと頷くのが分かった。そして少ししてから、
 「雪音さんって?」
 「ん?」
 「誰?」
 「前に話したと思うけど。アパートのお隣のお姉さんだよ、ここの2年生」
 答える。
 すると首に回された歩の腕がなぜか締め付けてくるような感じになったのは気のせいか、気のせいだ、うん。
 やがて保健室の前にたどり着く。
 「すいませーん」
 声を出しながら足で扉を横にスライドさせた。
 「あら、どうしたの、朝から??」
 いたのは白衣を纏った女性。見た目は20代後半の、落ち着いた感じを受ける人だった。
 「風邪引いてるのに無理して学校来たみたいで」
 「あらあら。そこのベットに寝かせてあげてくれる?」
 「はい」
 2つあるベットのうちの1つに歩を下ろす。
 「あの、歩?」
 「ん?」
 「腕、放してくれないかな?」
 「寒いからヤダ」
 僕はカイロか??
 「ほらほら、そんなに濡れてちゃ、せっかく運んできてくれた彼氏も風邪引いちゃうわよ」
 「むー」
 保健の先生の言葉に、歩の縛めからようやく解放された。
 ちなみに彼氏ではないと訂正を挟む雰囲気でもないので、ここはスルーする事にする。
 保健の先生はよく乾いた白いバスタオルで歩の頭を拭いてやりながら、
 「さすがに着替えまでは、ここに用意していないのよね」
 困った顔で言った。
 「あ、歩はジャージがあるって言ってるんでとってきますね」
 「それは良かったわ、お願いするわね」
 僕は頷き、保健室を出る。
 「総一郎」
 「ん? すぐ取ってくるから」
 「…ありがとう」
 去り際にこちらを見つめる歩の瞳は、彼女に出会ってからこれまでに見た事もないほど不安に揺らいでいた。
 不意に思い出す。
 幼い頃、故郷の森で弟の浩二郎と過ごした台風の夜。
 木のうろの中で、鳴り響く雷と降り続く豪雨、突風の雄叫びに耐えていた夜。
 折れてしまいそうな、浩二郎の瞳とそれはぴたりと重なって。
 歩の教室へ向かう僕の足は、自然と駆け足になっていったのだった。
 結局、歩はこの日の午前中は保健室で過ごし、午後は担任の先生の来るまで自宅に届けられたという。
 ちなみに歩はこの日を境に、手洗いとうがいを完璧に行うようになったとか……。


〜Other Site
 昼休みのチャイムが鳴ると同時、校舎全体がざわつき始める。
 鳴り終わって3分後には、決まってある区画は大騒ぎだ。
 購買部と食堂。そこは飢えた若人によって弱肉強食の世界を見ることができる。
 対照的にのんびりとしたムードが漂うのは教室。
 ここには食料争奪ゲームに参加しない、弁当組が残る為である。
 仲の良いもの同士、場所によっては他のクラスの者も加えて、主に女子による賑やかな食事風景を覗くことができる。
 そしてそんな教室の中、2−Dには1人の男子生徒が机に突っ伏していた。
 特に弁当を食べるわけでもない、周囲の友人と会話を楽しんでいるわけでもなかった。
 いや、むしろ彼を中心に他の生徒が避けている雰囲気すらもある。
 普段はそんな彼も食堂や購買部へ行くはずなのだろう。周囲の困ったような感情が教室を微妙な――あまり居心地のいいものではない雰囲気に包んでいた。
 周囲は彼を嫌っている、というより怖がっているといった感じだ。
 食べ物がうまく喉を通らない空気の中、その中心地に一人の女生徒が歩み寄る。
 「ちょっと、市松くん。どうしたの?」
 友人と見られる同級生女子の小声の制止も聞かず、そう問うた彼女に彼は顔を上げる。
 「なんだ、相馬か」
 「なんだ、じゃなくて。そんな不機嫌オーラ振りまいてたんじゃ、お昼ご飯美味しくいただけないでしょうが」
 その発言に教室の中の温度が一気に落ち込んだ。
 だが周囲の心配をよそに、市松と呼ばれた男子生徒は憮然とした表情で目をそらす。
 「なに? また雪音ちゃんと喧嘩でもしたの?」
 「どうでもいいだろ」
 即答の彼に、相馬 恵美は500mlのペットボトルが一本入ったビニール袋を彼の頭の上にごとりと置いた。
 「うぉ、痛っ!?」
 「雪音ちゃんの踵落としが効いてる??」
 冷やかすようにして言う彼女から、頭の上の袋を奪い取るようにして彼は中身を見た。
 「なんだ、これ??」
 「さっき購買に寄ったら見つけてね、新製品だって」
 「これを俺にどうしろと?」
 「雪音ちゃんは変な飲み物が好きでねー、ついつい買っちゃったんだけど、私はこれからお友達とステキにランチなの」
 「だから?」
 「だから私の代わりに隣のクラスの雪音ちゃんに届けてきて」
 「なんで俺がっ」
 睨まれた者は893でも思わず尻込みするともっぱら噂される彼はしかし。
 そこまで言って、市松は言葉を詰まらせる。
 「あら、じゃあイイのよ。私が後で渡すから」
 袋を取り戻そうとする相馬の手を、市松は華麗にスゥエーバック。
 「ったく、食堂行くついでだ。置いてきてやる」
 「300円になります」
 「うぉ、金取るのか?! それもなんか定価より高くね?!」
 反論は無用とばかりに無言で見下ろされ、市松はうめきながらポケットを漁って硬貨を3枚取り出した。
 「そもそもどうして俺が悪いんだ」
 「さっさと行きなさいよ、このツンデレが」
 「ちょ、おまぇ…だれが!」
 しかし言葉では敵わないことを本能的に察知した市松は鼻を鳴らして席を立ったかと思うと、そのまま教室を出て行った。
 彼を見送って、相馬は教室の端に陣取った女子の輪に戻る。
 「相馬さんって、あの市松と仲良かったっけ?」
 「怖くない、あの人??」
 矢継ぎ早に繰り出される質問に、相馬は笑って答えた。
 「ちょっと不器用なだけだと思うよ、市松くんは」


 2−F、その窓際の席。
 若桜 雪音は自作の弁当を突きながら雑誌を読んでいた。
 中身は料理雑誌。
 別におかずを見ながら白米を食べているわけではない。その証拠に彼女の弁当箱には雑誌の中の料理に負けず劣らずのおかずがつまっている。
 「んー、今夜はこれにしようかな」
 普通に主婦さながらに晩御飯のレパートリーを増やそうとしているらしい。
 雑誌に集中する彼女の頭に、冷たい何かがこつんと置かれた。
 「ん、なに?」
 彼女が見上げれば、そこには目つきの悪い一人の男子生徒。
 今朝、雨に濡れて制服からうっすらと透けて映った下着をまじまじと見ていたおバカ1号――そういう認識だった。
 「変態に興味はありません、去ね!」
 「だれが変態だ、俺にロリコン趣味はない」
 「だれがロリかっ!」
 雪音はそう言うと、頭の上の物を奪うように掴み取った。
 それを見て、態度が急変する。
 「な、なにこれなにこれ?!?!」
 市松が雪音に渡した物―――それは「ペプシブルー」と書かれた500mlの炭酸飲料水だった。
 「うわ、色が青だよ、青! すごい体に悪そう、それもペプシ?!」
 見たことのないおもちゃをもらってはしゃぐ子供のような彼女。
 「もしかしてくれるの?! ありがとう、市松!」
 一方的な彼女に市松はただ頷くしかない。
 早速雪音はペットボトルを開ける。
 ぷしゅっという音とともに、なんともいえない香りが漂ってきた。
 「これはまるでカキ氷屋から漂ってくる……そう、ブルーハワイの香り」
 そして味わうようにして一口。
 飲み干した後、もう一口。そして目を閉じて語りだす。
 「このなんとも言えないチープな味。思わず心に浮かぶのはスピーカーから流れる盆踊りの音頭と夕涼みの風と、一年に一度しか着ない浴衣のナフタレンのにおい」
 「あー、それは美味いのか、まずいのか??」
 思わず問うた市松に、雪音は「分かってないね」と鼻で笑う。
 「味じゃないのよ、心で味わうものなの。こういう変な飲み物は」
 「変って…まずいんじゃないか、それは」
 「ああ、もぅ、ごちゃごちゃ言うんなら飲んでみなさいよ、ほれ」
 飲みかけを押し付けられ、一瞬戸惑う市松。
 だがそれを悟られる前に彼は一気にそれをあおった。
 「……まずい」
 「だーかーらー、心で味わいなさいよ」
 「訳分からんなぁ」
 窓の外のじめじめした雨は朝のときと同様にそのままで。
 しかし二人の間は変な飲み物が夏を呼んだのか、とりあえずは雨は上がったようだった。
〜Other Site Ended...


 空は晴天。一筋の薄く白い雲が西の空にたなびいている。
 昨日まで肌にまとわり付いていた湿気と生暖かさは、南西からの風にさらわれてすっかり身を潜めてしまった。
 代わりにあるのは、朝の香り――大地がはらむ冷気と太陽の熱とが混ざった清々しい、熱を持った空気だ。
 その空気はやがて、肌を刺すほどの熱気を帯びることを本能的に感じさせた。
 長いようで短かった梅雨の季節が終わり、本格的な夏が始まる。


 「おはよう、卯月くん!」
 とん、と軽い体重で背中から抱きつかれた。
 朝の教室。
 今日は少し早めに着いてしまったようで、まだ席は3分の1も埋まっていない。
 机の前で窓の外の空をぼーっと見つめていた、そんな時だ。
 久しぶりに聞く声とともに背中に体温を感じたのは。
 「おはよう、巧。風邪は治ったみたいだね」
 「うん。僕、この時期はいつも風邪ひくんだ。今年の一週間はさすがに長かったかも」
 振り向けば、それは風邪でまる一週間寝込んでいた巧の姿。
 「お見舞い、ありがとうね。うつらなかった?」
 「大丈夫だよ。巧の風邪は季節の移り目から体調崩したからだろう。ウィルスじゃないし」
 5日前の先週の金曜、授業で配布されたプリントを届けに柚木家へお邪魔したのだ。
 前日に早退した歩も気になっていたのでちょうど良いと言えばちょうど良かった。
 2人とも高い熱が出て、ひたすらに苦しむという辛い症状だったようだ。
 「ところで巧?」
 「ん?」
 「その、後ろから抱きついて挨拶ってのは、最近流行ってるのかな?」
 「あ、え、えと」
 困った顔で僕から離れる巧。そして困ったように小声でぶつぶつと呟く。
 「だって歩がフォローしろって」
 「え?」
 「あー、いや、なんでもないよー! そ、そうそう!」
 ぽん、と手を叩いて巧。
 「僕と歩の区別、よくついたよね。僕が歩の真似をするのは無理があるけど、僕の真似をした歩を見破った人は卯月くんだけだよ」
 言われて思い出す。
 お見舞いに行った翌々日、3日前の週明け月曜日の朝の、この教室だった。
 なぜか巧の学ランを着た歩が、同じように後ろから抱きつき、同じ声で「おはよう」の挨拶をしたのだ。
 どうやら巧の真似をしていたようだけれど、その時の僕はそれに気付かず、何故歩が男子の制服を着ているのか分からなかった。
 だからその時は「おはよう、どうしたの、歩? その格好」と尋ね、「巧の方はまだ寝込んでるの?」と訊いたのだ。
 すると、
 「え、あ、あれ? 卯月くん、僕だよ?」
 「あー、巧の代わりに代返するとか、そんな感じ?」
 と、小声で問うたのを覚えている。
 男装した歩は顔を真っ赤にして逃げるように教室を出て行ったしまったのだが……別に先生に入れ替わっていることを言うつもりはないのに。
 「見分けが付くというか、心音違うし」
 「へ? 今なんて??」
 「いや、なんでも。でもそれ以来、歩と顔合わせるとなぜか逃げられるんだよなぁ」
 「あぁ、まぁ、そんなあっさり見破られちゃねぇ」
 「……こういう場合は謝ったほうがいいのかな? もしかして怒ってる??」
 恐る恐る兄である巧に訊いてみると、彼は困った顔でこう答える。
 「恥ずかしさ8割の嬉しさ2割って感じだったから、しばらく放っておいていいと思うけど」
 「嬉しさ2割って??」
 「すぐに分かってくれて嬉…」
 巧の言葉はそこで途切れる。
 「たくみぃ、フォローはお願いしたけど余計なことを言えとは一言も言ってないんだけどねぇ」
 「むぐー、むぐぐ」
 巧を後ろから腕を回して首を絞めるのは、今度はしっかりとセーラー服を着た歩だった。
 「おはよう、歩。なんかごめんね」
 巧と同様に久しぶりに顔を合わせて話せた気がする。
 「ふぇ?! ごめんとかそんな、関係ないからっ。むしろ私…オレだって気付いてくれて、その」
 巧を放り投げ、わたわたと右往左往する歩。果てしなく挙動不審だ。
 「おはようございます、みなさん。巧さんも元気になられたようで何より」
 そんな時。
 さわやかな声は僕の後ろから。
 「「おはよう、此花さん」」
 僕と巧の声が重なる。
 そして、
 「あ、さくら。そ、そうそう、昨日テレビ見たー??」
 どこかぎこちない態度で、歩は逃げるようにさくらの背中を押しながら僕達の前から彼女の席へと移動する。
 此花さんから「テレビはあまり見てないですけど」なんて声が聞こえてきたり。
 「というか、彼女はテレビもってないような…もしかして電波を直接受信でもするのか??」
 「へ、何が?」
 「いや、なんでもないよ」
 思わず出た独り言にツッコんでくる巧をスルーしつつ、僕は改めて教室の窓の外を見る。
 早速、夏の朝の日差しが校庭をじりじり焼き始めたようだ。
 「暑くなりそうだなぁ」
 「そうだねぇ」
 此花さんとの話が終わったのか、自分の教室に戻る歩を視界の片隅に認識しながら、僕は本日の時間割を思い出す。
 「早速、一時間目は体育だね」
 「僕、体調が完全に治ってないから見学だよ」
 「む……しっかし外は暑そうだな」
 早速今年の夏を直接謳歌することになりそうだ。


【閑話休題】 がんばれコージロー そにょA

 みなさん、こんにちわ。またお会いできて嬉しいです。
 僕は浩二郎、卯月 浩二郎です。覚えていてくれましたか?
 あ、いえ、いいんです。覚えていらっしゃらなくても。
 こうしてまたお会いできただけでも、僕がこうしてまだ生きていられる幸運に感謝なんです。
 さて、そろそろ七夕ですね。
 この間立ち寄った商店街で、短冊に願いを書いて竹に飾るサービスをやっていたんです。
 係の女の子が是非って言うんで、僭越ながら一枚書いてしまいました。
 みなさんは願いを書くとしたら、何を書きますか?
 ぼ、僕ですか?
 書いたことを口にすると、叶わなくなるとかそんなこと、ありませんよね??
 そうですか、ないですか。
 でも僕の願いなんて、みなさんにはつまらないものですよ。
 僕はこう書きました。
 『来年の七夕もこうして生きていられますように』って。


 小豆島の沖合いに突如出現した小島があります。
 海底火山による隆起でもなく、地震による影響でもありません。
 その島は108年の時を経て、朝靄の中に姿をひっそりと現したのだそうです。
 この事実は完全に封印され、メディアへの情報流出も完全に防いでいます。
 七夕の朝に出現して35時間が経過したこの現在までは。
 「師匠、そんな場所に僕達は一体何しに行くんですか?」
 本土からヘリで小豆島へ飛び、そこからクルーザーを駆って島へ向かう道すがら。
 僕は師匠であり捕食者でもあるお稲荷様にそう尋ねました。
 「んー、ちょっとそこに取り戻したいモノがあるんだそうよ」
 長い黒髪を頭の上で結い上げながら、彼女はそう答えます。
 「取り戻したいモノ?」
 「ああ、108年前に奪われた神器だ」
 「神器?」
 答えてくれたのは彼女の隣に立つ男性。
 肉食獣を思わせる鋭い目をした深緑のコートを纏った男―――八咫烏さんの人化した姿です。
 「あのー、そもそもあの島はなんなんでしょう??」
 僕は疾駆するクルーザーの向かう先、どんどん形が大きくなってくる島影を眺めながら問いかけました。
 近づくにつれて首の後ろ辺りが、こぅ、ぴりぴりとしてきます。
 それは所謂一つの「殺気」だとか「邪気」だとか、本能的に近づいてはいけないというオーラを感じているときの反応なのです。
 「あの島の名前? 昔話でも出てくるところよ」
 師匠がそう答えてくれました。
 「昔話??」
 「鬼が島、だよ。浩二郎君」
 八咫烏さんの補足説明に僕は思わず唖然としてしまいます。
 「えーっと、それって鬼が住んでいて、桃太郎が乗り込んでいったっていう?」
 「そう、その鬼が島だ。すなわち鬼の巣窟。普段は世界から隔離されているが、108年に一度だけ現世と繋がるのだよ」
 「人間の煩悩の数だけの年月を『向こう』で過ごしているんだ。鬼どもはさぞや鬱憤がたまっているだろうさ」
 なんだか嬉しそうに師匠は言います。その横顔は凶暴な笑みが浮かんでいました。
 間違いなく暴れる気です。思いっきり暴れられることを期待しての笑みです、あれは。
 「そんな凶暴な鬼達のいる島へ、その神器とやらを取りに行くんですか?」
 頷く2人。
 「2人で?」
 首を横に振る2人。ちょっとホッとします。
 「3人で、だ」
 答える師匠。3人って?
 「あの、あと一人は?」
 その問いに、2人は不思議そうな顔で僕を見ます。
 「え??」
 どうやら短冊に書いた願いは早速聞き届けられることはなさそうです。


 薄闇の世界に広がるのは岩ばかりで草木の生えない荒野。
 そこに住まうは恐ろしい形相をした凶暴な鬼達―――それが僕の抱く鬼が島のイメージでした。
 実際の鬼が島は、
 「へぇ、思ってたのとちょっと違うわね」
 クルーザーを桟橋につけて師匠が呟きました。
 桟橋にしても石造りで、しっかり管理されているようです。
 海岸線沿いには藁葺きの民家が立ち並び、それぞれから複数の気配がします。
 荒地と思いきや、緑豊かな畑が一面に広がり、とても↑で思っていたような場所ではなさそう。
 運が良いのかどうなのか、人(鬼)通りがないのがちょっと不気味ですけれど。
 「八咫烏、神器はどのへんにありそう?」
 「そうだな。まぁ、こういうものは大抵、そいつらのボスが握っているんじゃないのか?」
 彼が指差す先、夕闇の彼方にうっすらと浮かび上がる、巨大な鬼の頭がありました。
 「ひっ」
 思わず師匠の後ろに隠れてしまいます。
 「こらこらコジロー、良く見なさい。あれは岩よ」
 呆れた声で師匠は僕の首の後ろを引っ張り上げて無理矢理それを見せつけました。
 確かに。
 鬼の頭の形をした、巨大な岩です。
 この島自体大きくはないのですが、ここからの距離から見るに高さはゆうに50mは越えているのではないでしょうか?
 「じゃ、あの岩に向かって急ぐわよ。闇に乗じて行けば、鬼どもには見つからないでしょう」
 なんだか僕達の方が悪者のような気がしてきましたが、ともあれ僕達3人は遠くに見える鬼の岩めがけて駆け出したのでした。


 鬼の頭の形をした大岩。
 その手前には丸太で区切られたバリケードがあり、そしてその中央には巨大な木製の門が構えています。
 歩哨は門の左右に1名づつ。
 鬼というだけあって、身長は2m近くあるでしょうか。その表情も鬼らしく、犬歯が剥き出しになっていました。
 「さて、どうする?」
 「正面突破」
 八咫烏さんの問いに、師匠は即答。
 「ぇー」
 「じゃ、コジロー。何かイイ作戦でもあるの?」
 ジロリと睨まれました。
 「えぇと、たとえば……そう、たとえばですね」
 こんなのはどうでしょう?
 「師匠が正面突破して暴れながら突入します。注意が師匠に向いているうちに八咫烏さんが裏口から侵入して目的のものを手に入れる、というのは?」
 「裏口ってどこよ」
 「八咫烏さんは飛べますから、別に裏口じゃなくてもいいと思います」
 「そか、よく考えたら飛べるものね」
 ふむふむ、と師匠。
 「悪くはない作戦だな」
 こちらは満足げに八咫烏さん。
 「で、コジローの役割は?」
 「ここで待機ってのは、ダメですか、ダメですね、はい」
 「じゃ、八咫。目的のものを手に入れたらいつもの合図よろしく」
 「分かった。あまり無茶はするなよ」
 八咫烏さんはそう言うと、元の三本足の烏の姿となって闇夜の中へと飛び去っていく。
 「さ、私達も行くわよ!」
 師匠はそう言うと、僕の襟首を掴んで門に向かって駆け出したのでした。


 僕の師匠は妖狐なのです。
 妖狐はここ日本ではすべからく稲荷の眷属として管理されるのですが、師匠は稲荷ではないそうで。
 稲荷にはそれぞれの力量と経験に応じて位があるのですが、師匠の力量は最高位の稲荷神クラスだと八咫烏さんに教えてもらいました。
 しかし師匠は神として崇め奉られる地位を選ばず、大妖――九尾の狐としての道を選んだそうです。
 とは言っても、稲荷の眷属との関係を切ったわけではないみたいで。この辺の事情は昔いろいろあったようですね。
 僕が師匠に預けられてまだ数ヶ月ですが、少なくとも彼女は団体行動に馴染めるような性格ではなさそうです。
 なによりも、
 「かぁっ!」
 裂帛の掛け声とともに繰り出された師匠の回し蹴りは、飛び掛ってきた赤鬼に炸裂して3m後ろの壁まで吹き飛ばしました。
 そう、なによりもこの人はこうして暴れるのが好きみたいなのです。
 正面突破した僕達は、そのまま門をこじ開けて中へ侵入。
 ここは鬼の王が住まう宮殿らしく、突然の敵の来襲にも関わらず、警備体制はしっかりしていました。
 最近の鬼はどういう経路か分かりませんが、武器が拳銃だったりします。てっきりイボイボのついた金棒とかだと思っていたんですが。
 当初は正面からぶつかり合う戦いだったのですが、師匠によって登場と同時にしばき倒されていく鬼達は次第にその動きを変えていきました。
 まるでどこかへ誘導するように。
 そもそも師匠は『先読み』の能力で格闘しているので、どんなに腕力に自信があろうと勝てるはずがないのです。
 『先読み』とは一瞬先の未来を予測する能力。つまり相手がどの軌道でどんな攻撃を仕掛けてくるか知った上での戦いです。
 鬼達も馬鹿ではないのでまともにやっては勝てないとうすうす気付いてきたのでしょう。
 「がはっ!」
 トカレフを握った腕ごと叩き折られた鬼が倒れたところで、僕達は大広間にその身を運んでいたのです。
 「ここは」
 どういう構造になっているのか、3階程度の高さまで吹き抜けとなった岩の中の広間でした。
 天井はなく、満月の明かりが直接差し込んできています。
 そして左右の壁には高価と思われる調度品が並び、床には赤い絨毯が一面に敷かれていました。
 「さて、ここへ招待していただいて、どこの誰が相手になってくださるのかしらね」
 師匠の声が岩の大広間に凛と響きます。
 対する答えは、
 「あらまぁ、勝手に他人のお宅に上がりこんだと思ったら問答無用で家人に被害を与えている極悪人って、貴女のことでしたか」
 のんびりとした声が響きます。
 ゆらり、と。
 待っていたのでしょう、師匠の前に『彼女』が現れたのでした。


 それは人型をしていました。
 身長は師匠と同じくらい。体格も同じく華奢な感じです。
 その手には紫電を帯びた日本刀が握られており、まるで殺気のない笑みさえ浮かべた表情が人形らしさを増幅させます。
 そう、『彼女』は人形です。
 いや。魂の定義が違うだけで、付喪神の一種なのかもしれません。
 けれど僕には『彼女』から生気を感じ取ることが出来ませんでした。
 『彼女』は言います。
 「ここの鬼さん達は静かな生活を求めています。お引取り願えませんかね?」
 「そういうわけにもいかなくてね。次にここに来るのは108年後の満月の晩だ、その前に返してもらうものを返してもらわないと」
 「あー、神器のことですね。そもそもアレは貴方達が鬼さん達に押し付けたとお聞きしましたよ」
 「へぇ、そいつは私は知らなかったねぇ」
 「押し付けた上、流出されるのを防ぐ為に、108年周期でこの島を異界に転移させるっていう呪いをかけたのも貴方達と聞いてしまいました」
 「へぇ、そいつも私は知らなかったねぇ」
 「知らないことばかりですね」
 「知っても詮無いことだからねぇ」
 にらみ合いが続きます。
 「で、アンタは鬼どもになんで雇われたのかな?」
 「鬼さん達はそんなに強くはないんですの。豆をぶつけられただけで逃げ出してしまうくらいですから」
 「今日は節分じゃないがね」
 「神器は正直、鬼さん達にとってどうでもいいものですけどね。でも押し付けられたものを今になって返せと言われて「はいどうぞ」っていう訳にもいかないようですわ」
 「その為によそ者の力を借りてちゃ、意味ない気もするがね」
 「出来る限りの抵抗はしたいそうですわ」
 「そう、なら私はアンタを倒して先に進むしかないってことね、若桜 乙音」
 「そう、いつもの通りですね」
 互いに微笑むと同時、戦いが開始しました。
 師匠の肉体が半妖化し、その姿で本気を出していることが分かります。
 けれど2人の攻防は僕には早すぎてよく分かりません。
 その力量はほぼ互角のよう。何故先読みのできる師匠と互角なのか??
 「それは機械人形もまた、先読みの能力に近似した機能を有しているからだ」
 「近似した機能……って、八咫烏さん?!」
 いつの間にか僕の隣にいたのは八咫烏さん。人の姿になっています。
 「機械人形たる彼女は、対象の筋肉の動き等を観察することで次に何を仕掛けてくるかを計算、予測することが出来る。すなわち結果的には妖狐が得意とする先読みの能力と同等の性能というわけだ」
 「で、でも」
 「またいくら先読みしようとも、その未来に対して行動するのは自分自身だ。己の行動速度を上回る動作は取れないし、相手の動きもまた対応できぬほど高速であれば未来予知したところで追いつかぬ」
 「なるほど」
 要するに予知して理解する間に、その予知の出来事が起こってしまいかねないということですかね。
 「って、八咫烏さん。目的のモノは見つかったんですか?!」
 僕の問いに彼は困った顔でお手上げのポーズ。
 「すでに奪われた後だったよ。君の立てた作戦を僕らは知らぬ間に実行していたというところだろうね」
 すなわち。
 僕達は陽動で、別の者に隠密に動くよう依頼人が指示を出していたということ。
 「そして奪われた以上、彼らも黙ってはいない。面子にかけて、我々を捕らえるか殺すかするだろう」
 気付けば。
 大広間の中央を囲むように、続々と鬼達が集まってきていました。
 これは、まずいです。
 突破するにしても、数が多すぎます。師匠がどんなに強くとも、限度がありますよ。
 「師匠! まずいです、撤退を」
 「くっ!」
 うめきをあげて紫電の光を一瞬纏い、師匠が大きく後ろに飛び退きました。
 服の胸のところが真一文字に裂けており、危うく2つの双丘が見えるか見えないかの姿になっているじゃないですか。
 「師匠!?」
 「分かった分かった、あんまり騒ぐな」
 呆れた声を挙げて彼女は答えます。幾分、殺気が抑えられた気がしました。
 「ちょっと楽しみすぎたわ、まずいわね」
 周囲を見回しながら、師匠は困った顔でそう言います。
 「そろそろこの辺りで降参されてはどうでしょう? 私の口利きで命はなんとか助けてもらうようにしますから」
 「いらぬ同情だ、ばーか」
 師匠はそう言って子供のように舌を出しました。
 「ではこの状況、どうされるのですか? 私が指示を下せば、鬼さん達は己の命を顧みずに一斉に貴方達に襲い掛かります」
 周囲を囲む鬼達の数は100を越えています。
 某ユージローの「何人一斉にかかってこようと、一度に戦うのは4人だ」なんて名言があるけれどそんなものは漫画の中の世界。
 どうする?
 師匠はどうするつもりでしょう?
 「では戦って死ぬのですか? お供の子を道連れにして…って、あら?」
 機械人形はそこまで言って、僕の顔を見つめます。
 「貴方、あらら? 似てるけど違う??」
 「コジロー」
 「は、はい、師匠」
 我に返る。
 彼女は僕を見つめ、そして周囲を見渡しました。
 「私と八咫を抜きにしたとして、お前ならこの状況でどうする?」
 「いや、どうするって…」
 鬼達は機械人形の指示待ちなのか、僕達への殺意を理性で何とか押し留めているよう。
 正直、早く逃げ出したいです。
 けれど。
 「逃げたくても、逃げ切れない」
 それは師匠や八咫烏さんがいても同様。ちょっとこの状況を抜け出す方法は思いつけません。
 「だが、お前は卯妖。逃げのエキスパートだ」
 ニヤリと微笑んで師匠。
 「お前は『生き残ることだけ』を常に考えろ。いいな?」
 「は、はい」
 頷くしかない。
 「まぁ、仕方ないですね」
 機械人形の声が響きます。
 「投降してくれないとなると、ここで死んでもらうしかないし。じゃ、そういうことで」
 あっさりと。
 彼女は振り上げた手を下ろしました。それを合図として、鬼達が四方八方から飛び掛ってきます!
 「あ…」
 頭上に輝く満月を背景に、襲い来る鬼達が僕の網膜に焼きつきます。
 あの満月の位置にいられれば、こんな危険はないのに。
 向けられる殺気から身を隠したい。
 逃げ出したい。
 あの月のように、安全な場所まで!!
 おもむろに僕は、師匠と八咫烏さんの裾をそれぞれ掴んでいました。
 本能から問われる声に、ありのままの気持ちをぶつけて。


 鬼達が殺到した先で、お互いがぶつかり合う。
 後ろ、さらに後ろと鬼達は押し寄せ、一番前線にいた鬼は仲間達によって踏まれ、重症を負うに至っていた。
 「あー、やめやめ! ちょっと止まってーー!!」
 乙音の声はしかし、混乱した鬼達に届かない。
 乙音はその視覚素子で捉えていた。
 卯妖の少年が月と同じ光を発したかと思うと、仲間の2人と一緒に忽然と姿を消したことを。
 「まったく面白い能力ですね。卯月くんにも同じ力があるのかしら??」
 騒ぎの収まらない鬼達に見切りをつけ、彼女は隣に住む少年を思い出していた。


 満月の明かりが僕らを照らします。
 周囲に鬼達の姿はなく、何故かクルーザーの上にいました。
 「あ、あれ?」
 ――卯月 浩二郎は条件付きスキル『完全撤退』を習得した――
 ぽん、と頭に手を置かれます。
 師匠である。嬉しそうに微笑んでいました。
 「よくやったわ、コジロー。満月下での条件付きの卯妖能力、しっかり覚えたわね」
 「条件付き??」
 「そ。まぁ、いい加減取得してもおかしくないはずだったんだけど、アンタは追い込まれないと覚えないからねぇ」
 「は、はぁ」
 「八咫、さっさと逃げるわよ。島を出てしまえば、あいつらも追っては来ないでしょう」
 「そうだな」
 八咫烏さんが答えると同時、不意にクルーザーのエンジンがかかります。
 「誰だ?」
 八咫烏さんの誰何の声に、運転室から人影が一つ這い出てきました。
 「ほぅ、あの状況下で戻ってきたか。相変わらずしぶといというか、運がいいというか」
 黒いレザージャケットを羽織った長身の男性が暗闇の中だというのにサングラス越しにそう告げます。
 「犬神…オマエが神器を」
 八咫烏さんの問いに彼は口元に笑みを浮かべながら頷きました。
 その態度は明らかに師匠に対しての挑発です。
 けれど。
 「で。ちゃんと回収したの?」
 「ああ」
 「そう、なら良いわ。八咫、さっさと出航よ」
 「分かった」
 八咫烏さんはそう答えると、クルーザーの舵を取ります。静かに僕達を乗せた船は桟橋から離れていきました。
 「……ふん」
 師匠が特に気にすることもなくスルーしたことが、犬神さんには気に食わなかったようです。
 鬼が島が小さくなるころに、彼は師匠を見下した視線を向けながらこう言いました。
 「ダシにされても悔しがらぬとは、なんとも大妖狐もプライドがなくなったものだ」
 「今回の任務は神器を取り戻すことだからね」
 師匠はさらりと彼に言い返します、が。
 「もしもアンタが奪取できなかったと、その口でほざこうものなら」
 「「?!」」
 彼女の口が耳元まで裂けて、舌のようにちろちろと青い炎が揺らめきます。
 殺気を多分に含んだ妖気に当てられて、犬神だけでなく思わず僕まで硬直してしまいました。
 「それで、神器はどんなモノだった?」
 妖気を抑えて、師匠は改めて犬神さんに問いかけます。
 「……なに、俺達には使い勝手のないものだ」
 「ふぅん」
 触らぬ神にたたりなしの心情なのか、それ以上の詮索はせず2人の会話は終了しました。
 この二人、仲は良くないみたいです。
 というか、犬神さんの方が一方的に師匠に絡んでいるような気も。
 「ふむ?」
 「??」
 視線を感じて目を向けると、その犬神さんが僕を見ていました。
 「な、なんです?」
 「その子は私の非常食なんだから、勝手に食べたら蹴るわよ」
 師匠の嬉しくないフォローが飛んできました。
 「なるほど、違うか」
 「違う?」
 「俺の地元で無警戒な兎妖を見たんだが、お前に似ているような気がしてな」
 「案外、僕達の種族も外の世界に出るようになったと聞きますから」
 「そうか。ならばオマエがこの世界で仲間に会うことがあったら忠告してやるがいい。森よりもこちらの世界の方が捕食者が多いのだと」
 「は、はい。ご忠告痛み入ります」
 僕は一礼し、上空の月に祈ります。
 同じ月を見ている兄上、気をつけてください。
 この世界はどこに逃げても、弱肉強食なのは変わりません。
 そこまで祈って、はっと思い至ります。
 短冊の願いに兄上の命も、と付け加えて置けばよかったなぁと。
 ともあれ。
 こうしてクルーザーは静かに鬼が島を後にしたのでした。
 それではみなさん。
 またお会いできるといいなぁ、お会いしたいなぁ。
 それまで生きていることを祈っていただけると嬉しいのです。

【閑話休題】 がんばれコージローそのA 完


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